2006/11/10

パタパタ・ママ

むかしひらけポンキッキで、《パタパタ・ママ》という曲を聴きながら歌って踊っていた。《泳げたいやきくん》の頃ではなかったかと思う。「まあーいにちぃ、まあーいにちぃ、ボクらはてっぱんのおー上で焼かれて、イヤになっちゃうよオン」というあの有名な歌詞の《たいやきくん》のおじさんは、やけにインパクトのある顔をしていた。士門真人の《ほねほねロック》も大好きだった。すごく味のある仕掛けのMTVをやっておった。
 いまこれを書きながら《パタパタママ》の歌詞が知りたくなって、インターネットをたいやきくんのように泳いでいたら、歌詞が見つかった。最初に歌われたのは1977年の前川洋子さんとのこと。わたしって10歳にもなってポンキッキを見てたんでしょうか?

パタパタママ  パタパタママ  パタパタ
     パタパタママ  パタパタママ  パタパタ              
     6じ  あまど  パタパタ  うるさいな
     7じ  おなべ  ケロケロ  だいどころ
     8じ  パパのくつを  ピカピカ  くつみがき
     9じ  おそうじ  スイスイ  ぼくじゃまさ
     10じ  せんたく  ポイポイ  スイッチ  オン
     11じ  おふとん  ポカポカ  ふとんほし
     12じ  おけしょう  パタパタ  ママ  きれいだよ

     パクパクママ  パクパクママ  パクパク
     パタパタママ  パタパタママ  パタパタ

     1じ  おかし  パクパク  つまみぐい
     2じ  テレビ  チラチラ  いねむりさ
     3じ  となりのママと ペチャクチャ  ベランダで
     4じ  かいもの  ブラブラ  ぼくいっしょ
     5じ  おふろを  ピュクピュク  わかしすぎ
     6じ  パパをうきうき  おでむかえ
     7じ  ゆうしょく  パクパク  ママよくたべる

     パタパタママ  パクパクママ  もう8じ
     そろそろぼく  パジャマをきて  おやすみさ

白いエプロンがよく似合う、あこがれの専業主婦の鏡って感じだ。

わたしはさしずめ、どたばたママ。。。

テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャ テュリャリャ
テュリャテュリャテュリャ テュリャリャ 
のあの歌も懐かしい。ロシヤ民謡だそうな。
日曜日に市場へ出かけー糸と麻を買あって来ったああああーなどなどなど
《一週間》というタイトル

で、なにが言いたかったかというと、歌っている間にああっという間に一週間が終わってしまった。ドタバタと。

水曜日は農場の無農薬野菜を取りに行って、
木曜日はフランス語をさぼりいー
金曜日は朝市でチーズを買ってえー
土曜日は剣道をしたあああ。
日曜日は農場でカボチャの刈り取りをして、ついでにほおずきも食べたああああー。

テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャ テュリャリャ
テュリャテュリャテュリャ テュリャリャああああ !!

2006/11/07

提案

 休み明け早々、PTA役員と、学校職員、市役所教育関係者による会議。休み前の会議でこの会議の時に提案や質問すべきことをまとめた。

 給食事情はよくない。市役所も、四方八方からの苦情に頭を悩ませている。管理者の再任を待っているとのこと。九月の新学期に給食費の滞納者や、入金遅れをした家庭の《子供》たちは、ポテトチップスの袋が一つだけ、配られるという事件があった。役所は子供たちを人質にした!!として騒然となった。

 心理的な問題などがある子供、不安定な行動をする子供の生活指導や親の相談に応える為に、学校にはカウンセラーが配置されているのが普通だ。でも近年、教師を減らすよりも割と簡単な、この分野がどんどん減らされ、現在市の3つの小学校に対して、1.5人のカウンセラーしか居ない。一人は朝から晩まで働いている人で、もう一人は半日だけ。この人たちはほかの市も掛け持ちしているので、一人で2000人のカウンセラーをしなければならない。どうしても問題があって、早急にカウンセラーが必要な子供は、現在ガヤックといって、カーモーから車で45分ぐらい掛かる町に送られている。

 放課後事情もよくない。教師陣は、授業についていけない子供、遅れがちな子供をリストアップして、補習を受けさせる方針を打ち出した。学校の管理と保険の範囲内で、教室の一つが開放されるが、教師陣の勤務時間は16時半までなので、そのあとの補習はボランティアに頼られる。その補習が必要とされている子供は全部で16人。現在2人のボランティアが、大変な思いをして面倒を見ている。

 この前の会議でわたしが提案した、子供たちにクリスマスカードなどを作らせて、売るという案は、教師陣にもうけた。小学校では作業室の設備不足や、アシスタントが居ないという問題などで、《図工》の時間がない。それで工作など滅多にやらない。クリスマスを前に、工作の時間を設けてもいい、と申し出る先生が断然多かった。物指しやカッターを使う練習にもなるし、計算や図形の勉強にもなる。

 わたしがモデルをこしらえて、来週別な会議で発表することになった。

忙しくなった。

2006/11/04

最後の週末

 JP一人では屋根裏部屋の改修工事があまり進まなかったというので、どんなにがっかりするかなーと思いながら屋根裏に上ってみた。がっかりするどころか、深く感心してしまった。
 大変だったと言ってる割には、ずいぶん進んでいる。斜めになった屋根に板を張って、屋根の梁と板の間に断熱の詰め物をする。それは「シャーンブル」という素材で、普通の日曜大工センターには売っていなかった。自然素材の日曜大工品を展示しているところに行ったり、本やインターネットで下調べや問い合わせをしてから、取り付け方法や断熱効果なども調べて、JPが特注した。
 ひと昔前はグラスウールという黄色い綿みたいなので、ちくちくする危険な素材が使われていた。もっと昔に化学製品のなかった頃に使われていたのが、この「シャーンブル」という素材だそうだ。
 ちなみにたった今、辞書でその単語を引いてみたら、「大麻」とあった。えー、そうなのっ?
 もしうちが火事にあったりしたら、ご近所みんな大麻中毒でレロレロになるんだろうか、、、などと変なことを想像してしまった。《大麻》の綿は1.5メートルX10メートルぐらいの細長いベルトに切り揃えられていて、ロールケーキのように巻かれて届いた。それを梁の長さに合わせて切る。わたしも手伝った。

 自分だけ楽しいヴァカンスをとってしまったという後ろめたさもあって、なんだかばりばりに働いてしまった。

 ほかにも前からずっとヴァカンスに入ったらやりたいと思っていたことが残っていた。
ビズファミーユという雑誌で、地方特派員を募集していたので、編集者さんにメールをおっくったら、どうぞ書いてくださいとのことだった。新聞記者に憧れていたこともあったぐらいだから、雑誌に自分の記事が載るかと思ったら、もうじっとしていられないのだった。でも、ずいぶん長いこと、取材などができずにいた。写真も撮っていなかった。
 従兄が夏にたくさんの写真を撮って、彼のブログで紹介している。
http://imasami.mo-blog.jp/photos/france/index.html
その中からアルビのきれいな写真を一枚貸してもらうことにした。

 そして、アルビについての記事を書いて送ったら、早速ビズファミーユの公式サイトの「フランスの地方都市」というコーナーに出してもらえた。
http://www.bisoupfj.com/
 カーモーはあまりにもマイナーな田舎なので、やはり第一回目の取材は《トゥールーズ・ロートレック美術館》や豪勢な《サントセシル大聖堂》のあるアルビにした。次回は、自分が住んでいるカーモーの紹介をするつもり。
 
 もう一つヴァカンス最後の週末にやった大きな仕事がある。
 それは今度翻訳をすることになった『おじいちゃんは天からの贈り物(仮題)』という児童書の原作者ヤエル・ハッサンさんに、メールを書いたこと。企画を立ち上げた時からずっと彼女の住所や電話番号を調べていたのに、なかなか見つけられなかった。今回、翻訳することが決まって、また改めて調べていたら、数ヶ月前にはなかった新しい書評などのサイトを見つけることができ、その一つに、ハッサンさんの住所もメールアドレスも紹介してあるものがあったのだ。
 いちかばちかで、自己紹介の短いメールを出した。

 ハッサンさんは、まだ自分の本が日本語に翻訳されることを知らなくてびっくりされていた。でも「ぜひ会いたいので、よかったら明日かあさってにでも遊びに来てください。」という涙が出るほどうれしいお誘いだった。
 残念ながらそのお誘いは、今回お受けできなかった。
月曜から子供たちの学校が始まってしまうし、パリまで半日で日帰りする元気はないし、お金はないし、そして何よりも、原作者の人に会うからには、やはりインタビューを用意しておいた方がいい。せっかく会うのだからたくさん質問したい。とりあえず、もうちょっと翻訳が進んで、質問事項が集まって来てから会いに行かせてもらうことにした。
 実は春にパリの義弟のところに、遊びにおいでと誘われている。
春には父の三回忌で、いよいよ出来上がる納骨堂の開幕式(?)もあるので、実は日本に帰りたいけれども、パリに行く費用はどうにかなっても、日本まで帰るとなるとちょっと。。。だ。とにかく本を終わらせて、ちゃんと報酬が出てから考える。作家はベストセラー1本で家も買えたり、海外旅行もできたりするという噂だが、それはきっとうそに違いない。小説などの原作を書く「作家」だったらあり得るんだろうか?
 翻訳の仕事は1年みっちり働いても、わたしの友達がパチンコで1週間で稼ぐ金額よりも少ないらしい。その友達に「お金をもらうっていうのは大変なことだね」って言われた。

 それはおいておいて。。。とにかく原作者の方とコンタクトが取れて、「なにか質問あったらいつでも電話して」と言ってもらえたので、とっても心強い

2006/11/03

我が家に向かって

 ベジエを過ぎてからは、高速を降りて、山道を行かねばならない。
ナルボンヌにいく時に通る道だから、よく知っているつもり。もうここまできたらもう少しという気がする。ひと山越える。
 
 食事したから、今度こそ子供たちは寝てくれると思っていたのに、ノエミはしゃべりまくり、わたしの居眠りを妨害した。
ノエミの声がだんだん小さくなって「寝ようかなー」と言い始めた頃に、今度はゾエが起きて、「ボンボンちょうだい」と言って騒ぎ、ノエミの睡眠を妨害した。

 ノエミにわたしにもボンボンちょうだいと言ったら、眠気が吹っ飛んだみたいで、自分も食べ始めた。暗がりでなに色のボンボンを手にしたのやらわからないので、口に入ったボンボンの味をあてる、というゲームができた。そのあと、トゥッシュ・パ・マ・プラネット(わたしの地球を壊さないで)という、今二人がはまっているCDの曲を、三人で大合唱した。CD一枚分ぐらいを、3回転ぐらい歌いまくったら、アルビまで来ていた。ゾエは再び眠りこけて、ノエミはしゃべりまくり、わたしの睡眠を妨害した。

 自宅前の路上でエンジンを切った時、23時50分を回っていた。
JPはとても心配して待っていたが、すぐに消えてしまう。
トランクの荷物を下ろすのは、今晩はやめにした。
ノエミが階段を這い上がって行く。
ゾエはわたしが抱えて、ベッドに運んだ。

昼間には地中海で水遊びをしていたというのに、カーモーの我が家には暖房が入っていて、一気に「バカンスの終わり」を感じた。ああ、帰って来てしまった。。。

 JPが食事もしないで待っていたというので、温めてくれたスープを二人ですすった。
とってもおいしかった。(ような気がする。半分寝ていたのだ、実は)

で?屋根裏部屋の工事は、終わったの?
「ぜんぜん。。。」
ま、いいっかー。

名残惜しいねえ

 子供たちは、仲良く遊んでいる。絶対に「帰りたくなあーい」と言うに決まっている。わたしだって居心地のいい《と》さんのお宅を出て、片道7時間も走る一日のことを考えると億劫だ。ああこんなにお天気がいいのに。。。

 おしゃべりに花が咲き、記念写真を撮って、《と》さんがサンドイッチを作ってくれている間に、車に荷物を積み込んでいたら、もう11時頃になってしまっていた。JPに「今から出るよ」と電話したら「まだそこにいたの!?帰り着けないよ」と言われてしまった。だからまさか「今からちょっと海岸と山にも寄ってから帰るから」とは言えなかった。

 トランクの中は来る時の3倍ぐらいの荷物になっている。《と》さんちでも《ち》さんちでも色んなものをもらってしまった。ありがたいねえ。。。ノエミの小学校で行われるスキー旅行で、買いそろえるものがいっぱいあるんだと愚痴っていたら、ちゃんとスキー用品まで出て来た。一応借りておいて、必要になった時に送り返すということになった。

 ノエミが絶対にモンファロンに登りたいと言っていた。ガイドブックによると、この山に行くにはロープウェーに乗らなければならない。自動車道路もあるが、細く険しい山道で「ママン、子供を殺したくなかったら、車は使わない方がいいよ」と言われてしまった。確かにうちのボロ車であそこまで行くのはどうかねえ。。。帰り道で旅費も乏しくなって来ているというのに、ゾエはただにしてもらっても、ノエミと二人で14ユーロも払ってしまった。《と》さんに作ってもらったサンドイッチを持参するが、12時発の上りが午前最後で、12時15分発の下りに乗らなければ次に山を下りるのは14時だと言う。14ユーロも払ったのに、モンファロンには登って降りるだけになるじゃあないの。悲しー。

 ノエミが「コートダジュールでただ一つのロープウェーなんだよ」と言い、ロープウェーに登る価値について演説始めた。「はいはい、チケットね」と流して先に進む。すれ違った下りのロープウェーには20人ぐらいの大人が乗っていて、ぎゅうぎゅう詰めだったが、私たちの上りは貸し切りだった。
 とてもよいお天気だったのでトゥーロンの軍港がキラキラ輝いていて、停泊している軍艦も、きれいに見えた。
 私たちは山のてっぺんで写真を撮り、子供たちは岩の上を飛び跳ねて、12時15分発の下りに飛び乗った。子供たちはもちろん大喜びだった。(カーモーにはエレベーターもないからねえ)

 サンドイッチは海岸で食べることにした。海岸で食べていると、カモメが飛んで来て私たちのチップスやパン屑を手の届くところで食べた。水は少々冷たいのに、子供たちは大喜びで水遊びをした。(カーモーには海はないからねえ)

 日が傾いて来て、わたしはいよいよ帰り道のことを心配しなければならなくなって来た。

ノエミがトゥーロンのお土産を買うと言っている。わたしも絵はがきを買いたかった。ゾエはおやつーと言っている。また街に出て、駐車場を探し、港のお土産物屋さんを二軒廻った。子供たちはお小遣いでそれぞれ、お土産を買っていた。ゾエは木の漁船で、ノエミはガラス製の浮き。二人とも「ようこそ」という文字の入った、おもちゃの救命浮き輪を買っていた。部屋に飾るのだそうだ。わたしは昔の水兵さんの写真と、帆船の写真と、古き良き時代のトゥーロンの港の写真を買った。

 さあ、帰路につかねばならない。もう日が暮れている。これから7時間も本当に運転できるのだろうか。でも、これだけ遊んだら子供たちは疲れて寝てくれるだろう。

 あーまーい。。。ゾエはちょっと寝たけど、ノエミはしゃべりまくっている。
「入り込んだら抜けられないよ」と言われていたマルセイユに入り込んで、おまけに今度は本当に道に迷った。マルセイユを抜けきったところで、真っ赤な夕日が地中海に沈んで行った。

 7時頃やっと高速道路の休憩所で、コーヒーを売っているところを見つけたので、ちょっと休んだ。コインの使える公衆電話もあった。「まだ、モンペリエまでたどり着いていない」と言ったら、JPが絶句した。
 休憩したから今度こそ子供たちは寝てくれると思ったのに、「おなか好いたー」コールが掛かった。もうちょっと遠くまで行きたかったのに。。。
 8時頃、食事のために高速のレストランに入った。現金がもうほとんどなくて食事代が足りなかったが、ノエミのお財布にはまだけっこう残っていたので、ちょいと拝借した。高速にもガソリンにもずいぶんお金が掛かってしまった。しかも高速道路のまずいのに、高いレストランにまで入ってしまった。ああー。   つづく

2006/11/02

なつかしいね〜

 お昼は、もう一人の友達の家に呼ばれている。「二日目はトゥーロン観光がしたい」と言っていたら、そのついでにお昼を食べに来たらいい、と言ってもらった。
子供たちは《と》さんの子供たちと気があって、よく遊んでいる。それで出かけたくない様子でぐずっている。11時頃ようやく家を出て、トゥーンの中心街に向かった。

 呼ばれている《ち》さんの家は、トゥーロンの《向こう側》なので、ノエミが生まれた頃に住んでいた《こっち側》を見せてあげようと思って町をうろうろしたが、朝市が出ていたので、路地に入ることができなかった。
 ノエミが生まれた時に住んでいた小さなアパートは、毎朝市の立つラファイエット通りのそばで、午前中は車が通れないのだった。そのすぐそばのショッピングモールへ行くことにした。

 まあ、言ってみればただのショッピングモールだ。別に、トゥーロンに来たからってこんなところを歩かなくても良さそうなものだが、そこには「ノエミが始めて経験したメリーゴーランド」がある。「始めておむつを買ったスーパー」「記念写真を撮った写真屋さん」などなど。
ノエミが生まれた時にはなかった、テレビゲームなどのカセットを売っている店があって、ノエミはヒョロヒョローッと酔っぱらいみたいにその店に吸い寄せられて行く。

 ノエミだってゲームは好き。でも、うちにはテレビでやるゲームはない。2年前に日本に帰った時、ゲームが大好きで外出時にも首からぶら下げて歩くような子供をいっぱい知ってる母は、ノエミもきっと喜ぶと思って、絶対に買ってやると言い張り、ゲームボーイを買ってもらった。ずいぶん高いおもちゃだ。孫にこーんな贅沢をさせているから、母はいつも貧乏なのではないだろうか。2年の間に揃えたカセットは3本だけ。まだどれも極めていない。大枚はたいて買ってくれた母には悪いけど(?)普段はまってるわけではない。
 でもその店でカセットを買おうとしたら、ノエミの2年前のゲームボーイは、今や発売されなくなった「旧式」だということがわかってショックだった。カセットの種類もとっても少ない。
 なのに、ノエミは「こんなお店はカーモーにはないから、カセット欲しい」と言って、自分のお小遣いで《獣医さんになろう》というカセットを買った。

 《ち》さんの家に着く。なんとか行けた。《ち》さんが今住んでいるお宅は、私たちがトゥーロンから引っ越す直前に住んでいたアパートのそばだ。《ち》さんと出会った頃私はまだ独身で、彼女同様ニューカレドニアに住んでいた。《ち》さんのご主人は私の日本語の生徒だった。二人の上の子が赤ちゃんの頃ベビーシッターをした。その赤ちゃんが170センチを超えるスマートな女の子になっていて、はやくも14歳だというから恐ろしくて、一気に白髪が増えた。
 そぼろご飯がおいしかったー!
《ち》さんと昔話が弾んでいる間に、ずいぶん遅くなってしまった。子供たちを連れて行く約束をしていた場所が、まだたくさん残っているというのに。そして明日には帰るというのにいいー。
 とりあえず《ち》さんの家から、当時住んでいたアパートに向かった。ちょうど私たちが引っ越す直前に、殺人事件のあったバーの前を通ったら、今も閉まっていた。アパートの前のパン屋さんは、大きくきれいに改装されていて見違えるようだった。アパートは変わらず。。。

 そこから、ノエミと毎日通っていた公園に行った。その公園には人口の池や川があり、鳥やヤギなどを飼っている動物コーナーもある。クジャクは昔みたいに放し飼いではなかった。動物公園の向こう側には、遊具のコーナーがあって、《ノエミ生まれて始めての滑り台》が、今も残っていた。 ノエミは自分で写真を撮っていた。

 薄暗くなって来たので、もう《と》さんの家に向かわなければならない。帰りがけに、ノエミが生まれた海軍病院や、海軍専用のホテルなどを見せてあげた。モンファロンという山と海岸には行くことができなかったので、翌日、帰る前にでも寄るつもり。

 とにかく《ち》さんと子供たちに再会できてよかった。それから、昔住んでいた近辺もノエミに見せてあげることができてよかった。めでたし めでたし。

2006/11/01

しゅっぱーつ

 ノエミはトゥーロンという街で生まれた。マルセイユからイタリアに向かって1時間ばかり走った、地中海沿岸の街。ここにはフランス海軍の基地がある。ノエミは海軍病院で生まれた。この街に2年ぐらい住んでいたが、JPの定年退職を機会に今の県に引っ越した。

 ここには日本人の友達も居て、今もよくメール交換や電話でおしゃべりをする関係。一人は鹿児島出身の《と》さんで、鹿児島弁でしゃべれる間柄。年もほとんど同じで気を遣わない。

 気を遣わないついでに、「ちょっと泊めてよ」と言ってしまった。そんな人でも居なければ、コートダジュールの入り口とも呼べるトゥーロンのホテルなんぞ、泊まれないしねえ。。。

 義父母の家を朝早くに出た。さっさと出た。途中まで高速を走って、いつの間にか高速から降りてしまっていた。それでもかなり調子よく走って、お昼には夏休みに友人と来たアルルに達していた。ノエミは乗馬キャンプに行っていて、夏休みには私たちと一緒に旅行できなかったので、アルルには来ていない。ここには古代の円形競技場があって、今でも闘牛が行われる。それを観に行くことにした。義母に作ってもらったサンドイッチを食べて、再び車に乗り込む。
 JPから「絶対にマルセイユの街の中には入り込まないように。アルルからは高速を使うように」と言われていたのに、マルセイユの街の中に入ってしまっていた。それでも、この日は祝日だったせいか、街に地元の車は少なかったので、クラクションを鳴らされることもなかった。県外ナンバーの車はみんなおどおどした雰囲気で、さっさと道をあけてくれた。

 マルセイユさえクリアできたら、トゥーロンはすぐそこだ。街に入るとすぐに軍の建物が見えてくる。市役所の前がすぐに港で、子供たちはもう嬌声を発している。住んでいる時には絶対に使うことのなかった、有料駐車場に車を入れて、港を歩いた。堤防から10センチほどの所にもう水が迫っている。魚が見える。ゾエがうれしそうに跳ね回っていて怖い。外国からやってきた巨大な帆船や、かわいい釣り船。そして、旅行の大きな目的だった軍港巡りの観光船。

 もう16時頃で、暗くなる前に友達の家に着きたかったのだが、すぐに出港すると言われて、翌日の天気の悪さなども心配だったので、観光船に乗ることにした。私たちを含めて、3つのグループしか乗っていなかった。ミストラルが吹き荒れている。

 軍港に入ると、この前テヘランに行っていた《ミストラル》という船や、JPがむかし乗っていたような船、フランスが誇る、そして故障続きで有名となった原子力空母の《クレモンソー》が修理のため停泊していた。珍しいレーダーの船や、海上で運航しながら燃料補給のできる船、ヘリコプターや戦車を乗せる船。。。ノエミはアナウンスに聞き入っている。

 カンヌ映画祭の時に現れたという、どくろマーク入りの黒い船体をした海賊船や、空っぽの豪華ヨットを10艇ばかり積んでマイアミまで帰るという、ヨット運搬専用の大きな船。。。というものまで見た。マイアミからヨットで旅してきたお金持ちは、トゥーロンまで来たらヨットを置いて飛行機でマイアミに帰ってしまうので、空っぽの船を連れて帰る必要があるのだ。へえー

 暗くなってしまった。友達の家も知らないのに。。。おまけに途中で高速の方向を間違えて、《と》さんに電話している合間に電話がぶちんと切れた。困るよなあ。。。
《と》さんが住んでいるはずの街を、ぐるぐる走って、自分の走り書きのメモを何度も見直した。
「信号ー二つ目ー左」
並んでない。あちこちにこの三文字が走り書きされている。
「二つ目の信号を左」と言われた気もするのに、走っているうちに「信号のあと、二つ目を左」と言われたような気がしてきた。
「そこまで」という所で一時間以上も潰してしまった。ついに、営業間際でコックさんが食事中のレストランに突撃をかけて、地図をもらい説明させた。

地図をもらったのに、それからまたしばらくぐるぐる走り回り、結局真っ暗になってからやあっと到着した。
 子供たちは意気投合。ノエミが誰と寝るかでジャンケンまでしている。《と》さんとご主人は、寝室をわたしとゾエのために空けてくれた。なんてこと!
《と》さんの心のこもった夕食。和風ドレッシングの春雨サラダに、おにぎり、そしてなんと焼き肉っ!!おいしくて、三杯か四杯おかわりをしてしまったのだアアア。この一ヶ月ダイエットに励んできたというのにいいい。

 前日も、この日も、ずいぶん疲れていたはずなのに、全然眠れなかった。興奮しすぎ。

とりあえず到着できたので、めでたしで明日へと続く。


 

2006/10/31

JP抜き

 JPが「行ってやれば?」というので、寄ることにした。JP抜きでは死んでも嫌だと思っていたけど、よく考えたら、ご近所には私の剣道の友達も引っ越して来ているので、そこに遊びに行ったら時間が潰せる。
 と、いう訳で、トゥーロンに行く前にナルボンヌに寄ることにした。午後着くように行って、泊まるだけ。。。と思っていたのに、JPとお義母さんの話し合いで、私たちはお昼に一緒に食事することになっていた。でも、家を出るのが遅くなった上に、高速道路でだらだら休憩していたら、ナルボンヌに着くのがとっても遅くなってしまった。

 途中、「もうこんな時間!!」という訳で、高速の休憩所のサンドイッチまで買って食べた。結局、この土曜日から日曜日の夜の間に、夏時間から冬時間となり、先週の12時は今日の11時だった。お義母さんの家に到着したのは2時頃だと思っていたら、まだ1時で、義父母は食事をせずに待っていてくれた。私たちはサンドイッチのせいでお腹いっぱいだったのに、またお昼をもらって食べた。

 お昼から、子供たちを預けて、友達の家へ行った。パリに住んでいた友達は(といってもずいぶん年上の大先輩)定年退職となって、南フランスに家を建てて移ってきた。ぐうぜん義父母の家から5分の所だった。これからはナルボンヌに来るたびに、友達を訪ねることができるので、うれしい限り。彼は自宅に仏壇や、本物のみずやたんすや、障子や畳、兜や槍などを置いている。もちろんに本当、真剣、鎖ガマやヌンチャクなどというものは至る所にある。この人は居合道のフランスで最高段を持っている人なので、もっちろん自宅に道場と石と砂で造った庭がある。日本人より和風な家に住んでいる。亡くなった佐藤先生が《弟》と呼んでいた人なので、私も習うことがいっぱいある。私服で会うことは今まで滅多になかった。彼ははかま姿がよく似合う。

 名残惜しかったのだが、冬時間になったせいで先週の17時は今日の16時だ。この前まで「まだ明るい時間」だったのに、もう薄暗い。急ぎの買い物をして、義父母の家に戻ると、子供たちが魔女に変装して、お隣の家の前でキャンディーをおねだりしている。住宅街には、吸血鬼とガイコツ
も歩き回っていた。
 《ハローウィン》だから。。。
 義父母は訪ねてくる子供たちのために、安売りで買ったまずい色付きキャンディーをテーブルの上に山と積んでいる。子供たちは魔女の変装で、キャンディーを食べ続けている。
 
 JPに電話するが、いくら鳴らしても出ない。
屋根裏部屋の工事をすると言っていたから、屋根裏部屋にいるんだと思って、暗くなってからまた電話した。出ない。屋根裏部屋の階段から落ちたんじゃないだろうかと思って、さすがに心配になった。

