2009/12/31

大晦日の午後

 メゾン・ド・ヴィックの、持ち寄りパーティーに招待されたので、にわかに年越しの準備が始まった我が家。

 尻の重いノエミを脅迫して(?)、台所に立たせる。
JPの得意技《タルト・タタン》指導中。

 

できあがり



わたしの巻き寿司



作ったはいいけど、ちょっと悩む。。。わたしの図。

大晦日

 静かな年末だ。

 クリスマスに義母が持って来たフォアグラのせいで、JPとノエミが熱を出した。お腹の調子が悪く、クリスマスの残り物はぜんぶわたしが片付けた。台の上に置いてあったフォアグラの残り物を、ちゃっかり盗んだドロボー・ボボも、お腹を下して調子悪そうにしていたが、一番心配していたゾエは無事だった。ゾエはフォアグラをあまり食べなかったからだろう。それにしても、わたしはあんなにがつがつ食べたのに平気だった。フォアグラのせいじゃなかったのかもしれない。

 たまに思い出したように大掃除をしている。31日になってやっとノエミが自分の部屋の窓だけを拭いた。わたしはあと残りの五カ所の窓ふきと、台所の掃除と、廊下の掃除が待っている。そして、午後には巻き寿司を作る。

 おととい、ナディンに会った。ナディンは45歳ぐらいの独身女性で、文化センターで高給取りの所長をしていたのに、この春いきなりやめて、テントひとつ持って旅に出た。今はアヴィニョンのそばの小さな町の文化センターを運営している。その町のセンターは市役所の管轄ではなく、小さなアソシエーションの運営なので、《所長》とは名ばかりで、働いている人はみんな給料も同じ、権利も権威も同じなんだそうだ。だからとっても楽しくやっているし、やりたいことがあれば市役所にお願いせずに、自分たちだけでどんどんやっているらしく、ナディンは生き生きしている。
 そのセンターは家庭内暴力を受けた女性の避難所でもあるし、アラブ系の女性たちに文字を教えたり、彼女たちが持っている《人権》について指導したりする。精神的にも肉体的にも行くところのない子どもたちを、一時期預かって第二の家族を捜してあげたり、キャンプに連れて行ったりするのだそうだ。

 31日に何もしないと言ったら、ナディンに「メゾン・ド・ヴィックに来ないか」と誘われた。ヴィックという村にある施設で、そこは恵まれない人たちや、家族のない人たちの交流の場となっているらしいのだ。たとえば科学技術に関する仕事をしていた人が、仕事をやめてボランティアでそこの人たちのお世話をしているだとか、財産を投げ出して、その家の修理をしてあげてる人だとか、信じられない人たちがいっぱいいるよ、おもしろいよとのこと。アマチュア音楽家がいっぱい来るから、即興でコンサートをやろうよとか、子どもたちにはがらくたや、ぼろ切れや、仮装行列の衣装やサーカスの道具を置いておけば、即興で演劇もやるよ。
とのこと。何やらおもしろそうなのである。

 とにかく、家族のいない人たちや行くところのない人たちが集まって、新しい年を歌いながら迎えようっていう日だよというので、これはわたしにぴったりと思う。お食事は持ち寄りで、地べたに座って食べるんだよ。おしゃれもしなくていいよと言うので、これもまたわたしにピッタリッだなあと思っている。
さあ、どんな大晦日の晩になることやら。

 
 2010年も、健康で平穏な一年になりました。感謝します。

2009年も、ありがとうございました。これからもずっとよろしくお願いいたします。

2009/12/22

忘年会



 クリスマスパーティーなんてものにはうんざりしているのだが、忘年会だったら許せるな〜と思っていた。でも、わたしにはハデな忘年会をやるような《職場の仲間》もいなければ、親戚もいない。日本に帰れば親戚はたくさんいるんだがな〜。さびしいなあ〜。

 先日剣道クラブの仲間から、
「今年最後の稽古と、そのあとお食事があるのでおいで」と電話があったのだが、子どもたちは風邪を引いていたし、JPはまだ病欠だったので、忘年会には行けなかった。

 「年内に出します」と約束していた翻訳の原稿を、先ほど出した。
夜の七時、まだ会社で仕事をしていた編集部の《さ》さんから、「年内に届きました〜」とうれしそうにとろけそうな声で、電話をいただいた。わたしの《仕事仲間》から、「今年もありがとう。来年もよろしく」と、生のご挨拶をいただいて、涙出るほどうれしかった。
 もしわたしが大阪に行けたら、いっしょに焼き肉忘年会ができたかもしれないのになあ。残念。

今年もありがとうございました。
来年もよろしく。

 今日から、来るJPの両親との楽しいクリスマスパーティー(???)に向けて、わたしは忙しくなる。
 
 

2009/12/21

報告

中国語の変なメッセージが来るので、とりあえず、コメントが書けないようにしました。ちょっと様子を見てから、これまでの設定にもどします。marcさん、いつも応援ありがとう。

復活の日

 JPが仕事に復帰した。
18日から学校はクリスマス休暇に入り、それにあわせて休暇を取る大人も多いので、事務所には人なんか居ないんじゃないかと思う。JPは、朝《キネ》に行って、マッサージや体操をしてから仕事に向かった。数日前に義母から電話があり、
「JPは遠くまで歩いちゃ行けないんだから、駅まで車で送るんでしょ?」
と、当然のように聞かれたのだが、
「そんなこと提案もできない。歩いて行くに決まってる」
と、当然のように答えた。JPは、誰かに世話になるということが大嫌いだし、弱音を吐いたり、泣き言を言ったりすることは嫌いだし、少々どこか具合が悪いところがあっても、あんまり《痛い》とか、《心配》とか、そういう感情のない人間なので、
「寒いから車で送ってあげようか」などと言った日にゃ〜、
「きみはおれの母親じゃない」
と、当然のことを当然のように言われる。

 歩いて出て行った。医者にできるだけ歩くようにと言われているんだから、そうした方がいいのだ。
ただし、医者には「20分以上続けて椅子に座って仕事をしてはいけない」と言われていたのに、2ヶ月も仕事を休んでいた彼の机には仕事が山積みになっていたらしく、だから「一日中座っていた」らしいのだ。それはよくない。

 24日まで仕事をするんだそうだ。24日の夕方には両親と、パリの弟がやってくる。3人は24日の夜にはアルビのホテルに泊まるんだそうだ。うちにだって泊まるところはあるのに、うちのベッドは寝心地がよくないんだそうだ。一応これでも遠慮しているのだ。シーツ洗ったり、お掃除したりしなきゃいけないので。でも、土曜日からうちには食器洗い機があるので、らくちん。
 JPは、仕事の帰りに、クリスマスケーキを注文して来たらしい。らくちん、らくちん。

 うちから病人がいなくなったので、大掃除を始めた。台所の壁はがしもまた再開した。
子どもたちといっしょに要らないものをいろいろ整理している。でも、子どもたちは遠藤とダニエル両方の血を受け継いでいるので、何も捨てられない。朝から晩まで怒鳴っているのに、家の中は全然片付かない。
 子どもたちが見ていない間に、わたしはゴミ袋を二つ作った。はっはっは。

去年の秋に家族で帰った時に、子どもたちといっしょに持ち帰ったドングリを、従兄が育ててくれていた。
《みのりのドングリ》
の写真が届いた。実家の前の小さな畑にドングリの木を植え替えてくれたそうだ。
どこにあるか、わかるかな?(わたしにはわかるよん)

2009/12/19

ああ、雪。大雪。


家の中でぬくぬく、ボボ


洗面所で。


雪のカーモー市役所

 雪が降る降る。。。。とラジオの予報でずっと言っていたので、木曜日から楽しみにしていたら、金曜日の朝カーモーでもちゃんと降った。
 雪は金曜日の朝4時頃に降り出して、登校時間にはずいぶん積もっていた。子どもたちのクリスマス休暇が金曜日の夜からだったので、最後の日に雪が降って、子どもたちも親たちも興奮していた。朝はまだ踏みしめる雪もきれいで、さくさくと気持ちよかったが、昼頃にはびちゃびちゃになって、事故もあちこちで起こり、午前中にニコニコしていた人々も、夕方にはうんざりという顔になっていた。

 この日は学校の食堂でクリスマスの特別な料理やプレゼントが出されることにもなっていたし、これまで勉強したノートや工作をもって帰ってくることになっていたので、ゾエはどうしても学校に行くのだと言った。学校に行けなかった子どもが半分以上はいたはずだが、ゾエは歩いて一分なので便利。
 一週間、風邪で学校を休んだノエミも、火曜日からはいやいや学校に行かせた。行かせると言っても、ものすごく寒いし暗いので冬は車で送ってあげる。
 金曜日には車が出せないから、どうする?と言うと、「ぜったいに行く!」と張り切る。最後の日なので、クラスでパーティーがあるらしいのだった。サンタクロースの赤い帽子をかぶって学校に出て行った。

 金曜日は朝市の日なので、わたしとJPは買い物かごを下げて、朝市の出る広場に9時頃向かった。4時前には支度をして出て来た、遠方の肉屋さんや魚屋さんの大きなトラックは来ていたけれども、近くの町から来る花屋さんやコーヒー豆屋さんは、出発の時間にはもう雪がずいぶん積もっていたのだろう、トラックを出せなかったらしい。市場には出店がずいぶん少なかった。お客もとっても少なかった。電気の消えている商店も多かった。

 ここのところ気温が低いので、いつもは外で暮らしているボボも、家の中に入れてあげている。
八百屋のおばさんが、冷蔵庫の中よりも、お店の方が寒かった。と言っていた。今朝はマイナス7度だったらしい。

 今年の1月の初めに日本からテレビ撮影隊が来たとき、「この辺では一年に一回しか雪なんか降らないんですよ〜。そんな日に来ちゃいましたね〜」と言ったものだったが、一年経たないうちにもう一回降った。雪の中でサントセシル大聖堂の写真を撮ったのは、ずっと前の冬だったような気がする。あの日、薬局の電光掲示板はマイナス5度だった。靴にもカイロをつめて仕事したのだ。

 子どもたちがクリスマス休暇に入った。
金曜日に予定されていた、音楽学校のクリスマス・コンサートは大雪のため無期延期になってしまった。ノエミといっしょに、チャイコフスキーの《くるみ割り人形》をずいぶん練習したので、拍子抜けした。

 わたしは台所を片付けたり、翻訳の原稿を読み直したり、朝隈くんの動物たちの写真を撮ったりしている。
JPが食器洗い器を買ってくれたので、ちょっとだけ時間の節約ができて、書いたり読んだりする時間が増えそうだ。
木曜日から合気柔術っていうのも始めた。このはなしはまた。

2009/12/15

 自宅二階の窓から。


 子どもたちが風邪を引いているので、ここのところ学校を休ませている。大したことはない。熱も二日で下がったし、もらった薬も飲み終わったので、月曜日の今日は学校に行かせるつもりだったのだが、日曜日の朝にまた咳がひどくなり、けっきょくまた休ませた。

 なので、親子で10時まで寝ていた。平日に家族四人で、超朝型のJPまでもが10時まで寝ていたとは、すごい。
10時半頃、台所でうだうだ朝食をとっていると、雪が降り始めた。どんどん降り始めた。ずっと降っていた。びっくりした。12月に雪が降ることはカーモーでは珍しい。三日前に初霜だったのに。。。

 お昼すぎに日本から小包が届いた。
朝隈俊男氏の作品がたくさん届いた。送ってくださったのは、《楽天》などで朝隈くんの作品を販売してくださっている(株)周プランズワークという会社の方だ。頼まなかったものまで、どっさり入っていた。丁寧に一個一個、包んでくださっていて、みんな無事に届いた。うれしい〜〜。
http://www.shu.co.jp/

 朝隈くんは、中学と高校の時の同級生で、中学の時にはいっしょに剣道部だったけれども、男子と女子がとけ込めないお年頃だったし、わたしは野球部方向ばかりを見ていたし、などなど。。。あまり接点はなかった。わたしは部活動がいっしょだったせいか、記憶力がよろしいからか、おとなしい彼のこともよく覚えていたが、高校の同級生女子の多くは「だれ、それ?」というような彼であった。でもわたしが「卒業アルバムの寄せ書きで三年一組の担任の似顔絵を描いた人だよ」と言うと、みんなが「あ〜」という。あれはインパクトのある似顔絵だった。

 三年一組というのは三年生でただひとクラスだけ、別な校舎にあったし、数学の得意でキレそうな男子ばかりのクラスだったし、三年一組の男子は美人しか受け付けないような人たちばかりであったので、あの辺りはわたしにとっては立ち入り禁止地区であった。なので、朝隈くんともしゃべった覚えもすれ違った覚えもがない。

 朝隈くんのことをただ一人「彼はちょっと変わっていて、素敵」と言ってる少女が、友人女子の中に約一名いた。わたしはその子といっしょに上京したので、社会人になっても、東京に行ってまで、しつこくいつまでも友人が「朝隈くん♥」のことをそばでよく語ってくれたために、朝隈くんのことは忘れるどころではなかった。彼女の好みはTMネットワークの小室さんとプリンスだったのに、なんでそこで『朝隈くんも素敵♥』なのか、わたしにはよくわからなかった。

 彼女のパワーかなんだろう?東京・渋谷の、今はなき大盛堂書店、地下一階から八階まで本屋さんっていう、鹿児島じゃ考えられない書店でバイトしていた時に、6階でレジを打っていたら「えんどーさんっ!?」と声を掛けられた。朝隈くんだった。びっくりしたけど、いっしょに上京した友人女子にはすでに、小室さんそっくりな彼ができていて前ほど会わなくなっていたし、わたしはビンボー暇なしで友達も居なかったから、朝隈くんでも、すごくうれしかった。(でも?)

 朝隈くんがわたしのことを覚えているとは驚きであった。彼はひょうひょうとしていて、女子の名前などはどーでもいいような人だったように思っていたし、わたしは控え目で目だたない少女であったし(さえないオンナと言え?)、朝隈くんとわたしの間に接点って。。。なんだろう?

 同じ中学の剣道部で、あの頃には近づけなかった同級生男子と、この前里帰りした時に話しをした。(彼こそ昔から美人好きだったので、わたしは話したこともなかった。歳を取ると丸くなるものなのだ。声をかけてもらえた。)「エンドーさんって、一人だけ剣道着が白だったよね。朝隈と二人で『すげ〜』って言ってたんだよ」と言われた。そんなことはわたしも忘れていた。剣道着が白だったので、朝隈くんも覚えていたのだろうか。ってことは、彼らは首から下は一応見てたんでしょーか?

 わたしが日本を出たのは1989年。東京を出てから朝隈くんとは15年ぐらい音信不通になっていたのだが、数年前に再会を果たした。スティングがポリスの再編成コンサートをした日にも会った。東京公演の日にちょうどわたしは東京にいて、公演のあと飲み会に加わった朝隈くんとピース久保田から自慢話を聞いた。

 わたしは家を飾ったりする物や、ただ置いて眺めるだけっていうような物には、これまであまり感心がなかった。これまでの人生で、そんなものに浪費する経済的な余裕はあったためしがないし、「ただ見ていて幸せになれるから、無理してでも買う」というようなもので、かつ自分でも買えそうなものに出逢ったためしがないので、そんな贅沢はしたことがない。

 ほぼ20年ぶりぐらいに朝隈くんと再会した時に、「今こんなの作ってるんだよ」と言って、腕組みをしているブルテリアと地べたに座り込んでくつろいでいる象をもらった。ニッと笑った顔の動物たちが、朝隈くんらしくておもしろかった。『朝隈くんらしい』と、どうしてわたしなんかにそう言えるのかわからないけど、こんな素敵な作品が作れるならば、彼は素敵な大人になったのだろうと思えてうれしかった。東京で自分が苦労している時に、思いがけず再会した同級生だったので、そのあとも「どうしているかなあ」とずっと気になっていたのだ。アーティストなんて誰にでもなれるわけじゃないもの。ずっと怪獣を作っているのかもしれないと思っていた、じつは。

 朝隈くんの作品に触れてから、ずっとずっと朝隈くんの作品が欲しくて欲しくてたまらなくなった。そして去年の冬はじめて、彼の干支シリーズの中から『丑』を手に入れることができた。帰国している間に実家に送っていただいたのに、こっちに戻るまでに届かなかったので「来年もまた帰国すると思うから」と言って実家に置いたまま。とうぶん日本には帰れそうもないので、『丑』はもうしばらく母に預けたままだろう。
『寅』はフランスに直接送ってもらう。楽しみ〜。

 フランスでも個展をやってもらえないかと思って、今いろんな人に声を掛けているところ。
朝隈くんがハデなアロハシャツに、変な帽子をかぶって、猫と同じショッキング・オレンジ色の携帯を手に、にへらと笑ってフランスに来てくれる日を楽しみにしている。

http://clayanimals.net/gallery.html

 雪が降って外が静かなので、窓辺にいすを置いて、「これはジャズだな〜」と言いながら、ジャズを聴いてるところに小包が届いた。ジャズを聴きながら、朝隈くんの動物たちを何時間も何時間も眺めて過ごした。


 うまく撮れなかったけど、ハーモニカを吹いているんだよ。
 右足でリズム取ってるの。

2009/12/13


 毎週金曜日に、無農薬野菜を作っている農家から野菜が届く。
一ヶ月に一回、そこで野菜を買っている人たちといっしょに、持ち寄りの食事会をする。
JPは、滅多に出歩かない人だが、このグループの集まりには、なにがなんでも出て行きたい。
水曜日の夜から、子どもたちが急に熱を出した。世界中で流行っているらしきインフルエンザではなく、ちょっとした風邪らしい。予防注射もしてないので、具合悪いなと思ったその日のうちに医者に連れて行った。
 そういうわけで、金曜日のお食事会には出て行けないと思ったけれども、JPが友達に会いたそうにしているし、農場のみんなもJPのことをずいぶん心配してくれていたので、巻き寿司を作って持たせた。
 JPは歩いて出かけた。

 帰宅したJPが、書斎で仕事しているわたしのところにまっすぐやって来る。
「ちょっとパソコン貸して。天気予報を見たいから。リッシャーが今晩から霜が降りるっていうんだけど、昨日も今日もわりと温かかったから、変じゃないかな?」
 天気予報では、土曜日の夜と日曜日に霜が降りると予報を出していた。

 土曜日の朝、霜が降りて真っ白だった。天気予報よりも、リッシャーの方が正しかった。

もうすぐクリスマスなのだが、今年のわたしは全然つらくない。
 両親が病室に来ていた時に、先生の回診があって、
「退院してからも、一ヶ月は自動車での旅行はできませんよ。20分以上続けて座っているのもダメです」
と言ってくれたのだ。なので、わたしはクリスマス休暇にナルボンヌに行かなくてすむ。今年は例年通りのクリスマスをやらない。
なにがなんでも、どうしても、なんでもいいから、とにかくなんらかのプレゼントをだれにもかれにも買って、ど〜してもプレゼント交換をしなきゃならないっていう、あの、クリスマスをやらなくてすむ。
 そう決めてからというもの、わたしはクリスマスのショッピングでにぎわう巨大スーパーに脚を運ばない。わたしは年末の巨大スーパーの前で、毎年毎年空しい気持になるのだが、もうこのごろは巨大スーパーで買い物をしない。

 子どもたちとのんびり、ゲームをしたり、マンガや本を読んだり、音楽を聴いたり、クマさんの《猫の生活》などのコレクションを眺めたりしながら、昼寝をして過ごすつもり。自然に出て、本物の《ナンテン》探しをするのもいい。

 子どもたちにとっては今年最後の週が始まる。18日には学校にサンタも来る。
JPは、一応21日から仕事に復帰する予定。でも、20分以上続けて椅子に腰掛けていてはいけないので、仕事中に立ったり座ったり、廊下をうろうろ歩いたりしなければならないだろう。21日には、JPの職場のクリスマスパーティーがあり、カストルという町のパーティー会場にサンタクロースがプレゼントを持ってやってくることになっている。夏にカタログが来たので、親がプレゼントを注文してある。

 でも、JPは車に乗ってはいけないのだし、わたしは、サンタクロースにはうんざりしているので、あまり行きたくないのだ。でも、ノエミから「ゾエがサンタクロースを信じているので、クリスマスパーティーをやろうよ」と言われている。
 ノエミは12月5日に13歳になった。ずいぶん前からサンタクロースが誰なのかを知っている。それにしても、秘密だよというとつい言いたくなるくせに、サンタクロースに関しては、とことん隠していられるあたり、けっこうエラいなあと思う。

2009/11/21

JP 退院

 土曜日を外したら、退院は月曜日になると言われていた。
できれば予定通り金曜日に帰って来て欲しかったのだが、ちょっと難しい手術で、予定よりも麻酔を多く使ったようなので、退院が一日延びた。土曜日に退院と言っても、11時以降だろうから、ああ、指圧の講習会に参加できないな〜と思った。

 指圧の講習会に、秋から申し込みをしていて、わたしは解剖学やら経路やら何やら。。。勉強に勉強を重ねて来たのだ。骨の名前と筋肉の使い方なども、ばっちり覚えたのだ。一年に三回の実習が、JPの退院の日に当たってしまったとは、残念無念。でも仕方ない。ダメな時はどんなにあがいてもダメなのだから。

 JPが病院から電話して来て、
「11時に退院できるから、午後から実習に行ったら?」
と言った。なので、わたしはすっかりその気になって、支度をして待ち構えた。午前中の実習に行けないことは電話して伝えてあった。
お昼にもう一度JPから電話がきて、
「11時に病室は出たけど、予約した救急タクシーが2時にならないと来てくれないらしい」
と言うことは、つまり、3時からの実習午後の部にも、完全に遅れるということだ。

