2011/12/31

年の暮れ

12月は,ミーさんのチョコレート屋さんでアルバイトをした。5日は乃恵海の15歳の誕生日だったけど、12日からのお店での仕事準備のために、ミーさんのお店で研修をすることになって、仕事の帰りにミーさんちのケーキをもらって来るということで話しがついた。


乃恵海のお誕生ケーキ、ミッシェル・ブラン《ショコラチン》

 12月12日から31日まで、よく働いた。去年の同じ時期は、レストランの調理場にいて、冷たい、寒い、汚い、気持ち悪い、痛い、慌ただしい、時によっては怒鳴られる。。。という、厳しい調理人人生を歩んでいたので、今年のこの《チョコレート屋さんの売り子》の仕事は、楽で楽で仕方ないっていうほど楽しかった。
 これまでの短い人生で、《動かなくても優雅に暮らせた》ことはあんまりない。外で仕事もしないでメシを喰って来れたのは、結婚してからの約16年で、それでも、まあ、結婚してからおよそ10ヶ月目ごろには、「収入もないのにでかい口を叩く妻」である自分が恥ずかしいと、常日頃、実は、思ってきた。なので、《自立したい》とまでは言わないけれども、「わたしもいちおう家計に参加してるよ〜ん」と胸を張って生きていけたらどんなに素晴らしいだろうと、じつは、思い続けてきた。

 一番好きなことは、翻訳で、ものを書いたり読んだりすることだ。それはわかっている。日本語教師もけっこう向いていたと思う。長く続いたことを考えたら、まあ、捨てたもんじゃなかった。でも、翻訳も日本語教師も、あんまり収入には繋がらないし、収入のことを言い出したら、いい翻訳も、いい先生もできない。

 「一週間に二回ぐらいバイトできたら〜〜」と甘いことを言ってるうちは、仕事なんか見つかるわけがない。翻訳できなくなったら、悲しいので、一週間に二回以上は、外に出るわけにいかない。一生ボランティアでも、剣道だけは続けたいので、月曜日と木曜日には働きませんって言える職場が基本。主婦なので、母親なので、あれこれ注文着ける。金曜日の朝市とか、水曜日に子どもが休みの日とか、やっぱり働きたくないし〜〜。甘い、甘すぎる

 そこに、ミーさんちのチョコレート屋さんで、いきなり妊娠発覚した店員さんがあり、彼女具合が悪くて出勤したりしなかったり。早退も、あり。クリスマスを前に、店内パニック。クリスマス休暇の間だけ、昼夜問わず働ける人募集。。。と言っても、そうそう宛てがない。ミーさんには前から、「チョコレートの工房でアルバイトをさせてください」とか、「ケーキ屋さんでひとでがたりない時には呼んでください」と言ってアピールしていたので、わたしに声が掛かった。ちょうど子どもたちはクリスマス休暇であるし、剣道はお休みだし、「行けます。行きます」とすぐにお返事して、三回の研修のあと、めでたく雇用契約を結ぶに至った。労働局にちゃんと登録してくれて、ちゃんとした臨時社員だ。


 商売人には絶対になるもんかと思っていた商売人の娘のわたしであるけれども、「頭も悪く顔も悪けりゃ、ニコニコ笑って世を渡れよ」と教えられて大きくなった。(あんまり大きくなってないけど)なので、ニコニコするのは得意。無理なくニコニコできる。ニコニコというよりは、失敗もなにも、ニヘラと笑っていればどうにか解決するもんさと身をもって知っているので、けっこう高い成績でニヘラとごまかせる。帽子屋とか洋服屋さんだったら、「きれいですね。お似合いですね」と嘘もつかねばならないこともあるけれども、わたしは嘘はつけないけど、隠し事はかなり得意だ。「似合ってないよ」と思っているのを、声と顔に出さなければよいのだ。
 売るものが自分の大好きなミーさんのチョコレートで、実際に食べて本当においしいと思っているケーキだし、しかも、去年研修したり、四年以上のおつきあいで知り尽くしている裏の作業を、誰よりもちゃんと説明することのできる自信があるので、ミーさんのチョコレートとケーキだったら、セールスが上手なのだ〜。
 ヘマをやったら、「わたしは中国人の移民で、フランス語がわかりませ〜〜ん」というふりをするし、嫌なことを聞いても、意味が分からなかった振りをする。わたしは店員にむいているのだと、ちょっと思った。三週間ぐらいだったら。。。
 

 店員さんは、女性の職場だ。女性ばっかりの職場っていうのは、危険だ。女の世界は、くだらないうわさ話で溢れている。わたしはそのようなテンポのあるオンナたちのおしゃべりにも、ついていけない振りをしてついていかないので、みんなわたしのことを放っておいてくれる。10月に肉離れをしたので、立ちっぱなしっていうのはきつい。毎晩足が痛かった。 自分が社長じゃないっていうのは、なにかと圧力があって大変。「こんなやり方じゃダメだ」と思っていても、「思っていることを全部口に出しちゃいけない」という法則により、黙って見守る。誰にも命令されずに自分のペースで自分が社長兼社員でやってきた今までの自由を考えると、なんて幸せだったんだろうなあと思う。

 ああ、それにしても、毎日チョコレートとケーキの匂いに囲まれ、残り物をもらい、欲しいものは20パーセント引きで売ってもらえる。なんて幸せな職場。難しいことはあまり考えない。計算は計算機がやってくれる。計算ミスは同僚がごまかしてくれる。


残り物。《ソレイヤード》カスタードクリームの中に、マカロンとナッツ類と、アブリコットとリンゴが入ってる。

 その楽しいアルバイトも、12月31日で終了した。次回は1月14日に「午前中だけちょっと来て」と言われている。本当は1月7日にも来てと言われたけれども、「剣道の講習会でボルドーに行く」と言ったら、「あ、そう」と許してもらえた。高い給料払ってるわけじゃないから、相手にも遠慮があるらしい


 店内展示,お砂糖細工、松ぼっくりも砂糖でびっくり〜。


 クリスマスも、大晦日も、ナルボンヌに行かずにすんだ。16年の夢が叶った。慌ただしくもあったけれども、本当に本当に穏やかなクリスマス休暇だった。

 さあ、明日から二学期。。。

2011/11/30

秋の空




 10月の最後の日に、ドレイ先生がトゥールーズを離れ寂しい気持ちでいたところへ、11月は1日の朝にもらった訃報で始まって、とっても辛い秋を過ごさなければならなかった。
 たしかに40歳を過ぎてから同年代の友人たちや親戚の訃報をもらうことが多くなり、そのたびに、なくしたモノゴトの大きさを噛み締めてはきたものの、そのたびに、なくさなければならなかったものに対して、自分にはなにかできなかったんだろうか、なにができたんだろうかという空しい気持ちとともに、なにもしなかったという結論に達して、失ったものの大きさや、亡くした人の大切さをやっぱり感じずにはいられないのだ。

 ヤスタカくんと最後に別れたのは、御殿山のホテルのロビーだった。東京でチョコレート屋さんのミーさんとお仕事したあとに、東京の友達と同窓会をするのが恒例になりつつあり、そのために一泊するホテルはいつもヤスタカくんが取ってくれた。彼がお勤めしていた会社の系列のホテルで「フランスに嫁に行ったいとこのダニエル」ということで安く予約してくれた。ホテルの隣のビルに会社があって、仕事が終わってから、いっしょに同窓会に行くためにホテルに迎えにきてくれた。

 その前の年にも、ヤスタカくんのおかげでわたしはそのホテルに泊まり、そこのロビーで別れたてーこさんは、次の年にそのホテルのロビーに来ることができなかった。くも膜下出血に持って行かれたから。「来年もここで会おうね」って約束したのに。

 「来年もまたホテル予約してね」と頼んで別れたヤスタカくんとは、次の年には会えなかった。ミーさんとのお仕事がなくなって、 そうそう日本に帰ることができなくなったので。でも、この夏休みに家族で帰国した時に、きっと東京で会えると思っていたら、彼は忙しくて同級生との飲み会に来ることができなかった。

 最後に御殿山をいっしょに歩いた冬に、彼は病気のおかあさんのことを心配していた。人の前で弱気を吐いたり、泣き言を言ったりすることが大嫌いだった彼は、フランスに行ってしまうわたしだったらと思ったのか、あるいは《いとこ》だから気を許したか、「悪かね〜こんな話し聴かせて〜。らしくなかどね」と言いながらも、いろんなことを話してくれた。かわいがっている妹さんのことは、本当に愛おしげに語った。高校時代に出逢ったある同級生のおかげで人生が大きく変わったと思っていることや、その友人に感謝していることなど、本人には素直に言えないことを、わたしに打ち明けてくれた。わたしもいろんなことを話した。もうすぐフランスに戻ってしまったら、しばらく会えなくなると思って、べらべら喋った。でもまたそのうち会えるんだからと思って、こんど会った時に気まずくなりそうなことは話さなかった。会った時にまた訊けばいいと思って、残しておいた質問だってちゃんとあった。こんど会った時に言ってあげればいいと思って、言ってあげなかったこともあった

