2008/12/31



 11月に日本から戻り、日本で見たり聞いたりしたことについて、書きたいことは山ほどあったのに、なかなか書くことができなかった。なんでいつもこんなに時間が足りないんだろう。2008年のお正月にもらった日めくりカレンダー。開くこともなく大みそかになってしまった。

 年が明けようとしている今日、なんだかいきなり焦っている。やり残したことが山ほどある。ノストラダムスが言ったように、世界の終わりがやって来るとほぼ確信していた、あの、1999年の大みそかにさえ、やり残したことはいっぱいあったのだから、しょーもない人間だ。あれからほぼ10年近く《生き延びた》というのに、ぜんぜん成長が見られないなあ。

 JPの両親の家に子どもを置いて自宅に戻ってから、この2日で気になるところを磨いたものの、思うようには家も片付いてないし、年賀状を書いていない相手もたくさんいる。その中にはパソコンで一斉メールを送っても、見ることのできない人もいるので、やっぱり年賀状を書かなければと、けっこう焦っている。なのに、パソコンの前に座っている。これからまた大みそかの夜を子どもたちと過ごすために、JPの両親の家に戻るというのに、服にはアイロンも掛かっていないし、洗濯も終わってない。

 でも、全体的に見て、いい年だった。片付かなくても淡々と進んだ年だった。
 健康について、生きるということや死ぬということについて、笑うということについて、そして、感謝するということについて、いっぱい感じ考えた。それらのことについて、反省したり(でも後悔はできるだけしないように)、前を向いたり(でもあごを引いて)、学んだり(教え子たちにまで学ばされて)わたしは、《一回り大きくなった》年だったのではないかと思う。身体も一回り太くなった。わたしの人生で1番デブだ。これは健康によくない。

 たしかに3つの悲しいお別れもあったが、その代わり2つの新しい命との出会いがあった。出会いはそこここにある。どうして今までですれ違ってばかりいたのかわからないぐらい、思いがけなく身近なところに出会いは待っている。出会いのあとに別れがあるのと同じで、別れのあとにも出会いがあるのだと、そして、別れのおかげで、あの別れがあったから、新しいこの出会いが訪れたに違いないと、去って逝った人たちと、必然的な運命に関わってくれた多くの人やものごとに、お礼を言いたくなる。

 お礼を言うこと、感謝の言葉を捧げるということの、なんと素晴らしいこと!
まるで魔法の言葉だ。
感謝の言葉は、自分も人も変える。ものや時間までも変える。
帰る家のあることと、そこに待つあたたかい家族のあることを思うと、寂しさなどはなくなる。健康な身体があるおかげで、思った所に行け思ったことのできる幸福を考えると、なんと自分は恵まれているかと、やっぱり感謝したくなる。

 おかげさまで母も元気そう。家族旅行ができて、本当によかった。
そう、その旅行については、絶対に書いておかなければならない。

みなさん、今年もいろいろ、ありがとうございました。
 来る年が、穏やかでありますように。
きっとみのりある年になりますヨ。信じて、信じて。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 みのり

種子島、ロケットマラソンみたいな1にち



 種子島に最後に帰ったのは、春休みのロケットマラソンで10キロ走った時だった。種子島で春にマラソンっていうのは、とっても暑くて苦しかった覚えがある。もう20年以上も前のこと。

 父は種子島で生まれた。なので、わたしたちは長い休みのときには種子島に《里帰り》をした。みかばあが、畳の上の大きなベッドの上で息を引き取った日のこともちょっと覚えている。おじちゃんちには五右衛門風呂があって、板の間ん中に上手に飛び乗り、五右衛門風呂のなべの底にぶくぶく沈みながら、大きな声で数を数えた。ガジュマルにぶら下がって、従兄妹たちとかわいい魚屋さんの歌を歌った。

 ずっと種子島に帰りたいと思っていたが、4年前に家族で帰った時は、父の具合も悪く、種子島まで帰ることができなかった。その冬に、長姉の家族といっしょに父は人生で最後の里帰りを果たした。父の世代の親戚は、年老いて他界したり入院したりしていたし、インターネットもやっていなかったので、これまでもなかなか連絡が取れなかった。わたしにも余裕がなかったのだ。従兄たちのほとんどは島を離れてしまった。今はどうしているのか、わからない人もいる。従兄姉たちの新しい家族のことは、ぜんぜん知らない。自分の結婚式には来てもらったのに。結婚式で会った時には、おしゃべりなんかしてる暇がなかった。なんてことだろう。

 帰らないでいると、長く会わないでいると、すっかり忘れられてしまったのではないかと思って、どんどん連絡がとりにくくなる。それは指宿の人たちとも同じだった。去年から、仕事のおかげで帰国できる機会が続いた。それとは別に、インターネットのおかげで、思いがけず《繋がった》人たちが、ここ1・2年で急激に増え、《距離》は物理的なものではなく、気持ちの問題だったのだと、このごろ思えるようになった。インターネットはなくても手紙ぐらいは書けた筈なのだから。

 お金さえどうにかすれば、日本だっていつでも帰れるんだと、いまは思う。ミーさんとの仕事にしがみつかなくても、いつでも帰れるんだなと思う。

 「今度帰って来たら、種子島に行こうよ」と、言い出したのは母だった。父との思い出の場所で、ひと握りの親戚との不愉快な思い出もできてしまった場所なので、まさか母が率先して行く気になるとは思っていなかった。母はもちろん自分一人で行ったことはないし、車もないし、種子島のことを覚えてもいないわたしを案内できるのか、すごく心配していた。
 「とりあえず、ロケット基地には連れて行きたいんだ。あそこの博物館が立派だから。子供たちが喜ぶと思う」

 母は、すぐにホテルや高速船の予約をしてくれた。鹿児島の姉もずいぶん協力してくれたようだ。姉たちもいっしょに帰れたらよかったのに。

 母はホテルなどを予約したパック料金の中に、観光バスも含まれていると思っていたが、それには乗れなかった。路線バスで、種子島を縦断し、ホテルに荷物を預けたらそのまま宇宙センターの見学に出掛けた。博物館では子どもたちは楽しそうに遊び回り、予定外だったが、宇宙センター基地内の周遊バスにも乗ることができて、本物のロケットも見た。

 翌日は、ホテルのロビーでレンタカーを頼み、今度はあちこちの観光スポットを見て回りながら、反対方向に種子島を北上することに決めた。
 ホテルに来る途中で、路線バスの中から、《住吉》という停留所を見ていた。そこがきっと《住吉のおばちゃん》の家のあるところに違いないと、見当がついていた。主要道路の途中だから、あそこまでは問題なく行ける。遠くに見える風景にも、見覚えがあった。おばちゃんの家で覚えているのは、海の水に浸かるガジュマルの歩道と、大きな玄関だけだ。近所に何があったかは覚えていない。そばまできてから、むりやり母に電話をさせて、おばちゃんの家までたどり着くことができた。今の世の中、携帯電話というものがあって、素晴らしい。

 脚の悪いおばちゃんを外に連れ出して、埋め立てられて姿を変えた《岩の海岸》の公園で、記念撮影をした。ガジュマルはそこここに根を伸ばしていて、子どもたちはあの頃わたしがやっていたようにガジュマルによじ上ろうとしていた。

 そこではずみをつけた母は、一気に墓参りまでやるといいだした。リュージ兄ちゃんのうちに挨拶して、モリミおばちゃんのお見舞いをしてからフミばあちゃんの家に行って、最後にテツロー兄さんの漁港にも行こうと言う。途中、種子島港のそばで幕の内弁当を食べて、なんども「もう来ることもないだろうから」と涙を浮かべてはいたが、わたしはこれで弾みがついて、帰国のたびに種子島まで帰ってくるよと心に誓った。ここまで帰って来ないとわたしの里帰りは完了できないことが、身体でわかった。

 一番喜んでいたのはフミばあちゃんで、モリミおばちゃんで、住吉のヨシコおばちゃんだったのかもしれないし、母とわたしだったのかもしれないが、わたしにはJPとノエミとゾエだったのではないかと思う。フランスに帰って来てから、日本で一番多く撮った種子島での写真を、人々に見せながら、種子島で会った親戚について、そして、種子島がどんなに美しかったかについて、わたしよりも熱く語る。
 種子島港で、船が出る直前に、走ってやって来たべつな従兄を見て、従兄が挨拶をする前にJPが、「あ、従兄が来た。いずみ姉さんに瓜二つだ」と笑った。この従兄は、母がたの指宿の従兄で、種子島の親戚とは違うのだが、今は種子島に単身赴任しているマモル兄ちゃん。

 翌日、種子島でもらった巨大やりイカを刺身にして、指宿の親戚たちと宴会をした。集まる指宿の親戚たちを見ながら、JPが「あ、この人はマモルさんの兄弟ですね」と笑う。やりイカとマモル兄ちゃんのおかげで、種子島がぐっと近づいた。宴会に続く数日のあいだには、鹿児島に来ている種子島の従姉たちとも、会ったり電話で話したりすることができ、JPもとっても喜んでいた。一人の従姉の息子さんには会ったことがないが、イタリア人のおともだちいるそうで、その辺りでまた「イタリアに来る時にはフランスまで来てね」というはなしが出る。JPのお母さんは半分イタリア人なので、イタリア人を連れた日本の親戚が遊びに来てくれたら、こっちでも大宴会となるだろう。

わたしは写真の父の歳を越えた。岩肌はあれ以来風化したのかもしれないが、遠目には「ぜんぜん変わってない」だった。

あるばむ








2008/12/21

クリスマス休暇中


      巻きずしと生春巻きを売ったスタンド


     誰もいない冬の地中海


     年末にJPが出張で訪れたパリ


(そりじゃなくて)馬車に、小人とプレゼントを乗せて、うちの中にまでやって来たサンタさん。

2008/12/20

楽しいでんわ、うれしい知らせ

 PTAのお母さん仲間といっしょに、町のクリスマス市でいろんな物を売る。クリスマスの飾りやカードや、お菓子など。去年巻きずしを売って大好評だったので、今年も作ることになった。昨日と今日で、巻きずしを200個と、なま春巻きを60本ぐらい作った。時間が余ったので、サモサという東南アジアのあげた春巻きのようなものも、いっしょに作って、それはみんなでわけて持ち帰った。巻きずしの、端っこの、売り物にならないものも分け合ったので、それといっしょに今晩のおかずにする。

 帰って来てみると、家人はまだだれも帰宅しておらず、家の中は真っ暗だった。ゾエの通っている乗馬クラブのクリスマス会から戻って来ていなかった。

 昼間は、実家に電話した。母とわらい話をして、生きることと死ぬことについて語り合い、《ありがとう》の効果と、このごろ2人で使っている竹酢の使い方とその効果について意見交換をし、次回帰った時に連れて行ってもらう予定の自然食品店について情報をもらった。母はあした4回目だか5回目だかの忘年会に行くといい、引っ張りだこでよろしいねと笑った。こちらはあさって、JPの両親の家に行く。人付き合いってものがないので、わたしには忘年会の誘いはない。

 そうそう、お知らせがあったのだ。
昨日、大阪の出版社の編集部から電話があり、いつもお世話になっている《さ》さんが、「出していただいていた企画の本が、版権取れましたので、次作品の翻訳をはじめてください」とのお知らせだった。
 今度のは小学3-4年生ぐらいの読み物になる。これまで2冊とはちょっと違って、楽しく笑えるお話だ。

楽しく笑える読み物に、しなければならない。しばらくは3-4年生の読み物について、少々お勉強を。

2008/12/19

ああ、いそがしい

 火曜日の夜サーカスを観に出掛けた。
 いつも預かっているジュリエットのお母さんに、割引で買ったというサーカス券をもらったので、子どもたちと三人で行ってみた。時間より早く行ったのにものすごい数の人が並んでいて、わたしたちよりもあとから来た人もたくさんいた。結局、わたしたちを含めて300〜400人の人が入場できなかった。
 
 「もう入れません」と聞いた時点で、潰されないうちに帰ろうと思って、子供たちをバックさせた。ノエミは文句を言いながら、脚を踏む大人を怒鳴りつけるし、ゾエは泣いているし、帰り道は悲惨だった。数日前からエキサイトしていたので無理もない。
 夜の催しは火曜日だけだったので、遠くから大人と一緒に来た子供たち、大人だけで来たグループも多かった。チケット売り場では払い戻しを要求する、荒れ狂った人々で大変だった。

 わたしたちにはセカンドチャンスがあった。
翌日の2時半からのサーカスを観に行くことにした。5時から日本語レッスンがあるので、大丈夫か心配だったので、火曜日のうちに行っておきたかったのだけど。
 2時半からのサーカスのために、12時半に学校からノエミが戻ると、大急ぎで食べて1時には家を出た。1番だろうと思ったら、10番目ぐらいだった。こんな寒いところで1時間半も待ちたくないな〜と思っていたら、2時15分ぐらい前には中に入れてもらえた。

 前日に行った友人たちのアドバイス通り、正面の席に陣取った。
2年前にも来たサーカス団で、半分は一年契約でサーカス団といっしょに移動する外国人が入っている。今年は、このサーカス団定番のクルーンと動物ショーの他に、中国人の女の子10人グループによるアクロバットと、アルゼンチンから来た空中ブランコチームだった。
 写真は、フラッシュが使えなかったので、上手に撮ることができなかった。

 子供たちは大喜び。おやつもたくさん持って行ったのに、雰囲気に呑まれて、思わずポップコーンまで買ってしまった。

 サーカスは4時半に終わり、5時から6時までの日本語レッスンに間に合った。今年最後のレッスンなので休みたくなかった。

 そのあと、JPがなかなか帰って来ないので、子供たちを留守番させて、6時からもうひとつのレッスンへ。6時半と7時に自宅に電話しても、JPが帰っていないので心配した。7時半に帰らなかったら、レッスンを中断して家に帰りますと言いながら、携帯電話もつけっぱなしでレッスンをやった。こんなに落ち着かないレッスンは滅多にない。ポールさんが、わたしの8年前に買った携帯を見て、「そんなの、使えるの?」とびッくりしている。
 中断して帰ろうか、どうしようか。。。決断ギリギリの7時半に、自宅に戻ったJPから電話がちゃんと鳴ったので、ポールさんがまたまたびっくりしている。

 これでひと安心。8時半まで今年最後のレッスンをやって家に帰ったら、ハンサムに若返ったJPがニコニコ待っていた。子供たちはお風呂に入り、ごはんを食べて、ノエミはヴァイオリンまでやり、ゾエの宿題も終わっていた。

「へへ。。。レッスンのこと、忘れてた。。。」
コイツったら、美容院に行っていたのである。あ〜〜〜。

 ちょうどJPから新しい電話をもらったので、「わたしは古いの使うから、こっちあげようか?」と言うのに、JPは要らないと言う。
「どこにいるの?いつ帰って来るの?」としつこく電話して来るオンナは嫌いなのだそうである。
職場にそんなオンナがいっぱいいるらしい。。。(みんな仕事中に、子供や旦那に電話している)
どこに行ってなにをしてるのかわからないダンナを持つ身になってみろよ、と怒られるJPなのであった。。。

 新しい携帯電話は、わたしがもらった。写真も撮れ、音楽も聴けるすごいやつである。フフフ。
クリスマスでもないのに、どうしちゃったんだろうと思ったら、なにかの景品だそうだ。