 夜遅くなってからまた電話したら、JPがにやけているような声で返事をする。
「電話したんでしょ?居なかったでしょ?」
「電話したよ、居なかったね。どこか行ってたの?それとも気絶してたの?」
「映画観に行ってた」
なるほど。。。
自分たちだけ旅行に出て、申し訳ないなあと思っていたので、JPが屋根裏部屋を放ったらかしにして、映画観に行ってたと聞いて、うれしかった。レストランも行けばよかったのに。
「なに食べたの?」
「スープ」
家を出るとき、冷蔵庫にはナーーーンにもなかった。
「自分で好きなものを買いに行くから」と言っていたから、放っておいた。うちには保存食というものはない。
「何のスープ?」
去年のコンポストから、勝手に生えてきたカボチャをスープにして食べたらしい。
さすが。。。

2006/10/27

翻訳開始

 大阪の出版社から、いきなり電話が来た!!
前に《その方向で》と言われていた翻訳の件で、オーケーが出たそうだ。
数日前に、メールが使えず、インターネット状況がおかしかった時に、メールをくださっていたらしい。「返事がないから電話しました」ということで、恥ずかしいやら、申し訳ないやら。

 2年後までには出版されていること、という契約をとっているらしく、翻訳は一年で、その後校正や、挿絵、印刷などに時間が取られるとのこと。1年ぐらいで全部訳してくださいと言われた。
そんなにかかるもの?と思われるかもしれない。
 実際、実務翻訳などはA4びっしり100ページを1週間以内。。。とかあるので、400字詰めで160枚というのは、1年もあれば楽そう?
とーんでもない。
 あらすじを3枚書くのだけで半年ぐらい掛けたので、どんどんやらなければ終われない。

 けれども24日から子供たち秋休みに突入して、なあんにもできない。
25日はシネグテなるものに行った。映画を観ておやつをもらった。
今度の土曜日にはいよいよ公開される『風の谷のナウシカ』もある。
来週にはノエミの里帰りのため、トゥーロンという街に行く。


 とりあえず、原作者に会って話がしたいと思って、メールを書こうと思う。フランスに住んでいるというのは、その点がとっても便利だ。この原作者と長くおつきあいできたらすばらしいと思っている。

2006/10/24

ビズ・ファミーユ

 ビズ・ファミーユという雑誌がある。
この雑誌は、フランスに住んでいる日仏家庭や、日日家庭や、日本人学生などを応援する雑誌で、日本でも購読することができる。

ホームページはこちら。
http://www.bisoupfj.com/

 半年以上前に購読を始めた。バイリンガル問題の特集があったのでそれを予約した。
編集長さんは、日本人の私と同年代ぐらいの女性で、パリに住んでいる。
その人が雑誌や個人のホームページで剣道について書かれていたので、私もフランスで剣道やってるんですよー、とメールを書いた。

 この雑誌のホームページで、《フランスの地方都市》というコーナーがあって、そこでは地方特派員を常時募集しているというので、アルビのことを書かせてもらった。
アルビに住んでいる訳ではないけれども、いきなりカーモーを書いたって、地名を知ってる人さえいないだろうからねえ。。。次回はカーモーも書くつもり。

 今回のアルビの写真は、従兄の了解を得て、従兄がフランスに来た時に撮った写真を使わせてもらった。きれいに撮れていたので。
アルビでジュエリーショップをしている友人のお店も紹介できたので、これでお客さんが増えたらいいなあ、と密かに思っている。

 フランスの生の情報を、読んでください。

2006/10/23

Operation Minori-te

「みのりです」と自己紹介すると、「どうやって書くの?」と言われるので、 MINORITE の Minori と書いて、「みのり」と発音してください、と言うとすぐに覚えてもらえる。「ミノリテ」というのはフランス語で「少数派」という意味。ラテン語でMINO MINOR というのは「少し」とか「小さい」という意味だそうなので、まさにそれって感じだ。

《オペラシオン みのり・テ》というのをやっている。《少数派のみのりがやってるキャンペーン》というようなものでしょーか。
実は、マダガスカルというところで、合気道をやっている友人がいて、その友人はマダガスカルという貧しい島で、長く続く開発を手助けするというような、とっても大変なアソシエーションの会長さんだ。
 マダガスカルという島は、アフリカ大陸から取り残されたように、モザンビーク共和国の沖、インド洋に浮かんでいる、大きな島国で、正確にはマダガスカル共和過酷という。
 彼のやっているアソシエーションで、ボランティアの翻訳者を募集していたので応募した。でも実際にはフランス語に訳す方の訳者を求めているので、あまり役には立てそうもない。
 マダガスカルの友人に、クリスマスに何か送ってあげたいなあと思っていたら、「中古の、子供用の柔道着がないか?」と言われた。合気道クラブでは今20人ぐらいの子供が熱心に習っているけれども、クラブ活動費を払える子供はほんのわずか。先生はボランティアで時間を割いて教えている上に、子供の稽古着を買ってやったり、体育館のレンタル費用を自腹でまかなっている。
 
 合気道も有段者になれば袴をつけたりすることになるが、子供のうちは柔道着でも空手着でも、何でもよろしい。柔道着は丈夫だから。。。とのこと。

 剣道をやっている大人の中には、若い頃に空手や柔道をやってたという人がとっても多い。だから、剣道クラブのディスカッションのサイトで、《柔道着をください》という呼びかけを行ったのだ。いくつかの質問メールが、ブリュクセルやタヒチからも届いた。私が柔道着を集めて、恵まれない子供たちにプレゼントする、専門家だと思われたらしい。それはどこの《基金》ですか?とか、どうやったら送ってもらえるんですか?などなど、質問が殺到した。

 個人でできる範囲でできることって、とっても少ない。今、私は定期収入がないから、マダガスカルに小包を送る日が来たら、「JPお金ちょうだい」と言わねばならない。なんてすばらしい身分だこと!小包を送る時にはJPの名前も書こう。理解ある夫で助かります。
 アフリカの子供たちの本当の《貧しさ》というのは、その目で見た者にしかきっと、わからないと思う。「うちにはお金ない」と、私はいつも言っているし、「お金ありすぎて困ってる」という人は、わたしの周りには一人もいない。だけど、アフリカの子供たちの生活というのは、健康も、屋根もない。未来も見えない。現代の人たちはテレビでも映像を見て、情報が得られるから、気になっている人は多いと思う。

 私はきっと健康で不自由なく平和に暮らしているから、そーんな遠くのことまで気になるんだろうと思う。なんて幸せなんだろう。

 呼びかけに応えてくれたのは今のところ一人。柔道着と空手着を送ってくれることになっている。楽しみだ。

  

2006/10/22

キノコ狩り

 去年はJPに作らせた栗クリームだったが、今回は私が挑戦した。
先週の週末に拾った3キロの栗を一個一個むいて、そりゃあ大変だった。
だから今週また森に行こうと言われたけど、「栗はなしね」とお願いした。

 森へ

ボボは車に弱くて、数キロで吐く。前はトランクに載せていたけど、トランクでは閉所恐怖症も伴って、1キロも走ってないのにげろげろやる。それで、ここ数回車に乗せるたびに助手席に載せて、頭をなでてやったら、なんとなく吐くのを防げるようだ、ということがわかってきた。気のせいかもしれないけど。

 家族で出かけるときには、たいていJPが運転するが、ボボが助手席に乗るとなったら、やっぱりジャンケンだ。一回目は「自分が助手席に乗ったらボボの場所がないから」などと言われてあっさり引き下がったけれども、足下にゲロやられてからは、やっぱりジャンケンにしてもらうことにした。

 今回は、「森に行く」というのも、「ボボ同伴」というのもJPの提案だったので、文句なしで私が運転席を獲得した。ボボはご主人様に頭をなでられて、よだれの量も心なしか少ないような?

 森に着くと、基本的にはボボは放し飼いだ。
 でも先週来た時にどんどん勝手に先に行ってしまい、けもの道を谷の方に降りてしまったという前科がある。

 「ボボーこっち来いー」と叫ぶとこだまのせいで、どうやら私たちが向こうの山にいると思ったらしい。JPは、女こどもを森の真ん中に置き去りにして、けもの道を降りて行ってしまった。日が暮れ始めて、一時はどうしようかと不安におののいた。JPという人は黙っていていきなり倒れたりする前科も持っているし、ボボは森で行方不明になって、真っ赤な他人(わたし)に拾われたという過去がある。

 谷の下の道を歩いている人に向かって、「オーイ。オーイ」と叫んだら、こだまが跳ね返る方角をいろいろ見回して、山の斜面に座り込んでいる私たちをとらえた。
「犬と40歳ぐらいの男性見ませんでしたかああー?」こだましている。
「その人なら無事に谷を降りて、犬を捕まえてましたよおおお」
谷を降りて、上ってくるかもしれないJPとすれ違うか、駐車場に向かって、谷の底から戻ってくるかもしれないボボを待つか。。。悩みに悩んだ。子供たちはおやつを食べ尽くして、寒がっている。

 駐車場に向かって歩き始めたら、谷の底から口笛が聞こえた。JPがボボをつないで手を振っていた。ノエミが「駐車場まで競争だよー」とこだまを飛ばした。めでたし、めでたしだった。

 さて、今週はお天気もとってもよいので、お散歩の人が多かった。すれ違う人があっちに猟銃を持った人がいるから気をつけてね」と言った。先週から狩猟解禁。そこへ子鹿が走り去って行った。目の前3メートルぐらいのところを、ダダーと走って行った。「あれよ」という間だった。

 セップ茸はもうあまりなくて、今回はちょっとトランペットの形をした黄色いジロル茸を、10個ぐらい採った。
 夜炒めて食べた。おいしかったー。

2006/10/19

フリーマーケット

 PTAの会議の日。
 もうすぐ、市役所関係者と、教師陣との合同会議が行なわれるので、その時に質問すべきことや、確認することを書き出すための会議。
 一番問題になったのはまたもや『食堂』問題だ。
学校食堂は、食べたい子どもだけが食べる。親が共働きの子どもなどが多いが、うちみたいに『お母さんにも自由な時間を』などと言ってしまえる親も、子どもを食堂に任せている。
全校生徒350人ぐらいの学校だが、食堂では幼稚園の児童も含めて125人ぐらいが常時食べる。そして、子どもたちはセルフサービスではないのだが、サービスをしてくれる大人、食事の時間に食堂内にいる大人は、なんと4人だけだ。食事時の騒ぎは容易に想像できる。そして好き嫌いのある子、油断してデザートなどを盗まれる子など、子どもの多くがパンしか食べないとか、残飯の量が異常に多いという状況も報告されている。
 食費は親が市役所に行って前払いし、子どもはカードを渡されている。カードにお金が入っていない子どもでも、食べることは出来るので、油断しているとカードはどんどんマイナスになっていて、市役所からの知らせもないので、数ヶ月後に払っていないことに気づいた親が、まとめ払いをすることもある。
 市役所の『食堂』係の管理は悪く、一週間に二日しか開いていないので、その日に払いに行けない親もいたり、行ったのに閉まっていたり、行列ができていたり。。。市役所の対応の悪さは毎回の会議で繰り返し報告されている。市役所の『食堂係』は市長の娘だそうなので、市長の評判まで落ちている。

 先日食費を払いに行ったら、『カードにまだ現金が残っていると、思いますよ。』と言われた。けれども、子どものカードをマシーンに入れると『カードにお金が入っていません』と言われる。
子どもからは『ママン、食費払ってよ』と催促される。
でも、確かに前払いしたのよ!!
どうしたことだ。
また市役所に戻ってみると、確かに前払いの記録が残っていた。
「でも、この窓口で払っても、役所の会計係にお金が払い込まれるのは三週間後ですから。。。」と言われた。特に小切手での支払いなどは、引き落とされるまでに何週間もかかる。

 九月の新学期、はじめての日、ノエミたちは食堂で食べなかった。この日、食堂に行かせなくてよかった。この日食堂のカードに入金の記録が残っていなかった子どもたちは、食事を与えられなかったのだ。払いの悪い親たちへ《みせしめのために》子どもたちは食堂のテーブルにつくことは許されたものの、食事は与えられず、小さなチップスの袋だけが配られた。普段パンしか食べない子どもたちだから、チップスには大喜びだったに違いない。それにしても。。。お昼に自分の子どもがチップスしか与えられなかったと知った親たちの気持ちは?
 私みたいに前払いしたのに、入金の記録が残っていなかったという人もいるし、払いに行ったのに窓口が閉まっていたという人もいる。確かに払いの悪い親たちには、いい反省の機会になったと思う。でも、子どもたちが人質になってよいはずはない。
 今度の会議では市役所の人たちは痛い目に遭うだろう。

もうひとつ、会議のテーマは、4年生と5年生のスキー旅行の、費用をどうやって集めるか。
親は四回払いで120ユーロ支払う。けっこう痛い出費だ。教育委員会からの補助や、今年の始めに行なったロト収益金もある。でも、まだ足りない。
 私は子どもたちにクリスマスカードやしおり、クリスマスの飾りなどを作らせて、売ったらどうか?という案と、本屋おもちゃなど、子ども用品を中心としたフリーマーケットを提案してみた。
思っていたよりも、いい反応だった。
 フリーマーケットを行なう方針で、具体的な意見が交換されて、場所の掛け合いや法律などのことを調べる係も任命された。

 フリーマーケットはどんな小さな村でも行なわれていて、自分が要らなくなったものを安くで売って、他の人の役に立つなら、こんなにいいことはない。リサイクルのためにもたいへんよいと思う。子どもたちが自分たちで《お金を得ることの大切さ》を実感できるかもしれない。実現したらいいなあ、と思う。
 

2006/10/16

忙しい一週間でした

16日 月曜日 ノエミ、学校のみんなと校外のホールで観劇。このごろ文化的な催しが多い。季節だからねえ。

17日 火曜日 ゾエ、幼稚園のみんなと映画鑑賞。町の映画館で、チャップリンなど無声映画を四本見た。私は学校から依頼されたので、子どもたちの引率としていっしょに映画を見に行った。

18日 水曜日 農場の野菜を取りに行く。トピナンブール(キクイモ)といって、スーパーなどでは決して売られていない昔の野菜が入っていた。
午後は、図書館で読み聞かせがあって、ゾエと2人でお話をききに行った。

19日 木曜日 centre social (日本語では社会福祉センターでしょうか?)で、フランス語のレッスン。今回はじめて参加。イギリス人初級の人が2人、チュニジア人1人と私だった。私はフランス語圏の国での暮らしが長いので、フランス語はいちおう『初級』ではない。私は出来るだけ口を開かず黙っていたのだが、練習問題が易しすぎて先生の方が困っていた。初級から勉強のやり直しをしたいと思っていたので、私はうれしかったのだが、行ったらみんなの勉強の邪魔になるかも?という雰囲気が感じられた。夜遅く、学校の会議。

20日 金曜日 朝市の日、午後はインターネットでメール返信に忙しい。いまoperation minori-te というのをやっている。学校の会議で自分で提案したことが、みんなの賛成を受けてしまったので、忙しくなった。

21日 土曜日 ノエミ、ヴァイオリンレッスン再開。誉められて帰って来た。新しい曲を三曲もらって来る。 夕方、電話があって剣道に呼ばれた。カストルという小さなクラブで教えている、元アルビの部員が、カストルで教えている若い子たちを連れて、稽古に来るというので、出来るだけ参加するようにとのこと。久しぶりに汗をかいて、とても気持ちよかった。ノエミにも手が掛からなくなったことだし、今年はチェロもやっていないので、剣道を本格的に再開すべきかなーと思う。

22日 日曜日 森に栗拾いと、キノコ狩りに出掛けた。先週の日曜日はセップ茸を3つと、栗を3キロとって、くりクリームにして食べた。

2006/10/14

マジシャン

 ノエミが骨折していた時に、ヴァイオリンも乗馬もお預けになって、ひどく退屈していたので、町の文化センターで《マジックの講習会》があるとわかった時に、迷わず申し込んだ。
《マジックペン》ではなくて《手品》のことです。

 でも申し込んでから「片手でも出来るのかな?」と不安になったが、講習会の2日前にギプスが取れる予定ではあったので《いちかばちか》でいちおう予約だけ入れた。そうすると親は入場料がただになる。うほほ


 いよいよ当日。
2時から4時まで《マジシャンになるための講習会》が催された。
2時間でマジシャンに慣れるとは、すごいなあ。

終わった頃に迎えに行くと、子どもたちはみんなプロのマジシャンからもらったカードセットなるものを手に、文化センターから出てきた。
ノエミは家族を相手に習った手品を披露したくてたまらない。ちょっとうるさくなって来た。
「いまネタを見せられたら、あとで面白くないじゃないの」って言ってるのに、全部やりたいらしい。
 カードの手品は、大きな仕掛けというよりも、数学的な計算と記憶力がものをいうのだそうで、ノエミの得意分野だ。でも、カードを《らしく》切ったりするその器用さがないので、手元からバラバラと落としたりしている。やり直し。やり直し。なかなか熱心だ。

 夕方遅くに、おめかしした子どもたちと、大人が集まった。
講習会参加の子どもは10人までという規定だったので、10人分の家族が集まるだけだと思っていたら、入場料を払って見に来た人たちが大勢いて、会場には50人ぐらいの人が集まった。子どもが多くて、ものすごい騒ぎだった。

 10人のミニ・マジシャンのショーが始まった。
一番最初の子どもはロープを使ったもの。切ったはずなのに最後に手の平から長い一本のロープが出ると言うもの。会場からは《助手》が選ばれる。大人もけっこう喜んで参加している。
私もマッチ箱の手品の助手となった。
カードの手品シリーズが始まって、ノエミのクラスメートのテオが会場の隅に隠れるように座っていた市長さんを《助手》に指名した。テオのお母さんの顔が真っ赤になっていた。
 市長さんはカードを選ばされた。カードは会場のみんなによく見えるようにぐるっと一周し、束の中に戻される。
 最後に「あなたが選んだカードはこれですね!」と、自慢げに一枚のカードを掲げたテオ。
でも、そのカードは間違いだった。
「うっぷす」(おっとしまった、という時の口から出る音)
困っている市長さんと、口元に手をあてて、そこからはみ出た大きな目で市長さんに助けを求めるテオ。会場は一瞬水を打ったような静けさとなり、そのあと大爆笑が怒った。

 ノエミのカードゲームは「これですね?」と言って掲げるカードが実は間違いで、その間違って掲げたカードの番号の数だけ降り出していくと、本物のカードが飛び出すというゲーム。間違ったふりをして、その次にちゃんと指定のカードが出るという仕掛けだった。なかなか手が混んでいる。

 子どもたちのショーのあとはプロのマジシャンの出番だった。音楽も照明もあって、とても素敵なショーだった。
 

2006/10/12

心配しすぎ

 ノエミが怪我をしてから、40日ぐらいが経った。いよいよギプスが取れる日。
ギプスをつけてくれた救急センターに行って、ギプスを切ってもらい、そのあとレントゲン室に行きレントゲンを撮ってもらう。そのあと医師の検査を受ける。
 この日しかない、というので、学校の授業のある木曜日に、教室を抜けてもらって午後3時ごろ病院に向かった。レントゲン室で時間が掛かり、大慌てで診察室の待合室に行くと、ずいぶん混んでいた。このままでは4時半までに戻れない。困った。

 4時半にはゾエを幼稚園に迎えに行かなければならない。遅刻すれば自動的に学童(みたいなところ。centre des loisir という)に送られる。子どもだって《心の準備》というものがあるし、そこに行く時にはおやつを持たせる決まりがあるのに、ゾエはかばんにおやつは入っていない。医師との約束が3時半だったので、余裕で迎えに行けると思っていたからだ。
 4時15分になったので幼稚園と、モーガンの家に交互に公衆電話から電話したが、どちらも返事がない。幼稚園の電話は受話器が外れているようだ。モーガンの携帯に電話しようと思っても、番号を持っていなかった。JPは電車に乗っている時間帯で、こちらも捕まらない。誰も迎えに行けない。あちこち掛けてる間に小銭もなくなった。(留守電が返事するので、小銭が落ちる)ゾエはおやつなしで「ママンが迎えに来てくれなかった」と泣きながら、学童に運ばれるのだ。申し分けなくて涙が出そうになった。

 結局、先生の顔を見たのは5時半だった。
先ほど撮ったレントゲンをちらっと見て、「くっついてるね」とひとこと言って、ハイさようなら。こおんなに待たされてー!!と悔しくなったので、体育の授業をしばらく休むための証明書を書いてもらった。ついでに、何か質問はないかなーと考えたあげくに、
「うちの子、小学校に入って3回も骨折したんですけど、骨が弱いんでしょうか」と訊いてみた。
そうしたら先生は、「骨折した子どものお母さんは、みんなそういうことを訊きます。食べ物が悪いんじゃないかと心配するね」と笑われた。いや、しますとも。
 「馬から落ちたり鉄棒から落ちたら、そりゃあ骨折もしますよ。階段から落ちて怪我をしないで済んだら、それはラッキーというものです。本当に骨が弱くて、なんとかいう(医者は知ってるけど私は忘れた)病名がついている子どもたちというのは、一年に60回も骨折するんですよ。じっとしてるのにぼきっと折れたりするの。だから、人生で3回骨折したぐらいじゃあ大丈夫です。まだ余裕あります」と、太鼓判を押されてしまった。
 心配して損した。でも、カルシウムを摂るに越したことはない。

 ゾエを迎えに行くと、学童の子どもたちと楽しそうに遊んでいた。おやつもちゃんともらったそうだ。忘れて来る子もいるので用意してあるのだそうだ。大好きなおねえさんと工作などして、とっても面白かったのだそうだ。「ママンに忘れられた」とかそういうことはみじんにも思っていなかったらしい。
 心配して損した。

乗馬はお預けだが、ヴァイオリンはリハビリのために今すぐにでもやんなさいと言われた。
子どもは骨折のあと、大人みたいなリハビリはしないそうだ。
私は骨折期間よりもリハビリ期間が長くて、その時の方が辛かったので、リハビリがないとはよかった。お風呂も宿題ももう手伝わなくていいから、よかったー。
 

2006/10/10

依存症

 毎日パソコンの前に座っている。
もちろん仕事で使っているし、テレビの代わりにビデオを見たり、友達と喋ったり、討論に参加したり、連絡事項のやり取りや、カタログ検索、辞書代わり、読み物、書き物、予定表、日記、ニュースを見る、聴く、読む などなどなど。。。
 日本の家族や親戚、友人、フランス以外の国に住んでいる友人たちとの近況報告の場でもある。

今や、電話よりも、テレビよりも、大事な情報通信手段となっている。

 引っ越した家に付録でついていた、食器洗い機は先日壊れたけど、買い替える気はなし。 
 冷蔵庫は独身者用の小さなもので、結婚当初から使っているけれども、家族が四人になっても、子どもが大きくなっても、中に入っているものの量は変わりない。(つまりいつもほとんど空っぽ状態)だから買い替える気もない。
 ステレオも20年ものだかで、ぼろくなってきたけど、音楽もニュースもパソコンで聞けるから、買い替えなくてもいい。
 車は、ホンットーにおんボロで、冷房もないし、ラジオも時計も窓もロックも、時々電流が流れなくなっている。ミラーは両方とも壊れているし、車体も傷だらけだけど。。。「こんど買い替える時には《馬》」と私以外の家人は考えているので、もうちょっとがんばって乗る。汚染物質が路上駐車しているのと同じだけど、まあ、要るときゃ要るので捨てるに捨てられない。エコロなJPに遠慮しーしー乗り回している。

 でも、パソコンが壊れたら、本当に泣きたくなってしまうのである。
ビンボーなJPに向かって「ねー新しい、私だけのパソコンを買ってちょうだあああいー」と遠慮しらずに叫んでしまいたいのである。(普段はあまりおねだりしない方)
 さて、ちょおっと調子悪い日が二日ほど続いたものだから、こちらも何かと不便をして、いらついて、ストレスがたまったのである。これは危ない。依存症だろうか?

