2009/01/30

たんこぶ から こま

 ベルナーにちょうだいしたたんこぶが、あまりにも痛いので、医者に行ってしまった。
こんなことは始めてだ。
 風邪を引いても、「押してやれ〜」と言って治すわたしなのに、今回はあまりにも痛かったので、頭の中がどうにかなっちゃったんじゃないかと思って、とっても不安だった。

 友だちが、「にっこり微笑んでみて」「両手をあげてみて」「簡単な文章を言ってみて」と。。。「いきなり倒れた人の脳が正常かどうかを見るミニテスト」のチャートを辿って、わたしに質問してくれたので、それをやると、全部OKだったし、倒れた訳でもなかったので、大丈夫だろうとは思ったけど、やっぱり医者に行ってみた。

 マスリ先生は、友だちと全く同じテストをやった。これには感動した。「いきなり倒れた人の脳が正常かどうかを見るミニテスト」のチャートというのは、インターネットでPTAのママさん仲間から回って来たもので、それをわたしが友だちに回したものだったのだが、友だちに回しながら「ヘッ、こんなものがいつ役に立とうぞ」と思ってもいたのだ。じつは。PTAのママさん仲間が暇つぶしで見つけたインターネットの記事が、たまには役に立つこともあるんだなあ、と、感心する。

 さて、ちなみに、そのママさん仲間からは、もうひとつのメッセージが。。。
現代のこの時代に、携帯電話をポケットに入れていないのは、わたしぐらいだ。ポケットに入れてる携帯の電源を入れてないのは、JPぐらいだ。みんな、電源の入った携帯をポケットに入れている。事故に遭った人も、ポケットに携帯を入れていることが多いのだが、救急隊の人が到着したとき、携帯に入っている電話番号の、いったい誰に、緊急連絡をしたらいいのか、わからないことが多いと言う。
 一番上のAのところにいる人が、その人の家族や恋人だとは限らないから。

 それで、 ICE (= In Case of Emergency) というコード名で、一番最初に連絡して欲しい人の名前を入れておいてもらいたい、というのが救急隊からのアドバイスだそうだ。
 例えば、わたしだったら、 ICE のところにJPの連絡先を入れておけば、もしもの時に、まっすぐそこに連絡してもらえるのだ。
 ただし、JPの携帯は電源がいつも切れているので、 わたしは ICE のところにノエミの番号を入れておこうと思う。ノエミはクリスマスにサンタから携帯をもらってから、いつも、誰かから連絡がないか、心待ちにしている。いつもメッセージをチェックしている。携帯を買ってあげたら、友だちと一日中やり取りするのかと思っていたが、友だちもみんな電話料金を気にしているらしく、みんながみんな「誰かが掛けて来るのを待ってる」状態だ。

 「たまには素晴らしいインフォーメーションが届くんだよ、わたしのママさん仲間からも」と威張っていたら、JPが、冷たい目でわたしを見てこう言った。
「携帯電話は、事故った時に窓から放り出される場合もあるし、電源切れてることもあるし、それに、コードがわからないと作動しないんだから、救急連絡先はよそに書いておいた方がいい」
 さすが、事故った時に、電源の切れた携帯電話を窓から放り出した覚えのある人の意見は、重みが違うなあ。(ちなみにその電話は、わたしのだったのよね)
 と、いうわけで、わたしたちは、免許証の隅っこに、緊急連絡先をペンで書いておくことにする。

 さて、たんこぶは、ただのたんこぶだった。
筋肉痛と同じで、打たれた次と次の日ぐらいが一番痛く、そのあとはどんどん楽になった。
ただのたんこぶですよと言われて、なんでこんなところまで来てしまったのと思いつつ、「ええと。。。四十を過ぎて、健康に自信がないので健康診断してください」とお願いして、あちこち聴診器をあててもらい、内臓の検査や、血液検査もしてもらえるように、手続きをした。
そういう本格的な検査は、大きな病院でやるので、紹介状を書いてもらった。
とりえず、見た目、たんこぶはただのたんこぶだったが、おかげで健康診断を受ける決心ができたので、ま、よかった。
この1年いろんな人に「健康診断をしろ」と言い続けて来たのに、自分を忘れていた。

 しかも、ベルナーをどうにかして叩き直さねばと、剣道の新しい指導方法について、見つめ直す機会となった。日本から戻ったら、もうちょっとまじめに稽古に行こうと思う。今度帰って来る時には、新しい防具が一式揃うのだ〜〜。
 

2009/01/26

礼で終わる

 お正月の挨拶をかねて、剣道の友達フレデリックから電話があった。ロデツのクラブで剣道のある火曜日と木曜日に限って、よくいろんなことが起こるので、休んでばかりいる。年が明けてからまだ一度もロデツまで行っていない。先々週と先週はJPが2週連続でパリに行っていたので、わたしは日本語のレッスンまで休むことになってしまい、剣道どころではない。

