2007/09/30

9月も終わります

 気づいたら、9月の最後の日。あっという間だったなあ〜。

 フランスに戻って来たのが8日の土曜日だった。その週から子どもたちの新学期が始まってしまっていて、中学に上がってしまったノエミの授業のリズムや、カバンの重さ(丸一日分が10キロ近くになる!)や、宿題の多さと難しさに戸惑った。日本の大学のように教室を移動するのは生徒の方で、毎週始業時間と終業時間、お昼休みの時間も変わる。わたしたちはしばしパニック状態だった。

 帰って来たばかりだが、日本からのお客様の接待が続く。
 うちの子どもたちはブーブー言ってる。せっかく帰ってきた母親はまた朝から晩まで出歩いていて、そのうえ夜にはレストランでお食事しているのに、自分たちは簡単なものを食べさせられる。夜に絵本を読んでほしいのに、宿題を見てもらいたいのに。。。とぼやいていた。かわいそうに。
 昼間にお客様のお相手をするので、学校の食堂で食べさせ、学校のあとは託児所で過ごさせたりもした。この辺で、「外で働くバリバリの母」でいることに、精神的について行けなくなってきた。1年のほんの数日間とはいえ、「自分を必要としてくれている人は、まずここにいるんだから」と思ったら、家庭が基本であることを実感した。

 9月の3週目は、いよいよ活動開始。
 幼稚園の会議、中学校の会議、幼稚園の催しの引率。音楽学校の会議。音楽学校、自分のためのレッスン。ヴァイオリンの修理。ノエミのヴァイオリンのレッスン。ノエミのソルフェージュのレッスン。宿題。学校の送り迎え。家事一般ちゃんと前の通り。子どもの服を買いに行く。医者に連れて行く。いろんな支払い。郵便局へ。市役所へ。ボボの世話。家の改修工事の続き。書類の整理。仕事の面接。
朝市。スーパー。子どもたちとお散歩。いろんな人に電話。いろんな人から電話。メールへの返信。《フランスだより》を書く。ひたすら書く。いろんな物を読む。翻訳・推敲完了、そして納品。挿絵画家決定につき資料集め。図書館通い。などなどなど。

 9月の最終週は、フランスで一日中気温が上がらず10度前後の日が続く。
 そんな中、柔道の見学会、子どもの童話読み聴かせ会へ。
会計士に会うためトゥールーズへ。高速道路がトゥールーズ入口の料金所に降りるところで、ピレネー山脈がきれいに見える。
ピレネーの山々に雪が積もっているのが見えた。
 帰宅後、ついにノックダウン。
JPが、ついに、暖房をつけた。
9月に暖房をオンにしたのは、初めて。フランスには今年は夏らしい夏もなかった。わたしは一昨年買ったワンピースも、去年のソルドで買ったワンピースも、着てない。家は湿っぽいまま、秋を迎えてしまった。この冬を越せるのか。。。と考えただけで心配だ。ただし、去年から今年にかけての冬は、あまり寒くはなかった。
 
 地球はおかしいながらも、やっぱり周り続ける。
さあ、明日から10月。

2007/09/27

9月8日 フランスへ

 《やっさん》が、タクシーでホテルまで送ってくれた。
「7時に起きて、タクシーを呼んでもらって、成田エキスプレスの乗り場まで連れて行ってもらって。。。」
何からなにまで説明してくれた上に、紙にも書いてくれて、《やっさん》は朝帰りのまま、今度は接待ゴルフに出て行った。
 あとから、「コースで寝てた。あの日はスコアが。。。て、2時間で帰って来れるところを5時間かけて帰ってきたよ」とメールあり。ご苦労さんです。

 朝日が昇った。居眠りどころではない。荷造りをしなければ。。。でも、もうなにがなんだかわからない。クマさんにもらったカレ作のお人形は、絶対に忘れてはならない。ゴミがいっぱい出た。日本のかわいい包み紙、チラシ、新聞、箱、全部もって帰りたいけど、そんなことは言ってられない。荷物は20キロまでなんだから。

 タクシーを拾った。どんな時間でもタクシーが走り回っているのはとっても便利だ。フランスには流しのタクシーっていうはないと思う。
「午前中の飛行機ですか?ヨーロッパにでも行かれるのかな?」
タクシーの運転手さんが話しかけて来た。
「フランスに帰るんです」
「ほほ〜、フランスですかあ。憧れますねえ。お仕事ですか」
日本語のしゃべりおさめだと思って、運転手さんの質問にどんどん応えていたら、彼は、かつて料理人で、ホテル・オークラなどでも働いたことがあると言うではないか!?それで、わたしは、今回行ったレストランやお菓子屋さんの話をして、運転手さんも「知ってる」とか「そこはいいレストランだ」とか、話が弾んだ。
 駅に着いたら「もっと話したいですね」というので、一瞬「じゃあ、成田まで送って行ってよ」と言いたかったのだが、駅には友だちが待っていてくれることになっていたので、ちゃんと料金を払って降りた。

 フミとラルは、わたしの成田エキスプレスのチケットを買って、待っていてくれた。
二人も、疲れているはず。悪いねえ。
「いいの、いいの。あとで昼寝して、夕方から遊ぶから。。」
いいな〜。

 成田エキスプレスでは爆睡。
電車を降りて少し歩いたときに、たしか電車の中ではお財布を手に持っていた、ことを思い出す。
げ、ないっ!?
頭の中はぐちゃぐちゃだったが、よく考えたら、やっぱり手に持っていたはずのお財布がない。
駅員さんに訊くと、「ここは成田エキスプレスじゃないですよ」と言われて、別な駅員さんを捜す。
 自分のお財布の特徴をあれこれ言っていたら
「なんだ、じゃあ、これ?」
わたしのお財布だった。
「さっき降りたお客さんが、落ちていたと言って届けてくれましたよ」
さすが日本だなあ。お財布も持たずに海外まで行ってしまうところでした。