 「この頃(10月10日前後)にメール書いたのに、返事くれないでひどいワー」
と思っている方があったら、改めてご連絡ください。
確かに届いたはずなのに、いつの間にか行方不明になったメールなどもあって、腹立ちます。

2006/10/07

本の展示即売会

 ブックセールっていうんだろうか?本を展示して、その場で作家にサインしてもらったりする催しがあった。毎年ガヤックという町で行なわれる「本の見本市」に行った。子どもの本と、タルン県の作家の作品が多く紹介される見本市だ。

 バンドデシネという、フランス風マンガのコーナーには、30代以上の男性が多い。うれしそうにサインをしてもらっている。お父さんはそういう所で勝手にうろうろしているので(JPも)、お母さんは子どもたちを連れて、児童書コーナーに群れている。児童書コーナーのそばにはきれいな写真集や、お料理の本などが並んでいる。

 児童書コーナーに入った所で、折り紙の本を売っている女性がいた。その人が編集した本らしい。私の顔を見て「日本人ですか?折り紙できる?」っていうから、その人が折っているものを見ながら、「あんたより巧くできるよ」と思ったけど、「まあ、できます」と遠慮がちに言った。
 その人の折り紙の本はとっても簡単な、幼児向けとも言えるもので、3回か4回折ったら猫とか、船ができるというような作品が多かった。ちょうどわたしたちが訪れた時に『羽根が動く鳥』を折っているところだった。それを見たノエミが「私、つる折れる」といって、女性に紙をもらい、それがただのコピー用紙だったので、ちゃんと折り紙用の正方形に切りそろえて、折り始めた。
「ヘエー慣れてるのねえ」と感心している。
 「あなたも何かできるものがあったら、どうぞ」と言って、テーブルを開けようとしてくれたが、テーブルにはもう場所がなかったので、私は空中で折れるからテーブルは要らないと言って、子どもたちに場所を譲った。
 おばさんがノエミの折る鶴と、ゾエの折る《猫》に見とれている間、私は空中で折り紙をやっていた。見てないふりをして、実は横目でちらちらと私の指先をスパイしているおばさんである。でも、すぐに行方不明になったらしい。「裏返したところからわからなくなった」などと言っている。ノエミが鶴のお腹を膨らませている間、私もカタツムリの背中を膨らませた。机に置いて「エスカルゴだよ」と言ったら、感動していた。どんなもんだい。おばさんがそのカタツムリをちょうだい、研究するから、と言いたそうで言えない感じだったので、「持ってけドロボー、おつりは要らない」というようなえばった顔をして「あげます」と言った。横柄な日本人である。
 その場を去ろうと振り返ったら、見物人がわんさと後ろに並んでいて、何人かにお褒めのお言葉をいただいた。でも、そのおばさんの本にはカタツムリは出ていないので、おばさんの顔を潰してしまったかもしれない。大いに反省した。私のカタツムリを研究して、次回の本に載せていただきたいものだ。

 そのそばに大きな鶴の墨絵が見えた。とっても日本っぽい墨絵だった。
そこではHIROSHIMAというタイトルの絵本が売られていた。
 女の子がおばあちゃんに原爆体験を訊く、というストーリーで、墨絵と水彩画を上手に使ったきれいな絵本だった。原爆のせいで苦しい思いをした、というような絵本ではなくて、原爆が落ちる前の鶴と桜の思い出話だ。
 女の子がおばあさんの前で手を合わせて、挨拶しているページがあったので、これはきっと作家は日本人じゃないな、と思ったら、やっぱりフランス人だった。このポーズはタイ人かインド人かじゃないんでしょうか。日本人は「ゴメーン」とか「オネガーイ」というような時に手を合わせることがあっても、「おはようございます」と言いながら手を合わせないだろう。

 水彩画のページの右上には、各ページに新聞の紙面に載ったと思われる古い写真と解説もある。例えば「日本軍は真珠湾を闇討ちし、多くのアメリカ人を殺した」とか「日本はナチスドイツと手を組んだのだ」など。

 その作家は「あなたは日本人ですか」と訊いて、私の反応が恐ろしいかのような目で見たけれども、私が「このような本は珍しいから、子どもたちに買ってあげたい」と言ったら、目を細めてノエミを見た。そして、墨を使って絵本の中表紙にノエミの似顔絵を描いてくれた。目の辺りがとってもアジアティックで、主人公の女の子によく似ている。

2006/10/06

ポリーヌのおばあさん

 去年、商工会議所の日本語クラスで勉強し、高校卒業試験の日本語で20点満点の17.5点を取ったポリーヌさんは、8月15日から福岡女学院という高校に留学している。

あ、今気づいたけど、《女学院》だから女だけか。大丈夫かねえ。
あこがれの制服も着て居るらしいので、ぜひ写真を見てみたいものだ。

 たまにメールが来る。便利な世の中になった。

 ポリーヌさんのホスト・ファミリーはご両親共働き(どちらも教授と教師)一人っ子の中学生の居る家庭だ。おばあさんという人は茶の湯の先生でいらっしゃる。とてもよい家庭だという話。

 ポリーヌさんは学校のクラブ活動で、前にわたしに宣言した通り、剣道クラブに入った。
とても難しくて、でもとっても面白いですううううう、とメールにあった。

 毎年夏には、福岡で『玉龍旗』という剣道の高校全国大会がある。日本ではサッカーやベースボールは毎日やってるのに、剣道をテレビで見ることなんて滅多にない。でも、玉龍旗はテレビでやる。ポリーヌさんは来年の夏に本場の福岡で、本物を見れるんだ。ああ、うらやましい。

 フランスの新学期は9月だったので、ポリーヌさんは2学期から留学となった。このまま高校2年生のクラスで春まで勉強する。そのあとは、3年生に進級。その時にホストファミリーも交代して、来年度には子どもが5人居る家庭で暮らすことになる。お父さんがお医者さんで、お母さんは専業主婦だそうだ。へえ。おもしろそう。
 ポリーヌさんは小さい時にお母さんを亡くしているので、専業主婦で、いつも子どもといっしょに過ごすお母さんと触れ合うことができるのを、それはそれは楽しみにしていた。お母さんの居ないポリーヌさんが、日本に2人のお母さんを持てるなんて、よかった。よかった。

 ポリーヌさんにお母さんが居ないことは知っていた。でも、よくおばあさんと過ごしていると、ことあるごとに耳にしていた。ポリーヌさんと2人でよく旅行などしているおばあさんだ。ポリーヌさんが日本に行ってしまって、どんなに淋しくしているだろうと思って、ポリーヌさんから日本の近況を知らせるメールが届いた時に、ポリーヌさんのおばあさんあてに、わたしからメールを書いた。春休みにポリーヌさんがおばあさんのパソコンからメールをよこしたことがあったので、アドレスが残っていたのだ。

 本日、ポリーヌさんのおばあさんから電話をいただいた。世間話をいっぱいした。ポリーヌさんが母親を亡くしたのは《小さいころ》ではなくて11歳だったと知った。まだ若いのに癌だったそうだ。ほんの数年前のことだったなんて。。。ポリーヌさんの明るさからは想像もできなかったし、わたしはそういう家庭の事情など訊きもしなかった。おばあさんは
 「あの子は母親のことを語りたがらないの。あなたがとやかく訊かないから、だから、あなたのことも好きだったんでしょう」と言っていた。
 たくさんの後悔とともに去っていった人のことは、語れないものなんだ。語りたくなった時に聴いてくれる人がいたら、いいんだ。

 おばあさんは、ポリーヌさんが日本に行ったことをとても喜んでいた。昔からの夢だったし、日本でいろんな体験をするのはいいことだと言っていた。寂しがっては居ないようなので、ずいぶん安心した。

 「でも、退屈してるから、どうぞ遊びに来てよ」と言っていただけたので、子連れで遊びに行くつもり。わたしにも、フランスで新しいお母さんができた。うれしい。

たまには仕事

 月曜日に耳鼻科に行き、耳がつまってるのをどうにかしてもらったが、どうもよくならず、きのう、木曜日にマスリ先生のところに出直して、抗生物質をもらってきた。

 マスリ先生のところには手ぶらで行く。医者や薬局に行くのに、お金は要らない。高い保険料を払っている(らしい)ので、ある一部の治療を覗いて全額払い戻されるような仕組みになっている。出産の時にも一銭も払わなかった。その仕組みはよくわからないけれども、マスリ先生のところに行くのにお金は要らない、ということはわかる。普通ジェネラリストと言って、とにかく「どっか悪いなー」と思ったら行く医者、というのがいて、それがうちではマスリ先生ということになっている。そこでマスリ先生が簡単に診断して「耳鼻科に行きなさい」とか「レントゲンを撮りなさい」とか言われ、専門医に送ってくれる。ジェネラリストは毎回の診察料が21ユーロだが、この前行った婦人科は28ユーロで、月曜日の耳鼻科は33ユーロだった。とにかく、《現場》でその金額を払い、保険の会社に書類を送ったら、払い戻される。この頃はパソコンでマスリ先生がなにやら操作したら、《払った、払い戻された》が自動的に行なわれるそうなので、「お金は要りません」と言われる。
 お金を払わないで済むと思ったら、具合悪い時にいつでも先生のところに走って行けるので便利だ。薬局でも同じ。ただし、薬によっては保険の利かないものもあり、そういう時に「手ぶらで気ました」と言ったらツケにしてもらえる。病気の時にお金がないからって薬を買えないのは困る。薬局でツケがきくとわかってからは、遠慮をしないことにした。悪い時には直ちに行く。

 でも、具合は悪いのである。ひたすら辛いのである。
耳も鼻も、どこもかしこもつまっている。それで、ほお骨の辺りや奥歯、目の回りも頭も痛い。首も背中も痛い。

 なのに、ひっさしぶりに仕事が来た。
潰れかけた会社に投資して、新しい会社に建物を賃貸し、潰れかけてる会社の従業員を、新しい会社では優先で雇う、というような、、、今流行らしい企業再建に関する合意書だった。
 頭が回らない上に、こんな書類は訳したことがないし、経済にはとんと疎いので、《投資》のこともわからない。投資の書類とはいえ、買い取る工場の面積などもでて来るものだから、それが《建築面積》なのか《建築延べ床面積》なのか、そういうことを調べるために、建築専門家の友人にまでSOSを送る始末。翻訳の仲間たちは、常にパソコンの前に居るので、返事が早く、適切なアドバイスをくれる。救われた。

 さっさとやって、ちょっとは寝たい。でも、書式に自信がないので、納品期日までひたすら調べものをする。夜更かしをする。だから具合悪いままだ。あーあ

2006/10/02

ちょっとうれしいご報告

 先日提出した翻訳の企画書の返事が来た。

「この本は内容的にも素晴らしいので、あなたの翻訳で出せるように検討して参りましょう」とのことだった。
 これから版権や著作権を正式に調べて、原書の雰囲気や、ページ数などの確認などあり、いろいろな問題がなければ、やっと契約に結びつくことになるだろう。
だからいまは、まだ決まったわけではない。

 大阪の出版社で、編集の係の方は、こちらがコンタクトを取ろうとした時から、対応が素早く、メールはいつも親切丁寧だ。 
 メールのやり取りだけで、「じゃあ、あなたと仕事しましょう」と言っていただける。その信用は、書く力だけに頼らなければならない。お互いに信用が生まれるのは、インスピレーションの力もあるだろう。そして、わたしの対応力や表現力は、そんなやり取りの中で、観察されているのかもしれない。

 わたしの外界とのつながりはほとんどがメールになってしまっている。もちろん友人の中にはいまだにアナログな人もいて、メールよりも文書の方が安心するという人もいる。自分も、字がもっときれいならば、手書きの手紙をいまよりもっと書くと思う。この公開日記を始めたのも、文を書く練習、人に読んでもらう練習のつもりだった。

 出版社に提出した企画書は、《あらすじ》《感想》《作者紹介》など。特にあらすじは、友人に何度も読んでもらって意見を訊いた。まだまだ一人っきりでは不安だ。《あらすじ》は試訳のつもりで物語の雰囲気が出るように気をつけた。とにかく読んでみようかと思わせること。読んで内容が分かることを考えた。

 とりあえず、「この方向で」と言われて、方向が見えて来たので、ずいぶん元気が出た。
風邪なんか引いてる場合ではない。押して行こう。

2006/10/01

ターミネーター

 シラミ絶滅作戦、第二弾。
 先週駆除した、はず、のシラミの卵が、まだまだ居そうなので、この一週間毎日毎日気をつけてきた。もう死んでいるのだが、卵が残っていたらよくないと言われたので、見つけたら撃退!!を目指して、暇さえあれば子どもたちの頭をまさぐる。

 サルの親子みたい。

夜になって、まーた先週と同じ《パラプー》と《パラドゥー》のお出ましとなった。

 わたしは風邪で具合が悪い。
耳が痛くて仕方がない。
でも医者は週末はやっていないので、月曜日を待たねばならない。
シラミ退治なんかやってる間に、寝ていたい。
あー

2006/09/29

風邪

 ゾエとわたしが風邪を引いている。
ゾエなどは耳が痛いというので、マスリ先生の診療所まで行った。
先生の顔を見て、ボンボンをもらったとたんに元気のでたゾエは、先生が調べても耳に異常が見られなかった。
 「本当に痛かったの?」と訊くと、
「クラスメートが騒がしいから、耳が痛かった」などと言っている。
中耳炎じゃなくてよかったけど。

 せっかくのなので、わたしも診察してもらった。
耳がつまってる見たいと言ったら、耳がつまってると言われた。
この前の冬も同じようなことがあって、耳のお掃除をさせられた。もしかしたらあの時につまっていたものが取れていなかったのかも。

 そのよる、先生に言われた通り、耳の中を洗い流すのをやっていたら、もう完璧に耳がつまってしまった。何も聴こえないし、耳鳴りまでする。
耳がつまっているので、鼻とのどの調子もおかしい。

 翌日耳鼻科に電話したが、週末は医院がお休みなので、月曜日まで待ってくださいと言われた。

土、日、月曜日の午前中まで、苦しみに苦しんだ。
このまま難聴になってしまうんじゃないか、鼻ものどもつまって月曜日の午後までに、窒息するんじゃないかと思った。

 月曜日に医者に行って、先生がつまっているのを取ってくれた。
なんとものすごい塊がつまっていた。
綿棒で耳の掃除をしてはいけないと言われた。
これからは日本式の耳かきでやろう。

 耳栓を抜いたとたんに、鼻の通りもよくなった。なんといっても小さな物音までよく聴こえる。
ずいぶん難聴に近づいていたのだ。
危ないところだった。

 シラミにしても、耳栓にしても、ちょっとした毎日の気遣いで、ずいぶん違うものなのだ。
もう少しお風呂場でゆっくり過ごせるように心がけようと思った。

 風邪はあまりよくならない。
太陽に当たり足りないのかな?

2006/09/26

シラミつぶしに、探すって、なにを?

 こーんな時代に、こーんなことが起こってしまうとは。
しかも我が家に!!
恥ずかしいったらありゃしない。
とんでもない、ああ、とんでもない。

 ノエミというやつは、サルみたいだ。
気がつけば身体をぼりぼり引っ掻いている。
一日中暇さえあれば本を読んでいる子だが、本を読みながらやっていることといえば、
爪を噛む。足の指をいじる(姿勢が非常に悪い)。頭を引っ掻く。鼻までほじっているじゃあないの。ああ、やだねえ。
 本をベッドの上に広げて、両足でページを抑え、両手で頭をかきむしったりもしている。

 そこまでやるか!?

 いまは、骨折のためギプスをしているので、わたしが責任を持って身体を洗って差し上げている。だから、普段よりも臭くない(ような気がする)
わたしが洗ってあげてるんだから、洗ったそばからそんな髪の毛かきむしらなくてもいいじゃあないの。怒っていたら、頭の上を何かが走り去って行った。

 なに今の?なんだったの?

ちょっとここに座んなさい。
鏡の前で、ノエミが矯正器具のついた不気味な前歯を磨いている時に、頭の検査。
座ってもらわないと、ノエミの頭のてっぺんが見れなくなってしまった。子どもに背丈を超えられる日も近い。

 フケ?いやちょっと違うような。。。
また、何かがぞろぞろ歩いて行った。
ぞろぞろ?

 ノエミの短く切った髪の毛を束にしてつかんだまま、
「ミヌー!!」
叫ぶとJPがすっ飛んで来た。
そして、JPは冷酷に判定を下す。
「シラミ」

 ノエミが喜びの雄叫びをあげながら、歯ブラシを起きっぱなしにして、顕微鏡を取りに行く。サンタクロースにもらったまま、使い道のなかった新品同様の顕微鏡。
「いつかこんなこともあろうかと思って出しっぱなしだった」などと言っている。
(たまに爪の垢などを研究していらっしゃる) 

 10倍に拡大すると、そりゃあもう信じられないような怪物だった。
「シラミ」なんて生まれてはじめて生で見た。

 薬屋で、シラミ退治の頭用スプレー《パラプー》と、シラミ洗い流しシャンプー《パラドゥー》と、家じゅうに撒くシラミ駆除のスプレーを購入。お買い得セットになっていて、子ども2人のためにおまけまでついている。子どもたちは大喜びだ。
 こんなに楽しい《お楽しみセット》が待っているとは。シラミさん、ありがとう。

 薬局の人は「恥ずかしいことは何もありませんよ。学校では一年中はやっていて、この薬はみんな使ってます。」と励ましてくれたので、店に入った時よりも心が軽くなった(?)
薬局の人が「60度で洗ってください」というので、頭のことかと思ってぎょっとしていたら「衣類ですよ、衣類」と言われた。わたしも気が動転していたのだ。

 その夜、顕微鏡を片手に、家族四人のシラミ退治が始まった。
お天気が悪いので、洗濯物も乾きにくいが、ありとあらゆる衣類を片っ端から洗濯機に入れて、60度で洗った。スプレーを撒いたので家じゅうが臭い。

 翌日あれだけやった親のプライドで、「もうシラミは居ないって言ってるでしょー」と何度も言ってるのに、子どもたちは頭をかきむしっている。くせになったんだろうか。あるいはまだまだいるんだろうか。。。

 《お楽しみセット》の中に入っていた細い目の櫛で、毎日毎日髪を梳いてやる。
友人・知人の頭まで気になってしまう今日この頃だ。

2006/09/25

やる気は、あるんです。

 今年の始めに、訳したいなーと思う本があった。知人を通してその本が日本語に訳されているか、どこの出版社の取り扱いか、問い合わせてもらった。
 訳したいと思ったその本は、実はすでに契約済で、翻訳中とのことでがっかりしたのだが、問い合わせを行なった大阪の出版社の人から、
「あなたが前に訳された『サトウキビ畑のカニア』を読ませていただいております。良い本でした」と言っていただけた。それで、フランスで面白い本を見つけたら《レジュメ》を書いて紹介してください、との「社交辞令」を真に受けて、ひたすら素直に、いい本探しに努めたつもり。

 あらすじと、感想と作者の紹介など、まとめたものを《レジュメ》という。
《レジュメ》の中でも《あらすじ》は訳そうと思っている本の雰囲気がよくわかるよう《試訳》のつもりで、とのアドバイスをくれる友人もいて、彼が何度も読んでは意見を述べてくれた。結局5度以上も書き直した。どんなものでも書いたものを読み直すと、必ず書き直したくなる部分が出てくる。
 何度も書き直して、あまり代わり映えがしなくなったので、そろそろ提出しようか、ということになった。そして、本日、大阪の出版社に送らせていただいた。

 友人が間に入り、その出版社と関わりのある人を通して、《紹介》していただいた形ではある。とはいえ、メールだけのやり取りで、いきなりフランスに住んでいる、見ず知らずの者が送りつけたものに、「確かにお受け取りしました。検討させていただきます」と丁寧なお返事をくださる。日本に住んでいたら、出版社に何度も脚を運び、ちゃんとお会いして頭を下げ、世間話をしながら相手を探り、わたしは「検査」されるところではないか。
 こんなに簡単に(当人に取っては長い道のりだったのですが)企画を読んでもらった上に、いい返事が来たら、それはもう本当にすごいことだと思う。
 「この本はよい。子どもたちの読ませたい。そして売れるに違いない」と判断できるものであったか。。。企画を出してからまた悩む。もっともっといい本はたくさんある。読ませたい本もある。でも老舗の本屋さんが倒産する時代だ。

 時差と、ファイルが開けないなどの事情で「ちゃんと読めました。熱意を感じました。検討させてください」とのお返事いただけるまでにずいぶん時間が掛かってしまった。こんなことで信頼していただけるのだろうか。

 祈る気持ち。

2006/09/24

馬祭り

 馬から落ちた本人は、あまり懲りていない。
秋の日曜日ともなれば、各地で催しがあるが、どこに行きたいかと言えば
「やっぱり、馬祭りでしょ」
この前《ロバ祭り》のあった、もネスティエという小さな町へ。

 JPの同僚のご主人で、馬車を持っている人がいる。二頭立ての馬車で、六人ぐらいを乗せることができる。速く走る、美しくは知る、障害物を除けながら走る。乗ってる人が馬車の上からものを取ったり、片付けたりする競技などなど。。。いろいろやっているスポーツマンだ。馬車を農業で使っている、というようなわけではなく、ただ、天気のよい日曜日の昼下がりに、奥さんを馬車に乗せて自然を走ることを生き甲斐としている人だ。
 
 彼のおくさん、つまりJPの同僚のジュヌヴィエーブは、JPと同じ年代の息子が約二人いる。でもなかなか結婚しないし、なかなか孫を連れて来ない。だからジュヌヴィエーヴはゾエとノエミに、なにかと言えばプレゼントをくれる。子どもたちが馬が好きだと分かった時には大喜びだった。催しがあるたびに、「馬車に乗せてあげる」と言って誘ってくれる。

 馬祭りは馬のコンクールなどもあり、発表までの待ち時間に観客に遊んでもらうために、馬車を持っている人たちはボランティアで集まって来た。子どもたちは先を争って、その馬車の席を取る。でも、ノエミとゾエ(わたしも)はジュヌヴィエーヴのおかげで優先してもらえた。子どもたちは5台の馬車に全部で7回も乗った。

 古い石畳の町を、馬車で走り回るのは、とてもお尻が痛い。石橋や林の中を通り抜けるのが、とても気持ちよかった。でも、普段こんな町中を馬車で走り回れるわけがない。けれども、馬車のおじさんは、
「たまに、道路も走ってるよ」と言っていて、ノエミがやっぱり車を売って馬車を買おうよ、と目を輝かせた。馬に乗って障害物競走で落馬されるよりは、馬車を買ってお買い物にも便利。。。という方がいいかなあ、とちらりと思ってしまった。

 それにしても、あの《クロタン(糞)》がねえ。。。わたしたちが毎日どこを通って通勤しているとか、どこで何をやってるか、町中の人にバレてしまう。それに匂いとか。。。町の人から苦情が出るだろうねえ。。。

2006/09/20

ギプスを半分にしてもらう

 ノエミが怪我をしてから一週間が経った。
予定どおり病院に行き、先週とは違う先生が、先週撮ったレントゲン写真を見て、
「このくらいの骨折だったら、今週からはもうひじからの固定は必要ない」
と判断した。

 ギプスを半分切ってもらうことになった。
あの、のこぎりというのは凄まじい音がする。
男性二人掛かりで、始まった。
わたしが逃げ腰でいるので、「このノコギリ波柔らかいものは切らないから」と言って歯を触って見せる。
いや、知ってます。わたしもやったことあるんで。。。
でも、やっぱり恐い。
のこぎりが今日に限って柔らかいものも切ろうと決心していたら???

ノエミのひじが自由に動かせるようになった。
一週間で腕がやけに細くなっている。
ひじは楽になり、脱ぎ着がちょっとは楽になったが、それでもシャワーも宿題も、お皿の上の物をナイフで切ることなども自分ではできないので、私にとってはたいした変化はなし。

 今日は商工会議所で、インターネットをいかにして授業で活用するか、なるテーマの研修があったのだが、行くことができなかった。仕方がないから自分で研究する。
(でも生徒が集まらないので、レッスンが開始されない。余裕ある。)

2006/09/17

突っ走る

 さてさて、まだまだ突っ走るのである。

9月11日 音楽学校の会議。新年度のプログラム発表。ノエミは水曜日の夕方、音楽の理論とコーラスの授業。土曜日の午後3時からヴァイオリン。夏休みもキャンプに行った3週間以外は毎日練習したので、今度の土曜日が楽しみ。ゾエもヴァイオリンをやりたがっているので、土曜日の10時半に予約を取った。先生が小さい子用の小さなヴァイオリンに触らせてくださるそうだ。

9月12日 幼稚園の会議。担任との顔合わせと、教室の案内。幼稚園で今年習うことの簡単な説明が行なわれた。

9月13日 午後、ノエミを乗馬に連れて行く。午前中にアントワンを預かっていたので、午後はモーガンがゾエを預かってくれることになった。アルビへ買い物に行く。乗馬クラブにノエミを迎えに行くと、ノエミが額から血を流して、手首を包むようにしている。「また、落ちた」
見学の父兄と、クラブの先生から「痛み止めのクリームをぬって、大事にしなさい」と言われて帰る。あまり痛がってはいないけれども、「見た目より痛い」と本人が言うので、夜か明日になっていたくなったら困るので、一応医者に連れて行った。受付で「また来たの?」と言われる。
 結局、右手首骨折にて、二の腕から指までの豪勢なギプスをされてしまった。今年二月にひじを怪我してギプス経験ありの我が子は、「慣れているから」と、着替えも食事も手助け不要などという。こーんなことで慣れても困るんだよなあ。右利きで、ただでさえミミズの這ったような字なのに。あーあ

9月14日 大雨。いきなり最悪。急に寒くなってしまい、前日まで来ていた半袖が着れなくなった。ギプスが通る袖の服を探して大わらわ。雨合羽には腕が通らない。前が閉められない。風が強くて片手では傘がさせない。ゾエは雨靴を履いているので、水たまりを選んで歩く。わたしはノエミの重いかばんを肩代わりである。子どもたち学食の日。ゾエは大喜び。ノエミは不機嫌。

 午後商工会議所の体験授業へ。大雨で、最強にしたワイパーの効き目がないような午後だったので、体験入学者の数も例年に比べると大幅に少なかった。去年の学生2人が来てくれていたが、あとはスペイン語の先生と中国語の先生が、サクラで来てくれたのと、スペイン語の体験を終えた人が、お情けで日本語に残ってくれたので、頭数が揃って、レッスン開始。今年も2クラスもらえるかどうか、際どいところ。商工会議所では、少々レベルが違おうとも、できるかぎりひとつのクラスにまとめて、わたしのレッスン料を抑えたいのだ。毎年「少々」とは言えないレベルを混ぜてくれるので、たいへん苦労している。

矢の如し

 先週は31度だったのに、本日は日中16度だった。寒い。

ここのところやけに忙しかったので、さあ、まとめて日記でも書こうと思ったが、時計を見たらもう2時だ。

新学期だったので忙しかったのだ。
9月4日 新しい学年度始まる。ノエミ仲良しの子といっしょになれて幸せそう。ゾエは全部で24人の大きい組に6人だけ入れられてしまった《中ぐらい組み》の一人。前のクラスから顔見知りは2人セシルとイネスのみ。どちらとも仲良しなのでよかった。イネスは教室の入り口で大泣きして、お母さんが困っていた。
=======
9月5日 前日人が多すぎて支払えなかった、給食の費用を払うために、再び市役所へ。給食代金は親の納税状況によって異なるので、納税を証明する書類を持って行かなければならなかった。そーんなことすっかり忘れていたので、手ぶらで行ってしまった。「ご主人様の税金は?」と訊かれたがJPの給料がいくらかも知らないのに、税金払っているかどうかも知る由もなし。出直してください、と言われた。

9月6日 野菜を購入している農場で、月一回のピクニックがある日。ベジタリアンな人たちのために、野菜だけのちらし寿司を作って準備した。夕方からアントワンくんを預かっていたが、モーガンが遅刻したために、ピクニックに出掛ける時間を過ぎてしまった。仕方ないから、私とノエミだけで農場に野菜を取りに行く。

9月7日 商工会議所での、新学期会議
来週一日体験日というのがあるので、その話し合い。新しい中国語の先生が加わっていた。
英語、スペイン語は顔見知り。イタリア語やロシア語は数年前から交代。アラブ語の先生とは顔見知り。わたしは一番古株。(そして一番よいお給料をもらっている。。。だろうかねえ)
子どもたちは学校の食堂に行かせる。ゾエは大喜び。ノエミは不機嫌。

9月8日 午前中の早い時間に、JPの両親到着。3人で朝市へ。両親も買い物に参加。義父が荷物を持ってくれた。夜、義母の65歳の誕生日をとりおこなう。
ノエミは木箱に金色のペンキを塗り、おはじきやビーズ、ボタンなどで飾ったきらびやかな宝石箱をプレゼント。JPは竹で作った洗濯物干をプレゼント。木製の洗濯バサミがぶら下がっている。
あまりにも美しい洗濯物干なので、義母はシャンデリアのようにお部屋に飾ると言っている。
 この人にしては上出来な褒め言葉であった。

9月9日 ノエミ、友達のお誕生会に招待されている。前に住んでいたところの友達で、かなり遠い。仕方ないので、義父母とわたしたちは、ノエミを送って行ったついでに、そのそばのレストランで食事することになった。その近辺を散策。パステル博物館に行って、パステルと呼ばれる《藍》のような染料についての講義を聴いた。面白かった。

9月10日 近所で行なわれていた、ローカルな蚤の市に行った。昔小学校で使われていた、木と鉄でできた小さな机が出ていた。机の表面にインクつぼをはめ込む穴のついた、机の部分とイスの部分がくっついてセットになっているものだ。15ユーロとは安い。その村の学校に寄付されるそうだ。欲しかったのだが、車に積めないし、家のどこに置こうかということになって、結局買わなかった。わたしは正時ごとに12羽の異なる鳥の声で時を刻む時計というのを1ユーロで買った。電池式のちゃちなもの。それに正時の五分前に鳴るし、7.8.16時以外の鳥は啼かない。

 義父母が帰る直前になって、ノエミのわがままから、嫁と姑の争いとなった。いつものことながらわたしがキレて、姑を追い出すわけにも参らず、嫁のわたしが自宅を飛び出した。夕方遅くなって、義父母がナルボンヌに帰ったころに、わたしものんびり帰宅した。

矢のように過ぎ去った一週間。丸く終わらずツンツンで、こりゃあいかん。
 不平の大地に花が散る。。。。

2006/09/16

音楽の日

 ノエミ、新学期はじめてのヴァイオリンのレッスン日。
夏休みもできるかぎり練習をした。
先週の会議では、去年同時期に始めたマリオンが「今年はヴァイオリンはやらない。夏休みもぜんぜんやらなかったから、すっかり忘れてしまった」と言っていて、半分がっかり、けれども生き残ったという《勝利》の笑みもちらり。
 「もっとやる気ある子かと思ったけど。。。」などと言っている。おいおい

 やる気があっても腕がギプスにおおわれていては証明できない。
先生もきっとがっかりするだろう。
会議の時に、ゾエにも試しにやらせてみたい、と申し出て、ちゃんと時間をとってくれたので、あさ2人を連れて音楽学校に向かった。