2008/12/15

にほんごクラブ














 3回目にして、年内最後の《にほんごクラブ》
本日は予定通り、一月のカレンダーを作った。
数字や曜日を、全部漢字で書かせた。
ちょっと説明して、ひたすら写させる。。。という作業だったので、ただただ慌ただしかったが、みんな面白がっていた。
 20の数字は、「2かける10だから二十と書くんだよ」と、口頭で説明していたら、十を2回で 《十十》 と書いた子供が何人もいた。大人と同じ説明じゃ、ダメなのね。。。

 飾り付けの時間が足りなくなってしまったが、なかなかきれいなのを作っている生徒もいた。おうちでもう一度作り直すという子もいたので、切手や折り紙をあげた。二月のカレンダーはもっと上手にできると思う。

 新年第1回目のクラブでは、福笑いをする予定。

ビクトル・ユーゴ中学校の《にほんごクラブ》のブログはここ
http://clubjaponais.blogspot.com/

中学校のホームページはこちら
http://collegevictorhugo.monsite.wanadoo.fr/

Russian Fantasia No.3 Leo Portnoff



 夜中の2時に、外があまりにもしんとしているので、郵便受けの穴から外を見たら、雪が降りはじめていた。
土曜日と日曜日は、フランス南東地方と中央高地で大雪の予報が出ていて、日曜日の朝にはさっそく被害の報道でにぎわっていた。
そういう時でも、カーモーの辺りは雪は降らない。

 カーモーに来てから4年経ったが、たしか2年目に大雪が降って、70センチぐらい積もった。一昨年は10センチぐらい積もっただろうか。どちらも1月に入ってからだった。

 来週の月曜日にはJPの両親の家に行く。両親の家は地中海に面した町にあって、そちらも雪は降らない。そこに行くまでにマザメという地方で山を越えなければならないが、そのへんはクリスマスに雪が降っていることがある。

 カーモーから北に30分ぐらいの《バラックヴィル》という町がある。ロデツの剣道クラブに行く途中、そこを通過するのだが、他は天気がよくてもバラックヴィルだけはいつも天気が悪い。町に入るといきなり霧が深くなるし、雪も降る。雨も多いし、風も強い。バラックヴィルに住んでいると聞くと、「よくまあ、そんな所に住んでるね」というような町だ。

 ノエミのヴァイオリンの先生はバラックヴィルに住んでいる。そして、片道1時間半ぐらい掛かるガヤックの町と、1時間ぐらい掛かるアルビと、30分以上掛かるカーモーで、子どもたちにヴァイオリンを教えている。

 火曜日に音楽学校の発表会があった。ピアノ・フルート・ギター・ドラム・コーラスも発表された。去年よりも子供の数が増えたので、去年よりも大きなホールでの演奏会となった。
 
 ノエミの課題曲は、わたしが日本に帰る前に楽譜を注文しておかなかったばかりに、届くのが遅くなり、コンサート前の一週間しか練習できなかった。それでも先生は、その《ロシアのファンタジー Russian fantasia Leo Portnoff》をどうしても演奏させたいと言った。
 4分の4拍子のアンダンテと、4分の2拍子のアレグレットと、8分の6拍子のところにはピッチカートも出て来る。唄ったり泣いたりしているようなテンポが続く。1オクターブを行ったり来たりする重々しい最後で、高いラから低いラに落ちて締めくくるという、カッコいい曲だ。でもとっても難しくて、1週間の間喧嘩ばかりしていた。わたしが偉そうに指導して、ノエミが偉そうに反発するから、いつも喧嘩になる。でも、ノエミは腹を立てるとすごい威力を発揮するので、「ほらまた間違った」などというとムキになって次は意地でも間違わない。この子はなかなか叱りがいがあるのだ。(いじわるな母)

 水曜日に先生から電話があり、「昨日の発表会は、ノエミ、よくがんばりましたね」とおっしゃる。
私もノエミ自身も「ちっともよくなかった」と思っていたので、「そうですか?先生はあれで満足だったんですか?」と言った。
「うちの子、もっと練習したら、もっと良くできましたよね?」
「そうですね。時間足りなかったですね。その割には、わたしはよかったと思います。もっと練習したらもっと上手にできますよ。ノエミは」
ほら、そういってもらいたい訳ですよ。ノエミには。
ノエミも先生の言葉を横で聞いてる。そして「今度はもっと練習します」などと言ってる。よしよし。
 「ところであの発表会は、最低でしたよね」
というはなしになる。子供たちのほとんどは、いかにも練習不足だった。面白くなさそうに、無感動な表情で、仕方なさそうに、いやいや演奏している。音楽なのに、音は出ないし楽しそうじゃない。発表会なのに、見せるものがあまりない。感動が湧かない。
 中学校に行って思うことにちょっと似ている。子どもたち、なんだか、生気がない。笑わない。面白くなさそうにしている。先生たちも、教えがいがないだろうなあ、と思う。その点、にほんごクラブのみんなは生き生きしているから、よかった。やっぱり、義務でやってるのと、遊部では違うんだろう。

 「ところで、明日わたしのコンサートがあるんですよ」
ノエミの先生のコンサートは、できる限り行くことにしている。とっても面白い先生だし、先生がどんなにすごいかを見せてあげたいのだ。尊敬してる先生とそうでない相手では、習う方も気合いが違って来る。それに、こんな田舎でコンサートなんて滅多にないので、たまに本物を聴かせてあげることは大事だと思うから。去年の冬はモネスティエの教会で、ジャズとクラシックのコンサートがあった。とってもよかった。意外な組み合わせで、楽しかった。
 今回のは、先生がいまハマっている、ロシアのバラライカとバイオリンとチェロのコンサートだという。ノエミもいまロシアの曲をやっているので、ぜひ来てくださいと誘ってくださった。

 ガヤックの教会に集まったのは、50人ぐらいだろうか?ロシアのバラライカとギター、歌とピアノもロシア人の女性、そしてバイオリンとチェロで構成される4人のフランス人グループ。そこに、ノエミの先生も座っていた。先生がたまに冗談を言う。そして、たまにソロが入れ替わって、先生もソロをやる。

 わたしがいちばん好きだったのは、スピルバーグの《シンドラーのリスト》という映画で流れたジョンウィリアムスの曲だ。この映画もそれはそれは感動的だったが、この曲を聴くと、赤いマントの女の子の姿が目に浮かんで泣きたくなる。赤いマントの少女が出て来るシーンに流れるOifn pripitchikという曲は、イーディッシュ語のユダヤの古い音楽。
http://jp.youtube.com/watch?v=JkS3cZntDTY&feature=related

イツアック・パールマンの《シンドラーのリスト》テーマ曲演奏ビデオがあったので、ご紹介。この人、ちょっとノエミの先生に似ている。
http://www.juif.org/video/2559,la-liste-de-schindler-musique-de-itzhak-perlman.php

 今晩クリスマス休暇まえ最後のレッスンのために、先生は、雪の降るバラックヴィルから出て来てくださるのだ。ノエミ、昨日もがんばって練習していた。

2008/12/14

ダッシュ

 あっという間の一週間だった。

《月曜日》
 通訳のお仕事関係で、日本からお客さんが8人もいらっしゃるので、車やホテルの手配やら、いろいろ忙しくなって来た。ついでにミーさんもわがままを言うので、お話を聞いてあげたりなど。
チョコレートでも食べて心を休めなさいよ、とアドバイスをした。
 
 中学のにほんごクラブ2回目終了。ブログ作成中。

《火曜日》
 先週に引き続き、友だちの赤ちゃんを預かっている。わたしもなにかと忙しいので、無理やり寝かせて大急ぎで仕事する。ちょっと10年ぐらい前に戻ったみたいで、新鮮な雰囲気を味わっていないでもない。

 夜は音楽学校のコンサート。ノエミは一週間で準備したロシア民謡を演奏。もっと練習できたらもっと上手にできたと思う。ずいぶん上がってしまったみたいだった。

 コンサートのあと、わたしはPTAの会議で夜中まで。そのあとミーさんのための翻訳。

《水曜日》
 レッスンを二つ急きょキャンセルした。JPの職場の人たちが集まっての、クリスマスパーティー。手品やピエロの登場するお楽しみ会だった。最後は、前もって親が注文しておいたプレゼントを、サンタさんに配らせるという催し。ノエミは12歳になったので、もらえるのは今年が最後。ノエミはいま生物で解剖などをやっていて、家でカエルの内臓のはなしをよくするので、JPは、《解剖セット》なるものを注文してた。理科室によくぶら下がっている骸骨の模型を自分で作るというもの。ノエミは包みを開けた途端に、プレゼントを投げ出す。「げ〜。気持ち悪〜〜」わたしも、もっとマシなものにしてもらいたかったよ。

のえみ、いよいよ
「お父さんにはわたしの気持ちなんかわからないっ」
ジェネレーションに突入か。。。
それにしても、父よ、女心がわからんか。。。やっぱりな。。。
 
 《木曜日》《金曜日》
 子守り、家事、買い物、みーさんのわがままの件、レッスン、などなど。。。。
無料でやっていた日本語のレッスンだったのだが、子どもたちのお母さんがクリスマスプレゼントとレッスン料の代わりと言って、お小遣いをくれた。やっほ〜

 《土曜日》
朝一番にケーキを作り、水曜日にキャンセルした日本語レッスン。
午後は、ノエミの友だちを呼んで、お誕生会。
ゾエの友だちも呼んだので、我が家には10人の少女が集まった。JPたじたじ。
10人の少女が集まると、とんでもない騒ぎだ。
耳栓をして、部屋にこもり、年賀状を書く。 

 《日曜日》
中央高地辺りでは大雪らしい。
カーモーは5度。雨が降っている。
ゾエは友だちのうちに行き、ノエミは宿題をやっているので、静か。
本当はクリスマスプレゼントを買いに、アルビの街にでも行きたいのだが(今週と来週は日曜日もお店が開いているらしいので)、寒いし面倒くさいので、あと1時間でノエミの宿題が終わるかどうか。で。。考える。


 来週は、もっと忙しい。クリスマス休暇直前、最後の週。

2008/12/08

12歳になりました

























ノエミ、無事12歳になった。
次回日本に帰る時は、大人料金〜〜〜〜。
足のサイズは38号(日本で は24.5センチぐらい?)
身長は145センチ、体重は。。。ナゾ(わたしよりは軽い)
先日、フランス語の今学期平均が20点満点の19.4だった、とすごく自慢している。ビクトル・ユーゴ中学校始まって以来の高得点と、本人は言っているが、ほんとかな?
色気、なし。
流行にも、あんまり興味なし。(親がこうなので諦めている気配)買ってあげようと思っていた白いワンピースは、冷たく断ったオンナ。
親と一緒に選んだ誕生日のプレゼントは、DSの中古のカセット。夜遅くにそれがもとでゾエと喧嘩になり、母にこっぴどく叱られ、涙のうちに《せっかくのお誕生日》が幕を閉じた。
6日に再び父がたの祖父母と祝いをしたので、2日連続でお誕生日ケーキを食べることとなった。来週の土曜日は、友だちを呼んでのパーティーを予定している。ってことは、わたしは三個目のお誕生ケーキを作らねばならないのだ〜〜。そんなに歳取りたいか〜〜?

 
 顔はデカい、鼻は高い(ホントは低い)、頭は固い、口は軽い、舌は回りすぎ、耳は遠い(なぜかわたしの命令だけが聞こえない)、そして、尻は重い〜〜。
まあ、いちおう、そこら辺の12歳並みに育っていると言えよう。
こんな親で、そりゃまあ、よくがんばって生き伸びてくれていると、つくづく思う。

2008/12/01

ふたをあけてみる

日本語クラブ第1回目

 なんか。。。準備しすぎた。

 12時45分から13時半までの授業で、しかも初回、用意された教室の場所もわからず、あつまる生徒の数もわからず。。。という状況。教室の前まで行くと、カギがかかってるし。。。時間が過ぎて行く。
 
カギをとりに行ってもらっている間に、子どもたちとおしゃべり。
 「どうして、日本語クラブに入ったの?」「なにか特別、やりたいことがあるの?」

だいたいは予想通りの返事が返ってくる。
− マンガが好きだから。
− 読み書きに興味あるから。

 教室に入ると、まずは自己紹介から。
そこで、知っている子どもたちには「XXさん、こんにちは。お元気ですか?」を言わせ、応えさせる。
知らない子には「はじめまして。XXです。どうぞよろしく」と言ってもらう。
中学生ぐらいだったら、わけがわからなくてもいちおうリピートしてくれる。何度もやってるうちに、勝手に想像したり、応用できる。
 でも、わけわからないのにただ写すだけ。。。に慣れてる中学生というのも、ちょっと危ない。

 フランス人の大人はプライドが高くて理屈っぽいので、「先生の言うことを、ひたすら繰り返して言う」というのが嫌いだ。いちいち訳してくれとか、なんでリピートするのかわけが知りたいとか、そんなこと初回からいっていたら困るのに。子供は素直でいいなあ。大人のクラスには恥を捨てて、子供のように同じことを繰り返すということを嫌がる人がけっこう居る。でも、わたしは有無を言わせず繰り返して言わせるほう。書くのはあとで。ニュアンスでわかって〜、が外国語学習初歩のポイントじゃないの?完璧に話せるようになってから。。。なんて言ってたら、いつまでも日本にいけないヨ。身体で覚えよう。

 ひがらなやりたいという中学生たちの集まりは、なんとも頼もしい。ひらがなは一週間で10字しかしないのが常だけど、いちおう、クリスマス休暇前の目標だけは立ててしまったので、初回と2回目でやるべきことが山のようにある。

 じつは、クリスマス休暇に突入する前に、一月のカレンダーを作る予定。
なので、まだ覚えてもいないひらがなを(三週間ですべてのひらがなは無理)、お手本を見て写すという力をつけなければならない。
それから、みんなが知りたがっている《漢字》をいくつか書かせてあげたい。
 自己紹介のためにも、2ケタの数字を教えたい。2ケタが書ければ、年と日付が書ける。(そのあとの時間と電話番号もすぐに。そうしてショッピングも)

《あけまして おめでとう》
のついでに、《おめでとう》《お誕生日おめでとう》もいっしょにやれば、12月生まれの我が子に《おめでとう》と言ってもらえるのだ。なんてラッキー。
 この2週間で、《あ行》から《た行》まで完璧に覚えさせるので、カレンダーには「ことし、うし どし」まで書ける。すごい、すごすぎる。ちょうど今年の1年生が丑年だ。ノエミはネズミ。

 これらすべてを総合して、「日本語なんて習わせて大丈夫かしら?」と心配している教師陣と保護者一同に、3回のレッスンの結果として、書道と折り紙と切り紙で飾られた、日本情緒たっぷりの一月のカレンダーを、クリスマスプレゼントとして家庭に持ち帰ってもらうつもり。

 月が変わるごとに、カレンダーを作ったらどうかとも思っている。


 お正月は、カルタと双六と福笑いが待っている。。。。
カルタをやりたいから、早くひらがなを覚えて欲しい〜〜〜。
書き初めのために「はつはる」も、おぼえてほしいところだが、ら行はまだまだなので、とりあえず新年に入ったらすぐにた行をやって、「いいとし」にしようかと思っている。

