2008/11/28

日本語クラブ



 高校三年のとき、「自分は絶対に北海道に就職する」と決心していたのだが、もろもろの事情により、鹿児島の短大に行かせてもらえることになった。その短大の《教養科》っと言って、教養のないオンナが何百人もダラダラ通っているような、女子だけの短期大学だ。私立の短大まで出してもらうからには、絶対に国語教師の免許ぐらいはとろうと思って、一年の時には最前列で、とってもよく勉強した。その反動で、二年目はかなりいい加減だったのだが、いちおう卒業する時に、中学の国語の教師ぐらいにはなれる免許を頂いた。
 
 教員試験の勉強もいっぱいしたけど、全然ダメだったし、本当は中学の国語教師なんてまっぴらだったので、海外青年協力隊にでも入って、アフリカ辺りに行ってやれ〜いと思ったら、国語教師と日本語教師はぜんぜん違うので、勉強し直せということになった。

 東京のいんちきな日本語学校の教師養成講座に入って、わたしは1988年にその学校でも一番若い先生となった。わたしの髪はお尻まで長く、ボディコンのスーツだって着ていた、あのころは。そして中国人とか韓国人の、労働目的で来日している、父ぐらいの年齢のおじさんたちに、《先生》と呼ばれていた。そのあとは各地場所を変えながらも、必要に迫られて、いつもけっこう楽しく、小さな日本語クラスを持ち続けて今に至っている。今はプライベートレッスンを3つ持っている。

 この前の秋休みが明けてからというもの、なんども中学から連絡があり、いよいよ日本語クラブの企画が本格化に向かって動き出していたのだが、本日校長先生から、正式に「月曜日から日本語クラブを開始してください」と電話があった。

 お昼休みが12時から14時までなので、その間に子どもたちは家に帰ったり、学校で時間を潰したりする。その長いお昼休みに、スポーツや音楽のクラブがある。ノエミは昨年度は演劇をやっていた。ラップのダンスやアフリカのタムタムのレッスン、卓球やバスケなどもある。

 《日本語クラブ》というよりは、《日本クラブ》だ。中学生は英語、スペイン語、ラテン語、ドイツ語などをやっている。日本語は正規の授業とは違うので、もっとリラックスして、言語学よりも、文化紹介、歴史や地理のちょっとした情報。折り紙やお習字のアトリエなど、楽しい時間にして欲しいとのこと。
 申し込んだ約20人の中学生たちのほとんどが、「空手などの武道をやってる」か、「ゲーム、日本映画、漫画の大ファン」と言っているらしいので、その大多数の期待にも添わなければならない。剣道教えようかな。

 校長先生は、「私立じゃないので自分の思い通りにいかない。本当は報酬もお渡ししたいのだが、ただのクラブなのでボランティアです。(すでに了解済み)ただし、教材費やなにか必要なものがあったら、遠慮なく言ってください。なんでも揃えますから。」とおっしゃった。初級のレッスンに必要なものはすべて揃っているし、オーディオ・ビデオの教材もある。コピーを取らせてもらえれば、あと必要なものはなにもない。折り紙や墨汁を自腹で揃えなくてよいのは本当に助かる。

 第1回目のクラブは12月に入ってしまう。この前秋休みが終わったばかりだというのに、今度はクリスマス休暇が12月19日の夜から1月4日まで。年内にクラブ活動は3回しかできない。

 初回でみんなの心をキャッチして、グループ学習のためのグループ作りと、自己紹介をするつもり。文字に対する不安を取り除き、興味を持ってもらうために、いろんなゲームを考えている。

 ノエミがこの授業をとっても楽しみにしている。この前の俳句の授業で、「お母さんの授業はとっても楽しかった」と言ってくれたので、日本語クラブにも期待がかかっている。ノエミに恥をかかせちゃいけないし、ここで普段の《ろくでなしな母》の汚名挽回をっ!とちょっと意気込んでいる。ノエミももっと日本語の勉強をしてくれるかも。

 
 写真は種子島。鉄砲伝来の地、門倉岬の神社の鳥居。

2008/11/26

彦根へ


 
子どもたちとJPは、予定通りに名古屋に着いた。
 どんな格好で現れるか心配していたのだが、JPはちゃんとアイロンの掛かったTシャツを着ていた。ヨーロッパから朝到着っていうのは、大人でもきついのに、3人は、さっさと名古屋に行って遊ぼう!と言っている。

 名古屋で知ってる所と言ったら、名古屋駅と高島屋とマリオットホテルぐらい。昨日探しておいた、大きなスーツケースを預けることのできるロッカーに行って、みんなの持ち物を預けた。
 ゾエがおトイレに行きたいというので、わたしは《自分の庭》みたいな顔をして、
「さあ、わたしが泊まってたホテルのトイレに案内するよ」
ついでに、ホテルの上の高級レストランに食べに行くふりをして、ロッカーに入らなかったバッグをホテルのボーイさんに預けるという芸当までやってみせた。昨日もお世話になったので、覚えていてくれて、だから心良く預かってくれた。(今日も泊まってると思ったんだろうなあ。。。)

 ホテルのトイレで過ごしたあとは、高島屋8階で行なわれている《フランス展》見学〜。《フランス展》に並ぶ高級品を見て、
「こんなの、フランスでも使ってる人見たことないナ」
「だってそんな高級なもの使うような人知らないじゃん」
「パパ〜。これ買って〜」
「日本でフランスのもん買うフランス人がいるかね」
「5万6千円か。。。ええっ。。。500ユーロ?これが?」
などの親子の会話が飛び交っている。たしかにこんな非日常的な日用品を見ると、日本のみなさんは「おフランスに住んでいる人はみんなフランス展に並んでいるような高級なものを身にまとっているのね」と思うんだろうなあ、と思う。