空港内は工事中とか、団体旅行客で、かなり混雑していた。
ホテルから送ってあった荷物を受け取りに行ったり、自分の搭乗手続きの場所を探したりしている間に、時間が過ぎて行く。おまけに搭乗手続きのときに、荷物が重すぎると言わた。でも係りの人ったら「超過料金の計算ができない」と頭を抱えていて、「少々お待ちください」などと言って電話したり、人を呼びに行ったり、なんだかあわてている。後ろに並んでいる人も、わたしに、ブーブー文句を言っている。結局20キロのところ29キロで、5キロはサービスできるけど4キロ分払ってくださいと言われ、3万5千円請求された。カードで払おうと思ったら、なんかコンピューターであれこれやって「少々お待ちください」ばかり言っちゃって、はかどってない。
「みのく〜〜ん、本当にもう時間ないよー」
と、フミが心配そうにしているので、フミのところに行って
「ちょっと、5千円貸して」
お財布には3万円しか入っていなかったので。
 カードを奪い取り、現金を叩き付けて、その場を離れ、走った、走った。
「お茶飲む時間、ないの?」「おまけに借金したまま?」
「い〜から、い〜から。どうせまた帰ってくるでしょ?」
友だちが「本当に遅れるよ」と言っているので、仕方なく出発ロビーに入ったけれども、実際には自分の飛行機が、何時何分に飛び立つのか思い出せないので、とりあえず走った。

 だから、免税店でのショッピングも夢と終わり、最後の日に「なにかすごいものを」と思っていたJPのお土産も買えなかった。

 飛行機の前まで来た時、出発時間を二分ほど過ぎていたけれども、わたしの後ろにあと二・三人走ってる人がいたので、「あんたのせいで飛行機が遅れた」とは言われなかった。もう、どろどろだ。ファーストクラスの優雅な座席を通過しながら、「わたしって、こんなところでなにをしてるんだろう」と思った。
 それにしても、友だち二人が居て、一緒に場所や通路を探してくれたり、荷物を見張ってくれたので、どうにかなった。しかもお金まで借りて。このご恩は次回返そう。ゆるしておくれ〜〜〜。

 飛行機内では爆睡。食事の時間を過ぎていて、目が覚めたら前の座席に「起きたら呼んで」の張り紙があった。お好みのメニューはもう当然残っていなかった。
 たまに目が覚めると、映画を見た。
『そのときは彼によろしく』と『眉山』を観て、ぼろぼろに泣いた。なんか、飛行機のなかで涙に暮れているのは自分だけのようだった。泣いたせいで、目がしばしば、トイレのかがみで見たら赤く晴れ上がっていて、みっともない。
 映画の合間にまた爆睡。飛行機はたまに大きく揺れて、叫び声もあがっていたが、「もう、ど〜なってもいい」と思った。
帰りの飛行機は、座席が高く、床に脚が届かなくてぶらぶらした。だから、とってもつらい旅だった。
 朝が来るころにまた爆睡。朝食を食いっぱぐれた。「目が覚めたら呼んで」の張り紙があって、スチュワーデスさんを呼んだら「ずいぶんお疲れですね」と言われた。そうですとも。

 日本に行くときには日付が変わったけど、フランスには同じ日に帰り着いた。7時間の時差をどんなふうに縮めてたどり着けたのか、脳みそが機能していいなくて、考えられなかった。

 パリで乗り換え。みんなきれいな格好をしているのに、わたしはぼろぼろ。飛行機の中で着替えるのも面倒くさかった。第一、飛行機の荷物入れはあまりにも高すぎて、いったん入れた荷物を降ろそうと思ったら人に頼むか、シートに上って目立たねばならず、
「もう、ど〜でもいい」と思ったら、どうでもよくなった。

 パリからトゥールーズの飛行機では、もう頭がガンガンして、目はしばしば、開けていられなくなった。スチュワートさんに薬をもらって、ちょっと寝た。

 トゥールーズの空港に到着。
JPはアイロンの掛かっていないTシャツを着て、リュックを背負っている。散髪にもずっと行ってないからアフロ。
子どもたちは上下の色がちぐはぐで、しわしわなスカートとシャツの組み合わせに、結んでる髪がチグハグ。
主婦が家を空けるというのは、こういうことか。。。ああ、帰って自宅のドアを開けるのが怖い。

 飛行機の到着が夕食の時間なので、さっと帰りたいママと、さっと食べたい子どもたちの希望を知っているJPは、リュックサックの中にピクニック用品を納めて来ていた。わたしたちは空港のそばの公園に行き、夜が来る前に最後のお出かけをしている小鳥たちの、忙しいさえずりを聴きながら、そして、犬や子どもたちを連れてのんびり歩くトゥールーズ郊外の人々を眺めながら、ペタンクをやってるおじさんたちや、たむろして笑い合ってる若者たちを眺めながら、バゲットパンのサンドイッチを食べた。農場の野菜で作ったサラダと、懐かしい朝市のチーズと果物もある。水筒にはカーモーのなま水も入ってる。そういえば、日本のレストランではしょっちゅうミネラルウォーターを飲んでいた。エヴィアンだとか。なま水を飲んだのは、指宿でだけだったような気がする。

 「ああ〜、帰ってきた〜」

2007/09/25

9月7日の夜 続・最終日

 日本でもメールチェックをしようと思っていたけど、そんな時間は全然なかった。
毎日の諸雑用をクリアするのが精一杯で、メールを受け取って読んだり、書いたりする気持ちの余裕もなかったし、なんといってもポータブルパソコンがないから、使えるパソコンを探すことから始めなければならない。母の携帯を借りていたので、電話はどこからでもできた。東京についてから、母の携帯でもメールが使えるということがわかったので、急に便利になったけれども、人が一緒にいる所で、携帯のボタンをチャカチャカやるのは、あまり好きじゃない。お喋りしている相手が、そこには居ない誰かにメールを送ったりすると、はり倒したくなる。

 が、携帯をチャカチャカやる姿が、日本の風景となっていた。だれもかれも、おじさんやおばさんまでもが携帯をいじっている。駅のホームで、電車の中で、みんな片手を胸の前に出して、うつむいている。小さな画面と向かい合っている。

 そんなこんなで(どんな?)メールチェックをしなかったので、武蔵境の佐藤さんちでは、わたしが本当にやって来るのか、やきもきされていたことであろう。電話ぐらいすればよかったのだ。(でも、携帯に慣れていないので、携帯を切ったままだったり、存在を忘れていることが多かったのです)

