2006/11/10

パタパタ・ママ

むかしひらけポンキッキで、《パタパタ・ママ》という曲を聴きながら歌って踊っていた。《泳げたいやきくん》の頃ではなかったかと思う。「まあーいにちぃ、まあーいにちぃ、ボクらはてっぱんのおー上で焼かれて、イヤになっちゃうよオン」というあの有名な歌詞の《たいやきくん》のおじさんは、やけにインパクトのある顔をしていた。士門真人の《ほねほねロック》も大好きだった。すごく味のある仕掛けのMTVをやっておった。
 いまこれを書きながら《パタパタママ》の歌詞が知りたくなって、インターネットをたいやきくんのように泳いでいたら、歌詞が見つかった。最初に歌われたのは1977年の前川洋子さんとのこと。わたしって10歳にもなってポンキッキを見てたんでしょうか?

パタパタママ  パタパタママ  パタパタ
     パタパタママ  パタパタママ  パタパタ              
     6じ  あまど  パタパタ  うるさいな
     7じ  おなべ  ケロケロ  だいどころ
     8じ  パパのくつを  ピカピカ  くつみがき
     9じ  おそうじ  スイスイ  ぼくじゃまさ
     10じ  せんたく  ポイポイ  スイッチ  オン
     11じ  おふとん  ポカポカ  ふとんほし
     12じ  おけしょう  パタパタ  ママ  きれいだよ

     パクパクママ  パクパクママ  パクパク
     パタパタママ  パタパタママ  パタパタ

     1じ  おかし  パクパク  つまみぐい
     2じ  テレビ  チラチラ  いねむりさ
     3じ  となりのママと ペチャクチャ  ベランダで
     4じ  かいもの  ブラブラ  ぼくいっしょ
     5じ  おふろを  ピュクピュク  わかしすぎ
     6じ  パパをうきうき  おでむかえ
     7じ  ゆうしょく  パクパク  ママよくたべる

     パタパタママ  パクパクママ  もう8じ
     そろそろぼく  パジャマをきて  おやすみさ

白いエプロンがよく似合う、あこがれの専業主婦の鏡って感じだ。

わたしはさしずめ、どたばたママ。。。

テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャ テュリャリャ
テュリャテュリャテュリャ テュリャリャ 
のあの歌も懐かしい。ロシヤ民謡だそうな。
日曜日に市場へ出かけー糸と麻を買あって来ったああああーなどなどなど
《一週間》というタイトル

で、なにが言いたかったかというと、歌っている間にああっという間に一週間が終わってしまった。ドタバタと。

水曜日は農場の無農薬野菜を取りに行って、
木曜日はフランス語をさぼりいー
金曜日は朝市でチーズを買ってえー
土曜日は剣道をしたあああ。
日曜日は農場でカボチャの刈り取りをして、ついでにほおずきも食べたああああー。

テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャ テュリャリャ
テュリャテュリャテュリャ テュリャリャああああ !!

2006/11/07

提案

 休み明け早々、PTA役員と、学校職員、市役所教育関係者による会議。休み前の会議でこの会議の時に提案や質問すべきことをまとめた。

 給食事情はよくない。市役所も、四方八方からの苦情に頭を悩ませている。管理者の再任を待っているとのこと。九月の新学期に給食費の滞納者や、入金遅れをした家庭の《子供》たちは、ポテトチップスの袋が一つだけ、配られるという事件があった。役所は子供たちを人質にした!!として騒然となった。

 心理的な問題などがある子供、不安定な行動をする子供の生活指導や親の相談に応える為に、学校にはカウンセラーが配置されているのが普通だ。でも近年、教師を減らすよりも割と簡単な、この分野がどんどん減らされ、現在市の3つの小学校に対して、1.5人のカウンセラーしか居ない。一人は朝から晩まで働いている人で、もう一人は半日だけ。この人たちはほかの市も掛け持ちしているので、一人で2000人のカウンセラーをしなければならない。どうしても問題があって、早急にカウンセラーが必要な子供は、現在ガヤックといって、カーモーから車で45分ぐらい掛かる町に送られている。