 指圧の療院に電話して、午後の実習にも遅れるので、今回は実習を諦めた方がいいのではないか。日曜日の実習にも行かない方がいいのではないかと言ったら、先生が、
「土曜日の実習には遅れてもいいからおいで。もし土曜日の午後に来れなくても、諦めずに日曜日に出ておいで」
と言ってくださった。
それでも、二日間の実習の一日を失うのは、グループの人たちにも申し訳ないし、先生方にも申し訳ない。残念でならなかった。

 そこへ、JPがいきなり帰って来た。
救急タクシーが思ったより早く来てくれて、しかも土曜日なので道路が空いていたので、2時半には家に戻って来れたのだった。
ぎりぎりセーフで、3時からの午後の部に間に合った。
退院したばかりのJPを置いて、指圧の実習なんて。。。と人からは言われそうだが、わたしたち家族にとってはとても重要なことだったのだ。6時に終わって帰宅すると、廊下に薬屋の袋が置いてあった。JPが自分の脚で歩いて薬局まで薬を買いに行ったのだそうだ。ついでにゾエといっしょに公園を散歩して来たのだと言う。
 「気持ちよかった〜」
と、JPはすがすがしく言った。リハビリのために歩きなさいと言われたのだそうだ。それにしても退院して来たばかりの人をほっぽり出して、薬局にも行ってやらない妻なんて。。。
「パパに、いっしょにブランコに乗ろうと言ったら、乗れないと言うから、わたし一人でブランコに乗った」
とゾエが言った。わたしも公園でブランコに乗ればよかったなあと思った。近いうちに。。。。

 JPはすごく元気。

2009/11/20

爆睡

 どんな苦境でもよく食べる。ストレスが溜まると《気分転換》と言ってよくないものを食べる。なので、お腹がど〜もよくないことは、たしかに感じているのだけど、外をうろうろしていると、やはり、ちゃんとしたものが食べられない。
 どんな苦境でもよく寝る方だ。ひと晩中考え事をしていて、夢にうなされて、あるいは涙が止まらず。。。眠れなかった夜もあることはあるが、ストレスが溜まっても、けっこう寝てる方だ。睡眠時間は少ない。ほんとうは睡眠時間が人よりも必要なのだが、どちらかというと夜型で、自分以外の家人がみんな朝型なので、いつも睡眠時間が足りない。

 10月のはじめにJPが腰を痛めてから、彼は毎夜ベッドでのたうち回っていたので、自由自在に身体を動かせるようにわたしはのたうち回っているJPを放っておいて、ゾエのベッドで寝た。ゾエは、腰は痛くないけど自由自在にベッドを動き回る。たまにパンチを飛ばされたり、脚蹴りを食らったり、布団をはがされたりするので、だからわたしは、のたうち回っているみなさんのベッドを行ったり来たり。。。寝るところがなく、夜中に真っ暗闇の廊下で、「どこに寝ようかな」と考え込むような日もあった。だからずっと寝不足なのである。

 金曜日。ほんとうならば、午後マザメという町で日本語レッスンの予定だったのだが、マザメで午後1時半にレッスンを始めるには、トゥールーズの病院を11時には出なければならない。でも面会時間が11時からなので、11時以降にトゥールーズに居たい。その日の生徒は先週休んだリューシーさん一人だけの予定だったので、マザメの商工会議所に電話して、休ませてもらうことにした。リューシーさんのいつものクラスには、日本に2年間住んでいたニコラさんがいる。ニコラさんは日本語能力試験で二級も持っていて、初級のクラスで退屈している。先週リューシーさんは休んだので、わたしたちはあまり大したことができなかった。ニコラさんに連絡して、先週休んだリューシーさんに先週やったことを教えてあげてとお願いした。アシスタントがいると便利だなあ。

 カーモーを9時に出て、途中でノエミのための仮装行列に使う小物を買いに走り、高速道路を突っ走って11時5分前に病室に行くと、部屋は空っぽだった。廊下でうろうろしていたら、JPがキネといっしょにキネの部屋から出てくるところだった。筋肉増強用の道具だとか、ベーベルとか、そういう器具や道具が置いてある部屋だ。朝早くから、そこで身体の動かし方を習い、階段の上り下りをさせられ、廊下を行ったり来たりさせられ、ひと仕事して来たらしい。

 JPは痛くもかゆくもないらしいし、ちゃんと座ってご飯を食べられるし、トイレにも一人で行けるので、わたしはなんにもすることがない。だから、寝心地のよいソファーベッドで、雑誌をぺらぺらめくっているうちに、居眠りを始めたらしかった。
「ごー」と言ってる自分の寝息にはっとして目覚めた。
こんなにぐっすり寝たのはいつのこと。。。
JPも、「ゴー」といびきをかいていた。

 わたしは夕方のラッシュが始まる前にもうカーモーに帰って来た。ゾエを学校に迎えに行ったら、ゾエがとっても喜んでいた。
ノエミは金曜日の夜にお友達の家にお泊まりをして、土曜日の朝、友達と友達のお父さんと三人で、トゥールーズで開かれる《ジャパンエキスポ》の催しに行かせることになっていた。それはゲームとマンガのエクスポで、友達といっしょにコスプレをするのだという。
 「あんた、この忙しい時に。。。」
と言いつつ、そういうお出かけが必要なお年頃よと思い直し。。。コスプレの準備を手伝う。夕方2時間掛けて、プリーツスカートを縫ってあげた。だって、《日本の女学生の制服姿》に化けたいんだそうだ。
「日本の女学生はプリーツスカート履いてるもん」
と言う。すっかり忘れてたけど、このわたくしもプリーツスカートだった。フランスにはプリーツスカートのジャンバースカートなんて売ってないのだ。今朝病院に行く前に洋服屋さんを走り回ってけっきょく見つけられなかった。あるわけないので、縫ってあげた。

 ノエミはお泊まり、ゾエと二人っきりだった。寂しいなあ〜。
あした土曜日、予定通り退院できるかなあ〜。


 

2009/11/19

409



 JPが死ぬほど苦しんでる姿は滅多に見れるものじゃない。暑い、寒い、痛い、かゆいの単語は知らないんじゃないかとずっと思っていたぐらいだ。病院に入院してるんだから、「痛い」ぐらい言ってもいいと思っていたが、全然言わない。この人ほんとうに大丈夫だろうかっていってる間に、新しい旅立ちの朝が来た。

 409号室には、人が出入りする。
手術の翌日の朝一番に、キネが来た。キネというのはキネジテラプートKINESITHERAPEUTEという難しい単語で、辞書で日本語を探したがやっぱり難しい名前の職業(運動療法の施術者)だったので、キネと呼ぼう。
 キネが来て、手術前にあった右足の麻痺を確認した。麻痺はほとんどなくなっていてびっくりした。そして、いきなり立ってくださいと言った。きれいな助手がくっついて来ていたもので、
「あんた、そのパジャマでスッ転んだら、丸見えよ」
と胸の中で言いながら、JPを応援した。
キネはまず、どうやったら腰に負担をかけずに身体を動かすことができるかを説明した。そして、横向きの態勢からJPを起き上がらせてくれたのだが、ここでいきなりJPが
「頭がふらふらする」
と言った。目が回っている感じだったけど、キネは、それは当然だと言って静かにしてればよくなるからと、そのまま静かに待ってくれた。
 そのあとJPは、立ち上がり、部屋の中を歩かされた。シャワーを浴びてもいいと言われて、いきなりシャワー室に連れて行かれた。椅子のついているシャワーなので、JPは身体を拭いた。

 お昼にはちゃんと病院の食堂から普通の食事が来て、JPは起き上がってベッドの上でご飯を食べた。わたしは病院の隣にあるスーパーで、ありとあらゆる贅沢インスタント食品を買い集めてきていた。反インスタント食品派のJPにじろじろ見られながら元気に食べた。こんなことでもない限り、インスタント食品をJPの目の前で食べることなどできないので、見せびらかして食べる。わたしはいつでも食欲だけはあるのだ。病人を前にしても、ちゃんと遠慮できないのだ。そしていつも
「気持ちよいほど食欲旺盛だねえ〜」
と言われるのだ。そうですよ。ご飯がおいしいのは健康の証。
早くお家に帰って、おいしいものをがんがん食べよう!

 JPの両親が来た。会話ネタが乏しいので、早く帰ってくれるかと思っていたら、なかなか帰らないので、わたしも帰れない。そうこうしているうちに、手術をしてくれた先生が来たので、いろいろとお話を聞いて、安心して両親は帰った。
看護士さんたちが入れ替わり立ち替わり、痛み止めの点滴を取り替えにくる。傷の点検と血圧の検査にも来る。小さなパソコンを抱えた人が、明日のメニューを伝えにくる。デザートを二つの中から一つ選ばなければならず、JPは、「どうしてもその二つしか選べないんですか」などと言って、パソコンを抱えた女性を困らせる。
 JPもゆっくり寝た方がいいので、わたしもカーモーに帰ることにした。

 ノエミは学校から帰って来て、宿題もヴァイオリンの練習もちゃんとして待っていた。ゾエは友達のお母さんが学校まで迎えに行ってくれていたので、友達の家に迎えに行った。夕食の時間にずいぶん遅れてしまったので、ピザを買いに行くつもりだったのだけど、友達のお母さんがホットサンドイッチをくれた。サンドイッチでは足りなかったけど、ピザを買いに行く気がなくなったので、足りない分はカップラーメンでごまかした。

 サンドイッチとラーメンなんて。。。寂しいなあ〜。

2009/11/18

クリニック

 オピタル (HOPITAL) ではなくて、クリニックだというので、どんなちっぽけなところかと思っていたけど、リュニオンのクリニックは巨大だった。とっても広い駐車場では、駐車スペースを探して朝から晩までたくさんの自動車が回り続ける。バスもタクシーも、救急車も、パトカーも来る。
 特別な手術をする病院らしいので、見たこともない不思議な器具をつけた《すごい患者さん》がいっぱいいる。玄関には、手が使えなくても車いすでも便利な、自動の回転扉があって、一日中ぐるぐる回り続ける。回転扉の真正面にキヨスクがあって、お見舞いを買い忘れた人や、クロスワードパズルを選ぶ患者さんが、うろうろしている。専門医を探す人、入院場所を探す人が、案内パネルの前でじっとしている。受付には行列ができていて、不安な人が怒鳴ったりしている。

 JPの部屋は4階の北側の一番奥にあり、一日中太陽が射さない。風景っていえば巨大駐車場と、コの字型になってる病棟の向かいの部屋で苦しんでいる人たちの姿。北側の窓は床から天井までガラス張りなので、あっちからもこっちが丸見えなんだろう。左下の方に、カフェテリアの裏口があって、食べ物や飲み物を運ぶトラックや人の姿と、午前と午後に二回ずつゴミを取りにくる電気自動車が見える。
 
 真下の駐車場のちょっとしたスペースに、芝生が植えてある。JPが4時に運ばれて行った。静かな病室を借り切って、一人で解剖学の教科書で上皮細胞について勉強をしていた時に、いきなりものすごい音が始まった。この音は草刈り機だ。
 見ると、トラクターぐらいの大きな草刈り機だった。黄色い車体にkubotaって書いてある。日本にいた頃はクボタは田植機だけかと思っていたが、フランスではkubotaの草刈り機をよく見かける。kubotaの草刈り機を見るたびに、中学の時の同級生の《ピース・久保田》が懐かしくなる。病院の草刈りトラックを運転しているのは、チェックのシャツに、ホークスみたいな野球帽子をかぶった《ピース・久保田》みたいなお兄さん。大きなヘッドホンをして、優雅に芝生に模様を作っていた。ヘッドホンを耳につけてる姿まで、まるで《ピース・久保田》。そこでわたしは《ピース・久保田》にそっくりなムッシュ・ヘッドホンが描く地上絵に見入る。やがて、草刈り機の音が遠ざかる。

 駐車場の向こう側に、屋根の葺き替えをしている家があって、火曜日に入院した日には、屋根の一部の瓦をはがしているところだった。水曜日の午後にはガラスがはまった。テラスの天窓なのかもしれないし、あるいは今はやりの太陽熱電池のパネルなのかもしれない。に、しては、西を向いているから、パネルじゃない確率に賭ける。
 駐車場では相変わらず車が行ったり来たりしている。自動車の展示場みたい。さあ、車を買ってもらえるとしたら、どんなリクエストを出そうか。わたしは車選びを始める。

 一時間ですむと言ったのに、四時間もかかった。
暗くなってしまったので、雨戸シャッターを閉めた。翻訳の原稿を修正するのも、集中できなくなってしまった。解剖学は、細胞学を終えて骨学まで終わった。8時半が過ぎてから、担当の先生から部屋に電話があり、手術が難しかったこと、でも無事に終わったことなど教えてくれた。それで、今度こそあと一時間ぐらいで部屋に帰してくれるというので、わたしは一階に下りて、自動販売機でコーヒーやサンドイッチを買った。

 病院の簡易ベッドはずいぶん快適だった。疲れていたからぐっすり眠れると思ったのに、看護士さんたちが三時間おきに点検に来るので、寝ていられなかった。JPは、モルヒネのおかげで痛くはないらしい。11針縫ったという背中を下にして寝ている。
子ども達は友達の家に泊まったので安心だった。だいたい、子どもたちと一緒にいない時には、あまり子ども達のことを考えない。
薄情な親なのだ、わたしは。

2009/11/17

嵐の前の静けさ〜?

 JPが水曜日に手術をするので、火曜日から入院することになった。
1時間半ぐらい掛かるトゥールーズまでの道のりを、助手席に座って耐えることができないので、ベッドが装備されている救急タクシーを予約した。そういうのは車いすなどと同じで、保険が下りるのでじゃんじゃん利用しなければ。
 前の週に麻酔医師との約束があって、わたしが運転する自動車の助手席に座ってもらったが、わたしが運転するとJPはいらつく。いらついてる人間が横でイライラしていると、運転する方はドキドキして、ヘマをやるので、さらにいらつかせる。
 「そんなに我慢できないなら自分で運転したら?へへ〜。運転できないんだから、治るまで我慢してわたしの車に乗るしかないんだよ〜。へろへろべ〜」
 JPの神経を逆撫でするのは得意。
 「絶対に自分で運転したい。コイツに看病されるぐらいだったら、病気にはなるもんじゃない」
と、しみじみ思わせて差し上げなければ「いっだましいがいらん」というもの。

 13時に救急タクシーを予約しているので、12時ぴったりには食べたいらしく、11時半頃にはJPが廊下をうろうろし始める。
「早くしてくれ」とか「遅れたらどうするんだ」とか言えない人だ。
そんなことを言ったら「自分でやれ」と言われることがわかっているので、台所内のことには口を出さない主義らしい。(主義、ですって?)手を出さない人間には、口出しする資格はないのだ〜。

 12時5分。わたしがみそ汁用のネギを刻んでいると、窓の外で
   ぶん ! がっちゃん!
というものすごい音が聞こえた。二重ガラスなのに、はっきり聞こえた。最初は「あ、事故った」と思ったのだが、窓の外を見ると、ぶつけられたのは路上駐車してたうちの車らしきこと判明。あ〜、ついに、車も買い替えてもらえるか!?と一瞬にんまり。(にんまり、ですって?)

 汚れたエプロンと草履姿で、路上に飛び出る。
隣の家の人が、電話を片手に、走り去ろうとする車を指さす。
走ってるけど、停まろうかどうしようか迷っているようなスピード。追いついた。
 「あの、すみませんが(ほらまた謝る〜)、あなたがぶつかった車、わたしのなんですけど」
助手席の窓から運転手に向かって言った。すると、イブ・サン・ローランの《イブ・サン・ローラン》って文字をかたどったブローチをしている、イブ・サン・ローランの派手なオレンジ色の口紅はとうてい似合わない奥様が
 「そんなこと知ってるざます。だからこうして停止したんでザンショ」
と、聞きもしないのにムッシュの代わりにお答えくださった。お二人とも、公道をすっ飛ばすにはかなりイッテルご高齢だ。

 一応ムッシュだけ降りて来た。
が、「すみません」は言わない。当然だ。フランス人だもの。
ぶつかったのはわたしのせいだとおっしゃる。停まってる車にぶつかったら、ぶつけた方が悪いに決まってるじゃないの。しかも、路上駐車が認められている場所で、正しく停めてあった。引っ越してから6年ほど経つが、ぶつけられたのははじめて。
ーーなど言ってるところへ、JP登場。ほぼ一ヶ月世間に顔を出していなかったので、ご近所のオバサマたちが「あら、あなた居たの?」って顔で見ている。仕事に行ってるはずの12時5分に、一ヶ月分の無精髭とアフロヘアー。足を引きずって痛そうにしているJP。表情も硬く、この人こわそーってだれでも言いそう。ムッシュがわたしに向かって、がんがん言ってるものだから、JPが出て来て「すみません(謝るなって、日本人みたいに)もういちど言ってください。」って、まるで日本語初級のテキストで教えるフレーズ。
これは、JPがキレる直前の合図。

 「はいはい。おじさん、わたしは怒ってるんじゃありませんよ。書類にサインをしてもらったら保険屋に持って行って、車も修理してもらえますので、それだけやれば訴えたりしませんから。はい、我が家へお入りください」
と引っ張ったら、おじさんが
「わたしたちは昼食事に招待されていて、時間がないんだ」
と、言ってしまった。これはまずい。言ってしまったね、おじさん。
わたしが真っ青になっているところへ、アフロヘアーのJPが毛を逆立てて、おじさんに迫る。
 「わたしだって時間がないんだ。1時には救急車が来るんですよ。腰が痛くって痛くって、泣きたいんですよ。もう何週間も寝てて、やっと明日手術をするので、今日の一時に救急車が来て、運ばれるんですよ。遅刻したらどうするんですか。」
見た目いかにもそんな感じ。。。の病人タレているJPに、そんなことを嘆かれたらおじさんは黙るしかないのである。おじさんが免許証を取りに行っている間、わたしはJPに「落ち着いて、落ち着いて」と言い背中をさすってあげた。

 JPとおじさんは、わたしがみそ汁を作りながら魚を焼いている台所で、保険屋に出す書類を書いた。JPは椅子に腰掛けて座っているのが痛いらしくて、手がブルッてる。おじさんは、JPがエキサイトしてブルッてるのかと恐れているらしく、JPの手元をちらちら見ながら黙々と書類の穴を埋めている。

 入院前に。。。けっこう不吉な事故であった。
とりあえず救急タクシーがJPを病院に連れて行ってくれたので、わたしはアルビでの仕事に向かい、仕事が終わってからその足で病院に向かった。

 JPの部屋の前に来たとき、ドアの前で絶句した。。。。
部屋の番号が 409 だったもので。
 「落ち着いて。落ち着いて。ここはフランスなんだから。。。」
と自分に言い聞かせて、部屋に入ると、JPはすでに入院患者用のパジャマを着ていて、とってもかわいかった。
長く暗いトンネルの中で苦しみ続けたJPだったが、出口の明かりが見え始めたんだろう。にこやかな患者となっていた。

 背中が開いててお尻半分見えかくれ。危うくスーパー・ミニ・サイズのパジャマ。。。アフロと無精髭がなんとも不釣り合いでおかしすぎるので、写真を撮ろうと思ってカメラを構えたが、409号室で死ぬほど苦しんでる人のことを思うと、たしかにお気の毒であった。
(でも撮ったけどさ。これはブログ・ネタになると思った!へへ)

2009/11/16

JP いよいよ入院 !

 JPが今度の水曜日に椎間板ヘルニアの手術をするので、火曜日から入院することになった。
金曜日か土曜日には退院できる予定。
完全看護なので、来ても邪魔なだけと言われているが、いちおう、もとが日本人なので、入院中のダンナを放っておくわけにはいかないので、ある。なので、火曜日は日本語のプラーベートレッスンのあと、そのままトゥールーズに向かえるように、ゾエはモーガンが学校に迎えにいってくれるうえに、モーガンのうちに泊めてもらうことになった。
 ノエミは、自分で鍵を持っているし、携帯も持っているし、火曜日は宿題もいっぱいあるので、自宅に帰って来たら、一人でわたしの帰りを待つ。水曜日は、学校に送って行き、学校が終わってから友達の家に泊めてもらうことになった。
 木曜日と金曜日には、トゥールーズを往復して、夜には自宅に帰り子ども達と過ごす予定。

 友達がよくしてくれるので、大丈夫。
 JPの両親は、ぜんぜんあてにならない。
 
JPは、手術の日付が決まってから、ちょっと機嫌がよくなった。

 この数週間のあいだに、JPがあちこち調子悪いだけでなく、結婚した時に買った電化製品まで、ことごとく壊れ続けている。手術の日付が決まってからというもの、JPは、それらの電化製品を買い替えはじめた。自分ではテレビなんかほとんど見ないのに、いきなり液晶薄型画面の最新テレビまで買った。
 なんだか、死ぬ前に母に新しい洗濯機と新車を買ってあげて、「これで安心」と自己満足に浸っていた父に似ている。

 新しいテレビを買ってもらうよりも、「早く帰って来て、修理してやるから」と言ってくれる方がうれしいのに。。。と思う。でも内心、言っても言っても買い替えてもらえなかった電化製品が新しくなり、JP。。。というよりも、JPの入院に感謝する気持ち。
 この前、車の故障でプライベートレッスンをすっぽかすことになった時に、
「この車古いから。。。ダンナが頑固で。。。新しいのにかえなきゃならないんですけどねえ。」
と言っていたら、生徒のお父さんに
「車?それともダンナ?」
と返されて、二人で爆笑した。
 どっちも新しいのに変わらなくてもいい。修理して長持ちしてもらえればいい。

 

2009/11/15

カヌレ



子ども達の大好きなカヌレ。
友達がレシピをくれたので、二日がかりで作った。
おいしかった〜〜。

反省点/もうすこし焦がした方がおいしい。



 

ゾエのアルバム


難を転じるというナンテンの木(じゃないかと思う木)を発見!葉っぱが違う気もするが、「ナンテン」だと思って難を転じるお祈りをする。

この写真を載せた数日後、植木さんをやってる友達の地味〜からメールがあった。
「ブログにあった赤い実の木はナンテンではなくて『ピラカンサ』(pyracantha、仏語だったらピラカンタかな)もしくはその仲間。多分トゲがいっぱいあるでしょ。ナンテンと同じで赤い実がたわわに実ってとてもキレイだね。」

確かに、インターネットで《ナンテン》を調べたら、ぜんぜん違っていた。


          ジャン・ジョレス公園のイチョウの木




          ジャン・ジョレス小学校の、日時計。時間通り!