 日本人の男性、特に鹿児島の同級生男子は、友人女子の身体に触れたり、褒めたりすることが下手で、苦手で、はずかしいらしい。でもヤスタカくんは別だった。彼は20数年ぶりに東京で大同窓会をやって再会した時に、みんなの前でわたしを抱きしめた。東京のど真ん中の混雑したバスの中で、わたしたちは大声で鹿児島弁で語り合い、彼はわたしの頭をぽんぽん叩いて、「エンドーさんってこんなに小さかったケ〜?」と楽しそうに言った。ある時の飲み会でわたしの隣に座って「身体が小さくて、おっぱいが大きい子が好き」とか言って、ほかの男子が申し訳なさそうにわたしを見た時、わたしは「女子の前で《おっぱい》とか言える男子は、同級生の中でそうはいないよ、アンタ」とか、「みんなが一瞬申し訳なさそうだったのはなぜだろう」などと、じつはおもしろがっていた。この楽しい《呑んかた》のことは一生忘れないだろうと思っていた。

 あの冬の寒い夜、わたしは赤いへんてこな帽子に黒いコートに茶色のブーツを履いていた。ヤスタカくんは彼の会社から出て来る黒いスーツの男性たちの中で、一人だけ、トレンチコートのような、サファリ・ベストのような、東京のビジネスマンにはぜんぜん見えない、アメリカ帰りみたいな、不思議な服を来ていた。それは茶色と灰色の中間のような色で、わたしの目線の高さに、コーヒーのシミが付いていた。シミのことは見て見ぬ振りをしたけど、いちおう「早くお嫁さんをもらいなさいよ」と、たぶんそんなことも言った。あの冬の寒い夜に彼は変な風邪を引いていたので、わたしはフランスに戻ってからもしばらくは、その風邪の心配をするメールを送り、春になると今度は彼が心を痛めていたおかあさんのことも心配で、おかあさんのことには触れないようにしながらも、「元気してる?」とか「ちゃんと食べてるの?」とかいうタイトルのメールを送りつづけた。

 そしてその春に「がんばるから、そんなに心配しなくてもいいよ」という言葉で締めくくられるメールがきた。長い沈黙のあと、やっときた返事だった。心配せずにはいられない内容だったので、わたしは心配し続けなければならなかった。そして彼は明らかにわたしが心配するのを申し訳なく思っていた。しつこいオンナは苦手なタイプだったんだろう。

 訃報をもらった時に、彼というサムライは、まるで自害して果てたように思えてならなかった。訃報にちゃんと病名が書いてあったけれども、でも、あれほど「自分を大事にしなさいよ」って言ったのに。。。と、心身ともに疲れていた彼を思って、ただただ悔しかった。「苦しみに溺れそうになったら相談するから」と言ったくせに、きっと「どうせ、エンドーさんに言ったって、仕方ない」と思ったんだろうと思って、ぶん殴ってやりたいぐらい腹が立った。自分を大切にしているふうには見えなかった彼の生活のことを思うと、あの明るい彼の暗い部分に、人知れず病魔が忍び入ったんだろうと思わずにはいられず、彼は自分で命を縮めたんだと残念でたまらない。ずっと戦い続けてきた彼は、戦うことを諦めたんじゃないだろうか。苦しくもがいていた彼を知っていて、なにもしなかったものに、友達だったと言えるんだろうか。

 11月はとっても辛い気持ちで毎日が重かったのに、日は昇り、日は沈む。いつもの年よりも、空が青くて高かく、いつまでも暖かい日が続いて、世間は平和そのものだった。毎日が、いつものように過ぎ去る。ここにはだれもいない。生きていてもそばにはいてもらえないし、逝ってしまっても、本当なのかどうなのか現実味がない。もしわたしが死んでも誰にもわからない。彼が息を引き取ったときに、わたしにはなにも聴こえなかったのと同じだ。

 この前の同窓会で、ヤスタカくんには会えなかった。今度帰った時は、「また空港まで迎えに行くよ」って、電話があるかもしれない。本当は、あの訃報は、なにかだれかのふざけた冗談で、「ごめん、残業で遅くなった」と言って、彼は頭を引っ掻きながら、飲み会に遅れてやって来るんじゃないだろうか。遅れた分を取り戻すように、大急ぎでわたしを抱きしめて、「エンドーさん、こんなに小さかったケ?」と言ってみんなを笑わせ、はずかしげもなく「会いたかったよ〜」とか言いながら、わたしの頭をぽんぽん叩き、ビールを飲んで「エンドーさん、この前会った時よりおっぱいが大きくなって、自分の好みにぴったり」とかバカでうれしいことを言うんじゃないだろうか。もしかしたら今年の夏と同じで、こんど同窓会に行った時にも会えないのは、いつものように仕事が忙しいからっていうだけなんじゃないだろうか。

 ヤスタカくんのことを、想う。これまでと同じように、遠くから、想う。
 彼は楽になったんだろうかと、空を仰ぐ。


 またどこかで会えるだろう。その時には、わたしの方がきつく抱きしめてあげよう。そして彼の肩辺りをぽんぽん叩いてあげるのだ。



高校の時に観覧車の中でいっしょに撮った写真を懐かしんで、同じポーズをとってみた。。。ところ(2007年)


ヤスタカくんが大好きだった人が撮って、わたしにくれた写真。
ずっと覚えていたいのはこんなヤスタカくん。

2011/10/18

DENSHI



 免許を持っている指導者たちのグループであるDENSHIの、記念すべき第1回指導者講習会が、ここ、カーモーの、我が《白悠会》の道場にて開かれることになった。免許があって、すでに自分のクラブを開いている人と、そのアシスタントたちを集めることになり、20人限定での募集を行った。普段よく行われている都会の講習会は、市の体育館などを使って、剣の剣道連盟などの支援もあり、無料でしかも参加者のレベルなどは無関係で行われることが多い。今回カーモーで行われる講習会では、主催者側と、講習会を行ってくださるチュヴィ先生の要望で、参加者がかなり絞られてしまういくつかの条件が提示された。おかげで、同じ意志、価値観を持った、やる気のある人だけが、講習会の内容をちゃんと理解した上で、あらかじめ心身共に準備して来てくれたので、量より質の大変濃い講習会になったと思う。

 テーマは、昇段試験の前に、どのように準備したらよいか。あるいは、どのような準備をさせたらいいか。

 今回集まった各地の参加者は、参加資格の条件によって四段以下の人に絞られていた。参加者15人のうち四段は3人。みんな「そろそろ五段を目指した方がいいのでは?」と言われているメンバー。個人的には段はどうでもいいなんて思って来た。試合も。けれども、剣道には「戦闘心》みたいなものがあってこそ生まれるパワーというものがあって、しかも、「切るか切られるか」の臨場感や、数分の中で技を出し切って、捨て身で修練の成果を表現する、、、、試されるという「緊張感」がなくては上達できないと言う人もいるので、それはそうかもしれないと思う今日この頃。五段の道はかなり厳しい。そして、南西フランスのこの地方では、3段以上が不足しているので、こんなことではそれ以下の人たちも伸び悩むのだ。と、いうわけで、このような講習会が開かれることになった。

 三十年以上剣道をやっていて、自分のせいで怪我をしたということは、記憶にない。野蛮な人に突き飛ばされたり、変な所を打たれて痛い目に遭ったことはけっこうある。そういえば一度稽古中に肉離れしたこともあったけれども、あれはすぐに治って、怪我とも思えなかった。でも、いま、脚の裏の腱炎というのに悩まされている。土曜日の稽古で、脚の裏がミシッと音を立てたように、《プッチン》とぶっちぎれたように、痛みが走った。なので、本番の日曜日の講習会では、歩くこともままならないほどだった。どんなに痛くても、道場で痛いと言ったことはない。痛くても剣道やってる時には感じないから。わたしは面の中でいつもニヤニヤ笑っている。だから、いつものわたしだったら、せっかく自分の道場で行われている講習会を、棒に振ったりしない。最後まで脚ひきずってでも、やるところだ。でも、メンバーの中に脚を専門にしている医者がいたので、その場でドクターストップが掛かってしまった。見学。。。つまり、見取り稽古。

