2012/12/17

光線のように過ぎてく師走

 むずむずしている。うずうずというか。。。
書きたいことがいろいろある。
読みたい本もいっぱいある。翻訳を待ってもらっている文献も約二冊ほど。
せめて家族のためのお料理ぐらいは、ちゃんとしたい。
年末大掃除も、何年ぐらいやってないのだろう?
でも、時間がぜんぜん足りない。

 ミーさんのケーキ屋さんで、お仕事が始まった。でも、合間には中学と高校での授業もある。《日本語クラブ》《マンガクラブ》なので、日本語の授業をするよりは、まあ、準備の時間は少なくてすむ。

 ミーさんのケーキ屋さんでは去年も仕事をしたので、今年は就職前の研修はなく、去年よりも10日遅れでスタートした。アルビの街の大工事のせいで、街の中心街はけっこう静か。お店も去年よりは静か。働いている支店では、どこに何があるとか、いつなにをするとか、同僚達のくせなんかももうわかっているので、気も楽。ヘマも去年よりは少なく、あっという間に一日が過ぎ去る。
 去年は十月に脚を痛めたので、十二月の立ち仕事は辛かったけれども、今年は痛みも少なく、体力的にも元気。それに、なんと言っても、今年に入ってからはレストランの厨房でも働いたので、調理師の肉体労働に比べたら、値札を見ながらレジを打ち、お客さんとおしゃべりして、たまにチョコレートとコーヒーで、大好きな同僚達と過ごす売り子ちゃんの仕事は、楽しいことばかり。《辛い》とか言ったら罰が当たるだろう。

 ミーさんのケーキ屋さんでは普段は丸とか四角のケーキを作っているけれども、クリスマスにはやはりビューシュになる。暖炉の薪みたいな形のケーキだけど、日本とは違って、ロールケーキじゃない。このクリスマスは、子どもたちの《変化を試みる》という態勢のおかげで、JPの実家に行かない。なので、《マノン》という、ミーさんの娘さんの名前がついたケーキを、予約することにした。

ミーさんのお店Michel Belinのクリスマスと新年特別ケーキ クリックすると読みやすいですよ。


 子どもたちだけではなく、JP達兄弟だって毎年毎年の年末年始と、各誕生日、各バカンス、すべての催しをつまらない実家で過ごすという《変化のなさ》にうんざりしていながら、そういうことの言えない(親に優しい?)兄弟なので、「今年のクリスマスは、みのりが仕事で、一人クリスマスに来れないのは気の毒だし」というような言い訳をして、わたしの名前で、わたしの家に、みんなを集結させることになった。

 。。。が、両親達は「クリスマスは実家で過ごすのが決まり、そっちに行きたくない」と反発しており、なので、親族みなさん、わたしのご招待ということでこっちに来るけど、両親だけは来ない。両親は「みのりがみんなを招待したせいで、うちにはだれも来てくれない。一生でいちばん寂しいクリスマスだ」とブーイング。ああ、めんどくっせー

 わたしはクリスマスは寝て過ごしたい。24日も25日も仕事だから、ゆっくりさせていただきたい。お給料は年が明けてからなので、今はお買い物をするお金も時間もない。なのでクリスマスプレゼントも用意できない。わるいね〜。

 ゾエが、屋根裏部屋から、いきなりツリーを出して来た。ノエミが生まれた年に買ったプラスティックのツリーだ。ノエミのお誕生ケーキは、ミッシェル・ブランのソレイヤードだった。バニラのふわふわしたケーキの中に、リンゴとアプリコットのバター味コンポートが入っている。そして表面はこげたプリンのような代物。。。太陽(ソレイユ)のように輝くケーキ。

 自宅のキッチンにいるとラジオをつける。世界の不幸と恐怖、中近東の叫びと、日本からは音では届かない静かな不安で、年末はいつも寂しくなったものだ。そういうものから遠いところ、光輝くショーケースに入った、太陽のようなケーキを売って、お金を持っている人たちから笑顔と感謝の言葉をもらう。汗と涙の三週間は、お正月を過ぎてから報酬となる。

 この年末にわたしの四冊目の本が出るので、お正月には印税をもらえることになっている。お正月を過ぎたら、来年の秋に里帰りをするための飛行機のチケットを買う!

 さあ、がんばって笑顔をふりまこう!



ノエミの16歳のお誕生ケーキ ミッシェル・ブランの《ソレイヤード》

ジャコのお菓子な学校 第一刷 でき

「ジャコのお菓子な学校」がいよいよ出版の運びとなった。
この本は、前回の『ジジのエジプト旅行』に続くラッシェル・オスファテールさんの第二冊目。調理の学校に通ったり、レストランの厨房で働いたりの時期に訳したので、いつも忙しく、出版社の方にご迷惑をおかけしながらも、本人としてはとても楽しいお仕事となった。出版の記念に、五冊は文研出版さんからいただけるので、指宿の母の住所に送っていただいて、その中から一冊は、指宿市の図書館にも持って行ってもらった。

表紙です。風川恭子さんの描いてくださった、かわいいジャコ


クリスマスのバカンスも近づき、去年に続き、今年も今週から、ミーさんのケーキ屋さんで売り子として働いている。じつは、去年研修をして、今年は調理師として働いていたガストロノミーのレストランが、年末年始の忙しい時期に遣ってくれないだろうかと期待していたのだけれども、お呼びが掛からなかった。でも、ミーさんはすぐに返事をくれた。

 アルビの街が世界遺産に選ばれたのに併せて、アルビの街全体も大改造を強いられている。それに併せてミーさんのアルビのお店も、新しくなるので、前から雇ってもらえないかという話をしていた。でも、クリスマス前にオープンの予定だった新しいお店は、工事の遅れで、オープンが来年に延びた。大劇場の目の前にあるこれまでの古いケーキ屋さんは、劇場の工事で埃っぽくてうるさいのだが、クリスマスを前にたくさんの人でにぎわっている。わたしは大好きなミーさんのチョコレートのよい香りの中で一日中楽しく働いている。

 じつは、10月からは高校と中学で『日本語クラブ』なるものを持たされている。日本のマンガブームで、『マンガクラブ』というのもある。高校ではフランス語の時間に生徒達が『俳句』を習ったらしいので、フランス語のポエムを日本語の俳句や短歌風に書き直し、その句のテーマになっている季語や言葉をお習字で書くというアトリエをやった。今週は、中学校のマンガクラブで、日本のクリスマスについて話をし、折り紙でクリスマスツリーを作った。『日本語クラブ』も『マンガクラブ』も週に一時間ずつなので、それが終わったらダッシュでケーキ屋さんに行く。

 時間があれば昼寝をしたいところだが、あまり時間はない。ミーさんのケーキ屋さんに新しい日本人の職人さんが入って来たので、その人とその人の奥様のお世話などもしている。毎日走り回っている。先生じゃなくても師走はやっぱり忙しい。

 

2012/11/13

闘うということ

自慢顔の、わたし
11月10日、ピレネー山脈のお膝元にあるタルブという町で、ミディピレネー地方のクラブを集めてのオープン戦が開かれた。選手は45-50人ぐらいしか集まらなかったものの、剣道の地方大会には大変珍しい「観客」がたくさんつめかけていて、大変にぎやかだった。

 我が「白悠会」からは、エリックとシルヴァン、中学生のアランを連れて行った。わたしは日本人なので、剣道連盟の公式な試合での個人戦には参加できない。5人で行われる団体戦であれば、外国人が一人までなら入っても許されるので、去年は何度か試合をさせていただいた。このタルブのオープン戦では、外国人でも個人戦と団体戦に問題なく参加が許されたので、たくさんの試合をすることができた。