 そういえば、去年はじめて仕事で来た時に、「おフランスから来るんだから、ルイヴィトンとか持ってても大丈夫ですよ」と言われた。日本では一般庶民、しかも主婦や学生がルイ・ヴィトンの財布から万札を出すのが実に庶民的な風景だが、フランスではルイ・ヴィトンを持ってる人は滅多に見かけない。ルイ・ヴィトンはそこら辺の一般庶民は持たないからだ。たしかに、わたしが「一般庶民じゃない人」とは交流がないから、見かけないってだけなのだろう。

 デパート内でちょっと休憩。仕事中にしょっちゅう耳にした「スタバ」に連れて行ったら、JPが一気に不機嫌になった。スタバなんかにはおいしいコーヒーは置いてないからだ。ノエミが「マンゴーとレモンの名前がついた意味不明な飲み物」を飲みはじめ、ゾエが気分悪そうにしてたので、地上のイタリアンのカフェに出直して、イタリア製のケーキとアイスクリームのセットをごちそうした。子どもたちの機嫌も治った。

 さあ、これから新幹線で彦根へ。みんなはドロドロに疲れ切ってる。

 4人で姉のマンションはちょっと無理なので、彦根駅前のビジネスホテルに宿をとっておいた。でもお部屋の準備ができるまで、姉の家に行ってシャワーを浴びることに。その時になって、ゾエの服を一着も持って来ていないことに気づくJP。どーすんの、アンタ。
 ゾエは飛行機酔いで、乗っていた15時間の間ずっと吐き続けていたらしく、服は濡らしていなかったものの、やっぱりなんか臭い。本人も気持ち悪がっている。お風呂に入れてる間に、近所のスーパーに行って服や靴下の買いだめをした。

 ノエミはセーラー服に憧れていたので、従姉の制服を借りて記念写真。

夕方ホテルに入ると、みんないっきに爆睡。その間、わたしは剣道のお稽古。今年全日本剣道連盟からの派遣で、トゥールーズにいらした先生が、なんと、滋賀県の方で、彦根でもよく稽古をされるとのことだったので、わたしの帰国に合わせて、彦根まで稽古をつけに来てくださった。
 「フランスではお世話になり」とご挨拶され、みんなは「あの人、八段の先生に頭下げさせてるぜ」とウワサされている感じだった。そんなザワメキの中お土産を頂き、なんと、先生から新しい胴までいただいた。
 姉もわたしのために新しい道衣を用意しておいてくれ、小手と面も新調するように、注文してくれた。その日、わたしたちは、はじめて、姉妹で道場に立った。姉の剣道姿に憧れて剣道を始めたのだ。お互いに、やめなくてよかったなあ、と思う。どこに行っても剣道の友だちが助けてくれた。困った時にはいつもいっしょにいてくれた。ここでこうしてまた、新しい先生にも出逢った。剣道の先生や先輩、友だち、そして道場に、いつもいろんなことを学んでいる。それは姉も同じだと思う。JPとも剣道のおかげで知り合ったし。(でも彼はもうやめた)

 剣道から帰ると、みんなは目を覚ましていて、近くのコンビニで買ったお弁当を食べ終わったところだった。

 一日目から夜の町を出歩く母に、いきなりほっぽり出された、かわいそうな家族なのである。。。
ああ〜〜、ゆるして〜〜。

2008/11/25

ミーさん、またね 10月23日




 ミーさんを中部国際空港から見送った。これでわたしのお仕事は終了し、5日分のお仕事と、この6ヶ月ぐらいの間にミーさん関連でやった翻訳料を、報酬として《円》でいただいた。
 この夏にはユーロが高かったから、フランスからの旅行者にはホクホクだったのに、わたしが帰国してから1週間ほどで、円がどんどん上がってしまった。JPたちが出発する前夜にフランスに電話して、「空港なんかでユーロを円に換金したらダメだよ」と情報を流した。それと「日本はとっても暑いから、セーター類は一切置いて来て」

 仕事中の5日間は、お金はまったく要らない。国際線のチケットはもちろんのこと、ホテル、レストラン、滞在中の交通費も出してもらうので。帰国してから友だちに会ったりもしたが、行く先々で交通費も食費もだしてもらっていた。(ありがとう!!)
 
 ミーさんを見送ったあと、駅のロッカーに大きなスーツケースを預けた。そこから、明日到着する家族を上手に案内できるように、名鉄駅から新幹線の乗り場までと、ロッカーのある場所や子供と食事のできる場所、トイレの位置、バス乗り場などを確認するために、名古屋駅周辺をうろうろと予行演習した。
 その晩は高校時代の友人たちに会って、そのうちの一人に泊めてもらうことになっていたので、名古屋の高島屋内の本屋さんや、東急ハンズなどをブラブラ歩いて時間を潰した。買いたいものはいっぱいあるけど、でも子どもたちのために働いたお金だから。

 高校卒業後、働きながら短大に通った友だちが2人、中・高校生のお母さんになっている。もう一人は看護婦さんで、東京時代もいっしょに遊んだ。夜遅くに合流した男子は、単身赴任で名古屋に来ていて、これまで2回の帰国で会えなかった中学からの友だち。成人式以来会っていないのでどきどきしたが、さわやかな青年のような笑顔と話し方や笑い方も昔のままだった。

