2008/03/27

2月17日

 鹿児島市内で働いている友人たちとは、どうも会えそうにないな〜と思っていたら、フミとラルが鹿児島市内に連れて行ってくれるというので、こっちから会いに行くことになった。待ち合わせの場所はむかし私たちが学生だったころは「ニシエキ」と呼んでいた場所で、今ではアミュプラザというショッピングセンターがあり、観覧車の回る《鹿児島中央駅》という名前の、近代的な駅になっていた。4年前にその観覧車を見たとき、乗ってもないのに、目がくらみそうだった。学生の時に、こんな所があったら、入り浸って、無駄遣いばかりしていたかもしれない。あの頃「ニシエキ」には臭いトイレと、暗いテントの張られた駅前歩道があって、ただ「通過する」所でしかなかった。ただ、駅前があまりにも華やかに変わってしまったために、当時輝いていた《若き薩摩の群像》の銅像がちょっとかすんで見えた。
http://washimo.web.infoseek.co.jp/Trip/SatsumaStud/satsumastud.htm

 アミューズプラザでお昼を食べた。せっちゃんとキョーコちゃんも合流。ゆかりちゃんと娘さんのみゆちゃんも合流。途中で、美緒ちゃんもご主人とやって来た。お昼の和食定食を食べ、みゆちゃんのオレンジジュースをもらって飲んだ。友だちの子どもがこんなに大きくなっていて、しかも素直でいい子に育っていて、お母さんとも仲良しみたいだし、なんだかとっても深い感動を覚えた。

 プラザの中にあるお店で店長さんをやっているリッキーに会いに行った。そうして、彼お奨めの《ゼ・ベスト・オブ・登川誠仁》《喜結納昌吉&チャンプルーズ》のCDを、JPのために購入した。視聴できるコーナーで、大沢誉志幸のむかし流行った懐かしい音楽を、アレンジしたものがあって、いつまでもそれを聴いていたかった。
 ファーストフードのお店には、変なかっこうをした日曜日の学生がいっぱいいて、最近の学生ファッションはズンダレてるな〜と思いながら。。。おばさんになったことを悟った。

 インテリアのお店には、フランス製のものがいっぱいあって、とんでもない値段で売られているのを驚きとともに眺め、日本で売られているフランス製のインテリアが、フランスで売られているのよりも小さくなっているのを感じた。
 テーブルでも椅子でも日本製の家具はとっても背が低い。ベッドのサイズは小さく、台所用品は場所をとらない設計だ。トイレ用品や、お風呂用品がかなり充実している。わたしは台所では、踏み台がなければ作業ができないし、ほかの家具や道具なども、わたしの体格では持ちにくかったり、重すぎたり、ふだんかなり身体に合わない暮らしをしているのだと思う。でも、普段はすっかり気にならなくなってしまっている。日本に帰って来ると、いろいろな物について「なんて便利なんだろう」「なんて細かい心遣いで設計されているんだろう」と思う。わたしは普段から、よっぽど身体に合わない暮らしをしているらしい。自分では気づかないうちに、いろんなことに我慢して、自分を合わせるように、上手に生きていけるようになったのかもしれない。

 今回はカンちゃんには会えなかったけれども、明日福岡に行かなければならないので、福岡までの高速バスの時刻を調べてもらうために電話した。パソコンでの検索で困ったら、いつもすぐにカンちゃんに頼む。彼に訊けばだいたいなんでも解決する。会えなくて本当に残念だった。

 途中、仕事中の《仲間》さんに職場まで会いに行き、彼女の仕事着のミニスカートを冷やかして帰って来た。
立ち話をする時間ぐらいしかなかったけれども、楽しいひとときだった。

 夜はお母さんといっしょにお好み焼きを食べに行った。
 むかしご近所で八百屋さんをしていた「トクドメ」のおじちゃんがお店をやっているのかと思ったら、そこのお兄ちゃんだった。父と息子って、こんなに似るものだろうか? 一瞬、トクドメのおじちゃんのところだけ、30年の歳月が流れていないんじゃないかと思った。でも、30年の歳月は完全に流れていて、トクドメという八百屋はなくなっていた。
 その前に会ったレコード屋さんもなくなっていた。 
 レコード屋さんの裏は、豆腐密造(?)の工場になっていて、わたしはそこに、片手鍋を持っていき、豆腐を買うためにレコード屋のドアを押したものだ。

 あの通りにはほかに《かどや》の花屋さん、ナッちゃんの自転車屋さん、靴屋の《うえはら》さんと、変な大阪弁をしゃべる《山本》さんのお茶屋さん(結納道具も売っていた)があった。《つばめ》のおじちゃんは散髪屋さんで、《トクドメ》では小僧ずしも売っていた。《エンドー帽子店》の隣は《クラや》っていうお茶屋さんで、その隣が《池元仏壇店》。そこのおじちゃんは、クジャクを飼っていた。仏壇屋の前に薬屋があって、そこに《リポビタンD》を買いに行くとカエルのゴム人形や風船がもらえた。仏壇屋の隣がおもちゃ屋さんで、その隣は眼鏡と時計のお店。眼鏡は買ったことがなかったけれども、高校に上がる時に、《松山時計店》で腕時計を買ってもらった。わたしの欲しかった時計は、母の予算を完全にオーバーをしていたのに、「欲しいな、欲しいな」と言ってお店で母に恥をかかせた。おじちゃんはきっとわたしに呆れていたと思うのだが、時計の値段を負けてくれたのではなかったかと思う。その時計はしばらくして、トイレに落としてしまい、使い物にならなくなった。時計というものは、今でもよく落としたりなくしたりする消耗品なので、スイスの高い時計なんぞは、間違ってもプレゼントしてくれるな、とJPに言っている。今毎日はめている時計はGUESSのカッコいい時計だが、実は義父が海岸で拾ったもの。
 時計を見るとあのおじちゃんを思い出し、あのおじちゃんを思い出すと、商店街のみんなを思い出す。区画整理でなにもかも変わってしまっていた。

 さあ、明日は4時に起きて、高速バスで福岡に行くのだ〜〜。

2008/03/26

フルマラソン

 わたしは、さっきから、何をしていたかと言うと、じつは、泣いていた。
こんなふうに書くと、読んでくれている何人かの親戚と、たくさんの友だちは、きっと心配してくれると思うのだが、「心配させちゃえ〜」と思いながら、こんなことを書いている。

 友だちはたくさんいる。基本的に嫌いな人とはつきあえないから、自分に優しい、いい友だちしかいないと思っている。ありがたいことだ。
 例えばわたしが「相談に乗ってよ」と言えば、みんながみんな、「どうやって相談に乗ってあげようか」と考えてくれるのだ。いつも。「疲れた」とか「悲しい」とか「めげている」と《宣伝》すれば、すぐにメールもいっぱいやって来る。まさか、この人まで日記を読んでくれていたのか〜と言うような人まで、久しぶりのメールをくれたり、する。

 先日、人の気持ちや自然の声や、人のぬくもりや、風の香りに敏感で、たまに魂の声まで聴こえる友人が、「エンドーさん、この人にはなんでも相談していいよ。きっといい答えをもらえるよ」といって、なんだか面白そうな人を紹介してくれた。つい2週間ぐらい前のことだったと思う。いつもは、その魂の声が聴こえる彼に話を聞いてもらったりしているのだけど、本人は「もっといい人がいるよ」と言って紹介してくれたのだ。とっても有り難かった。これで《相談できる人》がわたしの人材バンクの中にもう一人増えた。

 でも、「はて?なにを相談しようかね〜」と思って、3時間半ぐらい考えたけれども、何も浮かんでこないじゃあないの。わたしには「悩み」というものがないんだろう。なんにも困ってない。わたしは健康で、生活にはそこそこに満足していて、物には不自由しておらず、とっても素敵な家族がいる。仕事も順調。半年のスペースで、立て続けに日本にも帰ることもできた。去年から今年に掛けて、フランスで日本人にもいっぱい会えて、その誰も彼もとおつきあいが続いているから、寂しいこともなかった。
平和だ。実に。

 なにがそんなに悲しいのと言われても、困る。悩みはないんだから。
ただひたすらに空しい。。。と言うと、そうかもしれない。

 さっき、泣きながら「誰に話を聞いてもらおうか?」と考えて、フランスは夜中で、日本は早朝で、誰にも電話できないことに気づき、もっと悲しくなった。朝が来たら、心のとも《とし》に電話して、天文館の話と、子どもたちのキョーイクと、今晩のおかずの話をして、いっしょにガハハと笑い飛ばそう。
 たまに「こんな時間に携帯メールで起こされた〜」と言いながら、日本時間の3時ごろでもちゃんと返事を書いてくれるヒトもいるんだけど、あイつはこの頃頭が痛いらしいので、夜中に起こすのだけは遠慮している。
 実際には電話はあまり好きじゃないから、「じゃあ、誰にメール書こうかなあ?」と思ったら、こんなにたくさんの名前がアドレス帳に並んでいるのに、コノワタクシトシタコトガ、そこにある名前のオンパレードの誰も、今日のわたしを慰められないと、思った。

 あの人にはこれを聞いてもらえる。彼にはあのことを言えばわかってもらえる。でも、こっちは彼女じゃないとわからないだろう。あの人は心配してくれるだろうけど、優しい言葉なんか言えない人だ。あの娘は優しいことは言えるけど、厳しいことを言ってくれる勇気はないだろう。あの友だちは話してもわからないだろうけど、聞くだけは聞いてくれるかもしれない。あイつだったら答えをくれるかもしれない。でもそれがわたしにとって満足できる答えじゃなかったら?
 友だちみんなに《持ち場》や《のれる相談ごとの得意分野》があって、《経験と実績》がそれぞれ違うので、結局、誰にどうやって助けてもらったらいいのやら、本日の涙のわけはひとつじゃないから、どうしようもないな〜と思った。

 そして、ふらっと、従兄が執筆している小さな新聞の、彼のコラムを読むに至った。その新聞は《浮来亭》という名前で、その名前にフラ〜〜と引きつけられてしまった。
 従兄のコラムは「フルマラソン」というタイトルで、わたしは、こんどはそれを読んで、嬉しくてわんわん泣いてしまった。こんな従兄がいたなんて驚きだ。こんな従兄だったら、「走ってでも」飛んできてくれるような、そんなスーパーマンみたいな姿が目に浮かんだ。

 人生は「山あり谷あり」「楽ありゃ苦もある」「大海原の航海をするようなもの」そして「人生はフルマラソンのようなもの」だとか聞いていて、確かに「ここまで墜ちたら、あとは昇っていくだけ」というような経験も味わったことがあると思っているのだけれど、とにかく心身ともに健康で、本気で自分と闘える人間じゃないと、行き着く先にある喜びにはたどり着けないのかなあと、本日思った。ゴールを切った時のさわやかな気持ちは、積み重ねとか、汗とか、痛みとかの、ご褒美みたいなものなんだろうか。ゴールを切れた人の中には、たぶん、自分の思う通りのゴールを切れなくて、涙する人もいるのかもしれないなあ。「苦しいのに走り続けるって、どうなの?」という人はきっといるだろう。「苦しい時はやめちゃえ」と、言ってくれる人もいるんだろうなあ。
 でも、「苦しい度」は人それぞれ、「痛み度」もレベルいろいろ、「限界」も様々なタイプがあるので、「みんながんばって、必死にマラソンをしましょう。ゴールを切れない人はダメダメ、あなたは人間失格です」なんて、言えないよねえ。「がんばったんだから、ビリは嫌」か「がんばったんだから、ビリでもいい」か。。。人それぞれなんだろうなあ。わたしはこれまで「目標立てたからにはまっしぐら、がんばったからにはビリは許せん」というエスプリだったような気がする。あんまり根性がある方でもないくせに、人目が気になる人間なので。ゴールで「よくがんばったね〜」と褒められるのだけが、目標だろうな。わたしが走るとしたら。「ミノさんすご〜イ」と言われたいだけの目立ちたがりか?(でも、マラソンはできない。少々根性あっても生半可な体力じゃねえ〜。)
 思うどおりの結果に至らなくても、マラソンが行われたその日の晩、温泉に浸かりながら「ボクは昨日より成長した」と感じられたら、素晴らしいなあ。うらやましいなあ。輝いて見えるなあ〜。          
 ゴールを切ったら、それで終わりじゃないんだろう。そこからまた始まるんだろうなあ。ダブル・フル・マラソンとか?