 ノエミがまたもや怪我をしてしまったので、先生もあきれていた。でも「乗馬をやめればいいのに」などとは言わないのがさすがだ。
 さて、ゾエちゃん。
わたしのお尻に張り付いている。
朝からあんなに張り切っていたし、なにより、去年度一年間、ずっと「わたしもヴァイオリンをやる!」と言い続けていたのに。。。
ぐずぐずしている間に、先生にお客さんがあった。ちょっとお話をして戻って来た先生はかなり不機嫌だった。ぐずぐずしているゾエにもいらだちを見せ始めた。
 先生はきっと、「こんな小さい子。お母さんがやれと言ったに違いない」と思っただろう。

フランスでは三歳ごろから音楽をやらせたりするのは一般的ではない。ゾエのクラスでなにか習い事をやってる子はほんとうに少ないと思う。ノエミがヴァイオリンをやってるといっても、「小さいのに、たいへんじゃないの?」と言われる。
 でも、この先生は「小さい時から始めたらいい」と言ってくれていたのだ。
結局ゾエは泣き出して、楽器に触ろうともしなかった。残念。
「ノエミが治ったら、いっしょに連れて来たらいい。ヴァイオリンに触らせてあげるから」と言ってもらえた。そうですかあ。

 あとでゾエは、「知らないおじちゃんだった。恐かった」と言っていたが、前にも会ったことはある。でも、たしかにちょっと不機嫌ではあった。子どもはそういう雰囲気を敏感に感じるものだろうか。

 その晩、近所の田舎の小さな教会で、フルートとヴァイオリンのコンサートがあったので、家族で出掛けていった。
 ヴァイオリンはノエミの先生、フルートも顔は見たことのある、音楽学校の先生だった。
息のあったコンビ。マイナーな作曲家を中心に、どんどん新しい曲に移っていく。とても楽しいコンサートだった。わたしは小学校の四年生から高校生ごろまでフルートをやっていた。

 この週末はヨーロッパ中で「文化遺産の日」というのが催されていて、普段開放されない文化財が無料で観覧できたり、博物館、コンサートなどが無料だった。このミニコンサートもその行事のひとつで、無料だった。でも田舎の小さい教会なのでお年寄りばかり30人ほどのコンサート。

 最後に、《文化財》のマリア像に捧げられた『アヴェ・マリア』がとても素晴らしく心に響いた。子どもたちも大喜び。ゾエも、ヴァイオリンの先生が面白いおじちゃんだというのが分かって、よかった。

2006/09/15

滑る

 午前中、婦人科の検診。
行っている婦人科は女医さん。とてもよい人で、よく話を聞いてくれる。

 数週間前に「いやらしいジェラシー」のタイトルで書いた日記に、JPの同僚のシルビーのことを書いた。金髪で痩せてて、できるキャリアウーマンだ。彼女が、夏休みの最後の金曜日に、乳がんが見つかって、緊急入院のあと、直ちに摘出手術を行なった。現在化学薬品を使った治療を行なっているそうだ。それはとっても厳しい治療で、髪の毛が束で落ちたり、食べてないのに吐いたりする、とても体力を消耗する治療だそうだ。離婚して、引っ越したばかりで、子どもたちは新学期から新しい学校に通う。一体どうしているんだろうと思う。

 シルビーのことを考えたら、わたしも胸が痛んで来て、いきなり癌のことが不安になったので、婦人科での検診でも訊いてみた。40歳からは、乳がんの検診を勧めていると言って、レントゲン技師への紹介状を書いてくれた。あなたは大丈夫だと思うので、年が明けてからでもいいと思うけどと言ってくれた。

 帰りがけに、スーパーによろうと思って、高速を途中で降りた。市道に繋がるカーブをおりている途中に、一瞬《目玉》を忘れて来たような気分になった。
《目玉》はその場所に止まって、脳みそだけがぐらっと左に動いた気がした。
車が滑っているんだということはわかった。
車がくるくる回った。後ろから来る緑色の車がよく見え、「気をつけてー」と声にならない声を掛けていた。運転手が口を半開きにして急ブレーキを掛けたが、スリップはせずに、わずかなところで止まった。中央分離帯にも乗り上げなかった。
 
 後ろからあと5台ぐらい続いているのも、よく見えた。カーブだから、誰かがどこかに追突するんじゃないかと思って、滑りながら遠くまで、後ろの方を見ていた。(ような気がする)
追突も対向車への被害もなく、車が止まった。
 急いで発進させようと思ったが、方向感覚がなくなっていた。ハンドブレーキを掛けていないので、車がずるずると滑っていく。誰もクラクションを鳴らさない。後ろの人たちが、自分のことを心配して見守っているのがわかった。両手で顔をぬぐって、大きく息をして、そのまま進んだ。

 スーパーの駐車場で休んで、落ちついて来たのでスーパーを歩き、夕食用の魚を2尾手にとったら、ぐずぐずしないで帰りたくなった。

 駐車場で車をバックさせていたら、窓を叩く女性がいた。
「さっきの車、あなただったでしょ?」と言われた。はじめ、なんのことかわからずにぼっとしていたら、指でぐるぐると円を描くので、カーブで滑って車をぐるぐる滑らせた、自分のことだと気づいた。
 その人はすぐ後ろではなくて、数台先の車に乗っていたらしい。古いプジョーに乗っていたのがアジア人だったから、わたしのことがわかったのだろう。
 「危ないところだったねー。大丈夫?恐かったでしょう?」
というので、当時の状況がよみがえリ、頭がくらくらして来た。
「あら、なにやってんの?と思っていたら、その瞬間ぐるぐるってまわったわよ。道路に油でもあったのかな?スピードも出してなかったのにね」と言われた。

 いや、それにしても、事故に至らずよかった。追突事故でわたしの後ろにいた人たちが怪我でもしていたら、どうしようもないところだった。それにしてもいま考えると、気分が悪くなってハンドルを切り損なったのか、滑ったから方向感覚だか、平衡感覚だかがなくなって頭がふらふらしたのか、よくわからない。とにかく、事故というのはあっという間に起こるのだ。

 そのカーブには、黒い人型のパネルが立っている。その場所で、少なくとも一人の人が亡くなっているという意味だ。実はいつもこのパネルがカーブから見えて来るその瞬間に「どきっ」としてしまうのだ。気をつけていたはずなのに。。。これからはもっと自覚しよう。

2006/09/04

新年度

 今日から新学期。新しい学年のスタートだ。
先週になってやっと学用品を買い揃えた。6月に学級編成の表が張り出されるので、9月の新学期の担任とクラスメートの顔ぶりは知らされていた。まいとし、学年が変わるごとにお買い物リストが配られ、買いそろえるべき学用品が指示される。みんなだいたい同じものを揃えることになる。子どもたちは連絡帳や、バインダー、ペンケースなどで、おしゃれに差をつけようとがんばる。

 数年前までは学生のかばんが重いことがずいぶん問題になった。10年ぐらい前の小学生は、みんなハードカバーの重い教科書を、リュックサックに詰め込んでいて、体重の半分以上もあるものすごいかばんを背負っているような子どもも居た。最近の小学生のかばんには教科書はごく少なく、宿題も、教室でも、コピーが多く出回っている。教科書や参考書、副読本などは学校に置いてあって、みんなで貸し借りをしながら読むことも多い。

 2年ぐらい前にノエミは、かばんが重すぎて立ち上がれないことや、後ろにひくり換えるというようなことがあった。それで、JPの母がキャリーのついた旅行ケースみたいな、いま流行のかばんを買ってくれた。まっすぐな道路や、平らな廊下を転がすには都合がよくて、ノエミはかばんになんでも詰め込むようになった。石ころも、ゴミも。。。

 けれども、自宅は2階建てで子供部屋は2階であるし、歩道にはいつも路上駐車の車が半分乗り上げているために、学校にたどり着くまでに何度も歩道から道路に下りたり、道路から歩道に戻ったりしなくてはならないので、転がすというよりも、持ち歩くことになる。
 学校は2階建てで、エレベーターもエスカレーターも当然なく、母も居ないので、子どもは自分のかばんは自分で持たなくてはならない。だから、キャリー付きの超重量リュックは、危険だ。
キャリーがあるという安心感から、リュックサックよりもたくさん詰めてしまっているので、そんなかばんを階段の途中で転がしたり、仲間の脚の上を轢いたり、その巨大なスーツケースが教室で邪魔になったりするのがいやで、私はそのかばんを学校に持って行くことを禁じてきた。一年間毎日注意して、どんな時にも替わりに持ってやることはせず、邪魔になったりすると叱ってきたが、だめだった。ころころ転がして歩くスタイルが、スチュワーデスみたいでかっこいいのだ。

 学用品を揃えたら、かばんがパンパンになった。JPが何を言って説明したのかわからないが、ノエミは前に使っていた肩掛け用のリュックを出してきて、膨らんだかばんを背負って出掛けた。今日持って行く学用品のほとんどは、先生が確認したあと、教室の棚に保管されるので、帰りはだいぶ減っている予定だ。
 
 ゾエの持ち物は、私用のものはほとんどなく、名前を付けずにクラスみんなで分け合って使うことになる、紙のティッシュと濡れティッシュのケース、サインペンのセットなど。お絵描き用のエプロンは去年の使い古しだから汚いまま持たせた。室内履きはお隣のメリオッサンのお下がりをもらったので、ちょっと拭いて持たせた。お昼寝用の大きなバスタオルはうちにあったものだけど新しいものにした。連絡用に使われるとおぼしき、真っ白な封筒5枚も、リストにあったので持たせた。

 新学期はきれいな服を着ている子どもが多い。でもうちの子たちは夏の名残、日本の友人などのお下がりなどで出て行った。朝涼しかったので、長袖で出て行ったのだが、お昼に帰ってきて、靴下も長袖もズボンも脱いだ。まだまだ夏の名残で大丈夫そうだ。

 新しい学年が始まって、私もやる気が出てきたが、とりあえずはこの静けさを味わう。。。
(といいつつ大掃除が待っているのだあ) 

 
 

2006/09/01

夏の終わり

隣家に挟まれた壁のすきまの、我が家の小さな中庭から、真っ青な空が見上げられる。
《中庭》と称されている小さなスペースの、更に小さな地面の土に、緑が映えてきている。
トマトはそろそろ終わりだ。オシロイバナが満開で、その他にも『日本の芝生セット』という種の袋をばらまいたあたりに、日本の河原の土手に咲いているような小さな草花がにょきにょき生えてきて、雑草化している。しめしめ

 ああ、9月になってしまった。
夏休みが終わる。夏はとっくに終わってしまった気配だ。

 ゾエが蚊に刺されたらしい。夏も終わって、今年初めて蚊に刺された。
右目のまぶたなんか、刺されちゃって痛々しい。
あまりにもお岩さんを連想させるので、朝食のテーブルで、いきなり『番町皿屋敷』の物語を語ってきかせてしまった。朝っぱらから。。。

 夕べちょっと膨れていたので、うちにあったクリームを塗ってやったら、今朝は《お岩さん》で、まぶたが開かないので、午前中にマスリ先生の診療所に連れて行った。
待合室で、なにやらせっせと書いていると思ったら、マスリ先生にプレゼントする絵だった。
いつも出掛ける時にはペンと紙と、雑誌などを持ち歩く。

 どんなヤブ医者でも間違えようのない、ただの虫さされでしかなかったので、虫さされの薬を処方してもらい、薬屋に直行した。朝市にはJPとノエミに行ってもらった。

 JPは屋根裏部屋に天窓を取り付ける作業で一週間が過ぎた。
わたしは、サロンの残っていたペンキはがしをやったりしている。
子どもたちは学校が始まるのが待ち遠しそうだ。退屈している。

2006/08/19

メリーゴーランド

8月19日から23日のこと

去年日記をつけ始めた頃に、カーモーの《サン・プリヴァ》のお祭りについて書いた。ノエミはゴーカート、ゾエはメリーゴーランドに明け暮れた。
花で飾った山車も出て、ミス・カーモーの乗った車や、ハラダンス、フラダンス、ポンポン・ガールやウエスタン・ダンス、フラメンコや器楽合奏隊が、町中を練り歩く。

 今年はノエミがいなかったので、しつこく「行こう、行こう」という者がおらずに助かった。
《か》さんたちや、従兄たち、ソフィーたちも帰ってしまって、本当に残念だった。カーモーがこんなににぎやかな姿を見たらびっくりしたことだろう。全国では《春を呼ぶカーニバル》というものが3月や4月に行なわれるが、カーモーは初秋。夜にメリーゴーランドの順番待ちをするのはけっこう寒い。特にこの期間は例年よりずっと気温が低くて、お祭りに来ていた人たちはみんな厚着をしていた。そういえば去年の写真でも、ノエミが雨合羽を着ていた。

 ゾエは、去年と同じ自動車の形をしたメリーゴーランド(?っていうのかな)、ゴーカートみたいにいろんな方向には走らないが、ちゃんとハンドルのついている自動車の列になっているものに乗りたがった。そして、去年と変わらず《アヒル釣り》去年と趣味が変わったのは《アヒル釣り》の景品で、去年までなにかもらえると言えば《自動車》とお願いしていたゾエが、今年は《お姫様変装セット》だった。

 ノエミは親戚も、お祭りも、全部のがしてしまった。ああ、残念だ。

2006/08/15

大雨

 曇り空で、お客さんには申し分けない。
本日は祝日にて、JPが自宅にいるので、ナジャックというところに出掛けた。
古い崩れかけたお城があるところだ。
大雨で寒くて、走り回った記憶しか残らなかった。
カルカッソンヌやビストさんのお城に比べたら、手入れが悪くてとても危なかった。
わたしとソフィーのお目当ては、大きな蚤の市だったのだが、結局大雨が降り出してからは店じまいしたスタンドばかりで、何も見れなかった。赤ちゃん連れで行く所ではなかった。

 残念

フランスの写真大公開!!

フランスで再会を果たした従兄が、個人のブログで、旅行中の写真を公開しています。
従兄は今回の旅行中に、1000枚ほどの写真を撮ったそうです。
映像もきれいで、なかなか面白いアングルもたくさん。
これからもどんどん公開してくれるそうですので見てください。

トップページの『漂い人』をクリックするだけでも、従兄のブログに行けます。
アドレスは
http://imasami.mo-blog.jp/tadayoi/
右の『フランス紀行』です。
日本では滅多に見ることのない、アルビやカーモーの写真もあります。

       乞うご期待 !!

2006/08/14

行く人たち、来る人たち

 朝早く起きて、車二台でトゥールーズへ向かう。ガソリンがほとんど入っておらず、不安だったが、なんとか駅にちょうどよい時間についた。30分しか駐車できない路上パーキングでも大丈夫だろう。

 ホームで写真を撮ったり、自動販売機のお菓子を買ってあげたりしていたら、もう駅員さんの笛が鳴っていた。
最後のお別れもろくすっぽ、子どもたちは電車に飛び乗るようなかっこうとなってしまった。従兄と奥さんの《の》さんが手を振るのを見ていたら、涙が出て来た。《の》さんが「お母さんのことも任せなさいねー」というので、ドーッと涙が出て来た。

 ホームでプレゼントをもらった。わたしは荷物になるのが気の毒で、お土産はほとんど持たせなかった。あんなにたくさんあった荷物を、上手にスーツケースに詰め込んでいた。確かに来る時にはわたしへのお土産で重くして来てくれていたのだろう。その分今晩泊まるパリで、フランスのお土産を買えるだろうか?

 電車が去って、わたしたちの夏が終わった。急に寂しい秋が来た。
でも、みんなを無事に電車に乗せたから、めでたし、めでたし。

 さて、レンタカーを返しに行かねばならない。午後から、今度はJPの弟一家がやって来る。
ガソリンを満タンにして返す。借りた時の契約で1750キロまでは230ユーロと決まっていて、《か》さんと従兄がほぼ半分ずつ、お金を出してくれていた。本当はレンタカー代なんかいいんだよと言ってあげたかったのだが、実は契約以上走って、超過料金を取られることは予想できていたので、従兄たちが出してくれるのが有り難かった。

 案の定、2400キロ以上走っていたので、超過料金の額も大きかった。JPが全部払ってくれたが、ちょっと月末は大変になるだろう。

 お昼ご飯を食べて、掃除や片付けをしていたら、もう弟たちが来てしまった。
甥のコランは一歳になったばかり。笑顔がかわいらしい、金髪で青い目の男の子だ。なんでもよく食べ、あまりぐずらない。赤ちゃんの見本のような幼児だ。
義妹のソフィーは、一歳年下だが、わたしよりもずっとしっかりした女性だ。とても優しい。ナルボンヌで従兄たちに紹介できて本当によかった。この妹がとても力強い味方となってくれているのだ。

 本日はみーんな疲れているので、お家でゆっくり。
コランとゾエが寝て、やっと静かな夜がやってきた。JPも楽しそうにしている。

 パリの従兄たちから、電話が掛かって来た。まさか本当にやるとは思っていなかったが、ルーブル博物館で、見るべきものは全部見る1時間コースというのがガイドブックに出ていて、それを親子5人でやり遂げたらしい。一番下のしゅん君がパリでナポレオンのお土産を買ったと言って喜んでいた。出発前日に疲れからか、豪勢な鼻血を出した中学生のなっちゃんも、元気そうだった。よくお母さんのお手伝いをするいい子だ。クールなお兄ちゃんも興奮している様子。親子水入らずになって、羽を延ばしているようだ。このお兄ちゃんが一番よくゾエと遊んでくれた。

 気をつけて、また会う日まで。

2006/08/13

一日中遊ぶ

 最後の一日となる。おもいっきり楽しむつもり。
夕方はほとんどいつもうちで食べて、シャワーのあと民宿に送っている。
明日の出発の時間なども考えて、本日は自宅に泊まってもらった方がみんなのためではないか、ということになったので、朝のうち民宿の清算を終わらせた。一日分は泊まらないのに払うことにはなったが、民宿のおばさんの方が申しわけないと言って、洗濯機をレンタルした費用は精算されなかった。「子どもたちもみんないい子たちで、親切な従兄一家だったね」と言われた。

 家財道具一式を持って自宅に戻ったあと、荷物を家に残して、ピクニック用品に取り替え、一路ジルッサンへ。
 ジルッサンの朝市で、おいしい物を沢山買って、川のほとりでピクニックをした。
午後は、文化財に指定されている蒸気機関車に乗った。子どもたちも大喜びだ。
 機関車の終点は植物園。広大な植物園で、珍しい植物のほかに、「あ、これ、フランスでも咲くんだねえ」と従兄の奥さんが日本名を教えてくれたはながたくさんあった。

 ジルッサンという町は、陶磁器が盛んなところで、市が運営している博物館では、販売展示を行なっている。当時のテーマは、「食」に関する陶磁器だったので、台所用品や、食器などが沢山出ていた。
 従兄たちとは日本に帰った時に《美山の釜元市》で会った。わたしの両親がそこの市に例年どおり参加していたので、両親とともに、わたしの子どもたちとJPと出掛けた。その年、父と母にとって最後の市になってしまった。従兄たちは毎年ちょうど結婚記念日にあたることもあって、その釜元市で陶磁器を買うことに決めているぐらい、焼き物が大好きだ。従兄の奥さんが、いくつか焼き物を買っていた。なかなかよい趣味だった。わたしは従兄のお母さんのために、焼き物のフクロウを買った。

 早めに帰宅して、明るいうちにテラスで食事をした。今晩はいよいよスーツケースを整理しなければならない。でも、夕食のあと、大人たちはおしゃべりが弾み、男どもは食後のコニャックまで出して、ずいぶんにぎやかになった。
 子どもたちはほとんど雑魚寝状態ながらも、ノエミとゾエの部屋に寝て、従兄夫婦は。できたてのサロンに、荷物の山に埋もれるようにして夜を過ごした。
「ほんとうに、明日の朝までにスーツケースの準備ができるのかな?」と心配した。

もうちょっと続く

2006/08/12

地中海へ

 《か》さんたちには申し分けなかったが、リムジンバスに自宅前まで来てもらって、空港までわたし抜きで行ってもらうことになった。リムジンバスと言っても、個人タクシーみたいなもので、ほかに乗り合いの人がいなければ、一人で90ユーロも払うことになる。

 《か》さんにはこの日は電車でトゥールーズまで、そこからタクシーで空港まで行ってもらうことになっていたので、従兄たちをナルボンヌの義父母の家に案内することは、ずっと前から決めていた。義父母の家にはパリから帰郷している弟たちも揃っていて、お昼ご飯を一緒に食べることになっている。

 従兄たちと一緒にトゥールーズ経由で《か》さんを空港まで送るというてもあったのだが、ものすごい遠回りになるのと、遠回りするのに高速で行くから、3日間放ったらかしにした従兄たちに、何も観光させてあげられないことになる。ひとりで電車で行くのは不安という《か》さんに頼み込んで、わたし抜きで空港に行ってもらった。ちょっと心残りなお別れ。

 朝《か》さんを自宅前で送り出してすぐに、従兄一家を民宿へ迎えに行った。みんなは朝早くにもかかわらず準備万端、玄関前で待っていた。 

 高速は使いたくない。小さな山路や、村や商店街を抜け、写真撮影のための休憩もしながらゆっくり行きたい。子どもたちもおトイレや、おやつ休憩が必要だ。車の中で従兄の奥さんとたくさんおしゃべりできた。ゾエは後ろの席で、お兄ちゃんと仲良く遊んでいる。

 ナルボンヌには11時ごろ到着。久しぶりの感動的な再会(義父母と従兄は、11年前のわたしの結婚披露宴で会っている)のあと、義父母の家でアペリティフ。そのあと近くのレストランのテラスでお食事をすることになった。子どもたちには大型の遊具のある、とても広い松林をテラスにしたレストランだった。

 食後、従兄の念願だった地中海を見るために、海岸へ向かう。風が強く、水は冷たかったが、みんな大喜びだった。びしょ濡れになって水に入っている。指宿の者には、長い間海を見れないということはとても淋しいものだ。そして、海の向こうに大隅半島のない、こんなに広い海を見るというのは、あこがれだ。これほど遠くまで来て、この海が指宿まで繋がっていると思うと感動する。
この海の水に脚を浸して、はしゃいでいる従兄の気持ちがよくわかった。

 夕方義父母宅に戻って、みんなはプールで泳いだ。風よけのカバーがついているプールなので、温水プールみたいに暖かい水だ。みんながはしゃいでいる間、わたしは昼寝をした。

 夕日とミディ運河を左手に見ながら、帰途につく。オレンジの光がどこまでもまっすぐ続く、プラタナスの並木道に見え隠れする。夏休みの終わりが近づいている。
 夕食は、出発前に支度してあったカレーライス。子どもも大人も大喜び。日本の食事がもう恋しくなっているらしい。わたしの《カレーもどき》にも歓声が上がる。

 こーんなにいい日はないというぐらい、楽しい一日であった。 つづく

2006/08/11

アヴィニョンの橋で行き詰まり、アルルで座り込んだ女

 夕べから、もうお金が一銭もない。JPがお小遣いをくれていたのだが、食事・いろんな場所の入場料・メリーゴーランドのエサ代・食事代・ガソリン代・高速道路・コーヒーやトイレ使用料など、財布に穴が開いてるようだ。「ずっと運転するのはみのりさんだから」と、《か》さんが本当にずいぶん加勢をしてくれた。ホテル代も出していただいたし、高速道路でもずっとカードを手渡してくれた。でも家を一歩出ると、お金が出て行くものなんだなあ。家でじっとしていて、ただ寝て暮らし、息をしているだけでも、電気代やら水道代も出て行くのだから、《観光》なんかしようと思ったら、何ヶ月も前からお金を貯めて、予定を立てていなければならなかったのだ。

 従兄が実家の母に《餞別》を預かってきてくれた。母が汗水たらして働き、貯めたお金が祝儀袋に入っていた。母は《従兄》にも餞別をあげていて、2人分できっと母の一ヶ月の給料全部ぐらい出したのではないだろうか。

 もしものためにと、JPがくれたお小遣いのほかにその《円》を持って来ていた。悩んだ末に、アヴィヨンで少しユーロに換えた。アヴョンはフランスだから、スペインに行った時のように珍しい物はない。ただ、こーんな遠くまで来た以上は見ずには帰れない場所というものはある。世界中から人が集まる街。見どころはいっぱい、博物館もたくさんある。商店街はカーモーとは比較にならない派手さだが、物を買う余裕はない。

 たくさん歩いた。法王の宮殿はものすごく広くて、石の階段や、細い廊下が迷路のようだ。日本語の解説テープもあったが、ゾエがそれで遊んでいたので、私は解説は聞かずに、書いてある表示を読んだり、ただ見るだけだったが、タイルや建築が素晴らしく、高い入場料を払っても中に入って本当によかった。

 街を一周し《アヴィニョンの橋》に行った。橋の上を渡ることもできた。(有料)
 「橋のー上でー踊るよ、おーどるよ。橋のー上でー輪になって踊ろー」という歌詞は、フランス語もまったく同じ。子どもみんな好きな歌だ。でも《ゆ》ちゃんも《か》さんも知らないというのでびっくりした。私は子どものころからこの歌を知っていた。ピアノを習っていた時に《メトードローズ》という本を使っていて、実はそれがフランスの本だったというのを近年知った。その本で習った曲は今でもよく覚えているのだが、実はその中にフランスの童謡がたくさんあったらしい。そーんな昔から、フランスの音楽とは知らずに学んでいたとは奇遇だ。

 本物のアヴィニョンの橋というのは、途中で切れている。ぷっつり見事に切れている。上で踊るようなスペースはあまりないし、石畳でコケそうになる、とっても危ない橋だ。
ゾエも「えー、これがアヴィニョンの橋?」と驚いていた。

 お昼はサンドイッチで済ませることにして、一気にアルルへ向かうことになった。換金したのでガソリンも入れることができた。本当はアヴィニョンは10時ごろに出て、アルルには午後ちょっと行くだけにしたかったのだが、《か》さんはアルルをとても楽しみにしていた。

 アルルに着いた時には、ゾエが寝ていて、《か》さんたちには「わたしも車で昼寝するから遊んでおいで」と言って行かせた。みんなは車の中でサンドイッチを食べたけど、私は昼食もとらずに運転していたので、不機嫌だったせいもある。狭くて蒸し暑い車内でサンドイッチを食べていたら、ゾエが目を覚ました。

 ローマ時代から建っている円形競技場車のそばに車を止めていたのだが、そこから機関車の形をした観光バスが出ることになっていて、30分のコースがあるというので、それに飛び乗った。《か》さんに電話して30分後に車の前で待ち合わせた。

 アルルの名所を30分、歩くこともなく、子どもは大喜びで見て廻ることができて、本当によかった。アヴィニョンに比べたら寂れていて、建物は改修されておらず小さい町だが、なんといっても、いまだに昔ながらの闘牛が行なわれているような、石づくりの円形競技場をアップで見たのは感動的だった。私とゾエは中に入る時間はなかった。約束だったアイスを食べさせた。

 カーモーまで高速道路を使って5時間以上掛かった。トゥールーズ辺りで、《ゆ》ちゃんが喋り始め、カーモーまで約1時間ずっと東京の小学校のことを話してくれたでの居眠りしなかった。

 この3日で一応920.81km走ったことになっているが、道に迷ったり、駐車場やガソリンスタンド、スーパーや高速の入り口を探して行ったり来たりしたこともあったので、軽く1000キロは走っていただろう。