 みゆきちゃんの家に泊まる。途中、大雨の中わたしの知らない人の家に寄り、1回会ったことのある人のために、ちょいとお線香あげた。彼女は雨の降る暗い夜道をじゃんじゃん走る。

 知らない町の、駅から離れた、見たこともない住宅地に、自分の家を持ち、鹿児島弁を話さない家族がいる。息子さんはもう高校生で、朝になると、彼女はわたしの見たこともない服を着て仕事に出て行くのだ。わたしは昔からずっと知っていると思っていた友だちの家にはじめて来て、ちょっと途方に暮れた。所在ないので、彼女の使い方のわからないノートパソコンをいじって過ごした。高校生の息子さんといっしょに、ASAKUMA TOSHIO 氏の、素晴らしい作品が並ぶホームページを見たりした。http://clayanimals.net/gallery.html
 寝る時間だと言って、自主的に二階に上がって行く息子さんたちの後ろ姿や、洗面所の歯ブラシや、友人のちょっと疲れた顔を見て、なんてがんばっているんだろうと思った。こんな遠いところで。

 朝になったら、わたしも家族と合流できる。
友人たちがいろんな所で、わたしのためにお金を出してくれたおかげで、わたしには仕事でいただいた報酬が、まだまだ残っている。明日から、子どもたちのために散財するのだ〜〜!とやる気満々だ。
その代わり「ええ〜、また帰って来たのお?」と言われるのは悲しいので、次回からは友人たちには割り勘にしてもらおう。
いつも胸が一杯、食べたいものいっぱいで、ろくにはなしもできないが、そばにいるだけでホッとできるのは、いったいどういうことなんだろう。疲れも一気に吹き飛んだ。

 みんな、ありがとう。

10月18日から 23日まで



関係ないけど、指宿のフラミンゴ
このごろちょっと暗かったので、サービス。




 ミーさんと、お仕事。
 早いはなしが、本当は、このために帰国したのだからして、書いておかねばなるまいヨ。

 ミーさんとの冒険旅行は、今回3回目となった。これまでの2回の旅行についての日記は、削除して欲しいと言われている。うちのは自分以外の人を巻き込んだ勝手なブログであるので、今後の迷惑を考えたら、いろいろと書かれる人は不安なのだろう。なので、3回目以降の旅行の細かい内容については書かないことと、1回目と2回目に関する日記は抹消してくれと、言われたのである。。。と、こんなところで宣言したら、またきっと、叱られるのだろうか。

 この件に関して、わたしはたしかにかなり傷ついた。おそらくだれにも想像できないぐらいへこんだ。「もっと人の迷惑も考えてよ」と言われたのと、きっと同じなので、そういうことを言われる自分が悲しかった。公の場でものを書くということは、とっても責任重大なのだなあと、それはたしかに思っている。それを思ってないみたいに言われるのは、つらいのだ。
『抹消』だなんて。ものを書く人間がそんなこと言われるっちゃ〜「アンタ消えてくれ」と言われてるのと同じじゃん。

 ところで、仕事のことは書かないと約束したので、ミーさんのことをちょっとだけ。

 ミーさんは今回も、いろんなところで(わたしを)笑わせてくれ、(ビジネス相手に)たくさんわがままを言い、自分の意志には反するサービスばっかりさせられてるじゃんとゴネ、そして、へこんでいるわたしを励ましてくれた。わたしたちはビジネスについて話し、日本とフランスの比較文化に意見を戦わせ、特に食に対するお互いの情熱を語り合い、日本のフランス料理に文句をたれ、日本のビジネスマンたちの歩幅と歩く速度に文句を言い、家族への愛情とお互いの娘たちの成長について笑い、わたしは何度もこっぴどく叱られ、そのあとは《キューバ・リブレ》でご機嫌を取られ、そして、なぜか、こともあろうにミーさんと、生と死について長々と語り合った。

 残念ながら、これらの興味深いミーさんのお話は、自分だけの宝物として、自分のためだけに残しておく。
 

しつこく カセットテープ派



 薩摩黒豚のしゃぶしゃぶを食べながら、ピース・クボタが「こんなの見つけたよ」と言ってくれたカセットが、台所にどやどやと散らばっていたので、そのうちの一本をテープレコーダーに突っ込んでから、台所の窓のヒーターの真ん前に、椅子をひきずって来た。

 『アジアンタムブルー』の続きを読もうと思って。

 やあっと115ページにたどり着いた。
「1988年3月のことだ。」
とあるのを見て、その3月に自分が上京したことや、そのとき下げていた赤いテプレコーダーのことや、あの冬がどんなに暗く寒く、貧しくて、いろいろな物事に不足していたかについて、思いを馳せてみた。その時に、ピース・クボタのカセットから、Billy Joel の Just The Way You Areが流れて来たので、おもわずびっくりした。

 この曲を聴くと、いつも切なくなるっていう曲は、だれにでもあるはず。
1977年に収録されたカセット。この曲が流れると、狭い子供部屋のこたつと、みかんとラジカセを思い出す。Just The Way You Areは5歳上の姉が聴いていたのだ。だから、こたつに座っている姉もセットで思い出す。

