2009/03/29

春を呼ぶカーニバル






 毎年夏休み直前に、ジャンジョレス幼稚園とジャンジョレス小学校で合同のお祭りが催される。校庭にスタンドを設けて、ゲームやくじ引き、コンサート、青空レストランなどをする。でも、PTAやの限られた役員の労働が厳しいのと、出費が多い割に収入にならないので、今年は出費が少ないながらも、より多くの人が参加できる催しを考えることになった。

 そこで、冬から準備していたのが、市内三つの小学校の、合同カーニバル。
三つの小学校が集まっていっしょに何かをしたことはなかったので、うまく連絡をとりあえるのか、最初はとても難しそうにおもえた。
でも、子どもたちのために何かをやろうと思っている親は、ジャン・ジョレス小学校にだけ集まっているのではなかった。

 三つの小学校のPTA役員が一堂に会すると、今まで考えてもいなかったアイディアも出るし、なんといってもコネクションが増える。
たとえば、わたしたちの小学校で、ずっと案として温めて来たカーニバルがこれまで実現しなかったのは、交通規制の問題が残っていたからだ。公道で何かを行なうとなったら、警察の許可が必要だ。
 うちの小学校でPTA関係者に警察に縁のある人はいなかったが、よその小学校でそういう人を見つけることができたので、カーニバルのための交通規制に、警察が率先して参加してくれることになった。
 小さな町では、市役所や警察などにコネがあると、結構なんでもやれるのだなあ〜。
トラックと音響設備は市役所で働くお父さんたちにがんばって出して来てもらったし、《親戚の火吹き男》まで引っぱって来た人もいた。町の広場にはカフェバーをやってる人がきれいなテラスを出してくれたし、警察のおかげで、町の主要道路がシャットアウトされ、子どもたちはにわか歩行者天国で自由に踊り回ることができた。小さな子どもたちの行列に、意地悪いクラクションを鳴らす人はいなかった。車に紙吹雪をまかれても、怒っている人はいなかった。(紙吹雪はお母さんたちが用意した)
 町の体育館では、PTAのお母さんたちによって準備されたおやつが、子供とそして大人にも振る舞われた。経費と動員された人員が三つの学校で分けられたので、負担も分散することができた。そのかわり、想像していたよりもずっと盛大なカーニバルが実現できたので、とっても楽しかった。途中のハプニングは、来年の《肥やし》となるのだ〜。
 最終的に参加の希望を提出した子供の数は500人近くだったが、仮装してやって来た大人もいっぱいいたので、ずいぶんにぎやかだった。

 ハローウィンと間違って、吸血鬼やドラキュラもいっぱいいたが、動物の着ぐるみやスパイダーマン、ゾロの既製の変装グッズを持っている子供が多く、お姫様とダンサーと妖精も溢れるぐらいいた。
 うちの子どもたちはなに変装したかと言うと、、、

    《日本人》

《仮装》って言えるんでっしょーか?

 ノエミなんて、呼ばれてもいない小学校の仮装行列に、勝手に《日本人》に仮装(?)して参加してしまった。
浴衣姿なんて見せることがないので、大好評だった。

 母は、いったいなにを。。。

《サムライ》ってことで、剣道衣を着て出て行った。
ああ、芸がない。。。

2009/03/26

わたくし、お城むき ザマス


 何度かカルカソンヌのお城を訪ねた。2500年の歴史を持つ城塞都市。
写真は現在のカルカソンヌを南西から見た風景。

 数年前にパリの友人と訪ねた時、歴史に関するお話も聴ける、ガイド付き場内一周コースを選んだ。

 カルカソンヌの城内では長い戦いのため、食料も尽き人々は城内で次々に死んでいった。これが最後と覚悟しなければならなくなったシャールマーニュとの戦いで、ついに城を包囲された時、城主の妻カルカス夫人は、人形をこしらえて兵士の服を着せ、城塞の上に立たせ、城の中から外に向けて矢を放たせ続けた。それから、残っていたわら束を最後の豚に呑み込ませると、お腹のふっくら膨らんだその豚を、城塞の外に投げ捨てた。
 それを見たシャールマーニュは、敵にまだまだたくさんの兵士と、捨てるほどの食料が残っていると思い、撤退を決めた。カルカス夫人が勝利の鐘を鳴らした(ソンヌ)ことから、《カルカソンヌ》という名前が残っている。

 この石のお城には、おもしろい仕掛けが沢山詰まっている。
まず門を入る時、門の上から沸騰したお湯や石ころが降って来る仕掛けになっている。
高い石垣は忍者でも登れないだろう。
らせん階段のステップの幅は均一ではなく、しかもちぐはぐに傾いていて、高さもバラバラ。それは敵が城内に入った時に武具を着けた兵士の動きを鈍らせるため。廊下は迷路のように複雑で、防御(あるいは城からの攻撃)に最適な敵には見えない壁や隠れ穴がたくさんある。そして各部屋の出入り口は低く狭い。
 
 「ちょっと、そこのあなた。そこの中国人っ!あなた、身長148センチですね!?」
ガイドのおじさんが観光客の群の奥にいるわたしに、右手の人差し指を突きつけた。
「へ?そうですけど。。。」
観光客が一斉にわたしの方をふり向く。
 「みなさん、あの女性を見てください」
(だから、なに?)
「148センチですよ、小さいですね」
(ほっといてよ)
「当時の平均的な大人のサイズです」
みんなが感心してうなづく。
(うなづくなよ〜)
「なので、ここにいる誰よりも、この城むきの体格をしているのはあの女性です。あなただったら快適に暮らせますよ」
って、ガイド氏よ。。。
 たしかにJPは、日本の家でもよく頭をぶつけるから、カルカソンヌのお城も無理だろう。
そうか、わたしはお城むきだったのね。
「今あなたが立ってる、そこ。そこで槍を持ち、その廊下を走って来る敵を待ち構えているのです。」
148センチだったら頭が飛び出ない高さの壁がわたしの後ろにあった。その壁の前にただ立ち、頭の上にやって来る敵を、下から槍で突けばいいんだそうだ。