たしかに、卒業式のあとには入学式があった。
「ゴールイン」のあとには「二人三脚」が始まった。
9ヶ月で身体が軽くなれると信じていたのに、肩の荷は重くなった。
年越しソバのあとには、ちゃんとお雑煮が待っている。


 わたしに相談相手を紹介してくれた例の友人は、「エンドーさん、指宿は世界の果てなんだよ。ぼくたち、世界の果てから来たんだよ」と言った。わたしはいつも、カーモーから指宿に帰るたびに、「どうしてあんな世界の果てのフランスなんぞに行っちゃったんだろうか」と思っていたので、指宿のほうが《世界の果て》だったんだよと言われても、まあ、距離は同じだ。そうか、わたしは《地球の裏側》に来てしまったわけね。そして《世界の果て》に戻って来る。《果て》というのは本当はそんなものなくて、ぐるっと回って帰って来るしかない場所なんじゃないだろうか?と思った。地球の裏側から世界の果ての距離は縮まらない。人生の出発点だと思っていたのに、実はそこは世界の果てだった。油断をしていると、いつもだれかがわたしをあそこに引き戻す。身体か心か、その両方か。とにかく、あそこに戻るようになっているらしいことが、最近わかってきた。いやでも思い出させる。そして、思い出すのはいやじゃない。

 今週は、《地球の裏側》から、《世界の果て》にいる家族について、いろいろ考えた。そうして、何もやってあげられない空しさに包まれて、そろそろ涙が涸れてきた。なんだ、たった一時間で涸れる程度だったか。。。そんなもんかあ〜。

 わたしはちょっとマイペースなるものをスピードダウンして、もっと自分に優しくなろう。このままではゴールの快感を味わう前に、電池切れだ。人に振り回されてると言いつつ、自分を振り回しているのは、自分の判断力のなさだ。と、まあ、そのことだけにでも気づいたら、一時間前よりも気が楽になったみたい。
ご清聴ありがとう。やっぱり一方的に書く方が、好き。
そして、わたしのことを《お好きなように》心配してあげてください。ふふふ
いつか「おつりはいらね〜よ」と言えるようになるので、きっとなるので、出世払いに期待をかけてね。

 《てんちの杜》に、はやく蛍が飛びますように。

 http://www.synapse.ne.jp/rentarou/155.htm

2008/03/25

2月16日 めいっぱい遊ぶ

 午前中に、お墓参りと納骨堂参りをする。そのつど、いちおう「タクちゃんのお父さんが元気になりましたので、ありがとうございます」と、前もってお礼を言っておいたので、きっと元気になるだろう。

 お寺から帰って来る途中で、駅伝をやっていて、従兄が街頭で応援していた。車の中から手を振っても気づいてもらえなかったので、ちょっと先で降ろしてもらって、従兄がやってるお店に行ってみた。私たちは子どもたちの話をし、入院しているおばちゃんの話をし、そして、従兄がやっているNPO法人の《縄文の森をつくろう会》の話から、《てんちの杜》の話を聴いた。
《てんちの杜》というのは、揖宿神社の裏にあるらしい。揖宿神社は母校指宿高校の隣なので、ぜひ見に行ってみようと思った。

 お昼ごはんは、リッキーとそうめん流しに行こうねと、ずっと前から約束していた。ただし、約束したのは夏だったので、まさかこんな寒い冬に、そうめん流しもないだろうと、みんなにびっくりされていた。しかもリッキーが「シケタを呼ぼう。エンドーさんは誰を呼ぶ?」と言うので、「ええ〜2人っきりじゃないのお〜?シケタを呼んだら、女の友だちはみんな遠慮するかも」などと失礼なギャグを飛ばしつつ、ラルとフミを確保した。困った時のラル・フミだのみ。

 真冬にそうめん流しなんて、考えただけでも寒いと思っていたけど、寒い冬でも営業できるように、ちゃんと冬用の食堂があった。レストランの下を清水が流れているので、底冷えするのだが、ちゃんとストーブが炊いてあった。話が弾んで、とっても楽しいお昼だった。

 このあと、長崎鼻でお土産屋さんをしているタダムネくんちに、遊びに行くことにした。わたしはここで、いろんなお土産を買った。ここでしか売られていない、秘蔵の焼酎というのがあって、みんながおいしいと言っていたのだが、なにせ一升瓶サイズしかないというので、お土産に買うことはできなかった。スーツケースに入らないよ。
 タダムネくんに「また来るね〜」と言ってるところに、タダムネくんの携帯が鳴って、それは知らない番号だったらしいのだが、なんと、ひっさしぶりの久しぶりに電話を掛けてきたという、脇田クンだった。大阪のデパートまで、わざわざ会いに来てくれた、あの脇田クンだった。みんなで「信じられ〜ん、このタイミングう〜〜」と叫んでいた。

 みんなとはここでいったんお別れして、わたしはフミに送ってもらうことになった。途中で思い出して、《てんちの杜》を見に行こうよと誘ってみた。見知っている神社のカラフルな境内。その裏に、造成中の土地。敷地の入り口に、しめ縄を巻かれた大きな木があって、フミといっしょに感動とともに見上げた。

 懐かしの揖宿神社のサイトご紹介。あの揖宿神社に、こんなすごいお宝があったとは、知らなかった。インターネットでお守りが通販できるとは、なかなかやるなあ〜。学生の時にテニス部の女子たちが赤い袴を履いて《巫女》のバイトをやっていた、懐かしのお守り売り場は閉まっていて買えなかったので、こんどインターネットで取り寄せてみよう。
http://www.ibusukijinsha.com/

 ここでもちゃんと「タクちゃんのお父さんが、すっかり元気になりましたので、ありがとう」と、ちゃんとお賽銭を上げて、前もってのお礼を言った。厄払いの、つもり。

 そうめん流しに行ったとき、シケタくんにお正月の厄年同窓会の写真をもらった。そういえば、中学同級生の男子たちが、一堂に会して、厄払いをしたのもこの神社だった。みんなスーツを着ていて、お賽銭箱の前に立っている写真だった。半分以上は、名前もわからなかった。従兄に写真を見せたら、その中の何人かは、市や県の役員として活躍しているし、商工会や、PTAでもがんばっているし、スポーツのクラブでいっしょになったり、飲み会で会ったりするそうだ。みんなちゃんと社会人やっているんだなあ〜、へえ〜と思った。

《てんちの杜》の公式サイト。写真がないのが残念。
できたばかりの川に、オタマジャクシが泳いでいた。一ヶ月経った今ごろは、ツマベニ蝶が飛んでいるかもしれない。
http://tenchi.at.webry.info/

そして、従兄が参加している《縄文の森をつくろう会》のサイト。
http://www.synapse.ne.jp/jomon-mori/index3.html

指宿でも、いろんな活動をやっているんだなあ〜と頼もしく思う。

2月15日 今ごろ鹿児島について、どーする?



 燃ゆる想いにくらぶれば、煙は薄し桜島山
とか言った人がいたが、たしか、そのころは黙々と煙が上がっていたんじゃないか、と思う。

 さて、あまりにも待たせすぎて、すごい日記を書かなきゃならないかと思うと、かなりプレッシャーだ。。。
ところで、2月15日なのである。

 やっさんが迎えに来てくれるはずだったのに、約束の時間にいきなり「死んでる。。。」という電話が来た。そんなことが言えるのは、まだ生きているからだから、電話まで這って来れてよかったね、と思う。病院に行って会社は休みなさいね、と言って電話を切る。

 仕方ない。一人で羽田まで行くしかない。荷物持ちに使おうと思っていたやっさんが、来れなくなってしまったことを考えただけで、ドドーッと疲れが出た。フロントで訊いたら、バスで駅まで行って、電車を乗り継いで、どのくらい時間が掛かると教えてくれる。慣れたもので「タクシーだったら2400円ぐらいですよ」とにこやかに教えてくれる。ま、いいか、ゆうべの宴会では一銭も払わなかったから、友だちに送ってもらったと思って、タクシーで行っちゃおう!

 タクシーのおじさんは、とってもおしゃべり。カーナビに逆らって、裏道を走るのを趣味にしているようだった。「カーナビはこう言ってますけど、あたしゃあ、こっちから行って時間稼ぎますぜ」と言ってる。警察のレーダーを感知する機械は、料金メーターの上にゴムバンドで留めてあって、ぐらぐらしてたけど、「コイツのおかげで、あ、ほらね、あそこに警察居たでしょ?」自慢してる。どうせ60キロぐらいしか出してないんだから、レーダーなんかには引っかからないと思うんだけどねえ。

 「ミラベル」で戴いた花束がどうしても捨てられず、母に花束を持って帰ってあげたかったのはいいが、手荷物で預けられずに、苦労した。国内線は、国際線に較べると低空飛行なので、地上の様子を見ることができて楽しい。行ったこともない四国の辺りも飛んでいたようだ。

 鹿児島空港には、宴会場からタクちゃんが電話してくれたおかげで、お迎えが来てくれていた。途中で「道まちがっちゃった」とか言いながら、ちゃんと遠回りをしてくれて、高速道路なんぞを通らずに、桜島を裏から眺める、わたしの知らないコースで帰って来た。鹿児島市街を抜けてから指宿までは、海岸線の一本道で大隅半島を眺めながら、ねじを巻き直すにはちょうどいい距離だ。この間に時差がだんだん縮まって行くような気がする。薩摩今和泉の松林を通る頃に、指宿が近づいてきたことを感じて、ドキドキして来る。そういうころが、夕焼けどきというのは、よくない。迎えにきてくれた友だちに、お茶をごちそうするよと言ったけど、また別な用事で、夜になってから鹿児島までUターンしなくちゃいけないというし、なんだかとっても疲れているようだったし、どうせまた会えるはずだったので、実家まで送ってもらってお別れをした。お土産は今度会った時に渡すねと言った。

 父の仏壇を見ても、夏ほどの感慨がなかった。わたしは、きっと、もうここに帰って来ても、父が居ないことに、そして、この仏壇という箱の中に、誰もいないことを、理解し始めたのだと思う。父は、いつも側に居る。だから、わざわざここに来なければ、話を聞いてもらえないということはないのじゃないかと思う。来て元気な姿を見せたって、いつもわたしが走り回って疲れている姿や、行儀悪い格好で寝てる姿なんか、見られているはずなので、どーしよーもないと思う。
 いちおう「帰って来ました。ありがとう。タクちゃんのお父さんをよろしく。元気にしてあげてください。たのむよ」と頼む。
子どものことや、JPのことを頼むのは、すっかり忘れてしまった。

 母に「家に電話しなさいよ」と言われて、電話してはみたが、今までわたしのことなど忘れていたらしきゾエが、いきなり母の声を聴いて恋しくなったようで、泣いたりするものだから、JPに代わってから「もう電話しないからね」と言った。翌日から学校の冬休みで、翌々日にはナルボンヌの実家に連れて行くらしいので、もう自宅には電話しなくてもいいと言われる。
いきなり開放感〜〜。自由の身〜〜〜。

 母に「何を食べたいか?」と訊かれれば、たいていの場合、インスタント・ラーメンと応える。子どものとき具合が悪くて学校を休んだ日に「なんでも好きなものを食べさせてやる」と言われたら、「ラーメンかハンバーグ」と言ったものだ。インスタント・ラーメンの中でも、日新のカップラーメンでカレー味じゃないヤツか、チキンラーメンか、出前一丁か、そういう《基本の》ラーメンに、野菜も焼豚もなんにも入れず、できるだけお汁の少ない、味の濃い、しかも、麺は固めのを、音を立てずに食べるのが、第一希望。
 が、しかし、ちょっとは奮発したい母心のおかげ(せい)で、《どさんこラーメン》から、本格みそラーメンと焼き飯と餃子まで届いてしまった。しかもちゃんと2人分。量の多さからして、これを2人じゃねえ〜と思っていたら、割り箸はちゃんと4人分あった。
 母は全部食べられなかったけれども、もちろんわたしは食べた。割り箸2本分はキープできたので、次回の遠足に再利用できるじゃないか。