 今度の日曜日は、アルビの道場で合同練習があると、フレデリックに誘われた。
わたしはアルビAlbiとロデツRodezの間のカーモーCarmauxという町に住んでいて、今年はロデツのクラブに登録している。自宅から車で45分ぐらいのところで、稽古は夜の8時半から10時まで。子供たちに夕食を出して、みんなが食べている最中、7時頃に家を出る。帰りは夜中になってしまう。そういう日は、家族と1日にあったことなどを話したりもできないし、ゾエのシャワーや読み聞かせもJPに頼まなければならないので、心が痛い。本当は毎日でも剣道に行きたいのだけど。。。子持ちの主婦が夜の貴重な時間に家を開けるのは、大変なことだ。

 土曜日は南西地方に、強い暴風雨(「嵐」という単語)の予報が出ていた。すでに金曜日の夜から各地で被害は出始め、土曜日はうちの県に大きな被害が予想されていて、「用のない人は自宅から出ないように」という注意が盛んにラジオで流れていた。けれども、待っても待っても暴風雨らしきものはやって来なかった。なので我が家では予定通り、土曜日の午後ゾエが友だちをうちに呼んで、お返しに、夜は友だちのうちにお泊まりということになった。

 日曜日の午後まで友だちの家で面倒見てくれるというので、日曜日の朝というのに、わたしは7時半に起きて、9時からの稽古に出掛けた。日曜日の昼食は土曜日の夜に準備した。

 ひさしぶりに行ったアルビの道場は、ちょっと改修されていて、中もずいぶん使いやすくなっていた。ドレイ先生を追い出した場所に、新しい部屋ができていた。ロデツの2人の女性剣士仲間も来ていて、新年の挨拶と今年の抱負を語り合った。

 「みのり、見て、あれ」
ネヤンデが宙を指差す。
監視カメラがわたしたちを睨んでいた。
 今朝家を出る時に、JPに「あそこの道場は女子更衣室にカメラつけてるからいやなのよね〜」と言っていたところ。いつもは自宅で剣道衣に着替えて行くのだが、この日は剣道のあとお食事会もあるということだったので、ちょっとおしゃれをして出掛けることになっていた。シャワーを使う準備もして行ったが、じつはシャワー室にも監視カメラがあったらいやだな〜と思った。
 モニークは、更衣室のベンチをずるずる引っぱって来て、カメラの下に運び、更衣室の隅っこに忘れられていただれかの黒い靴下を、カメラにかぶせてしまった。おぬしなかなかやるな。

 「監視カメラの向こうにいるクリスチャン(例の、寝技が好きな元柔道チャンピオン)が、走ってやってくるかも」と言いながら3人で笑い転げていたら、いきなり女子更衣室のドアが外から激しく叩かれ、飛び上がるほど驚かされた。
「クリスチャンだっ!」
 わたしたちは大慌てで出て行ったが、結局ドアを叩いた犯人が誰なのかは分からなかった。「急げ」の合図だったのだと思う。クリスチャンではなく。。。

 ドレイ先生はお留守だったので、三段のベルナーが指導者となった。ちゃんとノートに稽古内容も書いて来ていて、自分なりに準備を整えたのだと思う。わたしの方が先輩なんだけど、ベルナーのクラブなので、ベルナーが仕切るのは当然だ。
 ベルナーはかなり興奮気味で、リキが入っていて、とっても《熱い》稽古だった。彼は教えるのが好きだ。
 一つ困ったのは、彼が《熱く》なるとわたしは《痛い》目に遭う。いやな予感がした。

 ベルナーは身長が185センチぐらいで、痩せている方でもない。そんな男性が、『ぎゃあー』と叫びながら竹刀を頭の上にかざして、降り掛かってくるのだから、油断はできない。油断していたら吹き飛ばされるし、吹き飛ばされた経験は何度もある。以前いたクラブには2メートルのアフリカ人がいて、「胴〜」と言って《面》を横からはり倒されたこともある。
 ベルナー独自の薪割りのごとき面をなんども打たれて、もう本当に我慢できないほど痛かった。
普段両足にマメができて潰れても、どんなに右手首が(小手を打たれて)赤くなっても、今まで稽古中に「痛いからやめて」と言ったことはほとんどないし、稽古中にひどいけがをしたこともないのだが、その日のベルナーの面は、はっきり言って殺されるかと思った。

 小さなたんこぶがいくつかできて、頭の中がじんじんする。大きなたんこぶがたくさんできる方が、まだマシだ。冷やして痛み止めも飲んで寝たが、日曜日の夜にはちょっと熱も出た。だからあしたは医者に行く。おでこと後頭部まで痛いような気がするので。
なんてことだろう!
あしたマスリ先生に、どうしたんですかと聞かれたら、なんと説明したらいいものか。
「身長185センチの大男に棒で殴られたんです」
と言ったらびっくりするだろう。
まさか、好んでそうさせた(頭を打たせる)なんて、誰が信じるだろう。
こんなことで頭にたんこぶを作っている主婦は、ご近所ではわたしぐらいだろう。
二の腕や首の下に、ツキを喰らってできた痣を見せたら、ドメスティック・バイオレンスとか言われて、JPが刑務所送りになるのではなかろうか。