 カーモーからタルブまで片道3時間半ぐらい掛かるので、朝9時の開場に到着できるようにするには、暗いうちから家を出る。シルヴァンは興奮して眠れなかったと言っていた。口数も少ない。アランは中学生なので、後部座席でもちろん静かに居眠りをしている。運転をしてくれたエリックは、わたしの調理学校仲間だった人。学校が終わってからもうずっと老人ホームの食堂で働いているので、金曜日の夜も仕事だったのに、ちゃんと起きて運転までしてくれた。車の中でしゃべりまくるのがわたしの仕事だ。

 11月に入ってからは、試合を意識して、ルールの説明や作法の復習をくり返した。稽古にも熱が入っていて、試合で活用できる二段技や、動きのでるような稽古をした。わたしの生徒たちは普段あまり試合形式の地稽古はできないので(有段者がわたししかいないものだから)、生徒たちは「気分を味わうためにYouTubeでたくさんの試合を見て研究した」などと言っている。エリックにとっては始めての試合。緊張するのも仕方ない。去年の冬の地方大会に無理矢理ださせようとしたら、本人が「まだ自信がない」と言った。確かにあの時出さなくてよかった。ボロボロだっただろう。
 シルヴァンは始めてすぐからもう試合に出たがった若者で、やる気も満々、野望もありあり。若い人を対象にした講習会にも参加させているし、試合にはもう三回目の出場だ。一回目の試合で「思いがけなく」立派な先鋒をつとめ、かなり自信を持って参加した二回目の試合では二秒で破れるという「屈辱」を経験しているために、「二秒で負けて、午前中で家に帰れって言われたらどうしよう」と、不安がっていた。
シルヴァン、うれしそう。

 アランはといえば、この子は無表情無感動だ。。。恥ずかしがり屋の中学生なので、思っていることを言えないし、いったいどんなことを思っているやら、顔の表情からはちいともわからない。剣道を始めたころは、わたしの目を真っ正面から見ることができなかった。剣道着の襟が開くのを恐れて、いつもモゾモゾと動いている。細く柔らかい線をしているので、「あの子、女の子?」って、しょっちゅう言われている。しかもうちの姪っ子が使っていた赤い胴をつけているので、かわいくって仕方ない。見た目よりもスポーツマン、水泳で鍛えているので持久力はある。大人と同じ時間だけ面を着けて動き回ることができる。「降参」とか「疲れた」とか絶対に言わない。わたしの期待のホープ。
アラン、ガンガン打たれてましたが、泣かず。バシバシ打ち返して、泣かせてたネ。


結果は、エリックが級者の部でなんと優勝。団体戦では三位。シルヴァンは級者の部の三位。団体戦も三位。団体戦の組み合わせはすべてのクラブを一緒くたにして三人ずつに振り分けたので、同じクラブの人が同じグループになることは避けられた。準決勝戦でエリックとシルヴァンは、闘わなくてはならなかった。アランは個人戦が準優勝で、団体戦は三位だった。一人二個ずつのメダル、六個のメダルをクラブに持って帰ってくれた。

なのに、わたしはちょっと胸が痛いのだ。土曜日から、剣道のことばっかり考えていて、いろんな人と話をした。


 みんなこの一日でたくさんの試合をした。トーナメントに上がる前に敗者復活戦もあったので、例えばエリックなどは土曜日早朝の第一回目の試合で大負けした相手と決勝で当たって、優勝してしまった。アランはトーナメント戦に上がる前に7歳から13歳の部に登録したすべての子どもと対戦したので、土曜日一日で15回ぐらいの試合をやったことになる。時間制限まで勝負が決まらなかった試合もあったので、3分以上がんばったこともあったのだ。持久力がなければやっていけないけど、普段は持久力アップの稽古なんて特にやっていない。

 問題はエリック。普段おとなしく穏やかな人だ。女性と子どもを打つことができない。面なども、パンと打てずに触ってるだけ。でも、身体はギシギシ音を立てているのが聴こえるほど、硬い。掛かり稽古を始めると、肩が上がって、顔が真っ赤になる。いつも、「ハイ息を吸って〜とか、リラックスして〜。」と言ってあげなければ、ガチガチがおさまらない。JPもそんなところがあるので、二人が稽古を始めるとロボコップが二体でぶつかりあってるようで、わたしは間に入ってやめさせることが多い。

 さあ、インターネットのビデオで研究を重ねたエリック。。。つばぜり合いは面を打つ前に手が伸びていき、相手の面金をぶん殴っていて、まるでボクシング。相手を腕で押して力づくで場外に押し出すようなこともあった。わたしは、別な試合場の審判をやっていたのだが、エリックの試合が危なっかしくて、気にかかる。こっちの審判を中断させてもらって、向こうの試合場に「タイム」を掛け、エリックにこのわたしが注意勧告を出し、センセイとしてお説教をし、「深呼吸をやんなさい」と言ってあげたかったぐらいだ。でも、剣道の試合は声を張り上げて「応援」しちゃいけない。試合中に中断してアドバイスなど、絶対に許されない。審判はよく見ていて、「わかれ」を掛けたり「合議」で集まったりする。エリックは何度も注意を受けていたし、エリックが押し出したために場外にでた人に対して、合議のあと「場外反則」を出さない代わりに、エリックに対する「注意」が言い渡され、わたしはなんともほっとした。

 わたしは、力づくの剣道を憎んでいる。これまでにも、ずいぶんいやな思いと痛い思いをした経験があって、そういう剣道をなくしたいと思って、道場を始めたのだ。なのに、ボクシングのようなつばぜり合いと、竹刀じゃなくて腕で押して、後ろから殴るような剣道で、エリックはついに決勝まで行ってしまった。
 じつは、めちゃくちゃの動きをやってるエリックなのだが、隙は上手にとらえていた。これはほかの審判たちにも言われた。エリックが暴れまくっている途中で、相手の隙をちょいと狙って、素晴らしい面が入る。三人の審判が一斉に旗を揚げ、観客が「おお〜」と唸る。とってもわかりやすい技で、はっきり勝って決勝までたどり着いたのは確かなのだ。だれにも文句は言えない。めちゃくちゃな態度については、参加者の中でいちばん注意を受けたためか、朝と夕方の試合には大きな質の差が出ていた。これもたくさんの人からの指摘だった。

 決勝で素晴らしい面が決まって、その音が会場に響き渡った。三本の旗が一斉に翻った。その時、わたしは隣りの会場から見ていて、じつは頭を抱えた。気を失いそうだった。お先真っ暗だった。たった今のが素晴らしい面だったのはわかるんだけど、でも、あとの二分五十九秒の動きが、めちゃくちゃだったので、エリックに優勝をあげないで欲しいとさえ思った。わたしは自分の生徒のその勝利が、悲しくて仕方なかった。なんで教えたことができないんだろう。なんでこんなに暴力的なんだろう。これまでの苦労はなんだったんだろう?反抗期の娘に裏切られた親バカみたいじゃない。

わたし、どこ見てるのか?胴をとるのもすっかり忘れてるし。おいおい。
試合のあとで愚痴を聴いてもらおうと思って、決勝で主審をした友人の美恵子さんの所に行った。美恵子さんはわたしの顔を見るなり、「おめでとう。いい試合だったね。あのエリックさんの面、素晴らしかった」とニコニコして言ってくれた。「エリックさんは、朝からずっと何度も注意を受けたけど、それでいやになって剣道やめたりしないよね?」と心配そうでもある。わたしが「内容」について不満であることを言ったら、何度も経験しているうちに、試合のルールは身に着いて来るし、精神的なストレスとか緊張も、コントロールできるようになるよと言ってもらえた。確かにエリックは「我を忘れた」状態だったと思う。自分でもぜんぜん「こんなつもりじゃなかった」と思う。