          ジャン・ジョレス公園の。。。庭師?

2009/11/14

JP 病欠のまま

 JPの病欠が一週間ごとに延長され続けている。
ぜんぜんよくならない。
やっと三週間前から予約していた、スキャナー検査の順番がまわってきたものの、「手術を」と言われたって、この辺りじゃ、誰もやる人のいない手術らしいので、トゥールーズまで行かされる。
 「急いで」と言われても、この地方でその手術をやれる病院が二カ所なので、なかなか予約も取れない。とりあえず、スキャナーを撮ってからさらに一週間後に、トゥールーズの腰の専門医との予約が取れたけれども、手術はいつになるやら知れない。右足は麻痺が始まっている。痛くて毎晩眠れないらしい。つくづくお気の毒なJP。

 《ザマミロ》なんていって検査入院させた内分泌系の方は、いまだに原因が分からないまま。検査入院したのももう一ヶ月以上前だって言うのに、特別な血液の検査をするラボが県内に一カ所だけだから、なかなか検査結果がもらえないなんて言う。検査入院の時に撮ったスキャナーも、その他のいろんな映像も、まだぜんぜん見せてもらっていない。医者が呼んでくれない。こんなことしてる間に、どんどん悪くなってるんじゃないかと思って、わたしはかなり不安だってのに〜。

 でも、JPが家にいてくれるおかげで、わたしはお外で心おきなく仕事ができる。家に主夫がいるっていうのはありがたいなあ。時間を気にせず外出できる。ただし、家事一切を任せられないし、犬の散歩もゴミ出しも、力仕事も、なにもかも一切お願いできないので、わたしはとっても疲れている。10月から片道1時間半もかかるところで日本語を教え始めてしまったし、プライベートレッスンもやっているし、今週などは日本からテレビの撮影も来たので、へろへろだ。家にいない時には、食べるものだとか、いろんなものを整えて出て行き、帰って来たら、ぜんぶ何もかもが散らばっているので、どっと疲れる。そのうえ、お父さんったらかなり鬱になっているので、家の雰囲気はかなり悪い。子ども達はこのごろあまりけんかをしないので、それだけは助かる。

 剣道に行くのはもちろんやめた。稽古の時間が食事の時間帯で、食事の時間帯に家を開けるのはただでさえ気まずいっていうのに、身体の不自由な夫にすべてを任せるわけにもいかない。自分の残されたエネルギーがもったいないのと、JPの病院通いが優先なのとで、自分のアキレス腱の治療は行くのをやめることにした。剣道も行かないから、アキレス腱も切れたりしないだろう。

 
 とにかく、ここで、負のエネルギーを吸いすぎちゃ〜いかんと思い、がんばって、周囲を励ましている。働きすぎてる友人に、小包おくったり、病気のともに手紙を書いたりなどしてみる。まるで自分が世界で一番幸せな人間のように、明るい太陽をふりまけられたらどんなにいいだろう。

 学校のお母さん仲間と持ち上げた、《学校にわらで作った教室を》の運動も、せっせと楽しくやっている。会議をうちで主催して、家にこもっていたJPにも、会議でわらの家について語ってもらった。みんなJPを頼りにしてくれると言ってくれているので、がんばって早く治って、わたしたちの大プロジェクトの核として活躍してもらわなければ。

 昨日テレビの人を送り出したあとで、レンタカー屋さんに車を返しに行ったら、「傷がついてますよ」と叱られてしまった。修理代を払えと言われて真っ青になった。ミーさんも掛け合ってくれて、レンタカーの保険が利くことがわかり、2000ユーロぐらいかと思ったら、修理代は82ユーロだそうだ。それでも、病気のJPにそんなことは言えないので、日本のわたしの雇い主さんに泣きついて、わたしの通訳の報酬のほかに、修理代も出してもらえることになった。救いの神はやっぱりいるのだな〜。涙出そうになった。ううう。申し訳なくって、やりきれない。

 でも傷だけですんでよかった。人身事故があったら怖いので、これからは通訳だけさせていただいて、運転手は別に雇ってもらおうかと思う。能力もないくせに《通訳》までやっていることだって、もともと不相応なのであるからして。いろいろクビ突っ込みすぎて、自分で自分の首を絞めている。
 見積もりを8時間労働で出していたっていうのに16時間も働き、家族を犠牲にした上に、見覚えのない《傷つき》事件にまで巻き込まれ。。。もう、いったいなにやってるんじゃっ?て感じ。

 とりあえず、明日は一日中寝て暮らすことに決めた。久しぶりに予定がなんにもない週末だ。
うれしい〜。しあわせ〜。ありがとう〜。ありがとう〜。ありがとう〜。

 

2009/10/25

クビ突っ込み過ぎ

 小学生の頃から、あの子とその子の仲を取り持つ(ことになってしまう)のが、わたしの運命だったかもしれない。あの子とその子の間に入って走り回り、取り持った仲がうまくいったことばかりではなかったが、それでもまあ,恨まれたことはなかった。(と、思う)
 大人になってからもしまだ日本にいたら、明らかに《お見合いおばさん》になっていただろう。そして、うまくいかなくなって、みんなに恨まれたかもしれない。
 日本人とフランス人の間にいて、あれこれと仲を取り持つというか。。。どちらにも満足の行く方法を見つけて差し上げましょう!と、いきり立ち、けっきょく自分の《お見合いおばさん能力》がないことに気づき、けっきょくかき回しただけに終わって、けっきょく「恨んでません」と言われながらも、明らかに恨まれている雰囲気を感じなければならないという。。。「ああクビ突っ込みすぎ」と思うこと、多々ある今日この頃。「放っておいてちょーだい」と言いつつも、巻き込んでくれる人も人じゃあないんデスカ?と思うことだって、まあ、ないことはない。
 自分を含めて、人間というのは「自分は悪くない、あなたのせいでこうなった」というのが得意なんだろう。

 JPが歩き始めた。三食も寝室ではなくキッチンで、家族揃ってとれるようになった。台所からいちいち食事セットを二階に運んでは降ろすという作業がなくなっただけでも、ずいぶん楽になった。マスリ先生によると痛み止めで痛みが治まったら、今度はマッサージなどに通ってくださいとのこと。ただし、病欠の延長はなかったので、JPは予定通り11月4日から仕事に行く気でいる。7日には片道2時間半の両親の家に、一人で行って、その日のうちに帰ってくる予定まで立てているので、身の程を知れと言ってわたしに怒鳴られている。おひげが生えてまた一段とハンサムになった。(一応フォローも)
 内分泌科の方の、ちょっと心配していた検査入院の結果は、医者によると「大丈夫だと思うけどよくわかんない」とのことで、今週その先生が参加する専門医のシンポジウムで発表して、フランス国内から集まる同僚内分泌科医の意見を仰ぐんだそうだ。だから、まだ、とったスキャナーも見せてもらってないし、フランス語でいろいろ言われても、わたしにはよくわからないので、あまり心配しないことにして、ただただ、腰が痛いJPの介護をやっている。寝たきりというのはほんとうにいやみたいなので、JPも「絶対に病気で入院するのはいや」と決意も新たに燃えている。よしよし。「信じるものは救われるよ」といちいち言ってあげているが、友達が言った「鍼がよく効くよ」には耳を貸さない。信じないなら効かないだろう。

 クビ突っ込みの件に再び戻るのだが、この前の火曜日にPTAと学校職員、市役所職員との年3回の会議の一回目があった。それで、学校の校内にあるCentre des loisirs という、日本でいうと《学童》みたいな施設について、再び問題になった。この建物はプレハブの築30年の老朽化しすぎた建物で、何年も前からどうにかしてくれと、毎回会議で話題になる。市役所は「まだ使えるでしょ」とか「修理すれば」とか、「検査に通ったから」と言って耳を貸さない。
まず、検査に通ったのが、10年前なのかどうか定かでないが、見た目、素人でも検査に通るはずがない!というのが、全員一致の意見だ。建物のあちこちに穴が空き、植物まで芽を吹いている。窓やドアの立て付けが悪いので、やっとのことで動いている電気の暖房も、確かに「まだ使えてる」とはいえ、いつ火を吹くかわからない。しかもすでに臭い。ガンガン掛けても効かない。なので、修理するということはつまり、あいた穴からお金を捨てるようなものだ。

 それで、わたし、火曜日の会議のあとからずっとそのことが頭から離れない。水曜日にPTAの一斉メールに宛てて、こんなメッセージを送ってしまった。
 「お金がないということなので、お金のかからない案を提案してみたらどうだろう。」
以前からわたしが《わらの家》に関心を持ていること、情報を集めていて、お金がかからないことを証明できることを説明した上で、「衛生的で、環境保護にも優れ、経費とエネルギーの節約にもとってもよい建物なので、わらの家の建築について、ちょっとレポートを書いてみようと思う。」と書いた。

 メールを読んですぐに賛同してくれた人が何人かいて、そのような建物に個人的に興味を持っている人や、実際にわらの家に住んでいる人を知っている人たちだった。そのほかメールに返事は書いてくれなかったけれども、学校の前で会って、「すばらしいアイディアだ!わたしも仲間に入れて」と言って声をかけてくれた人もいた。この三日間でぜんぶで11人集まった。その中には、大工さんや電気工事士などプロで建築に関わっているご主人のいる人が三人もいる。フランス語だがブログも作った。

 フランスの私が住んでいる地域では、台風も地震もない。しかも、今ある崩れそうなプレハブで認可されていた学校の建物だったら、人も住めるような頑丈なわらの家が、認可されないはずがない。わらの家と言っても、わらは断熱材に使われるだけで、実際には木造建築に、わらを固めるための漆喰などの素材がわらを守るので、防火効果は抜群である。火災に関するテストのレポートも見つけので、公開した。わたしたちは、まず、次回のPTAの会議で大まかなラインを説明できるように、この秋休み中に集まって、可能ならば、プロのわら家造り職人さんを囲んで、会議の前のミニ会議をしようか。。。というところまで話が進んでいる。

プロジェクトの名前はTrois Petits Cochons《三匹の子ぶた》
 http://tpc-nozomi.blogspot.com/
情報と意見を集めている。
Maison en paille pour le CLAE de Carmaux, nous avons besoin de votre conseil et de votre soutien, merci !!
信じるものは強いのだ〜。

2009/10/19

病欠

 JPは、10月11日に腰を痛め、這い回ってのたうち回った一週間だった。16日にマスリ先生のところに、ど〜しても一人で行くと言ってきかず、そのためには玄関先から50メートルは歩かねばならなかったので、まずはベッドから降りることから始めなければならない。
 15日の朝、ベッドから降りて歩き始めた。その午後、時間をかけて階段を降りて来た。そして廊下を行ったり来たり始めた。それでも、じっと座っていられないので、食事はやっぱりベッドでと言って、食べかけのみそ汁の茶碗を持って、夕食の途中から二階に上っていった。
 わたしが使っていた松葉杖を貸してあげたが、この人ったらリズム感ってものがないので、危なっかしくってしょうがない。転んでもらったら困るので、松葉杖は取り上げた。

 「1メートル85センチのところから転んで頭を打ったら、痛いよ」と言ったら、ニッと笑って、「転んだことあるから、わかってる」と答える。1メートル85センチのところからいきなり落ちた頭は、バスケットボールみたいに跳ねた。それを見ていたのはわたし。本人は記憶ないくせに。

 マスリ先生のところには、強引に車で連れて行った。50メートルの距離だけど。帰るのはどうしても自分の足でと言って聞かないので、じゃあ勝手にしろと言っておいて来た。そのかわり、薬を買いに行くのはわたし。フランスの診療所では、薬をくれない。処方箋を書いてもらって、それを薬局にいちいち買いに行く。予防注射も買って持って行って打ってもらう。急な注射の時には、「あ、一本残ってた」などという場合に限り、手持ちの注射を打ってくれるけれども、後日患者が薬局まで買いに行って、医者に戻さなければならない。

 「それで?月曜日にはまだ仕事には行けないんでしょ?」
行けるわけがない。歩く姿が《玉手箱オープン後》の浦島太郎だもの。
「先生が、病欠の届けを出すための紙を書いてくれた。それが、11月4日までなんだけど。。。間違ったのかな?長過ぎない?」
12日に看てもらった時には、一歩も歩くことができず、ベッドで寝返りも打てない状態だったので、先生は試しに一週間の休みをくれた。それが、あと二週間と言うのだ。
 その前の週から検査入院のための休みをもらっていたので、合計一ヶ月近くもの病欠!
ラッキーじゃないの〜〜。

「ほら、天の声が『休みなさい』って言ってんのよ」
とは、わたしの意見。JPは不機嫌。

 急に寒くなって来た。毎朝子どもが学校に出て行く8時半には5度ぐらい。真っ白だ。
ゾエが、学校に行きたくないと言いだした。寒いからじゃない。
パパと一緒に家に居たいのだ。
「毎日ベッドの上でゴロゴロしている暮らしも悪くない」と思っているのかもしれない。わたしはだからいつも
「パパは痛くて痛くて泣きたいのを我慢してるんだよ。仕事にも行きたいのに行けないんだよ。お気の毒」
と言い続けている。

 そんな折、ゾエがお腹が痛いと言った。むりやり学校に連れて行くと校門で泣いた。午後学校から電話があり、頭が痛いらしいので迎えにこいと言われた。家に帰って来たゾエは、お腹が痛いと言いつつも、おやつを喜んで食べる。元気すぎるぐらい元気。
 9月の新学期から、学校がつまらないと言いだした。学校で習うことは全部知っているから、教室で退屈しているらしい。でも、学校というところは、いろんな子どもが居て、書くのが速い子も遅い子も、みんな同じことをやらなきゃならないんだから、先生がしなさいって言うことをやんなきゃいけないんだよ。。。などと言いつつ、ちょっと気の毒。本人がもっと難しいことを勉強したがっているのに、どうしたものか。
 仮病を使ってまで休みたがるので、やはり先生と話した方がいいネと言うことになり、父親が家で寝ている事情や、姉が「学校はひどいところだ」と盛んに言い含めていることなんかを説明して、同時にゾエが授業中に退屈してるみたいなんですけど。。。と言ってみた。

 先生にはよくわかっていた。ちょうど一級上の子ども達と混合のクラスなので、自分の作業が早く終わったら、一級上の子たちのかけ算などを見てもよいと、先生は許可してくれた。難しい本でも、読みたければいくらでも貸すからと言ってくれた。そして、希望するなら、ほかの子ども達よりも多く宿題を出してくれるそうだ。飛び級できるかどうか、検討してくれるそうだ。

 JPはなぜか(?)仕事に行きたがり、ゾエはもっと勉強したがっている。
わたしなんか、JPが家に居ながらなにもできないので雑用が増え、ゾエが宿題をいっぱい持ってくるのでお勉強につきあい、剣道にも行けない。なので、剣道クラブのサイトで、『剣道の日本語』というレッスンを毎週二回行っている。剣道で使われる日本語の解説を、日本文化も含めながら行っている。頭で剣道している。
 
 今週の終わりから秋休み。去年の秋休みは家族揃って日本で過ごした。
一年はあっという間だなあ〜。
元気に年が越せるかな〜。

みんな、がんばれ。 

 

2009/10/12

やっとの週末

 JPが水曜日に退院した。検査の結果は三週間後というので、それまでに何かよくわからないものが悪化するんじゃないかと、ちょっと不安。水曜日の夜はまき寿司パーティ〜♪
木曜日にもう一度検査をしなければならないというのでお休みにし、金曜日はついでに休みを取った。
ちょうどよかった。わたしは木曜日の夜から、ミーさんちでおシゴトの予定だったので。

 木曜日の夜に、日本からのお客様二手に分かれてのご到着ゆえ、ミーさんと念入りな予定を立てる。第一陣が無事ご到着(なんと時間通り)。第二陣が22時50分のご到着予定なので、申し訳ないけどわたしたちだけでお食事することになった。第一陣の到着を確認してから、ミーさんはお友達に電話する。
 「ちょっと日本人にいいものを食べさせたいから、おまえんとこの席をよろしく頼むよ」
と、勝手なことを言っている。お友達はトーキョーで電話を受けており、「なんだおまえも日本人とビジネスか」と、バカ受けしている。トゥールーズのレストランの席を、トーキョーから取ってもらう。ミーさんがバカ話をやめないので、横っ腹を突っついて「あの、トーキョーって今三時ですよ」と教えると、「いーの、いーの。どんちゃん騒ぎしてるみたいだから」
 オトコは出張で息抜きしてるのね。

 お友達のレストランは星がずらっと並んだすごいレストランであった。満席。「行くから頼むよ」と行く10分前に電話して取れるようなレストランとも思えない。肝心のシェフはトーキョーでどんちゃん騒ぎという事実を知っているのは、わたしとミーさんだけだったが、周りの人々は、おいしそうにお食事している。サロンのど真ん中にどーんとよいお席がご用意されていた。日本人の皆様が料理出るたび写真を撮り、ほかのお客さんの注目を浴びるので、ミーさんは恥ずかしそう。いちいちレストランで写真を撮るのは日本人の得意技だ。空港でも、教会でも、町中でも、お店でも、ゴミ箱でも、トイレのふたでも、なんでも写真を撮ってる人、そしてピースでポーズをとる人を見ると「あれは、日本人だね」とよくわかる。

 この前の接待では、ミーさんとトーキョーからお越しの《あー》さんの毒気にやられ、しかもエビなんか食べちゃったせいで、今世紀最大の下痢症状を起こし、さんざんな目にあったので、今回は何ごとも用心した。しかし、ミーさんちでのおシゴトと言えば、やっぱり食べずにはいられない。食べるのがシゴトだなんて、生きていたかいがあった。。。と思っていたら、「いや、アンタは別に食べなくていいんだよ。アンタはしゃべってんのがシゴトなんだから」と、ミーさんに痛いところを突かれる。しゅんとして食べずにいると、ミーさんが「冗談だってばあ〜食べなさい、食べなさい。わたしも黙っててやるから」と言って、急に静かになる。通訳に遠慮してしゃべらないでいてくれる人も、珍しいだろう。ありがたや。

 ミーさんのところのおシゴトは、朝が早くて夜が遅い。子どもたちにはずっと会えない。なので、「アンタじゃないよ。子どもたちにだよ」と言って、マカロンやらチョコレートをお土産にいただく。

 最後の朝、目が覚めたらもう10時頃で、約束の8時半に大遅刻となった。
「げー。どーしよー」
と一瞬お先真っ暗になりながらも、どうせ空港にはミーさんと二人で行く予定だったから、ミーさんが一人で行ってくれただろうと思い直して、再びベッドに潜った。爆睡して、お昼ごろに日だまりの中で目覚めたが、ミーさんは途中から合流する予定で、日本のお客様はわたしがホテルにお迎えに行くんだった!ということに気づく。
「げー、どーしよ〜〜〜〜。日本人が集団で怒ってるう。みんな飛行機に乗り遅れた〜。クビだ〜〜。マカロンともお別れだああ〜〜。」
泣きながら、飛び起きた。
 すると、お部屋は真っ暗。自分が一瞬どこにいるのかわからない。ぼっとしてたら、目覚ましが鳴った。
 すごくリアルな夢だった。
肉屋でバイトした時に、裸の地鶏に追いかけられる夢にうなされ、あれが人生最大の悪夢だったと思っていたが、マカロンとの別れと、怒り狂ったミーさんの顔を見るのはなんともつらかった。最後までしっかりお役目を〜と心新たに、約束通り8時15分にはホテルに着くように自宅を出た。子ども達はまだ起きていなかった。

 お役目を果たし、みんなに褒められ、自宅に帰る。台所には山のような洗い物があり、お昼ご飯を待ち構えている小鳥たちが、口だけ開けて待っている。食後のマカロンにみんなで飛びつき、コーヒーには新鮮なチョコレート。みんなしあわせ。

 週末はゆっくりしようと思っていたのに、JPが腰を痛めて歩けなくなった。テーブルについて、座っていっしょに食べるのも無理。一週間の検査入院つき休暇のあと、月曜日から二日間はトゥールーズでの研修、その直後の三日間はパリへ出張予定ということになっていたので、「どういうつもりっ?」という戒めだろう。
「ほらね、シゴトはどーでもいいから、家にいなさいって、神様のお告げだよ」
と言うと、いつもなら出てくる「ふむ」がなく、「そうだなあ、来週も休もうかな〜」と言っている。よっぽど痛いんだろう。それでも一応月曜日には職場に出て行く気ではいた。日曜日の夜は、起き上がれないパパを挟んで、寝室でサンドイッチパーティーをした。久しぶりの水入らずだったもの。