 出しっ放しの温泉に入り、心も身体もすっきりポカポカ。指宿はいいね〜〜。

 母はしゃべる。しゃべる。ひたすらしゃべる。夜中の2時までもしゃべる。
わたしはとにかく話を聞き、うわさを聞き、報告を聞き、レポートを聞き、頭がコタツのテーブルにぶつかり始めると、いきなり「あんた。もう寝なさい。夜更かししたらダメだよ」と母に小突かれる。

 母と並んで寝る。父が寝ていたところに寝る。布団に入ったら、もう何も考えられなかった。

2008/03/21

電池切れ

 ネクトゥーさんとお昼の約束をしていたので、わくわくの朝が来た。

と、思ったら、朝のコーヒーでつまづく。

 先日「安楽死」についての申し出を却下された、シャンタル・セビーさんが、自宅で遺体で発見された。
暗い気持ちでパソコンを開けば、そこには《悲しい知らせ》のタイトルが。
 今でも仲良くしている高校の同級生のご主人が、心筋梗塞のため急死した。
先日日本で会ったばかりで、50歳にもなっていない。

 その友だちに電話したり、家の中をうろうろ歩き回ったり、ブツブツ言ったり、郵便屋さんの相手をしてる間に、ネクトゥーさんとの約束の時間をとっくに過ぎてしまった。
電話すると、出ない。
ネクトゥーさんまで、ぶっ倒れてるんじゃああるまいね、と思って、またその辺をうろうろし、ドキドキし、5分後にまた電話をしたら、息せき切らせたネクトゥーさんが、「顔中に笑みをたたえてます」というような声で、「みのりが来るから、ヨカニセにしようと思って、風呂に入っていたところだった。オードトワレまでつけて待ってるよ〜〜」
ネクトゥーさんのオードトワレが、カーモーまで漂って来るようだ。

 ネクトゥーさんの家まで、高速を飛ばして45分以上掛かる。着いたらお昼を過ぎていたけど、ネクトゥーさんは「食べる前に、お経を唱えよう」と言った。
 待ってました。
 私たちはお線香を炊いて、テープに合わせて般若心経を唱えた。お経についていくのが精一杯で、《誰か》のことを考える暇がなく、一心不乱にお経を詠んだ。
 私たちのその《儀式》が終わると、今度はもうひとつのが待っていた。

「みのりには、《気》が抜けてる。自分のをちょっとあげるから、手を貸してみなさい」
椅子に向かい合って、わたしは80歳を超えたジ〜さんに、燦々と春の日が射す居間の仏陀の前で、手を握られた。
ネクトゥーさんの手は、ものすごく冷たい。
目を閉じて、2人で剣道でやるような呼吸法をやって、しばらくすると、ネクトゥーさんは、立ち上がったようだった。わたしの額や頭の回りに、手の平をかざしたりしているらしい。直接触ったりはしないのに、やがて、ネクトゥーさんがどの辺に手をかざしているのかが、わかるようになった。ネクトゥーさんの手があるらしき辺りは、そこに火の玉を持って来たみたいに、ポカポカ温かいからだ。わたしは先ほどの冷たい手が、時間とともに温まって、その熱を感じているのだろうかと思ったら、《儀式》が終わったネクトゥーさんの手は、始める時と同じぐらい、つまり、死人のように冷たかった。
 「これ以上やると疲れてしまうから、これぐらいで充電できたでしょう。わたしの《気》をあげておいたよ。熱を感じたでしょう?」
 「どうやったの?どうしてそんなことができるの?」
 「生まれた時に、こういう力をもらったんだよ。だから、どうやったのかと訊かれても困る。」
なるほど。。。と、言えるか?そんな。。。
ネクトゥーさんに《気》をもらったおかげか、おいしいイタリアンのおかげか、わたしはけっこう元気になり、ネクトゥーさんちのサロンと廊下と、台所とついでにおトイレも掃除した。
 ネクトゥーさんは《春分の日》のお日様をいっぱい受けて、玄関先の椅子で居眠りを始め、わたしも眠くなって来たので、ネクトゥーさんが大切にしている《にっぽん・ジャパン》という写真集を借りて、帰ることにした。ネクトゥーさんは、いつもわたしに《人質》ならぬ、《ものじち》を持たせる。そうして「それ、返してもらわなきゃならないから、早く遊びに来てね」とウインクをする。
 わたしが帰る時には、ネクトゥーさんは居間の大型液晶テレビで、スケートの選手権を観ていた。《日本のかわいいお花のような少女たち》3人の大ファンで、その美しさに見とれている。
 ネクツーさんは、「オンナは盆栽だ」と言う。
「そんなマッチョなことをよくも言うね」と反論すると、「女性には、手をかけ、日当たりや潤いを加減してやり、優しくしてあげないとダメ」というのが、《盆栽》の定義だ。
世の男性諸君にネクトゥーさんの爪のあかでも煎じてやらねばなるまい。
そして、こんな男性には、輝くような美しさを見せてあげて、わがままを言わず、へそを曲げず、心癒してあげなきゃならないのが《盆栽》の役割かもしれない。

 そうしてまた、10年以上もいっしょに暮らした相棒に先立たれた、友だちのことを思う。

        合掌


 

2008/03/19

徹夜明け デス



タヒチの剣道仲間から送られて来た、向こうの夕日。。。
楽園なんでっしょーか。あっちは。。。

 徹夜をした。
バレンタインデーの日に、タクちゃんたちと徹夜して以来だ。

 納期が一週間もあったのに、10分前までじたばたして、ようやく出した。
2週間ばかりはクレームが来ないか、ヒヤヒヤして暮らさなければならない
今回やっていたのは。。。

 塗料を塗った板を切り込みにより採取しその中心に設定されている接着面に接着剤を塗布したのち引張試験器を固定する。JIS規格に準拠しているその名も「プルオフ法」というテストをする際に使用する引張試験用の固定接着金具ドリーの発明について。
(「点」を入れずに一気に書いてみた。)

これをタイトルらしくしようとすると。。。
素地表面における塗膜の付着力測定に使用する、引っ張り試験器の試験円筒

本当はここに《点》なんか入れてはならず、もっと短くしなきゃならなかったのだが、時間なかった。「これじゃわからん」という声が聴こえる。。。
タイトルは、考えれば考えるほど、難しいノダ。だからいつも当然のごとくタイトルでつまづくのだ。
塗料を塗った板にこの発明品を貼付けて、器具を別な機械で引っ張りながら「どんだけ引っ張ったら剥がれるか」を調べるのが「付着力検査」らしい。なにがどう「発明」なのかは、ここでは申し上げられない。

14ページもあって難しかったけれども、とっても面白かった。

 それで、わたしは、一週間の与えられた時間内に、一体何をやっていたかというと、70時間か80時間ばかりは調べものをしていた。フランス語を読んで「な〜んとなくこんなもんだな〜」とわかり始めるまでに4日ぐらいは掛かり、同時に、日本語でも同じような分野があるのかどうか、調べる。「よし、どういう世界かはだいたいわかった」に至っても、今度は日本語でなんというのかわからないし、日本語でいつも書いているような文章が書けるようになったとしても、業界の文書っぽくなるまでに、ずいぶん書き直しをする。

 ワープロ時代からパソコン時代になって、切り貼りができ、インターネットがあり、ずいぶん楽になったものの、画面で読むのと、紙で読むのは感じが違って来る。それから、書いたものを大きな声で読むと、文章の流れがおかしいことに気づき易かったりもするのだけど、夜中にはそれをやれないので、プリントアウトして、台所や風呂場や、廊下や、車の中で子どものお迎えを待ってる間などに読んでは線を引き、書き直しては、消す。

いつもこのような知らない世界を歩くと、かならず発見がある。

 今回などは、バーコードの粘着力について、ネチネチと細かい文字で報告書を書いている人がいることも知ったし、JISの規格や特許などが、インターネットの電子図書館で、サクサク検索できる喜びも覚えた。世間には信じられないような研究をしている人がいっぱいいるんだなあ。でも、粘着力や付着力を知ることで、改善される生活があることはよくわかった。《そ〜んなこと》を研究している人に感謝だ。「座ぐり」とか「芯だし装置」など、チクリドキリするような、面白い単語があることもわかった。
「テニオハ」を入れ替えることで、文章が見違えるように美しくなることは、前から知っていたはずなのに、自分はそれがわかっているのよと思って、頭を抱え、しつこく悩み続けていると、どーしてもよくはならず、投げ出して、パソコンを消して、台所で一息ついた途端にひらめくような、そういうこともあった。

 今朝、「フィニッシュ」と思って、デスクトップに所狭しと並んでいるダウンロードのイコンたちを、さてダストシュートしようと思ったら、ゴミ箱が「ポコン」とメロディーを鳴らした。(マックはポイしたいイコンをゴミ箱に持っていきさえすれば削除できる)
その「なにかがゴミ箱に落ちた音」を聞いて、わたくし、ブルーになった。
「あと2時間で提出予定のテクスト14ページを、ゴミ箱に捨ててしまったのだああ〜〜」
でも、「ゴミ箱を空っぽにする」のところはクリックしてなかったから、あるはずなのに、パニック〜〜〜。
ーーちなみのこの部分だけで、片仮名単語が20個もある。最近は「片仮名用語が嫌いなわたし」には生きづらくなったーー

「信じられん、信じられん」とつぶやきながら、真っ白のごみ箱をにらむ。
ベートーベンのように頭をかきむしったりしても、運命を感じるのみ。
JPの職場に電話して「ごみ箱を再生するには????」と泣き落とし。
JP、わけわからず。。。
JPの役立たずめ。朝から八つ当たりしてどーする。

 結局、ごみ箱の端っこに落ちていた。
窓が「最大化」されていたために、パソコンの画面内に納まりきれなかったごみ箱の角に、ぽつんと落ちていた〜〜。
信じられ〜〜ん。

 これでまた白髪が8本は増えたヨ。
脳みそにしわ増えたかな?

 提出して30分経ったけど、まだ電話が鳴らない。
とりあえず、食べるものを確保するためだけに、台所に向かう。。。

午後はいよいよ鹿児島に帰ってからの日記を書く。(元気だったら)

2008/03/17

この頃のわたし またも なか休み

 一ヶ月前の日記をちまちま書いている。
 鹿児島に着いたら、また書くこともあるので、ちょっとここでひと休み。
なんだか感動が薄くなりそうで、記憶も遠のきそうだから、どんどん書きたいのに、わたしには、時間というものが不足している。

 毎日毎日あっという間に過ぎていく。
3月の第一週目の週末は剣道講習会の通訳に行き。久しぶりに汗をかいた。
第二週目の週末は、JPのお誕生日だったので、金曜日に両親を呼んで誕生会。日曜日にはすみちゃんを呼んでお別れ会をした。
先週は、《ミー》さんのお店で働いていた、すみちゃんが日本に帰ってしまい、我が家まで寂しくなってしまった。

 子どもたちの習い事や、学校の行事もあれこれあり、わたしはフルートの練習をまじめにやり、本をたくさん読み、時間が余っていれば日記を書いた。家の片付けもやってる。掃除はやってない。

 今とても気になっているニュースは、チベットの暴動と、地方選挙の結果の動向。6年前からコロンビアのジャングルで人質になっていて、今では病気のために死の危険にさらされているらしき、イングリット・ベタンクーの命の心配と家族の不安をおもう。

それから、先週の木曜日に偶然テレビで見てしまった、エレファントマンみたいな女性の顔が、頭から離れない。
シャンタル・セビーさんは、不治の病を持っていて、その症状のひとつに《顔が崩れていく》というものがある。鼻などの気管が冒されつつあり、目はこぼれ落ちそうにふくれあがり、日々ものすごい痛みに苦しんでいるのだ。自分の顔写真を公開して、メディアの関心を引こうとしたそのわけは、《死の権利》を主張するため。
 病院でもらう痛み止めはもう全然効かない。これ以上は処方できないと言う。

 数年前、ヴァンサン・アンベールという若者が、《死の権利》を主張しながら、亡くなっていった。我慢できなくなった母親と、担当医が、点滴に操作をして、彼の痛みを和らげてあげようとしたもの。先日映画でヴァンサンの物語を観た。母親のマリーさんの強さに心打たれた。