 185ページまで来た。
ーーーーー
「邦題の傑作って何かしら?」
「『抱きしめたい』かな」
「アイ・ウォナ・ホールド・ユア・ハンド」
ぼくはずいぶん昔に、誰かとまったく同じような会話をしたことがあるような気がした。
ーーーーー
 主人公の語りを読みながら、わたしのほうこそ、ある友人と同じような会話をしたことを思い出した。
『素直になれなくて』って、すごい訳だよねと言ったのはわたし。友にもらったCDの中にHard To Say I'm Sorry が入っていたから。

 姉にもアいツにも、次回は元気で会えればよいなと思う。
元気だったら、あとはもーどーでもいいーワ。

Billy Joel - Just The Way You Are
http://www.metacafe.com/watch/yt-132VY_CoxDg/billy_joel_just_the_way_you_are_24p_covers_sld/

Beatles - I Wanna Hold Your Hand
http://jp.youtube.com/watch?v=lfsvE4j4ExA&feature=related

Chicago - Hard To Say I'm Sorry
http://jp.youtube.com/watch?v=Yh9cNYlmXEY

2008/11/24

予報通りの晴れ間 いま




《兄じゃ》からの「悲しいお知らせ」というタイトルのメールを開いた瞬間、《てーさま》は遠近法で描かれた、狭く細き一本道を、さささーっと冷たい音を立てて、遠ざかっていき、ずっとずっと奥の消失点に呑み込まれてしまったようだった。
わたしだけがココに取り残されて、放り出されたような気分。一瞬、たしかに一瞬、どうしてわたしたちを残して、一人で逝っちゃったのヨという恨み言とともに、お先真っ暗になった。

《てーさま》に何かあったら知らせることに、おそらく決まっていたであろう4人に電話をし、メールを書き、彼らとともに《てーさま》のことを語りながら、わたしはネジを巻いた。彼女は、きりきりきりと音を立てながら、少しずつココに戻って来た。あのひとがこちらにもどって来る。その距離が縮まるごとに、ココは明るくそしてあたたかくなる。それは皆既日食が終わって、少しずつ太陽が戻って来た、あの果てしなく続くフランス北部の草原の昼下がりに似ていた。1999年8月11日だった。太陽を失った草原には、小鳥も飛ばない。風が止み、人々は言葉を失う。黙って空を見上げ、太陽を探し待ち続けるばかりだった、あの夏の日。

「きょり」という漢字は《拒離》なのではないか。
「彼女は静かに息を引き取りました。これは現実です。」
との現実を拒み、そしてわたしは《てーさま》を遠近法で描かれた狭い道の奥の暗い穴へ向かって突き飛ばし、現実から離れてしまったのではなかったか。

彼女を語り、彼女に語りかけることで、ネジを巻く。
《てーさま》がいつもそばに居て、わたしの思いつくことに
「そうそう、みのさん、そうなんですよ。」
と、うなずく姿が目に浮かびはじめる。
もう逃げも隠れもできない。彼女との《きょり》はなくなった。いつもあの人はココにいる。そう思ったら、わたしは、語りかけることも、彼女が喜んでくれそうなことを書き続けることも、決してやめないという気になる。
わたしのせいで泣くなんてもってのほかのありがた迷惑と、あの人だったら言うに違いないので、もう泣かない。
わたしはこれまで通り、彼女の反応を気にしながら、書くことを続けようと思う。

2008/11/21

一見にしかずの日・11月8日







− 生駒先生寄贈のお庭





− 揖宿神社の脱穀機






 朝からお出かけ。
 ゆうべ暗くなったせいで、ゆっくりできずに帰って来てしまった、揖宿神社にUターン。
夜は疲れ切っていたJPが、油断した隙に畳に突っ伏して爆睡してしまったので、縄文の森のみなさんとの飲み会をキャンセルしてしまった。残念。

 前日、ざっと見学したところによると、揖宿神社の《裏っかわ》には、面白そうなものがいっぱいあるのだ。
実家のそばの生駒医院というところにあった中庭が、そっくりそのまま、揖宿神社に寄贈されていたのには、ちょっと驚いた。父が入院していた頃に、その庭の鯉を愛でた覚えがある。鯉は居なくなっていたが、医院の増築で場所を失った中庭が、そのままこちらに運ばれたとのこと。とっても素晴らしいアイディアだと思った。きれいなお庭だったのだ。でも、そうか、あの医院には、もう庭がなくなってしまったのだ。その代わり、立派な手術室や、レントゲンやスキャナーの部屋ができ、入院施設も増築された。母の治療でついて行くと、待合室にはお年寄りが溢れていた。

揖宿神社に戻る。
 8メートルもあって、樹齢1000年を越える大楠が何本もある。子供たちは《トトロの木》と呼んで抱きつく。樹齢500年の大銀杏などもある。「揖宿神社の社叢(しゃそう)(森)」として鹿児島県天然記念物に指定されているのだそう。神社裏の《てんちの杜》は、天然記念物の外にある。

 樹齢1300年ぐらいかな〜という大木の蔭に、不思議なマシーン発見!!家族四人でそれを眺めていると、宮司さんの奥さまが登場。従兄さんにはいつもお世話になって。。。とご挨拶いただき、お神酒と《無事カエル》にちなんだカエルのお守りまでちょうだいした。
 これはちょうど良かったと思い、そこにあるマシーンがなにかを訊ねる。
「ちょっとお待ちを」とおっしゃって、奥さまはどこかに消えてしまった。
わらの束を掴んで再度ご登場の彼女は、いきなり機械を動かすと、わらを叩きはじめた。
 家族4人、しばし作業に見入る。
「こうやって柔らかくして、しめ縄を編むんですよ。あっちでやってますよ」
というので、事務所に行くと、わらの香りが漂っていた。
 宮司さんはお正月用のしめ縄を準備中で、さっそく作り方のデモンストレーションが始まった。車で休憩中の母を起こしに行っている間に、終わっていたので、わたしは見ることができなかった。駐車場の横では若い宮司さんが、新車のお祓いをしていらした。