 約束の時間はとっくに過ぎて、暗くなってしまった。
不親切なホテルの受付嬢に、いらつきながらも、4時にいよいよ部屋に行ってもいいと言われた。が、しかし、部屋の電気のつけ方がわからん!ホテルの部屋に、電源というものがない!
 「これは絶対になにかし掛けがあるに違いない」と思ったので、ロビーに電話した。電話の使い方がわからないので、説明書を読んだりしている間に、貴重な最終日が刻一刻と過ぎて行く。
 「部屋の電気のつけ方がわからないんですけど。。。」
いちおう控えめな声で言ったつもり。フランスなまりで言えばよかった。
ロビーの不親切なお姉さんは、
「バッカじゃないの、こいつ。何てまぬけなの」とのどの奥で言っていた。確かに言っていた。
「カギがついてる棒を、入り口の穴に突っ込むんですよ」
突っ込んだら電気がついた。部屋を出るとき、カギを持ったら自然に電気も消えるというわけやね。頭いいなあ。日本人は。
 まーさーかーーー、こんな仕組みになっていようとは。

「駅はどこですか」
まるで、日本語初級テキスト「みんなの日本語初級本冊1」第3課の例文じゃあないですか。
そこで、正しい日本語を使うならば、
「駅はホテルを出て、右にあります」
と言って欲しかった。受付嬢らしく。
が、しかし、ホテルの不親切なお姉さんは「はあ?」とすっとぼけてる。
「ホテルを出たら見えてるんだから、出りゃあいいだろう」と言ったね、あんた、今、言ったよね。
もう、わたしはかなりいらついていた。帝国ホテルのボーイさんに慣れ親しんだマダム・エンドーに、世間の風は冷たかった。

 品川から、新宿を通過して、武蔵境まで行く間に、とっぷりと日が暮れてしまった。
 電車に乗るまでには、苦しい戦いと、冷たい風と、人の波と、迷路でのうろうろがあり、《住所不定無職》みたいな駅に座り込んでる若者だけが、わたしの味方だった。

 佐藤さんちのテーさんは、この数日間ずっとメールを送ってくださっていたらしい。迎えに行く時のことや、待ち合わせの時間、乗り換えの電車のことなども、詳しく教えてくださっていたのに、わたしがそれを見ていないばかりに、世間の荒波にひとり投げ捨てられたかのような、錯覚に陥らなければならなかった。テーさんの顔見れたら、もううれしくて崩れそうだった。

 佐藤先生のお宅は、桜が咲き乱れるであろう公園の、すぐ横に、昔のままたっていた。父が他界したその年に、佐藤先生もみんなを置いて逝ってしまった。あんなに可愛がってくださった奥さまも、もういらっしゃらない。もう絶対に桜堤には来ないだろうと思っていたのに、佐藤先生にそっくりな息子様と奥さま、お嬢さんのテー様が、わたしを待っていてくださった。
 もらい物で申し訳なかったけれども、《大吟醸》は佐藤先生しか思い浮かばなかったので、お仏壇に上げていただいた。あとでテー様がみなさんに振る舞ってくださるだろう。
 佐藤先生と奥さまの最後を見届けてくださった、お嫁さん。どんなにお会いしたかったことか。
「ごはんがおいしいんだよねえ」といつも褒めていらしたあのお嫁さんとも、いよいよご対面できた。思っていた以上に、さわやかで頼もしい方だった。佐藤先生のお写真の前で、先生のお声を聴いた。
 「おお、みのりちゃん。来たね。」とおっしゃっていた。
その後ろで、「ねえ、みのりちゃん」と、先生と同じ声をしている息子様が、お茶に誘ってくださる。
道場は、主をなくしてなんだか寂しげだった。
 息子様はわたしに佐藤先生の遺品を預けてくださり、その中には「白雲悠々」などの手ぬぐいや、先生ご愛用の鹿革と漆の小物入れもあった。その赤い袋をよく覚えている。
 わたしたちは写真を見ながらいろんなことを語り合った。またきっと桜堤に戻って来れるだろう。
「先生、じゃあ、また来ますので。」
最後に会った時と、同じ言葉をつぶやいた。よし、フランスに帰ったら、また剣道やるぞ。

 さ〜、いよいよ待ちに待った《呑ん方》である。
指宿時代の友人たちが、恵比寿で待っている。約束には二時間ぐらい遅れてしまった。
インターネットで見た地図では、駅の前には二軒しか建物がなく、駅から二軒目の建物だったので、すぐにわかると思ったら、恵比寿の駅前には大小様々な建物がどどーんと並んでいて、人もわんさか居て、倒れそうになった。
 「こんなに暗いのに、どうしよう。。。」
そうだ、現代の神器! 携帯で宴会場にいる友だちを呼び、駅まで迎えに来てもらった。
一人は指宿でも会った人で、指宿から東京まで見送りに来てくれた女子。
もう一人は高校卒業以来、実に22年ぶりの再開を果たした《ヤッさん》である。
まじめなアーさんは居ないし、感動の場面だから許されるということで、思わずヤッさんと抱き合ってしまったじゃあないのっ。
うれしかった〜〜。涙出ちゃったよお。やっと自分の居場所にたどり着いたって感じだった。

 会場では、お鍋がぐつぐつ音を立てていて、「エンドー食べなさい、食べなさい」と言って座らせられる。その間、わたしがフランスから持ち帰った、「タクちゃんと一緒に舞台に立った、思い出の結婚ワルツ」(幼稚園)の写真やら、「持久走大会 ジャージ姿」(中学)の写真やら、高校卒業記念写真、ならびに、高校の遠足などなどの昔懐かしい写真を、みんなで回し見てもらった。
 「エンドー、今指宿から来たみたいっ」って、みんな言ってる。そーですか。そーですか。あんたたちはアカ抜けてますって。
 リッキー氏には、ちゃんと指宿から持参したカセットを、そしてピース・くぼた氏にはかの君のために彼が捧げた思い出のカセットを、しっかりお届けした。ムートンも、タナカも、「そのまんま」でうれしい。従兄の子どもの有希ちゃんも、安コーチ嬢も、ちゃんと東京で生き延びている。カンゾン君には仕事を頼み、ほかの女の子ちゃんたちとは再会を誓った。