 エリックは、表彰式でメダルをもらうのに、申し訳なさそうにしている。

さて、今回の、この第1回目の試合の「目標」はいったいなんであったかと考える。勝つことではなかった。それは確かだ。一戦も勝てるわけがないと思っていたぐらいだから。
試合の雰囲気を味わう。怖くても逃げない。苦しくても最後まで力を尽くす。。。。
そんなところだったと思う。あと何年かしたら、試合の雰囲気を盛り上げて、相手を怖がらせて怯えさせ、最後まで息も切らさずに、そして、きれいな技でガンガン勝ち抜く。。。。になる日が来るかも、しれない。そして、自信を持って、胸を張って表彰台に立ち、対戦した相手から「素晴らしい試合をありがとう」と握手を求められ、笑顔で自分たちの道場に凱旋する日も来るだろう。

 「怖くて眠れなかった」と言っていた三人が、「なにはともあれ 楽しい一日だった」と言っているだけでも、ものすごい収穫だったのだ。わたしもそうだったんだから。



 昇段試験の時の様子を撮ったビデオを送ってもらった。これを佐藤先生が見たら、頭を抱えて泣かれるかもしれない。「なんでこんな奴に昇段させたのか」と言われるだろう。30年経ってもあまり変わらない人間が「センセイ」しているんだから、文句を言われる生徒は、お気の毒。

課題がいっぱいです。。。



 



2012/10/31

おやすみ

ボボの最後の夏

いつもこんな顔で、わたしたちを見上げていた。


 毎日決まってやらなければならない、結構大変なことのひとつが、ボボのお散歩。忙しい時、足が痛い時、寒い時、暑い時、雨や雪の時。。。毎日のお散歩は結構「あ〜あ」の作業だと思っていた。でも、ある日、突然、それをやらなくてもいいことになった。

 10月19日、金曜日、いつものお散歩のために家を出たわたしたちだったけど、公園の前で友人のロランスに会ってしまった。「ね、これからうちにおいでよ」と誘われ、ボボを連れたままロランスのうちに行った。ロランスはボボのことが大好きだったので、去年ボボと同じピーグルの、メスを飼いはじめた。「犬たちを庭で遊ばせて、わたしたちはお茶しよう」ということになった。けっきょく、公園に行く時間がなくなったけど、ロランスの広い庭で犬たちは仲良く遊んでいた。

 金曜日のお昼はゾエが自宅で食べる日。11時半が過ぎたら急いで帰らなくてはならなくなったので、公園の入り口を通過して、ロランスのうちからまっすぐ帰ることにした。でも、途中でボボの具合が悪くなって、歩けなくなり、ロランスの家からうちまで5分の距離なのに、30分もかけて帰り着いた。ゾエは自分の鍵で家に入ってはいたものの、親に忘れられたと思って、誰もいない静かな家のテレビの前で、泣きながらお腹を空かせてテレビを見ていた。その午後からボボは何も食べなくなり、金曜日の夜から土曜日の夜にかけて、何度もJPが注射器でミルクをあげたけど、吐き出したり咳き込んだりして苦しそうだった。ボボが九月に腫瘍の摘出手術をした時に、獣医さんに「この子、心臓がすごく悪いですよ」と言われて、思いがけないことでびっくりしたのだった。9月から5キロ以上もやせて、ずいぶん弱っていたのもたしか。

 日曜日の朝早くに起きて、ルルドという、うちから車で3時間ぐらい掛かるところに行く約束があったために、その土曜日の夜はいつもより早く寝るつもりだった。JPは土曜日の夜はいつもパソコンの前に座る。でも、わたしたちはなにやら落ち着かなかった。夕食のあと二人で台所にいて、わたしは剣道のレポートを書き、JPは夜の10時を過ぎてからいきなり「ジャムを作る」と言い出した。ボボはその前の日から引き続き、廊下に寝ていたけれども、わたしたちは交代で何度も様子を見に行った。11時半ごろ、ボボを見に行くと、わたしの顔を見ていきなり立ち上がった。一日中立ち上がれずに寝たままの姿勢だったのに、いきなり立ち上がった。ふらふらと、あちこちにぶつかりながら長い廊下を歩く。わたしはボボを追いかけながら、JPを呼んだ。ボボは、台所でジャムを作っているJPの足元をふらふら歩き、やがて、あきらかに左半身の様子がおかしくなり、左に傾いてぐるぐるその場で渦を描きはじめた。船が渦巻きの飲み込まれるように、どすんと冷蔵庫の前に倒れた。

 ゾエは三十分前ぐらいに「おやすみ」と言ったところだった。ノエミもさっき「おやすみ」と言ってトイレに行くのが聞こえていた。ノエミは寮に入っているので、「来週はもう会えないかもしれないから、ボボとちょっとお話しする」と言って、金曜日と土曜日は二人とも、何度もボボの様子を見に言っていた。金曜日に具合が悪くなった時に、ゾエが「医者に連れて行かなきゃ」と言ったのだが、その日に医者に連れて行ったら「注射で安楽死させましょうか」って言われるのはわかっていた。子どもたちは「苦しむのを見るぐらいだったら」と言ったけど、わたしとJPは、土・日に自然に、結果が出るような気がしていた、と、思う。ずっと世話したかったのだ。食べ物を受け付けなくなった時点で、わたしは「生きる気力が、もうないんだ」と思った。でも、JPは注射器でミルクと砂糖と小麦粉を混ぜたおかゆみたいなものを、飲み込ませようとがんばっていた。

 冷蔵庫の前に倒れて、投げ出された小さなボボの身体は、動かなくなった。JPが「もう、終わりだ」と言ってしばらくしてから、いきなりボボが咳をしたので、飛び上がるほど驚いた。そのあとまたびくとも動かなくなったので、JPは、「今度こそ、もう終わり。さっき心臓発作をやればよかった。」と言いながら胸をなでた。そのあとまたしばらくしてから、ボボは咳をしたので、もう、わたしは、ものすごくびっくりした。

 静かになり、JPがまたジャムの鍋に戻り、無言で鍋をかき混ぜはじめたので、わたしは二階に上がっていった。ノエミが廊下で泣いていた。「死んだんでしょ、ボボ?」とわたしに聞いてから、「おやすみ」と言ってベッドに入った。ノエミが3歳になったばかりのお正月にボボを拾ったのだ。もう13年ぐらい一緒に暮らして来た。

 夜中だったので、どうしようもなく、JPはシーツにボボをくるんで、犬小屋に寝かせた。そのあと、目を覚ますかもしれないと思って、何度も様子を見に行った。次の朝早くに、自宅を出る時にも、シーツにくるまったボボを見に行った。このかたまりが本当にボボなのか、もしかしたら起きてるかもしれないと思って、何度も見た。お線香をたいて、わたしは出かけた。静かな廊下に「おやすみ」と言った。

 昼間に一人で家にいると、寂しくて寂しくて仕方がない。そういえば、昼間、ボボはわたしの話し相手だったのだ。朝の散歩がなくなって、公園まで歩かない。公園を歩かない。こんなことではいけないけれども、近所の人に「あら?ボボは?」って言われるのがいやで、ご近所の人を避けている。