 そのお城めぐりをした年に、はじめて彦根城を見物した。そして、お城に隠された様々な知恵に感動し、わたしは建物の構造や、そこで生きたその時代の人々の、活動のパターンといったものと身体の動きの関係について興味を持った。時代や場所・そこで営まれる作業・運動によって、履物が変わり歩き方が変わった。また、それに伴って腕の動かし方や肩の揺れ方も、時代とともに少しずつ変わってしまったことを知った。そういうことを学ぶうちに、武士の動きとそれを武道という形で習おうとしている西洋人の動きについて、その違いにも関心を持つようになった。武士の動き・習慣・時代別な戦いの違いは、建物や道具に反映され、生活習慣によって人の動きや物の見方までも変わってくることについて、とても興味深く感じている。

 それで、こじつけのようだが、暮らす場所というところは、毎日の身体の動きや、日常の習慣などにマッチしていなければならないだろうから、住む人の必要に応じて暮らしやすく造り替えられたはずだ、と思う。その時代の人の暮らした場所を知るということはまた、人の歴史や生活を知る上でとても重要なポイントだと思う。この話しはまたいつかじっくり。

 数年前に東秀樹の『異形の城』という小説を読んだ。織田信長の幻の安土桃山城に関する物語で、明智光秀が主人公。
 そのころは織田信長について、よく知らなかった。本を読みながら、史実を知ってたらもっと楽しめるだろうと思いはじめた。
うわさや作り話よりは、ほんとうにあったことを知りたい方なので、専門家の文献を読むのは好きだ。専門家でそのうえ文章もうまい人はそうはいないので、専門書は挫折することも多いけれど、事実は小説よりも奇。



 この小説からお城の構造に大変興味を持った。もっとお城について知りたくなり、お城の造りに関する本や、近辺の地理や歴史について書かれた物をいくつか読んだ。
 なかでも気にいっているのは徹底復元『よみがえる真説安土城』というオールカラーの写真集みたいな見る本。コンピュータグラフィックスで再現されたお城の写真(?)と、設計図などが沢山でているきれいな本だ。


 今は山本兼一の小説『火天の城』を読んでいる。信長はどーでもいい。番匠(大工さん)親子の物語。城造りの過程と建築について、かなり詳しい表記が楽しめる、迫力のある小説だと思う。またもや『よみがえる真説安土城』の写真集を出して来て、自分なりにいろいろ想像しながら、乱破になって石垣を登ったり、御屋形様になって天守に立ったりしている。ルイスフロイスがヨーロッパの大聖堂のはなしをする時に、この辺のお城や教会を思い描く。

 時代モノを読んでいて楽しいのは、味のある表現を発見するとき。
 「口がまことの言の葉をつむぎますのや」など、その一例。
あと、こんな表記。
「上段に太刀をふりあげ、大きく踏み込んで左肩から袈裟懸けに斬りつけた。物打が頸動脈から頸骨をざっくり裂き、血しぶきが吹き出した。」
 これ、制定居合の形の中に《袈裟切り》という動作があるので、思わず身体が動いてしまった。このあと右手に持った太刀を《血振り》して《納刀》となるのだが、こうやって読むとリアルだ。。。《真剣勝負》《切っ先》《鯉口を切る》など、剣の道から出て今もよく使われる日本語がいっぱいあることに気づく。



 この冬名古屋城で、ちょいと人足もどきを体験した。(名古屋城にはエレベータもあった)
《石垣の石を引っぱってみよう!》というコーナーで、フンドシ姿のマネキンといっしょに石に繋がった綱を引っぱるゲーム。やはりナゴヤ人が再建したお城はひとあじ違う。石垣の石は、わたしには到底動かせるものじゃあなかったが、恋人を連れた青年が、顔を真っ赤にして動かしていた。
「キャア、すごおおーい」などとカノジョの喝采を浴びながら。。。
やはりナゴヤ人のカップルだ。
人を運ぶカゴがあったので乗ってみたが、やっぱり、わたくしサイズ。
それにしても、カゴを担ぐ人は力持ちだったんだろう。

 石を担ぐ表記なら『火天の城』にあった。
 『太い丸太ん棒に、麻綱で石がぶら下げてある。大人が手を広げた程度の大きさだが、それでも二百貫(750キロ)はある。石を下げた丸太と直角に六本の丸太を縛り付け、それぞれの両側に人足が肩を入れて担いでいる。総勢三十六人で運んでいるのだが、石は肩に食い込んで重い。』
 背の高い人は難儀したろうなあ。

ああ、久しぶりなので長くなった。。。

2009/03/22

三月のつづき


          キンカンの木(ナルボンヌで)
          JPは、金柑ジャムを作るつもり


          ほおずき
          外だけ枯れて鳥かごみたい。
          フランスでは通称 l'amour en cage
          訳したら《とじこめられた愛》かなあ?



          近所のサッカー場、桜が満開。
          でも花見はしない。



          友だちに預かったネコ《ベベ》
          一晩目から子どもたちと仲良くなった。

2009/03/20

三月の第一週目に見たもの(ナルボンヌで)


          ゾエとコラン。レモンの木の前で


          アーモンドの花


          アーモンドの並木(桜並木みたい)


          オリーブの木


          家の中でつかまえた、虹

2009/03/13

空は青かった

 カーモーを出てちょっと行ったアルビの郊外で、朝日が昇るのを見た。
パッションフルーツとマンゴーのアイスクリームのようで、とってもおいしそうに見えた。
不思議な力を持つ例の友人《か》が日拝をすすめるので、いつかはやんなきゃと思っていたが、普段この時間は子供を学校に送り出す時間の前後だから、おお忙しくしていて、太陽のことなど考えられない。
 お葬式へ向かう車の中で、燃えるような朝日が地平線から昇って来る瞬間を見たら、手を合わせずにはいられなかった。