 二次会は、沖縄料理店へ。アーティストのクマさんが合流し、ずいぶん長いこと鹿児島弁で語り合った。始発が出る時間まで、嫌がるみんなの背中を強引に押して、エンドー念願の「みそラーメン」を食べに行ってからお開きとなった。友だちと見る朝日は、ひっさしぶりだった。駅で別れる時、「じゃ、また来週ね〜」という雰囲気で別れた。

 なんだかもう、フランスに帰りたくないなあ〜。

2007/09/24

9月7日 最終日〜〜〜

 最後の日は、さすがのミーさんも文句を言わずに起きて来た。レストランの入り口で、日本語の新聞をどっさりもらっている。ミーさんのお店で働く日本人の女の子たちに持って帰るらしい。わたしにも、どこに行っても日本語の新聞と雑誌をもらってくれと言っていたので、部屋には束で溜まっている。

 旅の恥はかきすて。かなりプライドの高いミーさんも、借金までしてナアナアの仲になったマダム・エンドーには、プライドを捨てていると見える。帝国ホテル最上階レストランから、皇居の森や国会議事堂などの写真なんか撮っちゃって。

 「台風来なかったね。やっぱり、アンタのうそだったよ」
ええ〜そんなあ。ゆうべ、暴風雨だったじゃ〜ん。
 「わたしの部屋はびくともしなかった」
そうですとも、そうですとも。天下の帝国ホテルざます。風の音さえ聞こえなかった。わたしが叫んでも聞こえまい。

 「ちょっと、スーツケースに入らない荷物や持って帰りたくないものがあるんだけどさあ」
ミーさんは、エコノミークラスのわたしと違って、ビジネスクラスだから、お預かりの荷物量が40キロもある。うらやましい。だから、持って帰っていただきたいものが、山のようにあるのは、こっちのほう。
 ゆうべ、てんぷら屋でプレゼントされた刺身包丁はさっさとスーツケースにしまったらしいが、名古屋一宮の大吟醸は「アンタにやるよ」と言われてしまった。でも、わたしはスーツケースを成田空港あてに送ってしまったので、手荷物として持ち込む予定の小さなバッグに、「大吟醸」なんぞを入れたら、税関で取られてしまう。ど〜しよう。

 空港にはアーさんの車で出発した。アーさんの車もかっこいいカーナビ装備で、高速道路を通過するときにも、料金所で止まらずに突っ切れるシステムを備えていた。
 あれは怖かった。。。
 遮断機が降りてるのに、アーさんはいつもと変わらない真面目な顔をしてそこにまっしぐらに突っ込んでいった。寸でのところで遮断機がガバア〜と持ち上がるので、わたしとミーさんははじめ「ぎゃあー」と叫んでしまった。

 余談だけど、トイレの蓋が自動で開くのも、あれも恐ろしかった。しかも、男子と女子の違いを察知されてしまうとは、手強い奴め。下から青い手が出て来るんじゃないかと思って恐怖におののいた。ふわっと開いて来るふたを、思わず手で塞いでしまったので、壊れたかも。。。へへへ。。。

 ミーさんはタクシーの自動ドアに触れて、叱られた経験があるらしく、日本に着いたその日から、タクシーが止まるとホールドアップされたかのように両手を上に向けて、運転手さんに両手を見せながらフランス語で「触ってませ〜〜ん」と言っていた。降りてからも「閉めるの?勝手に閉まるよね?閉めなくていいんでしょ?」としつこく訊いていたが、実はわたしもよくわからなかったので、なにか言われるまで、手はホールドアップ状態にしておいた。

 さて、成田空港。
朝っぱらから出掛けて行くのは、ヨーロッパ辺りまで行く人に決まっている。若い人とかお金持っていそうな人が多い。韓国とか香港だったら、余裕の午後出発。そしてみなさん服が派手。ミーさんはドイツ経由で帰ることになっている。この日、国内線はまだダイヤが乱れ、陸も空も欠航になったり遅れたりした交通手段が多かったのに、ルフトハンザは定刻通りの出発予定だった。
「ほらね、台風はここにも来てないし。」
結局、ミーさんが寝ている間に行ってしまった台風のおかげで、わたしは最後まで「うそつき」だ。
ううう、今度来たときには地震を呼んでやるう〜〜〜。

 わたしとミーさんは機内持ち込み用にする、小さなスーツケースを買った。ミーさんは最後に手にしていた紙袋をがばっと詰め、わたしは空のまま持ち歩いた。わたしには本日の午後、「ショッピング〜」の予定があるので。。。うほほ。
 日本に着いて一番に飲んだのも、最後に飲んだのも、一番日本らしい飲み物だった。
それはアイスコーヒー。
フランス人はアメリカンコーヒーはあまり飲まない。どちらかというとエスプレッソで、とっても濃いコーヒー。
コーヒーにチョコレートを添えて飲むのだけど、日本ではどこに行ってもチョコレートは添えられなかった。
アイスコーヒーなる飲み物も、ミーさんにとっては新しい発見だったようだ 

 最後にお別れするときに、ミーさんに握手をしようと思ったら、
「マダム・エンドーは半分フランス人だから、フランス式ね」
と言って、肩をつかんで、両方のほっぺたに軽いキスをしてくれた。フランスではご近所で、朝夕、家族とも、同性の友だちとも、こんな挨拶が習慣なので、わたしたちにとってはショッキングなことは、なーにもない。
 が、しかし、まじめな日本人ビジネスマンのアーさんが、《停止》状態で硬直して、わたしたちを見つめていた。

フランスに帰ってきてからミーさんに再会したとき、
「帰りの日、空港でミーさんがフランス式挨拶をしたでしょう。あれはアーさんにはちょっとショーゲキだったみたいです。空港から都内に戻って来る自動車の中で、アーさんが盛んに『フランス人で日本にレストランなんかを開いてる連中は、みんな日本人の愛人がいるんですよねえ〜』とか、まあ、そんな話をしてましたよ。」
と言ったら、ミーさんはガハハと大笑いをして、
「アーさんはまじめだから、ビビらせてやろうと思ったんじゃあ〜。わははあ〜〜」
と、大爆笑だった。アーさんは笑わせるなあ。