 苦しむ姿を毎日見ていなければならない家族の気持ちや、苦しみながら、家族のことを考えてやまない病人のことを考えれば考えるほど、とっても難しい問題なのだと思わずにはいられない。我が身をそこには起きたくないものだ。健康に過ごしているなに不自由のない生活に感謝せずにはいられない。

 先週から、シャンタルさんが裁判所にお願いしていた《死の権利》に関わる、《安楽死》の申し入れが、本日受け入れられないことになって、今日はずっとラジオで《安楽死》問題についての様々な討論を聴いていた。

 さて、最後のニュース。
http://info.france2.fr/france/40850636-fr.php
第一次世界大戦で闘った戦士の、最後の最後の生き残りラザー・ポンティッチェリさんが110歳で亡くなって、本日、ナポレオンのお墓もあるというアンバリッドで、国葬が行われた。
大戦のことを、その口で語れる人たちが、いなくなってしまった。

 この夏に出る予定の、わたしの翻訳の本の中で、アウシュビッツの犠牲者たちが、「思い出は受け継いでいくことができる。私たちからきみたちへ。きみたちから孫たちへ」と語るシーンがあって、そのことを思い出した。

いなくなってしまった人たちのことを語りついでいくということは、とっても大切なことだと思う。
と、いうわけで、今わたしは、いなくなった人についての作文を書いている。いつ終わるやら。。。


 さて、今夜もまた引き続き、午前様になるだろう。
わたしは数日前から「塗料の付着力測定に使われる引張試験器の試験円筒」なるものの文書を訳している。
眠い、疲れた。頭痛い。やりたくない、難しい。
と、言ったところで納期が迫って来る。
あああ〜〜、シゴトに戻らねば〜〜。たすけて〜〜。

2月14日 バレンタイン・デーの再会



心のとも、ピース・クボタ氏編集による御本ですので、買ってください。


 やっさんがついていてくれたおかげで、遅刻もせずに、約束の宴会場に着いた。
《宴会場》と思っていたら、ナチュラル思考のこーちゃんが予約してくれた、東京駅近くの《アリス・アクアガーデン》というお店は、おしゃれでシンプル、小ぎれいなレストランで、心が和む柔らか照明のお店だった。

 同級生たちが集まり始める。前回はしゃぶしゃぶのにぎやかなお店で15.6人以上は集まったのだけど、今回は平日の夜ということもあって、一次会は女子2名に、男子が4名。あとから合流した2名。うち男女各1名ずつは独身。バレンタインデーに、こんな所に来ているとは心配だ。人数が少ないおかげで、お互いのことをじっくり話せるからよかった。

 自転車屋のなっちゃんと22年ぶりに会った!うれしかった〜。
前に私たちが住んでいた商店街周辺には、同級生がたくさんいて、幼稚園・小学校のころは、よくみんなで遊んだものだ。商店街のバス遠足にもいっしょに行ったし、町内の運動会で地区対抗バトンタッチもした。
 4年ぐらい前に9年ぶりに帰った時に、自分が住んでいた所はなくなってしまっていた。なっちゃんちの自転車屋さんは場所を変えていて、お店はモダンなショーウインドーがあり、お兄ちゃんのやっし君の代になっていた。なっちゃんがまさか東京にいるとはつゆ知らず、夏の同窓会には不覚にも呼ばなかったのだが、お正月の同窓会で、なっちゃんとやっさんが会い、本日の東京版同窓会では、やっさんのおかげでわたしもなっちゃんとも再会できた。
 なっちゃんは今の彼女の年ぐらいの、わたしがよく知ってるおばちゃんと、瓜二つになっていた。つまり、とっても美しくなっていて、心も身体も丸くなっていたので、とっても嬉しかった。
 「うちは親父が厳しく、男性恐怖症なので、彼氏ができない」という言葉にもしみじみうなづける。あの親父さんはうちの親父並みに怖かった。なっちゃんは、あの親父さんにも負けない飲みっぷりだった。顔色も変えず、テンポも落とさず、ニコニコ笑いながらガンガン一気呑みをしていて、男子諸君もビビっていた。
 わたしはアルコールがダメな分、ひたすら食べてばかり。(わたしは昔から丸かったので許せる)お刺身や焼き豆腐など、なにかそういう《気の利いたもの》を友人たちはどんどん注文してくれ、「食べなさい、食べなさい」と言って、お皿を差し出す。

 タクちゃんがまた、いつものように横でニコニコしている。「んにゃ」の五段活用について講じている。夏には彼が一体どんな仕事をしているかさえ、ろくに話し合えなかったけれども、ようするに、彼は人に幸せをもたらすお仕事をしているとみた。昔から彼は世界中を笑いに巻き込んでいた。幸せクリエーターだった。
 こーちゃんも、死にそうなヤッさんも、楽しそうに笑っている。
夏には会えなかったフッガにも、高校卒業ぶりだった。彼はわたしの人生の中で最も暗い「自転車小屋での涙のわかれ」に関わっている重要人物なので、会ったら泣いてしまうかも?と思っていたのだが、あまりにも「昨日も会ったよね?」というような雰囲気だったために、感動の再会シーンを逃してしまった。
 「ビョーキ移るから触らない方がいい」というキモチも、ちっとはあったのかもしれないが、うわさで聞いていたようなビョー的な雰囲気はなかったのに、ただただ緊張してしまった。フッガがトーキョー弁を話していたからだろうか。
明日また会えたら、この緊張はなくなっているだろう。

 3次会から合流して来たピース・クボタ氏と、クマさんは、なんとわたしを差し置いてポリスの東京ドームライブを経由して来たのだった。帰国前からピース氏にいっしょに行こうよと誘われて、一時はすっかりその気になっていたものの、最後に残っていた入場料の1万円と、それに行くことで起こる東京プラス1泊を考え、その分で子どもたちにどれだけお土産を増やせるかな〜と、テンションが落ちた。でも、待望のピース氏編集のポリス本をプレゼントしてもらったので、それにサインしてもらった。
(かばんにミーさんのサインペンが入っていたので助かった〜)

 クマさんとは、88年の終わりか89年の始め、スティングの東京ドームライブに2人で行った。そのしばらく前に、渋谷の書店でレジを打っていたわたしに、「エンドーさん、何してんノオ?」と素っ頓狂な声を挙げて呼んだ彼。当時本屋のバイトはフルで働いても時給340円か430円で(あまりに昔のことで忘れた)、7000円のチケットを買うために、貧困な数週間を過ごした。スティングのライブ以来すっかり音信不通となっていたのに、またこおんな所で再会できるとは面白い。クマさんは、ポリスの再編成ライブには、奥さんと行ったそうだ。このメンバーで、バレンタインデーに、奥さんあるいは彼女と過ごしたのは彼のみ。
 2人は「最初の3曲でもう泣きそうだった。みのりちゃん、外したよ」とずうっと言っていて、悔しかったあ〜。

 そろそろ終電がなくなる頃。
タクちゃんとこーちゃんは横浜まで帰らなきゃイケナイのに、居酒屋でうろうろしている。大丈夫だろうか?こーちゃんは、いつの間にか居酒屋のベンチみたいな硬い椅子に、ドターと寝てしまった。呑んでるのはクマさんとピース氏だけで、タクちゃんは食べもせずにニコニコ笑っている。そして、ハシゴするたびに支払いはタクちゃんがしてくれ、タクちゃんはみんなのことを上手の褒め、デパートでのスリの捕まえ方などを教えてくれた。すごく面白いお話だった。

 今年は男子は厄払いをする歳で、お正月に指宿で厄払いも兼ねて、男子だけの中学同窓会があった。でも、東京のみんなはお正月に指宿まで帰ることができなかった。
タクちゃんが「ぼくは厄年じゃなくても、毎年厄払いをしてるんだけど、今年はやらなかったんだよね」とニコニコして言う。
「今からでも行かなきゃね、って言ってたら、実家から電話来てさ。親父が病気かもって言うんだよ」
ちょっと笑おうとしてるけど、もう冗談ではすまされなくなってしまった。
 わたしは「こりゃまずい」と思った。そういうことには詳しいこーちゃんも、言葉を失っていた。
「ぼくの厄を親父に回しちゃったかな?」
ほら、来た。これはまずい。非常によくない。

 タクちゃんは、こーちゃんやその他の同級生たちと同じで、常に、家族のことを思っている。できるだけ帰ってあげたいと思っているし、歳とって来た親のことを、いつも心配している。そこへきて「厄払いをやらなかった時に限って」というような本日の状況で、親父さんが病気になってしまったら、絶対に彼は自分のことが許せないに違いないのだ。
 その時にはわたしには何も言えなかったけれども、その時からずっとタクちゃんのお父さんのことを考えた。

 私たちの親は、もう70歳前後だ。おじいさんだ。子供会やPTAで顔なじみだったおじさんたちの中にも、もう会えなくなってしまった人がいっぱいいる。だから、きっと《みんな》そのうちガタが来る。今後ますます弱って来るに違いない。でも、タクちゃんのお父さんは、今日、この日に、病気になってはいけない、と思った。そんなことをしたら、お父さん思いのタクちゃんは、ずっと後悔するに決まっているので、それは友人としては困る。とりあえずは今のところ元気になっていただいて、反省しているタクちゃんが、親孝行に励む機会を与えてあげて欲しいと思った。

 タクちゃんと東京でお別れする時には、大したことを言ってあげられなかったけれども、こーちゃんやみんなが力になってくれるだろう。この《病気かも?》事件を境に、びびったタクちゃんが反省して、もっと頻繁に指宿に帰ってあげるようになったらいいな、と思った。そうして、わたしもとっても反省した。急いで指宿に帰りたくなった。

 東京にいたら、《明日》には指宿に帰れるから、いいなあ〜。
と言ってる間に、夜が明けて、あらあら、《今日》になっていた。

こーちゃんとタクちゃんは、横浜に向けて帰って行った。あのスーツで、そのままお仕事なんだろうか?
 わたしはクマさんと同じ電車に乗り、クマさんにいつかフランスで個展をやってねと懇願し、フランスでどんなアートが流行っているかの話をした。こんなシャイなクマさんも、いつか世界に羽ばたくかも?
 やっさんが品川のホテルで落ち合って、いっしょにごはんを食べて、羽田に送ってあげるよと言ってくれたので、とっても安心。
「また近いうちに会おうね」と言って、《来週》にでも会うようなお別れだった。
《来週》もみんなに会いたいなあ。

朝帰りのわたしにもホテルの人はとっても親切。ゆっくりお風呂に入って、荷造りして10時まで寝た。
  

2月14日 バレンタイン・デーのお別れ

 《ミー》さんとの、最後の朝食である。もう帰るだけなので、話し合うことはない。いちおう反省会みたいなことをやって、「あ〜時差ボケがどうにか楽になって来たばかりなのに。。。」とつぶやく《ミー》さん。《ミー》さんにはこの東京での三日間に、説教ばかりされていた。
 わたしが、日本男児たちに、ヘ〜〜コラして、言うことを「ハイハイ」と聞き、遣われてるだけ遣われてるんじゃないかと、心配している。わたしは日本にただで帰って来れるだけで嬉しいし、高級なホテルに泊まり、運転手さんもボーイさんもつきっきりで、星付きのレストランにも行き、《ミー》さんと歩いているとよくスイーツの試食もできるし、チョコレートのことも訊けるし、けっこう楽しいのだ。いちおう、日本に帰るからには、鹿児島まで往復し、おいしい物を食べ、お土産を買って帰れるぐらいの報酬があれば、言うことはあまりないと思っていた。
 でも、夏に帰国してから、また冬に戻って来るまでには、いろいろと準備もあった。日本やスイスから何度も電話が鳴ったし、百貨店の人がフランスに来たり、テレビ取材もあったり、この仕事関連の翻訳をやったり、アルビまで走ったりもして、《ミー》さんは、そういうアフターサービスみたいなことを、何でもかんでも簡単に引き受けちゃイケナイと言う。もっとプロ意識を持って、要求するべきこと、主張するべきことを適度に行い、その代わりもっと勉強しなきゃいけないと言う。でも接待の時にはちゃんと報酬もらったし。