 そして月曜日、いつも通りに目覚ましを掛けて起きたはいいが、トイレに行ったJPは、今度は廊下を這って寝室にUターンして来た。
医者にも行けないので、マスリ先生に自宅に来てもらうことにした。困ったもんだ。大掃除の予定にしてたのにい〜〜。
「大掃除などやめて、休みなさい、休みなさい」
というお告げだろう。よかった。JPの腰のおかげで、大掃除しなくてすんだ。

 土曜日に届いた翻訳の第一稿の添削を見るとしよう。
こっちこそちゃんとやらないと、年を越せない。

2009/10/05

わたしは試されている

 ゾエがパパに会いたいと一日中言っていたようなので、学校が終わってからダッシュでアルビに連れて行った。JPが入院している病院は、アルビにある。ずいぶん新しくなったような気がするが、じつは入院病棟まで来たことはないので、よくわからない。

 最後に来たのはたしか10年ぐらい前。
牛の糞がいっぱい転がってるヌルヌルした田舎道で、JPがカーブで滑ってスピンして、木にぶつかり、ごろんごろんと車ごと三回転ぐらいし、天井もドアもぐちゃぐちゃにつぶれた車の中で宙ぶらりんになってるところを引っ張りだされ、ミイラのようにぐるぐる巻きに固定されて救急車に乗った、あの事故以来だ。
 結婚を機に、バイクを売って買った新車のルノーだった。小さな車だが、今時の新車というものはよくできているらしく、背の高いJPは頭を打つこともなく、脚の長いJPは膝をけがすることもなく、上手にひと型部分に残った小さな卵形の空間にJPはシートベルトのおかげで宙ぶらりんになっていた。電気のこぎりで切り取られたドアから、「やあ」と言いながら出て来た。じつに恥ずかしそうな顔をして。たしかに、一張羅を着たミイラが「やあ」なんて、じつにとんまな姿だった。
 いつもの水曜日ならばノエミとわたしと三人で買い出し日となっていたのに、その水曜日に限って、就職のための面接があったので、一張羅を着て一人でアルビに出かけた。面接を受けて、一週間分の買い物をしてその帰り道に事故った。
 車のトランクを開けたら、様々な瓶が割れており、コーンフレークやパスタやお米が、ミキサーに掛けたみたいにぐっちゃぐちゃになっていたため、その週の食料品はすべてお預けとなった。草むらから、放り出されて壊れた眼鏡と携帯が出て来た。もしいつもの水曜日と同じように、わたしとノエミも乗っていたら、わたしたちも見事とろ〜りなピュレになっていただろう。
 形を残してあの車からよみがえったのは、JPだけだった。

 思い出の病院である。

 今回は《内分泌科》なる場所に検査のために入院している。きのう入院したとき、「尿検査だけ。らくちんらくちん」と余裕を見せていたJPだが、ゆうべ八時から、四時間ごとに尿と血液をとられ、血圧が測られたらしい。今日は一日中、レントゲン検査とスキャナーと、内診と問診を受けた。ずいぶんお疲れのようだ。わたしはきのう「ザマミロ」などと思っていたので、管をつけてげっそりしているダ〜リンを見て、急にお気の毒になった。

 廊下を歩けば、身動きできない人や、意識不明の人や、不安そうな家族や、泣いてる人や、走っている医者や、怒鳴り合ってる看護師たちや、まずそうな食事をのせたキャリーや、なかなか来ないエレベーターや、車いすで通り過ぎる人々の姿や、廊下は静かに歩きましょうと呼びかけるポスターなどがある。病院でなにが切ないかというと、それは、遠くで鳴ってる救急車のサイレンと、廊下でいろんな病原菌を吸い上げている空調の、ブーンとうなる低い音。ノエミは病院に入ったとたんに「臭い」と言い、(ぜんぜん臭わないのに)「奥歯がガリガリ気持ち悪い」と盛んに言っていた。
 子ども達まで声を潜める。
 
 外の温度をまったく感じない、ゆうべと同じ温度の部屋で、白い壁と向かいの病棟を走る医者の姿を眺め、いつドアが開くかとびくびくし、今日はどんなものが夕食に出るのかとドキドキする。こんな部屋でJPは丸一日過ごしたのか。ああ、気の毒に。
こんな所から帰って来れなくなったら、いやだなあと思う。

 満月が一日分だけ欠けた、大きくて黄色い月を見ながら、カーモーに戻って来た。車の中でゾエは一言もしゃべらなかった。
月を仰ぎながら、「わたしは試されている」と思った。

 じつはJPの顔を見るまで、一日中腹を立てていた。あさ玄関先で、怒鳴り怒鳴られたせいで、一日中不愉快だった。なぜ、あのような人のために貴重な一日を台無しにしてしまったのだろう。わたしにはやることと考えることが山のようにあったのに。優先順位と、なにが自分にとって一番大切であるのかを見直さなければならない。こういう時にこそ。あかの他人に喰って掛かるのは、わたしらしくない。どうしちゃったんだろう。これではいけない。

 さあ、早く寝て、あしたに備えよう。あしたは朝日を拝んで、おいしい空気を吸って、できるだけにこやかに過ごそう。弱気を捨てて、前向きな強気で行こう!キレないように、キレないように。

燃えるわたしも、たまには弱気。。。

 JPが外を歩く時には、気をつけていなければ、交通違反の人に喰って掛かったりするので注意が必要。たまに、喰って掛かった相手から逆恨みの上、「今度道路で会ったら轢いてやる」などの遠吠えも背中越しにもらったりする。だから、パリに出張したりする時にはいつも、「どーか、お願いだから、チンピラには声をかけないように」とお願いしている。
正義のオトコがナイフで刺されることは、昨今たびたびあることなので。

 先週、二回ほど、自宅前で轢かれそうになったわたしは、もう、いちいち、自宅前の《歩道》にだーっと乗り上げた上に、そのまま歩道上を走って来て、玄関ドア10センチに停まるフトドキモノがいると、キ〜〜〜〜〜〜となる。ここまでくればかなり病的。この前そういう人を一人怒鳴りつけてしまい(殴りつけてはいないヨ)、そのあとわたしは「ああ、わたしは仏のみのりではなかったか」と嘆いてばかりいる。反省している、一応。うちの親父みたいに、あかの他人を路上で怒鳴った日には、東の母に頭が上がらない?母はいつも、そんな父の後ろでおろおろしていた。
 今朝、我が家玄関ドア10センチの所に停まった車がいて、ちょうど家を出る時だったもので、またも轢かれそうになり、わたしは、もうどうしてもヒトコト言ってやらねばならないと、燃えた!!

 「すみませんけど、歩道を車で走るのは違反ですよ。歩道にほんのちょっと乗り上げるだけならまだしも、歩く隙間もなく玄関先に停めてもらっちゃこまる。」
と、一応丁寧に言った。丁寧だった、はず。丁寧だったに決まってる。反省したのだから。
そうしたら、「ごめんなさい」も言わずに、ほかに停める所がなかったとか、アンタを轢いた訳じゃないからとか、反論するので、わたしはまたキレた。
ああ、これはもうわたしではない。オンナは黙って後ろ三歩って、母がいつも言ってたじゃないの。
笑っていれば世の中がすいすい渡れると。。。
深呼吸をして、一応ナンバーだけメモった。あの人にいつか殺されるかもしれないので。

 それで、実行のオンナ・わたしは、警察に行ってみた。事情を説明して、いちいち注意できないし、いちいち逮捕もできないだろうから、ちょっと通行者の気を引くために、たとえば歩道に色を塗るとか、玄関前に看板立てるとか、できないものかというのが質問。
警察では、歩道に色をつけるなどの許可は無理。市役所に行ってくれ、とのこと。
警察では電話してくれたらすぐに来て、罰金をとるので、いちいち電話しなさいという。
一日二十回も、三十回も、電話なんかできないヨ。
でも、試しに何秒で駆けつけてくれるのか、ちょっとやってみたいなという気になったことは確か。
「二十回でも三十回でも、呼ばれたら駆けつけるから」とにっこり笑ったおまわりさんだから、一応来てはくれるんだろう。そして、玄関前にはもう誰もいないんだろう。
 市役所には、いちおう話を聞いてくれる人がいる。でも、歩道に色を塗ったりなどは、無理というのである。いろいろ難しいのだ。わかる。そんなことをいちいち町中の人が申し出ていたら、町は町ではなくなってしまうのだろう。でも、我が家近辺は無法地帯と化していて、誰も逮捕されず、誰も善処しない。自分の子どもを守るために勝手に歩道にペンキを塗ったら、わたしが逮捕されるんだろうな。いや、まだ塗ってない。うちの子ども達が轢かれてからみんなが後悔し、うちの子ども達が轢かれてから法律を作り替えてくれても、どうしようもないんだがな〜と思う。つらいのだなあ〜。死人が出るまで話題にもならないっていうのは、どういうこと?

 とりあえず、市役所では「上の人に相談します」と言ってわたしの名前と電話番号をメモした。警察では、「上の人に手紙を書いてくれ」と言われた。「上の人」から連絡はこないだろう。そういうもんだ。選挙権がないから、サービスしてっていうのも気が引ける。
 とにかく、脱力。。。。もう今日は腹も立たない。一応警察の《上の人》に手紙だけは書くつもり。

なにもやらなければ、なにも変わらない。
やっても変わらないことはあるけど、一応気が済むかも。
自己満足だけでは、なにも変わらない。
さあ、書くぞ〜〜。
わたしはいったいなにと闘っているんだろう?
忍耐力だろうか?我慢の限界だろうか?
ここで笑って轢かれてるのが、社会を乱さない良い人間ということだろうか。

JP 入院 !

 そろそろ、夢について語ろうと思っていたのだけれども、あまりそれどころじゃなかった。
JPが、入院することになったために、入院する前にやることがいっぱいあるJPに、パソコンを独占されてしまったため。
JPが入院するからと言って、わたしはこれといってすることはない。このおひとは一人旅には慣れており、荷物をコンパクトにしつらえることが上手で、余分なものと不要なものを切り捨てる決断力があるので、わたしは彼の旅行の準備などしたことがない。
 わたしのロジックは、彼には意味不明で、彼の便利はわたしの不便なので、JPの持ち物を片付けたこともない。

 JPは《こんな顔》してるのだが、顔色はいいのである。
我が家で一番、ちゃんとしたものを食べ、早寝早起きで、程よい運動をしており、20年前とほとんど体型は変わらずスマ〜ト、髪も抜けず、視力も変わらず(悪いまま)、歯医者などにもお世話になっていない。
我が家で一番健康的な人間だ。

パパが《出張》というと、子ども達は
「バンザ〜イ。マクドに連れて行って〜」とか
「やった〜。今夜はピザ屋のピザだ」とか
「ピザにコーラとフライドポテトをつけよう」とか
「今日は夜更かしできる〜」とか
「あしたの朝は寝坊ができる」とか
わたしだったら
「洗い物は、食器がなくなるまでやんないぞ」とか
「料理しなくてすむ」とか
ノエミだったら
「ママを泣き落として、車で学校に送ってもらおう」とか
「ヴァイオリンをさぼろう」とか
まあ、うきうき気分で言ってしまうことが、山のようにある。

が、《パリ出張》と《入院》では、やはり、テンションに差が出る。

 ゾエは、パパがいなくて寂しい寂しいと言って涙ぐんでいる。(ちょっと芝居がかってるけど)
ノエミは、「一番健康に気をつけてる人が病気になるんだから、わたしはこれから思う存分不健康に生きる」などと言いつつも、いつもになく辛口の台詞が少なくなっている。
そして、「ピザは、健康的に、お母さんの手作りにしようね」と言うと、ハイと素直に返事する。
《入院》と言っても、じつは《検査入院》なんだけど、子どもには心配をかける。うちの子たちは普段から父親をないがしろにしているところがあるので、心配ないことがわかっているので、とりあえず、さんざん心配してもらった方がいいのである。《心配色》が濃くなったら教えてあげよう。

 木曜日にいきなり、「日曜日から検査入院するから」と言われ、金曜日にいきなり病院からいきなり電話があって、入院までの食事についての注意があった。4時間ごとの尿検査なので、食べるものに注意しなければならないのだ。普段通りに食べてないと、異常かどうかわからないと思うんだけど。

 そう、ただの検査入院。
夏から何度もおこなった様々な種類の検査で、身体からなにも出てこないので、今度はホルモンとか神経とかそっちの方を調べるらしい。
鈍感無頓着無関心無感動なので、確かにそっちを調べた方がいいかもしれないとわたしは勘ぐっていた。

ノエミが、「一番健康に気をつけてる人が病気になるんだから、わたしはこれから思う存分不健康に生きる!」など宣言するものだから、「パパは病気じゃない。身体はどこも悪くない」と、わたしが教えてあげる。

 JPはどこも悪くない。
JPによくないのは、ストレスだ。
JPを毒しているのはこの社会、この世界、そして、この家族だ。この三つの菌から、ストレスを被っているのが、病の原因であると、わたしは確信している!そんなの、医者に治せるだろうかねえ。
 ただ、病院に感謝しているのは、病因嫌いのJPを数日間縛り付けて、頭のてっぺんから足の先まで検査してくれるってこと。ずっと前から健康診断をしろといってもしなかった、アイツが悪い。はっはっは。ザマ〜ミロ。

 JPが検査入院をすると言った時に、わたしは「よかったね。ゆっくり休んでおいで」と言った。
反抗する娘や、ぐずる娘や、愚痴る妻のいないところで、上げ膳下げ膳(は、うちでも同じだ旦那様)、仕事もお休みっていうのは、彼には必要だったのだ。
シミのない真っ白な天井を眺めながら、まだ草の生えていない新しい病院の中庭を見ながら、新しい未来を描き直す時間を、無理矢理もうけさせることができて、わたしはうれしい。
 将来のことを、もっと自分のことを考えろといくら言っても、「ふむ」しか言わないからこうなったのだ。はっはっは。ザマミロ。

 リュックサックの中に本をたくさん詰め込んでいたので、わたしはこっそり《エコロジカルな家》の特集が出ている雑誌をしのばせた。ふふふ。わたしは、田舎にわらの家を建てるという野望を持っているのだ〜。屋根には太陽熱電池のパネルを貼って、庭には大きな風車が回る。。。。JPには、自給自足生活が似合っていると思う。
 「お金はわたしが稼ぐ!」と言ってあげられたら、一番いいんだがなあ〜と思う。
寝てなんかいられない、一家の主というのも、お気の毒。
 とにかく今は、いつまでもごろごろ寝てられるのは困るので、早く帰って来て、ゾエに金曜日に買ってあげたばかりの自転車につきあって欲しい。

 土曜日と、日曜日の朝入院する前に、家族で自転車に乗って自然の中を20キロ走った。20キロはゾエの初体験だった。
栗拾いに行けなかった。来週行けたらいいな〜。

2009/10/02

ホトケのわたしも、たまにはキレる

 前の日、反抗期まっただ中のノエミと大げんかをした。
わたしとノエミをよく知っている人は、みんな、「この母にしてこの子あり」とか、「カエルの子はカエル」とかいう。わたしはどっちかというと、ノエミの性格はJPじゃないかと思う。
《JP+わたし》っていうのは、明らかに不幸だ。でも、たまに《JP×わたし》かもしれないと深く感じることもあるし、
《JP×わたし×じーちゃん×ばあちゃん×おとーさん×おかあさん×おじちゃんたち×おばちゃんたち》
だな〜と感じる時には、そりゃもう絶望的になる。
《足して8で割って、平均どんな》
にはなり得ない。ひたすら、かける・かける・かける。。。
しかも、悪いところぜんぶ凝縮。
そんなヤツと大げんかをすると、キ〜〜〜〜〜〜〜となるしかない。

 それで、その夕方のけんかで、彼女は自分一人でも生きていけるから放っておいて欲しいというようなことを言い、なんでも自分でやるっていうので、あらそうですか、じゃあ掃除も洗濯も、買い物もよろしくねと思ったのだが、次の朝には目覚ましが予定の時間に鳴らず、起こすまで寝ており、しかも、先週につづいて「遅れるから車で送って〜」などと甘い声で頼むので、
「じょおっだんじゃないっ。プライドはどうしたんだ。プライドは!」
普段はプライドで立ってるようなオンナなのに、肝心な時にプライドは簡単に捨てることができる、ああ、プライドのないヤツだ〜〜。いらいら。
と、母に怒鳴りまくられる、新しい朝の始まり。。。。

 自分はどうだったかねえ〜。確かにしょっちゅう遅刻してたよなあ〜。でも、自分でパンツ洗ってたし、食事の後は洗い物をさせられてたし(冷たい水で)、学校に車で行ったことなんかなかったよな〜。だから、あれくらい言っても大丈夫だったよなあ〜。

 などとぶつぶつ言いながら、日課のお散歩へ。ボボと。
下向いてぶつぶつ言ってたもので気づかなかったが、公園のはるか彼方に、大きな犬が一頭プラプラ歩き回ってる。
「ああ、どうか、ボボとアイツが目を合わせませんように」
と祈りながら、足早にアイツの視界から逃げようと小走りになった瞬間。アイツが、わたしたちを見た。
目が合った。確かに。
と、思ったら、一目散にこっちに向かって突進してくる。
熊と犬が追っかけてくる時は、走っちゃいけないのだ。でも、熊と違って犬には、死んだふりが通じない。
 このごろ目がよく見えないボボは、わたしが大慌てで石ころを拾ってるのにも気づかず。突進して来た犬に飛びつかれてしまった。
ロドバイラーといって、獰猛な犬ナンバーワン、公共の場所ではつなぐこと、人をかんだ場合は即刻死刑が定番になっている犬だ。それも そのはず、全国各地でロドバイラーに《食べられて》亡くなった人や、頭などの身体の一部をかみちぎられて、重体になった人続出している。まさかカーモーでコイツを見るとは。ご近所のなじみじゃあない。通りすがりのヤツにわたしたちの公園をわがもの顔にされるとは〜〜許せん〜〜。その辺の石ころを拾っても、ぜんぜん効果ない。
 ああ〜。ボボに噛み付いてる。コイツ〜〜。
 遠くで近所の保育園の先生たちが、ベビーカーを押しながらこっちを見てるけど、ベビーカーを投げ出して助けに来てくれるはずもなく。わたし真っ青。ボボは闘っている。こんなに真っ青になったことは、そうはない。殺されるかと思った、うちのボボを。でも、殺すまでもなく、あっちに行ってしまった。そのあとむこうで女の人の声がしてたので、飼い主がいたのだろう。隠れてたね、アンタ。

 真っ青な顔でうちに戻って来たら、今度はうちの前の歩道に車が乗り上げて、そのまま玄関のドアの前に駐車した。わたしのことをちらっと見て、そのまま横のパン屋さんに入っていったので、わたしは、そのまま、腕組みをしてそこに待機。つい一週間前にも、歩道に乗り上げて来てうちの前に駐車した車に、子ども達をひかれそうになったので、もうわたしはうんざりしている。
 待てど暮らせどパン屋さんからは誰も出てこない。そうしてるところへ、杖をついた老女が一人、歩道の向こうを歩いて来た。歩道に停まっている車のせいで、通行止め。こっちからも一人、足の不自由なおばあさんがやって来て、わたしに「こんな風に車を停めてもらっちゃ困る」と言った。わたしじゃありませんってば。おばさんが歩道をおりて道路を歩こうとしたら、道路を突っ走ってきた車に轢かれそうになった。

 も〜〜〜〜許せないのだっ。

 パン屋さんから出て来た女性は、わたしたち三人をちらっと見て、「行きま〜す」とは言ったけど、「すみません」は言わなかった。
わたしは「信じられないっ!いつかうちの子たちは、あなたみたいな人に殺されるんだ。人を殺してから後悔したって遅いんだよ。」というようなことを怒鳴りまくった。あの人にも、子どもとたぶん孫ぐらいはいると思う。
あかの他人を、最後に道路で怒鳴ったのはいつのことだっただろう。

 こういう時に、わたしは「だから、田舎に引っ越そうよ。」という。
JPは「厳しく叱って、そういう人を正しい道に導くべき。」という。
確かにわたしに怒鳴られたおばさんは、うちの前では二度と同じことはやらないと思う。でも、駐車する歩道を100メートル先にかえるだけなんだ。絶対そうだ。
 ああ、やりきれない。

2009/10/01

Nadine ROSSELLO

 数年前に骨折した足首が、ときどきうずき、それがどうもアキレス腱に響いているようだったので、夏の剣道合宿の前から整骨の専門の医者で治療を受けている。
そこで、電気ショックの治療を受けたりしながら、事故あとのリハビリなどに来ている人ともすれ違う。
先生は、毎回5人ぐらいを同時に治療室に入れて、それぞれにやるべきことを与えて、自分は歌を歌っている。

先生の歌の先生がナディンヌさんだ。
ナディンヌ・ロッセロさんとは、何回かすれ違い、ある時には、奥の部屋で先生とデュエットをしているのを聴いた。
先生は、毎回みんなが体操をしている間、80年代の音楽が掛かるラジオをガンガンに掛けて、たまに歌いながらわたしたちの身体をもんだり、骨をガリガリならして修理してくれたりする。