 もっと稽古に参加して、ベルナーに痛くない面を教えなければ。。。
素早くて、正しい打ちのできる人の面は、痛くない。剣道は本当は危なくなんかない。
ちなみに、試合をしてベルナーに打たれまくったのではない。《元立ち》という打ち台代わりの人を、バンバン打つ《掛かり稽古》という稽古があるのだ。

 3時間も稽古をした。やりすぎた。でも、たんこぶを作った以外は、充実した合同練習だった。
みんなで車に乗って目的のステーキ屋さんに行くと、まっている人が多すぎたので、隣の中華料理店に入った。わたしたちのグループは全部で13人。そのうち有段者は4人で、他の人たちは剣道をはじめてまだ1年以内。まだ、剣道について質問できるほど技術的なものも習っていないし、他の講習会や試合も見たことがないので、共通の会話があまり見つけられないものの、2.3人のおしゃべりさんのおかげで、席は盛り上がり、とても楽しい時間が過ぎて行った。年代もバラバラで、若い人たちも《農家の息子風》やら《インド帰りのババクール風》やら、《高級車を乗り回す大学生風》までいる。そのうえ、2つのカップルに見えるその人たちは、じつは一組が姉弟で、もう一組が母子。場違いにも《ブルジョワ有閑マダム風》に着飾った妻を同伴してしまった《ピンボール屋の親父》ピエロ。ベルナーは《ビジネスマン風》で、フレデリックは《安月給な公務員風》で、わたしは《変な帽子をかぶった中国人》に見られていたはずだ。レストランに来ていた他のお客たちには13人の共通項が、まさか《剣道》だなんて、思いもしなかっただろう。そこにいた誰かひとりでも《剣道》なんて知っていただろうか。

 今年はもっと上達しようねー、えいえいオーで、解散となった。

礼っ!ありがとうございましたっ

せんぱい



 ドレイ先生(向かって左)
剣道五段、居合道五段、合気道・柔道合わせて五段ぐらい?

 ネクトゥーさん
この写真は4年ぐらい前のものなので、たぶん83歳ぐらい?
長く柔道を教えていた。フランス柔道界発展に貢献した人。
剣道は初級のまま。試験も試合もあまり好きじゃない。

2009/01/21

巻きずしのなせる技

 このごろ、巻きずしばあ〜かり、作っている。

クリスマスの前にも大量に作ったし、お正月にもたくさん作った。

 JPは先週、労働組合のパリでの月例会議のために上京しなければならず、その労働組合の会議っていうのは、お昼は持ち寄りでピクニック、というのが恒例なので、参加のたびになにか持って行かねばならない。これまではオリーブとハムの入ったケーキだとか、キッシュだとか持たせていたのだが、先週はJPからのリクエストが出て、巻きずしを持って行かせた。
 「みんなが、巻きずしとってもおいしかったと言っているよ」とパリから電話があった。

 さて、一週間も経っていないが、今週はネクトゥーさんの家に遊びに行くと宣言して電話で約束までしたので、ネクトゥーさんのために巻き寿司を作ることにした。

 ドレイ先生が来ていた。いつも2人っきりを好むネクトゥーさんなのに、ドレイ先生までご招待とは、どうしたことだ!?

 わたしが持って来た巻きずしの量を見て、2人は「なぜ彼(私)の来ることが予知できたんだ!?」と大騒ぎしている。予知なんかしてませんって。用心しただけ〜。ネクトゥーさんの家には、たまにドレイ先生も出没するので、もしものことを考えて、三人分ぐらいにはなりそうな量を用意したの!

 ちなみに、ネクトゥーさんというのは、わたしのボーイフレンド。彼はつい最近まで、フランス剣道界現役剣士、最高齢記録者だった。数年前からちょっと調子が悪い。でも、内臓と口は達者なので、元気ぴんぴんな85歳(以上?)居間に裸の女性のカレンダーを貼っている。そして、近所の中華料理店ではたらくアジア人ウエイトレスに恋する怪しいジイさんだ。