 従兄たちは《か》さんに最後のお別れを言うために待っていてくれた。義従姉が夕飯を作っていてくれた。甘い卵焼きがおいしかったあああ。

    無事到着にてめでたし。

2006/08/10

アヴィニョンの橋で踊る、アルルの女

 午前中は、スーパー開店と同時に突進して、スペインの日用品を見て歩いた。私はスペイン産のワインとフラメンコのCDと、土鍋を買った。《か》さんもスペインのお茶などを大量に買っていた。そのあとジローナの町でまだ見ていない東側の観光。《か》さんは観光土産のお店を見たいと言った。そしてちょうどお昼ごろ別なスーパーへ、昼食用の買い出し。
 高速の入り口はわかったのだが、方向を間違えてしまった。結局太陽の方角と、線路の位置などで、わたしたちはフランス国境から離れつつあることを確信した。Uターン、そしてまた自信をなくしてUターン。その辺りでUターンの連続、つまり3回ぐらいOの字を書いて、ガソリンスタンドに到着。おばさんが身振り手振りで、フランス国境への入り口を教えてくれた。

 本日は、アヴィニョンに泊まる予定。夕方暗くなってからようやくたどり着いた。ジローナからアヴィニョンまでは距離にして340キロぐらい。途中渋滞などもあったので、ずいぶん遅くなってしまった。アヴィニョンは観光客で溢れていた。シテ内には駐車する場所がなくて、ホテルで《か》さんたちを降ろしたあと、はるか彼方の郊外にやっと車を止め、私とゾエはまたしてもひたすら歩いた。ぜーぜー
 携帯で連絡を取り合って、レストランが軒を連ねている地区で待ち合わせることができた。

 《か》さんのお誕生日なので、私がごちそうすることにした。でもちゃんとしたフランス料理を食べさせようと思ったら、3時間も4時間も掛かりそうだったので、《か》さんもその辺の空いている所でいいよ、と言ってくれたので、手頃なテラスに腰をおろした。

 ゾエがメリーゴーランドに乗りたいと言っている。きらびやかにライトアップされた夜のメリーゴーランド。《か》さんは「明日また遠くに行くんだから、早く帰って寝よう」と言い、《ゆ》ちゃんには夜遊びを許さなかった。もう10時ごろなので、そりゃあ当然だ。でもわたしは、ひたすら振り回されているこの小さな我が子が不憫で、「じゃ、食べ終わってからね」と約束してしまっていたのだ。《ゆ》ちゃんには気の毒、《か》さんには申し分けなかったが、「ちょっと車に忘れ物をしてしまって」とかなんとか言い、ホテルには別々に戻ることにしてもらって、2人の姿が見えなくなってから、ゾエをメリーゴーランドに乗せてあげた。

 今晩は一部屋に4人で泊まることができなかったので、2人部屋を2つとってあった。ゾエはママンと2人だけで、しかもゆっくりホテルのお風呂に入れると言ってとても喜んでいた。

 ゾエのお風呂を溜めている間に自宅に電話したが、10時半を過ぎているというのに誰も出ない。
11時過ぎに掛け直すと、JPが「従兄が気の毒だったので、昨日はフランス料理のレストランに連れて行き、今日はうちでいっしょに食事して、さっき車に5人乗せて民宿まで送ってきたところ」と言った。5人乗りの車に6人乗せたとは。JPがそーんな法律違反のできる男だとは思っていなかったので、ちょっとびくりしたが、従兄の面倒をちゃんと見てくれたようなのでほっとした。

 ゾエと2人で、お風呂に2時間ぐらい入っていた。今晩は部屋が別々で、これまでのように行かないので、夜中となりの部屋の《か》さんから電話が掛かってきて、明日とあさっての打ち合わせを電話で行なった。

 あさって《か》さんたちはパリへ向かうのだが、トゥールーズの空港までどうやって行ってもらうか。。。ちょっと問題になっている。明日はアルルへ向かう。ホテルに着く手前で要ガソリン補給のランプが点滅して、ものすごいアラーム音が響き渡った。翌日ガソリンスタンドまでたどり着けるのか。。。不安。。。    続く

2006/08/09

スペインへ

 さあ、スペインに向けて出発だ。
パリまで《か》さんを迎えに行くのは経済的にも肉体的にも、時間的なことやいろんなことを考えて、とても難しいことだった。それでパリでは乗り換えるだけにして、一気にトゥールーズまで来ていただいた。子連れでさぞ大変なことだったろう

 でも、せっかく日本から来るのに、パリも見ないフランスの旅なんて。。。パリに行けないならスペインかイタリアか、どこか行きたいなー、ということだったので、最初はイタリア方面を予定し、あとで変更してスペインへとなった。こうやって書くと簡単にそうなったみたいだが、いっやあー「ジローナに行く」ことが決まるまでには、なにかと大変なことがいっぱいあった。車、飛行機、電車で行ける場所を比較、ホテルを比較、見る場所の内容を比較などなど、パソコンと電話の前で大忙しだった。「予定立てるのはお任せ」ということだったのに、予定を立てるとクレームがついた。その代わり、「お任せ」ではない《か》さんも参加しての予定づくりとなって、とてもよいことだった。《か》さん慣れないながらも自分でどうにかやって東京に居ながらにしてスペインのホテルを予約、支払いまでしていた。えらいッ!

 とにかく、わたしが運転手とガイドをやるなら、ホテル代も交通費も出すと言ってくれてるし、従兄は勝手にやってくれるというので、スペインまで行ってしまうことにした。
カーモーからトゥールーズに向けて高速に乗り、途中カルカッソンヌのお城を見に行った。カーモーから約180キロ、2時間ぐらいの所で、二重の城壁に取り囲まれた中世のお城がある。

 まずここは駐車場を探すのでひと苦労した。《か》さんたちをお城の前で降ろして、お城からはるか遠い場所にやっと駐車場を探した。はるか遠いので、ゾエを連れてたいへんだった。
 お城はものすごい人で、ゾエを歩かせると、人に紛れて子どもが窒息しそうになる。わたしも背が低いので窒息しそうだ。《か》さんたちはお土産物屋さんなども見たいということだったので、またもやガイドにはあるまじきことだったが「勝手に行ってちょうだい」と言って、待ち合わせ場所を決めて、わたしとゾエはメリーゴーランドの所で待つことにした。昼間らこんなに疲れていて、スペインまでたどり着けるのか、すごく不安だった。

 そこからいよいよスペイン国境に向けて、再出発した。さらに一時間半ぐらいで国境を越えた。《国境》と言っても何もない。高速の料金所よりも簡単で、パスポートも見せなかった。ちょっとがっかりした。ピレネー山脈の山間に入って行くので、カーモーやトゥールーズとは風景がまったく違う。国境に入る直前、フランスの最後の町ペルピニャンに掛かる頃に、地中海がちょっとだけ見えていた。

 《フランス最後の休憩所、次の出口はスペイン》という標識が見えたので、そこでトイレに行くことにした。実はその標識が見えるしばらく前に、車に装備されているコンピュータ仕掛けの表示盤が、なにやら怪しげなランプを点滅していたのだ。「今すぐ整備をしてください」とのこと。レンタカーなので整備は整っている、はずなのに。《か》さんには心配させたくなかったので、一人不安で走り続けた。このまま夜になってからスペインについて、故障だったら大変だ。休憩所の人に話して、そのあとレンタカーの事務所に電話をした。《整備》というのは《定期検診の時期ですよ》という合図だった。急ぎじゃないらしい。レンタカー屋さんの言葉を信じて、そのまま続けることにした。
 ほかのみんなはトイレもすませ、おやつを買ったり、飲み物を飲んだりしていた。自動販売機のまずいコーヒーを一気飲みした。

 国境のそばだからフランス語が通じると思ったのに、ホテルの受付嬢以外は、フランス語がまったく通じなかった。でも、お金はフランスと同じユーロが使えるからたいへん便利。こんな風に自分で車を運転して国境を越えたのは初めてだったので、わくわくしたが、町の全体の雰囲気や、商店で売られているものは、南フランスとあまり変わらないので、ちょっと残念だった。やはりバルセロナ辺りまで行かねばだめだったか。。。

 ジローナという町には古いユダヤ人街があって、ユダヤ人の歴史に関する博物館があったのだが、それはゾエが疲れていたので、友達だけ行かせてわたしたちは外で待った。そのかわりカテドラル(大聖堂)には入った。11世紀から建設の始まったローマ建築のカテドラルは巨大で、12世紀に織られた国宝のタペストリーを見た。

 ユダヤ人街の細い路地で、レストランに入った。パエリヤを食べたのだが量がありすぎて食べ切れなかった。パエリヤはおいしかった。でもゾエが頼んだパスタはまずくて食べられなかった。パスタはやっぱりイタリアか。

三ツ星のわりに寝心地は悪く。やれやれ続く

 

2006/08/08

予定が狂う

 友達と従兄が来ることになってから「着いてからのことは任せる」と言われたので、はりきって予定を立てた。「今晩の夕食は何がいい?」と訊ねて「なんでも。。。」の返事が一番困るのと同じで、主張がない人の「なんでも」に応えるのは本当に大変だ。

 ただ、現地の事情を知らない人たちに「何が見たい?」と訊いたって「そこにはエッフェル塔は、ないよね?」などと言われるのが関の山なので、一応うちから半径100キロぐらいで一体何ができるのかを考えることから始めた。

 8月7日と8日は、とくに頭が痛かった。とりあえず、モーガンの車と、JPの助けと従兄一家の根性で、7日の夜中に無事カーモーの民宿に送り届けたので、第一のハードルは越えた。
 第2の8日は本当はミニバスを借りて、ジルッサンという町まで行き、そこから蒸気機関車で植物園に行ったあと、陶芸美術館を訪問する予定だった。でもミニバスは借りれず。わたしがうちの車で2往復して近場に行く案も考えたが、従兄の一家5人は疲れているので、お昼までそうっとしておくことにした。遠くまで行かずとも。
 民宿は《ラ・ファーゲット》というカーモー市内から北に車で5分の田舎にある。2往復して、お昼前に従兄たちを自宅に連れて来た。

 《ゆ》ちゃんと《か》さんは犬が苦手でボボが恐いので、テラスで食事したり、いっしょに犬の散歩をしたりすることができずにいたのだが、従兄の一家はみんな犬好きで、ボボとよく遊んでくれた。お昼はよそではなく《ダニエル家の庭》と呼んでいる《ジャン・ジョレス公園》でピクニックをしましょう、ということにした。手分けして食べる物を運び、ボボまで連れて、公園でピクニックをした。誰も来ない広い公園なので、みんな喜んでくれた。

 そのあと、歩いてカーモーの町を案内した。実は明日から3日間、わたしは《か》さんと県外へ行く。それでせっかく私に会いに来てくれた従兄には申し分けないのだが、3日間自分たちだけで生き延びてもらわなければならない。駅を見せ、バス停まで案内した。時刻表と地図を渡して、「悪いけど、どうにかやってよね」本当に悪い従妹だ。従兄は「電車もバスも好きだから、どうにかなるよー」と言い、けっこう心強いお父さんしてる。昔から口は達者な人であった。うちの家系の《知識人》でならした彼であったので、地図ぐらい読めるんだろう。英語も大丈夫そう?たしかに数学は強い、先生もやってたしね。ユーロのお買い物は大丈夫だろう。

 夕方、明日からの《か》さんとの県外旅行のために、やっと借りれたレンタカーを取りに行く。
JPにクレジット・カードを提出してもらう。すまないねえ。レンタカー屋さんには従兄が着いてきて、面白がっている。レンタカー屋さんに行く途中でJPが道を迷ったので、アルビの観光ルート以外の場所も通れた。帰りはレンタカーを運転しているわたしと来たので、遠回りをして、高速は使わずに田舎道を走った。車の中で従兄とたくさん話をした。
 
 従兄は今は、起業を考えている人たちを助ける仕事をしている。実はわたしだって、曲がりなりにもSOHOしている若き起業家であるからして、専門家のお話がただで聞けて、たいへんお勉強になった。そして、人とのつながりを大切にしようとか、いろんなことに関心を持って、自分を信じていこうとか。。。従兄がそういうことを言って、将来の起業家たちを励ましているという話を聞き自分がこれまで心がけてきたことが間違っていなかったんだと思えた。

 従兄のブログは《漂い人》というタイトルがついている。カーモーまで漂ってきちゃったお人。
フランス出発直前まで東京や広島を歩いていたらしい。ストップオーバーの韓国でも冒険してきている。ずっと調子よく喋っていたのに、ふっと声が聴こえなくなったと思ったら、グーグー寝ていた。あまりの突然さに、心臓発作かと思ったが、寝息が聴こえていたので安心した。忙しい人は、こうやって眠りにつくのもうまいんだろうか。やっぱり疲れていたんだろうなあ。
 「着きましたよー」というのが申し分けなかった。

 《か》さんと従兄のおくさんの《の》お姉さんは、すっかり意気投合している。農場から届けられた野菜も、ちゃんと受け取ってくれていた。子どもたちも和気あいあい、ボボもうれしそう。テラスでボボも揃って、テーブル二つでにぎやかな食事をした。暗くなり始めていたが今後連れて行けないかもしれないので、カーモーが誇るキャップデクベート(炭坑あとの穴)へ。
 「明日は満月だね」という、大きなほぼ丸い月がどーんと華やかに出ていた。

 騒がしく落ちつかないけど、にぎやかでとってもいい感じ。

 明日から3日間従兄たちとは別行動。
申しわけないけど、こっちもけっこう楽しみ。へへへ
                     まだまだ続く

2006/08/07

いよいよ、従兄たちが到着

 午前中、コルドへ。Corde sur ciel 《空の上のコルド》と呼ばれる町で、山の上に栄えた中世の建物が残る美しい町だ。その町に行くには、地上の有料駐車場に車を置いて、30分ばかり、急な坂道を歩いて上らなければならない。駐車料金はよそよりも高く、山の上の町のお土産屋さんでは、葉書が地上よりも30サンチーム・ユーロほど高い。土産物は高価なものばかりで、レストランもとってもシックだ。
 清水寺に向かう、あの雰囲気を味わえる。またしても、ぜーぜー

 風が強く、テラスには蜂が群れていたので、レストランの中で食べたいと頼んだのに、「働く人の便宜を考えて、他の人といっしょにテラスで食べてください」と言われた。フランスではこういうことが多い。でも客が多くてサービスは遅く、テラスには蜂がいて、子どもたちが騒ぐから余計に蜂が集まってきた模様。《か》さんはむっとしていた。ゾエは眠い時にお昼寝ができず、歩き回ってばかり居る今日この頃。ご機嫌をとり、おんぶしてやり、エサ(おかしやお土産屋の小物など)を与えてどうにか移動している。けれども、わたくしもそろそろ体力と気力の限界。《か》さんには町と博物館、土産物屋を勝手に歩いてきてよと薄情なことを言って、わたしたちは道ばたに座り込んだ。

 午後は、従兄たちが泊まる民宿へ、部屋のカギを取りに行き、自然派化粧品を買いたいという《か》さんを、自然派雑貨のお店に連れて行った。店長さんを貸し切りして、時間を掛けて化粧品を選んだ《か》さんは、ご機嫌になってきた。(そしてゾエは不機嫌である)
 そのあとすぐ隣のフランス雑貨のお店へ。一周するのにとんでもない時間が掛かったが、日本からのお客様は、フランスのおしゃれな雑貨が見られて喜んでいた。《か》さんはお皿を買うという、冒険に走った。本当に大丈夫なんだろうか。
 「今晩従兄が来るので、6時までにはうちに帰りたいんですけど。。。」と言ってみたのだが、もう一軒スーパーを廻りたいという意見が出て、帰り道のスーパーにご案内。当然6時までに帰宅できなかった。

 うちに着くとJPが「19時55分発のトゥールーズ行きに乗らないと、従兄の電車に間に合わないよ」と言って焦っている。わたしは10分で家族の食事の支度をしてから、そのまま出掛けることに。実は従兄は家族5人で来るので、うちの5人乗りの車では迎えに行けない。ミニバスは借りれなかった。タクシーは高くつく。(往復150-180ユーロ)そこで、わたしがアルビに車を置いて電車でトゥールーズに行き、従兄を迎えてのち、最終電車でアルビまで揃って戻って来る。JPがモーガンの車を借りてアルビで待つ、という計画を立てた。スーパーでうろうろしていたので、モーガンの家まで車を取りに行く時間がなくなってしまった。JPはモーガンの車を歩いて取りに行かなければならず、申しわけないことだった。

 残す家族とお客樣方の夕食を用意して、猛スピードでアルビに向かったが、2分遅れてしまった。もう電車は出た時間だったが、フランスの電車は時間どおりに来ることはないので、本日も遅れているかも。駅に走り込んだら、やっぱり遅れていて、ちゃんと切符を買って乗ることができた。駅員さんに「あなた、ついてますね」と言われた。そうなんだあ。

 トゥールーズ駅には21時ごろ到着。でも従兄の電車は22時22分に着く。従兄たちの家族のために、アルビまでの片道切符を買う。わたしの後ろで《本日の窓口での切符販売は終了》という札が出た。ぎりぎりセーフだった。ついてる。
 マクドで寂しい食事をして一休みしたあと、駅前のパン屋さんで、従兄たちの朝食用のクロワッサンとジュースを買った。民宿で朝食は出る予定だが、食べ盛りの子どもたちに足りなかったらかわいそうなので。都会の大きな駅前の風景を、一人で見るのはとっても寂しかった。

 従兄たちは時間より2分ぐらい早く着いた。(確かについてる)一日の疲れが溜まった顔には、化粧ものってないし、、、ああ恥ずかしい。乗り場を換えて、今度はアルビへ。子どもたちも長い旅で、さぞ疲れていることだろう。わたしも。駅の物音や、ちょっとした緊張に包まれて、たどたどしいおしゃべりが始まった。

 アルビ到着は23時59分。JPが待っていた。そこから更に民宿まで20分。昼間にもらっておいたカギで勝手に入った。小さな部屋で申し分けなかった。そのあとモーガンのうちに車を返しに行き、ポストにカギを放り投げて、JPといっしょに暗い家に戻ってきた。JPは明日仕事だからさっさとベッドに入った。わたしはまだごそごそ動く。

 もう《明日》になっているので、このままいっきに続く。。。
 

2006/08/06

中世のお祭り

 日曜日でJPもいるので、《か》さんたちをちょっと遠くに案内しようと考えた。
カルモーから車で約45分、マザメという町の山の上、オットプールという小さい町に『木とおもちゃの博物館』がある。

 博物館の半分は森林の利用、保護の仕方、切り出された木がどのような手順で製品になるか、森の植物や動物の展示など、触れたり、音を聞いたりできる面白い博物館だ。たまに学校の遠足バスなども見かける。
 あとの半分は古いおもちゃ、現代のおもちゃのコレクションで、中心となっているのは木、紙、布で作ったおもちゃ。親子で楽しめる。

 この博物館の二つのコーナーを繋いでいるのは、巨大木製滑り台だ。
実は2003年に、この滑り台をやって、着地失敗して、左足首を骨折した、苦い経験を持つわたし。『か』さんが心配する中、《ゆ》ちゃんとゾエは滑り台を楽しんだ。
そのあと、一階に戻って来ると、おとなと子どもが一緒に楽しめる大型の木製遊具が並ぶ。
30種類ぐらいの木のおもちゃで、親子揃って楽しめる。ここに来ると子どもたちよりもお父さんたちが楽しんでいるシーンをよく見かける。

 午後、ちょっと山の上の町に行ってみようか?と話していたら、博物館の駐車場を、美しい衣装に身を包んだ、中世のお姫様のような人が、ドレスを風になびかせながら、幽霊のように草むらのほうに去って行った。

 山の上の町に続く道路を進んで行くと、路上駐車の車が増えてきた。
「何かやってるみたいだね」とJPがつぶやいた時に、『ここから先は進めません』という看板が見えた。山の上から音楽が聴こえている。《か》さんが「えー、あーんな所まで登るの?」と言って目を丸くしている。わたしはJPといっしょに出歩くと「あーんな所」まで歩かされるのには慣れているので、またか、やれやれと思った。

 ちょっと歩いて行くと、何かを待っているような人の塊にぶつかった。《中世の騎士》の服を来た人が、交通整理をしている。そこへ《中世の農民》が小型バスを運転して、山路を降りてきた。完全に超過状態で、小型バスに詰め込まれた《現代一般市民》のわたしたちが、地上はるか彼方の《中世の町》に到着した。そこでは《中世の乳母》と、《中世の踊り子》たちが、チケット販売と、チケット切りをやっていて、わたしたちは《中世の門》通貨券をもらった。
 すぐ後ろの人が「はい、あなたは無料です」と言われているのに敏感に反応したJPが「無料になるには、どんな資格があるんですか?」と訊ねた。「中世の衣装で仮装してたら、ただです」と言われているので、後ろを見たら、そこにはイモ袋を切って、腰にロープを巻いた《中世のみなしご》ふうの子どもが、《中世の金持ち》ふうの母親に連れられて立っていた。父親は、木で作った騎士の剣を腰に差している。

 さて、《中世の町》では、手かせ足かせをつけられた魔女が、首切り男に連れられて、町を練歩いたり、ロバの背中にまたがった農民や、鉄かぶとにじゃらじゃら鎖をつけ、鉄の剣を振り回しながら闊歩する戦士たちが、そこら中を歩き回っている。その辺で拳闘を始める戦士たちも居る。
 鉄の剣と鉄製の盾がぶつかる音や、物売りの声が響く。石畳の路上で革製品づくりの屋台や、鍛冶屋、パン屋が出店している。町の一番上まで来た時に、ロバ飼いにぶち当たり、ゾエがロバに乗ると言ってきかないので、乗せたはよかったのだが、ロバ隊は町の玄関口まで降りたあと、今度は入れ替わりでそこから別な人を乗せると言われた。わたしはまたゾエを連れて、町の上の方で待つJPたちの所へ戻らねばならなかった。ぜーぜー
 《ゆ》ちゃんは革製品工場で、手作りの革のバッグを作った。なかなかのできだった。
子どもたちはその他、木やヒモで作られた遊具で遊んだ。
 
 いよいよメインイベントである、パレード。
衣装を着て、町に集まった人たち全員が、中世の時代の楽器だけを使った楽隊の音楽に乗って、町を行進する。お姫様と王子様も黒い馬に乗って登場。かっこよかった。なんといっても中世のままに残っている町並みにとてもよく似合っていて、来年のお祭りには必ず中世の衣装で来るゾーと思った。(でも中世のこの町にアジア人なんて居なかっただろうから、ちょっとへんかな?)

 帰りは地上に向かうバスを待つ人々で溢れていたので、先ほど《中世の姫君》が歩いていた山路を、自力で降りることにした。と、いうか、か弱い女性たちの意見を待たずに、マッチョなJPが勝手にそう決めて、路をどんどん降り始めた。その山道はけっこう危なく、こんなつもりではなかったためにサンダルで来ていた《か》さんが、おそるおそる時間を掛けて降りて来る。申し分けなかった。

 でも、けっこう楽しかった?いちおうめでたしで、明日へと続く。

2006/08/05

ビストさんのお城へ

 午前中、《か》さんたちを郵便局や、近所の商店街に連れて行った。
肉屋などは日本人にはたいへん面白い場所ではないかと思ったので寄ってみた。
フランスの肉屋は切り身ではなくて、どーんと大きい塊で売られている。目の前で切ってもらう。
《ゆ》ちゃんが豚足や、ぶら下がっているドライソーセージを見てびっくりしている。
鴨のパテ、フォアグラ、各種ソーセージ、生ハム、巨大ステーキなど食べてみないかなあ、と思って勧めたが、2人とも苦手そうだ。ちょっとでも食べてみたら、鴨のパテなどは子どもに受けると思ったのだが、残念。フランスの子どもたちはドライソーセージが大好きだ。

 せっかく日本から来てもらって、私の日本料理もどきを披露することになろうとは、もったいないことだ。鶏肉だったら。。。というので唐揚げにしよう。でも鶏肉はいつもいつも好きな時に手に入るお肉ではない。仕方ないから《か》さんには内緒で、七面鳥のお肉にした。唐揚げにすればバレるまい。ほほ

お昼、キャップデクベートでピクニックをしてから、午後はアルビの中心街とガヤック郊外のビストさんのお城に行くことにした。

 アルビの街は観光客で溢れていた。2人がトゥールーズ・ロートレックの美術館を歩いているうちに、わたしたちは友人が経営しているジュエリーショップに、梨をもらいに行った。JPがジャムかアイスクリームを作る予定。
ジュエリーショップにも連れて行きたかったのだが、《か》さんは装飾品には興味なさそうなので、行ってもしょうがなかった。

 そのあとはビストさんのお城。
http://www.bistes.com/
ビストさんは60代ぐらいの画家で、30年ぐらい前から中世のお城を改装して暮らしている。夏の二ヶ月間はお城を開放している。

 庭園で結婚式のガーデンパーティーの準備が行なわれていた。
ビストさんのサイトを日本語にしたことがあるご縁で、このお城のことを知った。
誰かが来ると連れて行くので、ひと夏に2、3度行くようなこともあって、もうすでに10回以上は行っている。お城の隅々までよく知っているので、そのうち日本人旅行者が増えたら専属ガイドだってできる。(ので、みなさん来てください)
数年前よりも観光客が増えているようだし、ビストさんの絵も売れ始めているようだ。お城の至る所にビストさんの絵が掛かっていて、気に入ったら買うこともできるが、私には手が届かない。ビストさんの小さめの絵を一枚買うお金で、親子三人日本に里帰りができる。コピーをもらったので、家にはそれを飾っている。ビストさんはいつも「俺が死んだらもっと値段が上がるから、今のうちに買いなさいよ」と言うけれども、そういうわけにもいかない。
 ビストさんの百合や菖蒲のお花の絵が好きだ。

 このお城は彼の絵を見ることができるだけではなくて、30年間改装を続けてきた、きれいな内装が素晴らしい。手描きの繊細な天井画や、だまし絵などが面白いお城だ。
《か》さんもとても喜んでいた。

                    めでたしで、明日へ続く。

2006/08/04

ノエミ出発

 せっかく《か》さんと《ゆ》ちゃんが着いたというのに、本日はノエミの出発だ。
ドードーニュDordogneという地方で、3週間の乗馬付きキャンプだ。
わたしったら、この数日間『超』忙しくて、そのキャンプ施設がどんな所なのか、写真も見ていないし、正確な場所も確認していない。JPが大丈夫だと言ったから大丈夫だろう。
それにしても3週間なんて長過ぎる。

 疲れ切ってる《か》さんたちには申し分けないが、そろそろ出掛けなくてはならない。
トゥールーズの駅で集合して、ほかの地方から来る子どもたちと合流しなければならないのだ。
集合時間に遅れて来る子、続出。ホームに行ってみると今度は電車が遅れて、そのうえ、到着のホームの番号変更となった。ゾロゾロと移動する。ノエミは自分よりも大きなスポーツバッグを用意したので、バッグが持てなくて私が持ってあげる。到着先ではいったい誰が持つんだろう。。。
3週間のうちに2回は洗濯できることになっていて、一週間分の服その他を詰めた。

 ノエミを送り出してから、レストランを探し歩き、食べるのに時間が掛かって、そのあとよく知らないトゥールーズの街を歩き回った。目当てのサン・セルナン大聖堂だと思って訪ねたのは、結局サンテティエン教会だった。ガイド失格。

 友達が『ロキシタン』という化粧メーカーを探していて、「そんなの知らないよ」と思っていたら、トゥールーズをさまよっているうちに店の前を通った。探さずに済んで助かった。
帰りは巨大スーパーに連れて行った。