 たのしみ、たのしみ。 
 

2008/11/28

日本語クラブ



 高校三年のとき、「自分は絶対に北海道に就職する」と決心していたのだが、もろもろの事情により、鹿児島の短大に行かせてもらえることになった。その短大の《教養科》っと言って、教養のないオンナが何百人もダラダラ通っているような、女子だけの短期大学だ。私立の短大まで出してもらうからには、絶対に国語教師の免許ぐらいはとろうと思って、一年の時には最前列で、とってもよく勉強した。その反動で、二年目はかなりいい加減だったのだが、いちおう卒業する時に、中学の国語の教師ぐらいにはなれる免許を頂いた。
 
 教員試験の勉強もいっぱいしたけど、全然ダメだったし、本当は中学の国語教師なんてまっぴらだったので、海外青年協力隊にでも入って、アフリカ辺りに行ってやれ〜いと思ったら、国語教師と日本語教師はぜんぜん違うので、勉強し直せということになった。

 東京のいんちきな日本語学校の教師養成講座に入って、わたしは1988年にその学校でも一番若い先生となった。わたしの髪はお尻まで長く、ボディコンのスーツだって着ていた、あのころは。そして中国人とか韓国人の、労働目的で来日している、父ぐらいの年齢のおじさんたちに、《先生》と呼ばれていた。そのあとは各地場所を変えながらも、必要に迫られて、いつもけっこう楽しく、小さな日本語クラスを持ち続けて今に至っている。今はプライベートレッスンを3つ持っている。

 この前の秋休みが明けてからというもの、なんども中学から連絡があり、いよいよ日本語クラブの企画が本格化に向かって動き出していたのだが、本日校長先生から、正式に「月曜日から日本語クラブを開始してください」と電話があった。

 お昼休みが12時から14時までなので、その間に子どもたちは家に帰ったり、学校で時間を潰したりする。その長いお昼休みに、スポーツや音楽のクラブがある。ノエミは昨年度は演劇をやっていた。ラップのダンスやアフリカのタムタムのレッスン、卓球やバスケなどもある。

 《日本語クラブ》というよりは、《日本クラブ》だ。中学生は英語、スペイン語、ラテン語、ドイツ語などをやっている。日本語は正規の授業とは違うので、もっとリラックスして、言語学よりも、文化紹介、歴史や地理のちょっとした情報。折り紙やお習字のアトリエなど、楽しい時間にして欲しいとのこと。
 申し込んだ約20人の中学生たちのほとんどが、「空手などの武道をやってる」か、「ゲーム、日本映画、漫画の大ファン」と言っているらしいので、その大多数の期待にも添わなければならない。剣道教えようかな。

 校長先生は、「私立じゃないので自分の思い通りにいかない。本当は報酬もお渡ししたいのだが、ただのクラブなのでボランティアです。(すでに了解済み)ただし、教材費やなにか必要なものがあったら、遠慮なく言ってください。なんでも揃えますから。」とおっしゃった。初級のレッスンに必要なものはすべて揃っているし、オーディオ・ビデオの教材もある。コピーを取らせてもらえれば、あと必要なものはなにもない。折り紙や墨汁を自腹で揃えなくてよいのは本当に助かる。

 第1回目のクラブは12月に入ってしまう。この前秋休みが終わったばかりだというのに、今度はクリスマス休暇が12月19日の夜から1月4日まで。年内にクラブ活動は3回しかできない。

 初回でみんなの心をキャッチして、グループ学習のためのグループ作りと、自己紹介をするつもり。文字に対する不安を取り除き、興味を持ってもらうために、いろんなゲームを考えている。

 ノエミがこの授業をとっても楽しみにしている。この前の俳句の授業で、「お母さんの授業はとっても楽しかった」と言ってくれたので、日本語クラブにも期待がかかっている。ノエミに恥をかかせちゃいけないし、ここで普段の《ろくでなしな母》の汚名挽回をっ!とちょっと意気込んでいる。ノエミももっと日本語の勉強をしてくれるかも。

 
 写真は種子島。鉄砲伝来の地、門倉岬の神社の鳥居。

2008/11/26

彦根へ


 
子どもたちとJPは、予定通りに名古屋に着いた。
 どんな格好で現れるか心配していたのだが、JPはちゃんとアイロンの掛かったTシャツを着ていた。ヨーロッパから朝到着っていうのは、大人でもきついのに、3人は、さっさと名古屋に行って遊ぼう!と言っている。

 名古屋で知ってる所と言ったら、名古屋駅と高島屋とマリオットホテルぐらい。昨日探しておいた、大きなスーツケースを預けることのできるロッカーに行って、みんなの持ち物を預けた。
 ゾエがおトイレに行きたいというので、わたしは《自分の庭》みたいな顔をして、
「さあ、わたしが泊まってたホテルのトイレに案内するよ」
ついでに、ホテルの上の高級レストランに食べに行くふりをして、ロッカーに入らなかったバッグをホテルのボーイさんに預けるという芸当までやってみせた。昨日もお世話になったので、覚えていてくれて、だから心良く預かってくれた。(今日も泊まってると思ったんだろうなあ。。。)

 ホテルのトイレで過ごしたあとは、高島屋8階で行なわれている《フランス展》見学〜。《フランス展》に並ぶ高級品を見て、
「こんなの、フランスでも使ってる人見たことないナ」
「だってそんな高級なもの使うような人知らないじゃん」
「パパ〜。これ買って〜」
「日本でフランスのもん買うフランス人がいるかね」
「5万6千円か。。。ええっ。。。500ユーロ?これが?」
などの親子の会話が飛び交っている。たしかにこんな非日常的な日用品を見ると、日本のみなさんは「おフランスに住んでいる人はみんなフランス展に並んでいるような高級なものを身にまとっているのね」と思うんだろうなあ、と思う。

 そういえば、去年はじめて仕事で来た時に、「おフランスから来るんだから、ルイヴィトンとか持ってても大丈夫ですよ」と言われた。日本では一般庶民、しかも主婦や学生がルイ・ヴィトンの財布から万札を出すのが実に庶民的な風景だが、フランスではルイ・ヴィトンを持ってる人は滅多に見かけない。ルイ・ヴィトンはそこら辺の一般庶民は持たないからだ。たしかに、わたしが「一般庶民じゃない人」とは交流がないから、見かけないってだけなのだろう。

 デパート内でちょっと休憩。仕事中にしょっちゅう耳にした「スタバ」に連れて行ったら、JPが一気に不機嫌になった。スタバなんかにはおいしいコーヒーは置いてないからだ。ノエミが「マンゴーとレモンの名前がついた意味不明な飲み物」を飲みはじめ、ゾエが気分悪そうにしてたので、地上のイタリアンのカフェに出直して、イタリア製のケーキとアイスクリームのセットをごちそうした。子どもたちの機嫌も治った。

 さあ、これから新幹線で彦根へ。みんなはドロドロに疲れ切ってる。

 4人で姉のマンションはちょっと無理なので、彦根駅前のビジネスホテルに宿をとっておいた。でもお部屋の準備ができるまで、姉の家に行ってシャワーを浴びることに。その時になって、ゾエの服を一着も持って来ていないことに気づくJP。どーすんの、アンタ。
 ゾエは飛行機酔いで、乗っていた15時間の間ずっと吐き続けていたらしく、服は濡らしていなかったものの、やっぱりなんか臭い。本人も気持ち悪がっている。お風呂に入れてる間に、近所のスーパーに行って服や靴下の買いだめをした。

 ノエミはセーラー服に憧れていたので、従姉の制服を借りて記念写真。

夕方ホテルに入ると、みんないっきに爆睡。その間、わたしは剣道のお稽古。今年全日本剣道連盟からの派遣で、トゥールーズにいらした先生が、なんと、滋賀県の方で、彦根でもよく稽古をされるとのことだったので、わたしの帰国に合わせて、彦根まで稽古をつけに来てくださった。
 「フランスではお世話になり」とご挨拶され、みんなは「あの人、八段の先生に頭下げさせてるぜ」とウワサされている感じだった。そんなザワメキの中お土産を頂き、なんと、先生から新しい胴までいただいた。
 姉もわたしのために新しい道衣を用意しておいてくれ、小手と面も新調するように、注文してくれた。その日、わたしたちは、はじめて、姉妹で道場に立った。姉の剣道姿に憧れて剣道を始めたのだ。お互いに、やめなくてよかったなあ、と思う。どこに行っても剣道の友だちが助けてくれた。困った時にはいつもいっしょにいてくれた。ここでこうしてまた、新しい先生にも出逢った。剣道の先生や先輩、友だち、そして道場に、いつもいろんなことを学んでいる。それは姉も同じだと思う。JPとも剣道のおかげで知り合ったし。(でも彼はもうやめた)

 剣道から帰ると、みんなは目を覚ましていて、近くのコンビニで買ったお弁当を食べ終わったところだった。

 一日目から夜の町を出歩く母に、いきなりほっぽり出された、かわいそうな家族なのである。。。
ああ〜〜、ゆるして〜〜。

2008/11/25

ミーさん、またね 10月23日




 ミーさんを中部国際空港から見送った。これでわたしのお仕事は終了し、5日分のお仕事と、この6ヶ月ぐらいの間にミーさん関連でやった翻訳料を、報酬として《円》でいただいた。
 この夏にはユーロが高かったから、フランスからの旅行者にはホクホクだったのに、わたしが帰国してから1週間ほどで、円がどんどん上がってしまった。JPたちが出発する前夜にフランスに電話して、「空港なんかでユーロを円に換金したらダメだよ」と情報を流した。それと「日本はとっても暑いから、セーター類は一切置いて来て」

 仕事中の5日間は、お金はまったく要らない。国際線のチケットはもちろんのこと、ホテル、レストラン、滞在中の交通費も出してもらうので。帰国してから友だちに会ったりもしたが、行く先々で交通費も食費もだしてもらっていた。(ありがとう!!)
 
 ミーさんを見送ったあと、駅のロッカーに大きなスーツケースを預けた。そこから、明日到着する家族を上手に案内できるように、名鉄駅から新幹線の乗り場までと、ロッカーのある場所や子供と食事のできる場所、トイレの位置、バス乗り場などを確認するために、名古屋駅周辺をうろうろと予行演習した。
 その晩は高校時代の友人たちに会って、そのうちの一人に泊めてもらうことになっていたので、名古屋の高島屋内の本屋さんや、東急ハンズなどをブラブラ歩いて時間を潰した。買いたいものはいっぱいあるけど、でも子どもたちのために働いたお金だから。

 高校卒業後、働きながら短大に通った友だちが2人、中・高校生のお母さんになっている。もう一人は看護婦さんで、東京時代もいっしょに遊んだ。夜遅くに合流した男子は、単身赴任で名古屋に来ていて、これまで2回の帰国で会えなかった中学からの友だち。成人式以来会っていないのでどきどきしたが、さわやかな青年のような笑顔と話し方や笑い方も昔のままだった。

 みゆきちゃんの家に泊まる。途中、大雨の中わたしの知らない人の家に寄り、1回会ったことのある人のために、ちょいとお線香あげた。彼女は雨の降る暗い夜道をじゃんじゃん走る。

 知らない町の、駅から離れた、見たこともない住宅地に、自分の家を持ち、鹿児島弁を話さない家族がいる。息子さんはもう高校生で、朝になると、彼女はわたしの見たこともない服を着て仕事に出て行くのだ。わたしは昔からずっと知っていると思っていた友だちの家にはじめて来て、ちょっと途方に暮れた。所在ないので、彼女の使い方のわからないノートパソコンをいじって過ごした。高校生の息子さんといっしょに、ASAKUMA TOSHIO 氏の、素晴らしい作品が並ぶホームページを見たりした。http://clayanimals.net/gallery.html
 寝る時間だと言って、自主的に二階に上がって行く息子さんたちの後ろ姿や、洗面所の歯ブラシや、友人のちょっと疲れた顔を見て、なんてがんばっているんだろうと思った。こんな遠いところで。

 朝になったら、わたしも家族と合流できる。
友人たちがいろんな所で、わたしのためにお金を出してくれたおかげで、わたしには仕事でいただいた報酬が、まだまだ残っている。明日から、子どもたちのために散財するのだ〜〜!とやる気満々だ。
その代わり「ええ〜、また帰って来たのお?」と言われるのは悲しいので、次回からは友人たちには割り勘にしてもらおう。
いつも胸が一杯、食べたいものいっぱいで、ろくにはなしもできないが、そばにいるだけでホッとできるのは、いったいどういうことなんだろう。疲れも一気に吹き飛んだ。

 みんな、ありがとう。

10月18日から 23日まで



関係ないけど、指宿のフラミンゴ
このごろちょっと暗かったので、サービス。




 ミーさんと、お仕事。
 早いはなしが、本当は、このために帰国したのだからして、書いておかねばなるまいヨ。

 ミーさんとの冒険旅行は、今回3回目となった。これまでの2回の旅行についての日記は、削除して欲しいと言われている。うちのは自分以外の人を巻き込んだ勝手なブログであるので、今後の迷惑を考えたら、いろいろと書かれる人は不安なのだろう。なので、3回目以降の旅行の細かい内容については書かないことと、1回目と2回目に関する日記は抹消してくれと、言われたのである。。。と、こんなところで宣言したら、またきっと、叱られるのだろうか。

 この件に関して、わたしはたしかにかなり傷ついた。おそらくだれにも想像できないぐらいへこんだ。「もっと人の迷惑も考えてよ」と言われたのと、きっと同じなので、そういうことを言われる自分が悲しかった。公の場でものを書くということは、とっても責任重大なのだなあと、それはたしかに思っている。それを思ってないみたいに言われるのは、つらいのだ。
『抹消』だなんて。ものを書く人間がそんなこと言われるっちゃ〜「アンタ消えてくれ」と言われてるのと同じじゃん。

 ところで、仕事のことは書かないと約束したので、ミーさんのことをちょっとだけ。

 ミーさんは今回も、いろんなところで(わたしを)笑わせてくれ、(ビジネス相手に)たくさんわがままを言い、自分の意志には反するサービスばっかりさせられてるじゃんとゴネ、そして、へこんでいるわたしを励ましてくれた。わたしたちはビジネスについて話し、日本とフランスの比較文化に意見を戦わせ、特に食に対するお互いの情熱を語り合い、日本のフランス料理に文句をたれ、日本のビジネスマンたちの歩幅と歩く速度に文句を言い、家族への愛情とお互いの娘たちの成長について笑い、わたしは何度もこっぴどく叱られ、そのあとは《キューバ・リブレ》でご機嫌を取られ、そして、なぜか、こともあろうにミーさんと、生と死について長々と語り合った。

 残念ながら、これらの興味深いミーさんのお話は、自分だけの宝物として、自分のためだけに残しておく。
 

しつこく カセットテープ派



 薩摩黒豚のしゃぶしゃぶを食べながら、ピース・クボタが「こんなの見つけたよ」と言ってくれたカセットが、台所にどやどやと散らばっていたので、そのうちの一本をテープレコーダーに突っ込んでから、台所の窓のヒーターの真ん前に、椅子をひきずって来た。

 『アジアンタムブルー』の続きを読もうと思って。

 やあっと115ページにたどり着いた。
「1988年3月のことだ。」
とあるのを見て、その3月に自分が上京したことや、そのとき下げていた赤いテプレコーダーのことや、あの冬がどんなに暗く寒く、貧しくて、いろいろな物事に不足していたかについて、思いを馳せてみた。その時に、ピース・クボタのカセットから、Billy Joel の Just The Way You Areが流れて来たので、おもわずびっくりした。