 ナルボンヌというところは行くたびに突風が吹いている。だから、天気がよくても風は強いかと思って、わたしたちはコートを着て出掛けた。わたしは黒い服を着なかったが、コートは黒かったので悲しげで、ちょっといやだった。JPとわたしは遅れて到着し、遺体安置所のドアを押したら、廊下に立っていた親族一同が一斉にわたしを見た。

 廊下の正面にいるキャトリーヌのところに、まっすぐ行って抱きあった。
キャトリーヌに会うのは、12年ぶりだろうか。
変わらぬ細い身体をして、ずいぶんやつれたほおが、痛々しかった。
数年前に17歳の息子を交通事故で失った彼女が、今度は母親を亡くした。
痛々しかった。

「おばさんの遺体は痛みが激しく、おそらく最後にひと目でも、会うことは無理だろう」と言われていたが、葬儀屋さんのおかげで、おばさんはいつものピンクのパジャマを着て、きれいにお化粧を施され、安らかな顔で横たわっていた。
小さかった。そして、冷たかった。
夢や希望を語っていたおばさんは、あんなに大きく見えたのに、夢も将来も捨てた彼女は、小さく縮んでしまっていた。
人の身体がこんなに冷たくなれるとは、思ってもいなかった。

 親族の自動車は、霊柩車のあとをついて教会に向かった。
とても活動的なおばさんで、いつもいろんなクラブに参加していたというのに、親族12人以外に来てくれたのは、3人だけだった。寂しいお葬式だった。
神父さんの言葉は、教会に響き渡って聞き取りにくかったが、
「忘れないでください。思い出し、愛し続けてください。」というところだけは、はっきり聴こえた。
どんな祈りの言葉も、わたしには唱えることはできなかったが、《アヴェ・マリア》だけはいっしょに唄った。

 場所を変えて、カルカッソンのそばにある火葬場に向かう。
火葬場の人はたいへん事務的で、火葬場という所はとっても閑散とした、乾いた場所だった。
最後の別れをし、男性軍だけでおばさんを見送り、女性軍はキャトリーヌと姉のフランソワーズを囲んで抱き合った。
ご主人のフランツのお墓は古郷のブルターニュにあるので、キャトリーヌが灰を持って帰る。

 灰になるのを待つ間、わたしたちはカルカッソンのお城を巡った。ブルターニュに住んでいるキャトリーヌが、このお城に来るのははじめてだったので、ちょっと観光させようと思ったのだ。
 何百年も、そのままの形で残っている城塞と、石畳と、大聖堂と、町並みと、大聖堂のロザスRosace(バラ窓)を眺めながら、人は死んでも時間は流れて行くのだと思った。
大聖堂の塔を見上げると、青く高い空が見えた。
煙になったおばさんは、青い空に昇っていった。

 帰宅途中、朝日を拝んだ同じ場所で、西に沈んで行く夕日を見た。オレンジと紫と茶色と金色がグラデーションをなして、空に薄く広がった雲を染めていた。

 日が昇って、そして落ちる間に、おばさんは灰になり、生まれたところに戻って行った。

2009/03/11

最後かもしれない




 ここ一年は何度も日本に帰国した。仕事をするためだったので、いちおう新しいコートを着て、安物なれども新しいアクセサリを身につけ、履き慣れない靴を履き、普段は滅多にしない化粧もして帰った。なので、おフランス帰りのみのりちゃんは、やけに華やかで、「成功されて。。。」などと言われ、行く先ざきでちやほやされた感がある。指宿にはおフランスから遊びに帰ってるんだから、そりゃあ、華やかである。でも、「まあ、遠くから帰ってらして、親孝行さんね」と言われると、穴に入りたくなる。
親孝行というのは、やったことがないからだ。

 日本に帰るたびに、日本の人に会うたびに、
「もう帰って来れないかもしれない。」「もう二度と会えないかもしれない」
と、本気で思う。だから、帰るたびに、どんな無理をしてでも、精一杯歩き回る。

 滅多に帰ることのなかったわたしなので、はじめは沢山の人が顔を見にきてくれた。何度か帰るうちに「またか」って感じの人もいる。電話してもメッセージを送っても答えてくれない人もいるし、もう会いたくないと、はっきりいう人もいる。
 でも、わたしには「もう会えないかもしれない」という焦りがあるので、「会いたくない」という人はいない。

 大分にどうしても会いたい人がいたので、鹿児島から大分に日帰りした。
朝の4時すぎに出る電車で鹿児島に行き、鹿児島から博多、そして博多から大分まで高速バスで。13時頃着いた。
遅いごはんを食べながら、沢山喋った。
本当に沢山喋ったけど、でも、何を話したということもなかった。
自分の話をしてる間に、あっという間に帰りのバスの時間が来てしまった。16時半ごろの高速バスで大分をあとにし、同じルートで曜日が変わってから自宅に着いた。

 翌日は、種子島に向かった。
指宿で一日一便の高速船に乗り遅れたので、鹿児島まで走って鹿児島で迷い、鹿児島からの船に二度乗り遅れた。高速船の待合所のテレビで、高校の時の先生を見た。英語の先生だったのに、今は、薩摩狂句の生放送をこなすらしい。ちょっとびっくりして、テレビの真下まで行き見入った。
 お昼すぎに種子島に着いた。入院しているおばに会い、脚の不自由なおばに会い、滅多に会えない従姉たちに会ってたくさん話をし、床に伏せている祖母の手を握った。

 おばと墓参りをした。
わたしの一番古い記憶の中に、もう一人の祖母が息を引き取った日の冷たい朝がある。そしてその記憶と重なるのが、祖母が体操座りで身を縮めている姿。冷たい朝のベッドの上に横たわる祖母の姿を思う時に、いつも、体操座りの祖母の姿も思い出す。
「どうしてだろう?」
おばに問いかけると、祖母が屈葬されていたことがわかった。樽状の棺(座棺)に入れるために、膝を抱えるように座っていれられたのだそうだ。そんなことが、まだ35年ぐらい前の種子島では行なわれていたのか。