 ボボにとって大変な一生だった。でも、いい子だった。安らかに眠ってもらいたい。
おやすみ 合掌

十月の最後の日

 母に電話したいと思っているんだけど、なかなかできずにいる。フランスは急に寒くなって来た。風邪を引いていないかなあ。

 先週のガラガラ声も、どうにか元に戻って来た。9月の最後の週にパリでの3泊4日の講習会に参加し、10月にももう一回パリでの指導者講習会と、ルルドの地方講習会に参加した。どれも剣道の講習会。その間、10月には高校での『日本語クラブ』が始まった。

 剣道の生徒の中に、カーモーで唯一の専門学校で、地理と歴史とフランス文学を教えている人がいて、その人の尽力で『日本語クラブ』っていうのを開いてもらえることになった。週に1時間、全部で26時間の、来たい人だけ来てもいいっていう日本好きの高校生たちのためのクラブだ。そのほかに2時間の別な講義が2回。フランス文学と、地理歴史の授業の時間に、日本について話してほしいと言われ行くことになった。

 高校三年生のクラスは、今、『広島の花』という小説を勉強中。それと同時に『俳句』についてもちょっと練習したらしい。地理と歴史の時間にも、日本のことをたくさん勉強していた。第1回目の授業では、まず学校で習ったこと、知っていること、聞いたことをもとに、日本や日本人についての意見、あるいは質問を出してもらった。それに対応しながら、興味を持ってくれそうなことを付け加えていく。第2回目の授業の時には、まずフランス語で三行詩を作らせる。季語などを入れて。わたしにはその場で『俳句』として翻訳する仕事と、それを筆で書く作業が言い渡され、お習字苦手なので、ホントーに困ってしまった。高校生たちにもお習字を体験してもらいたいので、それぞれの書いた詩のテーマ、あるいはタイトルとなるような単語をひとつ選んで、それを漢字で書いてみるという企画を立てた。わたしが俳句を作っている間に、彼らはお手本を見ながら筆で漢字を書いた。わたしより上手。

 ミーさんのパティスリー・工房に、新しい日本人のパティシエが来た。これまで一年働いていたももちゃんも帰ってしまって、次はだれだろうと思っていたところだった。フランス語がわからなくて、ちょっと大変だ。ちょうどいい具合に「日本人会を作りましょうよ」と誘ってくれた、アルビの日本女性グループと初の会合を催した直後だったので、今後、ご紹介してあげられるかもしれない。この辺りで日本人が急増している!知らなかったけど、初会合の時に9人も集まったのには驚きだった。そういうところに行くと「年配の方グループ」で、しかも「古株でフランスのことをよくご存知」と思われており、若い奥樣方、実に丁寧な言葉で、恭しく接してくださるので、、、恐縮なのである。
「みんなでバトミントンをやりませんか」
と誘っていただいたのだけど、わたし、スポーツは全然ダメで。。。剣道と居合道で忙しいので。。と言ってお断りした。「みんなで剣道やりませんか」っていえばよかったなあ。月曜日と木曜日は剣道を教え、水曜日と土曜日は居合道を習い、火曜日は料理教室があって、週末は剣道の講習会やら試合のために遠征しているので、ぜんぜん余裕がない。時間があったらもうちょっと家のことやりたい。時間は全然ない。翻訳の仕事やブログを書くのやフェースブックは、家人がベッドに入って家の中が静かになる20時ごろからはじめ、3時ごろまで書斎でウロウロしている。昼間は常にぼーっとしていて、バトミントンをやる時間があったら昼寝したいのだけど、昼間は日本語と剣道の授業の準備をしたり、授業のあとには反省ノートを書いたり、掃除したり、洗濯したり、メールの返事書いたり、だれかに電話をかけたり、だれかが電話して来たり。。。。なんで1日は24時間しかないんだろうと思う。

2012/10/16

ヤカラのおかげです。ありがとう。

 きのう(月曜日)から、声がもうぜんっぜん出ない。金曜日からずっとパリで剣道やって来たので。張り切りすぎてしまった。いつものように。通訳もやった。人がたくさんいたので、声を張り上げなくてはならなかった。

 「みのりさん、気迫が足りないよ」と、仲良し大好きな剣道仲間から言われるのである。「気合いはいちおう入ってんだけどね」とも。「そろそろ気勢と品格、気位が大切」と先生はおっしゃる。二週間前に、五段の昇段審査を受けたのだ。それでめでたく五段に昇段したので、元立ちをやらなければならなくなってしまった。責任重大なのである。

 元立ちというのは、まあ、向き合った相手を指導する立場みたいなものだ。何か指導できる要素を備えていなければならないらしいのだ。でも、わたしは相変わらず自分にあんまり自信がないように、見えるらしい。おかしいなあ。

 剣道の講習会ですれ違う人は、ほとんどが日本人好きで、日本のことを知りたく、日本人の友達が欲しい。だから、わたしがその辺を歩いていると気軽に声をかけてくれるし、誰もがにこやかに挨拶してくれる。名前を覚えてくれる。日本語のクラスでも同じだ。なのでわたしはこの二十数年の間、あちこちで大切にされて来た。ありがたいことだ。

 たまに、わけわかんない人もいる。わたしが優しいことを言ったり、にこやかにしていると、どうも神経に障るらしい。「礼で始まり礼で終わる」と言われる剣道やってるくせに、挨拶しても返事ができないヤカラだ。「ゆるせん!」のである。そして、そういう許せんヤカラが、わたしを透明人間のように見過ごして、目の前を通過するたびに、イラッとするのは、修行が足りない証拠なのである。なんで自分が透明人間になってしまったのかを考えていた時に、親しい友人から、「気迫が足りないからだ」という意見が出た。「ちょっと、そこのヤカラちゃんよ、あんた、あたしがコンニチハって言ってるでっしょーがっ!」と、ヤカラの肩をとっ捕まえて喝を入れるぐらいの「気迫」が欲しいと、友は言うのである。友だったら、見てないで代わりにとっ捕まえて欲しいところだけどねえ。

 「アンタ取り柄ないんだから、ニコニコ笑って世の中を渡れ。挨拶されたらさわやかに応え、嫌なこと言われたら口答えせずに聞き流せ。」
と、言われて大きくなった商売人の娘なのである。そのような商売人の娘として20年間親のもとで暮らした。家を出て、国を出て、はや24年を親のいない所で暮らしているのだということには、最近ふと気付いた。海外暮らしも板に着き、フランス人相手もかなり有段者になってきた。なのに、どうして自己主張というものは、日本人のままなんだろう。

 わたしの自己主張は、やはり「ニコニコ笑って、挨拶されたらさわやかに応える」であり続ける。うちにいて、アタマがカタマって来て、顔色も目つきも悪くなり、ヒステリーを起こし始めると、家人に「剣道で発散して来い」と言われるぐらいだから、やっぱり、道場はわたしの「道を探す場所」なのだと思う。そこに行ってまで、挨拶もできないヤカラの機嫌を取るなんぞ、無理。無理。そういえば先日の講習会は体育館だったから、道場だたらちょっと違っていたかもしれない。「道場」という場所には、不思議な力があるものなので。

 と、いうわけで、わたしはそのヤカラをとっ捕まえて、返事が来なくても構わずに「こんにちは」と元気よく言う。突っ返されてもいいので、優しい言葉をさわやかに言ってみる。無視されても平気で「あなたはいかが?」などと誘いをかける。ご機嫌を取っているのではない。こうなったら嫌がらせだ。ひひひ。ヤカラの困った顔が、いい気味だ。

 さあ、どうだ、かかってこい。こんな暗い顔をして道場に立っているヤカラは、わたしのように澄み渡る声も出ない。切れ味抜群ですっきりさわやかな返し胴もできない。どうだ、参ったか。。。。あら、いつの間にやら負けず嫌い?勝った負けたじゃないんだけれども、マイペースで楽しくやってるわたしの方が、ずっと人生有意義に謳歌していると、確信する。明日、死んでも悔いはない。この(ない)胸を張ってるあたりに、品格も出るというものよ。わっはっは。