先週ナディンヌさんが新しいCDを持って来たので、先生はラジオを消してそれを掛けた。
ナディンヌさんが歌う、コルシカ島、イタリア、スペイン、ギリシャ語の歌は、心に響く。
今週ナディンヌさんに頼んでわたしの分も2枚持って来てもらった。
一枚は、義弟の奥さんにプレゼントするつもり。

http://www.myspace.com/nadinerossello

ぜひ、聴いてください。

2009/09/29

燃えるオンナの JP改造 計画

 わたしには、夢がある。

 JPの顔を見ていると、どうも、コノヒトは人生を楽しんでいないような気がして悲しくなる。
「こんな顔なんだから、しょうがないだろう。十分幸せだ!」
本人はいうのだが、今年自殺した24人ものフランステレコムの社員もみんな、家庭では
「こんな顔だけど幸せ。さあ、仕事に行かなきゃ」
などと言って仕事に行き、会社の四階や高速道路の陸橋などから、いきなり飛び降りたりなどし続けている。
この前、JPが事務所の何階で仕事しているのかと訊いたら、四階だというので、そりゃあ危険だと思う。

 「どんな仕事してんの?」
と訊けば、まあ、あんまりおもしろくもなさそうな仕事に思える。たいへん失礼なんだ、わたしは。
わたしはナニゴトにおいても、
「楽しくやりたい。やってて幸せ。生き甲斐を感じる〜」
と言える職業に《あこがれ》があるので、毎朝《こんな顔して》仕事に出て行く人を見るのはつらい。

 仕事が面白くないのに、仕方なく仕事に行ってるんだったら気の毒だし、嫌々やってるんだったら不幸だし、
「どうせ何も変わらないんだから、どーせ、どーせ」
と言いながら、ただ家庭のためだけに自分を犠牲にしている一家の主を演じているならば、それはもう我慢ならないので、
「おもしろくない仕事なら、辞めちゃえ。」
と、簡単に言ってしまったのだ。

 現実は厳しい

 「いやいややってるなんて、輝きもなんにもなくて、ぜんぜん素敵じゃない」
 「闘うことをあきらめて、妥協して、人生を投げ出してしまったなんて、魅力ない」
と。。。かるく二週間ばかりは、そう思っていたのだ。
けれどもいくら言っても、本人の意志は堅い。
「仕事は辞めない」
仕事を辞めてもらいたい理由について、辞めたくない理由について、いろいろ話し合った。
《話し合う》と言っても、JPは言葉で表現することが上手ではないので、わたしの意見を聞いてるってだけなんだけど。
 でも、相手からの「うん」や「いや」や「ふむ」のタイミングと個数を分析しているうちに、ちょっと理解できたのだ。わたしにも。

 たとえば他人から見て情熱的とも言えない単調な作業だからといって、それが「なにもやってない」とか「社会に貢献してない」とか、「役立たずである」とか、「意味がない」とか言うことではない。

 主婦の毎日の家事について思う。
毎日単調な作業の繰り返し。しかも、ほかの家人がいやがることばかり。しかも無報酬。。。。
「つまんないことばっかりで一日が過ぎて行く、自分には価値がない。わたしなんて。」
とわたしのような主婦は愚痴るけれども、無意味な人生ではないはずなのだ。なのにわたしは
「もっと価値ある人生を送りたい。感謝されたい。理解されたい。もっと明かりに照らされたい。」
などと言ってしまうのだ。
家庭では一応わたしがいなくちゃ困るとか、わたしはすばらしい主婦であるとか、ヨイショをしてくれるのだが、見ていると、どうも、わたしがいなくても大丈夫じゃないのって思う。疑って掛かるのは、疑いがあるからだ。

 例えば、JPが今の仕事に生き甲斐を感じていないのが事実であっても、だからといって、今やっていることを投げ出すつもりはないらしいし、人生をあきらめてしまったわけでも、闘うことをやめてしまったことでもないんだと。。。ちょっと気づいたのだ。JPはJPなりに、彼のやり方で、闘っている。たとえば、職場の小さな人たちの、職場での待遇がもっとよくなるように、もっと生き甲斐を感じながら仕事ができるように、もっとやった仕事を形として評価してもらえるように、組合でもひたすらに闘っている。壁にぶつかっている。

 わたしも、小学校と中学校のPTAで、ちっともよくならない学校生活の改善に、絶望しながらも、けっきょく、会議にはいってる。選挙に参加し、意見を言ってる。空しいけどやめられない。わたし一人が抜けたって、良くも悪くもならないと思いつつ。
動かなければ、なにも起こらないことを知っているから。
JPもそうなんだろうか。

 この前JPに迫った時、
「いやなのは、職場に行くことじゃない。こんな顔をしてるのは、多分、社会と世界に絶望しているからだ。毎日がつらいんだ。」
と、口に出して言われて、どうしようかと思った。この人は明日、駅のホームか、職場の四階から飛び降りるんじゃないかと思った。

 今月は組合の会合でパリに三回行った。お母さん仲間に「怪しいんじゃないの?」なんて言われる。だって、お母さん仲間のだんなさんたちは、毎晩テレビの前で、サッカーやラグビーの試合を見るために、時間には帰宅し、夜は家事をやってる奥さんよりも早くいびきをかいているんだから。うちのJPは夜行でパリに行き、早朝到着してそのまま会議に出て、その日の夜の夜行で帰ってくる。パリが嫌いだから、パリには泊まらない。

JPたちは農林水産省の会議室で、話し合いをする。
「なにを話し合ったの?だれのために、なんのために闘っているの?一昨年からそれをやってて、なにか変わったの?」
と訊いたら、一瞬言葉に詰まったJP。質問の嵐には弱いオトコである。わたしは個人的なことはほとんど訊かないヒトなので、彼が毎日どこでなにをし、貯金をいくら隠しているとか、ぜんぜん知らない。だから、たまに質問すると、びっくりするらしい。
一時間後に返事が来た。
「農林水産省の会議室には、全国から15人の組合員が集まり、最低賃金以下でこき使われている職場の数名の待遇について、仕事の内容改善について話し合った。そのような人たちがいることを紹介することは大切。そのような人たちがいなければ、社会は動いて行かないことを訴え続けることも重要。これからも自分たちは闘い続けるつもり。そして、去年は何人が救われたんだよ。」
などについて、熱く語ってくれた。JPは、こんな顔してじつは闘っていたらしい。

 わたしは、JPに、《NOZOMI.jp 計画》っていうレポートを提出した。バインダーに30ページぐらいになった。レポートを書くために読んだ本を三冊付録につけた。
 わたしの夢と野望が、いっぱい詰まったレポートだ。
違うかたちの闘いもある。
その闘いは、わたしにも協力できそうなこと。
いっしょに夢を見れるんじゃないかということ。
夢はかたちにできるということ。
いつまでも若くないってこと。
いつまでも元気じゃないってこと。
いつまでも夢を見れるんだよってこと。
。。。などなどを、このレポートの中にいっぱい書いた。

そうして、JPは、そのレポートをざっと読むとポイと放り出して、
「自分はやりたくない」とはっきり言った。
はっきり言われたのは、よいサインだ。無視されるよりはよい。
「わたしはあきらめない」
と答え、レポートの返却を許さなかった。レポートは、毎日、PCの前にどーんと置いてある。好きな時に読み直せるように。
「どうしてやりたくないのか。ほかにどんな提案があるのか」
それをレポートにして返してくれるまで、「ただなんとなくいや」というのでは、わたしには許せない。
わたしのことを知っているみんな、JPも含めて、わたしがあきらめの悪いオンナだってことを知ってる。
わたしが、「どうしてもと言ったら、どうしてもやる」と言ったら、どうしてもやるオンナだということを知ってる。だから、わたしは、宣言したい以上、どうしてもあきらめることだけはやめない。

 夢が、描いた通りのかたちに実現することは、そうはない。
それもよくわかっている。突っ走って、転んでばかりいることにも気づいている。
でも、違うかたちで実現することもある。
だから、わたしは、あきらめない。
わたしはついてる人間だから、あきらめるわけにはいかない。
わたしにはいろんなものが憑いている。
そして、JPにはわたしがついているので、大丈夫。


つづく。


 
 

2009/09/28

パンチ

 剣道の友達に教えてもらって、見たビデオ。

 1992年リオデジャネイロで開催 された環境サミットで、12歳の少女セヴァンが、子どもの環境団体の代表として参加した。
この会議で子どもの視点からの環境問題について講演を行い、満場総立ちの喝采を博した。
そのビデオ。

http://www.youtube.com/watch?v=XjlUyVnDGIA

 わたしなどは娘を「親が説教してる時に、肘なんかつくんじゃない」などとよく叱るのだが、《ほおづえ》は政治家たちが子どもに叱られるポーズだったらしい。
《満場総立ち》での喝采だったらしいのだが、1992年からあまり進歩してないどころか、悪化しているだけというあたりが、悲しい。
悲しすぎて泣いてしまった。

 朝市に栗が出ていたので、森に栗拾いに出かけた。
落ちてしまったいがぐりはまだ小さかったので、拾わなかった。
また来週、拾いにいくつもり。
夏の間に水が不足したため、森の奥のダムが、枯れていたのには驚いた。
カラカラに乾いた森の木々の葉っぱが、ハラハラと散りいそいでいた。
今年の栗は小さいかな〜。キノコも出ないかな〜。



 帰りに、丘の上に一機、風力発電用の風車が立っているのを見た。去年の秋にはなかった風車だ。畑の真ん中に立って優雅に回っている。
 「個人で風車建てられるの?」
とJPに聞いたら、
「建てられるだろう。もちろん」
との返事。
「建てようよ。」
と言ったら、
「ふむ」
と考えている風だった。
じつは、風車など建てる庭がない。なので、また、
「田舎に引っ越そうよ」
と、迫られる、JPなのだ。

 ふむ。。。

2009/09/25

ベベ


 日本に帰らなければならなくなった友人に、預かっていた猫。ベベ

 春に《仕方なく》預かった猫だった。生まれてはじめて猫と暮らした。ベベは、どうやらわたしたちのことが好きになってくれたようだった。特にノエミのことが大好きで、ゾエのことはうっとうしく、JPに嫌がらせをすることが趣味だった。


 JPが出張で留守だった夜に、食事の時ベベはJPの席に座って、わたしたちが食事している様子を眺めていた。向かいの席に座っている私からは、猫の頭しか見えない。まるでテーブルの上に、猫の頭の丸焼きが載ってるみたい。薄目を開けて、テーブルの上を監視している、ベベ。わたしが、
「ミヌどうしたの?お腹すいたの?」というと、子ども達が一斉にわたしの方を見て、ゲラゲラ笑った。

「ミヌ、毛深いね。耳からも毛がはみ出してるよ」
「ミヌ、散髪屋に行きな。ひげが伸びてるよ」
「ミヌ、無口だねえ。なにか言ったら?」
「ミヌ、静かだねえ。足音も聞こえない」
「ミヌ、ゴロゴロ言いながらよってくるから、かわいいねえ」
「ミヌ、あんたゆうべいびきをかいてたよ」
「ミヌ、お魚好きでしょ」
「ミヌ、よく食べるね」
「あ、ミヌ、おならした〜。くっさ〜い」
「ミヌ〜、笑いなさいったら〜」
子ども達が、ゲラゲラ笑いながら、猫に話しかける。

 猫は、我が家の《ミヌ》同様、無感動、無関心、無表情のむっとした顔で、半分居眠りしながら、JPの席にじっと座っていた。
《ミヌ》というのは《にゃんこ》のことで、じつは、わたしはJPのことを家庭では「ミヌ」と呼んでいる。(JPっていうのは、書く時だけ)子ども達は、どうしてわたしがJPのことを《ミヌ》と呼ぶのか、理由を考えたことはなかったと思う。フランス人の男性は、奥さんのことを《ラパン(ウサギ)》とか、《ビッシュ(子鹿)》あるいは《プッサン(ひよこ)》と呼んだりするから、わたしも理由なく《ミヌ》と呼んでいると思っていたことだろう。

「まるで、パパ!」
「パパ、そのもの!」

 我が家に笑いを振りまいてくれたベベだったが、飼い主がわざわざ日本から迎えに来た。
ベベとの別れを一番心配していたノエミだったが、「猫は犬に比べて記憶力が低いから、自分のことなんかすぐに忘れてしまったと思う」と、かなりクール。
ゾエはさっそく次の猫について検討中だが、ゾエは猫の世話などやらないので、検討してもらっても仕方ない。

 猫はもう飼わないと思う。JPが猫アレルギーと花粉症なので、この前の春みたいな春がやってくることを思うと気の毒。しかも、動物というのは、人間の心理をよく感じ取るらしく、「近づかないで欲しい」と思っている人のところには、来たがるのだ。ベベは、JPの椅子に座り、JPの足下をうろうろし、JPの服に身体をこすりつけていた。いまだに、ときどき、ベベの毛を発見する。もうしばらくは続くだろう。ボボもちょっと寂しげだ。

ハサンさんとの縁

 ミクロソシエテといって、資本金もいらず、一人から始められる会社形態がある。1999年に、翻訳と通訳を仕事の内容にする《ダニエル遠藤翻訳サービス》っていうのを始めた。その頃はJPが軍隊を退職して転職の道を求めていた頃で、公務員試験にも一度は落ちたので、2年間の失業者生活も体験したころ。
 その頃に思いがけず特許翻訳の仕事が入った。会社を始めてからメニューや私信などの小さな文章しか訳してこなかったので、初の大仕事となり、ずいぶん張り切ってやったものだ。

 国際特許の申し込みは、その頃は何かと複雑だったし、特許翻訳には特殊な書式もあって、翻訳と登録は普通は専門が異なる別な人が行う。わたしはずいぶん苦労しながらも、日本の友人を通して登録にこぎつけた。ただ、翻訳の依頼人が、どうやら経済的な理由で、登録後ピタリと連絡が途絶えてしまった。1000ユーロ近くの仕事をやって、何週間も家庭を犠牲にしながら、お金はもらえなかった。
 彼の発明は世界の自然保護のためにとっても貴重なものだったし、彼の発明品について翻訳するために読まなければならなかった資料の中から、わたしたちは、自然保護の重要さに気づかされ、このごろずいぶん《自然派》になったのも、彼の発明の影響が大きかったように思う。ちょうどその頃に、京都の自然保護サミットに参加した人の新聞記事も訳した。世界が自然破壊の脅威にさらされていることを、その頃実感始めたのだった。 あのとき、あの発明の翻訳をやらなければ、公害や自然エネルギーや、ゴミ処理や温暖化について考えるのは、もっともっと遅れていたかもしれないと、ずっと思っていた。


 先週、その発明者のハサンさんから、いきなりメールが来た!
メールの受信者の名前を見ても、最初は誰だかわからなかった。
 ハサンさんは、2003年ごろ破産して(その名の通り。。。冗談抜きで。)食べるものにも困る生活をした時期もあったらしい。ちょうどその頃わたしたちはカーモーに引っ越してしまって、電話番号も変わった。ハサンさんは前に勤めていた研究所が倒産して、引っ越さなければならなかったし、インターネットも電話もない暮らしが続いていた時期。
 そして、つい最近、新しい職場が決まり、また新しい研究が始まった。国際特許について調べている時に、自分が10年前に開発した発明品の日本語訳が、公開されていることに気づいたそうなのだ。わたしが苦労して訳した、熱エネルギーを運動エネルギーに換える、自動車のエンジンの研究だ。そして、さっそくインターネットでわたしの会社について調べてくれたのだった。

 まず最初のメールで、新しい電話番号を尋ねられ、すぐに電話がかかってきた。みのりさんのことは忘れたことがなかった、と泣きそうな声で言った。こちらこそ、トルコ人のアクセントがある、細く消えそうな、ハサンさんの声を、すぐに思い出した。
彼は破産のいきさつや、自分の発明が実際には工業技術の現場で実現されなかったこと、引っ越しを繰り返して今の職場にたどり着いたいきさつなどを話してくれた。何度も声が詰まって、泣き出しそうになりながら。わたしは、当時JPが失業中で、支払われなかった翻訳料のことがあの頃は惜しくてたまらなかったなどとは言えるわけがなかった。

 そして彼が「支払わずに逃げてしまった、あの10年前の翻訳料を、分割で払わせて欲しい」と言ったときには、内心びっくりした。そのことを言い始めた時の彼の声が、はっきりと強く響くのを感じた。倒産の不幸を語る彼のうなだれていた頭が、今まさに上を向いて、背筋は伸び、彼が胸を張って「お金を払わせてください」と言っているのが、電話の向こうから感じてとれた。今はサラリーマンだから、お給料があるから、と。わたしは、発明者の彼が、発明だけに集中できない不幸を思った。よいスポンサーを見つければ、彼は、お金のことも考えずに研究ができるのにと思う。
 18年ぐらい前にわたしが友達といっしょに《みのりの学校》っていう学校の経営を始めた時、のんきでおおらかな教師だったはずのわたしが、経営者になってしまったことは、すべての不幸の始まりだった。わたしはいつか楽しく自分の本来の仕事だけに集中することができなくなった。「生徒があと何人増えたら、コピー機を修理に出せる」とか、「ペンを何本買うことができる」とか、生徒の頭がお金に見え始めた時、学校の経営状況はどんどん悪くなってしまった。
 研究者は、研究だけをやっていられるのが一番よいと思う。それでハッサンさんには「お金はいつでもいいから、研究を続けてください」と言った。お金が余っている訳じゃないけど、うちに払うお金があるくらいなら、世界を救って欲しいと、じつは本気で思った。
 ハサンさんは、払い終わったら、今度は今やっている《ゴミを資源に換える機械》について、改めて翻訳して欲しいと言う。まずは見積もりを作って、ちゃんと契約してから。(10年前にも契約はあった。わたしには裁判に掛けるようなお金がなかったから訴えなかっただけだ)
 ハサンさんが、ゴミを有効な資源に作り替える機械の話を始めた時に、わたしは、この社会も捨てたもんじゃないよと、心の中でJPに言っていた。あきらめないこと、闘う方法はいくらでもあるんだということを、わたしは心の中で叫んでいた。

 わたしが一番うれしかったのは、ハサンさんが苦しい状況の中で、夢を捨てず希望を持って、貴重な研究を続けていてくれたこと。トルコ人なので、外国人がフランスで研究者として生きることだけでも大変だと思う。この不況の中で、外国人の彼を拾って雇ってくれた会社があることにも驚いた。ハサンさんが価値ある研究をしているからこそだろう。

 「あなたのことは忘れたことがなかった」と言ってもらえて、とても幸せだ。
わたしはハサンさんのことを忘れたことはない。だって、わたしが訳した二冊目の本は、ハサンさんという女性が書いた《わたしは忘れない》だったのだから。「なにかの縁だなあ〜」とずっと思っていた。そして、自然保護から世界を救おうとしているハサンさんが、今こうしてJPにとって大事な時に電話して来てくれたこともまた、きっとなにかの縁だろう。

2009/09/21

新学期だったので

 なにかと、忙しかった。
 新学期前の最後の週に、シゴトの関係で、日本から数人の方々がいらしていたので、バタバタした。
食べてはしゃべりの楽しいおシゴトが始まるぞと、ルンルンな気持ちでスタンバイしていたというのに、胃腸の調子が悪くて、みんながデザート食べてる時に、わたしは無口になって座っているだけだった。ミーさんから、
「おまえさん、どっかおかしくないか?」と言われたぐらい、おかしかったのである。
チョコレートもケーキも食べ放題だったのに、レストランご招待だったのに、具合悪かったなんて〜〜。

    くやし〜〜。

 日本の方に、日本の胃腸薬をいただき、お腹が痛いのは治まったけど、トイレに行くと「しゃ〜」なので、「いつ来るか?」と思うと、不安で不安で。。。とにかく緊張しきっていたみたいだ。緊張の面持ちをどうやら隠しきれなかったわたしは、ついに、日本の《精神安定剤》までいただいた。「お腹痛いのに精神安定剤なんて。。。」と信じられない気持ちで、でも、くれる人に申し訳ないから呑んで見せたろうと思って、ちょいと服用してみたら、これが、なかなか効いたのである。

 「みのりさん、お仕事のことで、緊張していたのでは?」
と言われ、
「シゴトごときで、緊張ですと?このわたくしがっ!?」
と反論しようにも、精神安定剤がかなり効いたところを見ると、見かけによらず緊張していたらしいのである。

    わたくしとしたことが〜〜。

 おシゴトが終わり、日本人のみな様が無事にお帰りになり(じつは、誰も無事には帰り着いてなかったんだけど)、這うようにして帰宅すると、JPが台所で食器を洗っていた。
「お腹がやっぱり変だ。もう三日前からおかしい」と言いながら、薬草茶でも入れようかとうろうろしていたら、JPがにんまり微笑む。
そして、台所の棚に首を突っ込んでいたかと思ったら、ジャック・ダニエル専用の小さなグラスを引っ張りだして来て、パスティスを飲めというのである。わたしが「げ?」と言ってる間に、パスティスをスリーフィンガーぐらいもって来て、ふたたびにんまり微笑む。テーブルの向こうから、ジャック・ダニエルのグラスが、シュ〜と滑ってこっちに来た。まるでアメリカンなバーのようだ。

 JPは、海軍にいる時、ジャックというあだ名だった。JPの名字がダニエルだから。。。軍人というのは想像力があんまり豊かじゃない。と、いいつつ、《ジャック・ダニエル》と書かれた同名のお酒の宣伝用グラスを衝動買いしてしまったのは、なにを隠そうこのわたし。ジャック・ダニエルって書いてあるというだけで、アホな買い物をしてしまった。そんなアホな買い物は断固として許せないJPなので、ジャック・ダニエルのグラスはずっと使われずに無視されていたのだが、アルコールに弱いわたしに、楽しく一気のみをさせようと思ったのか、そのグラスをわざわざ選び、お酒をついで来たと思われる。わたしが笑うとでも思ったのかね。元軍人というのは、ユーモアセンスがこの程度なのねえ。でも、元軍人というのは、いろいろと、生き残る方法を知っているのであるのである。
 
 セネガルにいた時に、わたしが「どーしてもアイスクリームが食べたい」とわがままをいい、JPは「セネガルでアイスクリームなど食べるもんじゃない」といやがった。わたしが「どーしても、と言ったら、どーしてもなんだ」と言って、勝手にアイスクリームを買って食べた。そうして、JPの予想した通りに、その日のうちにひどい下痢を起こした。わたしにとって前世紀最大の下痢だった。その時にも、パスティスの一気のみで、下痢は一気に治まった。この原始的な医療方法は、とっても有効なのだ。

 と、いう訳で、夏休みの最後の週の三日間、今世紀最大の下痢を経験したわたしだったが、おかげさまで、元気はつらつな新学期を迎えた。

 小学校と中学校のPTA役員に復帰し、剣道クラブに登録し、子ども達のヴァイオリン教室と、乗馬クラブにもお金を納めた。
 
 JPは労働組合の会議が毎週あって、毎週パリに出て行っている。

 わたしは整骨の専門の医者に今も通っていて、アキレス腱と古い骨折の治療を続けている。
「アキレス腱が痛いのは、虫歯のせいだろう。頭が痛いのは、老眼鏡のせいだろう」と言われたので、歯科と眼科の予約を取った。歯科は1月、眼科は11月まで待つ。こんなことだろうと思ったので、ついでに婦人科も予約をとった。今はどこも悪いところはないが、悪くなってから予約すると、3ヶ月も待たされて、待ってる間に死ぬかもしれないと思ったので、一応婦人科にも電話した。予約は3月にやっととれた。やはり待たされるのだ。さあ、病気になるなら3月に!
なりたい時に、思うような病気になれないのは不便だ。
絶対になりたくないのに、なんらかの病気になる人の運命は、とっても不安だ。


 JPは元気。検査に検査を重ね、痛い思いも嫌な思いもしたが、けっきょく病気の原因はつかめず、なにも出てこなかったので、「病気じゃないんじゃないの?」ってことで、治療も入院も、病名もない。
 このごろは、「アンタ、いきなり倒れるから困る」とか、「人の運命なんて、明日なにがあるかわかんないんだから、もっと笑いなさいよ」とか、さんざん妻に怒鳴られている。そのわたしは、JPの友達に「ストレスから石が溜まる人もいる」と言われ、病原菌はこのわたし?と、考える今日この頃。
JPがストレスためるはずが。。。ない。。。はず?