 最後に父と別れた時、父はまだ生きていた。わたしが実家に居る数日の間に、息を引き取るんじゃないかと、みんな思っていたのに、まだちゃんと生きていた。予定の飛行機に乗る日が来て帰るとき、もう絶対に生きて会うことはないと思った。もうすぐ死ぬ、でも、生きてる父に送られて、わたしの方が先に実家をあとにしなければならなかった。父が「もう生きて会うことはないだろう」と思っているのかどうか、わたしにはわからなかった。

 父は、「もう会えないんだから、もっと居てくれ」とも、「行かないでくれ」とも、言わなかった。
わたしはそれまでに、なんども家を出たことがあって、そのたびに「もう帰らない」と思いながらも「行ってきます」と言って家を出たが、父は「いってらっしゃい」も「はやく帰って来いよ」も、一度も言ったことはなかった。

 父の顔を見るのは今度こそ最後だと思ったその朝に、わたしは「行ってきます」と言わなかった。
「わたし、行くから。また、どっかで会おうね」と言った。
そして、家を出るわたしに声を掛けたことなどなかった父が、はじめて応えた。
大きくうなづいて。

 たまに、父にそっくりな人とすれ違う。

なぜ逝き急ぐのか

 すごく、重いテーマだ。

ひーちゃんが生まれた時に「次は誰だろう」と思ったら、てーさまだった。
りーちゃんが生まれた時に「今度は誰だろう」と思っていたら、JPのおばさんだった。
JPのおばあさんが逝った時には、ノエミだったし、
JPのもう一人のおばあさんの時には、ゾエだった。
そして、ノエミとゾエの従弟のコランは、父の代わりだと思っている。

 不思議なことだが、誰かが去るとき、代わりの誰かを置いて行ってくれてるような気がするし、誰かが生を受ける時、どこかでべつなともしびが消えて行ってるような気がする。自分の周りで。

 とっても、ふしぎなのだ。

 明日、JPと二人でお葬式に行く。
JPはスーツなんか持っていないので、ジーンズで行くんだそうだ。
わたしは、黒い服だったら捨てるほど持ってる。普段から黒い服しか着ないから、この前の週末の誕生日も「葬式に行くみたい」と言われたのだ。そんなこと言うもんじゃなかったのに。
だから、今度からJPの両親の家に遊びに行く時には、お葬式を思い出させないように、もう、黒を着るのはやめるのだ。

 おばさんはとってもダイナミックな人で、ダイナイマイトが隣で落ちても、彼女だけは生き延びられそうな人だった。お歳はもう80を越えていたけれども、夢がいっぱいあって、活動的な人だった。
なのに、いきなり襲った体力の衰えに、自分の辛い将来を見たのだろうか。
数ヶ月前から楽しみにしていた、お友達同士でのエジプト旅行を、キャンセルすることになった一月の寒い日に、元気のないおばさんとごはんを食べた。あのとき、おばさんはなんと語っていただろうか?なにかしらの、サインは出ていなかったか?
自らの命を絶つというのは、いったいどういうことだったのだろう。
そして、子どもたちに残した手紙に書かれていたように、愛するフランツのもとに、たどり着けたのだろうか?
残された子どもたちは、最後の電話をもらった妹は、これからどんな気持ちで生きていくのだろう。

 わたしは、自分の子どもたちに、なんと言ったらいいのかわからない。
信じていた人に、裏切られたような気持ちだが、相手はわたしたちを信じて、助けを求めていたのではなかったかと思う。

 お天気は最悪で、暗く、太陽からも見放されてる。
とっても辛い一日が待っている。

2009/03/09

2月14日 国道225号線をゆく

大阪で目覚めた。
名古屋にユーターンして、昼には鹿児島行きの飛行機に乗る。
よいお天気になった。駅伝日和。

「息子の駅伝が終わったから、空港まで会いに行くよ」
と、まゆみちゃんから電話をもらって、空港で会う約束をする。
名鉄駅に預けてあった荷物を受け取ってから空港に向かい、まゆみちゃんが空港に着く前に、鹿児島行きの搭乗手続きを済ませた。まゆみちゃんと国際線と国内線窓口の中間で落ち合い、一緒にお弁当を買って、にぎやかな空港の2階でお弁当を食べながらしゃべっていると、彼女の初めて会うご主人と娘さんも現れた。まゆみちゃんのご主人は初対面とはいえ、鹿児島弁と標準語もどきの名古屋弁のバイリンガルなので、初めて会った気がしない。二人は普段は標準語を話しているのに、わたしのせいでもうすっかり鹿児島にもどっている。おもしろい。
 わたしは、まゆみちゃんと思い出話をし、まーちゃんと過ごした前夜の話をし、故郷の話をした。

 時間はあっという間にやってきて、まゆみちゃんと別れる時には、会った時と同じように涙が出そうになった。まゆみちゃんとは東京で働いているときにもいっしょだった。故郷からこんな遠いところで頑張っている友人たちを見ると、いつも元気づけられる。笑顔の素敵なご主人に「まゆみちゃんのこと、どうぞよろしく頼みますよ」とお願いしてお別れした。

 セントレア空港で、鹿児島行きの搭乗口待合所にたどり着くといつもほっとする。ここまで来たら、もう鹿児島弁が聞こえてくる。名古屋から鹿児島までは、パリからトゥールーズに行くぐらいの時間しか掛からない。あっという間だ。飛行場はとっても小さく、国内線で大きな荷物を受け取る人は少ないので、みんなどんどん外に出ていく。空港に着くと、ラルとキョーコちゃんが約束通り待っていてくれた。

 鹿児島市内までは高速道路、市内を抜けてから指宿までは、ずっと錦江湾を左に見ながら、一本道の国道を走る。通称《産業道路》を抜けたあたりから指宿までの、この国道225号線が好きだ。湾内の荒れない海と、向かい側の大隅半島、右手に迫った崩れやすいシラスの山並み。車窓にマングローブやヤシの木が駆け抜ける。桜島が目の端に遠くかすみはじめると、喜入の石油タンク群が見え、そこを過ぎるとそろそろ知林ケ島と魚見岳の姿がはっきりしてくる。
今泉の松林が見えると、指宿に帰って来たなと思ってジンとする。