 相変わらず気迫はないが、気合いだけは一応入っているのだ。ほら、声枯れてるし。ヤカラはきっと、あんまり声枯らしてないと思う。だって、小さい声で「こんにちは」も言えなかったもの。

 ああ、また、あのヤカラのことを思い出しているわたしって、器が小さいなあ。



昇段審査に向かう電車の中で読ませていただいた、角正武先生のご著書

クラブのみんなが待っていてくれた。ありがとう。

2012/09/10

夏休みの旅行

 今年は日本に帰ることができなかった。来年がんばって帰ろう!JPの夏休みは八月の一ヶ月間だけだった。子どもたちは剣道合宿のあとナルボンヌの義父母のところに送り込み、わたしたちは8月13日まで新婚さんであった。。。。シーン。。。しずかだ。

 13日から16日頃まで、フランスの北の方に住んでいる剣道仲間の家族が来てくれ、同時にJPの弟の子どもを預かって、にぎやかに過ごした。フランスはものすごい猛暑で、遊び歩くのもけっこう大変だった。
剣道仲間のエリックさん
ポン・カナルといって、運河が流れる橋。下には川が流れている。

ミネルヴァの谷


わたし以外のみんな。珍しくボボもおります


さあ、みんなが帰った翌日から、予定していた家族旅行に出発〜〜!目的地は、2003年にわたしが左足を骨折していた年(猛暑で死者続出の年)に、車いすで訪れた、思い出のオーリヤック市。この街は、夏の五日間、町中で演劇・手品・人形劇・ダンス・パントマイム・サーカス・音楽。。。などなどなどが行われる。町中の小学校や幼稚園を会場に、あるいは体育館や劇場を使って、あるいは、町の広場や校庭を解放して、そして、商店街の路上で。。。プログラムはあってないようなもの。とりあえず、だいたいどの広場で何がある予定。。。というのは、毎朝町の観光案内所に行けば教えてもらえるが、一カ所から一カ所にたどり着く間に、予定外の手品師や、飛び入りのサーカスや、公園の木の上でいきなり綱渡りが始まったり、路上でファンファーの集団に取り囲まれたり、変な車をガタガタいわせて追い越していく人がいたり。。。とにかく油断ができない。目的地に行かなくても、おもしろいことがいっぱい起こる。気に入った、すごいと思った、感動した、またやって欲しいと思った、よく笑った、ものすごく泣いた。。。そのような場合は、地べたに置かれている帽子やギターケースなどに、小銭をちゃりんと入れてあげればいいことになっている。

 家族旅行なんて。。。とブーブー言っていたノエミも、すごく楽しんでいる。若い人たちがキャンプを張って仲良しとフェスティバルに参加している様子を見て、『わたしも来年は友達と来たい』と言っている。
「来年は、だ〜か〜ら〜、日本に帰ろうよって言ってるじゃないの。それにあなたまだ未成年だから。」「そうか、だったら再来年、友達とキャンプするわ」
ずいぶん気に入った様子だ。
 催し物を見学するのに、指定料金がないので、ただ見をする目的で来ている人はたくさんたくさんいる。映画館で映画を見たら7ユーロも8ユーロもするのだから、こんな素晴らしい演劇を家族四人で見せてもらったならば、小銭じゃなくてお札を入れて上げたいものだけど。。。五日間、ありとあらゆるものが路上の至る所で見られるので、その都度お札が出て行くとなると、ちょっと大変だ。

 午前中は、オーリヤック近辺の観光もできた。2003年に車いすだったために入れなかったお城の見学もできた。みっちり楽しんだ。

 最後の日。ものすごい雷を伴う暴風雨となり、気温も一気に下がった。中止になった催しもたくさんあり、予定を切り上げて帰宅となった。一気に夏が去って行った感じだったけど。。。たしかに夏休みも本当に終わりだったから、あきらめがついたかな。
夜のサーカス小屋、イベントを待つ娘たち


ボヘミアサーカス団。背中の上の釘の台に乗ってるお客さん。。。冷や汗。

日本から参加のロボット・ノゾミさん

薬屋さんの前で、いきなりライブ


大きな杉の木の下で。。。パントマイム劇


2012/07/26

熱い夏

3月と4月に、友達の誘いがあって、カーモーのレストランで働いた。それが終わって一息ついたら、こんどは5月の終わりから7月の半ばまでは、去年研修をしていたガストロノミーのレストランから電話があり、臨時で働くことになった。

レストランで働いていたこの春から夏に掛けては、パリ、ボルドー、ロデツ、アーカション、サンテティエンなど、自宅から遠い場所での剣道講習会や試合があり、剣道でも忙しくしていた。
試合にのぞみます




ファイティングスピリット賞のトロフィー!!





サンテティエンでの試合は日曜日の8時からだったので、土曜日に夜中まで働いて、そのあと車で走って、午前5時に現地入りし、8時からの試合に出ていた。どうしようもない剣道バカだ。個人女子で準々決勝まで行って、ファイティングスピリット賞をもらった。行って試合を一回やって終わりじゃもったいないけど、まあ行った甲斐があった。

また、この時期は今年中に出版される予定の、わたしの4冊目の翻訳本の仕上げにも入っていたので、本業の方も忙しかった。

つい最近親しくなった剣道仲間から「みのりさんって何してる人ですか?」と、問われ、「何してるって言われても。。。ハハハ。。。いろいろやってます」がわたしの答え。自分でも一体なに屋さんなのか不明の、今日この頃。

5月から7月に働いたレストランは、朝9時から15時までと、18時から23時まで。。。毎日のお仕事で体力が持つかな〜と心配したのだが、去年も働いていたので同僚のことも知っていたし、場所や道具になじみがあって、精神的にも楽だった。剣道のおかげか、体力と気力は結構あるみたい。今年研修生として入っていた同年代の女性と仲良くなり、力を合わせることができたので、最後まで楽しく働かせていただいた。5月の始めにシェフから電話が来て、『働いてみないか』と提案された時に、街いちばんの腕前で尊敬しているシェフからの電話だけに、声をかけられたことがただただうれしく光栄で、なんとしてもここで働きたいと思った。



シェフのことを尊敬している。でも、わたしの直の上司にあたる若い調理師は、シェフがわたしに直接電話して呼んだことが気に入らなかったらしく、入った時から感じ悪かった。自分のいやな仕事しか押し付けないし、失敗すればわたしのせいにする。本人偉そうにわたしに命令するのだけど、計画性がないのでいつもヘマをしている。とんでもないヘマをやる。わたしが独自に15年以上の家庭料理で学んだ隠れテクの方が役に立つことも多かったのだが、家庭料理とレストランではもちろんやり方が違うので、「こうやったらいいのに」と思っても、だまって見ていることも多かった。直の上司は一緒に働く相手にしては、とてもやりにくい相手だった。でも、わたしは表立っては愚痴を言わず、口答えをせず、ただ言われることだけは完璧にやることを考えて、黙々と働いた。とんまな上司のせいで、シェフに誤解されて怒鳴られたことも何度かあったけれども、日が発つに連れて、シェフや、スーシェフ、そして数人の仲間たちの間には、わたしの仕事をちゃんと見ていてくれる人や、わたしの苦労をわかっている人がいるのだということも、わかってきた。そういう人たちに助けられ、守られて、最後の日。『完璧』とも言える一日を終えることができた。お客さんがとても多かったのに、失敗をせず、怒鳴られず、最後はシェフに「きみが盛りつけまで全部やりなさい」と言われ、差し置いてしまった上司に睨まれた。片付けの時にシェフがわたしのところにやって来て、アメリカのバスケット選手たちがシュートを決めたときみたいに、振り上げた両手を双方から空中で叩き合うような仕草までさせられた。お店を閉めてからは、『お別れ会』ということで、シャンペンを振る舞われた。人手がなくて困った時には、また呼んでもいいかと言われた。こちらこそ頼んで呼んでもらいたいぐらいだったので、うれしかった。