 カーモーの水は大丈夫と言っても、歯磨きさえボトルの水を使っている2人。
姉たちが来た時も、水道の水を飲みたがらないのが不思議だったけど、海外に来て病気になったら。。。と思うものなんだろう。赤ちゃんでも水道の水を飲んでいる地域なんですけどねえ。

 《か》さんはお茶の匂いのするトイレットペーパーなるものと、楕円形の化粧落とし用コットンを珍しがってを買っていた。

 ゾエは、《ユ》ちゃんにもらったアポロチョコと、マーブルチョコと、チョコベビーのセットに酔いしれて、「まーぶるぶるぶる」の歌まで習っている。

面白い文化交流が始まった。

2006/08/03

ご到着

 待ちに待った日が来た。友達の《か》さんと娘さんの《ゆ》ちゃんが着く日。午前中にやっとサロンにテレビが入った。わたしたちの部屋を空けて、お客様用の寝室に仕立てた。わたしたちはサロンに寝るつもり。

 子どもたちが大喜びでビデオを見ている。実はアンテナが調子悪くて、テレビを見ることができないまま。一年半ぶりのテレビ。一番に何が見たいかと訊くと『キャッツ・アンド・ドッグス』という映画を選んでいた。この映画の主役のピーグル犬が《ボボ》みたいで、この映画はすごく好きだ。フランス語版は、人気スターが吹き替えをしていて、とっても面白い。

 夕方、子どもたちと3人で、トゥールーズのブラニャック空港へ向かった。お天気は涼しく、冷房付きでなくても、お客さんをカーモーまで連れて戻れそうだ。夜の8時ごろ着くというので、家を出る時に夕食用のサンドイッチを持った。

 空港の出発ロビーで、飛行機を眺めながらサンドイッチを食べた。
「置き去りの荷物は、直ちに処分されます」という放送が、何度も流れていた。
レンタカー屋の前には列ができていた。ここ数週間友達のためのレンタカーを探していて、車なんかもう数週間前から1台もないと言われたわたしなので、並んでいる人たちが気の毒だった。
ドイツやイタリアに向かう飛行機の受付ロビーで、大きなスーツケースを持っている人たちがうらやましかった。
到着して抱き合っている人たちを見て、涙が出そうだった。
出発前の待合室で、一人静かに空中を見つめながら、ぼんやりアイスクリームをなめているサラリーマン風の男性がいて、ゾエが物欲しそうに見ていた。その人の前を通り過ぎてから、「大人のくせに子どもみたいなアイスクリーム食べてた」と言った。

 友達がパリで乗り換えた飛行機は、20分ぐらい遅れて到着した。
ドキドキして待っていたわりに、すぐにわかった。
その日日本からトゥールーズまでの直行で到着した人は数人だけで、再会を果たして、ちょっと言葉を交わしたらすぐに、パリから乗った人たちとは異なる荷物の受取所へ流されていってしまった。
税関の検査で引っかかっていないかしらとか、出て来れるかしらと、心配した。

 自宅まで1時間ちょっと、トゥールーズの夕暮れをバックに、カーモーへ向かった。
到着するとすぐに、《か》さんはスーツケースの中から、溢れるほどのお土産を取り出した。
ご主人のご実家が沖縄なので、沖縄の物が沢山入っていて、もの珍しかった。
それから子どもの文房具や、服、お菓子など。。。。うれしい。
自分たちの持ち物はほんのちょっとだった。
《ユ》ちゃんが
「お父さんが声の吹き替えに参加してるの」
と言って、日本語版の『キャッツ・アンド・ドッグス』のDVDをくれた。
ほほお、奇遇。友達は今やほぼ空っぽとなったスーツケースに目を落としながら、
「たくさん買い物して帰るつもり」
と宣言した。

                           続く

2006/08/02

フィリップ・H

 曇り空、今朝の気温は25度ぐらい。
コートダジュールのニースという所では、38度などと言っている。恐ろしい。

 そろそろ日本からみなさんがやって来るので、我が家の女三人揃って美容院へ行った。

 ゾエも、ノエミも、わたしも、いまは髪をとっても短く切っている。
そして、私は短く切りすぎて、モーガンに『へん』と言われた。
JPにも『ふむ』と唸られた。
ダーリンがシルビーみたいなロングヘアー好みだということを、すっかり忘れていた。。。
でもこの年でロングヘアーなんて、やっぱりちょっと『へん』じゃないだろうか。

 行きつけの美容院はうちから2分、近いというだけで行くことにした『フィリップ・H』というお店で、はげ頭で、ビーチサンダルの、マンガとアニメが大好きなフィリップ・Hという名前の青年がやっているお店だ。この前も『日本語習って日本にサロンを開きたい』とか言っていたぐらいの日本マニアなので、わたしたちが行くと喜んでくれる。

 わたしたち三人の髪は、《日本人》のイメージぶちこわしの猫っ毛で、ひょろっと薄い。日本人の太くしっかりした黒髪を、見たことのある美容師さんや、そういううわさをきいていて「一度この手にしてみたい」と考えていたような人には、いつもがっかりされてしまう。
「ご主人は、あんなに光沢のある髪なのに。。。」

 「うちの母と姉たちは、黒々とした強い髪をしている。」といっても誰も信じてくれない。
私の髪の毛は父ゆずり。剥げてはないけど、短く切ったら透けてるタイプ。
 父が寝込んでいた時に、もうずっと外に行けなくて、この人の一生のうちでこんなに長い時間、海風に当っていないのは、あとにも先にもこんな時ぐらいだろうなあと思ったら不憫だった。

 それで、「ほら錦江湾の風だよー」と言って、おでこのあたりに息を吹きかけてやったら、ずいぶん短く切った髪の毛がふわふわ揺れていて、わたしの髪の毛みたいだなあ、とうれしくなった。
 父も目を細くして、気持ちよさそうに《錦江湾の風》に吹かれていた。面白くて、何度も何度も、それをやってあげた。「東シナ海だよー」とか「台風13号だよー」などと言って、そばに行っては、おでこに風を当ててあげた。

 わたし、34歳の誕生日から、いきなり白髪が生え始めた。白髪の増える早さを悩んでいるとその心労のせいでもっと白髪が増えた、ような気がする。恐ろしいぐらい生えた。JPまでもが「苦労掛けてるねえ」と言った。

 母は、私が中学生や高校生の時に、黒くて長い髪に椿油を塗って、きつく三つ編みにした髪を、おだんごに揺っていた。時間を掛けてブラッシングする姿を見るのが好きだった。この頃は短く切ってパーマをあてている。私が21歳で実家を出るころまで、多分白髪なんかなかったと思う。あの頃は両親はどちらも老眼鏡さえ掛けていなかった。両親に白髪が生えて、老眼鏡を買った日を、私は知らない。この前わたしが白髪頭で日本に帰ったから、みんなきっとびっくりしたに違いない。
 同級生の中には、独身の子がまだたくさんいる。みんなきれいにしていて、スマートで、髪をヨーロッパ人みたいな色に染めて、まつげにまでカールを掛けていた。肌はどこまでも白く、きめ細やかだ。わたしは20歳ぐらい歳とっている。(なのになぜか「変わんないねー」と言われた。)

 《フィリップ・H》がわたしに「そろそろ染めたら?」と訊いた。
 いや、染めるつもりはまったくない。もうちょっと待って、銀髪に染めたいとは、密かに思っているけど。参考までにフィリップ・Hが私の頭をどんな色に染めたいのか、訊いてみる。

 「赤」よどみなく応える。

白髪頭で里帰りするほうが、よっぽどマトモかなあ。

2006/07/30

いやらしいジェラシー

 昨日はJPの同僚で、仕事のパートナーであるシルビーの引っ越しだった。
シルビーは虫の博士で、うちの大黒柱(JP)と同額の給料をもらっているキャリアウーマンで、カッコいい。
しかも痩せてて、背が高くて、金髪だ。
(これはけっこうポイントが高い。)

 離婚することになったので、2人の子どもと一緒にアルビ近郊に引っ越して来ることになった。
 私は前からこの『できる女』には《できる》ということでかすかなジェラシーを抱いていたので、JPが引っ越しの加勢を頼まれて、ちょおっと不機嫌だった。JPには、『輝くように、よくできた女』などにはあまり近寄って欲しくないのだ。こっちの輝きのなさが浮き彫りになって、目移りしたら困るじゃあないの。ううう

 前にシルビーの一家と2回か3回食事したことがあって、そのたびに悪夢にうなされている。
しかも、実際にはシルビーはとっても控えめで優しい人なので、悪口にするネタがない。

 当日、ノエミが「ママン、私がパパについて行って、2人を見張っておくから」などと言ってついて行った。が、しかし、虫のことなら何でも知ってて、馬を持ってるシルビーが一番好きなのは、何を隠そうこのノエミだ。ノエミも『できる女』に弱い。シルビーの家には男の子が2人いて、ノエミはその子たちにも会いたいのだから、このスパイはあんまりあてにできない。

 前より近い所に引っ越してきて、そのうえ新しい家で男手がないとなると、JPはこれからたびたび「ちょっとうちに来て手伝ってえ」と言われるんじゃあないのかしらんと、不安に胸が震えていたら、引っ越しには前のご主人が、新しい彼女といっしょに加勢に来ていたらしい。棚を付けるのも、コンセントを繋ぐのも、前のご主人がやっていて、JPはただひたすらに冷蔵庫やら、洗濯機を運んで帰ってきたらしい。ちなみに、職場の人たちが大勢来ていて、JPだけが手伝いに行ったわけではなかった。ま、そうだろうね。

 私がまた悪夢を見たと暗い顔をしているので、JPが、励ますためにこんなことを言ってみる。
「でもね、シルビーはピュレはフレークで牛乳で膨らますやつだし、なんといってもクノールの粉スープなんだよ。」
だからなによ。クノールの粉スープなんか食べたことないくせに。
そりゃあ、私はピュレはジャガイモから、スープだって本物の野菜で作ってますよ。
でも、そーいうセリフはとっても危険な罠のような気がする。
「いい奥さんでいられるうちは、捨てないからさー」と言われているような気が、した。
そして
「家事に手間をかける妻こそ、いい妻である」と聞こえた。実は。
私だってキャリアウーマンをやって、バリバリ男性と同じように働いて、家事は手を抜きたいんです。はっきり言って。
 罠にはまって、家事しかできない主婦のまま歳をとり、『できない女』で一生を終わるのはとても悲しいなあ、と思ったりする。(家事が立派にできれば、それはそれで『できる女』なんだけど、何が悪いんだろ?)

 今日、モーガンに夕食に誘われて、そういう話をしたら、モーガンがバーベキューの肉をほお張りながら、
「みのりにもいいところがたくさんあるよ」と言ってくれたので、安心した。
持つべきは友である。友達を裏切らないように、期待に応えたいものだなあ。


 さて、ピッションさんから新しい本が届いた。
『嵐の中のアメランディアン』(日本語版 仮題)という本だ。
アメランディアンというのは、アメリカのインディアンのことで、ヨーロッパ人がアメリカ大陸荷足を踏み入れてから、どんどん迫害され、追われていった人々だ。
ずっと前に原作の原稿のコピーはもらっていたのだが、いよいよフランスで販売される本が出来上がった。ピションさんのおくさんが描いた表紙絵が美しい。早くこの本を翻訳できたらいいなあ、と思っている。私も、「仕事で忙しいからスープはクノールね」といちおう言えるように、がんばろう。

 でも、ブーイングは必至だから、スープは忙しくても野菜で作るだろう。
仕事ができて、そのうえ上手な野菜スープもできたら、例の『できる女』を越えられるかもしれない。
よし、とりあえず、がんばっていこー。

2006/07/29

レンタカーで悩む

 友達の娘さんは車に非常に弱くて、『快適な冷房付きを借りておいて』と頼まれたので、友達のためと、それから従兄たちが来たら10人家族になってしまうことも考えて、ミニバスの予約先を探している。

先日インターネットで予約して、『お客様番号』までもらって安心していたAVISのアルビの事務所が電話してきて、「インターネット予約されたようですが、ご予約のこの日、うちには車がないんですよねえ。どういうことなんでしょうかねえ」と言われた。

そんなことを言われても知らない。インターネット予約はあてにできないから電話しようと考えていた矢先で、「やっぱりそんなことか。。。」とがっかりしてしまった。

 雨のおかげで、数日前に比べると10度も低い。午前中は「寒い」なんて言っている。この調子だと、冷房のない車でも大丈夫かもしれない。わたしたちは冷房なんか使ったことがないので、なくてもいいんだけどなあ。。。でも車はボロだからねえ。。。

 レンタカーは受け取りの場所や、日付け、時間を買え、車種、値段を換え、電話や、実際に窓口を訊ねるなど、あらゆる手段を使ったのにもうぜんぜん取れない。

 友達からはスペインとアルルのホテルの予約も頼まれているけど、そっちは日本で友達にやってもらうことにした。運転とガイドは私で、ホテルと交通費は出すって言うことだったので、ホテルの予約もお願いした。でも一日中レンタカーのことで悩んでいて、電話やメールに振り回されていて、けっこう疲れてきた。

大丈夫なんだろうか。

2006/07/28

観光案内

 もうすぐ日本から友達とその娘さん、そして、従兄が家族五人でやって来るので、準備で忙しい。友達はあちこち行きたい場所があって、わたしは連れて行きたいところがまた別にあったりもして、「到着まであと数日」となってからの、ホテルやレンタカーの予約、観光案内所への問い合わせなどなど。。。なかなか忙しい。

 連絡くれた早い者勝ちで、従兄の家族ではなく友達を家に泊めることになり、従兄一家には民宿を予約した。お金も使わせるし、不便だし、申しわけない。

ヒントブックスさんから、あかね書房の『こんにちは アグネス先生』の紹介を受ける。
ついでだったので、前から読みたいと思っていた 文研出版の
『ロボママ』 エミリー・スミス 著
『嵐の中のシリウス』 J・H ハーロウ 著
『魔女になんかなりたくない』 マリー・デプルシャン 著
も取り寄せてもらうことにした。
そのほかに
『バイリンガル教育の方法』という本をお願いした。子どもたちの言語習得に関して、少々悩んでいる。従兄たちも来るのに、うちの子どもたちとコミュニケーションが取れないのは、もったいないので、いまちょっと日本語会話を特訓している。

2006/07/27

い草で ものぐさ

 一年以上掛けて、サロン(居間)にする部屋をきれいにして来た。
この家は築100年以上で、外壁は80センチの厚さのある石の家だ。
玄関を入って真っ正面に1.5メートル掛ける7メートルほどの長ーい廊下がある。
一階には台所と物置が二つと居間にするスペース。
木のらせん階段を上がって、二階は全部木の床。
寝室が二つと風呂場と、事務所というか書斎というか、パソコンのある部屋。

 居間は、中庭に面していて、入居当時この中庭は一面のセメントでおおわれていた。
セメントを半分はがして、地面がむき出しの庭をもうけた。花壇を作ってトマトも植えた。
セメントの下の地面は湿っぽくて、この湿気は全部居間の壁を這い上り、湿っぽい居間になっていたのだ。家の湿気のせいで、ペンキの状態も、壁の状態も非常に悪い。湿っぽい匂いもあって、大変だった。

 100年も住み継がれた家では、ペンキは4回ぐらいは塗り替えられている。
古いペンキを落とすのに、臭くて強い化学薬品を使ったが、臭さと危険度などから、1時間に30センチ四方ずつしかはがせなかった。冬は窓を開けられないので、中断した。
ペンキはがしと中庭のセメントはがしは同時進行で、気が向いた時に気が向いたほうをやった。
 
 今週新しいペンキを塗り直したが、科学的なペンキはやめて、しっくいに自然派の色素を混ぜたものを塗るだけにした。簡単で匂いもなく、お金は掛からず、なんといってもナチュラルだ。湿気予防対策でもある。

 床に敷き詰められていたプラスティック製の敷物は、全部取り除いた。かわりに、い草の敷物を買った。カーペットみたいに一枚の広ーい敷物で、部屋の角に合わせて、はさみでジョリジョリ切りそろえた。日本のござの匂いがする。
JPが過度を切りそろえている間、わたしたちは子どもたちと、い草のシートの上で寝っ転がった。

 ああ、やっと居間が出来上がった。。。

 子どもたちは早くテレビを箱から出してくれと言っている。さて、どうしようか。

2006/07/26

(一句) 雨が降り、地固まらず、ぐっちゃぐちゃ 

 昨日のこと、
 ケーキを食べ終わって、誕生日当日の朝に買ったばかりのプレゼントを、ゾエにあげたところで、雷が鳴り始めた。
「ああ、今度こそ降ってくれたらいいねえ」
 フランス中の願い。

 雷が近所に落ちた気配。
風が吹き始めてから、もうボボはびくとも動かない。
ゾエがぎゃあぎゃあ泣く。ノエミがきゃあきゃあ飛び跳ねる。
JPが家じゅうを走り回って、戸締まりや雨漏りを確かめる。
わたしはドアの郵便受けにタオルを突っ込む。この前の時には雨が吹き込んだ。
台所の窓を叩く激しい粒。
直径1センチぐらいのあられが激しく降り始めて、道路は見る見るうちに、大河のようになった。
下水道の水が噴水みたいに穴から吹き上がる。
家の前に止めてある車の窓が、明けっ放しだった。道路の人通りは完全に絶える。

 中庭のわたしの小さな花壇が、プールになっている。
あられはどんどん打ち振り、花壇のプールにガラス玉のようなあられが浮いている。
電灯が心細げに、ちらちらしはじめる。ラジオの音が途切れる。
雷はまだ頭の上にいる。ゾエがおへそを隠す。ノエミも、わたしもおへそを隠す。

 隣の家の桜が大きく揺れている。
道路を走る四輪駆動車は、台所の窓に水しぶきを飛ばして走る。
ゾエが泣きながら、おそるおそる台所のカーテンを持ち上げる。光る。
1、2、3。。。ノエミが数える。そして、
「ちょっと遠のいたよー」と叫びながら、ボボを見に行く。
ボボの小屋が、ノアの方舟みたいに浮きそうだった。
「パパー、どうにかしてよおー」
父親は何でもできると信じている。
裏口の扉とボボの家の間に、大きな池ができていて、下水が逆流している。
「大丈夫、奥のほうに隠れているみたいだから。」
父親だって濡れたくない。彼が造った小屋は大人四人掛かりでも持てない重さだから、そう簡単には水に浮かない。

 空が明るくなって来て、道路に車が行き交い始める。
気がつくと、途切れていたラジオが何ごともなかったかのようにニュースの続きをやっていた。アナウンサーはイスラエルの爆弾の話をして、保険省の大臣が《猛暑の日のご注意》を読み上げていた。

1)水をたくさん飲むこと。
2)顔や腕を濡らすこと。
3)日中は窓も雨戸も閉め切って、家に光を入れず、夕方から夜に掛けて家の中の換気を行なうこと。
4)暑い時間に労働やスポーツなどを行なわず、陰に入って休むこと。炎天の海水浴場には日中行かないこと。

「そして一番大切なことは」と大臣は言う。

「これらの注意を、ご近所や身体の悪い人に伝えてあげてください。そのような人たちのことを気遣ってあげてください。お隣の人に声を掛けてください。」
 
 2003年の猛暑では1万5千人が亡くなった。今年はまだ8月にもなっていないのに、この一週間で40人ぐらい亡くなっている。
 雨が降ったら気温が下がるかと思っていたのに、そうでもなかった。
降ったはよいが激しいあられとは。せっかく生え揃って来ていた、わたしの花壇や芝生が全滅した。トマトも傷だらけになり、2個地面に落ちた。

 このまま水浸しになって、街も何もかも流されるかもしれない、と一瞬思ったその時に、家族がみんな揃っていてよかった。子どもたちが祖父母に連れられて、うちに戻って来ていた。
みんなでいっしょに居たから、ちっとも恐くなかった。
 花壇ぐらいはまた造ればよい。

それにしても、このお天気って一体。。。

2006/07/25

生き延びること、はや4年、、、

 ゾエが4歳になった。
 お誕生日はやはり母と過ごしたいというので、ナルボンヌのJPの両親宅へ迎えに行くか、それともカーモーに連れて帰ってもらうか、ずうっと悩んでいた。でも、JPの休み中にサロンの改修を終わらせたかったし、うちのクーラーのない車では高速道路の移動はちょおっと辛かったので、渋っていたら、両親がクーラーのある車で、子どもたちを送ってくれた。2週間もうるさい孫たちの世話をして、疲れていて、早く送り返したかったのかもたのかもしれない。
 
 ナルボンヌから戻ると、いつものごとく、子どもたちの持ち物が増えている。ずいぶん楽しく過ごしたようだ。持ち物は増えているのに、肝心なものを忘れて来た、と言って、ゾエが泣いている。

 おもちゃ屋に一緒に行って、自分で選んだ誕生日のプレゼントを、祖父母のミスで玄関に忘れて来たのだった。ノエミはお小遣いで買ったプレゼントもいっしょに置き忘れたらしい。夏休み中に買ってもらったおもちゃも数点忘れた。
 「全部まとめてあったのに、出掛けに子どもたちが興奮してうるさくしていたので。」
わかります。わかります。
 夏休に入り子どもたちが消えると、わたしはさっそく《隔離病棟(=物置)》から古くなったおもちゃなどを出した。段ボール箱二箱分くらいになったので、早いとこ赤十字に持って行くつもり。小鬼の居ぬ間にと思って掃除した我が家に、これ以上物が増えたら困るので、忘れて来ていただいて、助かった。

 親からのゾエへのプレゼントはずっと決まらず、当日の午前中にJPと買いに行った。
 ノエミが4歳の時には自転車なんぞを買ってあげたものだったが、ゾエにはノエミのお下がりで我慢してもらっている。ゾエはほとんどお下がりだけで生きている。でも、ノエミはものを大事にするほうだから、あまり不自由はしていない、と思う。
 わたしだって三人娘の一番下だったから、お下がりが多かった。小さい頃には文句を言ったのかもしれないが、大人になってからはお下がりをもらって不自由をしたとか、恥をかいたとかいうようなことは思い出さない。
 はじめての子どもは、せっかく女の子だったから、きれいな服をたくさん買ってあげたり、手作りしてあげたこともあるが、お下がりをもらうのはいつでもとてもうれしいものだ。フランスにはお下がりをくれるような親戚もいないから、くれるという人がいたら真っ赤な他人でも喜んでもらう。経済的に助かるから、というだけではなくて、親しい人が、大切に使ったものを「これ好きだったけど、あげる」と言われると、とてもうれしくなる。

 自分で選んで買ってもらったプレゼントを、大人のミスでもらえず、ゾエはどんなに悔しかっただろうと思う。でも本人は「もう一度お祝いしてもらう」と言って泣くのをやめた。
よし、よし。

 前日の夜に作ったイチゴのケーキは、スポンジケーキがうまくできずに、薄っぺらのペラペラになってしまった。わたしのやることにはあまり文句を言わないJPが、ケーキをじっと見て考えている。
「もしかして、おいしそうじゃない?これ?」
「うむ。。。暑いし。。。アイスクリームケーキを買って来てあげよう」
作り直そうと思っていたところに、アイスクリームケーキを買ってくれるとは有り難い。
「パパがおいしいケーキを買ってくれるってー」と喜んでいたら、ゾエが、
「ママンのケーキじゃないといやだ」と言う。
うっ。暑いゾー
材料常備、いつでもOKのチョコレートケーキを作り直した。
オーブンに火を入れて、家の中の温度が上がってしまったが、主役は大喜び。
ろうそくを4本立てた。台所は熱気でムンムンだ。

 怪我もせず、大きな病気もせず、すくすくと育っている。
学年末の評価では、「この子は幼稚園で教えることは、すでに何でもできる」と言われた。それで来年度は大きいこのクラスに加えてもらう。小さい子がぐずぐずしていると腹を立てるらしく、気難しいとも言われた。機械的にみんなと同じことをやろうとはしないらしい。孤独を愛する女。父親に似たか?危ないぞ。
 2歳ぐらいの時に、幼稚園で撮ったビデオを見せてもらった。子どもたちがおもちゃの自動車を巡って喧嘩を始めたシーンがあった。沢山の中の《その》1台を争って喧嘩をしている。クラスみんながその渦中に呑まれている。泣いたり喚いたり、クラスメートの服を引っぱる子、殴る子もいる。そこに、ゾエがいなかった。カメラは渦中のクラスメートから離れて、ずっと後ろに突っ立ち、難しい顔をして腕組みするゾエにズームを当てる。
「バッカじゃないの」とでも言いたそうな、冷たい薄笑いをしている。

 こんな人間が家の中の人口の半分を占めるとなると、先が思いやられる。

2006/07/21

新学期の問い合わせ

 新学期は9月、フランスでは気分下り坂の秋に新しい年度が始まる。
夏休みが2ヶ月もあって、たるんでしまった根性を、すがすかしい秋にスパーっと切り替える、ことになっている。

 もう、5年以上ずっとお世話になっている商工会議所から、はがきが来た。
「9月の13日と14日に、例年どおりのただレッスンがありますので、参加してください」
毎年9月に商工会議所の語学センターでは、新聞などでも大きく報道して《お試し無料レッスン》が行なわれる。ここで募集の目安を立てて、10月から新しいクラスが始まるのが通例だ。
 来年度も雇ってもらうことにはなっている。生徒が集まれば、のはなし。

 生徒が3人以上集まらないと、モトが取れないからクラスが設けられないと、10月には始められなかった年度もあった。だが、この前生徒に支払いの小切手を預かって、判明した事実を考えると、個人で人を集めて《ブラック(闇屋?)》で働いたほうがよさそう?という気もして来る。
 ちょっとそんな気がしただけ。

 ちゃんとした教室や、視聴覚教室もあり、ホワイトボードも教壇もある場所で《センセイ》やるのと、お茶飲みながらだらだら《友達付き合い》でやるのとでは、内容にも結果にも大きく差が出るものだ。グループレッスン、しかもほぼプライベートとかわらない4ー5人のクラスで勉強するメリットはたくさんある。

 一度、個人レッスンを電話で申し込んで来た女性があって、その人の仕事が終わって、夜の時間に会う約束をして、アパートを訪ねて行ったことがある。約束の時間にドアを叩き、名前を呼んでいたら、隣の人が出て来て「そこに住んでいるのは、どちらも男性のカップルですよ」と言われてしまった。
 次の日に同じ女性から「どうして来てくれなかったの?待っていたのに」と言われて、「どうしてうそをついたの?あそこには住んでいないでしょう?」と言ったら、「絶対に住んでいる。ずっと待っていた」と怒ったように言われた。

 気持ち悪かったので、もう二度と夜のプライベートレッスンは引き受けないことにした。プライベートレッスンは、ちゃんと約束どおり毎週忘れずにお金をくれる親がバックに控えている、中・高校生だけにしている。

 個人レッスンでしばらく勉強して、高校卒業試験で日本語を受けたポリーヌさんから連絡があった。バカロレアの試験は20点満点の17.5点だった。なかなかの成績だった。8月に福岡に留学することになったので、その節はどうぞよろしく。

 アルビの商工会議所に続き、トゥールーズの商工会議所からも連絡があった。24日から宣伝を出し、人が集まれば来てくれとのこと。交通費も出すし、お給料もアルビに劣らない歓迎をするから、トゥールーズまで来て欲しいと言われた。(片道2時間ぐらいなので、週に2時間の授業程度だったら行きたくない)ロデーズの商工会議所からの紹介とのこと。いちおう形式的なことで、履歴書を出して欲しいと言われて、すぐに送った。返事待ち。