 静かな錦江湾を眺めながら、わたしたちは喫茶店でお茶を飲み、途中キョーコちゃんの用事で、焼酎の専門店に寄った。指宿のみんなが「おいしい」というタダムネくんちの焼酎は置いてなかった。長崎鼻まで行かないと手に入らないという。
わたしは国道225号線で揺れながらネジを巻く。からだがあそこにたどり着くころに、心も少しずつ戻ってくる。

 フランスの家族と別れてから9日、やっと日本の家族にたどり着く。
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 わが胸の 燃ゆる想いに くらぶれば 煙は薄し 桜島山


  右から、知林ヶ島ー桜島ー魚見岳の鼻、《ジャイアント馬場の横顔》と呼んでた岩があるところあたり。フランスのモン・サンミッシェルのように、干潮の時には歩いて渡れる知林ヶ島。


 昔バイトしてたグリーンピア(現メディポリス)から見た指宿

ちりっ の 瞬間 3月8日

前日ナルボンヌのJPの両親宅に着いた。
弟夫婦がお正月から実家のすぐそばに引っ越してきているので、みんなでJPの誕生会をすることになっていた。
弟たちが、JPに何をあげたらいいだろうかと訊くが、わたしにはJPの欲しがってるものなどわからない。

 JPはなにも欲しがらないし、なんにでも喜ぶ。ひとつのものを長く大事にする方で、気に入ったものはいつまでも使う。お土産やプレゼントをもらえなくてもぜんぜん気にしないし、人に何かあげたい時には、時を構わずあげる方なので、自分もそうされると喜ぶ。自分で買う時には、時間とお金を掛けて厳選したものだけしか買おうとしないのに、人からちゃちい物をもらっても、バカにしたりしない。本人の外見と彼の趣味のギャップが人を驚かせるタイプで、いつも難しい顔をしているために「なにをあげても喜ばないかも?」と思われるタイプ。だから、人はいつも《無難な線》を選ぶ。本かバンドデシネをあげたら、いつものように黙って姿を消し、静かにそして幸せそうに、座って黙々とページをめくる。
《無難な線》案をクリスマスで使ってしまったばかりなので、わたしたちは何かあっと驚かすような物にしたいね、ということで、JPのお母さんが集めている、さまざまなお店のカタログを眺めることにした。

 弟の奥さんのソフィーと、巨大スーパー「カルフール」のカタログを見ていたら、レコードプレーヤーが載っていた。わたしはそれを今度のクリスマスにプレゼントしたいと思っていること、とっても高価なので、今からお金を貯めようと思っていること、などをしゃべった。そこへ、弟があらわれ、
「なに?JP、それ、ほしいがってるの?レコード持ってる?」
と首を突っ込んできた。
 うちには、八十年代にJPが集めていたレコードがいろいろあって、ずっとそれらを聞きたいと思っていたのだけど、プレーヤーが壊れているというので、いつかプレーヤーを買ってやるぞ!と、数年前から思っていた。最近また黒いレコードのブームで、割合安く(私には高価だけど)プレーヤーが手に入るようになっているようだった。

「これまで兄さんにはまともな贈り物をしたことがなかったし、誕生日を一緒に祝えるのも数年ぶりだから、これを買ってあげよう」
と、弟が元気よく宣言した。
いやあーびっくりした。この弟からこんなセリフが出ようとは。

 わたしはすでに音楽を聴くためのiPodを買ってあった。こちらもずっと買ってあげたい、あげたいと思っていたので。
弟は宣言通り、土曜日のうちにプレーヤーを求めて数軒の店を走り回り、ついに買ってきた。箱を覆える大きな包装紙がなかったので、箱の二面に白い紙を貼って、子供たちに絵を描かせた。
ゾエはハートをいっぱい描いた。

 先ほど両親の家から戻り、JPは真っ先にプレーヤーを居間にセットした。JPが一番に掛けたのはThe Police の De Do Do Do De Da Da Da だった。わたしたちは一緒に歌った。
黒くて真ん中に大きな穴があいている、本物のレコードだ。子供たちがびっくりしている。
JPはプレーヤーの調節を終えたら、今度は書斎にこもってiPodをいじり始めたので、わたしはそっと居間に戻り、ずっとずっと聴きたいと思っていた、Simon and GarfunkelのThe Concert in Central Park を掛けた。
2枚組のうちの1枚目A面に入っていたSCARBOROUGH FAIRが終わった時に、急に静かになったので、何が起こったのかと思ったら、1面に5曲しか入っていないのだった。そんなこと、すっかり忘れてた。

 そのレコードはちょっと波打っている。レコードというのは大きな黒い物体で、とっても傷つきやすそうだ。CDのように手に乗らないから、落としたらどうしようと思って、こわごわ動いてしまう。針の先にホコリが集まって来るのや、波打っているために、一周するごとに、ほぼ同じ場所で大きく上下する針を追いかけながら、音を出す瞬間に機械の中でいったいなにが起こっているのか意味不明のCDよりも、はるかにおもしろい物体だと思った。レコードが回る姿を見ているだけでも楽しい。

 針が真ん中にたどり着くたびに、立ち上がり、プレーヤーの所まで行って、針を持ち上げる。レコードはひっくり返したが、さて針をちゃんと正しい場所に置けるのか、とっても不安だった。針を置く瞬間に「ちりっ」となるのが、懐かしくて涙が出そう。
JPのレコードを次から次に出して、聴こうと目論んでいる。
わたしたちの八十年代は、あんなに遠く離れていたのに、けっこう似たようなものだったんだなあ、と思う。
JPは44歳になった。(43だと思ってたのに、違ってた)

 来月、わたしは42歳になる。(32だと思ってたのに、違ってる)今まで、誕生日のプレゼントにリクエストを出したことはないけれども、みんなが「変な物あげるよりいいし、考えなくて済むから」というので、今年は、絶対にリクエストを出そう。
ジャズやクラシックのレコードなんか、たのめるだろうか?