 デモンストレーションの終わったあとは、普段神社に飾られているだけという真剣のお手入れ見学。神社に刀があるとは、思っても見なかった。わたしもJPも居合をやったことがあり、真剣には興味がある。ゾエはテーブルの上の真剣の横にあった、お菓子箱にチェックを入れており、ちゃっかりお菓子をもらって帰ったのであった〜。おはずかし〜。

 神社のあとは、いざ、山川の浜児ヶ水まで〜〜。キク栽培農家に嫁いだ、友人に会いに行くため。きれいに並んだ菊の枝を、丁寧に手で摘み取って行く作業が行われている最中だった。いっしょに剣道部で遊んだ(?)彼女が、花栽培のプロになっているとは、感心するばかりだ。植え付けから育てるとのことで、最初から出荷までの過程を熱心に聞いた。母はお花が好きだし、JPは農家の人を相手に仕事しているので、とても興味深く質問していた。
 彼女のハウスのすぐそばでは、別な同級生が地熱発電を利用した大掛かりなハウスで、胡蝶蘭の栽培をしているのだが、こちらは4年前に見学したので、今回は通っただけになってしまった。

 友達から、きれいな菊をたくさんもらって別れたあと、地熱発電所に行った。無料で入所できる。ここには地熱発電を始め、様々なエネルギーについて勉強できる、楽しい博物館が隣接されていて、子供たちは、実際に体験しながら、電気の生まれ方や、配電の仕組みなどを学んだ。一時間半ぐらいたっぷり遊んだ。

てんちの杜 ふたたび・11月7日



 家族で日本に帰ったら、絶対に連れて行きたいと思っていたところは、いろいろあったのだが、なんといっても《てんちの杜》には行かねばならないと思っていた。大雨が降ったり種子島に行ったりしたので、《てんちの杜》に行くのがのびのびになってしまった

 子どもたちの学校が終わって、母の病院も終わってから出掛けたので、ずいぶん暗くなってしまった。案内役の従兄が待っていてくれた。この従兄は(も)いろいろやっている。指宿で、縄文の森をつくろうとか、ゲンジボタルを育成しようとか、菜の花マラソンでダブル・フルマラソンをやろうとか、いろいろだ。以前からこの日記でもこの従兄は登場している。

 数日前に同級生と飲み会をやった時に、この夏《てんちの杜》で野外コンサートがあって、ゲンジボタルが飛び交う中でのコンサートは、じつに感動的だったと、(もと?)ミュージシャンのミオが言った。今年の2月に帰った時には、ゲンジボタルが捕食するカワニナを放すせせらぎを作っているところだった。せせらぎはじつは《人工》のもので、ポンプを動かすために太陽光発電のパネルをつけようと募金を募っているところだった。友だちのはなしで「蛍が飛んだーってことは、つまり《てんちの杜》がうまくいってるんだ!」ということなので、ぜひ見に行きたいのだった。

 小さいころから何度も母と揖宿神社に来たことがある。でも、裏まで入ったことはなかった。
 神社裏の杉林を片付けた時に出たスギ材で作った、とってもよい香りの野外コンサートのステージと、真新しい太陽光発電のパネルができあがっていた。地域の子どもたちが米作りを終わった田んぼと、カワニナが育つせせらぎも。大雨で溢れた池を神社の宮司さんであるコウノさんがお掃除中だった。フワフワと不思議な歩き心地のウッドチップを撒いた散歩道が続く。
 大きなちょうちょが飛んで来る。

 「このチョウチョは台湾までも飛んで行くんだよ。このチョウチョの羽に名前を書いてそれがどこで観察されたか、各地の人とやり取りもできるんだ。このチョウチョが指宿に寄ってくれるように、わざとチョウチョの好きなこの木や、そして次のシーズンに戻って来た時に喜んでもらえるようにあの花を植えているんだよ。」
 従兄が教えてくれる。その情熱の熱さを感じる、くわしい解説だった。
 蝶、花、木の名前も忘れてしまって情けないのだが、ガイドの従兄が説明してくれたおかげで、子どもたちにとっては素晴らしい課外授業となった。(大人たちにも)

 その杜には、絶え掛けている古代の木や、区画整理などで移動を強制させられていた木々、昔ながらの指宿の木々草花が丁寧に心をこめて生かされていた。まだ若い森なので、木々がまばらだ。でも、木が大きく育って枝を広げることを計算して、となりの木との距離をちゃんと広くとってある。秋を前にそして夕方の暗がりの中で、林はひっそりとしていたが、夜の間にどんどん伸びるトトロの木が思い浮かんだ。