 さて、空港から都内まで送ってくれたアーさん。お別れかなあ?と思っていたら、最後にお昼をご一緒してお別れしましょうと言う。なんでも好きなものをごちそうしてくれるというので、もうわたしは、アーさんジュテームと心の中で叫んでしまっていた。
「でも、あの、《すきやばし 次郎》の三万円の寿司なんて、言わないでね」
とまじめに言ってるアーさんが、かわいい。
 連れて行っていただいたのは、銀座のアーさんのオフィス近くのうどん屋さん。きつねうどんを注文した。

「ええ?エンドーさん。日本で最後の日なのに、そんな安上がりなものでいいんですか?」
「てんぷらうどんとか、肉うどんは、自分でも作れるけど、この厚揚げがねえ〜」
「本当にいいんですかあ〜」
「よすぎますう〜〜」

アーさんも、かなりリラックスしている。今日は時速8キロで歩かずともよいのだろうか?できればわたしは、さっさと食べて、ホテルでひと風呂浴びて、武蔵境に行きたいんですけどお。
「外国暮らしの長い女性って、ちょっと威張ってて、きつくて、なんか、つきあいきれないんですよねえ」
ががーん。いきなりそんなことを言うなんて、ショック。
「一緒に仕事してても、主張が多くてねえ。やりにくいったらありゃあしない。」
ズッキーン。
「でも、エンドーさんは、さっき鹿児島から出て来たって感じですよね」
ええ〜、それって、なにい?褒め言葉あ?

と、いうわけで、アーさんはニコニコ、品川のホテルまで送ってくださった。一緒にロブションさんのレストランに行った奥さまから、子どもたちへとお土産もいただいた。感謝感謝だ。
ああ、仕事が終わった。長かった。夢のようだ。ドロドロだ。本当に武蔵境くんだりまで行けるんだろうか。

ホテルのロビーに入ると、まず「お名前は?」と訊かれる。
「遠藤みのりです」
「そのような名前でのご予約はありません」
「ええと、、、じゃ予約してくれたフミナカ・ミチヨかな?」
「ありません」
「DANIEL MINORI?」
「いいえ。。。」
わたしはだれ?ここはどこ?
「ミノリ・ダニエル さま?で、しょーか?」
気が利かんなあ〜。やっぱ帝国ホテルとは違うなあ。。。
 マダム・エンドーにとっては、ビジネスホテルは一気に格下げ感が出た。うれしはずかしバック・トゥー・ザ・庶民だ。ロビー横にあるのは格式のあるラウンジではなく、自動販売機のあるパイプ椅子の待合所だった。ま、いっか。夢にまで見たカルピスでも飲もう。
 4時にならなければ部屋に入れないそうなので、あと1時間待たねばならない。あと1時間ショッピングに出歩けるはずだったけど、もうそんな力は残っていない。アーさんとオフィスのマーさんが「お土産なら浅草で」「合羽橋のお道具屋は面白いですよ」と親切に行き方も教えてくれたのになあ。武蔵境には5時半のお約束。遅れるなあ。

 最終日の午後は、非常に長かったので、この続きは明日書く。
日がどっちから昇るやら、もうさっぱりわからん。
早く、誰か、知ってる顔に会いたい。。。。

2007/09/23

9月6日 嵐のような一日

 嵐になりそう。台風来てるんだから、当然だけど。
テレビでは小笠原諸島の被害がひっきりなしに報道されている。朝から雨がじゃんじゃん降っている。
「お願いですから」とお願いし、ホテル9時半出発のところ10時にしてもらっていた。
でも、疲れきっているミーさんがあまりにも気の毒だったので、9時まで起こさなかった。
荒れ狂う皇居の森を、びくともしない国会議事堂を眺めながら、だまーって朝食をとった。本日は電車で横浜に行かなければならない。
 10時10分にロビーに降りていくと、3秒おきに腕を持ち上げて、時計を見る貿易会社の社長さんが、靴を鳴らしていらついているのが見えた。10分の遅刻。

(中略)

横浜シェラトンまで鉄板焼を食べに行った。港の素晴らしい眺め。
「ほら、台風がそこまで」などと言って笑った。(まだ余裕)

 大急ぎで食事して、電車で都内にUターン、10分ぐらい某百貨店内を通過した。ミーさんのフランスのアトリエで修行をしていたパティシエがお店を出していて、ミーさんは大喜びだった。彼には修行中に、アルビでお会いしたことがある。まじめな方だったのをよく覚えている。その時に一緒に修行していた二人の日本人も、立派になっているのだろうか?

(中略)

 きゅうきょ予定を繰り上げて、16時に訪問予定だった京橋の《イデミ・スギノ》さんのお店に向かわせていただくことになった。
 スギノさんは世界チャンピオンにもなったことのあるケーキ屋さんで、数年前にテレビに「出てしまって」からというもの、午前中の開店と同時に、お店じゅうのケーキが売れてしまい、一日中「陳列棚に何もない」お店になってしまった。
 ケーキ屋さんの横にある喫茶室では、「店内写真お断り」などと張り紙もあるのに、若い女性がいっぱいの店内では、美しいケーキの姿を平気で写真に撮っている。おしゃれだから、トレンドだから、話の種に来ているという感じもある。滅多に姿を現さないスギノさんが、ミーさんのためにキープしておいてくれた、全種類のケーキがプレートに載せられて運ばれて来た時、店内は騒然となった。多分「全種類が並んでいるプレート」を見ることのできるお客さんというのは、開店前に並んで一番に入るお客さんぐらいなのだ。お店では一人のお客さんに売ることのできる数を制限をしていて、できるだけ多くの人に味わってもらいたいと考えているけれども、大量生産だけは避けたいのだというスギノさんの思いは一貫していて、一日に350個しか作られない。