 そんなに主張のない《ハイハイ・オンナ》に見えるんだろうか?わたし。

 コーヒーのお替わりがやって来て、「そろそろ行こうか」と言ったミーさんの視線が、わたしを突っ切って、後ろの窓の外の一点で止まっている。
 「見間違いじゃないよな?」
指差す方向を振り返ると、ロープに身体を縛り付けてるお兄さんが、ビルの15階ぐらいにぶら下がっている。
 「窓ふきですよ」
 「ウソだろう?信じられん。」
言ってる間に、お兄さんはヒュルル〜〜と、滑って、息をのんでるミーさんに見せつけるかのように、10階ぐらい下まで飛び降りて行った。。。。
 「行こうか。。。信じられん。。。ウソだろう。。。」
まだ言ってる。

 本日の運転手は《あー》さん。白い手袋も帽子もなし。でも、すごいカーナビがある。料金所で遮断機が勝手に開く、リモコンもついている。《ミー》さんを時間よりも早く空港に送り、夏ほどの感動はなく、「じゃあまたね」と言ってお別れした。《あー》さんを刺激しちゃ悪いので、お別れのキスもなし〜。

 さあ、お楽しみ。お昼は《あー》さんがきつねうどんを食べに連れて行ってくれる約束だったのだっ。奥さまと美人秘書と合流。銀座のうどん屋さんに入った。おひなさんが飾ってあった。お昼どきで人がいっぱい。みんなズルズルと激しい音を立てていた。《あー》さんに「うどんは音を立ててもいいんですよ。」と、まるでガイジンに対しての解説みたいなことを言われたけど、わたしは昔からうどんもラーメンも、あまり音を立てないほう。猫舌なので、熱いのをつるっと、景気よく食べることができず、ちびちび口にたぐり寄せなきゃならないのだ。ああみっともない。炊き込みごはんまで食べた。

 デザートは、近くの《スギノ・イデミ》さんのケーキ屋さんへ。ルレ・デセールの方で、もちろんケーキは午前中のうちに完売だった。午後のティールームにはいくつかケーキが残っているらしいので、私たちは種類の違うケーキを頼んでみた。夏に《ミー》さんと来たエンドーですと自己紹介をしたら、メール交換をしたことのある奥さまは覚えていてくださった。《ミー》さんちの宣伝ポスターをプレゼントして、いっしょにご挨拶できなかったことをお詫びした。

 さあ、《あー》さんがホテルに送ってくださるそうだ。
「品川のラフォーレ東京です」と言うと、「ええ〜そんないい所?」とびっくりされた。友人のやっさんが、会社絡みで安く取ってくれたのだ。夏に泊まったホテルのそばだったが、ホテル自体も働いている人も、東横インよりははるかにちゃんとしていた。

 着替えをする前に、武蔵境から会いに来てくださった恩師のお嬢《てー》様と、ホテルのサロンでお茶した。てー様は、食べてみて、と言って《エコールクリオロ》というお店の《ジャパニーズセット》というチョコレートを持って来てくださった。ゆず味とか抹茶味のチョコレートだった。そのほかにも、おせんべいやいろんなおいしい物を持って来てくださった。
 武蔵境の仏壇に手を合わせに行けなかったのは、とっても残念だったけれども、ここで時間が稼げたおかげで、わたしはゆっくりシャワーを浴びて、友人たちとの待ち合わせにも余裕を持って支度することができた。

 風邪ひきで《死にそー》なやっさんが、仕事帰りにホテルまで迎えに来てくれた。わたしの赤っぽい帽子を見て「おお、フランス帰りっ」と言いながら頭を撫でた。
「エンドーさんって、こんなに小さかったっけ?」
言うなよ、それは。

 私たちは待ち合わせの東京駅のそばのレストランに向かった。長い夜の始まり。。。 

     続く

2008/03/13

2月13日 バレンタイン前夜

 バレンタイン前日だから、最後の修羅場を見に行けるかと思ったら、人生観を変えてしまった《あー》さんの新企画により「フリー」の日が設けられた。《あー》さんは本日も「金に糸目をつけるにゃ」との指示をうけているらしく、なななんと、丸1日プロの運転手を雇っていた。前日に「すごい運転手を雇いました」と言っていたので、《あー》さんのギャグで、きっと彼自身が、ご自分のホンダ(タクシーのおじさんよりもすごいカーナビ付き)に、白手袋で来るのかにゃ?と思っていた。
 そうしたら、冗談抜きで、白手袋に帽子まで頭に載せた、正真正銘のお抱え運転手さんであった〜〜。

 開けられたドアを先に入るのは、大統領のミーさんではなく、いつも、付き人のわたし。
それを見て、日本男児たちは、目を丸くし「ミーさんどうぞ」と嫌味にもワタシに向かって言う。
それでも、タクシーに乗る時には、まず、わたしから乗らねばならない。

 夏に帰国した時、いきなり日本人化してしまったわたしは、ミーさんの3歩後ろを歩き、タクシーに乗る時もエレベーターの前でも、まずミーさんに譲っていた。「どうぞ」という滑らかな手の合図まで添えて。
そうしたら、2日目の朝にミーさんがキレた。

 「あー、もー、やめてくれっ!エレベーターには先に乗れって言ってるだろー。オトコの親切を無駄にしちゃあイケナイ。それに、タクシーの奥に乗るには、身体を折り曲げなきゃならないから、俺には苦痛なんだよ。あんたはチビなんだから、奥でも平気だろう。おっとそれから、後ろを歩くのだけはやめてくれ、観察されてるみたいで、ムズムズするんだっ」
 「キレた」という顔で振り向かれた時から、言われることぐらい想像できたので、わたしはいたって冷静。
「でも、ミーさんだって、後ろからジロジロ見てるじゃないですか、
モモのあたり」
「ぐっ」
と、いうわけで、この日から、わたしはせっせとミーさんにドアを勧められた。レディーファーストを装ってるけど、本当は身体を折り曲げたくないミーさんのせいで、日本男児たちから白い目で見られるのは、わたし。「さすがフランス人男性はマナーが素晴らしいですね」と褒められるのは、ミーさん。けっきょく、たびたび後ろを振り向きながら「今お尻見てなかったでしょーねっ?」と、いちいち言うのが面倒くさくなったので、ミーさんとはまるで商売敵のように、並んで歩くことにした。
 
 本日、ミーさんの予定。
(以下、都合により大幅に略しました)

 わたしがトトロのぬいぐるみを恨めしそうに見ていると、《ミーさん》から「それを二個持っておいで」と言われた。それをバラの包みでくるんでもらったあと、《ミー》さんはおもむろにサインペンを出し、「ノエミへ」「ゾエへ」と書き、慣れた手つきでメッセージとサインまでしてくれた。
「おうちでお利口さんに留守番してるからね。こんな包みで悪いけど」
いや、ほんと。あそこの店員さんは、ぬいぐるみもろくに包めなかった。

 ルレ・デセールの寺井さん(下落合)と、かつて指導した弟子の橋本望さん(世田谷・ミラベル)のお店に行く。
そして銀座の時計屋さんへ。娘さんが日本風のスウォッチを買って来てと頼んだそうなので(例えば文字盤が漢字とかの)。『ブレゲ』や『オメガ』などの時計屋さんがいっぱい入っている14階建てのビルで、一階の専用エレベーターに乗ると、お店に直通という。。。こんなんフランスにはないなあ〜。こんな時計屋さんに入るには、上から下までかっこ良くキメて、すでにすごい時計をはめてるか、《息をしてるだけで素敵と言われるフランス国籍のオトコ》でも連れていない限り、一生足を踏み入れることはないだろう。東京ってエ所には、「庶民」はいないんだろーか。《あー》さんは昔取った杵柄で、店員さんの代わりに《ミー》さんのパッケージを手際よく包んだ。おそらく時間が気になっていたのだろう。

 お昼はワイン・ビストロ《ル・プレヴェール Le pre verre》(神宮前五丁目)に連れて行ってもらった。フランスのビストロで食べているような雰囲気、おいしい食事のできるところ。ワインも、エスプレッソのコーヒーも本物だった。気軽に仏蘭西料理を楽しみたい人には、行ってもらいたいお店。にぎやかでマナーなんぞは気にしなくてもOK。《ミー》さんもご満悦のようだった。
 ここのビストロは、アルビのそばでワインを作っているプラジョルさんの紹介で予約してもらっていた。プラジョルさんは代々エリゼ宮にワインを卸していた方で、《ムスカデル》という白ワインはみちこ皇后の大のお気に入り。ワインに弱いわたしでも、この《ムスカデル》ならばいくらでも飲める。(でも日本では売ってない)
 

 夕食の前には、恒例となった《浅草》で、フランス人が喜びそうなものをいろいろ買った。夏に七福神の7分の2を買っていたミーさんは、同じ店を探し当てて、夏とは異なる7分の2を買っていた。

 ホテルに戻るまでに、タクシーのトランクの中は、紙袋でいっぱいになった。橋本さんの奥さまに、花束までもらってしまった。どうしたらいいんだ?
 運転手さんは、車が止まると風のように車を降りてドアを開けてくれ、目的地に一番近いところで私たちを降ろし、そこがどんな場所でもどこかに車を停めて待っていてくれた。時間通りに建物の前に迎えに来てくれ、またドアを開けては優しく閉めてくれた。言葉遣いは洗練された、美しい敬語ながらも、仰々しすぎない。
「運転手さん」という職業があることは知っていたけれども、こんなに気を遣い、頭を遣い、時間に正確で、町や道路を知り尽くしていて、そして、こんなに運転が上手とは、知らなかった。カーナビがあれば運転手をやれるってわけじゃないんだ。

 ホテルに荷物を置いて、いざ夕食。
(中略)

 無事終了。スーツケースをまとめなければ〜〜〜。花束どうしよう〜。

2008/03/10

2月12日 俺は機嫌悪いぞ



 
 ホテルを10時に出発する場合、わたしは7時半ごろ起きる。シャワー浴びて、8時半ごろ《ミー》さんの部屋に電話を掛けて起こすことになってる。9時15分にホテルのロビーで待ち合わせをして、いっしょにレストランに行き、向かい合って朝食を食べる。
 こう書くと、まるで、コイビトのようだにゃ。

 ミーさんは朝食で、たいていの場合、パイナップルを食べる。いちど海藻サラダとごはんとみそ汁を食べていたら、変な目で見られたので、いつも通りのフレンチブレックファーストに切り替えた。ここでJPなら、いっしょに卵ごはんを味わってもらえるのに。
 ミーさんと私はまるで競争のように色とりどりのパンを日替わりで取り、
「そっちの方がおいしそう。それを取れば良かった」
などのほかに、
「このマフィンに使われているビニール製のカップは、フランスでは手に入らないものだから、レストランの人に頼んでもらってくれないか」とか、
「このパンの膨らみが気になる」などの、かなり専門家らしい会話をし、
「今日はどこで誰に会うんだ?」とか、
「百貨店の食品部長への贈り物は、こんなので良いだろうか?」とか、
「東京から横浜までは、電車で行くのか?」とか、
「今晩は日本料理か?」とか
「大阪は雪が降ってるだろうか?」などと、ミニ会議みたいなことをやってる場合が多い。
さすがのミーさんも、朝は口数が少ない。
朝のホテルで他人のダンナと食事をするなんザ、そうあるこっちゃ〜ないので、わたしといえどもキンチョーする。

が、しかし、滞在4日目の本日は、ロビーで顔を合わせるなり、こう言われる。
「今日は、俺は、機嫌が悪いぞ。気をつけろ」
はいはい。朝電話で起こしたときから、そんなことわかってますって。
 このような場合は、まるで35年以上連れ添ったくたびれた夫婦のように、会話を交わさず、黙々と食べ、訊かれることに応える以外は、ひたすらに食べ続ける。
 触らぬチョコレート屋にタタリなし。

 (お仕事の件につき、大幅略) 

 横浜から新宿に戻って来た。(。。。と簡単に書くけど、午後の数時間で横浜駅を通過して百貨店で仕事し、また横浜駅を通過して新宿に戻って来るのは、人間わざではないと思う。深く、そう思う。あんな所でよく生きていけるよね。きみたち。)

 夜は某シャトーに行った。
信じられん!
 恵比寿くんだりに、フランスのロワール地方にあるようなシャトーが、どどーんとあって、ビビった。まるで《どこでもドア》で一気にフランスに戻って来てしまったのかと思ってしまった。
 
(残念ながら。大幅に略)