 この曲を聴くと、いつも切なくなるっていう曲は、だれにでもあるはず。
1977年に収録されたカセット。この曲が流れると、狭い子供部屋のこたつと、みかんとラジカセを思い出す。Just The Way You Areは5歳上の姉が聴いていたのだ。だから、こたつに座っている姉もセットで思い出す。

 185ページまで来た。
ーーーーー
「邦題の傑作って何かしら?」
「『抱きしめたい』かな」
「アイ・ウォナ・ホールド・ユア・ハンド」
ぼくはずいぶん昔に、誰かとまったく同じような会話をしたことがあるような気がした。
ーーーーー
 主人公の語りを読みながら、わたしのほうこそ、ある友人と同じような会話をしたことを思い出した。
『素直になれなくて』って、すごい訳だよねと言ったのはわたし。友にもらったCDの中にHard To Say I'm Sorry が入っていたから。

 姉にもアいツにも、次回は元気で会えればよいなと思う。
元気だったら、あとはもーどーでもいいーワ。

Billy Joel - Just The Way You Are
http://www.metacafe.com/watch/yt-132VY_CoxDg/billy_joel_just_the_way_you_are_24p_covers_sld/

Beatles - I Wanna Hold Your Hand
http://jp.youtube.com/watch?v=lfsvE4j4ExA&feature=related

Chicago - Hard To Say I'm Sorry
http://jp.youtube.com/watch?v=Yh9cNYlmXEY

2008/11/24

予報通りの晴れ間 いま




《兄じゃ》からの「悲しいお知らせ」というタイトルのメールを開いた瞬間、《てーさま》は遠近法で描かれた、狭く細き一本道を、さささーっと冷たい音を立てて、遠ざかっていき、ずっとずっと奥の消失点に呑み込まれてしまったようだった。
わたしだけがココに取り残されて、放り出されたような気分。一瞬、たしかに一瞬、どうしてわたしたちを残して、一人で逝っちゃったのヨという恨み言とともに、お先真っ暗になった。

《てーさま》に何かあったら知らせることに、おそらく決まっていたであろう4人に電話をし、メールを書き、彼らとともに《てーさま》のことを語りながら、わたしはネジを巻いた。彼女は、きりきりきりと音を立てながら、少しずつココに戻って来た。あのひとがこちらにもどって来る。その距離が縮まるごとに、ココは明るくそしてあたたかくなる。それは皆既日食が終わって、少しずつ太陽が戻って来た、あの果てしなく続くフランス北部の草原の昼下がりに似ていた。1999年8月11日だった。太陽を失った草原には、小鳥も飛ばない。風が止み、人々は言葉を失う。黙って空を見上げ、太陽を探し待ち続けるばかりだった、あの夏の日。

「きょり」という漢字は《拒離》なのではないか。
「彼女は静かに息を引き取りました。これは現実です。」
との現実を拒み、そしてわたしは《てーさま》を遠近法で描かれた狭い道の奥の暗い穴へ向かって突き飛ばし、現実から離れてしまったのではなかったか。

彼女を語り、彼女に語りかけることで、ネジを巻く。
《てーさま》がいつもそばに居て、わたしの思いつくことに
「そうそう、みのさん、そうなんですよ。」
と、うなずく姿が目に浮かびはじめる。
もう逃げも隠れもできない。彼女との《きょり》はなくなった。いつもあの人はココにいる。そう思ったら、わたしは、語りかけることも、彼女が喜んでくれそうなことを書き続けることも、決してやめないという気になる。
わたしのせいで泣くなんてもってのほかのありがた迷惑と、あの人だったら言うに違いないので、もう泣かない。
わたしはこれまで通り、彼女の反応を気にしながら、書くことを続けようと思う。

2008/11/21

一見にしかずの日・11月8日







− 生駒先生寄贈のお庭





− 揖宿神社の脱穀機






 朝からお出かけ。
 ゆうべ暗くなったせいで、ゆっくりできずに帰って来てしまった、揖宿神社にUターン。
夜は疲れ切っていたJPが、油断した隙に畳に突っ伏して爆睡してしまったので、縄文の森のみなさんとの飲み会をキャンセルしてしまった。残念。

 前日、ざっと見学したところによると、揖宿神社の《裏っかわ》には、面白そうなものがいっぱいあるのだ。
実家のそばの生駒医院というところにあった中庭が、そっくりそのまま、揖宿神社に寄贈されていたのには、ちょっと驚いた。父が入院していた頃に、その庭の鯉を愛でた覚えがある。鯉は居なくなっていたが、医院の増築で場所を失った中庭が、そのままこちらに運ばれたとのこと。とっても素晴らしいアイディアだと思った。きれいなお庭だったのだ。でも、そうか、あの医院には、もう庭がなくなってしまったのだ。その代わり、立派な手術室や、レントゲンやスキャナーの部屋ができ、入院施設も増築された。母の治療でついて行くと、待合室にはお年寄りが溢れていた。

揖宿神社に戻る。
 8メートルもあって、樹齢1000年を越える大楠が何本もある。子供たちは《トトロの木》と呼んで抱きつく。樹齢500年の大銀杏などもある。「揖宿神社の社叢(しゃそう)(森)」として鹿児島県天然記念物に指定されているのだそう。神社裏の《てんちの杜》は、天然記念物の外にある。

 樹齢1300年ぐらいかな〜という大木の蔭に、不思議なマシーン発見!!家族四人でそれを眺めていると、宮司さんの奥さまが登場。従兄さんにはいつもお世話になって。。。とご挨拶いただき、お神酒と《無事カエル》にちなんだカエルのお守りまでちょうだいした。
 これはちょうど良かったと思い、そこにあるマシーンがなにかを訊ねる。
「ちょっとお待ちを」とおっしゃって、奥さまはどこかに消えてしまった。
わらの束を掴んで再度ご登場の彼女は、いきなり機械を動かすと、わらを叩きはじめた。
 家族4人、しばし作業に見入る。
「こうやって柔らかくして、しめ縄を編むんですよ。あっちでやってますよ」
というので、事務所に行くと、わらの香りが漂っていた。
 宮司さんはお正月用のしめ縄を準備中で、さっそく作り方のデモンストレーションが始まった。車で休憩中の母を起こしに行っている間に、終わっていたので、わたしは見ることができなかった。駐車場の横では若い宮司さんが、新車のお祓いをしていらした。

 デモンストレーションの終わったあとは、普段神社に飾られているだけという真剣のお手入れ見学。神社に刀があるとは、思っても見なかった。わたしもJPも居合をやったことがあり、真剣には興味がある。ゾエはテーブルの上の真剣の横にあった、お菓子箱にチェックを入れており、ちゃっかりお菓子をもらって帰ったのであった〜。おはずかし〜。

 神社のあとは、いざ、山川の浜児ヶ水まで〜〜。キク栽培農家に嫁いだ、友人に会いに行くため。きれいに並んだ菊の枝を、丁寧に手で摘み取って行く作業が行われている最中だった。いっしょに剣道部で遊んだ(?)彼女が、花栽培のプロになっているとは、感心するばかりだ。植え付けから育てるとのことで、最初から出荷までの過程を熱心に聞いた。母はお花が好きだし、JPは農家の人を相手に仕事しているので、とても興味深く質問していた。
 彼女のハウスのすぐそばでは、別な同級生が地熱発電を利用した大掛かりなハウスで、胡蝶蘭の栽培をしているのだが、こちらは4年前に見学したので、今回は通っただけになってしまった。

 友達から、きれいな菊をたくさんもらって別れたあと、地熱発電所に行った。無料で入所できる。ここには地熱発電を始め、様々なエネルギーについて勉強できる、楽しい博物館が隣接されていて、子供たちは、実際に体験しながら、電気の生まれ方や、配電の仕組みなどを学んだ。一時間半ぐらいたっぷり遊んだ。

てんちの杜 ふたたび・11月7日



 家族で日本に帰ったら、絶対に連れて行きたいと思っていたところは、いろいろあったのだが、なんといっても《てんちの杜》には行かねばならないと思っていた。大雨が降ったり種子島に行ったりしたので、《てんちの杜》に行くのがのびのびになってしまった

 子どもたちの学校が終わって、母の病院も終わってから出掛けたので、ずいぶん暗くなってしまった。案内役の従兄が待っていてくれた。この従兄は(も)いろいろやっている。指宿で、縄文の森をつくろうとか、ゲンジボタルを育成しようとか、菜の花マラソンでダブル・フルマラソンをやろうとか、いろいろだ。以前からこの日記でもこの従兄は登場している。

 数日前に同級生と飲み会をやった時に、この夏《てんちの杜》で野外コンサートがあって、ゲンジボタルが飛び交う中でのコンサートは、じつに感動的だったと、(もと?)ミュージシャンのミオが言った。今年の2月に帰った時には、ゲンジボタルが捕食するカワニナを放すせせらぎを作っているところだった。せせらぎはじつは《人工》のもので、ポンプを動かすために太陽光発電のパネルをつけようと募金を募っているところだった。友だちのはなしで「蛍が飛んだーってことは、つまり《てんちの杜》がうまくいってるんだ!」ということなので、ぜひ見に行きたいのだった。

 小さいころから何度も母と揖宿神社に来たことがある。でも、裏まで入ったことはなかった。
 神社裏の杉林を片付けた時に出たスギ材で作った、とってもよい香りの野外コンサートのステージと、真新しい太陽光発電のパネルができあがっていた。地域の子どもたちが米作りを終わった田んぼと、カワニナが育つせせらぎも。大雨で溢れた池を神社の宮司さんであるコウノさんがお掃除中だった。フワフワと不思議な歩き心地のウッドチップを撒いた散歩道が続く。
 大きなちょうちょが飛んで来る。

 「このチョウチョは台湾までも飛んで行くんだよ。このチョウチョの羽に名前を書いてそれがどこで観察されたか、各地の人とやり取りもできるんだ。このチョウチョが指宿に寄ってくれるように、わざとチョウチョの好きなこの木や、そして次のシーズンに戻って来た時に喜んでもらえるようにあの花を植えているんだよ。」
 従兄が教えてくれる。その情熱の熱さを感じる、くわしい解説だった。
 蝶、花、木の名前も忘れてしまって情けないのだが、ガイドの従兄が説明してくれたおかげで、子どもたちにとっては素晴らしい課外授業となった。(大人たちにも)

 その杜には、絶え掛けている古代の木や、区画整理などで移動を強制させられていた木々、昔ながらの指宿の木々草花が丁寧に心をこめて生かされていた。まだ若い森なので、木々がまばらだ。でも、木が大きく育って枝を広げることを計算して、となりの木との距離をちゃんと広くとってある。秋を前にそして夕方の暗がりの中で、林はひっそりとしていたが、夜の間にどんどん伸びるトトロの木が思い浮かんだ。

 縄文の森をつくろう会のメンバーと、夜の《呑んかた》をしましょうと誘われた。

2008/11/20

合掌してみる




 ゆうべは、頭が痛く寒気もしたので、早い時間に本だけ持って、ベッドに入った。日本で買った《アジアンタムブルー》にした。
大崎善生の本だったので。

 東京に着いた日、成田エキスプレスが到着する池袋駅で、わたしを待っていてくれた友だちは、東急百貨店の下に大きなスーツケースの入るロッカーを見つけて待っていてくれた。わたしたちは百貨店の中にあるお豆腐屋さんで、ちょっと遅いランチを食べ、この夏急死した彼女のお母さんについて話した。彼女のお母さんは大変健康そうな人だったのに、「お姉ちゃん、お母さんが死んだんだって」という電話を、ある日突然弟さんからもらうことになった。自覚症状もなかったのに、いきなり苦しくなって、家族が集まる前に息を引き取ったお母さんは、ただの肺炎だった。この姉弟のご両親は、数年前から東京医大の解剖研究室に献体することを決めていらして、当時同意を求められてサインしていた筈の子どもたちは、お母さんが息を引き取るその日まで、《献体》という単語さえすっかり忘れていたという。お母さんといっしょに献体希望を提出していたお父さんの言葉で、再びその現実がよみがえった。
 「お母さんの遺志だから」
 わたしの友は長女だったので、家族を代表して東京医大に電話した。
そのあとどんなことが起こるか、知る由もなかった。

 お迎えはあっという間に到着。病院の地下の遺体安置所で簡単なお礼を言われ、お母さんは自宅に帰ることもなく、お棺にも入れられず、白いシーツにくるまれて、トラックの荷台に積まれ、医大に運ばれた。
「いつ戻って来るの?」という質問に,医大の人はこう答える。
「たくさんの遺体が、解剖を待っているのです。お母様の遺体が解剖されるのは3年後になります。3年の間、医大の冷蔵庫の中で待っていただきます。それでは、ありがとうございました。」
お母さんが倒れてから、医大のトラックが去るまで、あっという間だった。お葬式もやっていない。

 それ以来数ヶ月経ってなお、「なにも」解決できていないその友人と、なんともつらいお別れをしたあと、わたしは別な友人《か》と再会した。

 ロッカーに入れたスーツケースもあることだし、この辺は《か》もよく知らないというので、「じゃあ、このデパートの中のどこかに座ろうか」ということになった。わたしたちは、なんとなく、上へ、上へと向かい、そしてなんとなく、屋上に出た。
そこはなんとも不思議な空間だった。
 雑然と並んだ、不揃いなテーブルや椅子が、東京の空のもとに転がっていて、歳もバラバラな正体不明な人たちが、勝手な方向に身体を向けて座っていた。子どもたちは走り回っているし、椅子の上にかばんを載せたまま、ふら〜っとコーヒーを取りに行く人もいる。遠く海外から来て、久しぶりに会う古郷の友だちに、紙コップのコーヒーでごめんねとか。。。普通は思われるのかもしれない。。。。でも、その友人《か》とは、昨日もおとといも会っていたような気がしていたし、この人に会うのは地下の煙たいカフェなんかじゃいやだと思っていたので、わたしは、この屋上のパイプ椅子と、このシチュエーションをとっても愉快に思っていた。

 《か》は、コーヒーカップを運んでくれながら、「ここは、『アジアンタムブルー』の屋上だね」と言った。
だから、わたしは、一週間後に仕事が終わって、ゆっくりしてから一人で本屋に行き、大崎善生の『アジアンタムブルー』を買った。

 その場所は、孤独というものが自分の周りを月のように周回していることを確かめるためにあるような空間だった。急に賑やかになったり、突然静まり返ったりを不定期かつ無秩序に繰り返すその広場で、ぼくはいつからかありあまる時間をやり過ごすことを覚えるようになっていた。
 空は広く、適度な緑があった。(a.b.1の書き出しを抜粋)

 わたしが東京で一人暮らしをしていたあの頃に、この場所を知っていたら、きっと、ここに来て、一日中でも人の流れを見ていたかもしれない。

 あの日、あの場所で、友人《か》と紙コップのコーヒーを飲み、そして彼が『アジアンタムブルー』と言ったのには、そうか、わけがあったのかと、わたしはゆうべ、いきなり、そう思った。
わたしは、あの日、あの場所で、もっと『大崎善生』という作家の、名前の方に注目しなければならなかったのだ。そして、ある大事な人のことを、思い出して、気に掛けて、電話するべきだったのだ。