 スギノさんは、わたしにも「どうぞ、食べてみてください」とプレートを差し出してくださった。
わたしは、シンプルなレモン・タルトと、チョコレートケーキを選んだ。
 スギノさんがにっこり笑って「そのチョコレートケーキで、わたしは世界チャンピオンになったんですよ」とおっしゃった。
 そのチョコレートの外見は、実は、わたしの誕生日に、ミーさんがプレゼントしてくださった、三種類のチョコレートのケーキとそっくりだった。この外見のケーキはほかのお店でも見かけたので、《モンブラン》とか《オペラ》とか特別な名前を持ったケーキの部類なのだろうと思う。誰でも作るケーキだからこそ、誰にもまねのできない味を出さなければならない、基本で素朴なケーキだ。
 レモン・タルトは、レモンクリームとタルトの間に、特殊な《加工》があって、タルト生地が湿っぽくなかった。わたしがそれをいうと、スギノさんは大満足だった。いままでにもレモンタルトは自分で作ったり、買って食べたりしたことが何度もあるが、クリームが乗っている面が、かりっとしているタルトに出会ったことは、いまだかつてなかったのではないかと思う。そんなこと考えたこともなかった。クリームが乗っているんだから、その面が湿っぽくて当然だと思っていた。でも、かりっとしたままだと、そのタルト生地の香ばしさが残って、クリームのすっぱい感じとぴったり波長が合う。
 わたしは、フランスに帰ってきてから、カリッとして湿っぽくならないタルトの面の作り方を、ミーさんに指導してもらった。

 チョコレートケーキは、もう、わたしの形容詞と表現力では、表すことのできないおいしさだった。種類の違ういくつかのチョコレートの、それぞれの味がはっきり表現されているのに、それが食べながら、お口の中で混ざり合って行く、そのタイミングと調和が素晴らしい。声が出ない。チョコレートがのどの奥にひっかったりしない。甘すぎたり苦すぎるチョコレートは、喉が渇く。のど元がいたくなることもある。数多く口に入れることができない。でも、スギノさんのチョコレートケーキは軽くて、いくつでも食べられそうだ。
 ミーさんは、グレープフルーツ味の軽いケーキだった。わたしはチョコレートを食べたあとだったので、フルーツ味のケーキは遠慮した。もう味が感じられないから。ミーさんは、ちゃっかりわたしのチョコレートケーキも横取りして食べた。
 スギノさんのアトリエも見学した。これまで日本で見たどんなアトリエよりも、広く清潔だった。これからもっともっとおいしいケーキが作られる、期待のアトリエだ。
 スギノさんのお店に行列を作る人たちが、雨の日も風の日もこんなにおいしいケーキのためなら、遠くからやって来る気持ちもわかる。でも、どうぞ、味わって、大切に食べてほしいなあと思った。

 ちょっと時間に余裕ができた。前を歩いていたアーさんがわたしとミーさんを振り返り、「さて、時速4キロぐらいに落としましょうか」と笑った。ミーさん待望の《浅草》にやって来た。ミーさんは26人の従業員さんと、娘さんと奥さんへのお土産を買いたい、買いたいと言い続けていたのだ。到着してから2日間、銀行にも連れて行ってもらうことができず、日本円を持っていなかったので、絵はがきや、キティーちゃんのTシャツや、切手を買う時に、
「マダム・エンドー。すまないがお金を借りてもいいかね?」と恥ずかしそうに言っていた。
 大金持ちのミーさんに、わたしが高利貸しできるとは、大歓迎だ。ここでいっちょ恩をきせておこう(?)とおもって、わたしは行く先々でミーさんのために小銭を出してあげていた。5000円のワインも代わりに買ってあげたんだから。
 「このご恩は一生分のチョコレートで」 ミーさん、そろそろわたしの喜ばせ方がわかってきたね。よしよし
 
 おとといお金を両替したミーさんは、わたしにたっぷり利子を付けて返済し、ついでに昨日行った料理の道具屋さんで、桜餅を作るための道明寺粉と、梅の形のゼリー形と、卵豆腐の型の支払いを代わってやってくれた。わたしにプレゼントするのがすごく得意そうだった。お金を借りるのが、そんなに恥ずかしいことだったのだろうか?太っ腹になったミーさんは、最終日になっていよいよお土産も買いたくなったのだ。

 浅草の雷門で、記念撮影でもするのかと思ったら、雨が降っていたので、走るしかなかった。
「ここには来たことがあるから、写真は要らない」と言っている。
エーでもお〜わたしは始めてなんですけどオ。。。
「マダム・エンドーは、仕事で来てるんだから。ほら、アーさんが行ってしまう」

 台風が近づいて、店じまいを始めている。看板やシートや、風鈴やいろんな物がバタバタ音を立て、ときどき何かが落ちたり壊れたりしている盛大な音もする。お土産なんか買ってる場合か??
 アーさんは《一番》とか《武士道》と書かれている、いかにもガイジンが好きそうなTシャツを大量に買い、浮世絵の版画と、七福神の中から《健康》と《成功》を司る2体だけ買った。(そんなことができるのは外人しか居ない)そのスキにわたしはネクトゥーさんに頼まれていた甚平と、子どもたちが大好きなコンペイ糖を買った。JPにはもっといいものをプレゼントしたいので、《いかにもガイジン》って感じのTシャツだけはごめんなのだ。

 台風接近の雰囲気に呑まれ、足取りも早くなる。いったんタクシーでホテルに戻り、荷物を置いて、百貨店代表お二人と会食する予定の丸の内ホテル内《てんぷら 大島》へと向かった。タクシーを降りるとホテルの入り口まで濡れながら走った。

 目の前で揚げられるてんぷら、時間を掛けて端正に彫られたニンジンやキュウリで作られた松竹梅と鶴と亀。実に感動的な夜だった。百貨店代表のお二人は、その夜電車で帰らなければならなかったので、ちょっと不安だった。