 正座してみんなの膝辺りの高さから見取り稽古するのは、大変勉強になる。みんなの悪い所が残さず見れる。写真を撮ることもできる。だから、何もしなかった、とは言えない。でも、ちょっと身体が温まらないのは、剣道じゃないから、やっぱりつまらない。

 道場に隣接している市の建物で、お食事会もやった。土曜日の夜はみんなでレストランにも行った。道場には4人の若者が、寝袋持参で寝た。我が家にも4人来て泊まった。工事中の屋根裏の大工道具と埃をあわてて片付けて、2人寝かせた。日曜日は狭い台所で《すきしゃぶ》をやった。《すき焼きのようなしゃぶしゃぶのようなもの》だ。どうせみんなにはわからないので、「今日はすきしゃぶだよ」と言った。

 次のあさは脚が痛かったので、屋根裏に泊まった若者たちがボボの散歩をやってくれた。一人、また一人と出て行くのがとっても寂しかったが、また来年も来てもらえるんじゃないかと思う。みんながとってもよい講習会だったと喜んでいた。我が道場で講習会を開いてくださったチュヴィ先生と、主催者に大感謝。

 「来てくれて、ありがとう」を、何度も何度も言った。
「うちにも来てね」と何度も言われた。そのうちフランス全国道場巡りツアーができるかもしれない。

2011/10/06

一本のきずな



 夏に、奈良の川上村というところにも行った。奈良県吉野郡川上村というところで、京都からずいぶん時間が掛かった。剣道の上垣先生には5時頃着きますと伝えてあったので、『これは遅れるな』と思った途中の乗換駅から電話すると、すでに到着駅で待っていてくださって、そのあと一時間後に着いてしまった。世界でも名高い先生を待たせるとは、最初から印象が悪い。その村で2泊3日を過ごした。スタートの予定では4泊5日だったのを、2回の予定変更で2泊になってしまい、今思うとほんとうにもったいなかった。
 「駅に着いたら電話します。駅から歩いて行きます」などと言っていたのに、先生のお迎えと、あちこちへ送っていただかなければどうしようもない。。。山奥だった。わたしは海のそばで育ち、大都会ではないけれども、歩いてなんでもできる程よい地方の町の、駅の近くの商店街で大きくなったので、こんな山奥の不便なところには、生まれて初めて行ったのではないかと思う。森や川が美しく、木枠の窓の向こうには雲海も見える素晴らしい道場があり、そこには奈良などから2時間以上も掛けて山を登って来ては、稽古に励む先輩たちの笑顔と汗の匂いがあった。朝稽古のあとのおいしいうどんやおそば。
 先生が歌うようにおっしゃる、「さあさ、寄せてもらってください」や、お礼を言うたびに「なにをおっしゃいますのや」の響きが、なんとも優雅に心を揺らす。鹿児島の「ほら、食べんね、食べんね」や「なん言っちょっとよ〜」とは、品がぜんぜん違うのよね〜。



 その川上村が台風12号に直撃された。ラジオのニュースで「日本で大きな台風の被害が」と報道されたので、鹿児島じゃなかろうかと思って、インターネットのニュースを見に行ってみたら、川上村の、上垣先生がお勤めになっている村役場から数メートルの場所で、土砂崩れがあった模様。びっくりしてメールを書いたがいつも折り返しで返事をくださる先生から、返事がない。数日前にメール交換をしていた、川上源流館の松本先生にメールを書いてみたら、「みな無事。人的被害はなし」とのことで、とりあえずひと安心した。

 このことを、今年川上村で剣道して来た数人の仲間に話すと、「なにかできることはないか」との質問が殺到。「募金なんかどう?」と言ってみたら、あっという間に有志が集まった。それで『一本のきずな募金』というのを始めることにした。個人的なアドレス帳に名前のある約100人の剣道仲間に一斉メールを書いた。そして、フェースブックでそのことを伝えた。数日後フランス剣道連盟から電話が来て、『勝手なことをして』と叱られるかと思ったら、逆に褒められた。フランス剣道連盟では、春の東北大震災の時に柔道連盟といっしょになって、大規模な募金を行い、たくさんのお金を集め、日本に送った。ただし、そのお金がどうなったのか、定かではない。なので、今回のように個人でやってもらって、そのお金がどういうものに使われたのかを明らかにしてくれるならば、剣道連盟は協力を惜しまないと言ってくれた。翌日には、剣道連盟の応援という形で、わたしが個人的に友人たちに配信したメールが、全国の道場に配られた。フランスの剣道人口は5000人から6000人というところ。

 お金は、個人の名前で集めるのではなく、わたしとJPが去年設立した、『白悠会』の公的な銀行口座で集金し、そこから川上村の役場に送られることになった。募金の際にはフランス各地のきれいな絵はがきを送ってもらうことを条件にした。それを訳して、川上村の小さな役場においてもらいたかった。

 川上村では、廃校になった小学校が村の手で改修され『川上源流館』という道場に変身している。そこでは、1年に1回、2000人もの子どもたちを集めた剣道大会が開かれる。人口が2000人足らず、60パーセントから70パーセント以上が65歳以上の村で、1年に1回、各地から集まる高名な高段者の先生方を審判にお迎えし、2000人の剣士と、その家族、応援者が集まって、盛大なお祭りが行われる。小学校の体育館には6コートか8コートもの試合場が設けられ、森の木々がふんだんに使われて改修された校舎あとの宿泊所では、300人を寄宿させることができる。村をあげて剣道発展に尽くしているという感じだ。





 上垣先生のお人柄で、遠く海を渡って、わざわざそこに出かけるフランス人剣士たちの数も、年々増えている。植林の盛んな、川上村の、崩れた山を見るのは胸が痛い。しかも、あんなへんぴなところで、国道が封鎖されて、いったいどれほどの不便を強いられているものかと思う。川上村をすでに訪れたことのある剣友たち、噂を聞いてあの村で稽古することを夢みている仲間たちは、みなわたしと同じ気持ちのようだ。たくさんの心配するメールをもらった。

『一本のきずな』募金は広がっている。毎日我が家に小切手が送られて来る。ありがたいこと。村では、山の植林のための苗木を買ってもらう費用、道路工事の復興などの費用にあてられるようにとお願いしたところ、道場の横に一本だけ、「フランスと日本の友情の植樹」として苗木を植えてくださると村役場からの伝言をいただいた。「一本のきずな」が川上村に根付く。

 川上村でいただいた手ぬぐいに『交剣知愛』と書されていた。《いっぽん》を追求して汗を流し、剣を交えながら仲間同士、老いも若きも剣を交えてお互いを磨く。一本の剣というかつて武器であったものが、現代においては友情のきずなになる。。。そんなことを夢に描きながら、毎日剣道をしている仲間たちが、いつまでも日本の自然を見守って行きたいという思いから、あの村に思いを寄せている。





 川上源流館のように、遠いところからも人の集まるよい道場にしたいと思う。今週末《第1回目の指導者講習会》が、ここ、カーモーで開かれる。遠いところから人が集まるので、わたしたちは忙しく準備に追われている。「よい講習会であった」と言われるようにがんばる。いよいよみんなに「来てくれてありがとう」と言うことができる。

2011/09/13

新しい学年

 ノエミが高校生になった。カーモーの高校の普通科には希望の科目がないので、アルビの高校に通いたいと夏休み前に希望を出した。アルビの高校だったら、毎朝バスで通うことができる。自家用車だと20分ぐらいだが、バスだと1時間ぐらい掛かる。JPもアルビで働いているのだから、いっしょに自動車で通ったらいいじゃないかと思ったが、JPは、『世界から自動車をなくそう』と運動しているような人なので、これまで通り公共の交通手段を使う方針。ノエミにもバスで通えと言い、娘ににらまれていた。「パパと一緒に電車で通わないか」と言えば、ノエミは黙って部屋に行ってしまった。バスでも電車でも通える。
ノエミは「通学が面倒くさいので、寮に入りたい」と言った。
「通学して欲しくない」父は、あっさりOKした。

 『そういうお年頃』になったノエミは『パパが嫌い。パパとしゃべりたくない。パパは見たくもない』今日この頃なので、寮に入りたかったのだろうし、『ママはうるさい。ママはやかましい。ママは融通が利かない』ので寮に入りたかったのだと思う。友人知人のだれもが「みんなのために寮に入った方がよいと思う」とアドバイスしてくれていた。たしかに親と娘の関係が冷めきっていたので、別居の道はよかったかもしれない。