 じつは、その3日前に、帰国のためのスーツケースをやっと準備して廊下に片付けたあと、機内持ち込みにするバッグの中に入れていく本について悩んでいた。手元には最終選択肢に挙げられた2冊があった。今回は友人『か』といっしょに秩父の地蔵尊巡りをするつもりだったので、向学のために、飛行機の中で『日本の神々と仏』という新書を読んでおくことにした。
 もう一冊は大崎善生の『将棋の子』というノンフィクションで、これをプレゼントしてくれた『てーさま』には、今回はお会いできそうもないので、とりあえず急いで読まなくても、今度会う時に(おそらく来年早々に)感想を述べられるよう、準備しておけばよいだろうと言うことにして、その本は持たなかった。まだ時間があるから。

 わたしは飛行機の中で『日本の神々と仏』を読み、勉強し、翌日友人《か》といっしょに秩父の山を歩いた。とても清々しい日本での日々が始まり、そして、無事に終わった。念願かなってうれしかった。《か》と、ずいぶんいろんな話をし、話を聞いてもらい、自分たち以外の人たちのことも心配したり、彼らのためにお祈りしたりした。過去のことを打明け合い、今のことを語り、これからの夢や希望について語った。

 わたしたち家族は10日にフランスに帰国した。これまで2回の帰国でお会いした《てーさま》には、今回に限って会わず、「今度帰国した際にはきっと会おうね」と約束したからと思って、滞在中に電話さえしなかった。それが、《てーさま》は11日に倒れ、13日に息を引き取り、次の週末にはお通夜もご葬儀も終わっていた。週末にはわたしたちは預けてあったボボを迎えに行っていて留守だったので、日曜日の夜にやっと日本からのメールを見て、ただただ驚くばかりだった。

 昨日、《てーさま》の《兄じゃ》からメールを頂き、妹さんの最後の数時間について書かれたブログを紹介された。
いつも《てーさま》はわたしのこの公開日記を楽しみにしてくれていて、気になったらすぐに書いたことへの意見をくださった。ただ、わたしがアイバンク登録のことを書いた時、彼女は何の意見もくださらなかった。臓器提供について話し合ったことはない。なので、彼女がドナー登録をしていたことも、まったく知らなかった。
http://blogs.yahoo.co.jp/sasuraino777/55907485.html

 太陽のような人だったのだ。面白い話題を見つけるのが得意で、その表現力と言ったら天才だった。笑ってしまう。どんな状況も、よく目に浮かんで来て、そしていつも大爆笑をしていた。
例えば、今、彼女と話ができたら、「みのさん、死後の世界ってのはですねえ〜」とか、「あの息が絶える瞬間、なにを見てたかっていうとですな」とか、すごくリアルにお話を聞けそうな気がするのだ。「こんなはずじゃなかったわよお〜」とか「ミーさんのチョコレートもう一回食べたかったなあ〜」とか、苦笑いしながら頭をかいてる姿も見える。
 そんな彼女の身体の一部が、11歳の少年にも希望を与えたことを知る。11歳の子を持つ親としては、もう、この人には、ありがとうという言葉しかない。生きるということや死ぬということについて。笑うということや、感謝するということについて。《てーさま》のおかげで11歳の我が子と、たくさんたくさん話している。

 『アジアンタムブルー』が、死にゆく恋人を見守った青年のはなしであったということには、昨日気づいた。これもまた、なにかの暗示だったのかなとおもったりするが、今さらどうしようもない。

風呂だ、風呂〜

 今回の旅行では、JPは大衆浴場に行かなかった。ど〜しても、イヤだと言い張った。たしかに、変なガイジンが田舎の風呂屋に行けば、じろじろと見られるに決まっている。それに、一人で行っても退屈なんだそうだ。

 指宿の実家では、温泉が出る。蛇口から、塩ッ辛い温泉が出る。母は月々何百円だかを、温泉主に払っていて、使いたい放題だ。ご近所にのぼりの上がっている売りの住宅地でも《温泉付き》などという看板が出ている。指宿の海岸に行くと、砂浜から湯気も出ている。

 自宅に温泉があるのだが、それでもやっぱり《お風呂屋》に行って泳ぎたい(?)のが人情である。こどもたちはお風呂が大好きだ。
昔ながらのお風呂屋もあるのだが、一番近所でしかも《大浴場》と言えば、《菜の花館》のお風呂。その横には、4年前にはなかった《こころの湯》というお風呂があって、泡のお風呂やサウナやとにかく今はやりのお風呂らしい。いま流行のお風呂屋と言えば、彦根でもそういうお風呂屋に行った。
 電気風呂(そのゾーンに入ると、いきなり身体がしびれる。快感)、香水風呂(お花の香り)、露天風呂、サウナ、水風呂、寝風呂(単に寝てるだけ)、ダイエット風呂(ジェット噴射のお湯に身体を揉まれる)などなどがあり、お風呂上がりは、そのままゲームセンターと居酒屋に続いている、レジェーセンターだ。こういうところは《お風呂屋》ではあっても《温泉》ではないかもしれない。

 
 わたしたちは、《菜の花館》の中にあるお風呂に行ってみることにした。そこだったら4年前に行ったことがあり、自動販売機で切符を買うやり方も、ロッカーのカギの掛け方も、ちょっとは覚えているので。
いやあ〜大当たりだった。客がいっぱい入ってる人気の大浴場の隣、にあるお風呂屋は、穴場だったのだ。
だ〜れもいない。。。
 子どもたちは大喜びで泳ぎまくり、露天風呂でも歌いまくり、水風呂の水をぶっかけ合い、泡風呂で脚を伸ばし切って、流れに身を任せるままに流されることもでき、シャンプー使い放題。脱衣所ではすっぽんぽんで歩き回り、時間を掛けてドライアーを使った。いっやあ〜、楽しかった。お風呂はやっぱり貸し切りが一番。

 と、いうわけで、2回目もまた、《菜の花館》へ。そしてまたも貸し切った。

 翌日は名古屋に一泊したのだが、最終目的はなんといっても、中部国際空港内にある《やすらぎ湯》。ここもまた閉館30分前に行ってしまったために、飛行機の発着を眺めることのできる楽しい大浴場が、貸し切りだった。
 JPは、彦根のビジネスホテルみたいに、個人の家庭よりも大きめのお風呂が、空港のホテルにもあると思っていたらしく、そこでひとり楽しく、のんびりお風呂に入れると思っていたのだそうだ。
 けれども実際には、わたしたちが泊まった空港の横のコンフォートホテルっていう、ビジネスホテルのファミリールーム(ベッドが3つあって、幼児は無料で添い寝できる。値段の割にとってもよいホテルだった)には、大浴場はなかったのでJPはがっかりしていた。彼はは日本の最後の夜に、ユニットバスの小さなバスタブの中で、シャワーなんか浴びることになっちゃって、お気の毒だった。

《次回》は、JPも名古屋空港の《やすらぎ湯》に閉館30分前に連れて行って、貸しきりを味わわせてあげようと思う。

2008/11/18

ありがた迷惑

 空港でホッとして、まず、行くところと言えば、トイレ。18年ぐらい前にひさしぶりに帰った日本で、最初に入った空港のトイレで、水の流し方がわからず、いきなり焦った。そのころから都会のトイレはオートマチック化されていて、蛇口のない水道を持つ日本のトイレは、とっても《進んで》見えた。駅では《カチカチカチ、、、》と永遠に続くかのような、切符を切るはさみの音もまだ響き渡っているころだった。

 4年前に家族と帰った時、お尻を洗ってくれるトイレが普及していて、それは4年の間、ノエミの「日本って言えば。。。」ではじまる語り草になった。ゾエは4年前の記憶がほとんどなく、ノエミが「日本のトイレは」とあんなに熱く語って聞かせていたのに、具体的にどんなトイレなのかよくわかっていなかった、らしい。

 ゾエにとって、今回の旅行以来、トイレというところが恐ろしい場所となった。
まず、飛行機のトイレ。ものすごい勢いで、激しい音を立てて、吸い込まれるXXX。。。恐怖心のせいか、飛行機酔いをしてしまい、トイレで吐きたいのに、トイレには行きたくない。
あの狭いトイレに、いちいち「いっしょに入って〜、中で待ってて〜」と言われる羽目に。

 そして、やっと地に足がついた空港で、いきなりお尻を洗われてしまったゾエちゃん。
あれは、すごく怖かったらしい。
トイレのドアをそろそろ〜っと開ける。薄めに開けてまず確認するのは《洋式》か《和式》か。
和式だと、となりのドアへと走り去る、走り去る、走り去る。そして、やがて、奥のほうにただひとつの《洋式》にたどり着けば、ラッキー。ただ、《洋式》を見つけても、入るのを戸惑っている。
「その辺にあるボタンを触りさえしなければ、お尻、洗われないから」
と言ってあげると、やっと勇気を出す。
「ドアの外にいてよ」
と言って入って行く。
「音姫」の使い方まで知らないので、ゾエの用を足す音が聞こえる。それと同時に「ハアああ〜〜」と気持ちのよい声まで。。。

 ある日、病院の最新式トイレに入ったゾエは、なかなか出て来ない。様子を見に行った母が、大笑いをしている。その横には、泣きじゃくるゾエが。。。

 「ひゃ〜〜ン。頼みもしないのに、おしり洗われたあああああ〜〜〜」
「パンツも濡れちゃったんだけど、それ言ったらプライド傷つけるから、見てないフリして。。。」と母が耳打ちする。

 編入することになった丹波小学校のトイレは、昔は《ドッポン》で、青い手と赤い手にお尻を拭かれるといううわさまであったので、どうしよう〜〜と思っていたら、《和式》ではあったが、水洗に変わっていた。ほっ。たすかった〜〜。

 ゾエは、フランスに戻って来てからも、トイレに入るのが怖くなった。
トゥールーズの空港で、「和式かな?」と言ってドアを開けているし、「洋式」だとわかっても「お尻洗わないかな?」とつぶやいている。「フランスにはそんなものないんだから」といくら言っても、このごろはトイレ恐怖症。困ったものだ。

 日本を最近旅行したフランス人はみんな、お尻を洗ってくれるトイレや、便座のあったかいトイレに感嘆する。そしてなによりも感動的なのは、トイレットペーパーの使い口(?切れ目?)が、いつも三角に折ってあって、次に入る人への心遣いが見え隠れすることだ。いや、あれは実に感動的だ。
 ただ《音姫》だけは理解できないらしい。

ま、そうだろう。

2008/11/17

 ありがとう。



 晩秋ムードたっぷりの、寒〜いフランスに戻って来ました。
空港・駅・バス停に迎えに来てくださった方、見送りに来てくださった方、滞在中、ごちそうしてくださったみなさん、こどもたちにお土産やお小遣いをくださったみなさん、面白いお話、貴重なお話を聞かせてくださった、多くのみなさん、いっしょに笑って、いっしょに食べて、呑んだみなさん、泊めてくださった方、いろんな場所に連れて行ってくださった、たくさんの方々。。。
本当にお世話になりました。ありがとうございました。おかげさまで、とってもよい里帰りとなりました。

 旅行の模様は、これから少しずつ、記録に残して行くつもりです。写真もたくさん撮りましたので、見ていただきたいと思います。

 連絡できなかった、会うことのできなかった方、すみませんでした。

また会う日まで、みなさんどうぞお元気で。

 今回に限って会いに行かず、そして、次回帰っても声を聴くことのできなくなってしまった、太陽のような《てー》さまに、大きな後悔とともに、合掌を捧げます。わたしの旅行記をいつもとっても楽しみにしてくださったあの方に、笑っていただこうと張り切っておりましたが、今はなにから書いてよいやらわかりません。《会いたい》人を後回しにしてはいけなかったのです。そして、行きたい場所には行っておかねばならなかったのだと、気づくのであります。

 ふるさとにまた、心を残してきました。また取りに帰ります。

また会う日まで、お元気で。と言える幸福にありがとう、ありがとう。

 そして静かに。。。合掌。。。秋に逝くあの方へもまた、ありがとう。

2008/10/13

帰ります



 金曜日の朝市で、栗を見かけたので、日曜日は絶対に栗拾いに行くぞ〜〜と意気込んでいた。
いっやあ〜〜。あった、あった。
至る所にいがぐりが落ちていて、あっというまに、大粒の栗がビニール袋三枚分になった。
 いつも帰りはぐずるゾエが「え?もうUターンするの?」と言っていた。
いつも、とことん最果てまで歩くJPが「だって、もうずいぶん拾ったから、この辺でUターンしないと、帰りが大変だよ。」と言っている。わたしは「よし、いま帰れば、おやつの時間に焼きぐりが食べられるゾオ〜」と思ったので、どんどん先を歩いた。
 帰りはドングリを拾った。ドングリでコマを作るのが大好きな従兄がいるので、フランスのドングリでもコマが作れるかな〜と思って。ドングリなんか、スーツケースに入れても、叱られないだろうか?コートのポケットに《金のなる木》の葉っぱを入れて持ち帰ったこともあるので、大丈夫だろう。《金のなる木》はフランスで息を吹き返して、元気に育っていたのだが、その年の初霜にやられた。
 ノエミが、《ドングリの木》をお土産に持って帰ろうよと言っていたが、う〜ん。。。これはポケットに入れるには、ちょっとなあ。。。とりあえず、考える。。。

 JPが焼きぐりを用意する間、わたしは栗の皮を剥いた。月曜日は栗ごはんにしようと思って〜〜。

 日本に帰る前に、この一ヶ月で体重落とそうと思ってがんばって来たのだが、2キロ減ったけど、見た目、ぜ〜んぜん変わらない。
日本に帰る前に、みのりの秋が来てしまったのも、問題だ。
日本に帰る頃には、しっかり食欲の秋も定着しているだろう。

10月15日から11月10日まで、日本の秋がたのしみ。
指宿は10月27日から11月10日まで。
とりあえずご報告。でも、予定はすでにびっしり〜〜〜。

2008/09/29

過ぎた日の日記も どーぞ

 よそでやっていた公開日記の、2007年分と2006年分を、こっちに引っ越した。
気づいている人など居ないと思うが、一度書いた日記は、何度も読み返したり、削除・追加・修正もたびたびやっている。
2005年度の分は、一度手違いで消去されたのだが、従兄のおかげでプリントアウトされて母の手元に届けられていた束が、母の家に残っていたので、全部パソコンで打ち直しちゃんと復活した。こちらも近いうちに、この同じブログに引っ越すつもり。読み直しながら、いろんなことを反省している。