7月14日にレストランでの仕事が終了し、18日から22日までの剣道合宿に、子どもたちといっしょに参加するため、ミニバスを借りて、往復2005キロ。。。ブルターニュのディナールというところに行った。この剣道合宿には、一昨年とその前の年にも参加している。今年は一昨年に続いて、國學院大学の植原教授を個人的にご招待していたので、合宿のあとは、いっしょに南下していただき、翌日の我が道場の稽古会に参加していただいた。昼間は、ずいぶん前から悩んでいる足の痛みを見てもらうために、医者と約束があったので、子どもたちにアルビ市内を案内してもらった。

剣道合宿




サン・マロの港
























モン・サン・ミッシェル

















 春からずっといろんな医者にかかっている。左足がずいぶん前から痛いので。夏休みは、剣道も休んでゆっくりするつもり。9月からは、カーモーの高校で、日本語クラブを受け持つことにもなっているし、地方の剣道連盟の書記にも選ばれたので、剣道連盟の仕事も忙しくなる。

 ジタバタしている間に、夏休みになった。JPの夏休みが来るまでのしばらくの間、自宅でゴロゴロする。今週末にナルボンヌの義父母の家に子どもたちを連れて行き、一週間ぐらいは静けさの中で過ごし、そのあとは、遠方からのお客さんたちを迎えたり、カーモーのお祭りに参加したり、そして、待ちに待った家族旅行。。。。ノエミが両親と出歩くのを嫌うようになったので、もしかしたら、最後の家族旅行かもしれない。

 とっても熱い夏が来た。

2012/03/20

わたしは調理師です

去年一年間、調理師の学校に通って、高級レストランでの研修も15週間ぐらいやって、夏に調理師の資格をもらった。そのときのクラスメートが一人、カーモーのレストランで働いている。もう一人の調理師が病欠で、長期来れなくなったというので誘われた。病欠で休んでいる調理師は、バツイチで4人の小さな子どものいる、若いお母さんなので、職を失いたくない。だから、知ってる人が代わりに来てくれたら、彼女のための席も、残しておいてあげられるというものだ。わたしはと言えば、翻訳の仕事がちょっと片付いて、アルバイトをしたいなあとも思っていたので、一ヶ月の臨時アルバイトで引き受けた。子どもが4人いる若い母親の労働時間は、わたしにも都合が良かった。

 月・火・木曜日はお昼のサービスだけ働いている。つまり9時半にレストランに行き、下ごしらえなどをやって、働いている人たち3人(シェフと奥さんとウィエイターさん)とゆっくりお昼を食べて、12時からだいたい14時半まで働くことになっている。金曜日に関しては、昼のサービスと、そして夜も。3月は一ヶ月の間に金曜日が5回あるのだが、第1週目はパリに行くことが決まっていたので休み、第2週目は水曜日の夜に働くことになったので金曜日は休みがもらえた。第3週目の先日は、そんなに忙しくなくてラッキーだった。あと2回残っている金曜日が、ミソだ。忙しくありませんよ〜に。

 昼は、そんなに忙しくない。「フー、大変だったね」という日もあるが、それでも15食分ぐらい?テーブルNo.が15までしかない小さなレストランだ。厨房もとっても小さい。研修した大きなレストランは、厨房が1階と地下にあり、1階の厨房には3つのポストがあって、前菜を用意する火のないコーナーと、肉魚を焼いたりするオーブンやガス台のあるコーナーと、デザートを用意するコーナーが分かれていた。それぞれのポストに責任者シェフと見習いがいた。ウエイターは常時5人か6人はいたし、厨房にも同じぐらいいた。洗い物だけをする女の人も働いていて、その人は洗い物のほかに、洗ったものを片付ける役割もあったので、いつも大体同じ場所に同じものが、不足なく整理されて置かれていた。

 こちらは小さなレストランで、厨房には2人しかいないので、あまり走り回ることもない。手に届くところになんでもあるけれども、いろんなものが散乱していて、勝手よくはない。最初は、大きなレストランとあれこれ比べて、シェフの風格やセンスや、知識や技術の差にもちょっと不満があったし、なにかにつけて比べてしまったりもしていた。衛生面とか、設備の違いとか。。。
 でも、ここではわたしはけっこういろんなことを、調理師としてちゃんとやらされている。例えば一日中リンゴやジャガイモの皮をむかされたり、鶏や魚のお腹の中をお掃除させられたり。。。まあ、そういうことはない。シェフは「手っ取り早く自分でやった方が速い」と思うことは、私に命令しないでどんどん自分でやってしまう。わたしが15分で30キロのジャガイモを向く修行をしたっていうことは、まだ披露していない。
 例えば洗い物も。。。。。彼には彼のやり方があって、どうも、人に任せられないたちなのかもしれないし、もしかしたら、わたしが水や洗剤をどんどん使うことも、気に入らないのかもしれない。暇なときなどに、洗い物をやろうかな。。。とウロウロしていると、「いい、いい、それはわたしがやる」と言って、ダッシュでやって来て、洗い物をやってくれる。とりあえず、《調理師》として雇われているし、最低賃金だし、時間には制限があってないようなものなので、洗い物までやらせて訴えられたらどうしようと思っているのかもしれない。

  この小さいレストランで教えられるのは、いかに安く早く工夫して、見た目も美しく、そしておいしい料理で、たくさんの人を喜ばせるか。新鮮な材料を上手にやりくりして無駄なく使い切る。残り物を出さない。残ったものはほかに利用する。。。ということ。作る量も少ないので、レストランでやったことをそのまますぐにうちでも活用している。

 一ヶ月の臨時バイトが終わったら、続けないかと、じつは言われた。でも、4冊目の翻訳の本は、出版社との契約で年内に出版させなければならない。しかも、剣道と料理の翻訳が、著者たちとの約束で待ってもらっている。本当に本当に楽しみなのだ。だから、たぶんあまりお金にはならないけれども、やっぱり家にいて、家で翻訳がやりたいのだ。東京の日本語学校に通っていた頃は、どうしても本屋さんで働きたくてやっと見つけた本屋を動くことができなかった。時給380円だった。仕方ないから、10時から19時まで本屋で働き、21時から翌日の4時までドーナツ屋で働いた。日本語教師になるための勉強もした。昔はあまり寝なくても大丈夫だったけれども、今は、レストランで午後3時まで働いて、夕方6時から8時まで剣道をやったら、夜はグロッキー。さすがのわたしも人間だった。。。。15歳から働いている厨房の世界では、44歳は年代もの。肉体的にとっても大変。よっぽどの情熱がなければできない仕事だ。

 とりあえず、フランスの資格をもらってからというもの、《調理師だったら仕事はいくらでもある。贅沢さえ言わなければ》ということがわかったので、機会を見て、たまには働きに出ようと思う。じつは、「わたしは調理師です」と言うのが、ちょっと楽しくもあるので。なんだかものすごく、自分じゃないみたい。いや、まったくもって、妙。変。すごくおかしい。20年前は、ハンバーグも作れなかったのに。一人暮らしの時に、栄養失調で左腕が動かなくなったこともあったのに。。。。

 家がもう少し大きかったら、テーブルを3つぐらいおいて、全予約制の小さなレストランができるかもしれないよな〜と、思う。がんばって働いて、もう少し大きな家と、テーブルをあと2つ買うか。。。


お休みだった週末に、レストランでJPの誕生会をした。ノエミが頼んだサーモンの包み焼きは、前日にわたしが用意したもの。今の季節は、こういうお皿で、サービスしている。わたしだったらお皿の脇に《サかナ》などと書く。日本語芸がなかなかうけている。

寒かった

二月は、一体なにをしていたんだろう?