 放課後事情もよくない。教師陣は、授業についていけない子供、遅れがちな子供をリストアップして、補習を受けさせる方針を打ち出した。学校の管理と保険の範囲内で、教室の一つが開放されるが、教師陣の勤務時間は16時半までなので、そのあとの補習はボランティアに頼られる。その補習が必要とされている子供は全部で16人。現在2人のボランティアが、大変な思いをして面倒を見ている。

 この前の会議でわたしが提案した、子供たちにクリスマスカードなどを作らせて、売るという案は、教師陣にもうけた。小学校では作業室の設備不足や、アシスタントが居ないという問題などで、《図工》の時間がない。それで工作など滅多にやらない。クリスマスを前に、工作の時間を設けてもいい、と申し出る先生が断然多かった。物指しやカッターを使う練習にもなるし、計算や図形の勉強にもなる。

 わたしがモデルをこしらえて、来週別な会議で発表することになった。

忙しくなった。

2006/11/04

最後の週末

 JP一人では屋根裏部屋の改修工事があまり進まなかったというので、どんなにがっかりするかなーと思いながら屋根裏に上ってみた。がっかりするどころか、深く感心してしまった。
 大変だったと言ってる割には、ずいぶん進んでいる。斜めになった屋根に板を張って、屋根の梁と板の間に断熱の詰め物をする。それは「シャーンブル」という素材で、普通の日曜大工センターには売っていなかった。自然素材の日曜大工品を展示しているところに行ったり、本やインターネットで下調べや問い合わせをしてから、取り付け方法や断熱効果なども調べて、JPが特注した。
 ひと昔前はグラスウールという黄色い綿みたいなので、ちくちくする危険な素材が使われていた。もっと昔に化学製品のなかった頃に使われていたのが、この「シャーンブル」という素材だそうだ。
 ちなみにたった今、辞書でその単語を引いてみたら、「大麻」とあった。えー、そうなのっ?
 もしうちが火事にあったりしたら、ご近所みんな大麻中毒でレロレロになるんだろうか、、、などと変なことを想像してしまった。《大麻》の綿は1.5メートルX10メートルぐらいの細長いベルトに切り揃えられていて、ロールケーキのように巻かれて届いた。それを梁の長さに合わせて切る。わたしも手伝った。

 自分だけ楽しいヴァカンスをとってしまったという後ろめたさもあって、なんだかばりばりに働いてしまった。

 ほかにも前からずっとヴァカンスに入ったらやりたいと思っていたことが残っていた。
ビズファミーユという雑誌で、地方特派員を募集していたので、編集者さんにメールをおっくったら、どうぞ書いてくださいとのことだった。新聞記者に憧れていたこともあったぐらいだから、雑誌に自分の記事が載るかと思ったら、もうじっとしていられないのだった。でも、ずいぶん長いこと、取材などができずにいた。写真も撮っていなかった。
 従兄が夏にたくさんの写真を撮って、彼のブログで紹介している。
http://imasami.mo-blog.jp/photos/france/index.html
その中からアルビのきれいな写真を一枚貸してもらうことにした。

 そして、アルビについての記事を書いて送ったら、早速ビズファミーユの公式サイトの「フランスの地方都市」というコーナーに出してもらえた。
http://www.bisoupfj.com/
 カーモーはあまりにもマイナーな田舎なので、やはり第一回目の取材は《トゥールーズ・ロートレック美術館》や豪勢な《サントセシル大聖堂》のあるアルビにした。次回は、自分が住んでいるカーモーの紹介をするつもり。
 
 もう一つヴァカンス最後の週末にやった大きな仕事がある。
 それは今度翻訳をすることになった『おじいちゃんは天からの贈り物(仮題)』という児童書の原作者ヤエル・ハッサンさんに、メールを書いたこと。企画を立ち上げた時からずっと彼女の住所や電話番号を調べていたのに、なかなか見つけられなかった。今回、翻訳することが決まって、また改めて調べていたら、数ヶ月前にはなかった新しい書評などのサイトを見つけることができ、その一つに、ハッサンさんの住所もメールアドレスも紹介してあるものがあったのだ。
 いちかばちかで、自己紹介の短いメールを出した。