 縄文の森をつくろう会のメンバーと、夜の《呑んかた》をしましょうと誘われた。

2008/11/20

合掌してみる




 ゆうべは、頭が痛く寒気もしたので、早い時間に本だけ持って、ベッドに入った。日本で買った《アジアンタムブルー》にした。
大崎善生の本だったので。

 東京に着いた日、成田エキスプレスが到着する池袋駅で、わたしを待っていてくれた友だちは、東急百貨店の下に大きなスーツケースの入るロッカーを見つけて待っていてくれた。わたしたちは百貨店の中にあるお豆腐屋さんで、ちょっと遅いランチを食べ、この夏急死した彼女のお母さんについて話した。彼女のお母さんは大変健康そうな人だったのに、「お姉ちゃん、お母さんが死んだんだって」という電話を、ある日突然弟さんからもらうことになった。自覚症状もなかったのに、いきなり苦しくなって、家族が集まる前に息を引き取ったお母さんは、ただの肺炎だった。この姉弟のご両親は、数年前から東京医大の解剖研究室に献体することを決めていらして、当時同意を求められてサインしていた筈の子どもたちは、お母さんが息を引き取るその日まで、《献体》という単語さえすっかり忘れていたという。お母さんといっしょに献体希望を提出していたお父さんの言葉で、再びその現実がよみがえった。
 「お母さんの遺志だから」
 わたしの友は長女だったので、家族を代表して東京医大に電話した。
そのあとどんなことが起こるか、知る由もなかった。

 お迎えはあっという間に到着。病院の地下の遺体安置所で簡単なお礼を言われ、お母さんは自宅に帰ることもなく、お棺にも入れられず、白いシーツにくるまれて、トラックの荷台に積まれ、医大に運ばれた。
「いつ戻って来るの?」という質問に,医大の人はこう答える。
「たくさんの遺体が、解剖を待っているのです。お母様の遺体が解剖されるのは3年後になります。3年の間、医大の冷蔵庫の中で待っていただきます。それでは、ありがとうございました。」
お母さんが倒れてから、医大のトラックが去るまで、あっという間だった。お葬式もやっていない。

 それ以来数ヶ月経ってなお、「なにも」解決できていないその友人と、なんともつらいお別れをしたあと、わたしは別な友人《か》と再会した。

 ロッカーに入れたスーツケースもあることだし、この辺は《か》もよく知らないというので、「じゃあ、このデパートの中のどこかに座ろうか」ということになった。わたしたちは、なんとなく、上へ、上へと向かい、そしてなんとなく、屋上に出た。
そこはなんとも不思議な空間だった。
 雑然と並んだ、不揃いなテーブルや椅子が、東京の空のもとに転がっていて、歳もバラバラな正体不明な人たちが、勝手な方向に身体を向けて座っていた。子どもたちは走り回っているし、椅子の上にかばんを載せたまま、ふら〜っとコーヒーを取りに行く人もいる。遠く海外から来て、久しぶりに会う古郷の友だちに、紙コップのコーヒーでごめんねとか。。。普通は思われるのかもしれない。。。。でも、その友人《か》とは、昨日もおとといも会っていたような気がしていたし、この人に会うのは地下の煙たいカフェなんかじゃいやだと思っていたので、わたしは、この屋上のパイプ椅子と、このシチュエーションをとっても愉快に思っていた。

 《か》は、コーヒーカップを運んでくれながら、「ここは、『アジアンタムブルー』の屋上だね」と言った。
だから、わたしは、一週間後に仕事が終わって、ゆっくりしてから一人で本屋に行き、大崎善生の『アジアンタムブルー』を買った。

 その場所は、孤独というものが自分の周りを月のように周回していることを確かめるためにあるような空間だった。急に賑やかになったり、突然静まり返ったりを不定期かつ無秩序に繰り返すその広場で、ぼくはいつからかありあまる時間をやり過ごすことを覚えるようになっていた。
 空は広く、適度な緑があった。(a.b.1の書き出しを抜粋)

 わたしが東京で一人暮らしをしていたあの頃に、この場所を知っていたら、きっと、ここに来て、一日中でも人の流れを見ていたかもしれない。

 あの日、あの場所で、友人《か》と紙コップのコーヒーを飲み、そして彼が『アジアンタムブルー』と言ったのには、そうか、わけがあったのかと、わたしはゆうべ、いきなり、そう思った。
わたしは、あの日、あの場所で、もっと『大崎善生』という作家の、名前の方に注目しなければならなかったのだ。そして、ある大事な人のことを、思い出して、気に掛けて、電話するべきだったのだ。

 じつは、その3日前に、帰国のためのスーツケースをやっと準備して廊下に片付けたあと、機内持ち込みにするバッグの中に入れていく本について悩んでいた。手元には最終選択肢に挙げられた2冊があった。今回は友人『か』といっしょに秩父の地蔵尊巡りをするつもりだったので、向学のために、飛行機の中で『日本の神々と仏』という新書を読んでおくことにした。
 もう一冊は大崎善生の『将棋の子』というノンフィクションで、これをプレゼントしてくれた『てーさま』には、今回はお会いできそうもないので、とりあえず急いで読まなくても、今度会う時に(おそらく来年早々に)感想を述べられるよう、準備しておけばよいだろうと言うことにして、その本は持たなかった。まだ時間があるから。

 わたしは飛行機の中で『日本の神々と仏』を読み、勉強し、翌日友人《か》といっしょに秩父の山を歩いた。とても清々しい日本での日々が始まり、そして、無事に終わった。念願かなってうれしかった。《か》と、ずいぶんいろんな話をし、話を聞いてもらい、自分たち以外の人たちのことも心配したり、彼らのためにお祈りしたりした。過去のことを打明け合い、今のことを語り、これからの夢や希望について語った。