《のぞみの本》というタイトルで、自分の仕事について、別なブログにまとめてみた。《ちょっと寄り道》からリンク
せんでん、せんでん。
 

栗はまだ














 秋空が気持ちよかったので、日曜日は森に出掛けた。
栗がそろそろ?と思っていたのだが、栗はまだまだ!だった。
ひたすら歩き、ただひたすら歩き、カロリーを消化し、肺と脳みそを浄化し、子どもたちと植物観察や、動物のフン観測をし、ボボを走らせ、ノエミを走らせ、ゾエがぐずり始める前に、駐車場まで戻って来た。夕日は落ちていなかった。
 前からおしゃれなカップルがこちらに向かってくる。おしゃれな犬を、森の中でさえ歩かせず、大事そうに抱っこしている。
「チャペルまで遠いんでしょうか?」とわたしたちに訊いた。
「10分ぐらいですよ。いってらっしゃい」
とJPがカップルと犬を送り出してから、子どもたちはプププと笑って、「30分は掛かるよね〜」と小さな声で言い合った。
 「のぼりは30分。くだりは10分」
JPは、自分は嘘はついてない、と言い張っていたが、子どもたちは「パパはうそつき〜」と笑い合っていた。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 月曜日には、いつもの通りジョギングを。
考え事をしていたので、途中ボボが居なくなっていることに気づかなかった。おろしたての筆みたいなボボの白いしっぽが、草っ原の蔭に見え隠れしないか、じっと目を凝らし、耳を済ませる。
 朝日に向かってまぶしいので、ひさしの代わりにかざした左手の、腕にはめたスワッチの時計が、チッチッチッと規則正しい時を刻んでいて、とくとく波打つわたしの心臓に「落ち着け、落ち着け」と言っているようだ。
 朝ご飯を探して飛び回る鳥のにぎやかな声と、遠く、遠くを走り去る通勤の自動車の音が聴こえる。
何十メートルもの丘の、ずっと下のほうに、ウサギのようなものを追いかける、ボボに似た小動物が見えたような気がして、そちらをじっと見つめると、おろしたての筆のようなしっぽが、草の蔭を行ったり来たりしていた。
 困るなあ〜。
いま登って来たばかりの丘を、降りて行く間に、ボボはどこか違う所に行ってしまうかもしれない。
 叫ぶ。
が、無視。
反応、なし。
ど〜しよ〜。
 しばし、その場でじっとしていた。ジョギングを続けるべきか、いま来た道を帰るべきか。丘を土手から駆け下りるか?
決心して、道路のほうに戻ろうとしていたら、ボボが、草むらからにょっと出て来た。
叱ってやるべきか、はたまた、褒めてやるべきか。
 
 「帰るよ〜」
帰る途中でもまたボボが行方不明になってしまい。さっき叱っておかなかったことを後悔するのであった。。。

 こんなボボを、旅行中にいったい誰が面倒見てくれようか。悩むなあ〜。 

2008/09/24

開聞岳(かいもんだけ)



 ときどき、指宿以外のところに住んでいる友人たちと、自分たちが持っている古郷の写真を交換し合っている。
こんな写真、同級生ではわたしぐらいしか持ってない!と思う。ふんっ!
13年前にJPが撮ったもの。(わたしも登ったよ)
右手後方に、池田湖も見えてる。
ちなみに開聞岳には、タイガー・なんとかもやって来たゴルフ場がある。 

吊り橋計画



これは、錦江湾の指宿市海上に浮かぶ、1日に1度歩いて渡れる《知林ケ島/ちりんがしま》の裏にある《小島》




 13年前に、JPと彼の両親を連れて指宿に帰った。
その時には、指宿と鹿児島と大分と京都と大阪のホテルに泊まった。
日本にはじめて来た両親のために、いろんなところを観光した。
わたしはフランス人の隣に立っているだけで、「あの人、日本人なのかな?」と思われていたらしい。どこに行っても「外国の人かも?」と思われている様子で、わたしに向かって丁寧に説明してくれたり、優しく話をしてくれた。
 どこに行っても「日本の人は優しいなあ〜」としみじみ思った。それを一番強く感じたのは、生まれ古郷の指宿でだった。

 指宿の人間が、わざわざ指宿のホテルに泊まることは滅多にないのだろう。わたしは「よその人」と思われていた。みんながんばって「標準語」で話しかけてくる。「よそから来た人」のために、指宿のよいところをアピールし、行ったらいいよという所を教えてくれ、おいしいものを出し、せっせと世話を焼いてくれた。指宿の人たちは本当にこの土地を愛していて、大切に思ってくれているんだなあ、と思い、心が温かくなった。指宿に行ったことがないという人がいるといつも、行くようにアドバイスしている。こんな親切な人たちのもとには、また帰りたくなる。そこに、おいしいものも、いい温泉も、美しい自然も残っていてくれたら、きっとまた来たくなるに違いない。その四拍子が揃っているところは、どんどん少なくなっているのだから。

 そのあと9年帰れなかった。4年前に帰ることになった時、とっても怖かった。
そして心配した通り、いろんなものが変わっていた。
 住んでいた所も区画整理のためなくなっていたし、お隣さんも幼なじみもバラバラになっていた。
ノエミが入れてもらった小学校には、各学年にひとクラスずつしかなく、子供が14人しかいなかった。わたしが通っていた小学校も昔は6組あったのに、今では3組しかないらしい。学校開放で訪ねた高校も、学生が少なくてひっそりしていた。商店街やお店には高齢者が目立ち、ちまたで言われている少子高齢化がこんなにはっきりと確実に、地の果て指宿まで浸透しているとは、驚くばかりだった。

 友人からの知らせで、《指宿の池田湖に、吊り橋ができる》というニュースを知った。
歩いて渡る吊り橋で、観光名所にしようという計画らしい。

http://373news.com/modules/pickup/topic.php?topicid=2&storyid=12781

《総事業費は約25億円で、つり橋を含む1期分が約21億円。資金は個人投資家や投資会社からの調達を想定》とのことなのだが、「な〜んだ、お金持ってる人たちがやってくれるんなら、ラッキ〜」という問題じゃない。
 お年寄りがどんどん増えている町で、そして、その傾向は日本中で広がっているというのに、数年先、その橋を渡るのはいったい誰になるんだろう?近い将来、その橋が錆びて、池田湖の上を寂しく風に揺れている風景を想像する。想像できる。そんな場所、指宿にはいくらでもある。25億円ものお金をもっと未来のために使ったらいいのに。このような発想が生まれる現実が、とても空しく思えた。自然に触れ合ってもらいたければ、もっと自然に近づくべきなのに。いったいどうなっているんだろう。

 この数日間、このニュースのせいで悶々としていたら、揖宿神社の隣の土地で《てんちの杜》をやっている従兄から、こんなメールが届いた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 「てんちの杜」に、ステージと太陽光発電を建設中、9月末にどちらも完成の予定です。10月19日にこのステージで「かがり火コンサート」計画しています。太陽光発電は、子供達の環境の勉強になれば良いなーと思っています。
今、「なのはな館」の西側の池とアシ原を守ろうと、活動を始めました。(草刈りをする、看板を立てる、定期的に観察会をするなど)今日の夕方仲間の10人ぐらいで、とりあえず野鳥の観察に行きました。いろんな野鳥がいました。これから寒くなる冬が楽しみです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜
数ヶ月前に、「太陽光発電の装置を設置するお金がもう少し足りない」と言っていたのに、よくがんばって実現できたんだっ!かがり火コンサートは外してしまったが、この秋、野鳥観察には参加できるかもしれない。
 ちゃんと守ってくれる人も、すぐそこにいてくれる。みんな、がんばってね。
わたしも、ポジティブに行くよ〜。冬を楽しみにした経験はないので、今年の冬は《野鳥観察》を趣味にしようかな、と思った。

2008/09/22

スピード違反

 車の運転が好きだ。
運転しろと言われれば、どんな遠くまでも運転する。
セネガルにいたころは、四輪駆動も運転していた。あのころはタイヤだって交換してたし、タイヤが砂にはまっても、へ一ちゃらだった。(もうできないだろうなあ)
 保険会社の安全運転講習会にも行ってる。スリップした車を2回転させたあと、進行方向に向かってまっすぐ停止させて、エンストせずに再発進させる技だっていちおう習った。(でも実際の事故ではエンストしちゃったけど)

 JPに言わせると、わたしはスピード狂なんだそうだ。そりゃあ、出血多量で貧血してるダンナや、テラスで滑って、お椀ぐらいのたんこぶを作る娘などがいると、どんなカーブも恐れずに、30分掛かる農道でも、15分以内で走れなければならなくなるノダ。

 市街は30km/hから50km/hぐらいで走らなければならない。当然だ。自宅は大通りに面しているが、学校のそばなので制限されている。そこを時速100kmでつっきるオートバイなどがあると、そりゃあ腹が立つ。
 高速道路は晴天時、最低110km/h、最高130km/h。
雨天時は90-110km/h。
しばらく前に空港までお客さんを迎えに行った際、ミーさんの車に便乗したら、6速で150km/h出していた。飛ぶように走る。(そして気持ちがよろしい)途中別れて自分の車で、待ち合わせをしたミーさん宅に行ったら、ミーさんが到着しておらず、5速しか出ないわたしのほうが早く着いてしまったので、ミーさんがびっくりしていた。わたしは近道だって知っているのだ。でも、道はよく間違う。道は、高速道路よりも、田舎道のほうが好き。だから本当はのんびり走るのだって好き。坂道発進だって上手なんだから。フランスでオートマチック車というのはとっても珍しい。レンタカー屋さんにも置いてないことが多い。知っている人でオートマチックに乗っているのはJPのお母さんぐらいだ。
 
 地図は読めない。方向音痴。だから、遠くに行く時にはJPが助手席で地図を開いて、わたしが運転する。こういう時には、わたしはちんたら走る。JPが横でうるさいので。家族の安全は大事。後ろに乗っている子供にも、必ずベルトを締めさせてきた。子供にベルトを強制できない親は、無責任だと思う。

 先日商工会議所で会議があった日、午前中ゾエを友人宅に預けていたのだが、迎えに行く約束の時間に遅れてしまった。会議室で一番奥に座っていて、抜けられなかったのだ。なのでわたしは、市道も県道もブッチギリで走ってしまった。我を忘れて走った。ただひたすらにまっしぐらに、ただただ走った。
 《我にかえる》という言葉が聴こえたとき、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。じつは、今でも、あの日の、約1km分の記憶がない。《我にかえったわたし》は先ほどスピードに注意せずにレーダーの前を通過してしまっていたのだということに、いきなり気づいた。70km/hに制限されている一直線道路で、この先そのまま走ってたらレーダーに引っかかるんだよ〜と親切に表示のある場所。レーダーの隠れている五本目のプラタナスの木には、ちゃんと誰かが描いてくれたマークまで入ってるのに〜〜。その100メートル前で車線変更もしたはず。いつも、その車線変更でスピードを落とすことになっている。
「レーダーの前を通過したとき、いったい何km/hぐらい出てたんだろう?」と思いながら帰って来た。

 さてさて、その二日後にはスピード違反の請求書が、こともあろうにJP宛に届いてしまった!
車はJPの名前なので。。。ちゃんと車のNo.などなども、読み取ることができるとは優れものだ。
 68ユーロ払ってください。
15日を過ぎると45ユーロ加算されます。
45日以上支払いがない場合は108ユーロ加算されます。
こんなことならもっと記録的な数字で違反になればよかった。。。と思うぐらい「こんだけ?」の違反だった。(アンタ、そんなこと言って)
「通過時のスピード 77km/h」
もっと飛ばしてしまったのだとばかり。。。50キロオーバーでも一律68ユーロなんだろうか?請求書は税務署からの直通だった。

 JPが黙って小切手を切った。彼が《黙って》いるというのは、とっても怒っているということだ。(うれしい時も黙ってる人だけど)

 ところで通知の紙の下のほうに「免許の点数が引かれるますヨ」と注意書きがあるのだが、免許の点数が引かれるのも、JPなんでしょ〜か。だったら助かるにゃ〜。JPはどうせ車には乗らないんだから。

 「ガソリンも、違反も、車を遣わないおれが払ってる。点数まで引かれた。売ってしまおう!」と言われる日が近い。そんな日はいきなり来るだろう。相談なしで。意見を言う間もなく。

 ノエミが横で「車の代わりに馬を飼おうよ」と父親を誘っている。
あぶない、あぶない。 

乗馬クラブ へ

 ゾエはもうクラブに入会したので、わざわざ行かなくてもよかったのだが、乗馬クラブの開放日では、無料でいろんな体験ができるというので、ノエミまで張り切っていた。
 去年1年間乗馬をやらなかったノエミは、ズボンもブーツも、もう身体に合わなくなってしまった。
友だちが「みのりさんも乗馬始めたら?」と言って強引に一式置いて行った乗馬用具の中から、ズボンはノエミにもぴったりだったので助かった。
 
 2時半から入場開始だったのに、3時に到着したらもう人がいっぱいいて、ポニーの広場には行列ができていた。でも、ヘルメットを持っていない子供たちや、はじめて馬のそばに来たので怖がる子供たちもいたため、ゾエをどんどん横入り(?)させた。
乗せられたはいいけど「降りる」と言って泣きはじめた子の後ろに並んでいたおかげで、あっという間に順番が回って来た。
 ポニーをクラブの外に出し、草原や一般道路を歩かせた。クラブのお姉さんたちが綱を持ってくれるので、道を外れていきなり道ばたの草を食べ始める馬も、文字通り手綱を取ってもらえた。 
 ゾエ、得意になっている。

 毎週水曜日にいっしょにクラブに通っているポールも、家族でやって来た。お母さんのロランスはPTAママ会の友だちで、ポールのお兄ちゃんたちは一人がノエミと同じクラス、もう一人は1級上で、《ようせいかんぶどう》っていうのをやっている《日本好き》少年だ。2人は金曜日の夜我が家でノエミといっしょに日本語の勉強をしている。
 「わたしは馬が恐いのだ」
と、ポールのお父さんのジョゼフに言ったら、
「なに!?みのり、サムライのくせに、馬が怖いのか?」
と言われた。
 こんな大きな動物。。。おとなしくて、噛んだり吠え掛かったりもしないとはわかっているけど、わたしは馬が怖いのだ。大きい動物なので。。。それに頭よさそうだし。馬に馬鹿にされたら?ちょっと怖い
 子どもたちはぜんぜん怖がらない。
ノエミは落馬して骨折したこともあるし、足をふんづけられて、蹄の型押しをされたこともあるのに、ぜんぜん怖くないんだそうだ。
 
 ノエミは、大きな《本物の馬》に乗るんだと、長い行列の後ろでしぶとく待った。
その間にゾエは、大きめのポニーにも乗ったし、ヴォルティージュという競技のまねごともした。ヴォルティージュという単語は、空中遊泳とか、サーカスのすご技を連想させるが、大きな馬の背中に乗って、手を離したり、馬の背に立ったり、しっぽをつかんだり、後ろ向きになったりするものだ。そのあとカレッシュという小さな3人乗り馬車も、ポールといっしょに体験した。
 ロランスが子どもたちに飲み物を買ってくれたので、すっかりお祭り気分。(ロランスはビールを飲んでたよ)

 ノエミが「わたしもまた乗馬をしたいなあ」と盛んに言っている。親としてはまず経済的な問題を乗り越えなければならない。それに音楽学校のふたつのレッスン(ヴァイオリンとソルフェージュ)もやめたくないと言うし、学校の宿題は多いし、日本語の勉強もさせたい。気の毒だけど、もうちょっと待ってね、と頼んでいる。もう少し「中学2年生」の生活に慣れて来て、宿題も自主的に、ヴァイオリンは言われなくてもするようになったら考えてやる。。。とは言っているが、自分の中学時代を振り返ると、すごく難しい注文だと思う。
 
 冬になったらクラブに出て来る子供が激減するので、途中からでも入れてもらえると思っている。ただ問題は、中学生のクラスは土曜日の朝ってこと。今年から小学校も水曜日に続いて土曜日も完全休校になり、土曜日は早く起きなくてもいい日なので、子供が朝から出掛けるとなると、わたしも朝から出掛けることになるんだよなあ〜などと思わずにはいられない。

2008/09/19

雨ニモマケズ














 予想されていた雨は、ぜんぜん降らなかった。
朝市には、やっぱりキノコは出ていなかった。
ブドウとリンゴが出始めた。リンゴはフランスのかな?
でも、いちばん大好きな「シャント・クレール」種のリンゴはどこにも見当たらなかった。
時間がなかったので、コーヒー豆屋とパスタ屋まで行けないまま自宅に戻って来た。
夜はリッシャーの野菜を取りに行く日なので、朝市では野菜はまったく買わなかった。