2009/03/07

3月8日 ちょっと休憩、この週末

 3月8日はJPの43歳の誕生日です。
週末に、ナルボンヌの両親の家でお祝いをします。
カーモーから持って行くお土産は厳選朝市グッズにしました。

− エチオピアから直接買い入れて、カーモーで焙煎されたコーヒー豆
− ほうれん草 2キロ(段ボール山盛り一杯)
− リンゴ 2キロ (10個ぐらい)
− ロマネスコ という 変わったブロッコリー
− アルコール分なしのシャンペン(子供とわたし用)
− 日本からのお土産 (例えば五本脚の靴下、など)
− 新鮮なサラダ菜

10月の日本への家族旅行で撮った写真を、300枚選び抜いて、現像しました。
来週にはアルバムに入れて行こうと思います。

 毎週野菜を届けてもらっているアマップという無農薬野菜の定例会議があったので、やさいをとりに行った帰り、みんなで食事しました。持ち寄りで、とっても楽しいお食事ができました。
天気が悪く、野菜がとれません。リシャーはニンジンを別な農家から買いました。大変そうです。

 2月に日本で撮った写真、いろいろ。バラバラ。

2月の桜島


たのかんさあ(田の神様)


金に輝くシャチ


名古屋城の2月の桜

2009/03/04

大阪の夜

 この晩大阪で会う友だち4人のうち3人は、一年以内に会った人たちなので気が楽だった。ひとりだけ、高校卒業以来会っていなくて、でもじつは、ずっととっても会いたいと思っていた同級生が来ることになっていたので、フランスを出る前から胸ときめかせ、この日を楽しみに待った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 高校一年生のはじめに、とってもとっても辛いことがあって、わたしの高校生活のスタートは、あまりぱっとしなかった。
一晩中「あした学校に行きたくない」と唱えた翌日には、都合よく熱が出た。遅刻が多くなり、欠席も多くなった。しぶしぶ出て行くと、ちゃんと見破ってる担任のカワナベから「気合いを入れろ」と、牛乳瓶の底で頭を叩かれる。ますます行きたくなくなる。

 人気のない寂しい自転車小屋を出て、しんとした靴箱を抜け、階段を上がって1年の教室が並ぶ2階にため息をつきながら上がる。階段の角は1年4組で、自分の1組に行くにはそこを通らなければならない。

 1年4組の廊下には毎朝《まー》ちゃんがいて、4組の教室の窓の所に座っている彼氏と、セイシュンしている。遅刻ギリギリのさえないわたしに、《まー》ちゃんは色白のつるつるした笑顔で「おはよう」と言う。
 暗がりの中ため息でエベレストを登頂したわたしに、《まー》ちゃんは、毎朝、さわやかな笑顔を向けて「おはよう」と言う。こんなさわやかな彼女のいる男子は、どんなに幸せだろうと思った。大嫌いな学校の、うさんくさい1年4組の前で、一日の一番最初に会う《まー》ちゃんに元気よく「おはよう」とも言われず、1年4組の角で無視でもされていたら、わたしは、さっさと自転車小屋にUターンしてしまっただろう。
 《まー》ちゃんは、憧れだった。

 《まー》ちゃんとは、学校では深い付き合いに至らなかったので、外見しか観察できなかったが、遠くから見ていると、彼女はとってもはっきりした人間に思えた。田舎の高校で《はっきりする》っていうのは、勇気がいる。特に女子は羊の群の中でぬくぬく暮らしたいもの。トイレにだって一人じゃ行けない。
 男子と言えば軟弱で、嫌でも別れられず、女子と言えば羊なので、好きなのに打明けられない。ぶん殴ってやりたい教師にさえ、ぶん殴られることに甘んじて抵抗を避け、どうして行かなきゃならないかもわからない学校にさえ、毎朝ちゃんと出て行く。親に弁当作らせて。
 そんな羊の群の向こう側で、セイシュンしている《まー》ちゃんの、楽しそうな声がケタケタと響く。《まー》ちゃんが怒っている時には、はっきり怒っているんだな〜とわかった。《まー》ちゃんが三角関係に至ったときには、学校中が知っていたし、「欲しけりゃくれてやる」と捨て台詞を吐いた時には、拍手喝采がおこった。わたしはというと「くれてやられた」男子の行く末を案じていた。
 わたしは《まー》ちゃんの、禁止されてるロングヘアーをかきあげる仕草や、笑う時に傾ける頭の角度や、うれしい時に消えてなくなる目などにいつもほれぼれし、うちの高校では誰も話さない大阪弁で
「みのりちゃん ちっこいな〜」
と言われると、むずむずした。

 はっきりしている《まー》ちゃんが彼氏といる時には、同級生女子は近づけなかった。こんな田舎で《世界》作ってセイシュンしてる同級生には、やっぱり、近づけない。羊だから攻撃はしない。なので、「近づけないよね〜。あの2人」などと言って、敬遠し遠巻きに眺めていたの、かも、知れないけど、みんな本当はうらやましかっただけなんだと思う。

 《まー》ちゃんが大阪にいることは、数年前から知っていた。いつか大阪に行くことがあったら、会いたいな、会いたいなと思っていた。

 そして、わたしたちは、大阪で再会を果たした。

 《まー》ちゃんは絶対に素敵な四十オンナになっていると確信していたので、フランスを出発する前に、お化粧の仕方を習った。結局当日、迎えのジミーを待つホテルの小さな洗面所で、いつものわたしで行こうと決めた。派手なアクセサリーを全部外して、目元のお化粧はぬぐって取った。料理屋さんに着いたら、まだ《まー》ちゃんは来ていなかったので、いいわけを作って外に出、近辺を一周してから遅れて座敷に上がった。

  わたしを覚えてる同級生は少ないだろうが、「覚えててもらえて、うれしいわ〜」と言う《まー》ちゃんを、忘れてしまった同級生はいないと思う。わたしといっしょに《まー》ちゃんと向かい合う、ほかの同級生たちも、にこにこしている。《まー》ちゃんの大阪弁には滑らかさと艶があり、優しい微笑みと手先の仕草が女っぽくて、ほれぼれする。
 わたしは《まー》ちゃんが隣に座っているだけで、胸がドキドキした。