 わたしたち家族は10日にフランスに帰国した。これまで2回の帰国でお会いした《てーさま》には、今回に限って会わず、「今度帰国した際にはきっと会おうね」と約束したからと思って、滞在中に電話さえしなかった。それが、《てーさま》は11日に倒れ、13日に息を引き取り、次の週末にはお通夜もご葬儀も終わっていた。週末にはわたしたちは預けてあったボボを迎えに行っていて留守だったので、日曜日の夜にやっと日本からのメールを見て、ただただ驚くばかりだった。

 昨日、《てーさま》の《兄じゃ》からメールを頂き、妹さんの最後の数時間について書かれたブログを紹介された。
いつも《てーさま》はわたしのこの公開日記を楽しみにしてくれていて、気になったらすぐに書いたことへの意見をくださった。ただ、わたしがアイバンク登録のことを書いた時、彼女は何の意見もくださらなかった。臓器提供について話し合ったことはない。なので、彼女がドナー登録をしていたことも、まったく知らなかった。
http://blogs.yahoo.co.jp/sasuraino777/55907485.html

 太陽のような人だったのだ。面白い話題を見つけるのが得意で、その表現力と言ったら天才だった。笑ってしまう。どんな状況も、よく目に浮かんで来て、そしていつも大爆笑をしていた。
例えば、今、彼女と話ができたら、「みのさん、死後の世界ってのはですねえ〜」とか、「あの息が絶える瞬間、なにを見てたかっていうとですな」とか、すごくリアルにお話を聞けそうな気がするのだ。「こんなはずじゃなかったわよお〜」とか「ミーさんのチョコレートもう一回食べたかったなあ〜」とか、苦笑いしながら頭をかいてる姿も見える。
 そんな彼女の身体の一部が、11歳の少年にも希望を与えたことを知る。11歳の子を持つ親としては、もう、この人には、ありがとうという言葉しかない。生きるということや死ぬということについて。笑うということや、感謝するということについて。《てーさま》のおかげで11歳の我が子と、たくさんたくさん話している。

 『アジアンタムブルー』が、死にゆく恋人を見守った青年のはなしであったということには、昨日気づいた。これもまた、なにかの暗示だったのかなとおもったりするが、今さらどうしようもない。

風呂だ、風呂〜

 今回の旅行では、JPは大衆浴場に行かなかった。ど〜しても、イヤだと言い張った。たしかに、変なガイジンが田舎の風呂屋に行けば、じろじろと見られるに決まっている。それに、一人で行っても退屈なんだそうだ。

 指宿の実家では、温泉が出る。蛇口から、塩ッ辛い温泉が出る。母は月々何百円だかを、温泉主に払っていて、使いたい放題だ。ご近所にのぼりの上がっている売りの住宅地でも《温泉付き》などという看板が出ている。指宿の海岸に行くと、砂浜から湯気も出ている。

 自宅に温泉があるのだが、それでもやっぱり《お風呂屋》に行って泳ぎたい(?)のが人情である。こどもたちはお風呂が大好きだ。
昔ながらのお風呂屋もあるのだが、一番近所でしかも《大浴場》と言えば、《菜の花館》のお風呂。その横には、4年前にはなかった《こころの湯》というお風呂があって、泡のお風呂やサウナやとにかく今はやりのお風呂らしい。いま流行のお風呂屋と言えば、彦根でもそういうお風呂屋に行った。
 電気風呂(そのゾーンに入ると、いきなり身体がしびれる。快感)、香水風呂(お花の香り)、露天風呂、サウナ、水風呂、寝風呂(単に寝てるだけ)、ダイエット風呂(ジェット噴射のお湯に身体を揉まれる)などなどがあり、お風呂上がりは、そのままゲームセンターと居酒屋に続いている、レジェーセンターだ。こういうところは《お風呂屋》ではあっても《温泉》ではないかもしれない。

 
 わたしたちは、《菜の花館》の中にあるお風呂に行ってみることにした。そこだったら4年前に行ったことがあり、自動販売機で切符を買うやり方も、ロッカーのカギの掛け方も、ちょっとは覚えているので。
いやあ〜大当たりだった。客がいっぱい入ってる人気の大浴場の隣、にあるお風呂屋は、穴場だったのだ。
だ〜れもいない。。。
 子どもたちは大喜びで泳ぎまくり、露天風呂でも歌いまくり、水風呂の水をぶっかけ合い、泡風呂で脚を伸ばし切って、流れに身を任せるままに流されることもでき、シャンプー使い放題。脱衣所ではすっぽんぽんで歩き回り、時間を掛けてドライアーを使った。いっやあ〜、楽しかった。お風呂はやっぱり貸し切りが一番。

 と、いうわけで、2回目もまた、《菜の花館》へ。そしてまたも貸し切った。

 翌日は名古屋に一泊したのだが、最終目的はなんといっても、中部国際空港内にある《やすらぎ湯》。ここもまた閉館30分前に行ってしまったために、飛行機の発着を眺めることのできる楽しい大浴場が、貸し切りだった。
 JPは、彦根のビジネスホテルみたいに、個人の家庭よりも大きめのお風呂が、空港のホテルにもあると思っていたらしく、そこでひとり楽しく、のんびりお風呂に入れると思っていたのだそうだ。
 けれども実際には、わたしたちが泊まった空港の横のコンフォートホテルっていう、ビジネスホテルのファミリールーム(ベッドが3つあって、幼児は無料で添い寝できる。値段の割にとってもよいホテルだった)には、大浴場はなかったのでJPはがっかりしていた。彼はは日本の最後の夜に、ユニットバスの小さなバスタブの中で、シャワーなんか浴びることになっちゃって、お気の毒だった。