 月一回行なわれる「農場でのお食事」の日だ。アマップのみんなが持ち寄って、いっしょに食べる。
ポティロンとパティッソンが残っていたので、ふたつを茹でて、グラタンにした。チーズの代わりに、崩したお豆腐を入れた。
寒かったので、リッシャーが作った大根の実と葉っぱだけの素朴なスープが、とってもおいしかった。
わたしのグラタンはすっかり冷めてしまっている。
リッシャーの農場ではコージュとかポティロンと言われるいろんな種類のカボチャがある。
先々週届いた深緑色の硬い皮をした、中がほくほくのポティロンは、ひき肉といっしょにしょうゆ味で煮込んだら、とおっても日本風なおかずになった。
 わたしは家族に「このポティロン、なんだか日本の懐かしい味がするよ」と言いながら、ちびちびと4回ぐらいに分けて料理した。みそ汁にも入れた。

 リシャーに「あのポティロンはなんという名前なの?」と訊いたら、「カボチャ図鑑」を持って来てくれた。そこには「KABOCHA」という名前のポティロンの写真が出ていた。
なんだ、カボチャだったのか。。。



 カボチャの他に、今週は「韓国のトウガラシ」もあって、リシャーがわたしに、「キムチ」を作らないか?と訊いた。でも、わたしは本物の「キムチ」を食べたことがないし、ニンニクがあまり好きじゃないし、どうせ子どもたちは食べないし。。。あまり作る気がしないなあ〜と言ったら、「いずれにせよ、うちの畑では白菜ができないんだよなあ」とリシャー。土や気温のせいだろうか?何度も挑戦したが、白菜ができないんだそうだ。
 白菜があったら、お漬け物もできるよね、というはなしになったので、リシャーが、わたしのために白菜を作ると約束してくれた。
 もうひとつ「グリーン・ナントカという名前のカボチャ」をもって来て、わたしに見せながら、「このカボチャも大きくならないんだよ」と言っている。このカボチャ「Green Hokkaido グリーン・北海道」という名前なんだよというので、JPが「気温のせいなんじゃないの?北海道って、シベリアのそばなんだよ。寒いところのカボチャなんじゃないの?」などと言っていた。

 雨が降らなかったので、リシャーは残念そうにしていた。
わたしのほうは、雨が降らなかったので、挫折せずにちゃんと今週もジョギングが続けられた。

 アマップ会のブログを作ろうよということになったので、今日はたくさん写真を撮った。お楽しみに。
レシピも載せようと思っている。
リシャーが、豆腐と納豆をいっしょに作ろうよと言った。JPは、手作りビールの作り方を教えてと頼んでいた。

2008/09/18

暴風雨の予報

 昨日は一日中、商工会議所の新学期会議だった。
さて、今年は日本語学習者が集まるだろうか?
数年前は大学の第三外国語でも教えていたのに、近年は、中国パワーがニッポン力を圧倒している。オリンピックもあったことだし、今年もまた日本語レッスンには、生徒が集まらないだろうと、わたしは予想している。

 今年は、フランスと日本の交流150周年だそうで、パリや日本各地の大都市では、両国の交流を深める催しが盛んに行われている、らしい。今年の始めには、パリでも「薩摩焼」の展示会があった。招待状が来ていたものの、残念ながら行けなかった。パリは遠い。

 JPは、労働組合の会議のために、ゆうべからパリに行っている。
夜行列車で行き、お昼の今ごろは、わたしが作って持たせたピクニック一式を、労働組合仲間と円陣組んで、パリのどこかの芝生の上で食べているに違いない。
 JPがいない時には、わたしたちは手作りじゃないピザと決めているので、本日は夜まで気楽〜〜。
こんばんJPは、パリの弟たちと夕飯を食べてから、夜行列車に飛び乗り、明日はそのまま仕事に行くんだそうだ。タフだなあ。

 今日は朝から暴風雨の予報だったが、まだ降らない。指宿の母から情報では、向こうでも台風が勢力を振るっているらしい。フランスでは台風はないが、この夏、フランス北部では大きな竜巻に見舞われて、ものすごい被害だった。アメリカもそうだけど、年々、台風や竜巻の威力と、集中豪雨の集中力度が、アップし続けているように思う。

 商工会議所で隣り合ったアメリカ人英語教師のジェームスが、「ゆうべ、恋人のパトリックと日本映画を観た」と言って話しかけてくる。ジェームスは商工会議所で一番の仲良し。「とっても感動的な映画だった」「家の中では靴を脱ぐんだねえ〜」と、興奮して語ってくれたが、映画の日本名がわからなかった。ジェームスが、布の切れ目のまつり方について訊いてくるので、会議もそっちのけで、裁縫講座となった。ジェームスとは、金曜日の朝、カーモーの朝市でよくすれ違う。ジェームスとパトリックはカーモーから70キロも離れた、すごい田舎に住んでいて、畑では野菜も作っている。カーモーの朝市には、気晴らしと「恋人と揃ってお出かけムードを味わうため」と、お魚やチーズを買うためにわざわざやってくるのだ。

 「みのり、あした朝市に行く?」と言う。
「毎週行ってるよ。ジェームスは明日はなにを買うの?」
そろそろキノコを買いたいんだけど、大事な時に雨が降らなかったから、キノコがぜんぜん見当たらないそうだ。そういえば、朝市でまだキノコを見ていないなあ。そろそろキノコ狩りにも行かねば。
 「明日は、どうしようかな。ジャネットにトマトをこんなにもらったから、トマトソースを作ろうと思っているんだ」会議中の机の下から、トマトがどっさり出て来る。

 日記を書いている間に、空が暗くなって来た。
所狭しと出した洗濯物を、片付けるとしよう。

2008/09/15

あたしらしいあたしのあたらしいあしたのあさ






先週から、走っている。

 今朝は走りはじめた午前9時頃、10度ぐらいで、吐く息が白かった。
1枚目は霧に包まれるサン・ブノワの町。
2枚目は、走りながら右手に見える風景。コルドの方は曇っている。
3枚目は、南に向かって伸びるジョギングコース。はるか彼方まで道が続いてゆくのが見えるので、走る人間の心理状態にはあまりよろしくないような気もするが、毎日ちょっとずつ距離を伸ばしている。何キロ走ったのかはわからないけど、15分地点でUターンした。時間ないに、先週よりも遠くまで走れるようになった。

 油断するとボボがいなくなる。毛虫かウサギの糞を踏みそうになる。
危険はそれくらい。車もオートバイも入って来ない道なので。

 1月に剣道の試合に出ることになったので、体重を落とさなきゃ〜と思っている。
いつも走りはじめには、いろんなことを考えているが、途中で何も考えられなくなり、帰って来る頃には頭の中は真っ白になっている。走ることがこんなに気持ちがよいとは知らなかった。(持久走はいつも仮病でパスしてた)

 前にも紹介したことがある、大好きな詩。

   あした(石津ちひろ)
 あしたのあたしは
 あたらしいあたし
 あたしらしいあたし

 あたしのあしたは
 あたらしいあした
 あたしらしいあした

マイペース、マイペース。

2008/09/14

映画館へ〜




 映画で始まり映画で終わった一週間だった。

 我が家でテレビを見るのは、わたしだけだ。
好きなテレビ番組のシリーズは、刑事ものと検死ものと、科学警察ものと、オカルト映画と、病院で繰り広げられるドラマものと、それから宇宙人やら幽霊が出て来る。。。もの。21時以降に限られる。恋愛ものとフランスの連続ドラマは好きじゃない。

 この前友だちに「みのり、どんな映画が好きなの?」と訊かれて、こっちが応える前にJPが横入りをして応えた。
「みのりは、血みどろのとか、恐怖映画が好きなんだよ」
友だちはびっくりしていた。
だから、なに?
テレビでは、16歳以下は視聴禁止というようなマークがついているものが大好きだ。じつは。
だから、なに?
でも、うちには衛星放送のパラボラアンテナも、ケーブルもないので、まあ、テレビではろくなものをやっていない。

 子どもたちはJPのお母さんの家に行くと、衛星放送で一日中アニメをやってるチャンネルがあるので、テレビの前に座ることが多くなる。でも、衛星放送は番組が多すぎて、プログラムはあるのに、お義母さんはリモコンを一度手に持ったら、片っ端から切り替え続けるので、どの番組も途中からしか見れないし、最後まで見れない。子どもたちは移り変わり続ける画面をあとに、別な部屋に行っておもちゃで遊び始める。わたしとJPは、お母さんと子どもたちが寝てから、そっと居間に行ってテレビを点け、16歳以下はお断りの、例えばこの前の休暇で行った時にJPと2人で観た映画は『シャイニング』『フレディー』『羊たちの沈黙』再放送など。血みどろスプラッタ映画。わたしがぎゃーぎゃー叫びながら、顔に当てた手の平の隙間からこわごわ見るのを、JPはフレディーよりも冷たい視線で眺めている。たまに「怖いならもう寝たら?」と言う。「またうなされるよ」泣いたり笑ったり叫んだりするのはわたしだけ。JPが泣いたり笑ったり叫んだりすることは滅多にないんだけど。

 余談だが、『フレディー1』は短大の時にアルバイトをしていたグリーンピア指宿の社員寮で、女友達と観た懐かしい映画だったのだが、これに、今では有名人のJhonny Deppが脇役で出ていた。この前再放送を見てはじめて気づいた。ジョニー・デップのSweeney Toddという映画は、血みどろで恐ろしかった。JPと2人で映画館で観たのだが、テレビで観るのとはさすが迫力が違った。

 JPは、どちらかというと映画館に行くのが好きで、私たちはよく映画館に行く。こどもと行くのでアニメーションが多い。
カーモーの小さな映画館では、パリのように長〜〜いCMはなく、時間になるといきなり始まる。しかも、いつも貸し切り状態。

9月7日(日)クンフー・パンダ : 笑った。
 日本からのお客様をトゥールーズにお送りして、疲れ切って帰ってきてから映画館へ。居眠りするかと思いきや、笑いが止まらず寝る暇もなく。

9月14日(日)WALL-E : 途中で寝てしまった。
 土曜日の早朝午前2時と3時に国際電話で起こされ、眠れなくなって6時半まで起きてた。それが後を引いたか日曜日は疲れていて、居眠りしてしまった。こどもたちは楽しんだらしい。

 

2008/09/12

念願の乗馬クラブ




 1年生になったらね、と約束していたので、水曜日のあさ乗馬クラブに連れて行った。
同じクラスのポールもやりたいというので、いっしょに。

 一昨年までノエミが乗馬を習っていたクラブなので、ゾエもよく知っている。先生もノエミのことをよく覚えていて、「ノエミものみこみが早かったけど、ゾエもなかなか筋がいいぞ」と褒めてくださった。

 ノエミも乗馬をまたやりたいのだが、ヴァイオリンもソルフェージュも続けたい。
ヴァイオリンを習っている国立音楽学校は、入会金が272ユーロで、ヴァイオリンのレンタル料が年間70ユーロ。
1週間に1回ずつ、ソルフェージュとヴァイオリンの時間がある。
 9月はちょっと出費も激しく、大きい子のクラスはもういっぱいだというので乗馬は我慢してもらい、冬にクラブに出て来るこどもが激減する時期に、入れてあげられたらいいなと思う。
 乗馬して骨折しても、まったくめげていない。どうやら馬が大好きらしい。

フランスの子どもたちは、一般的に全国で乗馬を習っているこどもが多い。バレーボールとかバスケットボールよりもずうっとポピュラーなスポーツで、女の子に人気が高い。特に馬を人形みたいにかわいく飾り付ける(三つ編みしたり)のが好きらしい。

 乗馬クラブは、ちゃんと全国規模のスポーツ協会に登録されているので、登録費(保険込み)で年間36ユーロ、クラブ入会費用が年間86ユーロ、それプラス1時間に10ユーロのレッスン料。

 わたしは今年は音楽はやらない。剣道だけ。
剣道クラブの、全国スポーツ協会への登録費用(保険込み)で年間32ユーロ、剣道連盟に支払うお金が年間187ユーロ。遠い町まで行くので、ガソリン代も掛かる。1月には試合に出る予定。

 ものすごい出費だっ。

 JPは昔セスナ機の免許を持っていて、毎週クラブでセスナに乗っていたらしい。飛行機が大好きだ。でも、セスナ機のクラブはとおおっても高いので、本人諦めている。わたしは翻訳料が入ったらJPをセスナ機のクラブに登録してあげようと思っていたが、日本に帰るチケット代が3人分で3153ユーロと請求が来た。翻訳料じゃ全然足りな〜い。
ひゃ〜〜。

2008/09/09

ようこそ その3


トゥールーズ名物、カッスーレ
白インゲンと、ソーセージとカモのお肉を煮込んだもの。レストランで食べようと思ったら、20分以上待たされる。
アツアツで、表面はカリカリとしている。スプーンで表面をバリッと割ると、湯気が立ちこめた。
そんなあったかいものがおいしい、涼しい一日だった。
カメラを買っても、絶対に、レストランで自分のお皿の写真を撮ったりなんかしないと、心に決めていたのに。。。つい、日本人女性につられて、写真を撮ってしまった〜。クセになったらどうしよう〜。

 前日に、アルビ観光ができなかったので、午前中はアルビの市街を歩いた。朝市もやっていて、フォアグラやおやつにするパンや、夜のデザートにする果物を買った。ウサギが丸裸にされて、冷蔵庫に横たわっているのを見て、朝市で「ギャ〜」と叫ぶ日本人女性団体からは、ツツツと離れて、他人のようなふりをした。

 11時頃になってやっと決心して、トゥールーズへ。
ミーさんのトゥールーズ支店にご挨拶に行き、チョコレートを試食して、チョコレートを買った。お店の店員さんは「お金をいただいてもいいんでしょうか?」と言っていたが、前日に、アルビでミーさんの奥さまがたくさんくださったので、今日の分はどうぞお金をもらってあげてくださいと言った。みなさん遠慮しなくてもいいので、あれやこれや選んで、いっぱい買ってらした。わたしは、JPと子どもたち用に《薔薇の味のチョコレート》を買うつもりで、8個袋に入れてくださいと言ったら、マダム・エンドーにはいつもお世話になっているから、と、お金を受け取ってもらえなかった。なので、他に欲しいと思っていたチョコレートについては、「これも」と言えなくなってしまった。

 トゥールーズではちょっとショッピング。みんなで別々に行動することになったので、わたしもちょっとお買い物した。こどもも連れずに、一人でのんびりトゥールーズでショッピングするなんて、あり得ないので、うれしくって、うれしくって。でも、いざとなったら何をやればいいやら。。。こどもの服なんか買ってた。ああ〜待ち合わせの時間が〜〜。
 
 最後の夜は、《フォンデュ・ドゥ・フォマージュ》をご用意いたしました。
最後にかっこよく決まりだね、と思ったら、
「わたしも、うちでやります〜〜」
とか言われたりして、今どきの若い子は、みんな、いろいろ知っているのだなあ、と思った。
チーズにも詳しいし、ワインもじゃんじゃん飲んでるし、レアのお肉でも、カモの砂肝だって平気だし。。。世代が違いますね。「お米が恋しい」とか言わないし、スーツケースに《永谷園》も連れて来てないし。本当に食事がらくちんだった。こんな気軽な人たちだったら、いつでもお越し頂きたい。
 出すものなんでも試食してくれて、感動してくれて、嫌いなものは嫌いと言ってくれて、朝寝坊せずになんにでも好奇心を持って、歩くことにも文句を言わず。。。とってもよいお客様がただった。