 中学の日本語クラブはまだ再開していないが、自宅での日本語プライベートレッスンは再開した。

 翻訳の第一稿を納めなければならないので、じつはかなり焦っている。ギャグがギャグらしくならないので、ちっとも面白くならない。

 日本人の友達から預かっていた猫《ベベ》は、飼い主さんが約束通り日本から迎えに来てくれ、無事日本に連れて行った。あっけないお別れだったが、子ども達は一週間でベベのことは言わなくなった。わりとあっさりしたもんだ。

 7月25日のゾエの誕生日に、わたしは剣道合宿に行っていたので、先週末にお友達を呼んでお誕生会をやった。プレゼントもいっぱいもらった。わたしは乗馬の時に使う、お馬さんのお化粧箱をプレゼントした。ブラシとかひづめのお掃除道具が入っている。


 そして、この二週間ほど、わたしはJPに提出するレポートを、せっせと書いていたのである。だんなにレポートを提出する妻っていうのは、そうはおるまい。これには訳がある。

つづく。。。

2009/09/01

なつまつり

 8月24日から一週間、カーモーは「サンプリヴァ」というお祭りでにぎわった。なんの祭り?と言われても、そんなのは知らない。夏祭り。カーモーは、町の大きさに比べて、週に一回の金曜日の朝市もかなり大きいが、サンプリヴァと言えば、もうとてつもなく盛大なお祭りだ。去年の夏にも、ダーバス家と弟一家が来ていたのに、ちょうどこのふた家族が入れ替わる時期にあたってしまい、ダニエル家だけで楽しんだのだ。

 「ダニエル家だけで楽しむ」と言っても、あまり楽しそうな顔のできない父と、遊具に乗って揺れたら吐く母なので、子どもたちにはお気の毒。今年はちょうど従弟のコランが来ているときだったので、ゾエはとっても楽しみにしていた。お祭りでは、まずお祭りの初日に選ばれた、ミスカーモーのパレードと一緒に、お花で豪華に飾られたトラックを改造した山車のパレード。楽隊のパレードが観られる。バトントワリングやフラメンコ、リオのカーニバル風の裸のダンスやカントリーダンスなどの各クラブのショーが行われるほか、町のあちこちでコンサートや、クイズコーナー、一週間だけの路上簡易バー、ペタンクの試合、サーカス、歌合戦、花火大会、ロトくじ会などなど、、、一週間にわたって、いろいろな催しが行われる。そして子供たちが一番楽しみにしているのは、町の中心にある三つの広場に、県内外から集まった、移動遊園地が設置されることだ。しかも、一週間、毎日毎日、目の前に遊園地があるのだから、うれしくてしょうがない。カーモーの各家庭で、一週間に一体どれだけのお金を、子どもに持って行かれたことだろう。。。県内でもこんなに大きな移動遊園地が一週間も設置されるのは、アルビの春のカーニバル以外にないので、遠くからもこのお祭りに合わせて人が集まる。着飾った田舎の人もいっぱい見かけるし、都会から戻ってきた人を連れたふうな、家族連れもたくさん見かける。

 かなり本格的な移動遊園地だ。いろいろなタイプのメリーゴーランドが常に子供たちを乗せてグルグル回り続けている。ゾエが一番好きなのは、「オートタンポヌーズ」という電気仕掛けの自動車をぶつけ合う激しい乗り物だ。ゾエはまえから車が大好きで、もっと小さい時からよくこのカートに乗って修業を積んできた。今や、ぶつからずに自由にハンドルを切りまくることができるので、本当はぶつかり合うのがこの乗り物のテーマなのに、ゾエだけは、人を避けて、狭い通路を口笛など吹きながら行ったり来たりしている。親はゾーンの外から「そこだ―、いけー、突っ込めー」などと応援しているのに、ゾエは、ぶつかろうとするほかの子たちの車をさっさと避けて、渋滞に巻き込まれることもなく、悠々とドライプを楽しむ。
 ノエミのお気に入りは、去年まで小さなクレーンでおもちゃを引っ張り上げる、ゲームセンターの宝探しみたいなものだったのだが、二三年かけて「自分の反射神経では、お金が消えるばかりである」ということにやっと気付いたらしく、今年はそれをやりたいとは言わなかった。
 ノエミはもう中学生なので、友達と出歩く約束をしていて、電話がかかってくるのを楽しみにしていた。親としては、あまり夜遅くに出歩いてほしくないけれども、内心勝手にやってほしい。ゾエとコランは一緒の遊具でも楽しめるけれども、ノエミはやっぱり一ランク上の、お化け屋敷だとか、ジェットコースターだとか、360度自由自在に回転する、円盤みたいのだとか。。。そういうのに乗りたがるから、ノエミのお相手はゾエにもわたしにも無理。去年、ノエミに付き合って、ジェットコースターをやって、気分悪くなって、降りた直後に吐いた、わたし。だから、ノエミのためにもわたしたちのためにも、ノエミは友達と行ってくれるほうがいい。

 ノエミの友達グループは、男の子と女の子全部で6人ぐらいの仲良しで、けっこうおとなしい方なので、あの友達だったら、まあ、悪いこと(?)などしないだろう。友達とでかけてもいいヨと言ってあげた。一人で出ていく娘が、なんだかとっても成長したような気分だった。本人もそんな気分だっただろう。その代わり、夕方のまだ明るい時間に出て、明るいうち、つまり6時までには帰ってくるようにといった。
お祭りでは、ノエミのクラスの女の子たちにすれ違ったが、お化粧をしていたり、派手な格好をしていたり、中には年上の男性と歩いている子もいて、こっちの方が目をそらしてしまうほどだった。

 ノエミを一人で送り出したその日は、日本からのお客様をお迎えに、トゥールーズの空港に行かなければならなかったので、娘のことを気にしながら、夕方から一人でトゥールーズに向かった。問題があって、お客様は到着せず、Uターンして戻ってきた。帰ってみると   
 ノエミは6時にはちゃんと家に戻ってきていた。友達と過ごせて、とっても楽しかったようだ。今年のミスカーモーは、クラスメートのおねえさんだと自慢していた。


          ミスカーモー


         


2009/08/31

なつやすみ 8/18〜 8/23

 ロッシュフォールから戻ってきて、翌日には、今度はJPの弟たちがやってきた。弟たちは今年のお正月にパリを引きあげ、今は、ナルボンヌのそばの田舎に住んでいる。わたしたちが結婚式を挙げた、ウヴェイヤンというド田舎で、むかしJPの両親たちが住んでいた大きな家に、パリから引っ越してきた。

 弟はパリでの仕事がとても気に入っていたのだけれども、奥さんのソフィーは、どうしても田舎で、しかもアパートじゃない大きな家で、大自然の中で子供を育てたいという希望が強くあった。弟はコンピューターで会社に仕事を送って、パリには一週間に2日出社するという仕事の体勢に変えて、田舎に引っ越してきた。

 でも、見ていると、彼らは、自転車で田舎を走ったり、川沿いをゆっくり散歩したりするのが嫌いだし、バーに行ったり映画館に行ったりするのも、どうもやめられないので、かなり退屈している。海岸までそんなに遠くないのに、わざわざ両親の家に行って、プールで遊び、両親の家で食事して帰ってくるパターンが多く、バーや映画館に行くために、よく子供を両親に預けている。人ごととは言え、田舎でやっていけるのかなあ、と心配になるのだが、こうやって、お休みには私たちの住んでいる田舎にやってきて、けっこう楽しんで帰る。

 ソフィーがたばこをやめてくれて、本当にうれしい。ソフィーがたばこを吸っていたころは、お食事のあとにすぐに外に行ってしまうので、かたづけなど手伝ってくれたことがなかった。どこに行ってもたばこを吸う場所を求めて、席を選ばなければならなかったし、たばこを吸い終わるまで待っていてあげなければならないことが多かった。外でたばこを吸っているといっても、家の中に入ってくると煙の臭いがしていて、子どもたちはとても不愉快がっていたし、家の中のゴミ箱にいくらきれいに捨ててあっても、においは消せなかった。なんで、こんなに頭のよい人が、たばこがどんなに身体によくないものか、気づいてくれないんだろうと思っていた。一日に二箱も吸っていたソフィーが、自主的に煙草をやめて、彼女の肌は輝いているし、よく子供たちに抱きつかれているし、常に台所にいてわたしを手伝ってくれるし、とってもうれしい。たばこを買わなくなった分、貯金しているというので、本当に喜ばしい限り。前は「お金ないから」と彼女が言うたびに、たばこを買うお金はあるのにね、と喉まで出かかっていたのだ。。。。

 わたしたちのお気に入りの場所に案内した。森の中を10分ぐらい歩いていく、ダドゥー川の上流だ。小さな滝と、≪プール≫と呼んでる水たまりがあって、子どもたちのお気に入りの場所なのだ。水はとってもとっても冷たく、15分も浸かっていられなかった。





 家に帰ってくると、ラジオで、
「今年一番暑い一日でした。最高気温はアルビで39度、トゥールーズで37度でした。」
と言っていた。でも、わたしたちは、一日中涼しい木陰の冷たい水の中で過ごした。
水面にトンボが舞っていた。

夏休み 8月12日〜16日

 スタンとサンドリンに会うのは、一年ぶりだ。
去年は、ダーバス一家がカーモーに来てくれたので、今年はダニエル一家が、ロッシュフォーにお邪魔することになった。
 ロッシュフォーというのは、大西洋岸の港町で、フランス海軍の船を造っていた歴史のあるところだ。
《コードリー・ロワイヤル》という、船の綱を編むとても細長い特殊な建物がある。最近まで、ゾディヤックというゴムのボートも造っていたのだが、不景気でその工場は閉鎖され、しかも、海軍の軍艦もほかの場所で造られることになったので、巨大ながらも寂れた建物が町の中にいっぱいある。



 ここには何度も来たことがあるけれども、スタンたちが5年前に買った家にはまだ来たことがなかった。でも、その家は、前に住んでいた家の目の前だったので、迷わずに行くことができた。

 ダーバス一家には、12歳と14歳の少年がいる。去年会った時には5年ぐらいぶりだったので、少年たちが長髪をかき上げる姿に、ちょっとドキドキしたものだ。2人ともボーイソプラノで、お母さんの後を追いかけまわしていて、とっても可愛かった。わたしがどんな食べ物を出してもよく食べてくれたし、うちの少女たちともよく遊んだ。
 久しぶりに会う大きく成長した少年たちが、いったいどんなものを好むのかわからなかったので、ノエミの友達のお母さんたちに、少年向けのビデオやゲームを借り、少年の好む食品のリストをもらい、「少年たちが退屈したら、遊びにやってもいいかしら」と予約しておいたほど緊張したものだったが、今年は免疫ができているとおもっていたので、「あの子たちなら大丈夫」と思って、あまり緊張せずにお邪魔した。

 ところがどっこい。
 少年たちは、声変わりしかけていて、上の子などは3オクターブを使いこなしていた。長髪じゃないけれども、半分だけ顔が隠れている変なヘアスタイルで、左下方向から右上方向にかけて、一日中頭をふり上げている。パソコンの前でイヤホンをつけて、インターネットでエッチな青春ドラマを平気で見る。たまに、カノジョとチャットでおしゃべり。外を歩くときには、常に左手で携帯をいじりまわしながら、ついでに、派手なハードロックまでガンガン鳴らす。いっしょにあるきたくな〜〜い。
 母親のことはお手伝いさんかなんかのように命令するし、父親のことは透明人間のように無視するし、しかも腹立ったのは、テーブルに出すもののすべてが嫌い!なので、わたしたちは毎日トマトかパスタを食べなければならないのだった。

 サンドリンは中学のフランス語の先生なので、一年中朝から晩まで「こんなやつら」とお付き合いしており、さんざん疲れきっている。それなのに、夏休みにはまた、「こんなやつら」が家でウロウロしているので、もう、本当に疲れ果てている。
 なので、毎日トマトでも、毎日パスタでも、わたしたちはせっせと台所に協力して、できるだけもう子供たちは放っておこうよということにした。

 最初の日、少年少女4人は、居間の4隅に散らばって、それぞれの持っているニンテンドーのゲームを、それぞれ勝手にやっていた。
 二日目には、ゲームを使って、電波で友達のゲーム機に割り込み、対戦したりメールを送ったりできるということに気づいたので、それをやっていたらしい。「いっしょにあそんだ」のだそうだ。
 三日目になり、車で遠出してピクニックをしたのだが、その時にもこっちの車の中から、あっちの車の中へ、メール交換をやっている。な〜んか腹立ってきたので、ゲーム機を取り上げた。
 結局、動物園は、ゲーム機なしでも十分楽しめたので、平和な1日となった。動物園から帰ってきた夜には、ゲーム機使用禁止だったために、昔ながらの双六みたいなゲームやじんせいゲーム、チェスやトランプなどをやっていた。だから、居間から、子供たちの叫び声や笑い声が聞こえてきて、サンドリンが、「ああ、なんだか、子どものいる家庭って感じ」とつぶやいていた。

 海のそばだと思っていたが、この辺の海は地中海とは違って、引き潮の時には海がなくなってしまう。波は遠くはるかかなたに見えるのだが、引き潮で浮かび上がった海岸は、どろどろとした沼地になっていて、勇敢にもそこに入り込むと1メートルも歩かないうちに、膝まで泥に埋まってしまう。なので、わたしたちはインターネットで探して、≪アンティル諸島≫という面白い名前の付いたマリンスポーツ施設に行くことにした。丸1日遊べるチケットを買って、丸1日遊んだ。波の出るプールや、アンティル諸島みたいな白い砂浜。プラスティックのバナナと、ココナツの木の下で昼寝をし、泡の出るプールで肩のコリをほぐし、ゾエなどは、滑り台のプールで、おしりが擦り切れるまで飛びこみ続けた。

 最後の日までには、子どもたちもすっかり(人らしく)なかよくなり、よく遊ぶようになっていたのだが、帰る日はあっという間に来てしまった。ゾエは3オクターブのお兄ちゃんが大好きになってしまい、帰りたくないといって泣いた。

 スタンとサンドリンとは、もう20年近くのお付き合いだ。JPのたった一人のむかしからの友達なので、やっぱり私たちもお別れがつらい。またすぐに会えますように。

 
           

2009/08/26

夏休み 8月8日〜12日ごろ

 JPが休みに入ったので、8日にナルボンヌまで子供たちを迎えに行き、12日から16日まで、JPの世界でただ一人と言っても過言ではない友だちスタンに会うために、大西洋岸のロッシュフォーまで旅行する予定だった。
 JPは、高速道路とひとごみが嫌いなので、森や林を抜け、山と谷を越え、川を渡って、湖のほとりでピクニックをし、途中、木の実を味わいながら、自然の中でトイレ休憩を行い、地図にも載ってない道を求めてさまよいつつ、たまに道を間違ってUターンしながら、4時間ぐらいで行ける筈の街に、丸一日かけてたどり着いた。
 
 何時間もの間、まっすぐな道や、どこまでも続く畑や、水色がかった灰色をしている首の長いサギや、タヌキのような生き物や、ウサギやハリネズミや、くずれた農家や、牛やヤギ以外には、数えるほどしか車にすれ違わなかった。
 「夏休みでどこもひとでいっぱい。全国併せて数百キロの渋滞です」
とラジオではつたえていたので、出発前から、「クーラーもないのに嫌だなあ」と思っていたけれども、JPが選んだ道は、森や林を抜ける田舎道だったので、ぜんぜん暑くなかった。 
 こんなに長い間、道路で誰にも会わないでいると、けっこう不安になるものだ。田舎でのんびりしているよりも、人ごみの中にいる方が、《ヴァカンス気分》を感じられるとは、不思議な感覚だ。

 友だちの住むロッシュフォーが近づいて来て、国道に出たら、車が四車線の上に遠くまで並んでいる。びゅんびゅん軽やかに、南へと向かう、ベルギーナンバーのキャンピングカーや、自転車を積んでるドイツナンバーの丈夫な自動車とすれ違い始めると、自分たちが海に向かっていることに気づく。

 さあ、もうすぐだ。どきどき。


           ひまわりとブドウ畑


           ワインを作るブドウの畑。


           どこまでも まっすぐ 

2009/08/07

わりと簡単なこと

 商売人の母からは、「ニコニコしていなさい」といつも言われて育った。そして、お世辞を言ったり、嘘をついたりすることも、人生を上手に渡り歩くには必要な場合が多く、そういったことが相手への思いやりの心から自然にできれば、人にも自分にも役に立つことが多いのだと、よく言われた。

 いつもニコニコしていることや、上手にお世辞を言ったり、相手のために嘘をついたりすることは、そんなに簡単にだれにでもできることじゃない。個人の持って生まれた性格と、ちょっとした才能も必要になって来ると思う。

 わたしは、自分の子らに、親から教えられたことの中から、最も大切な、こういうことを常に常に言っている。
おはよう、ありがとう、ごめんなさい を言える人間であること。
これは、「そんな気」がなくてもとにかく言え! と言っている。

 毎日いっしょに過ごす人はもちろん、ただその朝にすれ違う人でさえも、とにかく「おはよう」と言って一日を始めること。一日の終わりの挨拶と別れの挨拶は、あまりにも形が多すぎて、しかもとっても複雑だ。でも、一日の始まりはまあ、だいたい「おはよう」ですむのだから、会った人にはとりあえず「おはよう」と言っちゃえ!と思っている。そうすれば、気分のいい人は気分のいい挨拶を返してくれるし、機嫌の悪い人には、こちらから元気な声を掛けてあげることで、元気を分けてあげられるかもしれないし、悩みを分けてもらえるかもしれないのだから。

 「ありがとう」と「ごめんなさい」は、人間としての基本だから、説明しなくても6歳の子供だってその大切さを知っている。ただ、そんな気持ちがなくて声に出して言えないことや《忘れる》なんてこともある。
人間だもの。虫の居所は日々異なる。

 その言葉に気持ちを込めることは、ときとして難しいけれども、「おはよう、ありがとう、ごめんなさい」と《とりあえず言う》だけなら、わりと簡単なことだと思う。

 剣道の合宿の話しの続きになる。
 どう見たって有段者で経験ありという感じの男性が、一人遅刻してやって来て、体育館の隅で時間を掛けて一人ぼっちの準備体操をしていたものだから、わたしは近づいていって「おはようございます」と言った。
30センチの距離にいるのに、完全に無視された。
 普段路上では、ガイジンであるために無視されることが多いので、こんな完全無視には慣れているが、剣道の道場では日本人好きって人にしか会ったことがないので、彼が返事しなかった時に、これは何かの間違いだと思った。聴こえなかったんだろう。

「おはようございます」ともう一度言ったが、彼は頭を動かさずにわたしを見ただけで、口を開かなかった。
完全に無視されたのが決定的だったので、しつこいわたしは「おはようございます」ともう一度いい、遅刻して稽古に加わるタイミングを探っているのかと思った相手に、間髪をいれず「稽古、お願いします」と言った。
 彼は、首を左右に面倒くさく振っただけだった。「おまえとはやりたくない」と顔に書いてあった。
こういう時に、《親切心丸出しのおせっかい》は、どうやって去ったらいいのか、ちょっと困る。
別れの言葉は複雑なのだ。心のすみで「アデュ〜」(これは逝く人に言う永遠の別れの言葉)と言いながら、「あ、そうですか」だけ言って、背中は見せずに後ずさりをして去った。この退散方法が、剣道と居合道の道場での作法で、上の者に対する礼儀作法だと、彼にはわかったはずだ。それにこういう人に背中を見せるのも情けない。

