2012/03/20

わたしは調理師です

去年一年間、調理師の学校に通って、高級レストランでの研修も15週間ぐらいやって、夏に調理師の資格をもらった。そのときのクラスメートが一人、カーモーのレストランで働いている。もう一人の調理師が病欠で、長期来れなくなったというので誘われた。病欠で休んでいる調理師は、バツイチで4人の小さな子どものいる、若いお母さんなので、職を失いたくない。だから、知ってる人が代わりに来てくれたら、彼女のための席も、残しておいてあげられるというものだ。わたしはと言えば、翻訳の仕事がちょっと片付いて、アルバイトをしたいなあとも思っていたので、一ヶ月の臨時アルバイトで引き受けた。子どもが4人いる若い母親の労働時間は、わたしにも都合が良かった。

 月・火・木曜日はお昼のサービスだけ働いている。つまり9時半にレストランに行き、下ごしらえなどをやって、働いている人たち3人(シェフと奥さんとウィエイターさん)とゆっくりお昼を食べて、12時からだいたい14時半まで働くことになっている。金曜日に関しては、昼のサービスと、そして夜も。3月は一ヶ月の間に金曜日が5回あるのだが、第1週目はパリに行くことが決まっていたので休み、第2週目は水曜日の夜に働くことになったので金曜日は休みがもらえた。第3週目の先日は、そんなに忙しくなくてラッキーだった。あと2回残っている金曜日が、ミソだ。忙しくありませんよ〜に。

 昼は、そんなに忙しくない。「フー、大変だったね」という日もあるが、それでも15食分ぐらい?テーブルNo.が15までしかない小さなレストランだ。厨房もとっても小さい。研修した大きなレストランは、厨房が1階と地下にあり、1階の厨房には3つのポストがあって、前菜を用意する火のないコーナーと、肉魚を焼いたりするオーブンやガス台のあるコーナーと、デザートを用意するコーナーが分かれていた。それぞれのポストに責任者シェフと見習いがいた。ウエイターは常時5人か6人はいたし、厨房にも同じぐらいいた。洗い物だけをする女の人も働いていて、その人は洗い物のほかに、洗ったものを片付ける役割もあったので、いつも大体同じ場所に同じものが、不足なく整理されて置かれていた。

 こちらは小さなレストランで、厨房には2人しかいないので、あまり走り回ることもない。手に届くところになんでもあるけれども、いろんなものが散乱していて、勝手よくはない。最初は、大きなレストランとあれこれ比べて、シェフの風格やセンスや、知識や技術の差にもちょっと不満があったし、なにかにつけて比べてしまったりもしていた。衛生面とか、設備の違いとか。。。
 でも、ここではわたしはけっこういろんなことを、調理師としてちゃんとやらされている。例えば一日中リンゴやジャガイモの皮をむかされたり、鶏や魚のお腹の中をお掃除させられたり。。。まあ、そういうことはない。シェフは「手っ取り早く自分でやった方が速い」と思うことは、私に命令しないでどんどん自分でやってしまう。わたしが15分で30キロのジャガイモを向く修行をしたっていうことは、まだ披露していない。
 例えば洗い物も。。。。。彼には彼のやり方があって、どうも、人に任せられないたちなのかもしれないし、もしかしたら、わたしが水や洗剤をどんどん使うことも、気に入らないのかもしれない。暇なときなどに、洗い物をやろうかな。。。とウロウロしていると、「いい、いい、それはわたしがやる」と言って、ダッシュでやって来て、洗い物をやってくれる。とりあえず、《調理師》として雇われているし、最低賃金だし、時間には制限があってないようなものなので、洗い物までやらせて訴えられたらどうしようと思っているのかもしれない。

  この小さいレストランで教えられるのは、いかに安く早く工夫して、見た目も美しく、そしておいしい料理で、たくさんの人を喜ばせるか。新鮮な材料を上手にやりくりして無駄なく使い切る。残り物を出さない。残ったものはほかに利用する。。。ということ。作る量も少ないので、レストランでやったことをそのまますぐにうちでも活用している。