 ハッサンさんは、まだ自分の本が日本語に翻訳されることを知らなくてびっくりされていた。でも「ぜひ会いたいので、よかったら明日かあさってにでも遊びに来てください。」という涙が出るほどうれしいお誘いだった。
 残念ながらそのお誘いは、今回お受けできなかった。
月曜から子供たちの学校が始まってしまうし、パリまで半日で日帰りする元気はないし、お金はないし、そして何よりも、原作者の人に会うからには、やはりインタビューを用意しておいた方がいい。せっかく会うのだからたくさん質問したい。とりあえず、もうちょっと翻訳が進んで、質問事項が集まって来てから会いに行かせてもらうことにした。
 実は春にパリの義弟のところに、遊びにおいでと誘われている。
春には父の三回忌で、いよいよ出来上がる納骨堂の開幕式(?)もあるので、実は日本に帰りたいけれども、パリに行く費用はどうにかなっても、日本まで帰るとなるとちょっと。。。だ。とにかく本を終わらせて、ちゃんと報酬が出てから考える。作家はベストセラー1本で家も買えたり、海外旅行もできたりするという噂だが、それはきっとうそに違いない。小説などの原作を書く「作家」だったらあり得るんだろうか?
 翻訳の仕事は1年みっちり働いても、わたしの友達がパチンコで1週間で稼ぐ金額よりも少ないらしい。その友達に「お金をもらうっていうのは大変なことだね」って言われた。

 それはおいておいて。。。とにかく原作者の方とコンタクトが取れて、「なにか質問あったらいつでも電話して」と言ってもらえたので、とっても心強い

2006/11/03

我が家に向かって

 ベジエを過ぎてからは、高速を降りて、山道を行かねばならない。
ナルボンヌにいく時に通る道だから、よく知っているつもり。もうここまできたらもう少しという気がする。ひと山越える。
 
 食事したから、今度こそ子供たちは寝てくれると思っていたのに、ノエミはしゃべりまくり、わたしの居眠りを妨害した。
ノエミの声がだんだん小さくなって「寝ようかなー」と言い始めた頃に、今度はゾエが起きて、「ボンボンちょうだい」と言って騒ぎ、ノエミの睡眠を妨害した。

 ノエミにわたしにもボンボンちょうだいと言ったら、眠気が吹っ飛んだみたいで、自分も食べ始めた。暗がりでなに色のボンボンを手にしたのやらわからないので、口に入ったボンボンの味をあてる、というゲームができた。そのあと、トゥッシュ・パ・マ・プラネット(わたしの地球を壊さないで)という、今二人がはまっているCDの曲を、三人で大合唱した。CD一枚分ぐらいを、3回転ぐらい歌いまくったら、アルビまで来ていた。ゾエは再び眠りこけて、ノエミはしゃべりまくり、わたしの睡眠を妨害した。

 自宅前の路上でエンジンを切った時、23時50分を回っていた。
JPはとても心配して待っていたが、すぐに消えてしまう。
トランクの荷物を下ろすのは、今晩はやめにした。
ノエミが階段を這い上がって行く。
ゾエはわたしが抱えて、ベッドに運んだ。

昼間には地中海で水遊びをしていたというのに、カーモーの我が家には暖房が入っていて、一気に「バカンスの終わり」を感じた。ああ、帰って来てしまった。。。

 JPが食事もしないで待っていたというので、温めてくれたスープを二人ですすった。
とってもおいしかった。(ような気がする。半分寝ていたのだ、実は)

で?屋根裏部屋の工事は、終わったの?
「ぜんぜん。。。」
ま、いいっかー。

名残惜しいねえ

 子供たちは、仲良く遊んでいる。絶対に「帰りたくなあーい」と言うに決まっている。わたしだって居心地のいい《と》さんのお宅を出て、片道7時間も走る一日のことを考えると億劫だ。ああこんなにお天気がいいのに。。。

 おしゃべりに花が咲き、記念写真を撮って、《と》さんがサンドイッチを作ってくれている間に、車に荷物を積み込んでいたら、もう11時頃になってしまっていた。JPに「今から出るよ」と電話したら「まだそこにいたの!?帰り着けないよ」と言われてしまった。だからまさか「今からちょっと海岸と山にも寄ってから帰るから」とは言えなかった。

 トランクの中は来る時の3倍ぐらいの荷物になっている。《と》さんちでも《ち》さんちでも色んなものをもらってしまった。ありがたいねえ。。。ノエミの小学校で行われるスキー旅行で、買いそろえるものがいっぱいあるんだと愚痴っていたら、ちゃんとスキー用品まで出て来た。一応借りておいて、必要になった時に送り返すということになった。