 その日の練習の中で、4段以上が道場で試合稽古をして、それ以下の人たち(4分の3以上)が、見取り稽古することになった。そのとき、偶然例の彼と試合稽古をすることになってしまった。
みんな見てるのに、彼ったら、彼だけの稽古を見せびらかした。
 つまり、彼は、わたしが掛かって行けば、頭を振ったり、竹刀で打突部を防御したりして、打たせてはくれない。(これを逃げる、という)打って行けば、はじき飛ばしたり、体当たりをしたりして、わたしの身体を右へ左へとさんざんはね飛ばす。(これを乱暴、という)更にとんでもない所を打って来るし、強く痛く打つ。わたしには、彼がわざとそうやってることがよくわかった。

 ここでネクトゥーさんとドレイ先生だったら、「目を一個潰されたら、二個とも潰してやれ」とか「歯を一本折られたら、全部抜いてやれ」と言う。彼らなら実際にそうする。でも、わたしは、そういういじわるな剣道をする人にこそ、美しい面を一本お見舞いしてやれと思って、熱くなるほうだ。転んでも立ち上がるから、相手はますます《いじわるな役》を演じる羽目になってしまう。こっちの方が数倍いじわるなのだ。

 稽古のあとで、数人がわたしの周りに集まり、「いつもあいつには痛い目に遭ってるんだ」とか「みのりが気の毒」と言い、「身の安全のために、彼には近寄らない方がいい」とアドバイスしてくれた。
 わたしは、その気はないのに思わず乱暴な剣道をする人や、間違ってとんでもないところをぶん殴ってしまう人には慣れているから、痣もたんこぶもあまり怖くない。それに道場でどんなに転んでも、どんなに打たれても、基本的にはそれが相手のせいだとは言いたくないのだ。じっさいに打たれるのも転ぶのも自分の脚さばきが悪いせいだということが多い。打たれたのを相手のせいにするのは負け犬だ。だから、もし翌日の稽古で彼に当たっても、逃げないぞと心に誓いながら、アキレス腱切れたらやばいな、と思った。わたしが転びでもしたら、彼はまた悪口を言われるだろう。さあ、どうしよう。

 みんなが去ったあとで、ラブルさんがそっと近づいて来て言った。
「彼の剣道はちょっと乱暴だけど、本当はいいやつなんだ。いじわるをしないように言っておいたんだけど。それにしても、最後のあの一本は、彼にはよい反省材料になったと思うよ」

 翌日の稽古で、彼との稽古を待っているのは、ほんの一人か二人だった。明らかにみんなに避けられていた。順番待ちをしなくても、自分の番がすぐに回って来ると思ったので、彼のグループに並んだ。隣の列にいた人が「勇敢だね。気をつけてね」と言った。

 このようなタイプの人には多いのだ。ドレイ先生も最初はそうだった。
「一度鼻を折られて、それで離れて行くような人間とは、つきあわなくてもいい」
だから、どんなにぶん殴られても、またかかって行けば、少しだけ心の窓を開いてくれる。
二度目におはようと言ったら、わたしのことを見てくれたじゃないか。

 その二度目の稽古は楽しかった。彼の剣道もすばらしかった。いろいろなことをちゃんと説明してくれたし、試しに打ってごらんと打たせてもくれた。できたら多いに褒めてくれた。諦めなくてよかった。しつこい性格でよかった。

 ただ残念だったのは、彼は5日間の合宿の間、ほかの誰とも打ち解けなかった。せっかく高いお金を出して参加しているのに、グループで行なわれたものには、何も顔を出さなかった。みんなに挨拶をしないから、わたし以外の誰も彼に「おはよう」を言わなかった。彼が「すみません」と言わないせいで、誰も「ありがとう」と言わなかった。

 みんなが、彼は数年前から何度も五段の試験に挑戦しているけど、いつも落ちていて、だから、ストレスであんな風にひねくれているんだとウワサしていたけれども、わたしには全く検討外れだと思った。あんなにすばらしい技術を持っているのに何度も失敗しているのは、彼に「すみません」と「ありがとう」が言えないからだと思う。絶対にそうだ。
 剣道には《敵》ではなくて《相手》がいるのだから、そんな簡単なことがわからなければ、いくらやってもただただ難しいだけなのだ。《敵》を相手に一人で動き回っていて、なにがそんなに楽しいのだろう。《仲間》に囲まれて、ぶつかりあう方がずっと楽しいのに。

 ラブルさんが「心やさしい相手には、めちゃくちゃにかかっていけない。誠意を見せたいと思ってしまう。だから、みのりが心のある元立ちをやれば、道場の人たちはみんな誠意のある剣道ができるようになるよ」と言われた。
 道場の外でも、そんな夢のような関係を築けたらいいなと思う。
とりあえず、わりと簡単そうなことをマイペースでやれば良さそうだ。

 《我以外はみな師なり》ありがとう。ありがとう。

2009/08/05

とっても難しいこと

 合宿で習ったことは山のようにある。
中学や高校なんかで、ちょこちょこスポーツ剣道をやっていた時代は、先輩に怒鳴られ走らされ、顧問は剣道のことなど知らず、試合に勝つことよりも、まず試合に出してもらえることが目標だった。なので、フランスに来てから、うんちくが大好き、歴史も理論も大好きなフランス剣道家たちに、嵐のような質問を浴びせられてから、
「自分は日本文化や伝統・歴史のことも、剣道のことも、ろくにしらない」
ということに気づかされる。
フランスの道場の片隅で、日本人に出会うと、みんな同じ意見だ。

 《我以外みんな師なり》
と、春のトゥールーズでの講習会で、ボルドーに住んでいる聡子さんが言った。
わたしたちは、フランスで、フランス人から日本の剣道を習っている。

 こんどの合宿で、スイスのそばのアヌシーというところから来た、一家で剣道をやっている加代子さんに出逢った。ご主人のムタードさんは垂れに《夢多道》と書いている。お二人はうなるほどすばらしい剣道をされる。奥さんに指導をするご主人、子供さんがたと稽古するお母さんを見て、うちなんか、家族バラバラ生活の中、ひとりで合宿に参加していたわたしなので、うらやましかった〜。

 最後の日の稽古のテーマは《攻め》。
一足一刀の間合いから、気合いと身体の威圧で攻め入って、相手から先に一本取るという練習で、元立ちという打たれ役がいるので、その相手に向かって、ぐっと攻め入りぽんと打てばいい。
〜そう思い、気合を入れてぐっと攻め入り、パシンと面を打ってみた。
「なかなか上出来」と思った。
そうしたら、ラブルさんがいつの間にか横にいて、待てと合図する。
「攻める」というのは、ただ、相手の懐に入っていくことではないんだよ。さあ、攻めますよと気合を見せて、ただポンと打てばいいってわけじゃないんですよ。と教えてくれる。

 それで、何度かの挑戦の後、先生の求めているのが、こんなことかもしれないと体感できたのは。。。
ぐっと攻め入る。これは相手を試すため。そこで相手がこらえなくて出てくるなら、出てこようとするその出ばなを打つ。
「出ばな面」という技の名前の通り。
相手に自分の気合を見せ、相手はこらえなくなって出てくる。その数秒間の緊張感を作り上げる役目が稽古の時の元立ちで、そのタイミングを上手に取って、きれいに打たせることが元立ちにとっては難しいところだ。
「さあ、相手が出てきたから、こっちも出て行ってあげよう。ぽん。打たれました」ということになりがち。でも、それでは肝心の「こらえる」という稽古をさせてあげられないので、この元立ちは失格。

 ぐっと攻め入ろうとする時、気持ちはもうすでに前へ前へと進んでいる。だから、相手はびくともしないのに、つい、さっさと面を打ってしまう。これもまた打ちかかる方の「こらえる」稽古にならない。

 ぐっと攻め入る。そして、相手をこらえきれなくさせるほどの気合を、声を出さずして発する。こらえて、相手が出てくる瞬間をとらえる。それを「ため」という。出て行きたいのに出て行かずにもっといい機会を狙う。我慢できるかということ。

 気持ちが前に突っ走っているときに、状況を冷静に判断して、相手を気で押す。その「ため」が。。。わたしには足りないと言われた。実は、これは前にも言われた。
 見た目お人好しすぎて、何だか、気押されることがない。ぜ〜んぜん怖くない。気迫が足りない。攻めが足りないと、言われたことがたしかにある。

 なるほど、こらえ性がなく、自分の中にためることができず、相手の出方を冷静に見据えることができない。
なにごとにおいても、わたしの弱点だ。

稽古の後で、ラブルさんはわたしに《四戒》を知っているかと訊いた。
「四戒」とは《驚・懼・疑・惑》 で、この四つは、人の邪念の中の邪念で、これがあると心が乱れ、瞬時の判断ができなくなり、尻込みをしてしまうといわれているもの。
おどろく、おそれる、うたがう、とまどう ことは、まさに剣道の四つの戒めだ。
驚くことも、懼れることも、疑うことも、戸惑うこともしない人間になれる日は、いったいいつになったら来るんだろう。道は遠いなあ〜。恩師の佐藤先生は
「無心道極」と手ぬぐいに書いておられた。「無心こそ、道を極める」わたしは邪念ばかりだなあ。

 そんなもろもろの教えを胸に、わたしは南に向かった。
さあ、おうちに帰ろう。
そして、明日はキャンプの終わったノエミを空港に迎えに行き、明後日はナルボンヌにゾエを迎えに行き、その次の日から、家族四人水入らずで、楽しい夏休みにしよう。
 ホクホクな気持ちを抱いて、帰路に着いた。

 夜7時に高速道路の出口から家に電話したら、5時には帰っているはずのJPが電話に出ない。7時半に携帯に電話がかかってきた。
「さっきから、ちょいと入院してる」という。
「へ?」
わたしなどはさきほど高速道路で眠くて中央分離帯にぶつかりそうになり、高速を降りた直後だったので、疲れていて、もう「へ?」しか言えない。けれども一気に目が覚めた。
家までまっしぐら。

 2時間後、真っ暗な自宅に帰りついたが、寄って来るのは腹を空かせたボボとベベのみ。家人には丸2日会ってないのだから、最低4食分は腹を空かせてる。
 面会時間も過ぎてしまったので、病院には行けなかった。
JP翌日退院。原因不明につき、再検査必要ながらも、急にどうということはないので、帰ってもよく、仕事にも行けますよ、とのこと。仕事なんかどうでもいいのに。

 驚かない、恐れない、疑わない、戸惑わない
と誓ったせいか?それとも無神経で無責任なせいか? 全然、心配してない。
JPは大丈夫にきまってる。
JPはもとより、痛くない、かゆくない、暑くない、寒くないの人、だとは分かっていたけれども、具合悪いかどうかも、全く感じていないらしい。ここまで鈍感だと、腹が立つ。

あ、つい、心が乱れてしまった。。。。

 検査の結果は8月中旬。
大丈夫にきまってます。

2009/08/04

勉強会のテーマ

剣士、打たれちゃ困るカブト作成中


合宿に行こうと思ったのは、主催者の中にラブルさんの名前を見たからだ。
ラブルさんのことは、ずいぶん前から知っていた。
亡くなった佐藤先生が大好きだったフランス人のひとりだ。
20年ぐらい前に佐藤先生から何度も彼の名前を聞いていたので、どんな人かと思っていたら、結婚してフランスに来てから、田舎の道場でばったり会った。「なんでこんなところにいるの?」って感じだった。わたしはまだ剣道を再開しておらず、ラブルさんに個人レッスンを受けたのは、JPだけだった。

 そのときに、ラブルさんがフランスナショナルチームのキャプテンで、フランスのチャンピオンだということを知った。自分では言わない。人が教えてくれた。そんなチャンピオンが、田舎の友だちの道場に遊びに来て、JPに個人レッスンしたなんて。。。誰も信じないだろう。
 8年ぐらい前にパリで4段を受けたときに、会場でまた会った。でも、その時は合同練習がなかったので、またもやいっしょには稽古できなかった。
ずっとずっと、いつか彼といっしょに稽古したいと思っていたら、剣道合宿の主催者の中に名前があったので、もう、何も考えずに申し込みをした。
 合宿のあるブールジュっていうのは、電車で5時間、乗り換え5回の場所だった。
肩も脚も痛いのに、剣道具その他の大荷物を背負って5回も乗り換えなんてやってられないので、自動車で行くことに決めた。このところ故障続きだから、とっても不安。

申し込みをしたら、すぐにラブルさんからメールが来た。
「参加を決めてくれて、どうもありがとう。とっても楽しみにしています。ところで、日本文化について何かやって欲しいんだけど」という。70人近くの参加者の中で2段〜7段までの人の中から、希望する人は《指導者》として、いつも自分の道場でやってることをみんなに見せる。そして、それについてみんなで意見交換をする、というのが、この合宿のひとつのテーマとのこと。普通フランスで行なわれる剣道講習会は、7段以上の先生を日本から、あるいはフランス国内から招待して、先生方の指導で行なわれる。どちらかというとただただ受け身の講習会だ。質問はしていいが、反論したり、問題提起をしてはいけない。日本から来る先生方のほとんどは、フランス人が基本ができていないことを指摘され、毎回、どの講習会でも基本のやり直しをされる。なので、人によってはどれも同じ講習会のような気持ちになるのだ。いくらやっても基本ができていないんだからしょうがないのだけど。

 夏休みには全国数カ所で、一週間ぐらいの剣道合宿が行なわれている。その中でも、このブールジュの合宿は《勉強会》にしたいのだと、ラブルさんが言う。「ほかの人たちよりも経験があるから、自分には教えられることがあるかもしれないけど、みんなの思っていることも知りたいし、自分も学びたいから」やっぱりラブルさんだ。会いに行くことを決めてよかったなあ、と思った。大先生方の講習会は、また別の機会があるだろう。

 ラブルさんとの数回のメール交換で、日本人にしかできないことをやって欲しいということなので、私は3つのことを提案した。
 ひとつ目は書道とおりがみのお試し会。
武士は、武道のほかに諸芸道にもすぐれていなければならなかった。それで、書道の心得などが、武芸に通じるものがあるんだよと、まあ、そんなうんちくも述べられるんじゃあないかと思ったから。じつは、書道の時の姿勢や、呼吸、例えばやり直しの許されないひと筆一本勝負の精神が、本当に、剣道には大切で、わたしは、剣道のためにも書道を本気で習いたいと思っているのだ。書道は小学校で無理やり受けさせられた試験で、4級どまり〜
 筆が2本しかないので、手の空いてる人には、かぶとでも折らせようと思って、新聞紙も持って行った。ゾエの学校のお祭りで使った折り方のコピーもいっぱい残っていたので、おりがみといっしょに持って行った。
刀 に挑戦セバスチャン


ヤッシン。みんなに冷やかされて集中力なし。

      

 ふたつ目は袴について。
袴のお手入れ方法と、折り方。帯の出世だたみの実技。
袴のひだは前に五本ある。儒教を勉強していた日本人にとっては5というのはとっても大事な数字。
例えば世界を上手に動かすための大事な要素といったら、
火・水・木・金・土 
それから、社会生活でとっても重要な人と人との繋がりにも、5つある
長幼・父子(親子)・君臣・夫婦・朋友 
そして、五つの大切な徳といったら、
仁・義・礼・智・信
なんだそうだ。なので「袴を履くからには、そのようなことを身につけるんだぞ、それらを大切に心がけることを学ぶんですぞ」と、剣道の道場では教わるのだ。剣道やってるからには、はかまを大切にせにゃ〜あかんですよと。。。このようなうんちくが、フランス人は大好きだ。
 
 みっつ目は、数週間前から準備して、5ページにも及ぶ大演説にしたるつもりでいたのに、着いてから、このテーマは会議室での講義じゃなくて、体育館での実技だよと言われた。用意していたのは、
《日本人の伝統的な身体動作が影響を及ぼしている剣道の動作について。たとえばすり足・歩み足・蹲踞の理解は、日本文化を知ってこそなりうる》。。。というような、スゴイ講義内容だったのだ〜。
一番真剣に用意していたので、ちょっとがっかり。
 合宿2日目のお昼の稽古は、3つのグループに分けられた。そのどのグループも、足さばきについての実技。私は級者から初段までの約10人を受け持たされ、すり足と踏み込みについての指導となった。用意して行ったことは、とても役に立った。演台に立っての演説じゃない分、気持ちも楽だし、思ったとおりのことを状況に応じて伝えることができたし、やって見せる、そして実際にやってもらうことができたので、とってもよかった。

 とにかく、3つのどの時間も、みんなに大変喜ばれた。ほかの会議でも、たびたび「日本ではどうですか?日本人はどう考えるでしょうか?」と質問が投げかけられ、みんな真剣に聴いてくれた。

 もっとまじめに剣道勉強しよう。

来年はフランスの北のほうで行なわれるそうなので、行けるかどうかわからない。行けないだろう。でも、パリの各道場に知り合いができたので、パリの道場破り(?)を計画している。お楽しみ〜。

勉強会に来ていた若い子たちが、みんなやってるというので、Face Bookで、写真とビデオを交換することにした。ブログ右上の《ダニエウさんちのアルバム》をクリックしたら、登録なしでわたしの集めた写真が見れる筈なんですが。。。お試しください。
わたしの《わら束 真剣 試し切りビデオ》もあるよ〜。

2009/08/03

合宿


    最終日 最後まで残って試合をした人たちと。



朝6時から朝稽古(ひたすら地稽古)
9時半からお昼までグループに分かれての打ち込み稽古、回り稽古と地稽古
午後2時から講演やアトリエ
午後3時半から6時まで、まわり稽古と地稽古
まわり稽古というのは、先生がやんなさいと言った技を、説明のあと試しにやってみる稽古で、ぐるぐる交代で回りながら続ける。
地稽古というのは、試合のつもりで本気で、対等にぶつかる稽古で、有段者なので元立ちっていうのをやらねばならない。元立ちは交代できない。次から次にかかって来るので、そのつど本気で立ち会いをしなければならない。だから、とっても疲れる。ここで有段者は「疲れる」などといってはいってはならないノダ。

これが大まかなスケジュール

わたしは24日の朝8時に家を出て、できるだけ高速道路を使わずに、山道を抜け、合宿所のあるブールジュには夕方6時に着いた。何度も休みながら余裕を持って到着したので、まだセンター内に剣士たちの姿は見られなかった。

わたしのダニエルという名字のせいで、男性と勘違いされていて、男性の部屋に入れられていた。
で、急きょ女性の部屋に回してもらったら、二人部屋に一人で寝てくださいと言われ、ちょっとうれしかった。

 その日は、翌日とその次の日に予定されている講演会と稽古の指導のせいで、ドキドキして、2時間しか眠れなかった。合宿が催されたセンターは、本来はスポーツの専門家を養成する施設で、全国から集められた選手たちが、1日中専門競技の実技や理論、スポーツ科学やスポーツ心理などを学ぶ大学みたいなものだ。大きなプール、サッカー場、ラグビー場、陸上競技場のほか、室内競技の体育館、会議室、サウナなどのリラックス設備などがある。宿泊施設のほか、カフェテリア、食堂も設置され、インターネットを使ったり、ビデオ鑑賞のできる会議室もある。

 参加者は全部で70人。パリから来た人が多く、みんなお互いのことをよく知っているので、リラックスした雰囲気。その代わり、だれも知らない人は、わたしのようにはじめポツンとしていた。
日本文化についての講義をしてほしいと言われた時に、どうしようかと思ったが、わたしは、袴についての講義と、書道と折り紙のお試し会をやった。これについては詳しくのちほど。
合宿の最初の二日間に、みんなの前で話をする機会をもらえたおかげで、みんなに早く名前を覚えてもらえた。なので、すぐに打ち解けて、とても楽しい合宿ができた。

肩もアキレス腱も、大丈夫だった。その代わりマメだらけ。。。

2009/08/02

剣道合宿の写真


      審判揃い、試合開始。 
      ラブルさんの号令で、お互いに礼!



      そんきょ。 はじめ!



      わたしが負けた試合。パリのジュリアンに面を取られた〜。 

2009/07/30

バラバラ家族

7月17日に、ノエミがたった一人で飛行機に乗って、キャンプに向かってから、家の中がシンとしている。
わたしも24日から剣道の合宿なので、JPに料理を作り置きして冷凍庫に片づけたり、剣道の合宿で頼まれている講演の準備をしたりした。

18日は、友人≪か≫に教えてもらった「お財布を買い替える日」にあたっていたので、バーゲンも終わりかけて静かになった町に出かけた。お財布を買って破産するのもばかみたいなお話なので、ちゃんとバーゲンのお財布にした。でも、買った後で、デザインがあまりにも若すぎるなーと思って恥ずかしくなった。それに、まだ慣れないせいか、使いにくいし、これまでのお財布に比べてポケットが少ない。なんだかすごっく後悔している。

 お財布の中には、今年の初めに大吉だったおみくじを入れた。それから、今年の初めに日本で連れて行ってもらった高級フランス料理店の、野生のカモ肉の中から出てきた散弾銃の鉄砲弾を、大事に紙に包んで持ち帰っていたので、それも大切にお財布に入れた。

さあ、これでお金持ちになる準備はできたのだっ!!