 アルビの学校に通うのは、カーモーからは二人だけ。でも、小学校時代からの大親友のエステルがいっしょだから、ぜんぜんさびしくない。エステルは、毎朝アルビで働いているお母さんの自動車で通っている。夕方はバスで帰って来る。通学で時間と体力をずいぶん浪費しているらしい。じつは、学校からバス停まではかなりある。

 ノエミは『ヨーロピアン・クラス』というクラスに入っている。エステルも同じクラス。フランス語のほかに、これまでずっと続けて来た英語とスペイン語があり、去年からはじめたラテン語を続け、新しく日本語も。日本語は通信教育。ほかの町には日本語クラスのある高校もあるのだが、ここでは授業がないので、通信で勉強して、成績表に加えてもらえるしくみ。高校を卒業するとき、バカロレア(高校卒業資格試験)の点数に加算される。これまで6年バイオリンもやって来たので、それも卒業試験に加算されるように、今年もレッスンを続けようと思ったのだが、寮に入ることで様々な問題が重なって、バイオリンのレッスンには通えなくなってしまった。高校での新しい生活が落ち着いて来たら、レッスンを再開するかもしれないけど...どうだろう。『ヨーロピアン・クラス』では、英語で歴史の授業とか、スペイン語で地理の授業などもある。卒業するまでにマルチリンガルを目指すということになっている。どうだろう?

 ノエミがどうしてもこの学校に入りたかったのは、この高校では自由選択の科目の中に『芸術』の授業があって、この地方では唯一なのだ。ここでは『絵画、造形、デジタル画像、写真...』などなどのおもしろい『図画工作』みたいな授業があって、学校を歩いていると『いかにも芸術家』みたいな、『芸術は爆発だ』みたいな、服や髪をした若者がうろうろしていて、ノエミの創作本能をかき立てている。ノエミはいつも絵を描いている。どんどん描いている。休む間もなく描き続けている。好きなんだろう。

 「でも,芸術と文学だけじゃ食べていけないに決まってるから、わたしは理系もがんばってべんきょうする!一年やって才能がないとわかったら理系の学校に移る」などと、現実的なのやら、なにやら。。。結構先のことも考えている。らしい。

 週末に初めて帰って来た娘は、急に大人ぶっており、口答えはするし、いうことは聞かんし、ふて〜態度だし。。。母はぐちぐちうるさくしてしまったので、「やっぱり寮の方が楽しい」と言われながら、月曜日、さっさと出て行かれてしまった。

 寮でけっこう厳しくやられているらしいので、帰って来たときぐらいは甘やかせてあげようと思ったのに〜〜〜。なかなか思う通りには行かず。それにしても、ノエミのいない月曜日から金曜日までは、平和でのどか。。。。いや、悪いけど、実にこの上もなく平穏。。。
ゾエだけが寂しそう。なので、今日はお友達を呼んでお泊まりしてもらった。

 わたしは電話を待っている。このことは、また別の機会に。

2011/08/24

旅程 7月10日から8月19日まで

7月10日 午前7時20分(日本時間10日の午後2時20分)トゥールーズのブラニャック空港出発
7月11日 午前8時 羽田着、午前10時鹿児島着、指宿に午後3時頃到着(フランス時間11日の午前8時頃)
7月はずっと指宿、鹿児島で過ごす。友達にも親戚にも、近所の人にも、あまり会うことがなかった。途中、台風にも見舞われた
8月1日  鹿児島から東京まで新幹線で移動。東京泊
8月2日  JPフランスから到着。渋谷、秋葉原、新宿 などなど〜。ホテルは浜松町駅。東京で同窓会
8月3日  予定変更。もう一泊する羽目に。。。浅草など
8月4日  午前中に京都に移動。少しだけ京都見物。午後奈良県吉野川源流の川上村到着
8月5日  川上源流館にて朝稽古。大歓迎を受ける。昼は奈良市街観光
8月6日  川上源流館にて朝稽古。精勤賞ならびに記念品贈答され、感涙。午後から奈県大和郡山市へ移動。夜は花火大会。親戚宅泊
8月7日  名古屋でちょっとお仕事の話し合い。名古屋城見物
8月8日  京都へ移動。途中家族を京都に送り、自分だけ大阪へ。編集さんとお食事しながらお仕事のお話
8月9日  京都満喫。清水寺周辺。滋賀の姉と姪に再び再会
8月10日  京都満喫。京都の南の方。映画村で従姉に再会
8月11日  京都から、新大阪へ出て、《さくら》で鹿児島まで直行。 自由席が無事獲得できた〜〜
8月12日  開聞方面へ。同級生経営のお土産屋さんへ。そろそろ帰り支度
8月13日  中学の同窓会
8月14日  従兄一家と指宿観光
8月15日  お寺参りなどなど
8月16日以降 居所のわかっている同級生、友人知人を訪ね歩く。鹿児島市内でお土産準備。実家の庭仕事。家の片付け。
8月18日夜 実家を出発。同級生が空港で見送ってくれる。午後10時過ぎに東京着。羽田で飛行機乗り換え、日付の変わった19日にパリへ向かって出発

わたしは指宿でたっぷりゴロゴロできたので幸せだったが、子どもたちとJPは、けっこうたいくつしたかもしれない。関東・関西での10日はみんなにとってよい思い出になったと思う。次回はもっと計画的に過ごしたいもの。
  
 

夏休み

 フランスの夏休みは長い。例年は、こどもたちを2週間から5週間のキャンプに送り込むか、2ヶ月まるまる義父母の家に預けて、わたしはけっこうのんびり過ごす。でも、よくよく考えたら、子どもたちをキャンプに送り出すお金で、夏休みに里帰りしたっていいんじゃないかと言うことになった。これまで夏休みに日本に帰ることなど考えたこともなかった。チケットは高いだろうし、人は多いだろうし、なんと言っても台風とかあるから。。。という感じで。

 クリスマス前に決めて、チケットを買った。3月に日本で大変な災害が起こったあと、「今年の日本にわざわざ行ったものかどうか」がいろいろな場所での論点になった。いっしょに連れて行くはずだったフランス人の友達は、けっきょく4月に日本行きをキャンセルした。

 6月に「仕方なく」日本に帰っていた日本人の友人が、何度となくメールや電話をくれ、「日本には行かない方がいい。子どもたちを連れて行くのはよくない」とさんざん言って来た。子どもたちを放射能の危険に対して心配する気もちからの行為だったと思うが、わたしたちはそれなりに情報収集をし、話し合い、子どもたちの意見も聞き、JPにもよく考えてもらい、けっきょく、会いたい人や、知りたいこと、見たいものは自分自身で日本に帰るのではければ手に入れることができない、という結論に達したので、予定変更しなかった。

 帰ってから、予定外のことが次々に起こって、経済的にとても大変だった。フランスから送ってもらったお金が郵便局の手違いで届かず難儀した。それと同時に、郵便局で3日で届くと言われて送ってもらった高速郵便も、10日過ぎても届かず、そこに入っていたレールパスが使えなかったのは、痛い出費となった。

 旅行中に財布が空っぽっていうのは、非常に困る。。。なれどお金は天下の回りもの。行った先々で親戚から《お年玉》をもらい、友人たちがお食事に招待してくれ、東京で合流した姉がお金を貸してくれ、仕事であった人にはどっさり商品券をもらい。。。事情を理解して快くキャンセルを受け入れてくださったホテルも約2軒。。。いろんな人にご迷惑をかけつつも、無事に全日程終了〜。カーモーを出てから指宿に着くまで24時間ぐらい掛かる行程にも関わらず、子どもたちも元気ぴんぴん、時差ぼけ全くなし、がんがん遊んで夏バテもなし。会った人もみんな元気そう。。。幸せな気持ちでカーモーに戻って来た。

 行く前にたいそう心配していた食料事情も原発問題も汚染状況も地震情報も台風接近も大雨注意報も、母の健康事情と親戚一同の近況報告も、とりあえず、この目で見、この耳で聞き、この手で触れ、この舌で味わい、この肌で感じて戻って来ることができ、そしてなにより、五体満足で戻って来れたので、《よかった》。

 名古屋と大阪で、これからの仕事のこともちょっと話しを進めて来た。だから、わくわくの新学期が待っている。またすぐに帰れるようにがんばる。


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 日本で会えなかったみなさん、連絡できなかったみなさん、本当にごめんなさい。写真と一緒に、少しずつ旅行のことを書いて行こうと思います。