 
 レストランに合流していた名古屋人の社長《すー》さんに、「ひとこと申し上げたい」と、ミーさんがバーに誘ったので、みんなで顔を見合わせて「またベッドに入るのが遅くなっちまうぜ、ちっ」と思った。
 さあ、今夜は、ホテルのバーで、反省会だっ!
(結局、とんでもない時間まで、仕事の難しいお話をしていたのである)
(忘れちゃイケナイけど、わたしはお仕事中なのであった。。。だからせっかく頼んだキール・ロワイヤルが全部飲めなくても、文句言っちゃいけなかったのである。。。)

 明日はフリ〜〜

 

2008/03/07

2月11日 名古屋から東京へ


 ミーさんが撮影した、雪化粧の富士山

 10時10分 名古屋発の《のぞみ》に乗ったら、11時56分頃には「東京駅」につく。だから名古屋人のすーさんは「東京で暮らさなくても充分仕事ができます。名古屋は大阪と東京の間で、世界の中心だにゃ」と言っている。にゃるほど。
 ミーさんは電車に乗ると眠る。まるで日本人化している。いびきまでかいてる。わたしも疲れてるのに、寝てたら降りれなくなるんじゃないかと心配だから、電車の中ではできるだけ寝ないことにしている。
 「そろそろフジヤマが見えて来るころでは?」
ミーさんがいきなり起き上がる。大雪のあとだから、富士山の雪化粧に期待をかけている。わたしもわくわく。遠く進行方向の前方右側に、富士山が姿を現した。
 「おお〜マニフィック!」
ミーさんいたく感激している。カメラ、カメラ。
 カーブに掛かって、一度見えなくなるも、じきに、左手に姿を現す。
 さっきまでグーグー寝ていた乗客たちが、もそもそと左側に移動を始め、ミーさんのシャッター音を皮切りに、乗客たちのシャッターの嵐となった。かなりプロのカメラっぽい音もある。

 ホームには、《あー》さんが待っていてくれた。懐かしの《あー》さん。夏に私たちを時速9キロで東京中を歩かせた《にっくき「あー」さん》がニコニコ、「目頭が熱い」という雰囲気で目を細めていた。
 ホテルに荷物を置いた。3D防御マスク姿は、スイスから合流した《むー》さん。4人で日比谷公園へ
 
 東京でのお食事場所を決めるのは、《あー》さんのお仕事。いつもとっても入念なプログラムを作り、バランスの取れた食事会が予定される。
 ところが《あー》さん、ホームでの社交辞令のあと、いきなり「生き方を変えました」と宣言したのであった。夏にミーさんと過ごしてから、ちょっと人生観が変わったのだと、前にメールを戴いていたのだが、数ヶ月後の再会で見る《あー》さんは、さすがに顔色もよく、ニコニコ顔も渋いというよりは穏やか、とっても人間的な素敵なおじさまになっていらっしゃる。なんでも、日々のウォーキングを怠らず、仕事の約束には余裕を持ち、慌てず、走らず、ペースを落として効率のよい仕事をすることに決心したという《あー》さん。夏に会ったときには、「この人は過労で先が長くないかも?」と心配していたほどだったが、晴れ晴れとした変身だ。
 
 「で、今日のお食事は、出たとこ勝負で、本日の気分と、レストランでやってるメニューを見て、食べたいものを食べるとしませんか?」とおっしゃる。寒いけれどもお空は快晴。《むー》さんが風邪菌さえ飛ばさなければ、どこまでも着いて行けると思った。名古屋では地下の駅と、その上のデパートと、そのまた上のホテルと。。。ひとつの建物のなかで動いていたので、ちょっと息切れしそう。日比谷公園の林を歩くのは、とっても気持ちよかった。

 が、しかし、予約もなんにも取っていないお昼は、接待にはよろしくない。カレー屋さんの前で椅子に座って順番待ちか?ということになり、わたしはちょっと不安になって来た。《あー》さんも真っ青になっている。《ミー》さんは面白がっている。《むー》さんはマスクの下から、きょろきょろ私たちを観察している。そうこうしていると一度行方不明になった《あー》さんが、カレー屋さんの行列の所に戻って来て、「上に行きましょう」と合図をしている。

 日比谷公園内の本格仏蘭西料理店《松本楼》またの名をBois de Boulogneというレストランだった。《あー》さんは、予約も取っていないレストランで「社長の友だちだ」とかなんとかホラを吹いて、無理矢理4人席をぶんどってしまったのだ。やり手だなあ。
 《ミー》さんは、10年来のお友だちである《あー》さんにラギニョールのナイフをプレゼントした。フランスでは刃物をプレゼントするのは縁が切れるといって忌み嫌うので、それをお祓いする意味で《あー》さんに小銭をくださいとお願いしていた。そうすれば、ミーさんはプレゼントとして送ったのではなく、《あー》さんに買ってもらったことになるから。100年も続く森の中の静かな仏蘭西料理店で、久しぶりにフォークとナイフを使い、ワインを飲んだ《ミー》さんは、とても嬉しそうだった。《あー》さんも、買ったばかりのナイフで、ステーキをザックザックと切っている。一変してワイルドな男。(でも相変わらずワインには弱いと見たよ)

 日本の人たちは、ミーさんが来るというとフランス料理を食べに連れて行かなきゃと張り切って、高級な仏蘭西料理店でのお食事を予定する。そして、高いワインを買いに走る。フランス人調理師のやっている本格仏蘭西料理店というのは、どこも高価なので、招待してくれる方にも申し訳ない。フルコースだとだらだら出るからお昼に2時間ぐらいも掛かってしまう。料亭も同じ。食事の時間を短縮して移動や仕事にもっと余裕を持ちたいと思っているし、いろんなところでいろんなものを食べてみたいと言っている。
 海外で勉強して来た日本人調理師たちは、とても繊細で器用だ。勉強した通りのちゃんとした料理を作ってくれる、というのがミーさんの感想で、日本人調理師たちの西洋料理や、有名でないけどこれから芽を出しそうな調理師たちの新しい料理を食べてみたいと思っている。料亭や寿司屋は大好き。でも、1日3食お箸とビールが続くのは、ちょっとうんざり。その時の体調と気分というのもあるが、料理にうるさい人だからまったく知らない所にさっと入って、いつも満足できるとは限らない。高級なお店じゃなくてもいいけど、ゆっくりできる所がいい。その代わりダラダラはいや。

 いつも苦労している《あー》さんに、あれこれ注文を付けるのは心苦しいけれども、《あー》さんは《ミー》さんの接待に関しては、名古屋の「すー」さんから、「金に糸目をつけるにゃあよ」という支持を戴いているそうなので、どこに連れて行こうかと考えるのが楽しいそうだ。わたしも、とても楽しい思いをさせていただいている。そして、この5日間で記録的な体重増加が約束されている。

 午後は、(省略)テレビの取材もやって来る。テレビインタビューで出された質問がうまく日本語にできなかった。するとミーさんも、マイクに向かってチンプンカンプンな返事をしてて、どーしよーと思ったけど、テキトーなことを言い、ミーさんが質問にちゃんと応えたように言って、テレビ局の人をさっさと追い返した。

 夜に「さっきのみのりさんの質問、全然意味が分からなかったけど、テキトーに応えたよ。あれで良かったの?」とミーさん。
「すごく変な応えでしたけど、ちゃんと上等な日本語でテキトーに応えておきました。」
 プロのちゃんとした通訳さんがテレビを見ていて、名古屋の「すー」社長に「あの人はインチキな通訳ですよ」とチクったら、わたしはクビになるかもしれない。どうせ、インチキな通訳だし。。。ま、いいっか〜。

 夜は新宿の夜景を見ながら、おされな日本りょーり。スノッブな人がいっぱいいた。わたしは鼻水が止まらず、トイレに何度も駆け込んで、鏡で鼻の下が赤いのを見ながら、「早く帰りたいな〜」と思った。レストランで何度もトイレに駆け込むのはフランスでは×なので、あらかじめ《ミー》さんには、「日本では人前で鼻を噛んだらいけないんです」と断っておいた。ミーさんはわたしが席を立つたびに「いってらっしゃ〜い。ごゆっくり〜〜」と送り出してくれた

 おされな日本りょーりのスノッブなお店では、スッポンのお鍋やなにかも出た(実はよく覚えてない。鼻水に集中してたので)。やっとたどり着いた最後のデザートで、団子の気持ち悪いデザートらしきものが出て、「うちでもこういうのをたまに作るよ」と言ったら、《ミー》さんに「お願いだからわたしは呼ばないでくれ」と言われた。

 初めて、東京都庁をこんな間近で見た。スパイダーマンが登りやすそうで、地震が来たらあっという間に壊れそうで、そしてテロの飛行機が突っ込むには便利そうなビルだった。東京人はお金持ってるんだにゃ〜。超近代的摩天楼を見あげながら、超高層ビルの足元独特の、吹き荒れる風を一身に受けて、鼻水まで凍りそうな気分だった。タクシーでホテルに戻る途中、地下鉄工事をしている新宿の街を横切りながら、「まだ地下には場所が残ってるのかなあ〜」と、ミーさんとわたしはいたく感慨に耽った。
 彼も今ごろ、田舎でのんびり過ごす、娘さんとの日だまりを思い浮かべているに違いない。

2008/03/06

はやくも なか休み 

 3月6日

 ミーさんとの珍道中記録は東京へ移動するが、ちょっとひとやすみ。
     ーーーーーーー
 
 日曜日はあんなにいいお天気で、私たちは半袖を着てサイクリングをしたほどだったのに(剣道のあと。。。)、月曜日には雨が降り、火曜日にはアラレが降り、水曜日はいいお天気なのに14時に6度しかなく、木曜日の本日は、全国的に氷が張ってるらしい。

 ボボの散歩にコートがいる。手袋も出した。帽子もかぶった。
ジャン・ジョレス公園には、春が来ている。秋に掘り返され、種がまかれた芝生部分は、日一日と蒼が濃くなっている。
 前から子犬が来て、ボボが興奮するので、凍えた指に綱が食い込んで痛い。
方向転換。いつも通らない細道を通って、いつも通る大きい道に出て来た。
その交差したところで、地面に落ちている茶色い物体を、わたしは、見た。

 公園にはいろんなものが落ちている。日本の公園に較べるとけっこう汚い。掃除している人もいるが、この数ヘクタールにも及ぶジャン・ジョレス公園に、たったの3人ぐらい?1週間に1回しかすれ違わない。

 ちょっと先の方に行ってから、さっき地面に転がっていた茶色い物体がわたしを呼んでいるような気がして振り返ったが、物体を見失った。目で追って、そのあたりを注意して見て、位置を確認してからUターン。茶色い物体はひっくり返っていたけれども、それがわたしの所有物だということはすぐにわかった。

 数日前になくしたことに気づいて絶望していた、コートのボタンだった。
どこに落としたのか、いつ落としたのかもわからず、探すことはすっかり諦めていた。
茶色い物体を見たときでさえ、なくしたボタンとの接点について、考えもしなかった。

「とりあえず、落ちている物は拾う。」
そういう人間は、きっといつかはどこかでめぼしい物に出逢えると、信じているのかも、しれない?
わたしはよく拾い物をする。いつもうつむいて歩くからだろう。

 冷たい公園で、濡れたボタンを拾い、久しぶりにした手袋でそれを拭って、それを暖かいコートのポケットにしっかりしまった。
ふと、昨日、ある友人に書いたメールのことを思い出す。

ーーーーーーー
 「くそたわけ」の本が届いたら、きっと読んで、わたしも絲山さんに感想を書きたくなるかもしれません。
指宿に帰った時には、あなたが「あそこは世界の果てなんだよ」と言ったことが頭にあって、世界の果てが、案外近くにあることや、そしてなんと遠かったのかもかんじました。
 考えたら、世界はぐるぐる回っていて、確かに果てに来ているはずなんだけど、でも、そこは世界の始まりでもあるんじゃないかと思います。
 私たちの人生みたいなものは、あそこから始まっていたんだものね。きっとあそこに戻って行くのだろうと思います。
果てはないのかもしれません。
 世界の果てだと思うような場所に、何カ所か行きました。
ここでわたしの人生が終わるんだと思うこともあったし、もうあそこには戻れないと思ったことも何度もあるんだけど、でも、そのときどきの「世界の果て」で出逢うのは、わたしを指宿方向に導いてくれる人々であったように思う。
不思議です。