 「いっしょに写真撮ろう!」と言ってくれた《まー》ちゃんに肩を組まれながら、幸せな気持ちでいっぱいになった。
次回は、わたしも、ジャック・ダニエルで乾杯できますように。

再会

 2月13日。
 不景気のあおりか、国際便が大幅に減って人の少ないセントレア空港で、ミーさんをフランスへと見送った。
空港から名古屋市内まで、車で送ってもらい、苦労して名鉄駅に大きな荷物を預け、わたしは大阪へと向かった。
 ミーさんとの仕事で、東京・横浜・名古屋・京都・大阪と走り回り、名古屋の駅にもずいぶん慣れた。鶴橋へは新幹線を使わずに、特急で行くことにした。

 鶴橋で出版社の《さ》さんが、待っていてくれた。予定よりも遅くなったので、ごはんを食べる時間も過ぎてしまったが、鶴橋の駅を出ると、開いている焼き肉屋さんはいっぱいあった。大阪の友だちに「出版社の人と鶴橋でお昼を食べる」と言ったら、「じゃ、お昼は焼き肉だね」と言われていたのだが、やっぱり焼き肉だった。うれしい〜。
 
 ミーさんとのおシゴトの話をし、チョコレートの話をし、焼き肉の話をし、初体験ホルモン焼きの話をし、家族の話をしているうちに、あっという間に時間が過ぎる。

 「さて、お仕事の話しもしましょうか」
と、いう訳で、文研出版にお邪魔した。出版社というところは、もっと煩雑で散らかっていて、煙草の煙はもくもくで、電話は鳴りっ放し、働いている人はスーツなど着ておらず、頭はボサボサで、職場で叫びあってるのかと思っていた。
 でも、ここはとっても静かで、廊下には人がおらず、玄関に受付も無く、編集部のみなさんにたいして珍しがられることもなく、小さな会議室で、甘そうなお菓子を出していただいた。

 わたしの3冊目の翻訳の本が決定した。今度大阪で出版社を訪ねる時に、第5章までは訳して持って行きますヨと言ったくせに、実際に提出できたのは3章までで、しかもひどいものだった。《さ》さんはどんなにがっかりしたと思うが、めげずにちゃんと加筆訂正を鉛筆で上書きしてくださっていた。これからどんな方針で仕事を進めるか、どんな本を作りたいのか、向かい合ってお話しできて、本当にうれしかった。

 提出した原稿がとても少なかったので、会議もあっという間に終わってしまった。フランスに帰ったらもっとまじめに仕事しますと心に誓い、小学3-4年生が読む本の参考になりそうな作品を数冊いただいて、おいとますることになった。

 《さ》さんは、2007年の9月に名古屋で再会した時にも、新幹線の切符を買ったり、ホームに上がったり、列に並んで、目指す車輛に乗り込むのを手伝ってくださった。自動改札口でわたしが手を呑み込まれそうになってビビっているのを、じつはじっと心配そうに見ていたのに、わたしが顔を上げるとニコッと笑って、見て見ぬふりをしてくださっていた。そして、いつもいつも「みのりさんは本当に荷物が多いですねえ」と言って心配してくださる。それで、今回は、荷物にならない商品券をプレゼントしてくださった。フランスを出る時から決心していた、ノートパソコンを買う費用に使わせていただいたので、パソコンの隅っこに《さ》さんより寄贈とシールを張って、バリバリ仕事に励むつもりだ。

 方向音痴のわたしを案じて、駅まで送ってくださり、次に会うことになっている従姉妹にも連絡してくださり、わたしは無事に鶴橋駅で奈良の従姉妹たちと再会することができた。従姉妹たちはずいぶん前からわたしを待っていてくれて、従妹の方がもう帰らなければならない時間に近づいていたので、ひさしぶりの再会であったにも関わらず、駅の構内にある小さな喫茶店でお茶した。
結婚式のためにフランスまで来てもらった時も、父の具合が悪くて家族で日本に帰った時にも、従姉妹たちとゆっくり話すことはなかった。奈良には40年行っていない。 親戚にしか言えないようなことをいっぱい言って、母のことを頼んだ。
従姉妹たちは「試練に耐えられるように」と言って、不思議なブレスレットをくれた。

 従姉にはこのあと会う同級生と連絡をとってもらい、場所を確認してもらって、そこまで連れて行かせた。駅から近いところにホテルを取ってくれたジミーが迎えに来るまで、ホテルの小さな部屋で、うろうろして過ごした。

 ドキドキ、本日最後の再会が待っている。大阪の夜も更ける。

2009/03/03

アルビ人 対 ナゴヤ人

名古屋城

サント・セシル大聖堂



 たまに《あー》さんから、変な鹿児島弁のメールをもらう。
「おいどんは こきちで ごわす。よかにせ じゃっど」
の、ような、ドコゾのものとも言えないような鹿児島弁だ。
《あー》さんのような北海道生まれ東京育ちのもんは、大河ドラマ辺りで鹿児島弁になじんでいるつもりなんだろう。

 シゴトで名古屋に行くことになり、名古屋の人とのふれあいも多くなった。人生四十年にして、本物の愛知県民と知り合いになったことは、かつて一度もなかったので、名古屋の人もいったいどんな人間なのか、とっても楽しみだった。

 名古屋の人は、名古屋人ではなく《ナゴヤ人》だ。
《アルビはフランスの中心》と思ってるミーさんは、「ナゴヤは世界の中心だっ!」と言ってるナゴヤ人の卸し屋さんとも、とっても気が合っている。
 
 ミーさんとわたしが名古屋に着いてまずびっくりしたのは、

       道路が広い。

 そりゃ、フランスは土地が余っているけど、車量が少ないので、高速道路だって片側二車線だ。
広々としたアヴェニューを見たいと思ったら、パリのシャンゼリゼ辺りに行くしかないだろうが、ミーさんもわたしも大都会は苦手なので、パリに行くのも必要最低限以下におさえていて、だからこんな道路見ることもない。
片側5車線なんて。。。信じられないッ。