 今年度がむしゃらにやって来た3つの試験。指圧と、剣道指導者資格と、調理師の国家免許。夏休み中、正式に合格のお知らせが届いていましたので、ご報告いたします。応援してくださったみなさん、協力してくださったみなさん、どうもありがとうございました。どのように自分のこれからの人生に活用していけるか、これから考えます。
 
 ノエミも、中学の卒業試験に、大変良い成績で合格できました。九月の新学期からアルビのベルビュー高校で、寮生活が始まります。これからも応援してあげてください。







2011/06/20

朝隈くん、いよいよ

 パリでイベントの運営などをしている由香さんから、いよいよご案内をいただいた。彼女は『ビズ・ファミーユ』という雑誌の編集をしていた人で、《夢は待ってくれる》という本も書いていて、剣道の友達で、髪が長くてスマートで、低音の気持ちいい声で話すかっこいい女性だ。もう何年もメールのやり取りをしているけれども、この冬剣道の講習会でパリに行ったとき初めて会った。初めての出逢いだったのに、悲惨だった。剣道の講習会初日、新幹線に乗り遅れ、駅で次の電車にチケットを取り替えたら、わたしの財布は空っぽになった。剣道の講習会の方は、予約の時点でホテルも食事も前もって払ってあったので心配せずにいられたものの、由香さんと約束していた《お食事をご一緒に》が、できなくなりそうだった。それで、講習会が終わって、駅での待ち合わせをする時に、「あの〜初対面で悪いんですが、、、いっしょに食事をするお金がないので、貸してください。」と言わなければならなかったので、超恥ずかしかった。

 由香さんはちょうどパリに来ていたお友達のカホリさんといっしょに駅に来てくれ、わたしの荷物があまりにもすごいので、駅のレストランでお食事することになった。

 この時にはすでに、由香さんのイベントの会社で朝隈くんをパリに招待することは決定していて、これから細かい話し合いが待たれているところだった。由香さんは春に朝隈くんの神奈川県の自宅兼アトリエを訪ね、いよいよこの夏のジャパン・エキスポという催しと、パリ市内のギャラリーを借りて行われる展示会の話し合いが行われた。由香さんの新しい会社の初めてのビッグイベントなので、由香さんは寝る間を惜しんでがんばってくれている。

http://www.bisoujapon.com/special/bisou-presente-expo-asakumawaka-japan-expo.html

 わたしが朝隈くんの作品を由香さんに持ち込んだ時には、わたしもたっぷり朝隈くんの展示会の準備に協力するつもりだったのに、パリからは遠いので。。。たいしたことができない。

 ノエミが6月28.29日に、中学卒業試験を控えている。30日には剣道クラブの最終合同稽古と、会議と、お別れパーティーがある。7月10日には日本へ発つ。なので、この7月2.3日の週末が勝負となった。JPは、夏休みで満員の新幹線の、高いチケットを二人分買ってくれた。ノエミの中学卒業祝いに、いっしょにパリに行ってもいいと言ってくれた。7月2日は友人の結婚式にも呼ばれていたのに、そちらは断ってしまった。同級生を代表して、パリでの朝隈くんの活躍を見て来るという使命があるのだもの、友人もわかってくれた。

 おたのしみ、おたのしみ。

2011/06/18

米寿

 八十八歳は、米寿なのだそうだ。とってもめでたい数字だ。わたしは八という数字が大好きで、いつもこの数字に助けられてきた。JPのお誕生日だって、3月8日だ。JPのお誕生日を知った時に、この人は絶対にわたしを幸せにしてくれると確信した。自分は4月29日なのでJPにはかなり苦労をさせている。彼もこの日を避けたいんだろうか?今年も例年のごとく4月28日の朝、元気よく「お誕生日おめでとう」と言われ、わたしは沈黙したのであった。

 わたしとJPの剣道クラブの名前は《白悠会》という。諸葛孔明の読んだ詩の中にこんなものがあって、恩師の佐藤先生が大好きで、先生の手ぬぐいにも書かれていた「白雲悠々」からいただいた。

    白雲悠々 去りまた来る
    西窓一片 残月淡し
    浮き世をよそに 静けき住まい
    出ては日ごと 畑をうち
    入りては 机に文をひもとく
    雪降りみだるる 冬のゆうべに
    風なお 冷たき 春の朝

 諸葛孔明の怖そうなイメージには合わない詩だと思う。佐藤先生は、白い雲のように、悠々と人の頭の上を流れ、風に吹かれて形を変えたり、方向を変えたりしながらも、のんびりと剣の道を歩んで行きたいとおっしゃっていた。普通剣道で使う手ぬぐいには《剣心一如》とか《文武両道》とか書く先生が多いのだけれども、佐藤先生の手ぬぐいは、《白雲悠々》だった。わたしも、白い雲のようにのんびりと、柔軟に流れて行けたらどんなによいだろうと思う。地上の焦りやストレスを笑って眺めながら。。。

 剣道の友達の中にネクトゥーさんがいる。ネクトゥーさんは、昨日88歳になった。4年前はいっしょに道場で稽古をしていたけれども、このごろは腰が痛くてもう道場には来られない。なので、わたしはネクトゥーさんの家に遊びに行く。ネクトゥーさんは、毎週日曜日にドレイ先生とご飯を食べるのを楽しみにしている。先週ネクトゥーさんのお家に遊びに行ったら、ネクトゥーさんがしょんぼりしていう。
「みのり、ドレイさんと連絡取れないんだよ。死んでるんじゃないかと心配なんだ」
ビックリした。話を聞くと、それなりに心配な要素がいくつかある。いろんな人に電話し、結局一時間後、わたしの電話はドレイ先生につながり、隣にいた看護婦さんとも話をすることができた。家族ではないので、詳しいことはなにも教えてもらえない。わかったのは、ネクトゥーさんが心配していたこの三週間、ドレイさんは入院していたとのこと。もう二度と運転してはいけないそうだ。
「それじゃあ、もううちには来れないね。もうドレイさんには会えないのか。。。」
とネクトゥーさんは肩を落とす。それが一週間前。

 その週の土曜日にはドレイ先生の住んでいる道場を訪ねて、元気な姿を見ることができ、とりあえずほっとした。でも、ドレイ先生の記憶は、日々失われているようで、わたしがだれだったのかは、よく思い出せないらしい。ドレイ先生はわたしの父と同い年で、言うこともすることも似ているとずっと思って来た。そして土曜日、久しぶりに会ったドレイ先生は、2003年に9年ぶりに再会した病床の父と、全く同じ顔色をしていた。目のくぼみや、小さくなった頭もあの頃の父と同じだった。先生がセーターの腕まくりをして、「ほら、こんなところに変なこぶもできちゃって」と見せてくれたとき、膵臓がんの末期であった父の脇腹に、同じこぶがあったことが鮮明によみがえったので、わたしはいろいろなことを悟らずにはいられなかった。


 昨日の朝、わたしは早起きをして朝市に行き、ボボを早歩きで歩かせ、子ども達をいつもの時間よりもはやく学校の門の前におろし、ダッシュでトゥールーズに向かった。ドレイ先生を迎えに行き、Uターンして、ネクトゥーさんのお宅にお邪魔した。3人で楽しいお誕生日会になった。ネクトゥーさんが寂しがるので、このごろのわたしは、イタリアの白ワインでネクトゥーさんのおつきあいをする。昨日はドレイ先生がいっしょだったので、ネクトゥーさんもうれしそうだった。

 ネクトゥーさんやドレイ先生は、フランスでも最も早い時期に剣道を始めた先輩たちだ。ネクトゥーさんは、わたしがまだ2歳だった1969年の日本で、剣道を経験している。ネクトゥーさんのアルバムには、今や七段、八段となり、世界で名前を知られている先輩たちの幼い顔がある。わたしはフランス剣道界の歴史を、歩み続けて来た本人たちから教わるのだ。

 この人たちのことを、忘れてはならない。忘れはしないよと、言ってあげなければならない。懐かしい人たちの、声を聞かせてあげたいと思って、facebookでネクトゥーさんのことを書いた。facebookに登録していない人のために、個人的にアドレスのわかる人たちにも一斉メールを送った。全部で200人ぐらいに書いた。この中でネクトゥーさんと実際に剣を交えた人は30人ぐらいだろうか。ネクトゥーさんのことを知らない若い人たちは、自分たちのクラブの先輩や、友人や、武道をたしなんでいる家庭であれば両親や兄弟に、ネクトゥーさんの話をしてくれた。そして、わたしはこの一週間で、たくさんのメッセージを受け取った。ネクトゥーさんが読めるように、集まったメッセージを拡大をして、綴り、本にして、お誕生日のプレゼントとして持って行った。わたしが持っているありとあらゆる写真もコピーした。そして、ネクトゥーさんが知っている人の現在の活躍や、その生徒たち子ども達の姿を見せてあげた。そこからまた昔の話が出てくる。話は尽きない。いつまでも思い出が溢れ出てやまない。