ーーーーーーー
「世界の果て」まで連れて行って、いっしょに戻って来たボタンが、ちょっと家出をして、またわたしの所に戻って来た。「地球の裏側」である、ここに。


「出逢った物事は、そのまま素直に受け止める」「来るものは拒まず」「去る者はとことん追いかける」「落ちているものは拾う」「転びそうなものは支える」そして、「支えてくれる人や拾ってくれる人や、拒まないでいてくれる人がいたら、遠慮しない」「借りれるだけ借りる」。。。。。
 自分には「方針」といったものが全然ないと思っていたけれども、けっこう一貫しているなあ、と思った。

 冬の終わりに、安物のコートのボタンを買い替えなくてよいことになって、気持ちがじつに軽やか。



 日本で同じ釜の飯を食ったミーさんには、フランスではあんまり会えない。本日やっと電話が通じたので、これから鹿児島土産の焼酎にチョロキューをつけて、チョコレート屋さんまで持って行くとする。面白いネタがもらえるかもしれない。。。ふふふ。。。


 

2008/03/04

2月10日 名古屋2日目

 「日本に帰った」
と言うと、誰もが「バカンスはどうだったか?」と言う。
ミーさんもほぼ同じことを言っていた。
「日本に行った、と言うと、みんなにバカンスはどうだったか?と訊かれるので、今度そういうヤツが目の前に現れたら、ぶん殴ってやる」
過激だなあ〜。
ついでにミーさんは言う。
「京都で見たのは、駅と百貨店と料亭だけ。」
「大阪の百貨店には行ったけど、大阪には行かなかった。」
京都と大阪に行って、金閣寺も大阪城も見てないガイジンは、ミーさんぐらいなもんだろう。でも、その料亭に行けたんだからいいじゃん。(中略)美しいおかみさんに「おこしやす」と言われました。
と、言えば、また
「いいよねえ〜。そんなおいしい仕事ができて〜。代わりた〜い」
と言われるだろう。
そうしてミーさんにぶっ飛ばされればヨロシイのである。ふむ

(お仕事の件につき省略)

 大阪の仕事先には、高校時代の友人である脇田君とジミーが会いに来てくれ、人が集まり始める前に、ミーさんとわたしと4人で記念撮影までしちゃった。奈良の従姉(今は大阪に住んでる方)も、ダンナさんといっしょに来てくれていた。チョコレートの袋をぶら下げていた。

(省略)

 ミーさんのチョコレートは、とんでもない値段がついていたのだが、大阪のお店では、瞬く間に売り切れてしまった。
「もう2回目です、3回目です」
というリピーターのお客様が目につく。
 ミーさんは、フランスでの自分のチョコレートの評判には、大きな自信を持っているが、フランス人に好かれているチョコレートでも、日本人の口に合うのだろうかと、とても心配していた。けれども、訪れるリピーターの方々が、口を揃えて熱く語る感想は、
 「まろやかでしつこくない。甘過ぎないのがいい。いくらでも食べられそう。デザインがシンプルでおしゃれ。中に入っているガナッシュやプラリネと、外回りの薄いコーティング・チョコの、ふたつの風味がほのかに混じり合って、調和がとれている。」
などなど、フランスのお得意さんたちとまったく同じ感想だった。ミーさんは、自分のチョコレートを《日本人風味》にしなくてよいのだと確信してくれただろう。
 フランスの箱と、日本の箱は、かなりデザインが異なっているけれども、日本で売られた箱は、日本人の好みにもマッチしていたようだ。みなさん「かわいい」とか「素敵」と言ってくださった。
 「義理チョコはゴディヴァ。本命はこっち」とか、「このチョコレートは誰にもあげない」というお客様あり、なんとも頼もしい。もうファン・クラブができつつあるじゃあないのっ。

 ミーさんは、「売り上げを上げるために、店先に立ち、ニコニコして、客引きをやるのはごめんだ!」と嫌がっていたのに、客を引かなくても客はやって来るし、みんなが素晴らしい感想を述べてくれるし、お客様は店先で押し合うこともなく礼儀正しい。「アイ・ラブ・ユー」とささやくフィリピン出身の美しい女性まで出現。ミーさんが、両手に包むように差し伸べる握手の手に触れると、「なんて柔らかい手なのかしら?本当にこれが職人さんの手?」と言って、ミーさんの手を離したがらないお客様もいらした。
 手を握られたことがなかったのでわからなかったが、ミーさんの手は、本当に白くて柔らかそうで、実に、おいしそうなマシュマロみたい。テレビ撮影の時に、チョコレートの製作を見せていただいたが、本当に力強く、実に優しい動作で、チョコレート一粒ずつに、魂を吹き込んでいるようだった。人形創作家が、目玉を入れて完成させるお人形のように、フォークみたいな小さな道具で、ちょこんと二本線を入れて完成した、輝くようなチョコレートを思い出す。撮影のあと見本で作ったチョコ約5キロを戴いたことも思い出す。

 チョコレートの箱を開ける瞬間の、かすかに広がるチョコレートの香りを感じてくれるだろうか。キラキラ輝く表面と、そこに記された、チョコレートたちの名前ともいえるシンボルマークの、手で描かれた小さなゆがみをちゃんと見てくれるだろうか?チョコレートは小さいけれども、どうか丸呑みしないで欲しい。ガナッシュよりもコーティングの部分の量が多い角のところをちょっとかじって、そこのビターな感じを味わえただろうか?もう少し奥を噛めば、薄いコーティングよりも、ガナッシュの風味のほうを強く感じられるだろう。最後のひとかけらをお口に入れた時に、コーティングと中のガナッシュが、調和よく混ざり合って、舌の上で踊るのを、楽しめただろうか。ミーさんのチョコレートは、ミルクよりもブラックで味わった方が、本当のよさを理解してもらえると思う。これはわたしの意見。

 のぞみと、ひかりとタクシーにお世話になり、たくさん歩いて、今度はひかりとタクシーと、のぞみを乗り継いで、名古屋に戻って来た。雪はすっかり溶けていた。名古屋駅で、京都方面から来た新幹線のタイヤを掃除する、不思議な軍団を見たっ!彼らはホームの下のトンネルの中に潜んでいて、新幹線が到着すると、一斉に穴から飛び出す。そして、次の出発までの数分の間に、山を越えて来たために汚たタイヤを、ピカピカに磨き上げる。ミーさんは、ホームでぴしゃりと線の前に停まる新幹線のドアと、並ぶべき所にちゃんと列を作ってお行儀よく並んでいる日本人たちに、熱い視線を送っている。何度見ても新鮮な光景だ。

 さあ、今晩は、名古屋で最もおいしい焼き鳥だっ!行くぞお〜。

2008/03/03

2月9日 午後の部

 お寿司を食べて、たしか、午後2時頃に一度ホテルの部屋に入った。シャワーを浴びて来てもよいと言われたような気がするが、今となっては半分ぼーっとしていたせいか、よく覚えていない。ただ、わたしの部屋が21階だったことはよおく覚えている。ミーさんは40階ぐらい?夏に台風にもびくともしなかった。ミーさんをビビらせたろと思って「台風来ますよ」と言い続けたわたしは、ミーさんから《うそつき》と呼ばわりをされ、あの時には「次回は地震を呼んでやるう〜」と心の中で誓ったイケナイわたしであったが、今回は《豪雪》がやって来た。
 イケナイことを念じてはいけないのだ。

 午後、雪はますます強く降り続け、ホテルのテラスには、雪見の人が集まっていた。この人たちは帰れるのかなあ?と思っていたら、そうだ、思い出した。ここは地下が、新幹線も乗り入れる駅で、その上が百貨店、さらにそのうえ15階からホテルになっているのだった。日本は連休でホテルにも家族づれが多かった。名古屋城に遊びに行くことさえできない家族づれは、こぞってデパートやレストランに行くのだろう。そうして、このホテルに泊まるのだろう。ホテルにはサウナやプールもある。バーも銀行もある。宅急便の窓口もある。新幹線でわざわざ来て、このホテルのタワー内で三連休を過ごすのか。。。ふ〜ん。

(仕事の件に就き、大幅に略)

 名古屋のデパートには、高校時代からの友だちみゆきちゃんが、遊びに来てくれた。ご主人といっしょに電車で来たそうだが、帰れたのかどうかとても心配だった。

 夕方ミーティングがあり、ミーさんのお友だちで、病気の方をお見舞いに行き、そのあと《すー》さんの会社の人たちと、松坂牛の網焼きを食べに行き、夜遅くにホテルに戻って来た。

 ミーさんが「葉巻を吸いたい」と言うので、ホテルのバーに行き、彼がモンテクリストを気持ちよく吸う間、わたしはおいしくないキールを飲んだ。明日はキール・ロワイヤルにさせていただこう。
 で、のんきそうにバーで何をしていたかと言うと、実は、反省会だった。ミーさんは本日の感想を述べ、本日出逢った数々の日本人たちの、名前や関係や地位を訊ね、メモを取った。関わりを持った日本人たちが言ったことについて、もう一度わたしに確認し、日本人としての意見を求められ、意見を交わした。明日の予定を話し合い、明日会う人たちの名前や地位関係、役職などについて予習と復習をし、そして、わたしがすっかり「日本人化」していることをうるさく指摘したり、今日は朝から晩まで日本料理で、嫌いなビールを飲み続けた、と愚痴るのであった。

 ミーさんが部屋に戻るのを確認して、わたしはこっそりビルの一番下まで降りた。建物の外に出て、日本に来て初めて、日本の冷たい外の空気を吸った。駅の前のコンビニに向かう。さて、なにを買おうか。。。ただ、ぶらつきたかった、だけ。
 筆ペンと、草加せんべいと、ファンデーションと、ゆずの香りの入浴剤を買った。

 せんべいを食べながら、ゆずの温泉に浸かり、風邪はまだ引いてないけど、風邪薬を睡眠薬代わりに飲んで、ベッドに入った。

 雪はやんでいた。

 

2月8日 出発

 夏の旅立ちに較べると、かなり余裕。スーツケース作りも、出発前日でちょちょいと片付けた。実はずうっと忙しくしていたので、旅行の準備がなかなかできなかったのだ。出発前から不眠症で、体力の限界を感じ始めていた。
 地方では買えないミーさんのチョコレートをお土産にするため、ミーさんに注文しておいた12個ほどのチョコレートの箱を、出発前日に取りに行ったら、「全部差し上げます。ご家族に食べていただいて」と言ってもらえた。
 ミーさんからは夏に「みのりさんにはお世話になったので、一生分のチョコレートをプレゼント」と言われたのだが、わたしに一生分のチョコレートを貢いでいたら、ミーさんはきっと破産してしまうんじゃあないか?
小さな機内持ち込みOKのスーツケースに、チョコレートやドラジェや、ハーブなどのフランスのお土産を詰め込んだ。持ち込まない大きなスーツケースにはワインも2本入っている。

 《液体》にはあれほど気をつけたはずだったのに、不覚にも空港でチューブ入りクリーミーファンデーションが引っかかってしまった。搭乗を待っていてくれたJPを呼びつけて、ファンデーションを持って帰ってもらうことにした。
 「仕事は、化粧なしで?」
JPが気の毒そうにしている。どうせ、してもしなくても同じだからいいの。

 出発ゲートのところに来ると、ミーさんが不安そうにあたりをきょろきょろ見渡しながら待っていた。遠くからわたしを見つけると、並んでいた列を外れて近づいてきた。
「見捨てられたかと思った。ひとりで日本に行くぐらいなら、家に帰ろうかと考えてたところ」
ミーさん、いきなり弱気。
「大丈夫です。わたしがついてます。ご安心を。」

 ミーさんはビジネスクラスなので優雅な旅が待っている。いつも通りならば、出されるお酒をぐいぐい飲んで、睡眠薬も飲んで、日本までぐっすり眠るという作戦だろう。ドイツで一回乗り換える。2人で力を合わせればどうにかなるさ。
 わたしは、ニースから合流して来る《とし》との再会がちょっと気がかり。彼女は12年ぶりに日本に帰る。