 ノエミが絶対にモンファロンに登りたいと言っていた。ガイドブックによると、この山に行くにはロープウェーに乗らなければならない。自動車道路もあるが、細く険しい山道で「ママン、子供を殺したくなかったら、車は使わない方がいいよ」と言われてしまった。確かにうちのボロ車であそこまで行くのはどうかねえ。。。帰り道で旅費も乏しくなって来ているというのに、ゾエはただにしてもらっても、ノエミと二人で14ユーロも払ってしまった。《と》さんに作ってもらったサンドイッチを持参するが、12時発の上りが午前最後で、12時15分発の下りに乗らなければ次に山を下りるのは14時だと言う。14ユーロも払ったのに、モンファロンには登って降りるだけになるじゃあないの。悲しー。

 ノエミが「コートダジュールでただ一つのロープウェーなんだよ」と言い、ロープウェーに登る価値について演説始めた。「はいはい、チケットね」と流して先に進む。すれ違った下りのロープウェーには20人ぐらいの大人が乗っていて、ぎゅうぎゅう詰めだったが、私たちの上りは貸し切りだった。
 とてもよいお天気だったのでトゥーロンの軍港がキラキラ輝いていて、停泊している軍艦も、きれいに見えた。
 私たちは山のてっぺんで写真を撮り、子供たちは岩の上を飛び跳ねて、12時15分発の下りに飛び乗った。子供たちはもちろん大喜びだった。(カーモーにはエレベーターもないからねえ)

 サンドイッチは海岸で食べることにした。海岸で食べていると、カモメが飛んで来て私たちのチップスやパン屑を手の届くところで食べた。水は少々冷たいのに、子供たちは大喜びで水遊びをした。(カーモーには海はないからねえ)

 日が傾いて来て、わたしはいよいよ帰り道のことを心配しなければならなくなって来た。

ノエミがトゥーロンのお土産を買うと言っている。わたしも絵はがきを買いたかった。ゾエはおやつーと言っている。また街に出て、駐車場を探し、港のお土産物屋さんを二軒廻った。子供たちはお小遣いでそれぞれ、お土産を買っていた。ゾエは木の漁船で、ノエミはガラス製の浮き。二人とも「ようこそ」という文字の入った、おもちゃの救命浮き輪を買っていた。部屋に飾るのだそうだ。わたしは昔の水兵さんの写真と、帆船の写真と、古き良き時代のトゥーロンの港の写真を買った。

 さあ、帰路につかねばならない。もう日が暮れている。これから7時間も本当に運転できるのだろうか。でも、これだけ遊んだら子供たちは疲れて寝てくれるだろう。

 あーまーい。。。ゾエはちょっと寝たけど、ノエミはしゃべりまくっている。
「入り込んだら抜けられないよ」と言われていたマルセイユに入り込んで、おまけに今度は本当に道に迷った。マルセイユを抜けきったところで、真っ赤な夕日が地中海に沈んで行った。

 7時頃やっと高速道路の休憩所で、コーヒーを売っているところを見つけたので、ちょっと休んだ。コインの使える公衆電話もあった。「まだ、モンペリエまでたどり着いていない」と言ったら、JPが絶句した。
 休憩したから今度こそ子供たちは寝てくれると思ったのに、「おなか好いたー」コールが掛かった。もうちょっと遠くまで行きたかったのに。。。
 8時頃、食事のために高速のレストランに入った。現金がもうほとんどなくて食事代が足りなかったが、ノエミのお財布にはまだけっこう残っていたので、ちょいと拝借した。高速にもガソリンにもずいぶんお金が掛かってしまった。しかも高速道路のまずいのに、高いレストランにまで入ってしまった。ああー。   つづく

2006/11/02

なつかしいね〜

 お昼は、もう一人の友達の家に呼ばれている。「二日目はトゥーロン観光がしたい」と言っていたら、そのついでにお昼を食べに来たらいい、と言ってもらった。
子供たちは《と》さんの子供たちと気があって、よく遊んでいる。それで出かけたくない様子でぐずっている。11時頃ようやく家を出て、トゥーンの中心街に向かった。