 本当は翻訳のほうをもっともっとやりたいのに。まあ、来るものは拒まず。仕事がもらえるんだったらやる。《初級日本語》ならもう18年ぐらいはやっている。嫌いじゃないからやれているんだろう。呼ばれるうちが、華。そろそろ新学期の準備もしなければならない。
地道にやっていれば実もなるでしょう。損得なしで今学期やって評判を得たら、次回からは特に繋がるかもしれないじゃあないの。でも夢が遠のくのは辛いので程々にしたい。人生はそーんなに甘くない。(って、このわたしが言うんだから、これはホントーです)

2006/07/19

ミストラル、吹く

 海軍 地中海基地のある、トゥーロンという軍港の町に住んでいたことがある。町は港と切り立つ山に挟まれたところで、《ミストラル》という地中海沿岸特有の突風が吹きはじめると数日は治まらない。フランスでは風速は時速で報道されるが、時速100キロとか120キロという風が吹く。

 昨日、トゥーロンから《ミストラル》という船がベイルートに向かって出て行った。ベイルートにはフランス国籍を持った人や、その家族、約4000人以上が居住あるいは、長期・短期の滞在をしているらしい。フランス資本の企業が何百も進出している。この軍艦は一度に2000人を乗せることができるらしい。人々はキプロスなどに運ばれて、そこからフランス本国へ飛行機で連れ戻されるのだ。今朝たくさんの人がパリに着いたと報道された。軍艦は現地に残り、まだまだその辺で難民を救助する。

 フランスにはイスラエル人やレバノン人が沢山住んでいる。夏休みは子連れで里帰りする人も多く、里帰りの間に戦争に巻き込まれた人たちが、ラジオのニュースで状況を語っていた。フランスから里帰りしている人は、結婚や政治的な亡命、移住の事情でフランス大使館の管轄下にある人たちでも、お里の家族はイスラエルやレバノンから一歩も出たことのない人だったりする。血縁関係はないが《大好きな隣のおじさん》を置き去りにして船に乗ることになった男性が、悲痛な声でインタヴューに応えている。あの人はフランスに戻って来て生き延びても、きっと一生後悔し続けるのだろう。

 朝日コムの新聞を読もうと思って開いたら、日本の新聞では、ヒスボラの悲惨な映像が報道され、イスラエルの激しい攻撃を批判するようなことが書かれていて、ちょっとびっくりした。フランスの大統領はエスボッラ(ヒスボラ)がイスラエルの兵士を人質にした事実を「プロヴォカシヨン(挑戦行為か?)」と言って激しく批判している。総理大臣は救助船で自ら出掛けて行き「フランスはイスラエルのお友達です」と言って援助を行なっているので、わたしは悪いのはすべてエスボラという、ひとにぎりのテロリストのせいかと思っていた。

 国境近くの人たちが、「わたしたちは国境の向こうの人たちと、仲良くやっていたんですよ。同じ人間ですよ。ひとにぎりの人が勝手に戦争してるだけなんですよ」と言っていた。そしてイスラエル人の男性は「イスラエルは自分の力ではもうどうにもできないから(助けはいらないと言ってるが)アメリカ人やフランス人に助けてもらった方がいいと思う」などと言っている。
 まーた、アメリカ人がやって来るんじゃあないかねえ。。。。
シャリシャリ、デシャバリ、バリバリ。。。と建物や町を壊しながら。

 せっかくの夏休みが台無しで、気の毒、どころじゃあない。
わたしは毎日ラジオを聴いて泣いているのである。
 大戦争が始まるなら、8月に従兄と友達が来て、去って、ノエミがキャンプから戻って、からにしてもらいたい。こういうとき、わたしはちゃあんとフランスの船にも、日本の船にも乗せてもらえる(と思う)ので、日本のみなさん心配しないでください。

 フランスの大地は平和。トゥールドフランスの自転車レースで湧いている。
でも、猛暑のせいで今日までに3人亡くなってしまった。自転車やってる人って、大丈夫なんだろうか?
戦争なんかやらなくても、地球はかなり煮えたぎっている。ましてやこのくそ暑い時に自転車なんて、こんなこと言ってるから、体重が減らないんだろうーかね。

2006/07/18

涼を求めて

  カルモーは最高気温が36度の予報。なのに、こんなに暑いのに。。。
食欲がありすぎる!過食症ではなかろうか。
ちょっと動いただけで、息切れがする。ビョーキだろうか?
体重計にのると、めまいがする。重症では!?
タンスの中に、着れる服がない。どこ?服はどこ?どこ、どこ。。。記憶喪失。

 ちょっと遠出してアルビの巨大スーパーまで出掛けた。
友達が泊まりに来るので、まずは枕を物色。いろいろありすぎて困る。
お客様用のスリッパを買おうと思ったが、友達のサイズがわからず断念。
彼女がコートダジュールに行こうよー、と言っているので、ガイドブックを立ち読み。
ついでに、ノエミがキャンプに持って行けそうな本も、スーパーで探してみる。ノエミは今、新聞より小さな文字で、1000ページ以上ある本に凝っている。図書館でぼろぼろのハリーポターを借りて来た。わたしは夏休み前に『ナルニア物語』全章が一冊になっている、1キロ以上ある本を買ってあげた。映画は見ていない。
 従兄が来たとき、料理の腕前も披露したいので、フライパン売り場に行った。よさそうなのは手の届かないところにあり、飛び跳ねて捕まえようとしていたら、売り場のフライパンが全部頭から降ってきそうになったので、後ろ歩きでそっとその場をはなれる。
どうせ、あの値段では手が届かない。。。
 魚売り場で水槽を観察。エビはマダガスカルから来ていた。魚を買いたかったのだが、クーラーを積んで来なかったので、帰り着くまでに腐ってしまうなあ。
 野菜売り場は素通り、明日農場の野菜が届くから。

 服売り場でバーゲンの売れ残りを見ていたら、新学期に着れそうなシャツが3ユーロだったので、さっさと腕に巻き付けた。JPの半ズボンをずっと探していたのだが、あった、あった。でも、洋服なんか買ってあげたことがなく、彼のサイズを知らないので、いちかばちかでそれを持ってレジへ向かった。レジの人が「それはバーゲン対象外だから、レシートがあれば交換できますよ」と教えてくれた。なんと、対象外であったか。。。
 遅かれし、すでにレジの外。。。

 涼しいスーパーでは、3時間ぐらいは時間が潰せる。が、しかし、お財布を連れて行ってはいけないのだった。ああ、わたしとしたことが。

 おひる時だったので、巨大スーパーの超大型駐車場に、車は少なかった。その殺伐とした駐車場で、わたしは「ああ、人間さまも、動物でありもうしたか」とつぶやく。
 吹き抜ける蒸し暑い風が、わたしをセネガルに運んだ。ひゅう

 ダカール郊外のステップで、ラクダやヤギの群れが、丈の低い木々の、わずかな木陰に寄り添って、涼を求めて休んでいたなあ。

 巨大スーパーの超大型駐車場では、いまや、スーパー入り口への距離だとか、キャリー置き場の脇で少々危ないってことなどは、もうこの際どうでもよい!と言っているような、クーラーを消された車たちが、白線も角度も完全無視状態で、建物や、ゴミ用のコンテナーや、キャリー置き場の屋根や、キャンピングカーの陰など、わずかな陰の下で、静かに待機している。

 アスファルト砂漠にできたミラージュ(かげろう)を前に、ぬちゃぬちゃとサンダルにくっつくアスファルトを踏みつけながら、暖房完備のルノーに乗り込んだ。
生きて自宅に戻れるのか?溶けそう。。。ふらあああ

 我が家は冷蔵庫だ。雨戸まで閉め切って出掛けたので、家の中はわりと涼しかった。なんといっても家の壁の厚さは80センチだということだし。外よりは涼しい。暑いところから帰って来たら、すうっと涼しい。ただし家の気温に慣れるのも時間の問題。

 路上駐車の車に容赦なく太陽が降り注ぐ、おひる時である。
やっぱりお腹が空く。わたしに夏バテという言葉はない!?

2006/07/17

点字の本

 ちょっと宣伝すると、2004年の夏に、はじめて『サトウキビ畑のカニア』という翻訳の本を出した。親戚や友人知人が、沢山買ってくれて第二版までできた。印刷されたのは全部で6200冊ぐらい。子供の本だ。まだ残ってますのでよろしく。
 
 インターネットで《売り切れ》という文字が見れないものかねえ。。。と思って、検索していたら、某《視覚障害者福祉センター》というところで、『サトウキビ畑のカニア、点訳本』というのを発見した!!

 点字に訳されているとは、それは知らなかった。ぜひ触れてみたいものだと思った。
挿絵はやっぱりないんだろうか?あの本は、ぜひ、内海さんの絵も見て欲しいのだけど。
目に見えない子どもたちって、どのぐらいいるんだろうか?本好きな子は多いのだろうか?ほかにもっとどんな本を読むんだろうか?興味津々、興奮気味で福祉センターにメールを書く。
 
 手に入れたいと思って、知り合いの本屋さん(ヒントブックス、トップページにリンクあります)に問い合わせた。
 点訳の本は取り扱っていないとのことだった。
ただ、ヒントさんがびっくりしていたのは、わたしがその点字の本の出版について、何も知らされていなかったことだ。何ごとにも《著作権》があって、法律に守られている。
 この件については、調べてみるつもり。でも、点字出版というのはボランティアでやっている人も多いし、わたしたちの本が目の見えない人にまで読んでもらえるなんて、こんなにうれしいことはない。とりあえず、原作者のピッションさんと、挿絵の内海さんに相談しなければならない。

 この頃DVDや音楽CDをインターネットでコピーする人が増えていて、罰金をたくさん払わされている人もいる。インターネットで漫画や小説も読めるから、出版業界も大変だ。点字を勉強して、海外書物の点字翻訳出版業界に進出しようかねえ、と、ふと思った。

 その前に、自分の新しい翻訳の本を出したいところなんだけどねえ。
《ま》くんにも買ってもらわないといけないし(売ってもらうほう?)
日々、何かと努力はしております。そのうちねー。

2006/07/15

同級生

 昨日母に電話したら、姉の家に行っていて電話が転送された。便利な世の中だ。
おかげで子どもたちとも話ができてラッキーだった。だけど、子どもたちが小さい時には交流を持たなかったもので、この頃ではすっかり大きくなった子が「進路で悩んでいる」などと言うと、ぎくっとしてしまう。おばちゃんは子どもたちの扱いというものを知らなくって、申しわけない。ただただ「もうそんな歳かー」とため息が出る。姉たちの子どもは5人とも、わたしが日本を離れてから生まれた。だれも抱っこしてあげていない。

 母によると、同級生の《ま》くんのお父上が亡くなった。別々の高校に進学してから一切付き合いがなかったので、彼が同級生だったことさえ、すうっかり忘れていたほどだが、一昨年の秋に帰った時に再会を果たした。高校の同窓会に、同じ高校でもないのに《ま》くんが来ていた。
「エンドーさんに会いに来たー」ほほお、よしよし。

 《ま》くんはわたしが幼稚園の時になりたいと思っていた、あこがれの《歯医者さん》になっていた。曲がりなりにも歯学部出身とは、一本とられた。《ま》くんでもなれるんだったら、わたしもそうそうに夢を捨てるべきではなかったねえーとバカを言った。

 そうこうしているうちに、ほかの同級生諸氏からも連絡メールが入る。同級生との会話で、《ま》くんは中学のとき、わたしと同じ剣道部であったことが判明した。
 えー忘れてたよー。

 更に母からの情報によると、彼は同じ地区内でただ一人の同級生で、七五三の時にもいっしょに写真を撮ったし、小学校の時には同じクラスになったこともあるし、遠足の前の晩などに「エンドーさん、明日何時に集まるんだったけ?」とか夕方遅くに「今日の宿題なんだったけ?」などとよく電話をかけて来ていたらしい。いっしょにソフトボールをやったり、温泉祭りでは地区の公民館に集まって、いっしょにお神輿をかついだりもした。それは覚えている。
 なんだ、幼なじみ?

《ま》くんのおばあちゃんは地主で、アンタたちの勉強部屋にしていた、裏の家を借りていて、よくいっしょにお家賃を払いに行っていたじゃあないの?
 えー、そうなのー?
 おまけに、アンタが本を出した時に沢山買ってくれたし、同級生の名前でお葬式に花輪を届けてくれたし、なんといっても、アンタの代わりにお父さんのお葬式にも出てくれたじゃないの。
 わたしの代わりに参列してくれた同級生はたくさんいました。。。。すみません

 まさかと思いきや、けっこう深い仲(?)だったらしい。

 お母さんがアンタの代わりにお葬式に行って挨拶して来たから、アンタは《ま》くんに電話して励ましてやりなさいよ。。。と言われた。
えー、別に昔のオトコってわけでもないのにー?
同級生諸氏に知られたら、なんと言われると思ってんのー?
 
 「アンタの代わりにお父さんの葬儀にも来てくれたんだよ」
そこまで言われるともうなにも言えないのであった。勢いに乗って電話してみた。
「きっとこの人は若くてかわいいに違いないっ」というような声の看護婦(歯科助手?)さんが、「喪中につきお休みさせていただきます」との留守電だった。
《ま》くんが出なくてちょっとほっとしたが、「喪中なんだ」と思ったらやけにしんみり実感が襲って来た。

 彼はもう立派なおじさんであることだし(この前見てわかりました)、昔のようにメソメソなんかしていないだろう。
 近年、親を失う同級生が急激に増えていて、子供会でお世話になったり、道路で挨拶していたころのことを懐かしく思い出す。わたしもそういう歳になったんだなあ。
 しんみり
 
ーーーーーーーー
 後日、おばちゃんの家に電話したら、なつかしの弟くんが出て「うわさの、エンドーさん!!」と感激され、自宅に電話がまわさた。《ま》くんはせっかくわたしが国際電話をかけてるっていうのに、飲ん方(飲み会)に出ており、《ま》くんの妻と世間話をして、彼のうわさをし、妻が「元気ですよー」というので、まあ安心した。

2006/07/14

どんぱち

 フランス人の宇宙飛行士は、地球の外で仕事をするなら、7月14日に働きたいそうである。
7月14日に、宇宙から地球を見ると、フランスの各地でどんぱちと花火があがって、きれいなんだそうだ。7月14日は革命の記念日で、日本語ではなぜか《パリ祭》と呼ばれている。
 7月14日には全国各地で、午前中はパレード、午後はガーデン・パーティー、夜は花火大会と決まっている。一年の予算の大半を、この日に捧げている市町村も多い。
 カルモーは8月の終わりに《サン・ブノワ》という聖人のお祭りがあって、その時に一年の予算の大半を掛けているので、14日に花火大会はない。

 従兄と友達がほぼ同時にフランスにやって来るので、8月の前半10人の大所帯になる。子どもが全部で5人になる。毎日泊まるところ、移動、見たいもの、連れて行きたいところ。。。頭を悩ませている。家は指宿の実家よりも大きいのだが、畳がないからベッドが必要。タイル張りのところにゴザなんか敷いて眠れない。友達はうちに、従兄の家族は民宿へ行ってもらうことにした。
 義父母が泊まった民宿は、うるさく、ちょっと見た目より不潔で、従兄を泊まらせない方がいいとアドバイスを受けたので、改めてインターネットと電話帳とガイドブックで探し直す。

 うちから車で10分の田舎に、民宿を見つけた。訪ねて行って部屋も見た。普通のおばさんがやっている、普通の家の一部屋だ。ちょっとせまッ苦しいかも。子どもたち大きくなりすぎていたら、どうしよう。

 家族でフランス旅行ができるなんて、うらやましいかぎり。いい所をいっぱい見て、お土産をたくさんもって帰って欲しい。この夏はどこにも行かないと思っていたけど、みんなのおかげで観光できるので、ラッキーだ。
10人家族っていうものを想像できないので、ちょっと恐い。

2006/07/11

強制てき矯正で嬌声をあげる

  ユッピー!
ノエミうれしそうだ。
うれしくもない歯の矯正の器具をつける日だから、と言って、アルビの病院内の歯科に連れて行った。変なところから一本剥き出していた歯を、先日抜いた。
「これがすんだら今度は器具のほうね」といわれていたので、本日《連行》した。
ちょっと恐かったので、親子四人で出向いた。

 ノエミは数日前から緊張していた。キャンプにも矯正器具でいくのかと思うと、ちょっと気の毒。少々歯並びが悪くても性格が良かったら。。。と言ってやりたいが、少々の性格では補えないような歯並びの危うさだし、その性格もいいとは言えないので、歯並びぐらいはよくしてあげないと、っというのが親心だといわれているのだが、わたしは《日本人だから》出っ歯でも構わないんだけど。でも自分は出っ歯じゃないから、出っ歯ちゃんの気持ちもわからないし、本当は本人は「ああ、出っ歯じゃなかったら幸せだったのに」と親を恨むかもしれない。恨まないかもしれないけど、やっぱり親のせいか?親族会議の多数決で、強制的に歯の矯正を行なってあげるのは、親の役目であるということになった。

 矯正の器具というのを間近で見たことがないので、わたしだって心配しているのだ。
膝にニセモノのお椀が入ってる人とか、心臓に機械を入れてる人というのは知っている。そういう人はやっぱり病院にも縁があって、痛い目にもあっていて、どうも不便そうで、ずいぶん気の毒だ。歯の矯正器具というのも、やっぱり《器具》を身体の一部にはめ込むんだから、やっぱり不快なこともあるに違いない。ううーん気の毒だ。

 「マドモワゼル ダニエル」と呼ばれて、マダム・ダニエルもムッシュ・ダニエルも立ち上がった。診察室にはちゃんと、患者用のほかに見学者のためのイスも用意されているので、ただの付き添いも入っていいことになっているのだ。日本みたいにひとつの部屋で、いっぺんに何人も見たりしない。(あれは指宿だけでしょうか?)

 「口を開けてー。この前抜いたところ、きれいに塞がってますねー。はい、三週間後にまた来てください。」
ユッピーなのである。
今日はこの前の治療状態を見るためだけで、器具は三週間後なのだった。
チャンチャン。
ノエミ喜んだのも束の間。
あと三週間のストレスが果てしなく続くのであった。。。。

お迎えを、お出迎え

 JPの両親がやって来た。
ノエミの歯医者も終わったので、いよいよナルボンヌに連れて行ってもらうのだ。すでに三日前から旅行かばんは準備が整っている。最後のかばんにおもちゃを積めていると、2人が現れた。
 いつも泊まっていただいているサロン(居間)は工事現場なので、キャップデクベートのホテルをとった。新しいホテルなので、興味も手伝い、ここに従兄を泊まらせようかと思っていた。両親がホテルに行くときついて行ってみた。

 なかなか良い眺め。
清潔そうで新しい。
でも、ちょっと合宿所みたいな雰囲気で、飾りも何もなく、殺風景だ。
実際、若い学生たちの合宿が行なわれているらしく、窓枠にバスタオルなどがブラさがっている。ろうかを若い人たちが通り過ぎて行く。
両親は学生たちから離れた棟の二階なので、大丈夫だろう。

 キャップデクベートを案内した。
ずっと前に学校の遠足で来た場所だ。炭坑あとの土地に、総合スポーツ施設が整っている。
炭坑の空中写真を見ているところに、JPとノエミが自転車で合流した。
ノエミは暑さのため真っ赤っ赤になっていた。自転車でここまで約30分。

 みんなでしばらくぶらぶらして、ホテルをあとにした。食事は自宅で。
暑くてみんなは食欲ないので、サラダ・ニソワーズ(ニース風サラダ?)にした。

 子どもたちは興奮している。ナルボンヌの両親の家にはプールもあるし、海岸まで車で30分ぐらいだ。海岸のそばだから、夏休みの間毎日移動遊園地が来ている。花火大会もある。おもちゃを全部かばんに積めたら、さっさとベッドに入った。うそみたいにオリコウさんである。

2006/07/09

やあっと、夏休みの予定が立つ。

 8月は大忙しになりそうだ。
 従兄と友達とJPの弟がほぼ同じ時期にやって来てしまう。
こりゃあ困ったぞ。いや、うれしいぞ。
連絡して来たのは友達が一番乗りだったので、うちに泊まっていただくのは友達、となった。
従兄には民宿かホテルに泊まってもらうしかない。
JP弟一家は従兄が帰ったあとだから、うちに泊められる。でも去年工事現場で寝てもらったので、今年はその工事現場をどうにかしておかねば恥ずかしい。
 JPが、せっせ、せっせと働いている。
 従兄と友達が揃って、JPが仕事に行かない週末は、10人の大所帯となってしまう。車がないから車も借りなければならないが、「貸してー」と言える親戚も親友もないので、レンタカーにする。
ミニバスも借りることにしたが、ミニバスには9人しか乗れないので、JPが仕事の日だけ借りることができる。

 フランスではクーラーのある家庭は少ないし、クーラーのない車に乗っている人も沢山いる。特に自然派を目指すJPは、今年の夏は自家用車を使わずにバスや電車を利用しようと考えていた。
でも東京生まれの東京育ちの友達に、クーラーのない小さい車で迎えに行くと言ったら「クーラーのあるレンタカー借りてください」と言われてしまった。やっぱり。
 従兄たちはへんぴな田舎の民宿だから、車がないと大変だ。エコロな田舎暮らしというのは、なかなか難しい。でもおいしいものを食べさせてあげようとはりきっている。

 私が行っている民宿というのは、普通の人が自分の家を解放して、旅行者を泊めてあげる、イギリス式でいうと、ベッドアンドブレックファーストなるもので、料金の中に朝食とベッドの代金が含まれている。でも今から予約できるかは腕の見せ所だ。そういう所にはクーラがあるわけがないし、大丈夫だろうか。

 従兄が後悔しないように、がんばろうと思っている。
ので、私の従兄と、その辺ですれ違った場合には、お餞別を弾んでやってください。
よろしくお願いいたします。

サッカーでフランスが負けたので、花火大会も、勝利記念セールもお預けとなった。ちっ。

2006/07/07

空から落ちて来るもの

 ドッカーンと大雨が降った。
 わたしたちの農場の人工湖が、溢れるぐらい降らないかなあ、と思いながら、空に向かって応援した。今年は折り紙の腕にも磨きをかけたことであるし、祭り気分も盛り上がっているので、いっちょ七夕祭りでもやったろうかねえ、と思って張り切っていたのだが、雨となってしまった。

 午前中に図書館で本を借り、ついでに図書館のパソコンでゲームをやった。図書館は来週夏休みとのこと。
 午後はいつものように乗馬。普段いっしょの子どもたちではなくて、キャンプつきで乗馬をやろうという子どもたちが、全国各地から集まっている。乗馬クラブで寝泊まりする。
あれえー?ここでもそんなことやってるんだあ。
 ノエミは高いお金を払って、ドルドーニュという山のほうで、同じことをやる。払うのは彼女の父だからいいけど。所かわれば品かわるっていうから。
なんといっても親の目の届かないところで三週間というのが、ものすごいあこがれであるらしい。
 
 フランスはまだまだサッカー熱。町行く人々もちょいと浮かれ気味。

その合間にテポドンの話題もちょっとだけ。
10発ぐらい落ちて、日本も反撃に出るとか言ってるので、恐いなあ。
(実際には7発だったみたいね)
「練習だから」ってあなた、空からそんなものがいきなり降って来たら、やっぱり恐ろしい。
日本海沿岸の人々は気が気ではなかろう。

 うちとこはミサイルじゃなくて、待ちに待った雨だから、幸せだ。

2006/07/06

麦って、パンの味

 5日に引き続き、雨。しとしと降っているが、もっと降ってもらわないと困る。
 雨だったので何もしなかった。4日の夜のことでも書こう。

 4日は今月最初の火曜日で、お約束の農家でのピクニックだった。
 メリオッサンのお母さんに紹介された農場だ。
 広大な農地をフランス政府や、ヨーロッパ基金の援助を受けて開拓している。そこでは、学校を出たばかりの若い人や、長期失業者などを雇って、できるだけ大型機械を使わずに、無農薬の野菜を作っている。
 経営者は30代ぐらいの若いカップルで、農場にはパンを焼く手作りの釜や、JPが憧れている《水を使わない便所》などがあった。建設中の自宅は、なんと、わらの束で作ったブロックを木枠にはめ込んで建てているという。
 人の援助と、農作物の見直し、新しい経営の形、流通と販売の方法など、説明を受け、紹介された時にいいと思った通りだったので、その日のうちにこの農場の会員になった。

 フランスの大都市では、市営の小さな農場を借りて、月々の土地代を払い、自分たちの手で好きなように野菜や花を育てることのできるミニ農場がはやっているが、わたしたちのこの農場は、自分たちでは畑を耕したりしない。長期失業者、犯罪やアルコール依存症などから更生中の人など、社会復帰を目指す人たちが、広大な畑でありとあらゆる野菜を育て、それを町の広場で売るのだ。

 農場で働いていない会員は、広場で市が開かれる時に、テーブルを出すのを手伝ったり、市が終わったあとのお掃除をしたりする。なによりもわたしたちがやらなければならないことは、このような活動が行われていることを宣伝することと、農場で働かない代わりに、農場でできた野菜を買って食べること。

 7月から、毎週水曜日に野菜がいっぱいつまったカゴが,自宅に届けられる。今回ははじめてだったので、説明を受けて、ピクニックに参加したあと、その場で野菜を渡された。

第一回目は、
 さやいんげん 500グラム
 クルジェット 大きいのが4本
 タマネギ(白いタマネギで、青い葉っぱがついてる)5個
 シュー・ラヴ(日本では英語から訳してコール・ラビというらしい)2個
 巨大なサラダ菜 1個

 農場を案内してもらった。3月に、自分たちだけで掘った人工湖があったが、乾いていた。湖を掘った3月から、まとまった雨は降っていないから仕方ない。
 見渡すかぎりの麦畑をかき分けながら歩いた。農場の子どもが麦の穂を引っこ抜いて口に入れている。麦の殻を割って、中に入っている固い麦をかじっている。
 「おいしいの?」ときいたら、「パンの味がするよ」って言われた。
麦をかじったら、本当にパンの味がして、びっくりした。

 ゾエとわたしは麦をかじりながら、時々立ち止まって、足元に転がっている野生動物の糞を観察したり、足を踏み出すたびに一斉に飛び跳ねるバッタを追っ払ったりして遊んだ。ノエミは農場の男の子たちと走り回っている。JPは農場の女の人に熱心に説明をきいていた。 

 わらの束でできたピクニックテーブルを囲んでピクニックが始まった。《地球を守ろう》とか《差別をなくそう》とか、《遺伝子組み換え反対》などのTシャツを着ている人たちが何人もいて、サッカー応援の青いシャツに見慣れた目に、とても新鮮だった。持ち寄りのサラダやピザもベジタリアンだった。不健康に太っているのはわたしぐらいで、ちょっと反省した。わらのベンチは夏の薄いワンピースにはちくちくして痛かったので、次回からは、普段着のTシャツとズボンにする。気どらなくていいなんてうれしい。

 JPは、いきいきしている。となりに座った《差別をなくそう》のTシャツの人と、会話が弾んでいる。この前のPTAのピクニックがいかに場違いだったのかわかった。

 帰る時に積まれたタマゴパックを指差して、JPが訊ねる。
「うちのカゴには、タマゴが入ってなかったようだけど?」会員の一人が応える。
「タマゴは《野菜カゴ》には含まれないんですよ。XXさんのところでニワトリを買って、農場においとけば、毎週1パックもらえるの。XXさんのところに行って、よさそうなのを自分たちで選んで、農場においておけば、養ってもらえるよ。」
 ゾエとノエミが歓声を上げる。
「わたしたちのニワトリ!!名前をつけよう」
自分ちのニワトリが生んだタマゴを食べられるなんて。。。夢みたいだ。

風が激しく吹いて、空が暗くなってきた。遠くで雷が鳴り始め、だんだん近づいて来る。遠くの畑で雨が降り始めた様子だ。
 「いよいよ雨が降りそうなので、お開きね」
たいへんエコロジカルなピクニックだった。たくさん降りますようにと願いながら帰ってきた。

 それから二日間降った。まだ足りない。

2006/07/05

いっ度、ソルドに行っど!