 ドレイ先生というのは、わたしの剣道の先生。でも、わたしが去年から他のクラブに鞍替えしたので、先生にはあまり会えなくなった。ドレイ先生は、私立の武道場の、物置みたいな小さな部屋で暮らしていたが、去年そこを追い出された。そこのオーナーは、武道館に通うピチピチのティーンエイジャーに寝技を教えるのが生き甲斐という、危険な元柔道チャンピオン(チャンピオンなりそこないだろうね。ありゃ。)で、クラブ活動費というと、他の剣道クラブの2倍もとりゃ〜がるので、わたしにはドレイ先生が追い出された恨みもあって、腹いせにアルビのクラブを辞めた。先生いなくちゃ行っても仕方ない。
 「うちの道場には、日本人に剣道を教えるスゴイ先生がいる」というのが以前の宣伝文句になっていたが、日本人に教えられるスゴイ先生どころか、フランス人に剣道を習う日本人まで居なくなってしまった。悪どい経営状態のせいか、不純な元チャンピオンの顔のせいか、このごろ人の数も減っているようだ。
 ドレイ先生は今やトゥールーズの方に行ってしまい、わたしのクラブとは100キロも距離がある街の、運動施設の物置みたいな部屋で、全財産(全部で100キロぐらい?)とともに暮らしている。たぶん72.3歳。

 ネクトゥーさんには秋に会っていっしょに食事をしたが、ドレイ先生に会うのは本当にひさしぶり。
 ドレイ先生は、「みのりにどうしても訊きたいことがあったんだよ」と言って、スポーツバッグの中から、2005年に賞味期限が過ぎてしまった《みそ汁パック》と、2004年に使用期限の過ぎてしまった《ホッカイロ》を取り出して、「どうやって食べるの?」と訊く。ううっ、食べさせていいんでしょ〜か。。。
 とり合えず、ホッカイロは食べちゃイケマセンよと教え、みそ汁は。。。そりゃあ食べ物ですけど、やめといた方がいいんじゃないの?とアドバイスをした。
 「なんだ、ミソだったら、そりゃあ腐ってるのは当たり前だから、腐ってても食べられるっしょ」と一人で納得して、ホッカイロよりもホクホクな笑顔で、スポーツバッグに片付けてしまった。

 他に、日本に行ったときに、お寺で撮った記念写真を見せられ、手に持たされているものについて訊ねられる。
「これはお数珠っていうんですよ。念仏を唱える時に使うんですよ」
と教えたものの、まあ、あまり関心はなさそうだった。

 で?他に?なにか訊きたいことは?

 。。。別にない。。。。何もない。ただ。。。会いたかっただけ。。。

     かわいい〜〜! うれし〜〜〜い ♪

この怪しげなジイさんたちには、いつも心を癒される。

 ネクトゥーさんとわたしは、いつものようにお線香をたいて、カセットに合わせて般若心経を詠んだ。その間、ドレイ先生はソファーでおとなしくしている。般若心経が終わると、だだーっとやって来て、テレビをつける。テレビではカバがウンチをしてるところや、サルが蚤取りをしている様子などが映り、ドレイ先生はじっと見入っている。
 
 「あっち行こう。フランソワ(ドレイ先生の名前)の小屋にはテレビがないから、うちに来ると一日中でもテレビを見てるんだよ。」とネクトゥーさんに誘われる。わたしは家中のお掃除をして、ネクトゥーさんは前菜となるポワローのキッシュと、デザートになるガレットデロワを、オーブンで温め始める。その間に配達されたボルドーの一級ワインを開けるように言われ、わたしはワインを飲まないので、「そんなことではいいオンナになれんぞ」と言われながら、棚の中を漁ってグリーンティーのティーバッグを探した。

 怪しげなジイさんたちはワインを2本開け、ネクトゥーさんはドレイ先生に「ボルドーのワインは嫌いだ」などと言われれて、「みのりの巻きずしは、おまえには分けてやらないぞ」と脅しながらも、ドレイ先生のために、棚の中からキッコーマンのお醤油とチューブの練りわさびを出してあげるようにとわたしに言った。
 ドレイ先生は調子づいて「お箸はないのか」と言い、ネクトゥーさんに「巻き寿司は手で食べてもいいんだよ」と言われると、ムキになって、「巻き寿司はお箸で食べなければおいしくない。ほら、お箸だったら裏返せるし」と言いながら、しょうゆでびちゃびちゃになった巻きずしを、裏返して、裏までびちゃびちゃにして、しょうゆの垂れる巻きずしを口の中に放り込んでいる。
通なんだか、なんだか。。。

 おいしかったよと言いつつも、話しているうちに、じつは、ドレイ先生には味覚のないことが発覚した。
数年前までは森に入って鉄砲で鳥を撃つのが大好きだった。そのついでに、足元で薫っているキノコを、採って持ち帰るのも大好きだった。じつにサバイバルなおじさんだったのだ。それが、このごろ、キノコの匂いも、森の香りも、動物の糞の臭いも、たいていのものに香りを感じられないことに気づいたという。すると、食に対する喜びや、自然の中で過ごす楽しみが、薄れたような気がすると言う。
 20歳年上のネクトゥーさんから「年寄りだから、頭の神経が腐ってるんだ」と言われちゃってる。

 クリスマスもお正月も、誰も連絡をくれなかった。誰も葉書をくれなかったと嘆く。剣道ばっかりやってるうちに、女房に逃げられ、子供は女房の見方だからサと、愚痴り始める。あちゃ〜、こんなじいさんは危ないので、話題を変えなければ〜。