 ずいぶん遅くなってしまった。でも、《てんぷら》のあとに予定されていた、《バー》行きが中止になったので、予定よりも早く、ホテルに着いた。助かった。。。

 ミーさんは「最後の夜だから、乾杯をしよう」といい、ホテルのラウンジでわたしにシャンペンをごちそうしてくれた。ミーさんは、大好きな葉巻をふかす。そしてわたしたちは、仕事の反省と、これからいっしょに仕事をすることになる、日本人のビジネスマンたちについて話し合い、契約のことや書類の事について話した。わたしは意見や感想や、印象を求められ、ミーさんはすべてについて黙ってうなづいた。
 そして、仕事が終わる最後の夜に、やっと家族のことを質問された。ミーさんは娘さんや奥さまのことを話してくれて、わたしの子どもたちやJPのことを尋ねた。仕事は仕事、と分けている人だから、仕事中に個人的なことを訊いてはいけないと思ったのだそうだ。もちろんわたしも仕事中には家のことは話さず、忘れたふりをし、思い出さないようにし、感情的にならないようにがんばっていたのだが、ミーさんも同じだったのだろう。

 「これから荷造りだ」
 「でも、ミーさん。明日の朝、飛行機出ないかも」
 「またか、おまえさんのウソは信じないよ」

 台風は夜中の2時頃東京に上陸の予定だ。



 
 

2007/09/22

9月5日 食べ歩き

 ミーさんは、朝起きるのがつらそうだ。夜中に目が覚めるので、睡眠薬まで飲んでいるらしい。かわいそうに。
わたしもつらいけど、ホテルに泊まっているというシチュエーションも、時間刻みで予定表が決まっているという生活も《別世界》過ぎて、もうわたしは《キャリアウーマン》化しているのであるのである。化粧もいちおうせねば、だし、台風が気になって仕方がないので、ちゃんと早起きをしてテレビをガンガンに掛けて、目はギンギンだ。
 お仕事でご一緒していただいている、ヨーロッパ・チョコレート担当のムーさんも、毎朝わたしの寝坊を心配して、電話をかけてきてくださるので、寝とぼけてはいられない。

 ムーさんにも「台風、来ますよ」と言われる。テレビの天気図から見ると、まあ、避けられない東京直撃コースらしい。数年前に東京を襲った台風の、大被害のもっともひどい映像ばかりが報道され、視聴者の緊張感が高まる。テレビって、どうしてこう人を怖がらせるような映像しか送れないんだろう。ミーさんが見てなきゃいいなあ。。。と思った。

 「台風、来ますよ」とミーさんをビビらせる魂胆で言ってみた。(イケズだなあ)
 わたしの意地悪な視線をちらっと見て、窓の外に目を向けるミーさんは、ホテルのレストランからよく見える皇居の森を指差して、「風も全然強くないし、雨も降ってないし、それはまた、おまえさんのウソにきまってる」と言う。台風のない国から来る人は、かなりクールだねえ。わたしのウソってなに?
 「でも、ものすごい風で、恐ろしい被害が出るんですよ。台風は怖いんですよ。まっすぐこっちに向かっているんですよ。」
わたしもけっこう意地悪だ。
 ミーさんはフンと鼻を鳴らして、寝起きは悪いくせに、朝食をがばがば食べながら、国会議事堂の固そうな建物を指差す。
「まあ、あれは動かんだろう。アメリカから爆弾をぶっ込まれても大丈夫そうだな」

 お迎えのアーさんは10時ぴったりに、車づけに待っていた。
「アーさんは、まじめだなあ。今日はもっとスローペースで行こうって、言ってくれないか」
でも、本日のアーさんの予定表がビッチリつまっていることを承知しているわたしは、そんなことは通訳できなかった。
「ミーさん、とっても疲れていらっしゃいます。朝寝坊して大変だったんです」
控えめな日本人女性を通訳に雇うから、こういうことになるのだ。ごめんね。

10時ーホテル 出発
10時半ー都内某百貨店 視察。
銀座に立ち寄る。(中略)
12時ー荻窪の「ル・クール・ピュール」訪問。(中略)ランチ。
14時半ー自由が丘(中略)の「オリジンカカオ」
さらに某人気ケーキ店訪問。ここは寄るだけのつもりだったのに、ミーさんがチョコレートをたくさん買って味見したいと言いだしたので、チョコレート選びが始まった。その間に、店員さんが店長さんを呼びに行ってしまい(?)フランス語がペラペラなシェフ登場。ミーさんと共通のフランス人の友だちの話題で花が咲く。シェフがぜひアトリエを見ていただきたいというので、アーさんが「予定が狂うんですけど。。。」と言っているのに、ミーさんは「いいじゃないの」と言っている。わたしに「アーさんが困ってるよ。ひひひ」とささやく。おもしろがってるね、このお人は。百貨店の視察よりも、個人のチョコレートのアトリエの方に興味をそそられるのも当然のこと。ここで暗くなるまで過ごした。
 雨が降り出した。ホテルで傘を借りておいてよかった。
 青山。表参道周辺。アーさんが《時速9キロ》で颯爽と歩く。わたしとミーさんは、フランス語で文句を言いながら、後ろから追いかけた。
ミーさん「ちょっとアーさんに、ひとこと言ってくれないか」
わたし「アーさんに追いつけたらね」

 夕方、ミーさんの個人的なお友だちの「どうしても」とのお誘いで、某寿司屋で、アペリティフ代わりにお寿司を食べることになった。わたしは外されて、三十分だけ本屋さんに走ることを許された。

(以下都合により本文抹消)

 その高級フランス料理店には、外国人と一緒に来ている日本人女性も何人かいて、ワインを飲む仕草がパリジャンヌみたいでカッコ良かった。

 よく考えたら、わたしだっていつも外国人と食事している日本人女性だけど、なんでこんなに違うんだろう?
JPは、日本人男性化している。しかも、薩摩隼人化していて、けっこうマッチョだ。普通のフランス人男性のように甘い言葉も知らないし、優しい仕草もできないし、ワインのことを教えようとか、気取ったフランス料理店に連れて行こうとか、そういうところが、ない。ラーメンだって音を立てて食べれるし。
 ミーさんに言うと「それはアンタが悪い。ワインを飲まんじゃないか」と言われた。
 「オトコは晩酌につきあってくれる、楽しいオンナが好きなのだ。」
あら、そうざんすか。

 行く先々で、わたしはミーさんに、グラスの持ち方やら、フォークの使い方を習った。ワインの入ったグラスをどんなふうに回すのか、などなど。数日後、フランスでミーさんに再会した時に「まだまだ修行が足りんな」と言われたので、JPに「いいオンナになる練習のため、ミーさんのひとつ星レストランに連れてって〜〜」とお願いしている。(ちょっと違うような?)ミーさんは、何百種類ものワインが常備されている蔵のある、素敵なレストランの経営者でもあるのだ。