「今月は赤字だなあ」と月の初めにJPが言った時には、真っ青になったが、そのあとでよく考えたら、先ごろ寝ないでやった特許翻訳の請求書を、いまだに出していなかったことに気付き、大急ぎで請求書を送ったら、すぐに支払いの約束が出た。合宿に出発する前にいただきたいなあーと思っていたら、合宿に出発する日に入金されたので、新しいお財布をホクホクにして、残っていた支払いや、スピード違反の罰金を精算してから旅立つことができた。心晴れやかな出発〜〜。

そういえば、心晴れやか。。。というのは、ちょっと違った。。。。

 ノエミが17日にキャンプに行き、そのあと着信払いの公衆電話から「すごい田舎だから電波が届かない」と言って来たあと、バス遠征の際博物館から2回電話してくれた。ノエミの声を聞けたはよかったが「同じキャンプの子が、豚インフルエンザの疑いで隔離された」との知らせの後、ぷっつり音信が途絶えてしまった。

 JPがキャンプ場に電話したら「そんな事実はありません、と言われた」というので、わたしは合宿に出発したのだが、合宿所についてからもう一度JPに電話すると、「ノエミの部屋の3人の子が隔離されたけど、ノエミは大丈夫みたい」という。
「そりゃあ、アンタ、うちの子ももうじき隔離だよ。」
とJPに言ったら、
「キャンプ場の子供たちがみんなで隔離されたら、みんなで楽しいキャンプが続けられるから、いいじゃん」
とのお返事。なるほどな〜。
「迎えに行かなくていいの?」と聞いても、
「外からの面会は謝絶だってさ」なんて言ってるし、まあ、ラジオでは「他のインフルエンザと同じです」とさんざん言ってる。どうしようもないの??

 合宿所からも毎日3度はJPに電話したけど、「自分にはなにもわからん」という。ノエミに携帯メッセージを送れば、「元気、元気」の返事。しかし、義弟のお嫁さんのソフィーと電話で話した時に、うっかり口を滑らして「ノエミ、隔離されてるんだってね」と、知らぬは仏の母(わたし)に言ってしまったのだった。
「えー、わたし、なにも、聞いてないけど?」
「一人だけ隔離されないよりは、みんなで隔離された方が、退屈しないだろう」
と言って、JPは、かなり平気だ。
じつは、わたしも、合宿があまりにも楽しく、かなり平気だ。
一歩家を出ると、すっかり家のことは忘れられるタイプ、だ。悪いけど。

 24日から29日までが剣道の合宿。
なんと、ゾエの誕生日が25日で、家族バラバラのお気の毒なお誕生日だった。
JPは、見かけによらず「かわいそうだから」と言い、電車を使って、一泊で実家に帰ってくれた。プレゼントを持って。JPが「かわいそうだから」なんて言うもんだから、ダニエル家のみんなに、みのりはひどい奴と、ちょっと、言われてるような気がした。(言われているに決まってマス)

 ゾエは、かなり平気だ。
ノエミは後で「隔離から解放されて、今は博物館に来てる」と、携帯から電話してきた。
JPはその週には、組合の出張でまたパリに行っており、4人の家族が誰も家におらず、よそでバラバラに暮らしている日々が続く。

さあっ!合宿が終わったら次の日には子供たちを迎えに行って、家族水入らずよ、と思っていたら。。。
とんでもないことになったのだ〜〜

つづく。。。 

2009/07/20

おくりびと

  土曜日の夜に、アルビに住んでいる日本人のマリさんから電話があり、アルビの映画館で日本の映画をやっているよと教えてくれた。
「しぶがき隊のモッくんが出ているよ」
というのだが、しぶがき隊が3人だったのか4人だったのか思い出せない。
《しぶがき》が《渋柿》ではないことは容易に想像できるし、《しぶ》と《がき》がそれぞれ片仮名と平仮名のグループに別れていたんじゃないかとも思うのだけれど、もしかしたら《渋ガキ》だったような気もするし。。。《錦織クン》っていう人がいたような気もするんだけど、あの人って《なに隊》だったっけ?

 実際のモッくんは想像していた人じゃなかった。しかもおじさんになっていたので、ものすごくショックだった。
ひさしぶりに画面で見る俳優が「歳取ったなあ〜」と感じる時、それはまさに、自分に跳ね返って来てちょっと寂しくなる。
吉行和子がおばあちゃん役やってるとか、むかし公私ともにツッパリだった(ハズの)杉本哲太が、役所職員の上に子煩悩なパパになってるのもかなりショック。
 主人公の父は、最後に死に顔でしか出ず、でも、大物役者に違いあるまいと思って調べたら、峰岸徹ではないか!?むかし、アイドル歌手が失恋して飛び降り自殺をした。あの!失恋の相手こそ峰岸徹ではなかったか。彼は死に顔でたった一度だけ登場したのだが、この映画を作りながら、死んだアイドル歌手のことをおもいだしただろうか。このキャスティングには意味があったんだろうか?
「おくりびとも、いつか、おくられびとになる」

 ところで。。。日曜日のお昼ごはんのときに、アルビまで映画を観に行こうよとJPを誘ったら、「ええ〜アルビまでえ〜」と生返事。あきらめてミシンを出し、袴の裾あげをしていたら、4時5分前になっていきなり、「映画行くよ」と誘いに来る。映画は午後4時半から。マリさんが「泣くよ」と言っていたから、いちおうハンカチだけ持って、化粧をする時間もなく急いで靴を履いた。

 お天気のよい午後の4時半に、アメリカ映画じゃない外国映画で、しかも字幕の映画を見に来るような人は。。。お年寄りだけだった。玄関ホールもシーンとしてる。閉まってるのかと思った。お客はほとんどが60歳以上ぐらいの人たち30人弱で、席はぜんぜん埋まってなかった。平均年齢を下げてるらしき人と言えば、わたしたちと、こんなに空いてるのに、壁際の前から三列目に静かにうずくまってる、ちょっと「おたくさん?」と呼びたくなるようなお兄さんのみ。

 映画が始まって、モッくんが遺体を洗いはじめたところで、いきなり後ろの席で
「助けて〜。バタッ」
という、まるで映画のワンシーンのようなセリフとともに、明らかに人が倒れた物音がした。
暗がりで殺人でもあったか!?

 「隣に座ってた人が倒れた!」
という老女の声に、人々が一斉に立ち上がる。非常口付近の男性が、映画館の人を呼びに行った。すぐに映画が中断され、館内が明るくなった。
 「誰か救急車呼んだの?」
とヒステリックに叫んでいる人約1名。60代はイってる、館内じゃけっこう若メのおばさん。
 「映画館の人が呼んだんじゃないの?」とJPはいつものようにかなり冷静。
 「私の夫は、心臓マッサージの講習を受けましたっ!」と、有閑マダムが勇敢にも、定年退職後約10年ぐらいらしき、ご主人様の背中を押す。ご本人は自信なさそう。だいじょうぶかな〜。
 「携帯、持ってる人?持ってる人?」
さっきの若メのおばさんが叫ぶ。
年寄り集団というのは、携帯なんか持ってない。若いけど礼儀正しいわたしたちは、映画館に携帯など持って来てないし。(実はいつも持ち歩くのを忘れてる)どう考えたって、映画館の人が呼んでるでしょう。
 若メのおばさんは、やはり若作りしているだけあって、いまはやりの携帯を持っている。が、しかし、肝心な時に、使い方がわからず、うろうろしている。

 いっぽう現場では、さきほど自信なさそうにしていたご主人様が「この人、意識があるみたいですよ」と言って立ち上がり、まるで自分が心臓マッサージで生き返らせたかのように叫んだ。有閑マダムは隣の人に向かって「やっぱり講習を受けた甲斐がありましたでしょ?」と涙ぐんでいる。「あなた、すばらしいわっ」などと、つぶやいたりなんかしちゃったりして。

 若メのおばさんはみんなが注目をよせている携帯電話にむかい「人が倒れましたッ。映画館です」と言っている。何度も同じフレーズを繰り返す。そしてみんなのほうにふりむいて「どこ?って訊いてるわ。馬鹿じゃないの?消防団のくせに」とか言う。そりゃあ、そうでしょう。アルビには4つぐらい映画館があるんですから。後ろの席の人が電話をひったくり、映画館の名前と、倒れている人の状態を説明するとすぐに、救急隊員たちがどやどややって来た。サイレンが聴こえるまでは、館内は緊張した空気に包まれていた。横溝正史の密室殺人事件の需要参考人になった気分だった。結局、倒れた人は、立ち上がった瞬間に一瞬目がくらんで、暗がりで段差を踏み外した。。。というようなことらしく、救急隊員の人も、大丈夫と言って連れて行ったので、ほっとした。ちょうどお葬式のシーンの所から再開したので、大丈夫じゃないような事件だったら、この映画を見続けるのは非常に気まずかったと思う。たしかに、お天気のよい日曜日に、重装備で働く隊員を見ながら、のんきにお年寄りたちと映画観てる自分がちょっと。。。気まずかった。

 観た映画は『おくりびと』
http://www.youtube.com/watch?v=E_z0_MLvwvw

 ≪旅のお手伝い≫というキャッチフレーズを見て、観光業界かと思い面接を受けに行ったモっくんだったが、実は≪安らかな旅立ちのお手伝い≫だった。
 友達には「もっとまともな仕事しろよ」と言われるし、奥さんには「けがらわしい」と泣かれるし、納棺師のお仕事というのも大変なんだなあ。

 わたしは父の葬式にも出なかったような娘だ。映画の舞台となっている東北と、九州の最南端では、風習も違うと思うけれども、まさか、この映画が、こんな内容だとは知らなかったので、大変。。。。。なんというか、勉強になった。

 映画の中で、火葬場のおじさんが、遺体に「またどっかで会おうな」と言っていた。わたしも、最後に父と別れる時に、まだ生きている父に、「いってまいります」と言えず、「また、どこかで会おうね」と言った。それまで輪廻転生とか、生まれ変わりとか、考えたこともなかったけれども、とっさに「また、きっとどこかで会える」と思ったのだ。

 送る、送られることについて、深く考える映画だった。でも、まだ立ち直れそうもない人には、見せられないかなと思う。わたしは、立ち直ったんだろうか。大丈夫だった。
 ずっとずっと泣いていたけれども。

 わたしの記憶の《シブがき隊》ぜんぜんファンじゃなかったけど、やっぱりなつかしい〜。

ひとり身

 ナルボンヌから帰って来てからの2日間は、大忙しだった。ノエミが17日から29日までキャンプに行くので。
 《キャンプ》と言ってもテントなんかない。食事だって自分では作らないし、洗濯機まであるらしいし、JPのお母さんったら、「みんな持ってるんだから」と言って携帯電話まで買い与えてくれちゃったので、《キャンプ》とはほど遠いキャンプだ。
 毎年春になるとJPの職場から、夏休みのこどもたちのための、いろんな活動が提案されているカタログが届く。これまでにもノエミは、乗馬キャンプや、マリンスポーツキャンプなどを経験し、3週間も帰って来なかった夏休みもあった。今年はバンドデシネ(フランス式漫画)を習う授業が毎日組み込まれているキャンプを選んだ。同じ職場の人たちの、そのこどもたちが全国から集まって来る。場所はバンドデシネの博物館やフェスティバルで有名な、アングレムという町で、うちから電車で行ったら5時間ぐらいだと思う。

 ただ、係りの人たちと、全国から集合して来るこどもたちの引率の便宜上(?)、ノエミはいったん飛行機でパリに行ってから、みんなと合流して新幹線で南下するという、とんでもないコースとなった。このごろ飛行機が次々に落ちているので、ノエミはしばらく前からストレスを溜めていたが、12歳なので空港内と飛行機内で、世話をしてくれるベビーシッターは無し。特別なバッジとかそういうのもなし。トゥールーズからエアフランスに乗って、パリまで飛んで行った。乗るまではオンボロなのか、古い機種なのかなんてわからない。不安。
 飛行機は6時15分出発だったので、5時15分のチェックインに合わせて、3時15分に起きた。

 9時頃「わたし、パリに着いた」というメッセージが携帯から携帯に送られて来た。
 11時半に「今、みんなと新幹線待ってる」という内容のメッセージ。主語が複数形になったので、ホッとした。
それっきり、ぷっつり。
 子離れできてない母としては、携帯もあることだしと思って、じゃんじゃんメッセージを送っている。しつこくしている。そして娘と言うと、1日に1回だけ、「げんき」というメールを送って来る。
 向田邦子の本の中に、彼女の妹が疎開先から父親に葉書を送って来るというお話があって、手紙を書けない幼い妹は、元気な時は大きな丸、調子悪い時には小さい丸という風に、はがきに丸を書いて毎日お父さんに送ったんだよ。。。と、そういう話しをノエミにしたばかり。どんな形でもいいから、元気にしているかどうなのか、やっぱり知りたいものだなあ。ノエミはけっこう自立していて、苦難を乗り越えるのが上手な方だから信じたっていいのに、やっぱり心配なのだなあ。かわいい子には旅をさせろって言うじゃあありませんか。それにしても、携帯もメールもなく、国際電話もとっても高かった時代に、ずいぶん遠くまで行ってうろうろしていたわたしは、しかも、いつもお金がなくて、いつもおっちょこちょいだった自分は、ずいぶん親に心配をかけたんだろうかなあ。

 さて、ゾエもノエミもいなくなり、JPも連休が終わって仕事に戻ってしまったので、せっせと医者に通いながら、じゃんじゃか本を読んでいる。

 例えばこんな本

注文してたのがやっと届いた。国によって地域によって、習慣や体型によって、道具が変わって来るという研究の本。社会学、民俗学の分野で、『たたずまいの美学』の参考文献になっていたので買ってみた。生活習慣や道具が変わると、身体の使い方動かし方も変わる。そういうことにとっても深い関心を持っていて、フランス人と日本人の身体技法の違いを指摘することを、なんとか剣道の指導に結びつけたいと考えている。いろいろと難しいことを考えながら剣道やっているので、ぜんぜん上手にならないんだろう。


 友人《か》の影響でhttp://ameblo.jp/cocoro358/、斉藤一人さん(銀座まるかんの社長さんで、長者番付ずっと5番以内という商人)と、五日市剛さん(「ありがとう」が魔法の言葉だと言ってる人)に興味があったので、友人《か》のお奨めで買ってみた本。注文した本屋さんが「ずいぶん怪しい本ですが、いいんですか?」と問うてくれた。
 自分の理解できない分野は、つい「怪しげな世界?」と思ってしまうのが人の情なので、とりあえず、味見してから考えることにしている。本を読むぐらいだったらいいのでは?
 この前玄関に現れたシューキョーの人に「味見してみないと、好きかどうかわからないじゃないの」と言われ、「うまいな〜」と思ったが、さすがに集会場に行ってみる勇気はなかった。じつは簡単に丸め込まれる方なので。それについての自分の弱点は、もう痛いほどわかっているので、某プラスティック容器とシューキョーの集会場にだけは近寄らないようにしている。
 ところで、おもしろいことがいっぱい書いてあった。しあわせになることを信じる人は、強いンだな〜とあらためて気づかされた本。
 

 15歳の少年に中学生でも読める日本文学を紹介してと言われ、とっさに『我が輩は猫である』を紹介してしまった。JPが15年ぐらい前に「ワタシ ハ ネコデス をよみました。おもしろかったです」と言っていたことがあったので、フランス人でも楽しめるんだったらいいやと思ったのだが、15歳の少年でも大丈夫だろうか。夏目漱石作品は、前半だったらまあ、好き。後半の『夢十夜』とか、かなり難しいと思う。でも、『夢十夜』って、中学3年生の教科書に出ていた。母校に教育実習に行って教えた。『我が輩は猫である』のなかで、猫が「庭の木に登るのは簡単だけど、降りるのへけっこうテクニックが必要だ。」。。といって、木の降り方をながなが解説する部分があって、その部分は中学校の国語で習った覚えがある。だから、15歳の少年でも大丈夫だろう。紹介した手前、内容について質問されたら困るので、いちおう、読み直し。


 わたしが武道教育について模索していると知り、姉が読んでから送ってくれた本。悩んでたわけじゃないけど、この歳になったら嫌でも《指導者》をやらされる。だから、口達者で頭でっかちなフランス人に対抗するには、勉強に勉強を重ねておかなければ、ありとあらゆるとんでもない質問に対応できない。 いろいろと参考になった。
こんど実践で!



 もともと英語で書かれた本なので、世界中で読まれている。宮本武蔵の『五輪の書』と並んで、「剣道やってるならこれぐらいは読んでるだろう」と思われている本。これも姉が送ってくれた。でもこれ読んでると眠くなる。翻訳がまずいんじゃないかと思う。書かれてあることがよくわからない。なので、斜め読み〜〜。

2009/07/19

革命記念の日

 日本ではなぜか《パリ祭》という名前で呼ばれているらしいが、7月14日は《革命の記念日》だ。マリーアントワネットがギロチンで首を切られた、あの革命だ。
 でもカレンダーには《国民の祝日》と書かれているだけ。JPもお休みだ。7月14日は火曜日だったので、月曜日も休みにして、11日から14日までの四連休にしてしまい、これを利用してゾエをナルボンヌのJPの実家に連れて行こうという魂胆。

 わたしは医者通いと合宿の準備で忙しいし、ノエミはもうすぐキャンプに出発するので、JPも両親の顔が見れるし(わたしも見れるけど)ちょうど良かった。

 4日の間に、海岸で、年寄り抜きのピクニックをやった。JPの従姉フランソワーズとその息子ケビンも参加。ケビンは水泳の選手だ。今月高校卒業試験に合格したので、9月からは大学で科学を勉強する。科学警察官か軍人になりたいのだそうだ。JPの弟夫婦フレデリックとソフィー、その子コランも参加。JPのお父さんがハムの入ったケーキを作ってくれたけど、自分の家みたいにあれもこれもともって出掛けられなかったので、JPに海岸でピザを買わせた。ソフィーの用意したキュウリのサラダとチップスとパンと、男性軍にだけビールがあって、夜の海岸で楽しいピクニックになった。風が出て来て、海岸でピクニックをやってるのはわたしたちぐらいだった。

 翌日は天気が悪く、一日中家でゴロゴロ。こどもたちはプール。わたしは監視。ほかの大人は家族会議。弟が両親の前に住んでいた家を買うことになったので、ダニエルの息子たち三人と両親は、親はまだまだ元気ながらも、《相続》についての話し合いをしなければならない今日この頃なのだ。ダニエルの一族は《話し合う》ってことが下手なので、ど〜もいろいろなことが進まないが、弟の奥さんのソフィーが、とても積極的なおかげで、前よりも話し合う一族になっている。わたしが子供たちを見ている間にっていうことが多いので、わたしはたいしたことを知らない。

 みんなが難しい顔をしてテーブルを囲んでいる間に、わたしは子供たちを遊ばせながら読書と、インターネットなどをいじっている。昼寝とつまみ食いもやった。

 例えばこんな本、四日間大変充実していた。義母の婦人雑誌も見た。

 「古武術と身体」合宿で行う講演のための資料として。読み直し。
 このほかに『中世武家の作法』も読み直した。
 すでに3回ぐらいずつは読んだ。
  

 東野圭吾という作家は、ちょっとサスペンス系と思っていたのだが、『手紙』はちょっと違っていた。泣いた。いっぱい泣いた。
 むかしむかし連城三紀彦の『恋文』という小説も、そのタイトルに心惹かれて買って、ずいぶん心打たれた乙女時代だったものだけど、今回のこの『手紙』も似たような気持ちになれるかと思って買った。でもぜんぜん違った。

 わたし、字は恐ろしく汚いけど、手書きの手紙を書くのが好きだ。ただ長い長い10ページぐらいの手紙なんぞは、いくら私でも誰にでも書くわけじゃない。「この人に書き出したら、やめられない」という人が、ほんの数人いる。そういう人には、返事が来なくてもじゃんじゃん書いてしまう。聞き上手というか読み上手というか、そういう人たちなんだと思っていたものだから。つい甘えてしまっていたのだろう。
 相手はかなり迷惑しているらしい。このごろはインターネットもあるからねえ。

 「返事なんかどーでもいいから、こっちの気持ちを聞いてちょーだい」と、これまで一方的に送りつけて来たが、『手紙』を読み終わったあとに、そういう自分の嫌な性格のことをとっても反省した。この小説の中で、数年間に渡っていやいや手紙を受け取り続けて来た方は、手紙が届くたびに嫌な気持ちになって、「なんで手紙なんか寄越すんだよ」と言いながら破って捨てていた。しまいには引っ越しまでして逃げる。電話もしないし、会いにも行かない。「お気の毒だねえ」と思いながら物語を読んでいたら、手紙を送り続けた方が、最後に絶交を言い渡されて気づく。
「わたしは手紙など書くべきではなかったのです。(略)自己満足だったのです」と反省する。
 「なに、これ、わたし?」と恥ずかしくなっていたら、二日後に、《しつこく手紙を送りつけてるのに、返事をくれない友人》が夢枕に立ち、なにを言っているのかはわからないけれども、わたしのことをがんがん怒鳴る。わたしったら、がんがんがんがん、怒鳴られた。
 その友人からいつか返事が来るまで、もう二度とこちらからは書かないでおこう。わたしに、そんなことが、できるかな〜。うずうず。絶交を言い渡されるまでネチネチしつこく送ろうか?返事が来なくてもいいとは思っていたけれども、友だちを失ってもいいとまでは思っていなかった。それにしても、あんなに怒らなくてもいいのにと、夢から覚めてからずいぶん悲しくなった。いったいどっちが友だち甲斐がないんだろう。

 とまあ、ただの小説にこんなに反省させられたのはひさしぶり。