 個人的に、わたし宛にお礼のメッセージをくれた人もいて、そのような人たちには、わたしの電話番号を伝えておいたので、お誕生日の当日に、ネクトゥーさんの家に電話してくれた人もいた。そして、一人は出張ですぐそこに来ていたからと言って、ネクトゥーさんの家のドアをノックしてくれた。ちょうどドレイ先生も来ていたから、ものすごく楽しい再会の日となった。

 わたしは来週も、ネクトゥーさんに会いに行く。再来週も会いに行く。日本のお線香を持って遊びに行く。ネクトゥーさんと般若心経を詠むのが好きなのだ。毎週会いに行くつもりだけど、日本に帰っている6週間は、毎週絵はがきを書く。そして、日本でお線香をたくさん買って、ネクトゥーさんのお土産にする。この夏、二人の年老いた先輩たちが、元気にわたしの帰りを待っていてくれることを祈る。ネクトゥーさんは、毎日わたしのためにお祈りしてくれる。だから、そのおかげでわたしはいつも元気なのだと信じているので、わたしもネクトゥーさんのために祈る。ドレイ先生のことも祈る。

 わたしも、ネクトゥーさんみたいに、米寿までがんばれたらいいと思う。
米寿まで剣道できたら幸せだと思う。
 

2011/06/16

夢と現実


 指導者資格試験の最終日参加者たちと。


 6月はあっという間に過ぎて行く。天気はいまだに不安定で、なかなか本物の夏が来ない。
剣道指導者資格試験も無事終わり、正式に剣道を人に教えることが許されるようになった。こんな免許は日本には無いので、日本の先生方に報告するとビックリされる。奈良の上垣先生から『人があなたのところに集まって来るような指導者になってください』とお言葉いただいた。人がたくさん集まってくれたらいいな〜。

 剣道の試験は最初47人の申し込みでスタートし、一年の間に少しずつ減り、結局試験を受けたのは27人だった。そして20人が合格した。とっても難しかった。楽天家のわたしも、さすがに自信がなかった。でも勉強しただけのことは発揮できたので、もし落ちていても悔いは無かったと思う。

 調理師の方も、学校の方では『大丈夫、合格です』といわれたけれども、教育委員会の方での発表がまだ無いので、正式に『合格しました』と報告できない。6月中には結果が公開されるのではないかと思う。


 三年前から、あるひとつの目標に向かって、わたしはわたしなりにがんばっている。

一番なにが好きでなにがやりたいのかと訊かれると、『読んだり書いたりすること』『好きな本を翻訳する仕事』『剣道』と応える。この三つのことを田舎の大自然のなかでのんびり暮らしながらやるのが、大きなあこがれなのだ。そして、大きなあこがれだけでは、生活して行くことはできない。さあ、どうしようかと考えたのが、

 田舎で観光シーズンに民宿をやり、シーズンオフでも訪れてもらえるように、セミナーなどのできる『道場』を作る。そこでは自然の中で育てた野菜をたっぷり使った料理を出し、道場の横に設置する指圧の療養所で、身体をほぐしてもらうようなサービスを行う。民宿には露天風呂みたいなのも作ろうか。。。。日本料理の講習会もできるかもしれない。

 この『夢』に関しては、家人を動員しなければならないので、市場調査をし、経費の計算をし、民宿の設計図を作成し、その他ありとあらゆる書類や写真を揃えて、レポートにしてJPに提出した。それが三年前。そして今年は去年から始めた指圧と料理と剣道指導者資格者の免許を取得した。

 職安が転職を希望している無職者のために資金援助をして、いろんな授業を受けることができるシステムがあるというので、これまでやっていた日本語レッスンを一切やめて、職安に登録し、調理学校の入学試験を受けた。40人以上受けて10人が入学できた。面接の日にいきなり抜き打ちテストがあって、数学が全然できなかったので、あとで事務局の人に『どうして入学させてもらえたんですか』と訊いたら、『あなたの提出した企画が素晴らしく、あなたのやる気があったら、ぜったいに実現できると思ったので、調理師の資格を取ってもらいたかったのだ』と、事務長さんに言われた。調理師の免許を取るのは、ものすごく難しかった。さすがのわたしも、二度と、このような学校には入らないと思う。『わたしもやりたいな〜』という人たちには、『考えた方がいいよ』とアドバイスしている。

 『そのアイディアは素晴らしい』と他人はみんな言うけれど、家人はだれものって来ない。
『あなたが民宿やるんだったら、わたしが加勢に行くよ』と言ったのは、母だけだった。

 とりあえずこの凄まじい一年が終わったら、なにか今までと違う新しい人生が待っていると思っていたものの、実は、この一年でいろんなことに気付いた。人に料理を出すことが、自分はあまり得意でも好きでもないということ。わたしは食べることが好きなのだ。うちに来てくれた人に出す料理は、どんなに手間とお金が掛かっても、喜ばれるものを出したい方だから、そういう人間には《食堂》はできない。節約したり、物理的、金銭的な無駄を省いたりしなければならないので、そんなことをいちいち考えていたら、家族のお誕生日に出すような料理を、毎日出すわけにはいかない。

 指圧も、やってもらうのは好きだけど、それが職業となれば、体力を使う仕事なので、44歳からの転職にはかなりきつい仕事だと思う。

 必死な思いで学校に行き、夜は宿題に追われ、研修中は休む間もなく、テレビの前ではただ眠いだけ。気に入った本など読む暇がない。机に向かうこと、辞書を引くこと、ペンを持つこと、ページをめくること、図書館で過ごすこと、勉強するということ、人に何かを教わるということ、調べるということ、文房具屋に行くということ、机の上にコーヒーカップが載っている風景、パソコンの前で一日中過ごす。。。が、好きなのだ。でも、それは自分の書きたいことを書いたり、好きなフランス語の本を日本語に編み直して行くことを通して好きなのであって、栄養学の数字やレシピの手順を暗記したり、労働条件についての法律を書き写したり、訳のわからない問題集の、答えを書き込んで行ったりすることではないのだと気付いたのだ。なので、はやく終われ、はやく終われと思いながら終わらせた。

 
 四冊目の翻訳の本にできそうな、おもしろい本を見つけたので、週明けからこの本のあらすじと感想文を書き始める。日本に帰った時に、編集さんと話し合う予定。

 子ども達の学校、ノエミの卒業試験が終わって、剣道クラブの修了式が終わったら、わたしはパリに行く。中学と高校の同級生で、東京で働いていた頃にも会ったりしていた朝隈くんが、このほどいよいよパリで個展を開くことになったので。7月に入ったらすぐに日本に帰るので、あまり時間が無い。夜行で行って夜行で帰って来ることになると思う。みんなで応援していたもの。いよいよフランスに来てもらえることになって、本当にうれしい。同級生を代表して、パリでの朝隈氏の写真を撮って来るのだ〜〜。


 幕末のピーちゃんとペーちゃん
 

さあ、あしたはネクトゥーさんの88歳のお誕生日なので、ネクトゥーさんの家で食事をする。

2011/05/20

あともう少しでバカンス〜

 昨日、調理学校のすべての授業が終わった。調理師の免許がもらえるかどうかの結果は7月まで待たなければならない。
最後の職場研修は5週間もあって、とってもとっても長かった。4回の職場研修のうち最初の2週間は、ミーさんのラボで働かせてもらい、あと3回合計12週間の研修は、ミーさんのお友達の高級レストランで遣ってもらった。
 ほかのレストランで働いたクラスメートの話では、どうも多くの調理場で冷凍食品や缶詰がたくさん使われているらしいのだが、わたしのレストランは、有機栽培の野菜や、ラベルのついている魚や肉ばかりを使っていて、一日に3回ほど冷蔵庫の中味が入れ替わった。下ごしらえはとっても大変な見習いの作業で、わたしは30キロのジャガイモを20分以内できれいにむけるようになった。小さくてしかもガラス張りの調理場なので、清潔で仕事も綿密、働いている人はみんなニコニコしていた。とてもよい職場だった。研修が終わってから働かないかと訊かれたが、調理師の免許をもらいたかったのには別な目的があるので、レストランでは臨時で必要なときだけ呼んでもらうことにした。レストランのみんなにとても好意を持たれ、楽しく仕事できたと思っている。