 話題を剣道に持って行くと、2人はよみがえる。ドレイ先生は立ち上がり、狭い台所で木刀を振り回し始める。
「わたしが12年考えて、できるようになったテク」。。。などと言って、いろいろと見せてくれる。毎日これを続ければ、あんたでもフランス1になれるなどと言い始める。実に、簡単そうだ。フランスチャンピオンにでもすぐなれそうな気になって来るじゃあないの。
 生活の中でこんなことに注意すれば、姿勢が剣道向きになるとか、歳を取ったらやり方を考えなきゃならないとか、「1メートル48センチのキミでも、2メートルの敵に勝てる技」など。。。出て来る。出て来る。

 その他に、自分たちが若かりし頃、フランス剣道界の先駆けとなった人たち(つまりドレイさんたち)を育ててくれた、日本人の先生方、例えば楢崎範士九段、中西康範士九段、『昭和の武蔵』と呼ばれた中倉清先生、そして、フランス剣道連盟に大きく貢献してくださった、わが恩師でもある佐藤彦四郎先生との、楽しい思い出の他に、そのような大先生方から習った秘密の教えなど、出て来る。出て来る。
 
 「いいんですか?そんな貴重な隠し技。わたしなんかに教えて。。。。」

 ジイさんがたは2人して、顔を見合わせる。
「わしらが死んだら、誰があとの人たちに伝えてくれるね。みのり、今のうちに勉強してもらわんと。。。それに、巻き寿司も作ってもらったし〜」

  ドレイ先生は、この冬、リュクセンブルグで七段の審査を受ける。普段稽古する相手がいないので、こつこつと一人で稽古しているそうだ。こつこつと、いつも、一人で稽古して来たのだ。これで3回めだろうか?3回めで七段に受かる人は少ないだろう。でも、本人は、5回も6回も受ける時間の余裕なんかない。と。。。少々焦り気味。


 お二人には、まだまだ「歩く物知り辞典」でいて欲しい。
「また巻きずし作って遊びに来るから」と言うと、ネクトゥーさんが目を潤ませた。

2009/01/19

笑う角には福、福ちゃんも笑った。





 年明け最初の中学のにほんごクラブで、福笑いをやった。

 けん玉と羽根つきの羽子板とカルタも見せ、破魔矢とプラスチック・ミニ門松も、持って行ってみせた。除夜の鐘と、おみくじと、お年玉について話した。
 日本のお正月は、もう20年以上味わっていない。お餅もずいぶん長いこと食べていないなあ〜。今日は、やっとそばを食べたので、やっと年を越した気分だ(?)。去年の年末には、おそばを打たなかった。

 中学のにほんごクラブは、お昼休みの50分だけのもので、義務ではない。お昼に自宅に帰って食べない子供のためのクラブだが、にほんごクラブに来ている子供の多くは、自宅に帰って食べてもいいのに、わざわざクラブ活動のために食堂に残っている子供たちがほとんどだ。午後の授業のせいで、2週間に1回しか来れない生徒もいる。1回50分なので、たいしたことができないのだが、にほんごクラブが始まった時に、あまりにも張り切っているわたしを前に、生活指導の先生が、「このクラブはお昼休みの延長みたいなものなので、宿題なんかは出さないように。あまり難しいことをやらないように。途中まんがいち休んでも、続けられるような指導法と内容にしてください」と言われた。なので、文法的なことや《難しいこと》は何もできない。

 今日は、これまでに勉強した《あ行》から《な行》までを使って、動物の名前を読み書きさせた。それから、基本的な色11色ほどもローマ字で書き出してみた。今日は折り紙で動物を作る予定だったので。
いぬ・ねこ・さかな・たこ・いか・たつ・うさぎ・うし・いのしし。。。など。
忘れてたけど、こんなのもできる。
さけ(サーモンの方)・かき(牡蠣の方)・かい・えい・かつお・たい・きつつき

 無地の折り紙300枚セットを持参した。最近は折り紙ブームで、文房具屋さんでもORIGAMIを買うことができるのだが、日本の折り紙とは肌触りも、硬さも、色彩も違うので、「教材費用は請求してください」と言われても、文房具店に行く気になれず、やっぱり自分ちにある折り紙を持って行く。



 毎年夏に行なわれる小学校のお祭りで使った、《クマ》《ネコ》《さかな》などの作り方説明の紙を配り、3つのグループに分かれた。それから朝インターネットで見つけた《ハート》も加えた。昔、ノートの切れ端に手紙を書いて、それを、シャツの形や、ハートに折って、友だちに渡した覚えがある。紙がそのまま封筒になる仕掛けは、今でもいくつか知っているし、こたつでみかんを食べながら、チラシを折って《ゴミ箱》を作り、むいた皮をそのまま捨てていたが、このテクニックは今でも役に立っている。
子どもたちが、もっと教えて欲しいというので、こんなサイトを紹介した。
http://www.origami-club.com/