 「ソルド」というのは、フランス語でバーゲンセールのこと。
「いっど」というのは鹿児島弁で、「いっ度」だったら共通語の「一度」のことで、「行っど」だったら「行くよ」のこと。

 バーゲンセールなんかにはあまり行ったことがない。一度は本格的に行ってみたいと思っていたが、ついに下着やらTシャツやら、ベースのものがよれよれになってきているので、バーゲンセールだろうがなかろうが、『店』に出て行く決心をしなければならなくなった。バーゲンセールが終わる頃には、夏に必要なものは手に入らなくなるらしい。
 
 わたしは年中赤字人間だし、既製品の合わない体格だから『洋服屋さん』などには入らない。
JPは店の人にいろいろ訊かれるのと、鏡を見るのが嫌いだから『店』は一般的に嫌いで、「JPってアフロヘアーにしたの?」と言われるぐらいにならないと『散髪屋さん』にも行かない。
『ブティック』や『ヘアーサロン』などというカタカナが嫌いなので、ついこんな平和初期生まれみたいな単語を使ってしまう。

 商店街はバーゲンで混雑していると思いきや、思いのほかシンと静まり返っていた。
夏休に入って、みんな旅行に出掛けてしまったのだろうか。
数週間ぶりに雨も降った。
 わたしたちに必要な下着や、ベーシックなTシャツなんかは、バーゲンセールの対象外だということも、店に行ってからわかった。
 50%引きなどになっているのは、流行のお腹が見えるシャツとか、スケスケで下着が見えるシャツなど。子供服はたくさん安売り対象になっていて助かる。学校のクラスメートのお母さんたちにすれちがう。髪振り乱し、子どもを捜したり叫んだりしながら、苦労しているのはわたしだけではなかった。子どもと『わたしだけ』で来た。

 JPは、カードを貸してくれて「やっぱり行かない」と言った。こんなにいいダーリンは、滅多にいないだろう。「カードなんか貸しちゃって。。。恐くないの?」と言ったら、おびえた顔をしていた。

 けっきょく、サイズや好みの関係で、お店に行く前に作っていったリストは半分しか揃わなかったが、もうすぐ義父母も来る予定なので、そんなに焦らなくてもよいのだ。

 子どもたちを両親の家に預ける時には、汚いかっこうで送り出している。
「まー、こんなに汚い靴履いちゃって!」と義母は叫び声をあげて、すぐに靴屋に連れて行く。
靴と、コートと、流行の服はほとんど義母に買っていただいている。(買わせている?)
 男の子にしか恵まれなかったおばあちゃんというのは、女の子の服を買うのが夢だったなんてよく言っている。

 わたしは16歳用のシャツを2枚買った。何年ぶりだろう。。。JPのカードをお預かりいたしているのが恐ろしくて、居心地悪く、店に長居できなかった。
ちぇっ、せっかくのチャンスだったのに貧乏性が出てしまった。。。

2006/07/04

引率

 学校は本日まで。すでに子どもの数は急激に減っている。
フランスでは結婚した人の半分は離婚しているらしい。
多くの子どもは母親と暮らしていて、週末にお父さんと過ごしているので、金曜日や土曜日に遊ぶ約束を取り付けるのは、非常に難しい。
「週末はお父さんのところに行くから」と言われる。
父親が遠くに住んでいる場合は、長い休みの時に半分ずつ、ということになっている家庭も多い。
だから、2ヶ月の夏休みは1ヶ月父親の所に行ってしまう子どももいっぱいいる。

 学校の人口は減っているし、先生たちはすでに2週間前から授業らしきものをやっていないが、いちおう残っている行事は消化せねばならない。
ボート実習があと一回終わっていない。

 数日前「すみません、誰もいないので、マダム・ダニエル 引率お願いします」っと、校門の前で先生にとっ捕まってしまった。ご近所に住んでいる担任のミゲレーズ先生は、わたしのことをすでにわかっているので、まずお願いする前に「誰もいないので」と前置きしてから、ちゃんと頭を下げるあたりが、かわいらしい。
 そういえばこの先生だけだった。教師陣で、招待を受けて、律儀にピクニックにも参加したのは。ちゃんとサッカーに参加して、汗をかいてから、さっさと引き揚げて行くという常識も心得ておられた。

 「。。。ハイ いいですよ」
「じゃ、すみませんけど、大人はみんなで持ち寄りのピクニックにするので、デザートをお願いします」
 チーズやワインやソーセージは高くつくので、《デザート》係にしといてくれるあたりが、ご親切である。この前も持って行って好評だった、いまはまっている《リンゴのクランブル》に決めた。
 
 JPは週末から2週間ものバカンスをとっている。有給休暇を溜めておいたので、休みは8月にもある。こんなふうに公務員が長ーいこと休むから、7月と8月は、公共機関で事が進まないんだ。

 「ねえ、わたしはリンゴのクランブルで参加するから、JPは身体で参加してよ。」
休みのいっぱいある公務員に対して、夏休みとなったら一挙に忙しくなってしまう主婦は、多少の悪意を込めて言うのだ。
 JPが応える前にノエミが「わーい、パパが来てくれるー。お父さんが行事に参加してくれることってないから、みんなびっくりするよ」素直に喜んでいる。

 JPがわたしのクランブルを下げて、ボート研修の引率に行ってくれた。
いつも話している《ペストみたいなクロエちゃん》や《素直でかわいいクレモン》など、みんなの名前を覚えて帰ってきた。これで食卓の話題が増える。
 ノエミによると、きかない子どもを、まるで教師みたいに怒鳴り散らして、娘は恥をかいたが、担任には感謝されたらしい。ちゃんと指導員といっしょにモーターボートに乗って、子どもの小型ヨットを応援したそうだ。船乗りの血が騒いだ?

 ノエミが「更衣室で靴を間違えてきちゃったあー」と言って泣き叫んでいる。
「誰の靴と間違えたんだろう。持って帰ってきてしまたこのピンクの靴は、誰のだろう?覚えてる?覚えてないなんて役立たず!」
まるでわたしを叱るみたいに、恐れ多くもJPを怒鳴りつけて、いつもわたしに怒鳴り返されるのの倍ぐらい、JPに叱られている。ふとどきな娘である。

 リュックサックの底に、ちゃんと自分の靴はあったので、ゾエから「ノエミはドロボー」っとレッテルを貼られた。
学校は今日で終わりだから、担任は今日の午後以降には、もう絶対に学校には出て来ない。職員室の電話をとるような人はいない。クラスには名簿とか、連絡網なるものはない。

 これは誰の靴なんだろうねえー

 仕方ないから、捨てないで新学期までキープしておく。
夏の二ヶ月の間に、子どもの足はどんどん大きくなるから、新学期に持ち主がわかっても、もう履けないだろう。新しい靴なのに。。。
 ノエミのせいで親に叱られているクラスメートが居ると思うと、胸が痛いけど。。。明日からバーゲンセールだし。。。夏のサンダルでも買ってもらえることだろう。
運動靴とはおさらば。

    恐怖の夏休みに突入。。。

2006/07/01

サッカー

 フランスのチームが、サッカーの世界大会でがんばっているらしいので、日本からたくさんメールがやって来る。みんな『フランス』ときいて、私のことを思い出してくれるとは、うれしいかぎり。ついでに、私がフランスにいるから、フランスを応援してくれているとは、ありがたや。

 テレビがなくても、状況はわかる。
いちおうラジオで「今晩はサッカーの試合」と盛んに言うから、「今晩サッカーがある」と言うことはわかる。今年の世界大会はドイツだから、時差もなくラッキー。でも日本ではきっとものすごい早起きだろう。

 サッカーのある日は、サッカーチームと同じブルーのシャツを着た人たちが、町を練り歩いている。そういう人たちが出くわすと、知り合いでもないのに抱き合ったりしている。
 試合が始まる数時間前から、町をクラクションを鳴らした車が走り回る。
たまに、車よりも大きな国旗をはためかせ、叫びながら猛スピードで走り抜ける人たちも居る。
 町が静かになるので「あ、サッカーが始まったな」と知れる。
しばらく、静かにごはんを食べたり、片付けたりできる。

 試合終了のころ、ご近所から一斉に喝采が上がるので「あ、勝ったんだ」とわかる。
 数分後に昼よりもうるさいクラクションやら、歓声やらが路上を行き交う。更に数分後には、ご近所の庭で花火まで上がっている。こーんなに乾燥してるのに大丈夫なんだろうか、といきなり不安になる。

 7月1日は猛暑の熱帯夜で、窓を開け放って寝たかったのに、、クラクションと歓声がうるさくて、窓を閉めずにはいられなかった。

 そして翌朝には、路上でサッカー準決勝進出を祝う若者が、エキサイトして商店街で暴れ回って、商店や路上の車に被害が出たことや、喧嘩で100人近く警察に保護されたことや、川に飛び込んで死人が出たことなんかが報道されることとなったのである。
 
 世界中には戦争やテロで死んでる若者や、飢えや自然災害で死んでるも子どもたちも居るって言うのに、フランスは平和だ。普段はみんな「フランスなんて国は。。。」とフランスには希望がないようなことばかり言っているのに、サッカーの試合の一日は、急にみんなが『愛国者』になる。いつもはいじめられてる移民たちも、みんなフランスのために喜んでいて、興味深い。そして、政治家はだれもかれもがサッカー好きになり、大統領までもがドイツまで応援に行っちゃうんだから、おもしろい。

 でもサッカー選手たちは、きっと自分たちのためにゲームを楽しんでいるんだろうなあ、と思って、ちょっとうらやましい。フランスという国を背負っているとは思っていないんじゃないだろうか。応援してくれている人たちに応えたいというよりも、自分たちにとっていい試合をしたい、精一杯やりたいということではないのだろうか。そんな選手たちが素敵だから、応援するんだろう。きっとずっと練習して来たのだから、自分のベストを尽くしたいと思うに決まっている。闘志というのだろうか。闘志のある人は瞳に星や炎が輝いていてきらびやかなものだ。
 普段は相撲ファンの母も、いまごろきっとフランスを応援しているに違いない。

ピクニック

  PTA役員の年度末ピクニック当日。約40名参加の予定。
金曜日の午後には、会長のパトリシアといっしょに買い物をした。土曜日には教職員とのお別れ会もあったので、そのための買い物もした。

 私たちの行ったことのないセレナックという森のピクニック場で行なわれるので、数家族ずつ集まって車を連ねて出掛けた。市役所からテーブルとイスも借りていた。すぐそばにトイレとサッカー場とバーベキューセットもあったので、本格的な食事会が予想された。

 参加する人たちは皆、サラダかデザートを持参することになっており、私は前もって《まき寿司》を持って行くことに決まっていた。土曜日の午後から準備した。
PTAの会で、チーズ、飲み物、バーベキュー用のソーセージを買って、現地でお金を出し合った。
女性たちは母親の会で顔見知りだが、その連れ合いたちははじめて、という人も何人かいた。
 JPはロトにも、先日のお祭りにも参加したから、数人の顔見知りはできていたけれども、男性たちの中には、いっしょに仕事している人や、同級生、数年前から会に参加している人たちもいて、みんなけっこう知り合いみたいだ。それで、出だしからJPは孤立気味だった。
 たまに、母親の会の人たちが近寄って来て、当たり障りのない会話をして行ってくれるのだが、JPのノリが悪いので、なかなか盛り上がらない。
いつの間にかダニエル家は孤立していた。

 食事の時に、よく喋る3人のグループのそばに席を取ったので、そのひとたちがJPを盛り上げてくれるかなーと期待していたのだが、3人で、3人にしかわからない会話を始めたので、また孤立してしまった。話しかけられないから話さないでいると、話さない人間だと思われて、もっと話しかけづらくなるものだ。誰も話しかけて来なくなってしまった。

 食事の後、なんだか酔っぱらいかけてる男性が、その辺にいる人たちにボトルで水を掛けるというイタヅラをはじめて、キャーキャーうるさくなった。追いかけっこなどしている。エコロなJPは、そういう人たちを冷たいまなざしで見ている。だから誰も私たちには水を掛けない。

 その騒ぎで陽気になった人々は、みんな立ち上がってサッカー場に向かった。ほとんどの男性が出て行って、サッカーを始めた。「あと2人ー」と言われて、一人出て行った。「もう1人ー」と言われて、最後の1人が出て行った。そのあと残ったのはサッカー大嫌いなJPだけになった。
JPは子守りをしている。子どもたちに飛行機や鶴を折ってあげている。人気だ。

 子どもたちと遊んでいるところにサッカーボールが飛び込んで来て、ゾエがぎゃあぎゃあ泣いたものだから、JPはすごい剣幕でサッカーボールをとりに来た高校生のお兄ちゃんを叱った。
ちょっとその場がシンとなるぐらい叱ったので、私は「まあまあ」となだめた。

 こんなダンナを、こーんなピクニックに連れて行ったのは、大失敗であった。

 帰ろうとしていたら、一日中ゾエといっしょに遊んでいたバランティンのお母さんが「帰りにうちに来てプールに入りませんか」と誘ってくれた。こーんなやつでも誘いたいんだろうか、とちょっと疑わしい目で見たのだが、バランティンとよく遊んでくれた、優しいゾエちゃんのお父さんであるJPを見込んだらしい。
 プールを持っているような、スノッブな人はあまり好きではないJPだが、押しに押されて断れなくなった。でも私は、前からその人がとてもいい人で、JPとも話の通じるタイプだと思っていたので、バランティンのうちに行けることになってけっこう嬉しかったのだ。

 ちょっと大きめのゴムプールで子どもたちを遊ばせ、私たちはアペリチフと簡単な夕食をごちそうになって、楽しい会話に花を咲かせ、「年中工事中」であるバランティンのお宅の工事現場を見学し、改装工事について意見を交わし、夜遅くに帰って来た。

 終わりよければすべてよし。
来年も行けるかなー。
子どもたちと私は楽しんでいるんだから、オトーさんにもがんばってもらおー。

2006/06/30

希望の星

 この前、高校卒業資格試験で、日本語のテストを受けたリュドヴィックさんからメールが来た。日本語試験の結果はまだ出ていない。

 リュドヴィックさんは、在仏日本大使館のホームページで、独立行政法人科学技術振興機構(JST)公募というのに応募した。《戦略的創造研究推進事業》というものらしい。

 その公募に採用されたら、日本へ7年間の留学が約束される。留学の費用は免除される。リュドヴィックさんの夢は、アルツハイマー病や老人性痴呆症に関する研究と治療で、日本はその方面の学問が大変進んでいるという。海外からの学生を受け入れて、英語での授業を行なう大学もあり、世界で通用する免許がもらえるシステムもあるらしいので、日本で勉強したいのだそうだ。
 なんといっても日本が大好きだし。

 パリでの面接試験への案内が届いたので、7月上旬に試験を受けなければならない。
試験は、日本の高校卒業程度の化学と生物の試験で、英語で行なわれる。もちろん日本語の試験もあるが、初級程度で構わないとのこと。どうしてそのような公募に応募したのか、日本で何をしたいのか、将来どんなことに役立てたいのか、それをちゃんと発表できなければならない。

 将来の希望を持って高校を卒業しようとしている若者に、本当に久しぶりに出逢った。

 日本語は自分一人で勉強していた。美術も、文学も得意だ。彼の家に招待された時、きっと高いお金を払って買った、とても偉い画家の絵おぼしき素晴らしい絵が飾ってあって、「素敵ですね」と感想を述べたら、お母さんが「この絵は息子が描いてプレゼントしてくれた」と言ったので、JPと2人でうなるほかなかった。
 「息子はこんなに素敵な絵も描けるんですよ」と自慢げに言われたからというよりも、「自分で描いた絵を、お母さんにプレゼントする」という、その青年の優しさに感銘したと言ったほうが正しい。自慢の息子に違いない。

 バカロレアの試験を受けるために準備していたテキストは、夏目漱石の『我が輩は猫である』だった。翻訳ではなく、日本語で書かれた本だ。今どき日本の高校生でも夏目漱石を漢字とひらがなで読む学生は少ないのじゃないだろうか。びっくりする。

 こういう若者が、日本文化を大切にして、わざわざ海を渡って勉強してくれて、フランスで紹介してくれるなら、どんどん応援したい。刺激されて、私も勉強するしかない。

 リュドヴィックさんのお母さんは幼稚園の先生だ。この幼稚園では今年一年「日本」をテーマにした様々な活動が行われていた。日本から派遣されて来た保母さんが毎週幼稚園児に日本語を教えて、日本の踊りや折り紙も教え、発表した。日本年を締めくくる最後のお祭りに、招待していただいたが、ちょうど私たちも学校のお祭りの日だったので、行くことができなかった。リュドヴィックさんは、私の代わりに書道のデモンストレーションを行なった。きっと私より上手なお習字を披露できたに違いない。

2006/06/29

ディスカヴァリー・メニュー

 暑かったので、後回しにしていたが、じつは、仕事が入っていた。

 この一年ぐらい毎月定期でもらっている、メニューの翻訳だ。
春はイチゴやアスパラガスをテーマにしたメニューだったが、夏となって、冷たい料理が増えた。
食べてもいないのに、メニューを訳すのは大変だ。

 インターネットで食通やレストランのサイトを検索すると、フランス料理のほとんどがカタカナ表記だ。仕事でもらっているメニューにはなかったのだが、インターネットで検索中に《グルニュイ》という単語がでて来て、「なんだこれ?」と思ってフランス語を見たら《カエル》だった。

 カエルのモモの肉というのは、チキンみたいな感じで、「カエルだ!」と思わなければ、日本人でも食べられると思う。ぜんぜん臭くないし、クセがない。でも日本人は《カエル》ときいたらやっぱり食べたがらない。《カエル》ときいたら、脳裏に理科実験で腹を割いたカエルの、股を開いた様子が目に浮かぶのだろうか。

 六年生のカエルの実験の時には、朝念じて熱を出し、学校を休んだので、理科実験でカエルのお腹を切ったりはしなかった。カエル嫌いで有名な「ト」さんは、しっかり学校にでて来て、しっかり気絶しかけていたらしい。私は絶対にカエルのはらわたなんか見たくなかったので、念じていたら熱が出た。それぐらい嫌わなきゃカエル嫌いとは言えないのだ。

 《グルニュイ》は一回食べさせられたけど、それきり食べようとは思わない。一回味見したから嫌いと言える。《サーヴェル (たぶん羊の)脳みそ》も食べたことがある。《エスカルゴ》も食べたことがあるが、私はミナが好きだから、貝類には強い。「これは貝なんだ」と念じたらエスカルゴも食べられた。でも一回食べたからもう食べないと思う。

 コックさんのお得意料理、季節の珍味、レストランお勧めの料理を集めたメニューがあって、こういうのは昔だったら《料理長お勧めのメニュー》などとやっていた。でもインターネットでいろいろ調べたら《ムニュ・デクべールト》とか《ディスカヴァリー・メニュー》となっていて、腹が立って来た。
 《ムニュ・デクベールト》だったら、日本に住んでいる日本人の耳で聞いたフランス語をカタカナにしただけだ。こーんなふうには発音しないし、書き換えたとはいえフランス語のままなら、翻訳者の名が廃る。いちおう訳した風で、しかもこのほうが日本人には感覚としてとらえやすそう、と妥協して《ディスカヴァリー・メニュー》としておいた。ちょっと悲しい。誇りを傷つけられた気分だ。でも、いまの日本人はどんなものにも簡単にカタカナを使うし、時には、カタカナで現した外来語のほうが感覚的にわかりやすかったりもするので、柔軟にならなければいけないのだと思う。

 インターネットで見たら《ミトネ》という単語が料理用語としてよく使われているのだと理解できたが、誰もがそう表記しているわけではなかったので、私は私のかすかに残っているプライドとともに《レギューム・ミトネ》とせずに《とろ煮の野菜》とした。
《イチゴ》とか《サーモン》はカタカナにしたが、《桃》や《鴨》は漢字のほうが素敵じゃないかと思った。
 だいたい《カモ》と書いたら、まるで、デートに連れて行ってよと言われて、彼女を三ツ星に招待したのに、車で送ってじゃあまた明日と言われてドアの内側には入れてもらえず、あげくの果てに翌日には捨てられた男、みたいじゃないの?

 《ミトネ》は、来月以降どうするか、コメントが来てから考える。

2006/06/28

お誕生会

 ノエミがクラスメートのテオ君の誕生会に呼ばれた。連れて行ったら、「コーヒーでもどうぞ」と誘われて、ノエミ以外に招待されていたママ連たちと、お茶することになった。
 知らない人のいっぱいいるところでお茶するのは、かなり苦手だ。そこで、興味ありげに、いろいろ質問されるのもいやだが、いかにも興味ありませんというふうに、無視されるのはもっと居心地が悪い。
 本日はお誕生会に呼ばれて来たのだから、ホスト役のご両親がいろいろ気を遣ってくれて、そこに居た人たちに私を紹介してくれたり、失礼にならない程度との思いやりがわかる態度で、程よく私のことを訊いてくれたり、ノエミのことを誉めてくれたりした。

 テオのお家は、丘の上の高台にあって、塀も壁もない代わりに、ご近所の目もない。庭に立って360度見渡せる家にお邪魔したのは、久しぶりだった。お家の人は庭を、裸で走り回っても、きっと大丈夫だろう。プールがあって、20人ぐらい招待していた。

 招待されると招待仕返すのがしきたりだが、「招待するのが申し分けない」ということもたびたびある。おまけにテオの弟のユーゴーとゾエが同じくらいの年齢なので、「ユーゴーのお誕生日にはゾエちゃんを呼ばせて」と言われてしまった。2人とも呼ばれたら、ご両親さまを夕食にご招待とか。。。そういうことまで、普通だったら考えねばならない。

 「ゾエは夏休み中だし、ノエミは冬休み中なので、誕生会はしないんですけど、いつかお茶でも飲みに来てください」などと言って、とりあえず逃げた。まずい、これではできかけたお茶友を失う。

 テオのお父さんは町で眼鏡屋さんをやっている。お母さんもたぶん仕事していると思う。いつも仕事に行くような化粧をして、キャリアウーマンみたいな服を着ているけど、じつは専業主婦かもしれない。おとなしい女の子が2人居て、私はこーんなにやつれているのに、学校でも一番という暴れ者の男の子が2人も居るお母さんがあんなにきれいなのは、絶対なにか、ある。お家もあーんなにきれいだった。どういうことだ!?

 テオのお父さんとお母さんは、雑誌から抜け出て来たようなカップルだ。
 お父さんは、バービーの恋人のケンみたいに、笑うときらっと輝く白い歯に、最先端のスーツなんか来ている。プールサイドで身につけていた水着も、今年人気の柄で、色も褪せていなかったから、去年は履いていなかったに違いない。
 お母さんは、こめかみにシャネルのロゴがどーんと入ったかっこいいサングラスを、スターみたいに頭の上に載せている。「ケン」の横に立っていると、本当にバービーみたいだが、身長が足りない。私よりも背が高いけれども、私と同じで「16歳用の服が入るから安上がり」と言っている。

 敗北感にまみれて帰宅したが、じつは思っていたよりもとても感じのよい人たちで、おしゃべりは楽しく、もしかしたら相手に合わせてくれるという、優しさを持った人たちなのかなーと期待できた。ユーゴーのお誕生日で、また会えるのが、じつは楽しみだ。

2006/06/27

ざジズーぜぞー

 サッカーをやっている。うちにはテレビもないし、サッカー好きもいないので、あまり関心ない。でも、日本から「フランス勝ったね、おめでとう」などのメールが入る。ちょうどその頃、ウィンブルドンのテニスで、日本人の女性が健闘中のニュースはラジオで聞いていたけど、わざわざ「日本人がんばってますね、おめでとう。応援しています」などのメールは誰も書かずにいた。けっこう薄情だ。

 親の家で暮らしている時には、《青梅マラソン》も《オリンピックゲーム》も《甲子園》も、盛んに見ていた。親がつけていたから。《大相撲 秋場所》なども必ずついていたけど、私はあれだけはどーも嫌いだ。
 私はなぜかアイスダンスだけは好きだ。
 そういえば海外でも衛星放送で日本の番組が見られるよと、よく人に言われる。
「で?何が見れるの?」と訊ねると《SUMO》と返事が来るので《ちっ》と舌打ちしてしまう。

 余談だが、両親が日本人でフランスで育ったかずし君という少年が、「ちぇっ」と舌打ちするさまが、かなり印象的だった。「ちぇっ」と言うのだ。はっきり声に出して言うのだ。
「ちぇっ」というのは、確かに《舌打ち》の表現だけど、これは漫画などで《音》を表現する時の文字ではないか?擬態語って、書くことは多いけど、あまり声に出して言う人はいないのではないか?マンガで日本語を勉強する若者の落とし穴だ。
 《ちぇっ》というのは《ごっくん》とか《しくしく》みたいなものではないだろうか?《しくしく》とか《さめざめ》と言いながら泣く人なんていない。ちなみに《ちぇっ》は広辞苑に載っていなかった。擬態語なんだろうか?それとも擬音語?(問題提起、宿題とする)

 本題に戻る。
日本の芸術家やスポーツ選手の活躍を、テレビやラジオで訊くことはほとんどない。
音楽方面での日本人の活躍は目覚ましいと思う。ラジオで音楽番組を聞いているからだろうか?
でもスポーツ界の日本人の活躍は、ほとんどきかない。アイススケートと、スキーのジャンプはとても優秀よと、誰かにきいた覚えもある。そういう公式の試合で日本人を応援しないのは、わたしって薄情なんだろうか?《相撲》を見ないのは、よくない日本人の証なんだろうか?

 この前インターネットのラジオ(http://www.nhk.or.jp/nhkworld/japanese/index.html)で相撲の中継を聞いてみたら、一番強い関取は韓国人だった。相撲界はハワイ人だけではなくて韓国人にまで乗っ取られているとは、知らなかったのでびっくり、ちょっとがっかりした。
 《がっかり》の瞬間に、ささやかな愛国心が生まれた。(?)

 フランスサッカー界のホープ《ジズー》は、私でも知っている。とても控えめな彼は、あまりマスコミでも口を開かないし、口を開くとみんながほろりと涙を流すようなことを言う。ボランティアとか、チェリティーとか、そういうことにもたくさん参加しているみたいだ。一度彼がプレーしているのをテレビで見た。
 あれよあれよと敵のゴールへ向かい、ひらひらと飛ぶように芝生の波間を泳いでいた。いつも真剣で、厳しい顔をしているのに、ボールにはとっても優しいんだろうねえーと思った。ボールのほうが彼を好きみたいだった。もうすぐ現役をやめるらしい。惜しまれてやめられるのが潔くてよい、と私は思うけど、ちょっと勿体ない。

 サッカーの試合の日は、テレビやラジオをつけなくてもわかる。試合前に、トリコロールの国旗を翻しながら、若者たちが車で走り回る。
 試合が終わると、ご近所から一斉に声が上がる。
勝った場合には、試合終了の数分後に、クラクションを鳴らしながら、(たぶん国旗も翻しながら)走り回る車の数が増える。
 決勝に近づくに連れて、走り回る車の数や、路上での騒ぎが増える。

 みんなにとっての、眠れぬ夜。
時差があるから、日本のみんなには大変だ。