 呼ばれている《ち》さんの家は、トゥーロンの《向こう側》なので、ノエミが生まれた頃に住んでいた《こっち側》を見せてあげようと思って町をうろうろしたが、朝市が出ていたので、路地に入ることができなかった。
 ノエミが生まれた時に住んでいた小さなアパートは、毎朝市の立つラファイエット通りのそばで、午前中は車が通れないのだった。そのすぐそばのショッピングモールへ行くことにした。

 まあ、言ってみればただのショッピングモールだ。別に、トゥーロンに来たからってこんなところを歩かなくても良さそうなものだが、そこには「ノエミが始めて経験したメリーゴーランド」がある。「始めておむつを買ったスーパー」「記念写真を撮った写真屋さん」などなど。
ノエミが生まれた時にはなかった、テレビゲームなどのカセットを売っている店があって、ノエミはヒョロヒョローッと酔っぱらいみたいにその店に吸い寄せられて行く。

 ノエミだってゲームは好き。でも、うちにはテレビでやるゲームはない。2年前に日本に帰った時、ゲームが大好きで外出時にも首からぶら下げて歩くような子供をいっぱい知ってる母は、ノエミもきっと喜ぶと思って、絶対に買ってやると言い張り、ゲームボーイを買ってもらった。ずいぶん高いおもちゃだ。孫にこーんな贅沢をさせているから、母はいつも貧乏なのではないだろうか。2年の間に揃えたカセットは3本だけ。まだどれも極めていない。大枚はたいて買ってくれた母には悪いけど(?)普段はまってるわけではない。
 でもその店でカセットを買おうとしたら、ノエミの2年前のゲームボーイは、今や発売されなくなった「旧式」だということがわかってショックだった。カセットの種類もとっても少ない。
 なのに、ノエミは「こんなお店はカーモーにはないから、カセット欲しい」と言って、自分のお小遣いで《獣医さんになろう》というカセットを買った。

 《ち》さんの家に着く。なんとか行けた。《ち》さんが今住んでいるお宅は、私たちがトゥーロンから引っ越す直前に住んでいたアパートのそばだ。《ち》さんと出会った頃私はまだ独身で、彼女同様ニューカレドニアに住んでいた。《ち》さんのご主人は私の日本語の生徒だった。二人の上の子が赤ちゃんの頃ベビーシッターをした。その赤ちゃんが170センチを超えるスマートな女の子になっていて、はやくも14歳だというから恐ろしくて、一気に白髪が増えた。
 そぼろご飯がおいしかったー!
《ち》さんと昔話が弾んでいる間に、ずいぶん遅くなってしまった。子供たちを連れて行く約束をしていた場所が、まだたくさん残っているというのに。そして明日には帰るというのにいいー。
 とりあえず《ち》さんの家から、当時住んでいたアパートに向かった。ちょうど私たちが引っ越す直前に、殺人事件のあったバーの前を通ったら、今も閉まっていた。アパートの前のパン屋さんは、大きくきれいに改装されていて見違えるようだった。アパートは変わらず。。。

 そこから、ノエミと毎日通っていた公園に行った。その公園には人口の池や川があり、鳥やヤギなどを飼っている動物コーナーもある。クジャクは昔みたいに放し飼いではなかった。動物公園の向こう側には、遊具のコーナーがあって、《ノエミ生まれて始めての滑り台》が、今も残っていた。 ノエミは自分で写真を撮っていた。

 薄暗くなって来たので、もう《と》さんの家に向かわなければならない。帰りがけに、ノエミが生まれた海軍病院や、海軍専用のホテルなどを見せてあげた。モンファロンという山と海岸には行くことができなかったので、翌日、帰る前にでも寄るつもり。

 とにかく《ち》さんと子供たちに再会できてよかった。それから、昔住んでいた近辺もノエミに見せてあげることができてよかった。めでたし めでたし。

2006/11/01

しゅっぱーつ

 ノエミはトゥーロンという街で生まれた。マルセイユからイタリアに向かって1時間ばかり走った、地中海沿岸の街。ここにはフランス海軍の基地がある。ノエミは海軍病院で生まれた。この街に2年ぐらい住んでいたが、JPの定年退職を機会に今の県に引っ越した。

 ここには日本人の友達も居て、今もよくメール交換や電話でおしゃべりをする関係。一人は鹿児島出身の《と》さんで、鹿児島弁でしゃべれる間柄。年もほとんど同じで気を遣わない。