 さて、文法はできなかった。なかなか《日本語》のレッスンらしくならない。子どもたちは毎週とても楽しみにしてくれているようだ。《にほんごクラブ》のブログにも、書き込みが入るようになった。
 もっとおもしろいクラブにするにはどうしたらいいだろう?夏まで、続けていけるのかなあ。2月のカレンダーは、いつ作ろうか。この前クリスマス休暇が終わったばかりだというのに、2月7日から2週間の冬休みに入る。

 来週は、『歩こう』の歌を教えようと思っている。ひと昔前の日本語教師はよく坂本九の『上を向いて歩こう』を教えたものだが、このごろの『歩こう』と言えば、トトロの主題歌だ。

 今日、ゾエが一人でいきなり『うらしまたろう』を読んだ。小さな絵本だ。
びっくりした!!
 

2009/01/16

今年もよろしくお願いいたします


朝早く出掛けるわたしのために、わざわざ起き出して、抜けた歯を見せに来たゾエ。
下からすでに新しい歯が出て来ている。

 バタバタしている間に、年が明けてしまった。
お正月と言っても、たいしたことは何もやらなかった。
1月4日までのクリスマス休暇は、ナルボンヌのJPの両親の家で過ごし、そのそばに引っ越して来たJPの弟たちの手伝いに追われた。義弟の家のトイレ掃除をしながら、自分ちのお掃除だってまともじゃないのに〜と思って、ちょっとおもしろくなかった。お天気が悪くて外には出られず、子どもたちと交代でDSで遊んだ。ちょっとだけ地中海も見に行った。隣の家のおじさんが首つり自殺をして、救急車や警察の車や、野次馬や親戚が集まった元日以外は、ダニエルさんちは実に平和だった。子どもたちがうるさく元気だったおかげで、義父母の辛さをすこし緩和できたかもしれない。そばにいてあげられてよかった。

 新学期が始まり、月曜日から日本語レッスンも再開された。新年の第1回目は、た行《たちつてと》の導入。ここで、《て、あし、くち》などをやりながら、まだ全部は平仮名で書けない《あたま、はな、かみ、め、みみ》なども絵を描いて教える。
 平仮名をちょっとやったところで、持参した《破魔矢》《羽子板》《お正月の飾り、門松ミニ版》《カルタ》《けん玉》《お年玉袋》などを机の上に並べて紹介した。そして、《め・はな・くち》が言えるようになったところで、《福笑い》を出す。
「これはなんですか〜?」「くちで〜す」
などとやりながら、《福笑い》はバカ受けだった。
それから、《カルタ》はカルタでも、日本語教育教材用の、おもしろいカードを持って行っていたので、た行までしかやっていない子どもたちでも充分遊べた。

 火曜日から土曜日まで、日本から来るテレビの撮影隊に拘束されるので、一週間の買い物や、作り置きの食事を冷凍庫にしまう作業や、アイロンがけで、月曜日は大忙しとなった。ホテルと車の予約確認と、部屋のカギの受け取り。子どもたちの食堂の申し込みをしていなかったので、大慌てで市役所まで走った。この一週間の予定表や、インタヴューなどの使われる質問表を、印刷したり、心の準備をしたり。。。

 このようなご一行をお世話すると、朝と夜、家族とはすれ違いになる。ゾエは友だちの家に2日間泊まらせたので、その間は、顔も見れないから、空港お出迎え直前までくっつき虫だった。火曜日にパリで降った雪のせいで飛行機が遅れた。そのおかげで、アルビからいったん家に戻り、子供たちと一緒に食事することができた。その代わり、ご一行をホテルまで送って自宅に帰って来たのは、午前2時を過ぎていて、もちろん家人はみんな寝ていた。
 ノエミは新学期そうそう「かばんが壊れたから買いに連れて行って〜」などと言いだす。ゾエはというと、はじめての乳歯が、泊まっていた友だちの家で落ち、血を流して大騒ぎしたらしい。記念すべき第1本目なので、お祝いをしなければならなかったし、ノエミの時のように、なにかネズミに関する盛大な記念の贈り物がしたかったのに、バタバタしていたので用意できていなかった。ぐらつきはじめてからもう少し時間があると思っていたのに〜。

 フランスでは、乳歯が落ちた時には枕の下に置いて寝ると、夜の間にネズミが取りに来て、代わりに朝お小遣いやプレゼントを置いて行ってくれることになっている。ノエミの時にはシルバニアンファミリーのおもちゃのネズミさんに、来ていただいた。だいたいの家庭で2ユーロか1ユーロの硬貨を置いておくのが普通だが、わたしはコインよりも、ネズミに関する記念品を置いてあげたかった。お金には興味のないゾエは、おもちゃがもらえることを楽しみにしていた。