また来てね〜。

ようこそ。その2

夏休みが終わってから、ついにカメラを買った。やっと出番が来た。
上から
1)トゥールーズ・ロートレック美術館の裏庭。イギリス風庭園
2)教会の回廊
3)カーモー駅(トゥールーズからロデツ行きに乗って一時間。アルビからはひと駅先)


ようこそ〜。その1


 サント・セシル大聖堂(アルビ)

 日本から3人の若いお客様。みなさん女性なので、「雑魚寝でいいよね」というわけで、わたしの寝室にソファーベッドを入れて、3人で一部屋に寝ていただくことに。JPに「サーディンの缶詰みたい」と言われたが、気にしない、気にしない。
 お土産は、キティーちゃんグッズでしょ。ふりかけ一式でしょ。串木野のさつま揚げでしょ。そして、角餅バリバリせんべいまで!
「泊めてやるから、土産をよろしく」と言っておいてよかったのである。しかも、お嬢様がたのボスからは「うちの娘たちをよろしく」と、お小遣いまで預かって来てくださってた。友だちを泊めるという感覚だったので、思わぬ報酬に胸がときめく。報酬に見合うようなおもてなしができるのか!?。。。いきなり緊張。。。(じつは軽く考えすぎていた)

 トゥールーズ空港からカーモーに向かう自動車。夕暮れ時で、もう暑くなかったので、クーラーはないけど涼しくてよかった。ひまわり畑ももうすっかり闇に包まれてしまった。残念。でももう枯れてるし。
ライトアップされたアルビ市内も一周して、夜の10時頃我が家に到着。

《ニース風サラダ》をご用意いたしました。
「きゃあ〜、すてき〜!!」
あらあら、こんなもんで感動してもらえたら、楽なもんです。これからの数日間がお楽しみ。

 彼女たちは遊びに来たのではない。
チョコレート屋さんのミーさん(去年の9月と今年の2月の日記を参照のこと)の所で、まじめな取材やら会議やらが待っている。親善大使なのである今晩は、お疲れのところ申しわけないが、夜のミーティングと明日の打ち合わせをしなければならない。
 オレンジのお花のエキスを垂らした、ベルベンヌ・ハーブティーを煎れた会議が終わるころは爆睡間違いなし。

 遊びに来たんじゃない人は、ちゃんと早起き。やはり爆睡だったらしい。フレンチな朝ご飯をご用意いたしました。
「きゃ〜、かっこいい〜!!」
あらあら、ゆうべ残ったパンのトーストと、コーヒーとオレンジジュースだけでこの騒ぎ。わたしだったら「フランスのお母さんは早起きして、みそ汁やお弁当を作らなくていいから、ラッキーですね」と言ってしまうだろう。

 さすが、日本の若い女性は、仕事となると服装も化粧も全然気合いの入れ方が違う。
ゆうべあんなに遅くて、今朝はこんなに早かったのに、バリバリに気合いの入ったお化粧をしている。日頃から、お手入れに対する姿勢も違うのだろう。わたしも一張羅を出してみた。が、夏休みに焼けすぎて、素肌も美人な若い人たちに並ぶと、わたしなんぞは「インドネシア辺りの朝市のおばさん」って感じだ。お願いだから、写真を撮らないでえ〜。(といくら言っても、なんでも写真に撮ってるし。。。)
 さて、ミーさんのアトリエへ。

 ミーさんったら「ええ?10時じゃなかったのお〜」と焦っていた。約束通り9時に行ったのに〜。
ラボは夏休みの間に改装されて、ピカピカになっていた。
この日、「ちらっと会議」だと思っていたら、9時からお昼を挟んで夕方の5じまで、みっちりお仕事だった。女の子たちは、くまなくメモを取り、写真を撮りまくり、ミーさんにたくさん質問し、チョコレートやケーキを山のように味見して、ミーさんご夫妻や、お店の人たち、そしてアルビの町に、すっかり惚れ込んでしまったようすだった。
店に入るときと出たときでは、目の輝きが違っていた。
アルビ観光をさせる時間がなかった。

 夜は《キッシュロレーヌ》をご用意いたしました。
「キャ〜うっそお〜?本場のキッシュ〜〜?」
いや。。。まあ、そうですけどお〜。。。そんなに期待されると。。。緊張しますです。
キッシュだけじゃ恥ずかしくなったので、サラダもご用意いたしますです(昨日と同じ野菜でごめんね)

 金曜日は、JPが農場に野菜を取りに行く日なので、3人のうち2人は、JPといっしょにリシャーの農場に出掛けて行った。1人は家に残って家事のお手伝いと、うちの子たちのゲームのお相手を。21歳でバリバリ働く一人暮らしのお嬢さんが、家事と子供の世話までやるなんてことは、ふだんはないでしょう。フランスで花嫁修業までさせてしまった。ごめんね。

                    つづく

2008/09/04

新学期 2

 昨日から中学もはじまった。
ノエミは「ゾエは喜んでるけど、わたしは学校に行きたくない。中学生のかばんは重い」と、ばあちゃん宛のメールに書いていた。
 朝は空っぽのかばんで出掛けたが、教科書が配布されて、かばんはパンパン、破裂寸前の13キロで帰って来た。
教科書は「貸し出し」制。年度の始めに配布され、おのおのでカバーをつけて使用し、2009年の6月に学校に返す。教科書によっては1997年度から使われているものもあったが、書き込みなどは一切ない。

 わたしは、本を読む時に、線を引いたり、折り曲げたり、途中で休む時には読んでいたページを開いたまま裏返しにする。何冊もの本を同時に読むので、家中の至るところに、裏返しになった本が転がっている。
 この前フランス人の友だちに頼まれて、本を貸してあげるよと言ったら、横からJPが、「みのりの本は、びっくりするくらい汚いよ。書き込みがいっぱいあるから読みにくいよ」と友達に言っていた。そんなところを見られていたとは思わなかったし、書き込むのが悪いことだとは思ってもいなかったので、ショックだった。
 JPは、本には絶対に書き込みをしないし、とても大切に扱うが、中学生のレンタル教科書を見ていて、こういうところで仕込まれたのかな〜、と思った。
 
 ノエミは、大親友のエステルとは同じクラスになれなかった。小学校からずっと同じクラスだったので、とても残念がっている。研究発表も、宿題も、連絡事項の忘れも、よく助け合っていた。
 エステルのお母さんは獣医さんで、わたしなどよりもはるかに物知り。子どもたちの研究発表に、わたしの分までアドバイスをしてくれるし、彼女との会話は難しい言葉に溢れていて、実に知的で、ノエミがエステルのうちに遊びに行くと、夕方うちに戻って来たとき、娘の頭が良くなってるような気がして、わたしはノエミがエステルと仲良くできるのを、とてもうれしく思っていた。
 同じクラスじゃなくて、わたしもちょっとがっかり。
 一夜明けて、学校前で交わしたママさん仲間からの情報によると、同級生で「仲良しの子と同じクラスになった」と喜んでいるこどもは誰もいなかった。先生たちが故意にバラバラにしたのだ、とのうわさだった。

 ノエミのクラス担任は、ゾエの仲良しの子のお父さんで、名字が ムッシュ・ロワ(ROI/王様)という、英語の先生だった。ムッシュ・ロワは、当然のごとく《ミスター・キング》と呼ばれている。耳にピアスをしていて、(耳以外の場所にもしてるかも、しれない)頭はツルツルだけど身なりは高校生みたいで、陽気でおしゃべりかなり演技派で、気安くできる雰囲気があって、明るくおもしろい人なので、子どもたちに人気がある。が、ママさんグループからは、ノリが軽すぎ、いい加減で休みが多いというウワサもある。
 ゾエの入学のとき、小学校の校庭で、わたしにわざわざ挨拶に訪れたミスター・キングは、ノエミの受け持ちになってとっても嬉しいと言っていた。

 ゾエは、新しい先生大好き。学校は広くて走るところがいっぱいあって大好き。友達いっぱいいて大好き。ポエムを習った、暗唱できるよ。先生が本を読んでくれた、とても面白い本だった。名前を書かされたけど、ちゃんと書けてほめられた。忘れ物をしてほかの子は泣いたけど、自分は泣かなかった。(今日じゃなくても良かったので)などなど、実にポジティブな新学期第一日目だったようだ。

 本日、日本から三人のお客様あり。若い女性三人なので、日曜日までとってもにぎやかになりそう。
こども達はお昼は学校の食堂で食べてもらい、ゾエは夕方授業が終わってからJPが迎えに行くまで学童に行かせる。ノエミは去年から家のカギを持っていて、自分で勝手に出入りしている。
 さて、掃除と片付けは終わった。これから、夕食の支度をして、午後空港までお出迎え。
 

2008/09/02

新学期


 
フランス人のこどもは「ピース」はしない。


 今日から新学期。
ゾエは今日から小学1年生になった。
入学式もないので、あまり感動がない。
親でも一張羅を着ていたのはわたしぐらいだった。
仕事を休んでこどもを送って来た親も多かった。はじめてのこどもが1年生に上がったという若い親たちは、かなり緊張しているようだった。
わたしはけっこう余裕〜♪
 制服も、お揃いのかばんもないので、かなり自由。夏のバーゲンで、秋の終わりまで着られる服を一通り買いそろえた。バーゲンでは来年の夏物を揃える人が多いが、子どもたちの体型がどうなるかわからないし、年によってこどもによって必要なものも異なるので、わたしはバーゲンでもそうじゃなくても、必要な時に必要なものしか買わない。靴も買えばよかったかな、と今朝になってから思った。夏の間、ずいぶん大きくなってしまったのだ。

 中学も小学も、6月の学年末に「学用品リスト」をもらう。今年の小学1年生のリストは以下の通り。
− 色鉛筆12色
− フェルトペン12色
− ノート一冊(連絡用)
− ティッシュペーパー1箱
− のり
− はさみ
− 鉛筆
− 定規
− バインダー

教科書はない場合が多く、教科書のコピーや練習問題を直接ノートに貼ったり、バインダーに挟んでいく。

ゾエは夏休み中に、JPの両親の家に行っていたので、リュックサックを買ってもらった。ここ数年の流行は、タイヤ付きのかばん。旅行かばんのように引っぱって歩く。流行に流されて、義母が一度買ってしまったが、歩道や階段など、ずいぶん不便なので、ゾエにはリュックを買ってあげた。クラスの半分ぐらいのこどもがタイヤ付きのバッグだった。「運転」に慣れておらず、ぶつかったり、立ち往生したりしているこどもが多かった。

 9月1日の朝は毎年肌寒い(15度前後)ので、夏休み中に、レインコートと軽い秋用のコートと、トレーナーとカーディガンも買った。お昼ごはんに帰って来た時に、30度近くあがっていたので、午後は夏服に着替えて出て行った。お昼に帰るこどもはいいが、食堂で食べるこどもは、午前と午後の気温がこんなに違うと大変だ。

 入学式もないし、教室を覗きに行くことも許されないので、クラス分けの名前を呼び出されたあと、校庭でお別れとなった。先生と話をする暇もなかったが、近いうちに会議があるとのこと。

 ノエミが小学校に入った年は、夏休みの間にゾエが生まれたので、ノエミは夏休みにずっと祖父母の家に行っていて、学用品も新しい服もすべて、義母が買いそろえた。
 去年の新学期は、ノエミが中学に上がったのに、わたしは仕事のために日本に行っていて、この大事な日を、こどもたちと一緒に過ごせなかった。JPは休みをとっていたけれども、ずいぶんパニック状態だったようだ。前日や当日に、揃っていないものや不都合なものが、出て来ることがある。

 中学の新学期は明日から。わたしも中学で日本語クラスをもつ予定なので、学校に出て行ってみるつもり。夏休み中には何も連絡が来なかったので、もしかしたら日本語クラブの話はなくなっているかもしれない。

 ゾエは校舎を替わっただけで、同じところにあるジャン・ジョレス小学校だ。家から歩いて3分。同じクラスに、仲良しのマリーン、マリー、ジュスティン、ポール、アントワヌ、マテオ、イネス、イッサム、ソレーヌ、マチルド。。。みんないる。

 お昼に帰って来た時には、「小学校なんて、全然難しくない」と言っていた。一日目だからね〜。

2008/08/29

夏休みの終わり

 
 

 
 
 三軒先に住んでいたメリオッサンがトゥールーズに引っ越してしまってから、はや一年が過ぎようとしている。たまに電話が来るが、今回はいよいよトゥールーズにご招待となった。マリンに招待されているゾエをカーモーに置いて、わたしとノエミはトゥールーズへ。

 ノエミをトゥールーズに送ったついでに、ネクトゥーさんの顔を見に行った。
いっしょに般若心経を読み、仏様に関する本を借りた。
このまえ来た時忘れていた、お数珠のブレスレットを腕にはめたら、心なしか元気出てきた。
ネクトゥーさんとたくさんお喋りして、家のお掃除をしてから帰宅した。ネクトゥーさんがゴミ出しや、郵便受けや、鳥の世話や。。。たまっていたあれこれを言うので、後回しにしたトイレのお掃除を結局忘れて戻って来てしまって、それだけが心残り。

 次回はちゃんと朝から行って、ネクトゥーさん自慢のシーフードカレーを食べるのだ〜。
ネクトゥーさんが飼っているネズミ(じつはねずみ取りを避けて走り回るネズミに情が移って、エサまであげてる人)にも会えるかもしれない。台所でネズミを飼わないで欲しいと思ったが、ネクトゥーさんのやることには、もう、わたしはびくともしないのだ。


 8月は義弟一家のあと、今度はJPの親友一家が来ていて、とってもにぎやかに、あっという間に過ぎ去った。JPには世界に2人しか友だちがおらず、その2人ともが信頼できる大親友だが、JPは電話も苦手、このごろは筆無精と来ているので、長いこと音信が途絶えていた。ダーバス一家の2人の少年も、12歳と13歳になっている。ちょっと怖い、五年ぶりの再会となり、わたしは前日にちゃんとノエミの同級生宅を訪ね、中学生男子がどんなものをどれくらい食べるかについての調査をし、また、中学生男子が好きそうなビデオを借り、中学生男子に受けそうなギャグを練習した。どきどき。我が家に中学生男子が二名もやって来るのだ。

 心配していた通り雨も降ったが、自慢のカーモー朝市も見せることができたし、なにより、1年に1回の盛大なサンプリヴァ祭りに重なったので、移動遊園地や外食も体験できた。キャップデクベートのスポーツ施設で、人工芝スキーとゴーカートと、ミニ・ゴルフとアスレチックも体験できたし、湖でのピクニックも楽しめた。

 みんなが帰ってしまい、ひさしぶりに本日は、メリオッサン宅に泊まったノエミを外して、残り三人で朝市に出掛けた。心なしか朝市の人口も減っている。田舎に里帰りしていた都会人たちが、夏休み終了を前に帰ってしまったのだろう。朝市には年寄りしか居なかった。売る側も、夏休みを取りはじめているのか、トラックの数が減っていた。JPはチーズと果物を買った。夜には農場に野菜取りにいく。