 調理の方は終わったけれども、剣道の指導者資格試験が来週に迫っていて、いま猛勉強をしている。中学卒業試験を準備しているノエミは、模擬試験の直前に涼しい顔をしていて、焦りまくっているわたしとは大違い。「普段からコツコツやってるなら、試験直前に焦ることはない」と、中学生の娘に言われる。わたしはいつも試験前に焦る方。どんなに勉強してても、いつも自信だけはない方。
 去年の9月からJPと2人で自分たちの剣道クラブを始め、1年で部員も10人を超えた。一度入って辞めた人は、ものすごく遠くから通っていた大学生の一人だけ。クラブの結成と運営に関して剣道連盟に35ページのレポートも提出させられた。とっても忙しかった。
 来週の木曜日から日曜日まで、泊まりがけでブールジュというところの研修センターに行く。そこで、剣道技術のほかに、剣道連盟や地方の連盟の運営について、法律や試合試験の規則に関する理論がある。そのほかわたしにとって一番大変なのは、剣道に関わる解剖学の知識や生理学について、どのように剣道の授業に取り入れるか。。。などなど。。。去年やった指圧の勉強が役に立った。一見どうでもよいようなことなのだけれども、実はとっても重要なこと。全部フランス語なのでとっても大変。でもこの一年の様々な『学習』のおかげで、これまで考えもしなかったようなことが、理論も交えて、精神的にも肉体的にも、これからのわたしの活動を支えてくれる大きな柱になると確信できた。各地の研修会や講習会で、様々な地方の同じ目的を持った人たちと知り合うこともできた。

 剣道の試験が終わっても、気を抜くわけにはいかない。6月の終わりには、指圧の補習が待っている。この1月に指圧師の1年目の資格をもらうことができた。来年2年目のコースに進むので、そのための準備が待っている。

 10月に3冊目の翻訳の本『ジジのエジプト旅行』が出版され、先日『4刷目』の増刷となった。『先生のすすめる本』に選ばれたそうだ。紙とインク不足でどうなるかと心配していたが、がんばってくださっている大阪の出版社、編集者の方に感謝するばかり。『サトウキビ畑のカニア』の挿絵を描いてくださった内海博信さんが、福島県いわき市の方なので、増刷の記念にこれまで出版されたわたしの翻訳した本を、東北の各地の図書館や避難所に寄贈する計画が着々と進んでいる。次回4冊目の本の企画も、夏に日本に帰った時に話し合う予定。その他剣道関連の日本語の本をフランス語に訳してフランスで出版する企画もある。楽しみだ。

 この1年家族をだいぶ犠牲にして来た。でも、夢があり目標があって、何らかの『義務』が与えられたから、最後までやり通すことができた。何度もくじけそうになったけれども、子ども達は途中で投げ出すことを許してはくれなかった。
 ノエミにたびたび「いつもママンは、始めたことはとことんやれって言ってるじゃないの」と叱られた。

 
 来年度もとことんやる。その前に日本での夏休みが待っている。楽しみ〜。
 みなさん、応援してくださってありがとう。ご無沙汰してすみません。
 結果が出たら、すぐに報告します


  調理学校で最後の料理の授業



  『白悠会』の新しい道場で

2011/03/27

日の丸がひるがえる

 久しぶりに内海さんとメールを交換した。本当に久しぶりだった。内海さんというのは、わたしの一冊目の翻訳本の、挿絵を描いてくださった画家さん。東北で大きな地震が起こらなければ、内海さんが福島県のいわき市に住んでいることなど、すっかり忘れていた。それぐらい、ご無沙汰していた。

 内海さんが「お姉さんと仲直りをしましたか」という。画家の内海さんを紹介してくれたのは姉だった。わたしが姉の妹だったので、内海さんはよくわがままを聞いてくださり、すてきな本に仕上げてくださった。
 いや《お姉さん》とけんかしたわけではない。けんかしようにも、《お姉さん》はいつもわたしより大きく、知識と教養があり、モノをよく知っていて、太刀打ちできたためしがない。その《お姉さん》にも、たしかにご無沙汰している。内海さんに「お姉さんとみのりさんのメールアドレスはいつも仲良く並んでいる」と言われ、そういえば、《お姉さん》のメルアドは、ずいぶん前からわたしのアドレス帳からなくなっていたことに気付く。パソコンが壊れてから、従兄のアドレスやら、友人たちのアドレスやら、仕事でお世話になった人たちのアドレスも、画面上からは消えてなくなっており、なので、みなさんとご無沙汰したままだった。《忙しい》とかなんとか言っちゃって。。。

 地震が起こって、フランスではひどい映像しか見れないもので、わたしだって一応、日本のみんなのことを心配した。そして、連絡できる人から、ちょっとずつ、電話をかけてみたりした。東北地方には知っている人が内海さんと従兄の次男ぐらいしかいないので、個人的には本当によかった。現地の人はこれからまだまだ大変なのだろう。


 
 学校の方は、4回目の職場実習が終わり、先週と今週は試験地獄。それなのに日本から人が次々やって来るので、通訳のお仕事も忙しい。試験。。。大丈夫だろうか。。。
 調理師の免許は、もうたまに「ドーデモイイーー!」と本気で思う。この数ヶ月、凄まじく忙しい生活の中で、自分が本当に好きなことがよくわかって来た。早くこの学校を卒業して、6月になったら、わたしはせっせとモノを書くお仕事に戻るつもり。その他の付属の《夢》は、いま頭にあるものを書き終わってから、考えることにしようかと思う。書きたいことは山のようにある。

 とりあえず、試験勉強もせずに、昨日は、フランス剣道連盟のブログで、「剣道を日本語で」というレッスンの12回目の記事を書いた。12回目の日本語レッスンのテーマは、《武道精神》について。ちょっと難しい。でも地震のあとの日本人の姿について、フランス人は《武道精神》とつながりがあると思っているので、書かずにはいられなかったし、被災した内海さんと、ある剣道の先生から、「いまこそ武道精神が必要である」と言われたので、伝えずにはいられなかったのだ。大きなイベントがあると、平穏な日常では気付かないことが、なんとたくさんあることだろう。。。。

http://forum.cnkendo-da.com/viewtopic.php?f=11&t=3299

 日本の地震と津波と原発事故は、NHKのテレビの生放送をインターネットで追いかけて眠れない夜が続いた。日本のみんなと一心になっている気がした数日間。でも、実際には、夜が明けて、(仕事で)レストランに通い、家に帰って来て寝る。お腹は空くし、小言も言う。大して変わらない日常。。。春の陽気の中、桜が咲き散り、カレンダーでは春が来た。あまりにも平穏な日々。。。。いずれにせよ、遠い地球の反対側での出来事でしかなかったのか?自分には関係ないのか? そんな折、仕事帰りの道で、あるカーブを曲がったら、まっすぐ目の前にラグビーのスタジアムが見えた。いつものように大きなフランスの国旗が、青空にはためいていた。その横に、半旗になった日の丸が揺れていて、わたしは、テレビで見たあの惨事が、夢ではなかったのだと理解した。涙で前が見えなくなり、車を止めて合掌した。

 一日も早く、遠い海の向こうの人びとに平穏が訪れますように。

                       合掌
 

2011/02/26

心も身体もボロボロよ〜

 2月の終わりになってしまった。一月には英語や数学や、物理、地理の試験があった。調理と面接の模擬試験もあった。
 そして今わたしは第3回目の職場研修をしている。
2回目とおなじアルビのレストランで、一週間に36時間ぐらいのペースで働いている。
クリスマスの頃に研修した時には、朝の部9時から15時までに続いて、夜の部18時から23時までというハードスケジュールでとことんやった週があり、さすがに月曜日から木曜日までがんがん働いたら、金曜日は倒れそうだった。シェフに
「家庭もあるし、あんた、歳なんだから、もっとペースを落としたら?」と言われたほど。
レストランというところはシェフ以外はみんな20代以下だ。見習いは16歳とか。。。。

 今回は4週間と長いし、どんなに働いても35時間分のしかも最低賃金しかもらえないことがよく理解できたので、1週間に36時間までと勝手に決めて、「この日とこの日は来ませんから」と宣言し、のんびり修行させていただいている。

 金曜日は夜のデザート用のコンポートと、お肉の大きなかたまりを小さく切って、脂肪などを切り落とす作業をやった。気持ち悪いけど、大変面白かった。クリスマスの時には、鶏ガラを掃除する作業をやった。あれは実に気持ち悪かった。