 ゾエは水曜日の夜取れた乳歯をティッシュに包んで、木曜日の夜友だちの家から自宅に戻りわたしを待ち構えていた。歯が1本欠けていて、変な顔だと思った。金曜日の朝はやく枕の下にコインを置いてあげた。うれしがってはいたけど、楽しみに待っていたおもちゃではなかったからちょっと残念そうに見えた。お祝いをしてやれなかった後ろめたさでそう見えたのか。
 金曜日の夜、撮影隊とレストランに向かう前に、みなさんが着替えをしている間、ほんのちょっとだけ一人で行動できる時間が持てたので、わたしはダッシュでおもちゃ屋さんに行き、ネズミのおもちゃを買った。そうして大急ぎでカーモーに帰り、ゾエの枕の下に突っ込んで、再びアルビに戻った。

 土曜日の朝は、顔を合わせなかったので、どうなったかわからなかったのだが、土曜日の夜遅くにトゥールーズから戻って来ると、ゾエ本人は、枕の下におもちゃが隠れていることには、まだ気づかないでいるようだった。前日あんなに大急ぎで支度したのに。
 土曜日の午後それを発見して、「わ〜気づかなかったけど、ネズミさんが来てくれていたんだ〜」と言って大喜びだった。数日間子どもたちとすれ違いだったので、申し訳ないと思っていたが、ちょっとだけ挽回できたかな。

 ノエミのかばんは、JPが買ってくれてあった。ノエミは大胆にもJPを引っ張り回していた。選ぶのにさんざん時間を掛け、店を換え、しかも親のアドバイスも聞かずに、丈夫な方ではなくかわいい方を選んだアサハカナ娘に振り回されて、「もう絶対にオンナと買い物に行くのはヤダ」と言っている。オンナのショッピングバックを持ってついて歩くことに慣れていない男は、1回で懲りるから困る。これで、水曜日から始まっているバーゲンセールを、JPと歩けないこと決定。

テレビの撮影隊

 休みが明けて新学期が5日から。
 そして6日、東海テレビの撮影隊がアルビに到着。その前から《コーディネーター》を任命されていたので、ホテルや車の手配、レストランの予約や撮影場所の諸許可もらいなど。。。年内ちょっと忙しかった。
 
 8人の若者はトゥールーズ空港に、4時間ぐらい遅れて到着した。前日の大雪でパリの空港は混乱状態であることは、インターネットの検索と、ラジオのニュースで把握していたものの、22時50分過ぎの到着となり、先が思いやられた。しかも、トゥールーズ到着便最後の飛行機で、荷物を受け取れなかった人が大勢おり、わたしの日本からのお客様方も、撮影機材を中心に全部で7つの大荷物、約100キロを紛失した。エア・フランスや税関との掛け合いがあり、紛失届を出し、荷物を積み込んでアルビのホテルへ。自宅に帰り着いたころには午前2時を過ぎていた。

 機材がないと撮影隊はやることがない。2月8日の放送も決まっているのに、手ぶらで帰る訳に行かない。ホテルのお兄さんがあちこちに電話してくれて、トゥールーズに専門的な機材をレンタルできる会社を探し当てた。そこに電話してみると、テレビ会社のパリ支社からも、ちゃんと連絡が来ていて、すぐに借りれることになった。9人で1台には乗れないし、スーツケースを無くした人は日常品の買い物もあるので、ふたつのグループに分かれて、機材を取りに行く人を乗せてトゥールーズに向かった。

 わたしは徒歩でもかなり方向音痴なので、トゥールーズという大きな街を、慣れない大型車で走るのはとっても不安だったのだが、もう一人の運転手は本業のほうをしなければならなかったし、わたしは日当をもらうことが決まっていたので、自分でトゥールーズまで行かなければならない。ホテルの人が地図に印を付けてくれて、アクセスについての情報をプリントアウトしてくれたので、時間通りに到着することができた。

 午後は、機材があったので、街の撮影もちょっとできた。どんどん寒くなって来る。トゥールーズに向かうころから雪が降りはじめていたが、夕方には積もってしまった。夜遅くなってから、サントセシル大聖堂の夜景を撮るというので、舞う雪のなか、がたがた震えながら、撮影が終わるのを待った。凍死するんじゃないかと思った。そのあとは早く帰りたかったのだが、フランスでのはじめての夕食ということもあり、顔合わせもしなければならないし、ホテルのそばのレストランへご案内した。窓から積もる雪を眺めながら、「あしたの朝、仕事に出て来れるかなあ〜?」と不安だった。でも、レストランでは8人の若者と、一人のおばさん(わたし)が、合コンのテーブルのように向かい合って、いっぱいお話をし、とても楽しかった。夜遅くなってから時速20キロぐらいで帰った。家のそばまで来たところ、最後のカーブで車がスリップして、ガードレールにぶつかりそうになったものの、なんとか持ちこたえて家にたどり着けた。