寒かった。ものすごく寒かった。
「ヨーロッパ、シベリア化しています!」などとテレビで言っているのに、うちじゃあ、暖房は壊れるし、シャワーは水だし。。。困った。
毛皮を着ているボボでさえ、寒そうでお気の毒なので、毎日家の中で暮らした。毎朝お散歩する公園では、噴水が底まで完全に凍っていた。ちょこっと降って道路脇に積んでいた雪が、溶けることができず、そこに風が吹きつけるので、体感温度はどんどん下がった。毎日、となりの家の煙を吐く煙突にできた、ツララの写真を撮るのが楽しみのひとつとなった。ツララが一本ずつ増えて行くのがおもしろかった。

 2月の最後の週末に、カーモーで剣道の大きな講習会が催されることになっていたので、準備に追われていた。体育館はただで貸してもらえることになったのだが、この寒さではやはり暖房を入れなければ。。。ということになり、暖房費用だけは払うことになった。ただし、当日ことのほか温かい一日となり、暖房なんか要らなかった。でも、お金を払ったので、がんがん暖房を入れて剣道やって、汗を流した。。。田舎にぽつんと立つ体育館なので、昼休みにちょっと外に出てサンドイッチを買ったり、レストランに行く。。。。ということができない。なので、《白悠会》では、5ユーロにてお弁当を用意した。調理の学校の同窓生エリックが、クレープを作るプロの機械を持って来てくれ、一日中クレープを焼いた。飛ぶように売れた。ゾエはバーの係。コーヒーやビールを売って、クラブの収入に貢献した。

 40人ぐらいの参加者があり、その程度ならばお弁当を用意するのもそんなに難しくないこと。みんなの喜ぶ顔を見るのが、気持ちいいこと。。。運営者としての役割も果たせたこと。。。いろんなことがわかった。そしてまた、民宿創立の夢は広がったのだが。。。JPは相変わらずのって来ない。残念だ。

 2月11日から26日までが冬休みだったので、この間に、ナルボンヌの実家にも行った。マザメやサンポンスという山間の町を抜けると、ナルボンヌは春のようないいお天気で、アーモンドの花が咲き始めていた。小さくて、ほのかにピンク色をした花が、道路脇に並んではえている姿は、日本の春の桜並木みたいだ。


 そうそう、四冊目の翻訳本の第一稿を仕上げなければならず、そういう時に限って、数ヶ月ぶりの実務翻訳の仕事も入り、徹夜の日々も続いた。なんだ。。。なにもしなかったわけじゃなかったんだ。。。それにしても、あまりぱ〜っとしたことは、なかったなあ。。。



とにかくただただ寒かった、という思い出しか残っていない二月。





2012/01/15

いちかばちか

「いちかばちかはやんない」と言ったばかりだけど。。。じつは、《いちかばちか》で剣道の地方大会に参加する。去年始めた我が剣道クラブ、現在16人のメンバーがいる。面を着けているのが12月の段階で8人になり、面を着けてはいないが小手、胴、垂れをつけているのが4人。稽古もちょっとサマになってきた。11月にチュヴィ先生に稽古を見ていただいた時に、みんなをどんどん試合や稽古会に参加させなさいと言われたので、わたしたちは1月28-29日に、ピレネー山脈の麓の町《タルブ》で行われる地方大会の団体戦に出る決意をして、今日までがんばって稽古してきた。

 剣道の団体戦は5人。先鋒、次峰、中堅、副将、大将。
今年の新学期によそのクラブから引っ越してきたフランソワは、すでに初段を持っている。JPとともに、試合に出るのは当然と、本人も思っている。フランソワは、サンテチエンヌという街にある、フランスでも一番大きく優秀なクラブから移ってきた。そのクラブでは三ヶ月を過ぎたらみんな否応無しに面を着けさせられ、日本の高校か大学並みの稽古を受ける。世界大会に出たり、ヨーロッパチャンピオンを出すクラブなので、初段ごときは下っ端である。

 でも、わたしたちの地方ではそういう《選手》は本当に少ないし、しかも、うちのクラブにはこれまで初心者しかいなかったので、《白悠会》に来ていきなり《先生の助手》となって、先生の期待も背負っているので、フランソワくん、張り切っている。けど、スポーツ選手のような数打ちゃ当たるの剣道をするので、《白悠会》で厳しくし込み直されている。ふっふっふ。。。全国一の先生たちとお稽古してきた人にしてはエバっておらず、自分よりもうんとちっこい先生(はやりにくいはずなの)に、がまん強く素直について来てくれるので、わたし幸せ〜。

 わたしは日本国籍だから、フランスでの個人戦には出場できない。団体戦は《外国人一名以下》なら出場できるので、10年以上ぶりに試合に出ることになった。JPも、剣道を辞めていたので10年以上ぶりだ。わたしたち、もう40超えちゃったのでおそらく選手としては最高齢ぐらいだろう。

 さあ、あとの二人。。。ローラは彼氏と別れて12月から剣道に来なくなった。エリーズとリュックは年齢制限で、わたしたち大人の団体戦には出ることが許されないということが判明し、若い人のグループの個人戦に出る。残るシルヴァンは去年のライセンスがないということを指摘され、さあ困った。
 
 カッサンドラとエリック。二名の大人の存在が、いきなり浮上。。。二人はまだ面をつけたことがない。。。。あと二週間で鍛えるか〜〜〜。無謀だな〜。十年も剣道やっていなかったJPを出場させることさえ迷っているのに、面を着けてまだ二週間。。。というような二人を、果たして試合に出させてもいいものか。。。

 チュヴィ先生、あっさりおっしゃる。
「出せ、出せ、みんな出せ。そのあとの稽古への意欲が、絶対に変わって来るから」

 とりあえず、その2人に経験させたいので、わたしが補欠に格下げとなり、エリックとカッサンドラも、面を着けて2週間の稽古で、試合に出場させることにした。本人たちかなりびっくりしているが、その他の3人の期待と応援を一心に受けて、かなりやる気を見せている。

さあ、人数は揃った。


 けれども、フランソワのライセンスが、去年のクラブのものであることがいきなり判明。ってことは、規定では《白悠会》の選手として試合に出ることはできないということ。

 ま、とりあえず、会場でなんと言われるか。。。
「いちかばちかで行ってみよう」
ということになった。

「どうせ一本も勝てないんだから、なんにも言われないって」

まあね、もしもリーグ戦を勝ち抜いて、パリで開かれる全国大会への出場権をもらったりしたら。。。それは問題になりますぞ。

いちかばちか。。。。勝ち抜きたいけど勝ち抜いちゃダメ。。。の勝負に挑みまっす!チョイサー

こういう試合、この辺じゃあ見られませんが。。。このビデオはすごい。

2012/01/12

一眼二足三胆四力(いちがんにそくさんたんしりき)



 わたしは割と高い確率で、「はい、わかりました」と即座に言える方だ。答えた直後に「あ〜あ、困ったなあ」とか「一体どうしたらいいんだ?」とか「仕方ないなあ」とつぶやくことは多いし、あとから「やっぱり無理です」と謝ることもある。とりあえず《素直そう》に見える「はい」は言えても、「イヤなんだかどうだか。。。」のはっきりした意思表示はど〜も苦手。