 フランクフルトの入国審査のところには、たくさんの日本人観光客が列を作っていた。
 日本人観光客と海外で会うとけっこう恥ずかしい。冬であれば、このごろの日本人は、変なマスクをしていることが多い。3Dの恐ろしげな、右翼団体を連想させるようなマスクが怖い。変な病気が流行ってるのかと思ってしまう。
 髪の毛がヨーロッパ人みたいな色なのに、まつげが黒くて気持ち悪い。
 鼻をかまずにいつまでもズルズル言わせている。コーヒーもすすって飲むし、スパゲティーも音を立てて食べる。
歩き方が、変。
 いつも自信なさそうに、きょろきょろしていて、集団でぞろぞろと歩く。
 やたらと写真を撮る。写メっていうんだそうだ。みんな携帯電話にじゃらじゃらとおもりをつけている。みんな競い合って最新のすごいケータイを持っている。猫もしゃくしもケータイを持っている。わたしのように10年もののケータイなんか持ってると「女を捨ててる」と言われる。
 写真を撮る時に変なピースをする。
 わたしが名付けた《変なピース》とは、中指と人差し指をぐぐっと大きく広げて作った見事な逆三角を、外側に45度ぐらいに傾けた上に、ついでに頭まで傾ける。頭を傾けると、水平を保とうとして自動調節を始める目玉が、ギョロ目になって、写りが悪くなることには気づいていないらしい。カメラを向けると反射的に《変なピース》を作るのは、たいてい女性だ。
 若い女性の多くが、まつげにカールを掛けている。まるで日本人らしくないデカイ目をしていて怖い。目玉が真っ黒な火星人みたいな人もいて怪しい。
 着ている服は、色や長さが意味不明で、「そうかこれが今流行のスタイルか」とそれはそれで許せる。だけども、足元は昔も今も変わらない、永遠のO脚と豪快な内股の場合が多く、草履のかかとをすり減らし、耳障りな音を立て、足を引きずるように歩く大和撫子の姿は、百年前から変わっていないと、みた。
 若い今どきの男性はというと、ただでさえ脚が短いのに、韓国あたりで作られたとおぼしき、アメリカ製ジーンズをパンツ見えるまでずり下げてる。わざとやってるファッションらしいが。。。なんともまあ《ずんだれてる》。(《ずんだれてる》は鹿児島弁。これを標準語で表現するのはむっずかしーので雰囲気でわかって欲しい)今どきのファッションを追いかけてるばかりに、脚の長さが30センチぐらいにしか見えなくなっている。気の毒だねえ。カウボーイ風の尖った赤い革靴に《サンダル・ジャポネ》とまで言われるビーチサンダルを履いた時と同じ歩き方では、《国際人》がいい笑い者なのだ。あ〜あ

 どこから見ても日本人とは思えないような、長い足で颯爽と歩いて来る、アジア系らしきオンナが、向こうからきらびやかにやってきた。わたしの《とし》だった。トゥーロンのそばに住んでいる友人で、フランクフルトで合流することになっていた。

 ミーさんに《とし》を紹介すると、「きれいな人だねえ」といって目を輝かせている。
これだから、おじさんは。。。
「なんならみのりさん、ビジネスクラスに座っていいよ。わたしがご友人と旅をするから」
などと、言ってくれないものかとちょっぴり期待していたが、
「さすがにビジネスクラスは乗り心地がいいよ」
と自慢するだけ自慢して、ミーさんはさっさと行ってしまった。寝る気だね。

 《とし》に会うのは久しぶりなのでずっとお喋りしたかったのだが、飛行機のなかはけっこう音がうるさく、なんだか落ち着かない。これから11時間半、夜の中を時間をさかのぼりながら飛んでいく。
「みのちゃん、着いたら仕事なんだから寝なさい」といわれ、このわたしとしたことが本も読まず、映画も見ずに寝る努力をした。夏に乗ったJALと違い、シートに座ると足がブラブラするので、一晩中不愉快だった。
 朝ご飯が済んだら《とし》にファンデーションを借りて、いちおう化粧して、仕事用の服に着替えて、日本着陸を待つ。
目の下にくま。疲れてきっているので、化粧なんかまるで無駄な努力。


 トゥールーズを出てから約13時間が経過して、日本の日付は9日になっていた。飛行機を降りた時点で、《とし》にお別れを言った。わたしは、優先で降りたビジネスクラスのミーさんを追いかけて、ひたすら走らねばならない。「待っててくれてもいいのに〜」動く歩道も使わずに、廊下を走ったので、あっという間にミーさんに追いつけた。
 「あ、みのりさん。もう日本人に戻ってる。」
 「ええ〜仕事が始まるんですよお。ミーさんだけ先に出て行って、わたしの方が待たせたら、やっぱりダメじゃないですか」
 「みのりさんは、ほら、すぐに、日本人に戻るんだから。。。」

ミーさんにとっての、腹立つ日本人女性。
 いつも慌てていて、エレガントさに欠ける
 せっかくドアを開けてあげてるのに,遠慮ばかりする
 男性の後ろを歩く(後ろから観察されてるようで嫌なんだそうだ)


 お迎えはマラソンランナーの《おー》さんと、アルビで病気だった広報の《なー》さん。
お2人とも笑顔が素敵。お会いできて感激っ。
美食の国フランスに来て体調を崩し、おいしい物も食べられずに蒼白になっていた《なー》さんの顔色は、すっかりもとに戻っていた。戻ったどころかさらに黒くなっていたので、安心した。(彼はタイ人サーファーといってもうなづけるほど、黒い)
 そして世界の名古屋を代表する貿易大会社社長の《すー》さん(肩書きにちょっと色を付けてみた)
《すー》さんの、素敵ですごいトヨタの自動車にはすでになじんでいる。大会社社長のくせに、車の中で流れているのは、とってもロマンチックな少女スターの音楽だった。ぶぶぶ。

 車が名古屋市内に入る頃に、雪が降りはじめた。今年はフランスは全然寒くなく、出て来る時にも15度ぐらいだったので、いきなり雪が降り出すのを見て心配になった。気になるのは、12年ぶりの帰国で不安な《とし》をひとりで放ったらかしにしてしまったこと。バスで大阪に行くと言っていたが、こんな雪でバスは大丈夫だっただろうか?わたしの方は顔見知り数名による、高級車でのお出迎え付きで、知ってるホテルに連れて行ってもらえるのでらくちんだが、12年ぶりの日本でなにもかも新しく、知らない場所で《とし》はきっと苦労しているに違いない。

 
 フランスは午前1時頃。ミーさんはそろそろ眠くなって来るころだが、わたしにとっての午前1時と言えば、ふだんまだ起きてる時間なのでけっこう余裕。こんなところで普段からの不規則生活がお役に立つのだ。
《ミー》さんは、ビジネスクラスのシートでたっぷり眠れたそうだ。夏よりもはるかに余裕。
「エコノミーのシートは広いのか?眠れるのか?サービスはどうだ?」
えらくご心配いただいているようだ。
 もしわたしがミーさんに「狭くって汚くって、ぜんぜん眠れないしサービスは最低だった」と言えば、《すー》さんに頼んで「みのりさんもビジネスクラスにしてあげてください」と言ってくれそうな雰囲気だった。

 さて、ホテルに到着。雪がじゃんじゃん降っている。
明日には京都と大阪にも行くって言うのに、先が思いやられるなあ〜。

 ホテルの18階で、優雅にお琴を聞きながらお寿司を戴いているうちに、雪はどんどん積もり、お寿司屋から見える小さな石のお庭に、雪が積もる姿は絶景だった。そのかわり、名古屋城の金のシャチは見えなかった。ただただ静かに雪が降るのを見ながら、ミーさんと並んで静かにお寿司を食べた。日本ですねえ〜。

ここのところ

 まあ、わたしをちょっとは知ってる人ならば、
「ブログがアップされてないな。また忙しく走り回ってるな」
ぐらいは思っていてくれたかもしれない。
ここのところ忙しかったことを知っている友人たちから、そろそろ
「もしかして、寝込んでる?」
などのメールが入りはじめたので、返事を書かねば〜と、思い続けていたのだ。実は。

 さて、わたしは予想通り元気で、忙しく走り回っていました。追ってお返事いたします。

で、ここのところのわたしについて、手っ取り早く書く。もう寝なくちゃいけない時間なので。

2月22日に、ものすごい風邪ひきで帰国し、
24日には日本の友だちの娘さんが、大学のお友だちと二人でやってきた。

わたしが日本に行ってる間に、JPがこどもたちを預けに行ったついでに、実家から古い家具を山のように運び込んでいて、玄関を開けたら、廊下やら部屋やら、至る所に古くさくて汚い家具だらけ。困るなあ。
それで、23日はずうっと片付け、大掃除。時差ボケどころじゃなく、年末にもやらなかった大掃除をやった。

 24日はトゥールーズまでお客様を迎えに行き、24日から3日間は、観光だとか運転手。天気がよくてよかった。
最終日、お客様をカルカッソンヌの古城経由でナルボンヌまでご案内し、翌日の早朝、早起きをしてマドリッド行きの電車に乗せた。
カーモーからカスカッソンヌまでは183キロ、カルカッソンヌからナルボンヌまでは80キロぐらい。

 わたしはもうへろへろに疲れていたので、自ら申し出て(キャ〜珍しいっ)JPなし、こどもたちと一緒にナルボンヌで2日間過ごした。木曜日に子どもたちを引き取ってカーモーに帰ってきた。

 そしてこの週末、いよいよ3月突入。
トゥール−ズの剣道講習会での通訳を頼まれてしまっていて、よせばいいのに、行ってしまった。
頼まれると嫌とは言えないたち。(実はいやじゃない、剣道関連ならば)

 週末に家を空けると決めたら、やるべきことはやらねばならぬ。
 冷蔵庫は空っぽだし、台所は汚れまくってるし、洗濯物にはアイロンをかけないとJPのシャツ・ストックが底をついてしまい、JPがテレビを見ながら自分のズボンとシャツにアイロン掛けているのを目撃!(それはあまりにも惨めで、一気に罪悪感が増す。いちおう稼ぎの無い主婦だからさ)そして、家族サービスもしなければならない。子どもたちとは2月の初めから触れ合っていなかったのだから。
 これら「やるべきこと」をいちおうダダダーとやって、週末分の食事も作りおきし、剣道仲間のピエローに頼んで迎えにきてもらうことにした。そうすれば、わたしのいない週末に、家人が「森に行こうかな」と思った場合など、車を使ってもらえるので。

 さて、問題の週末。ひな人形も出したいんだけど、いちおうみんなが待ってるので、剣道へ。場所はトゥールーズ。早起きをした。
2日やったら、足はマメだらけで、体中は痛く、喉はガラガラ。やっぱりね。でも捻挫は避けられたし、去年と違って。
 剣道に行っている間は、実は、家のことはすっかり忘れる。剣道じゃなくても、わたしは家の玄関を一歩出ると、家人のことをけっこう忘れていられる。ひどい人間なんだろう。

 帰って来たらトゥールーズの友だちから電話があった。
「アルビまで来てるので、いっしょにカーニバルを見ない?」
「いや、ごめん。わたしもうフラフラ。昼寝する。」
と断ったものの、バカンス最終日。明日から学校。お空は真っ青。夏みたいに暑い。ゾエはうずうず。
なので、昼寝もせずにキャップデクベートまでサイクリング。ノエミとJPは自転車で現地まで行き、わたしとゾエは、「カーモーの角刈りサクラ」の写真を撮ったりしながら、自動車でぼちぼち行った。夏休みのようにたくさんの人が来ていて、子どもたちや自転車の人たちがいっぱいだった。現地で落ち合ったノエミの自転車を借りて、わたしもゾエとキャップデクベート一周をやった。
「ワタシは疲れているはずでは??」
家人は誰も、まさかわたしがこんなに疲れているとは思ってもおらず、なんかいろんなことを注文してくる。
そして、夜は、ピザまで手作りしてしまった。ノエミとゾエも参加。
「お母さん、疲れてるみたいだから、宅配ピザを取ろうか」なんぞというような気が利くヤツはおらなんだか?
でも、好きなことやって勝手に疲れている身分なので、文句は一切言えない。

 明日から新学期。子どもたちがお昼に帰って来ないように、食堂に申し込んだ。
いよいよわたしのバカンスがやって来る。

ブログもちょっとずつ書き込んでいきますので。。。少々お待ちを〜〜〜。