 水曜日。職人さんはお休みで出て来ないので、その間に工房やお店の下見をする。見習いさんたちが仕事しているところを撮ってみたりもする。街に出て、街ゆく人々の映像を捉える。街の中心をちょっと歩いた。もっと時間があれば、もっといろんなところに連れて行けるのに。。。

 木曜日は、アルビの職人さんの工房を撮影。丸一日、工房とお店で過ごし、インタヴューなどもあったのでかなり緊張した。夕方は職人さんの密着取材のために、3台の車で自宅へと向かった。子供さんや奥さまと過ごす職人さんを撮影し、ワイン農家のシャトーに落ちて行くまっ赤な夕日も撮ることができた。そのあと、職人さんのご招待で、ご近所のワイン農家を訪ねることになった。
 ワインの製造や貯蔵のたる置き場を見学し、わたし以外のみなさんは派手に試飲をし、たくさん買ってご機嫌で帰途に着いた。夕食は要らないというので、わたしはダッシュで帰って、JPが残しておいてくれた夕食をいただいた。子どもたちもまだ起きて待っていてくれ、ゾエは「歯が抜けたんだよ」と威張ってみせた。

 4日目、金曜日。早朝から、職人さんとの密着が始まる。工房での仕事、事務所での仕事を残らず取材して、職人さんとお昼をいっしょに食べた。午後は職人さんの作品の、一つ一つの丁寧な映像を撮る時間をもうけた。ホテルのお兄さんにも道具を貸してもらった。照明さんもアシスタントさんもずいぶん活躍していた。
 夕方ちょっとだけアルビの街が見渡せる高台に連れて行った。街がかすんでいてよく見えなかったが、とてもよい場所を見つけたので、翌日のお天気と相談しながら、また戻って来ることになった。夜は、街一番のレストラン(一つ星)でのお食事フルコースが待っていた。おもちゃ屋をうろうろしてから自宅を往復して来たわたしと、スーツケースを無くした女性1名だけがやけに普段着だったが、みなさんちゃんと着飾っていて素敵だった。フランス人の他のお客さんがたは奥の部屋に通され、入り口に近い方の丸く大きなテーブルで、わたしたちだけでひたすらしゃべり、たくさん笑い、いっぱい写真を撮って、とっても楽しいお食事となった。みんな名古屋から来たのに、だれも名古屋弁を話さないのには感心した。わたしはその場に一人でも鹿児島県民がいたら、すっかり鹿児島弁になるのに。

 5日目、最終日。朝早起きをして、ホテルのそばに出ていた朝市の映像をとり、朝日が昇る頃にアルビ市を見渡せる丘に登った。滞在中ずっと曇っていて、カメラマンもちょっと絶望的になっていたのだが、この日はとってもよいお天気となった。朝日に光輝く建物の映像や、久しぶりに見る太陽のおかげで、ニコニコしている街の人の表情を捉えることもできた。気温もちょっと上がって来た。

 アルビに、日本から、テレビの撮影隊が来ているというので、地元の新聞記者も駆けつけた。最終日なので、お店の中の撮影と街頭インタビュー。飛行機に乗る前に機材を返さなければならないので、予定よりも早くアルビを出発し、みなさんがパリに向かって旅立つ空港で、わたしはとっても寂しくなった。でも、また2月に帰国した際、名古屋でお会いできるだろう。

 この番組は、2月8日に東海テレビの《スタイル+》という番組で、15分ほど放映されるそうだ。愛知県を中心に三重県や岐阜県など。
お楽しみに〜〜。

 

アルビにテレビの取材がっ!!


      お店の前で、地元新聞記者に写真を撮られる。


      サントセシル大聖堂前の広場で


タルン川のほとり、トゥールーズロートレック美術館の中庭で


 アルビの町を見下ろす小高い丘で。
右に見える煙突は、閉鎖された火力(石炭)発電所。正面奥がサントセシル大聖堂

テレビ軍団


ミーさんレストランで食べた、ブルー・キュラソーのシャーベット♪


ノートルダム・ド・ドレッシュ。サントセシル大聖堂の、コピー縮小版だと呼ばれている。とっても小さな丘の上の教会。
朝日が当たってきれい。中は、ノートルダム寺院よりも、ド派手。
アルビの街を見下ろす小高い丘で、撮影隊がアルビを撮っている時、わたしはその辺をブラブラしていた。


アルビの古い町並み。
主要道路から一歩入った細い道で、こんなことでもないと行かないところ。


サントセシル大聖堂の、ガグーイユ。許可をもらうのに時間が掛かっていたために、大聖堂の中を撮ったり、塔の上に登ったりすることができず、本当に申し訳なかった。許可をもらうべきは、パリに事務所を置く「バチモン・ド・フランス」という所らしい。サントセシル大聖堂の中は、国の保護を受けているので、街の人の許可で勝手に撮影をしてはいけないのだった。