 なにがおいしいのかなあ〜、と思っていたら、ミーさんが「日本食は東京で済ませたから、ナゴヤではフレンチだっ」と日本料理店をキャンセルさせたので、ウワサの味噌煮込みうどんは、いつになっても食べることができなかった。そのかわり、松坂牛の網焼きは何回かごちそうになった。フランス人はKOBEのお肉は辞書にも載ってるほど有名なので知っているが、松坂牛を語れるフランス人は、やはり、アルビじゃミーさんぐらいだろう。ミーさんは、税関の壁も突破し、松坂牛のかたまりを、スーツケースに入れて持ち帰ったほど、MATSUZAKAがお気に入りだ。

 ウワサのトンカツは、ミーさんをフランスに送り帰してから、名古屋近辺に散らばる女友達たちと食べに行った。
もともとトンカツは大好物でよく食べるので、「トンカツおいしいよ」と言われても、「へ〜そうなの」と思っていたが、名古屋のトンカツは、ソースがミソだ。「ソースがミソ」というのは、もちろん「ソースにポイントがある」っていう意味だけじゃなくて、「ソースがお味噌」なのだ。こってりごてごての味噌味が、わたしにはぴったり。味噌煮込みうどんを食べた時、わたし、名古屋だったら生きていける、と思った。




 東海テレビのスタイルプラスという番組でやってた「名古屋の不思議」という特集を見ていたら、「名古屋の人はコーヒーにあんこを入れます」と言っていたので、ナゴヤ人ならやるかも。。。と思う、今日この頃のわたしは、けっこうナゴヤ人通になりつつあるのだろうか。

 テレビの撮影隊はみんな名古屋から来る人たちだから、本場の名古屋弁が聞けるぞと楽しみにしていたら、ナゴヤ人のくせに、やっぱり期待通りの名古屋弁で語らない。「ぼくは富山だから」という人も約一名いたが、富山にだって富山語ぐらいあるんじゃないの?どうやら、これは、鹿児島人が大河ドラマみたいな鹿児島弁を使わなくなったのと同じ現象なのだろう。そのかわり、「東京でも大阪でもない」というプライドからか、ナゴヤ人らしい、のどかで、アクセントが《ミソ》の標準語もどきを話す。
 東京もんでさえ、ちゃんとした標準語を話せる人間は少ないので、ナゴヤ人が「わたしたちって標準語だがね」と言っても、ビビらない。でも確かに、宇宙語みたいにわからない関西弁は何度聞いても緊張ものだが、標準語もどきを話すわたしには、アクセントがミソの標準語もどきを使いこなすナゴヤ人の方が、親しみがわきやすい。
(同級生のほとんどは、わたしがふだん、東京もんのような標準語や、フランス語を話しているとは、どうも想像できないだろう)

 名古屋ではコーヒーにピーナッツがついているというウワサだったが、わたしたちは庶民の入る珈琲屋には入れなかったので、実際のところがわからない。けれども、どんなに高級なカフェ〜に行っても、コーヒーにチョコレートがついて来ないのは誠に残念だった。「カフェ〜」なんてフランスかぶれのする名前が付いていても、ウエイターのことを「ギャルソン」と呼んでいても、コーヒーにチョコレートがつかないなんて、「もどき」としか言えない。

 ナゴヤ人は、ただでもらえるならなんにでも集まって来るそうなので、コーヒーにチョコレート、トンカツにチョコレート、服を買ったらチョコレート、CDにもチョコレート、そして車を買ったらチョコレート。。。そういうサービスでチョコレートをもっと庶民に浸透させられる場所ではないかと思う。《スタイルプラス》で中尾彬が、ミーさんのチョコレートに味噌を入れたら?と言っていて、一人「これは。。。」と思ったわたし。
 今いきなり書きながら思いついたけど、今度ミーさんに、この案を提出しよう。。。

 それと名古屋では、地元の人にしかわからない地方番組がいっぱいあってびっくりした。わたしは夜遅くにホテルに戻ると、テレビをつける。やっぱり、どんなにザッピングしても期待通りの名古屋弁を聞くことはできないが、名古屋の地元情報がわかるので、「よし次回は、よし次回は」と夢見ながら深夜の地方番組を見ている。

 名古屋でのサイン会は、大盛況だった。スタイルプラスの特集の影響は大きかったと思うが、サイン会の列に飛び入りする人の多くは、並んだ時点ではミーさんのことなんかゼンッゼン知らないって人が多かったのじゃないかと思う。
 「あれ〜ガイジンきてるよ。誰だろ?」
「へえ〜フランスチョコレート界の巨匠だって、すっご〜〜おい」
と、うろうろしている人たちのほうを振り向いて、わたしが
「すっごい有名人ですよ」
とひとこというだけで、
「キャ〜買いに行こ行こ」と言って並んでくれる。
ナゴヤ人は売る方も買う方も上手?
(いつからナゴヤ人になったの、わたし?)
プライドのピントも外れているナゴヤ人は、その言葉に現れているように

 オモシロイ
 ヘン
 でも、カワイイ

のである。

 セントレア空港に向かう電車の中で、お年寄り女性二人が目の前に座った。
「みゃあ みゃあ」と期待通りの名古屋弁で、言ってることがぜんぜんわからなかった。念願叶って本物の名古屋弁を耳にできたわたしは、空港までのひとときを、幸せな気持ちに浸れた。

 東京の同窓会で《ンど》の五段活用をしてる同郷の友だちがいて、みんなで《ンど》は東京の言葉では表現できないと、全員一致の意見だった。
 フランス語では表現できない日本語もいっぱいあるところ、アルビのアクセントと鹿児島弁に共通点を見いだしながら、平和に暮らしているわたしなのだ。じつは、はじめてフランス人のフランス語を聴いた時に、「鹿児島弁にそっくり」と思って、うっとりしたのだ。