 先週は学校でアジア料理の授業をやった。わたしが先生となり、先生はわたしの生徒になって、巻き寿司やら春巻きを作った。水曜日のダビッド先生は、身長が2メートルぐらいの柔道の選手で、多分重量級だと思う。わたしが剣道を教えている有段者だと知っているので、わたしには頭が上がらず腰も低い。しかも、わたしは醤油やごま油や、わさびやいろんな隠し味を使って、とんでもないソースを作るので、いつもわたしの作業ポイントに静かにやって来て、大きな身体を壁の後ろに半分だけ隠し、目立たないようにわたしの手元を観察している。

 ダビッド先生はいつも授業の終わりに、作った料理をお皿にセッティングして、ソースは自分たちの好きなように作って、すべて味見をさせろという。クラスメートは、作ったものを全部お皿に載せるので、たまにお皿からこぼれたりしている。わたしは研修をしたレストランのヌーベルキュイズィーヌをまねして、懐石料理のように、真っ白なお皿の隅っこに、ちょこっとだけ載せ、トマトのバラだとか、葉ものを切ったり畳んだりして、味はどうでもデコレーションに凝り、しかも、クラスの誰もが使わない隠し味のアジア風ソースで勝負するので、ダビッド先生は、いつも興味津々だ。先生は、売れないレストランの経営者でもある。売れないレストランなので、平日の水曜日に、学校で料理を教えている。。。。と、わたしは見ている。
 
 この4週間の職場研修が終わったら、4月には試験の嵐があり、最後に5週間の職場研修で締めくくられる。クラスメートの大半は、最後の研修をするレストランで、夏からの雇用契約をもらうことを目標にしているので、5週目は何が何でも可能性のありそうなお気に入りのレストランを選ぶ。わたしは、最後の5週間の研修も、同じレストランでのんびりやるつもり。このレストランでは新しい調理人を捜してはいないし、わたしはレストランで働く気はぜんぜんない。わたしには別にやりたいことがあるのだけれども、この凄まじい一年が終わったら、家族のためにもうちょっと家にじっとしている、おとなしい主婦に戻ろうかと思う、今日この頃。
 
 家で静かに本を読んだり、ものを書いたり、休まず剣道をやって。。。とりあえず、そういうのもいいかもと、思ったり〜。でも、「そういうのもいいかも」と思うのは、収入につながりそうもないことばかりなので、自立を目指して、やはりレストランでアルバイトでもしなきゃだめかね〜と思ったりもする。とりあえず、全部終わって、無事に日本に里帰りできたら、それだけでいいわ〜。疲れていて、もう何も考えられな〜〜い〜〜。

 これから数学の宿題をやる。げろげろ。


1月の試験のテーマだったシュークリームの練習。うちで何度練習しても膨らまなかったので、開き直り、プレゼンテーションに賭けることにした。本番では、シュー生地がよく膨らんで、とてもきれいな白鳥ができた。でも見た目よりも味が肝心だったので、白鳥を作ったからといって評価が上がるわけもなく。。。試みだけは一応かってもらえた。。。かな〜。

2011/01/27

朝隈くんの新作



 干支指人形が出来上がったそうだ。去年は父の寅年だったので、朝隈くんのトラを買った。
今年はウサギ年で、知っているウサギが居ないもので、あんまり気にしないでいたところ、ちょうど年末にパソコンがおかしかったらしいので、毎年《パペットハウス》からいただいている《干支人形の予約案内》を逃してしまった。だから、朝隈くんが写真だけ送ってくれた。

 わたしはフランスで、せっせとアサクマ作品の宣伝に精を出している。
そして、剣道のお友達で、以前は《ビズファミーユ》という雑誌を発行していた由香さんが、イベントを企画したり、日本のグッズを紹介するアソシエーションを始めたと言って来たので、ちょうど良かったと思って、アサクマ作品の宣伝をした。

 由香さんは朝隈くんの作品に感動して、東京に里帰りした時に、朝隈くんの作品販売などを受け持っている会社を訪ねていき、彼の作品の輸出やフランスでの展示会のことなどについて、直接話をして来てくれた。

 年が明けてすぐに、由香さんから《アサクマ作品パリ展示会》の具体的な企画について、どう思いますかとわたしなんぞの意見も訊かれ、ちょうど折しも剣道の講習会でパリに行かなければならなかったので、パリで由香さんとご飯を食べながら、朝隈くんの作品について語り合った。由香さんもわたしも、朝隈くんの犬や猫やオオカミやゾウが大好きなのだ。そして、フランスの人にも絶対に好かれると、確信しているのだ。

 さあ、みなさんも、《アサクマ作品パリ展示会》を応援してください!!
朝隈くんの旅費やギャラリーレンタル料金が大変。この企画は、小さなアソシエーションが立ち上げたので、展示会のためのスポンサーはいない。朝隈くんがパリで《フランス芸術》などなどを学んだり、パリのきれいな風景を見てインスピレーションがもっともっと生まれるように。。。わたしはぜひともフランスに来てほしい。そして、フランスの人たちにも、朝隈くんの静かで平和なお人形たちに親しんでもらいたい〜〜。 

 同級生や故郷のみんなに、お餞別とカンパを募ろうかな〜〜と思っている。どうでしょうか?

。。。というわけで、よろしくお願いいたします。
わたしの個人メールは復帰してると思いますので、《アサクマ作品パリ展示会応援団》というタイトルで、ぜひともメールをください。お待ちしております。

2011/01/02

あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。


 31日は去年と同じ、剣道場を借りているメゾン・ド・ヴィックで、知らない人たちと大晦日の夜を過ごした。15人ぐらいだった去年に比べると、50人ぐらいの盛大なパーティーになって、ちょっと疲れた。でも、去年に比べると即興の劇や音楽のできる人が多く、笑い話や、いろんな地方の物語も飛び出して、とても豊かな一夜だった。

 29日の15時までレストランで仕事して、JPが16時に迎えにきてくれたので、そのまま子ども達の待つナルボンヌに行った。クリスマスのときには、わたしがたちだけが往復して、子ども達は預けたままだったので。

 29日に、母からの小包が届いていた。中には、指宿の特産品やお餅が入っていたので、大晦日と元日はそれを食べた。31日の朝電話をしたら、指宿も大雪だったそうだ。雪のしんしんと降る静かな夜。一人でさぞかし寂しい大晦日だったと思う。

 母にフランスに来てもらおうと思って、がんばっている。フランスに来て、わたしの仕事を手伝ってもらおうと思う。
「まだ働かせる気か?」
と言われるかもしれないけれど、母は動いているのが母なので、動いてもらいたいのだ。

 とりあえず、わたしの計画はまだまだ実現に遠いので、今年の五月に調理師と剣道の免許に受からなければならないと思って、がんばっている。また明日からレストランの仕事に戻る。

 5月に試験に合格することを前提で、じつは、既に《合格祝い》を買ってしまった。
今年の夏休みに家族といっしょに日本に帰ることにした。予約のことを聞こうと思って旅行会社に電話をしたら、もう今から予約しないと夏休みの分はなくなりそう。。。と言われたので、あわてて予約して、クリスマスにチケットのお金を払った。せっかくもらった翻訳料は、すっからかんになった。足りなかったので、JPにも払ってもらった。ミーさんとの仕事はもうないので、日本で仕事をすることもないから、がんばってお小遣いをためてから出発しなければならない。
「夏休みには、指宿でマンゴー狩りのアルバイトがいっぱいあるよ」
と母が言うので、指宿でマンゴー狩りのアルバイトをしよう〜っと。
がんばるのだ〜。 
 チケット買ったので、合格しなくても、途中で挫折しても、お金が足りなくても、とりあえず日本に帰らなければならなくなった。それを励みにがんばるぞ〜〜という気持ちでいっぱい。それがあるからがんばれるだろう。
 春の、父の七回忌には帰れないけれども、お盆に指宿に居れる。お盆を指宿で過ごすのは20年以上ぶりだ。日本の夏に耐えられるのか。。。わたし。。。?夏に温泉祭りとビヤガーデンを楽しみにしていたのだけど、《温泉祭り》は夏にはやらないそうでがっかりしている。《山川港祭り》で我慢するか。。。開聞あたりでもなにかやっているに違いない。指宿の《てんちの杜》のコンサートにも参加できるかも。蛍は夏じゃないそうなので、がっかり。蛍は夏の風物詩かと思っていたのだがな〜。

 さて、18日の夜からスタートしていたクリスマス休暇も終了。子ども達は明日から学校へ。でも、絶対に明日の朝6時半には起きれないだろう。わたしも。。。。起きれないだろう。。。


 今年も前向きで、健康で、穏やかで、ニコニコできることがいっぱいあって、キラキラ輝く年になりますように。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。