《次回》は、JPも名古屋空港の《やすらぎ湯》に閉館30分前に連れて行って、貸しきりを味わわせてあげようと思う。

2008/11/18

ありがた迷惑

 空港でホッとして、まず、行くところと言えば、トイレ。18年ぐらい前にひさしぶりに帰った日本で、最初に入った空港のトイレで、水の流し方がわからず、いきなり焦った。そのころから都会のトイレはオートマチック化されていて、蛇口のない水道を持つ日本のトイレは、とっても《進んで》見えた。駅では《カチカチカチ、、、》と永遠に続くかのような、切符を切るはさみの音もまだ響き渡っているころだった。

 4年前に家族と帰った時、お尻を洗ってくれるトイレが普及していて、それは4年の間、ノエミの「日本って言えば。。。」ではじまる語り草になった。ゾエは4年前の記憶がほとんどなく、ノエミが「日本のトイレは」とあんなに熱く語って聞かせていたのに、具体的にどんなトイレなのかよくわかっていなかった、らしい。

 ゾエにとって、今回の旅行以来、トイレというところが恐ろしい場所となった。
まず、飛行機のトイレ。ものすごい勢いで、激しい音を立てて、吸い込まれるXXX。。。恐怖心のせいか、飛行機酔いをしてしまい、トイレで吐きたいのに、トイレには行きたくない。
あの狭いトイレに、いちいち「いっしょに入って〜、中で待ってて〜」と言われる羽目に。

 そして、やっと地に足がついた空港で、いきなりお尻を洗われてしまったゾエちゃん。
あれは、すごく怖かったらしい。
トイレのドアをそろそろ〜っと開ける。薄めに開けてまず確認するのは《洋式》か《和式》か。
和式だと、となりのドアへと走り去る、走り去る、走り去る。そして、やがて、奥のほうにただひとつの《洋式》にたどり着けば、ラッキー。ただ、《洋式》を見つけても、入るのを戸惑っている。
「その辺にあるボタンを触りさえしなければ、お尻、洗われないから」
と言ってあげると、やっと勇気を出す。
「ドアの外にいてよ」
と言って入って行く。
「音姫」の使い方まで知らないので、ゾエの用を足す音が聞こえる。それと同時に「ハアああ〜〜」と気持ちのよい声まで。。。

 ある日、病院の最新式トイレに入ったゾエは、なかなか出て来ない。様子を見に行った母が、大笑いをしている。その横には、泣きじゃくるゾエが。。。

 「ひゃ〜〜ン。頼みもしないのに、おしり洗われたあああああ〜〜〜」
「パンツも濡れちゃったんだけど、それ言ったらプライド傷つけるから、見てないフリして。。。」と母が耳打ちする。

 編入することになった丹波小学校のトイレは、昔は《ドッポン》で、青い手と赤い手にお尻を拭かれるといううわさまであったので、どうしよう〜〜と思っていたら、《和式》ではあったが、水洗に変わっていた。ほっ。たすかった〜〜。

 ゾエは、フランスに戻って来てからも、トイレに入るのが怖くなった。
トゥールーズの空港で、「和式かな?」と言ってドアを開けているし、「洋式」だとわかっても「お尻洗わないかな?」とつぶやいている。「フランスにはそんなものないんだから」といくら言っても、このごろはトイレ恐怖症。困ったものだ。

 日本を最近旅行したフランス人はみんな、お尻を洗ってくれるトイレや、便座のあったかいトイレに感嘆する。そしてなによりも感動的なのは、トイレットペーパーの使い口(?切れ目?)が、いつも三角に折ってあって、次に入る人への心遣いが見え隠れすることだ。いや、あれは実に感動的だ。
 ただ《音姫》だけは理解できないらしい。

ま、そうだろう。

2008/11/17

 ありがとう。



 晩秋ムードたっぷりの、寒〜いフランスに戻って来ました。
空港・駅・バス停に迎えに来てくださった方、見送りに来てくださった方、滞在中、ごちそうしてくださったみなさん、こどもたちにお土産やお小遣いをくださったみなさん、面白いお話、貴重なお話を聞かせてくださった、多くのみなさん、いっしょに笑って、いっしょに食べて、呑んだみなさん、泊めてくださった方、いろんな場所に連れて行ってくださった、たくさんの方々。。。
本当にお世話になりました。ありがとうございました。おかげさまで、とってもよい里帰りとなりました。

 旅行の模様は、これから少しずつ、記録に残して行くつもりです。写真もたくさん撮りましたので、見ていただきたいと思います。

 連絡できなかった、会うことのできなかった方、すみませんでした。

また会う日まで、みなさんどうぞお元気で。

 今回に限って会いに行かず、そして、次回帰っても声を聴くことのできなくなってしまった、太陽のような《てー》さまに、大きな後悔とともに、合掌を捧げます。わたしの旅行記をいつもとっても楽しみにしてくださったあの方に、笑っていただこうと張り切っておりましたが、今はなにから書いてよいやらわかりません。《会いたい》人を後回しにしてはいけなかったのです。そして、行きたい場所には行っておかねばならなかったのだと、気づくのであります。

 ふるさとにまた、心を残してきました。また取りに帰ります。

また会う日まで、お元気で。と言える幸福にありがとう、ありがとう。

 そして静かに。。。合掌。。。秋に逝くあの方へもまた、ありがとう。