 一ヶ月の臨時バイトが終わったら、続けないかと、じつは言われた。でも、4冊目の翻訳の本は、出版社との契約で年内に出版させなければならない。しかも、剣道と料理の翻訳が、著者たちとの約束で待ってもらっている。本当に本当に楽しみなのだ。だから、たぶんあまりお金にはならないけれども、やっぱり家にいて、家で翻訳がやりたいのだ。東京の日本語学校に通っていた頃は、どうしても本屋さんで働きたくてやっと見つけた本屋を動くことができなかった。時給380円だった。仕方ないから、10時から19時まで本屋で働き、21時から翌日の4時までドーナツ屋で働いた。日本語教師になるための勉強もした。昔はあまり寝なくても大丈夫だったけれども、今は、レストランで午後3時まで働いて、夕方6時から8時まで剣道をやったら、夜はグロッキー。さすがのわたしも人間だった。。。。15歳から働いている厨房の世界では、44歳は年代もの。肉体的にとっても大変。よっぽどの情熱がなければできない仕事だ。

 とりあえず、フランスの資格をもらってからというもの、《調理師だったら仕事はいくらでもある。贅沢さえ言わなければ》ということがわかったので、機会を見て、たまには働きに出ようと思う。じつは、「わたしは調理師です」と言うのが、ちょっと楽しくもあるので。なんだかものすごく、自分じゃないみたい。いや、まったくもって、妙。変。すごくおかしい。20年前は、ハンバーグも作れなかったのに。一人暮らしの時に、栄養失調で左腕が動かなくなったこともあったのに。。。。

 家がもう少し大きかったら、テーブルを3つぐらいおいて、全予約制の小さなレストランができるかもしれないよな〜と、思う。がんばって働いて、もう少し大きな家と、テーブルをあと2つ買うか。。。


お休みだった週末に、レストランでJPの誕生会をした。ノエミが頼んだサーモンの包み焼きは、前日にわたしが用意したもの。今の季節は、こういうお皿で、サービスしている。わたしだったらお皿の脇に《サかナ》などと書く。日本語芸がなかなかうけている。

寒かった

二月は、一体なにをしていたんだろう?

寒かった。ものすごく寒かった。
「ヨーロッパ、シベリア化しています!」などとテレビで言っているのに、うちじゃあ、暖房は壊れるし、シャワーは水だし。。。困った。
毛皮を着ているボボでさえ、寒そうでお気の毒なので、毎日家の中で暮らした。毎朝お散歩する公園では、噴水が底まで完全に凍っていた。ちょこっと降って道路脇に積んでいた雪が、溶けることができず、そこに風が吹きつけるので、体感温度はどんどん下がった。毎日、となりの家の煙を吐く煙突にできた、ツララの写真を撮るのが楽しみのひとつとなった。ツララが一本ずつ増えて行くのがおもしろかった。

 2月の最後の週末に、カーモーで剣道の大きな講習会が催されることになっていたので、準備に追われていた。体育館はただで貸してもらえることになったのだが、この寒さではやはり暖房を入れなければ。。。ということになり、暖房費用だけは払うことになった。ただし、当日ことのほか温かい一日となり、暖房なんか要らなかった。でも、お金を払ったので、がんがん暖房を入れて剣道やって、汗を流した。。。田舎にぽつんと立つ体育館なので、昼休みにちょっと外に出てサンドイッチを買ったり、レストランに行く。。。。ということができない。なので、《白悠会》では、5ユーロにてお弁当を用意した。調理の学校の同窓生エリックが、クレープを作るプロの機械を持って来てくれ、一日中クレープを焼いた。飛ぶように売れた。ゾエはバーの係。コーヒーやビールを売って、クラブの収入に貢献した。

 40人ぐらいの参加者があり、その程度ならばお弁当を用意するのもそんなに難しくないこと。みんなの喜ぶ顔を見るのが、気持ちいいこと。。。運営者としての役割も果たせたこと。。。いろんなことがわかった。そしてまた、民宿創立の夢は広がったのだが。。。JPは相変わらずのって来ない。残念だ。

 2月11日から26日までが冬休みだったので、この間に、ナルボンヌの実家にも行った。マザメやサンポンスという山間の町を抜けると、ナルボンヌは春のようないいお天気で、アーモンドの花が咲き始めていた。小さくて、ほのかにピンク色をした花が、道路脇に並んではえている姿は、日本の春の桜並木みたいだ。


 そうそう、四冊目の翻訳本の第一稿を仕上げなければならず、そういう時に限って、数ヶ月ぶりの実務翻訳の仕事も入り、徹夜の日々も続いた。なんだ。。。なにもしなかったわけじゃなかったんだ。。。それにしても、あまりぱ〜っとしたことは、なかったなあ。。。



とにかくただただ寒かった、という思い出しか残っていない二月。