 そういうわたしが、この週末、審判法の講習会に参加した。福岡の角正武先生の数冊のご著書に触れ、ぜひお会いしてみたいとずっと思っていた。去年の講習会は、ちょうどパリでの指導者養成講座と重なって、やむなく断念しなければならなかったので、今年は絶対に参加して、ご著書にサインを頂き、先生の御本のフランス語訳をさせていただく旨、直談判しようと心に決めていた。その前に、肝心の講習会で褒められるようなことをやってみせ、わたしを気に入っていただき、わたしの剣道も「よし」と認めていただければ、その他諸々のお願いはスムーズに行くのじゃないだろうか。。。。という作戦だった。口ばっかりじゃ信用してもらえない。

 審判は難しい。自分自身試合にはもう十年以上参加していなかったので、試合場がこんなに狭かったことも、作法・礼法がこんなに細かく決められているも、身体がすっかり忘れてしまっていた。一月終わりの地方大会で、四段以上のものは審判員になることを仰せつかっている。一秒にも及ばない速い打ちをしっかり見極めて、公正な判断を下さなければならない。試合場は約十メートル四方。試合の時間は3分から5分。試合場から出たり、みっともない剣道をやったり、作法が悪かったり、防具の着装が乱れていると反則となる。立礼の位置も蹲踞の位置も厳しく決められている。審判はと言えば、かかとをつけてつま先を開いて立つその足の先やあげる旗の角度、指先の動かし方から、副審とのコンビーネーションまで決められている。

 剣道を始めたきっかけは、わたしよりも数年早く始めた姉の、剣道着姿の美しさにほれぼれしたことだった。今も剣道着でキリリと立つ人を見ると、女性でも男性でも胸がときめく。女性と男性の身につけているものはほとんど同じであるけれども、動きの中に男性らしさや女性らしさは、やっぱり現れるものだ。剣道は美しくなきゃあダメなんだ。

 角先生のアシスタントとして、世界大会の審判をしているフランス人の先生方が、パリなどから来てくださっていた。その中に、佐藤先生のお宅に泊まり込んで修行をしたこともあるラブルさんがいた。ひと昔前にフランス・ナショナルチームのキャプテンであったラブルさんとは、もう何度も会ったことがあり、個人的なこともお話しできる大好きな剣士だ。ラブルさんは2年前にブールジュでの、5日間の夏期剣道合宿さよならパーティーで、「佐藤先生に習った黒田節を歌います」とわたしの目をまっすぐに見て言い、佐藤先生と同じ歌い方で、《黒田節》を歌って踊った。あれはさすがに涙が出た。

 2メートル近くある大きなラブルさんが、まっすぐに射抜くような鋭い目でわたしを上から見て、「みのりさん、ここに座りなさい」とパイプ椅子を差し出した。グループに分かれて、みんなの前で審判をやったあとで。



 「《真剣》というのは、どういう意味でしょうか。」
と日本語で訊く。ラブルさんには前にも訊かれたことがあるかもしれない。
《真剣》とは、《真っすぐな剣、真実の剣》と書き、《まじめにやる》って意味になる。わたしはいつもニヘラと笑い、ちょこちょこ動き、手をぶらぶら振り回していて、それでは、審判員としての厳しさやまじめさが、身体からにじみ出て来ないというのである。
「みのりさんがけっこうまじめにやってるというのはわかるんだけど、あなた、甘すぎ。優しすぎ。軽くてもあげるし、ちゃんと当たってるのに、気に入らない剣道だったらあげようとしない。審判員ははっきりした態度を示さなければならない。審判というのはきちっとしていて、胸を張っていて、試合場全体をくまなく睨みつけて、その中の世界を威圧し、そこにいるみんなを引っ張っていかなければならない。あなたの剣道も同じである」
 
 ニヘラと笑っていては、なにごともダメらしいのである。

 審判をやってみたあとは、こんどは違うグループの人が審判役に回るために、わたしは選手に変身する。みんなが見ている。怖い。期待を裏切りたくない。。。ちゃんとわかりやすい一本を打ってあげないと、審判する人が気の毒だ。。。とりあえず、試合に挑む直前に考えているのは、どうも《周りのこと》ばかり。名を呼ばれ面を着けると、いきなり《一人》になる。周りから音は消え、「なにをどうしようか」というようなことも、あまり考えられなくなる。足の裏の肉離れでずいぶん休んだあとながら、許される限りの稽古を続けてきたので、思い切った試合ができた。楽しく試合できた。もっと試合がやりたくなった。

 審判員をやるのは、本当に難しかった。知っている人であればなおさらのこと。その人がどんなに努力しているか、ふだんどんな技ができるのか、人間的にどうなのか。。。そういうことを知っている相手が、この数分の試合であっさり負けてしまったりすると、もう残念で残念でたまらない。ふだんからがんばっている人には、無条件で勝たせてあげたいぐらいだ。《公正である》というのは、そういうことではないのか?と言ってみたくなる。たまにやってきて、偶然勝ってしまう人や、《人間のクズ》と思っているような人が、(まぐれで、と言いたくなる)思いもよらぬ素晴らしい隙を突いたりすると、ちょっと腹が立つ。

 「でもこれは勝負なんだから」

《勝負》なんだから《勝つか負けるか》しかない。

 スポーツでも例えばギャンブルでも、勝負に挑む人というのは、きっとたくさんの努力をしてきた人だろうと思う。作戦があり、計画がある。そこには計算や統計や、集めた情報をもとにした推測もある。ふだんから《勝負》のその日を想定しながら、勝ったり負けたりの経験を意識して暮らし、額に汗を流し、《勝負》のその日を思い描いて胸が熱くなるようなことがなければ、《勝負》に挑む気持ちなんか起こらないんじゃないかと思う。そして《勝負》のその日には、運を天に任せる《度胸》と《捨て身》も必要じゃないだろうか。

 《隙を突く》《真剣勝負》っていうのはまさに剣道用語だ。「気合いを入れるて捨て身でいけ」とは、道場でしょっちゅう言われる。「一か八かでやってみろ」というのは、めったにない。修行を積んでいないものは勝負に挑むことを許されないことが多いので。盲滅法に打ちまくって当たることはほとんどないし、質より量の打ちを数打ちゃ当たると思ったら大間違いで、一本勝負の美学なんだけど、それはそれ、剣道の試合は《三本勝負》で、一度取られても次の機会が与えられるところに、《人情》ありの楽しい人生経験ができることになっているのが、剣道のよさだと思う。

 審判も選手も同じ。《一眼二足三胆四力》なのだそうだ。さて励もう。。。。

2012/01/03

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。


今年はだれとも悲しいお別れがありませんように。
たくさんの楽しい出逢いがありますように。
素晴らしい友人たちと仲良くできますように。
健康で、健やかな一年となりますように。
夢と希望に溢れ、輝いていられますように。
夢と現実のはざまでも、ポジティブでいられますように。
夢ばかり見ないで、現実に成功できますように。

これまで続けてきた大好きなことが、今年も続けられますように。
これまでやりたいと思ってきたことを、今年は実現できますように。

待っている楽しいことを、上手にキャッチできますように。
待っているおもしろくないことも、上手に切り抜けられますように。

今年も感謝の心を忘れません。
大好きな人がみんな、幸せになります。
ありがとう、ありがとうと、毎日言います。

今年もきっといろんなきずなで繋がっていく年です。

母から送られてきたおもちを頂きました。どうもありがとうございます。
今年も母のことも、よろしくお願いいたします。