 気を遣わないついでに、「ちょっと泊めてよ」と言ってしまった。そんな人でも居なければ、コートダジュールの入り口とも呼べるトゥーロンのホテルなんぞ、泊まれないしねえ。。。

 義父母の家を朝早くに出た。さっさと出た。途中まで高速を走って、いつの間にか高速から降りてしまっていた。それでもかなり調子よく走って、お昼には夏休みに友人と来たアルルに達していた。ノエミは乗馬キャンプに行っていて、夏休みには私たちと一緒に旅行できなかったので、アルルには来ていない。ここには古代の円形競技場があって、今でも闘牛が行われる。それを観に行くことにした。義母に作ってもらったサンドイッチを食べて、再び車に乗り込む。
 JPから「絶対にマルセイユの街の中には入り込まないように。アルルからは高速を使うように」と言われていたのに、マルセイユの街の中に入ってしまっていた。それでも、この日は祝日だったせいか、街に地元の車は少なかったので、クラクションを鳴らされることもなかった。県外ナンバーの車はみんなおどおどした雰囲気で、さっさと道をあけてくれた。

 マルセイユさえクリアできたら、トゥーロンはすぐそこだ。街に入るとすぐに軍の建物が見えてくる。市役所の前がすぐに港で、子供たちはもう嬌声を発している。住んでいる時には絶対に使うことのなかった、有料駐車場に車を入れて、港を歩いた。堤防から10センチほどの所にもう水が迫っている。魚が見える。ゾエがうれしそうに跳ね回っていて怖い。外国からやってきた巨大な帆船や、かわいい釣り船。そして、旅行の大きな目的だった軍港巡りの観光船。

 もう16時頃で、暗くなる前に友達の家に着きたかったのだが、すぐに出港すると言われて、翌日の天気の悪さなども心配だったので、観光船に乗ることにした。私たちを含めて、3つのグループしか乗っていなかった。ミストラルが吹き荒れている。

 軍港に入ると、この前テヘランに行っていた《ミストラル》という船や、JPがむかし乗っていたような船、フランスが誇る、そして故障続きで有名となった原子力空母の《クレモンソー》が修理のため停泊していた。珍しいレーダーの船や、海上で運航しながら燃料補給のできる船、ヘリコプターや戦車を乗せる船。。。ノエミはアナウンスに聞き入っている。

 カンヌ映画祭の時に現れたという、どくろマーク入りの黒い船体をした海賊船や、空っぽの豪華ヨットを10艇ばかり積んでマイアミまで帰るという、ヨット運搬専用の大きな船。。。というものまで見た。マイアミからヨットで旅してきたお金持ちは、トゥーロンまで来たらヨットを置いて飛行機でマイアミに帰ってしまうので、空っぽの船を連れて帰る必要があるのだ。へえー

 暗くなってしまった。友達の家も知らないのに。。。おまけに途中で高速の方向を間違えて、《と》さんに電話している合間に電話がぶちんと切れた。困るよなあ。。。
《と》さんが住んでいるはずの街を、ぐるぐる走って、自分の走り書きのメモを何度も見直した。
「信号ー二つ目ー左」
並んでない。あちこちにこの三文字が走り書きされている。
「二つ目の信号を左」と言われた気もするのに、走っているうちに「信号のあと、二つ目を左」と言われたような気がしてきた。
「そこまで」という所で一時間以上も潰してしまった。ついに、営業間際でコックさんが食事中のレストランに突撃をかけて、地図をもらい説明させた。

地図をもらったのに、それからまたしばらくぐるぐる走り回り、結局真っ暗になってからやあっと到着した。
 子供たちは意気投合。ノエミが誰と寝るかでジャンケンまでしている。《と》さんとご主人は、寝室をわたしとゾエのために空けてくれた。なんてこと!
《と》さんの心のこもった夕食。和風ドレッシングの春雨サラダに、おにぎり、そしてなんと焼き肉っ!!おいしくて、三杯か四杯おかわりをしてしまったのだアアア。この一ヶ月ダイエットに励んできたというのにいいい。

 前日も、この日も、ずいぶん疲れていたはずなのに、全然眠れなかった。興奮しすぎ。

とりあえず到着できたので、めでたしで明日へと続く。