 この高級レストランでも、至れり尽くせりのサービスを受けた。フランス語をちゃんと話せるボーイさんとガールさんがいっぱいいて、ワインのことを訊いてもちゃんと答えられた。この日は日本人のスー・シェフの料理だった。わたしは、フォアグラの乗ったリゾットを注文した。
 「マダム・エンドー、それって、お昼にも食べたでしょ?」
ミーさんはさすがによくわかっていらっしゃる。
「はい、お昼にもしっかり食べました。でも、味を食べ較べたいので。」
ミーさんは、あきれた顔をした。実は、チョコレートやケーキの試食でも、わたしはいつも同じものを食べている。一番シンプルで、誰でも作っているものを較べたら、シェフの違いもわかると思っているから。もちろん、誰も作ってないものを作っている人(というのは少ない。みんな似ている)のチョコレートは、かならず味わってみることにしている。そのことをミーさんは気づいていらして、よく感想を訊かれた。わたしの食べているものを横からつついたり、よく、自分と同じものをわたしに食べさせて、日本人としての意見と、フランス人としての意見を訊かれた。「マダム・エンドーは半分フランス人だからな」と言われた。
 
 ミーさんは、自分のチョコレートに確固とした自信を持っている。フランスでフランス人に愛されていることも自覚している。でも、それを日本でもちゃんと売っていけるかどうかは、いくら貿易会社の人が「売りますよ。売れるに決まっていますよ」と言っても、自分のなにが日本人にも受け入れられるのか、わからないと言う。できるだけ多くのチョコレートを売って、大量生産に繋げて、日本で一旗揚げようとは思っていないのだ。数は少なくても、一生つきあってくれるお客さんを求めているのだ。わたしはそういう姿勢に共感をしているので、この仕事が来るずっと前から数年来のファンとして、ミーさんに協力したいと思っているのだ。
 ミーさんのチョコレートが大量生産になって、質が落ちたら、わたしは彼を軽蔑してしまうだろうし、彼は名前が知られる代わりに、悪い評判が広がることなんか望んではいない。
 ミーさんがチョコレートを作る人でよかった。だからこそ、日本での仕事はとっても楽しい。ワインだったら、わたしは意見を言えないし、試飲もそんなにできないし、つまらなかったと思う。

 レストランでは、とっても楽しく過ごした。
「お昼のリゾットのお米は柔らかく、とろけるようだったけど、こちらのお米は固いんですね。でも、こちらの方がおいしんですけど?」とミーさんに言ったら、満足そうにうなずいて「合格だ」と言われた。リゾットのお米は、おかゆのようにどろどろではいけないのだそうだ。
 わたしは、ミーさんがフランス人のお友だちとしゃべっている間に、キッチンで立ち働いていた日本人のシェフに、リゾットがとってもおいしかったお礼を言った。ついでに、リゾットの上に乗っていた、とろけるようなフォアグラの焼き具合について質問した。
 シェフは親切に教えてくれたけど、秘密。。。むふふ。。。

確実に、絶対に、台風が来そうだ。
でもミーさんは「アンタはうそつきだ。わたしを怖がらせようと思って。」と言っている。
百聞は一見にしかず。明日のミーさんの反応が、楽しみイ〜〜。(イケズだなあ)

なか休み




拝啓、皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 東京での、ハードなお仕事報告書は、まだまだ続きます。

が、ちょっとここで一休み〜〜。

新学期、大きい組さんになった、ゾエがとっても素晴らしい絵を描いたので、ご覧くださいまし。

プリンセスとユニコーンの絵です。
ユニコーンは、自分のお人形がモデルで、隅々までよく観察し時間を掛けて描きました。
右上に、9月に入ってから幼稚園で習っているとおぼしき《筆記体》が書かれています。
右下には、ノエミに習った《壊れたハート》の絵もあります。
大好きなエリオットが飛び級して、彼は今年から小学1年生のクラスに行ってしまいました。
それで、ハートがずたずたなゾエちゃんであります。

ノエミは中学生になったとたん、カバンが9キロぐらいあって、しかも、徒歩1分の小学校とは違い、中学まで20分以上歩かねばなりません。身体も小さく体重も30キロ弱です。わたし自身よく「カバンが歩いてる」とか「傘に脚が生えてる」とか言われたものですが、あんなに大好きだった乗馬も「行く気力がない」というほどで、ちょっと心配です。

ヴァイオリンは今年も続けています。音楽は癒されますね。わたしもフルートを始めました。
一緒にデュオができたらいいな〜〜

 先週の週末から今週にかけて、学校の会議や返事するメールや、もちろんたまりにたまった家事もたくさんあって、このわたしもついにへばっております。もっと睡眠時間を増やさねばなりません。
朝7-8度の日が続き、昼間はさわやかで過ごしやすくなりました。

 読書の秋、食欲の秋です。そして、みのりの秋〜〜〜。

それでは、また〜〜

                    みのり

2007/09/19

9月4日 A Tokyo

9時45分ーチェックアウト 本日も大変早起きをした。夜中に翻訳をやっていたので、ほとんど寝ていない。
10時10分ー名古屋発の「のぞみ124号」にて、一路東京へ。
途中、車掌さんに「富士山はいつごろですか」と尋ねると細かい数字を教えてくれた(11時8分頃とか、そんな具合にかなり正確)。でも曇っているから見えないかもね、と言われた。

 わたしは富士山を見たことがない。もう何度も何度もその麓を新幹線で通り抜け、飛行機で上空を飛んでいるのに、いつもいつも雨か曇りだ。ミーさんはカメラを構えて待っている。
 富士山はいきなり現れた。雲がかかって見えなかったのに、ちょうど一番近くを通る時に、雲がさっと晴れて、上の方まで見えた。なんだかとっても大きな壁が、どこまでもどこまでも続いているという感じ。麓には建物が多いんだなあ。富士さんのイメージがちょっと崩れた。「ああ、近くで見るんじゃなかったよ」とひとりごちた。遠くから見てこそ、美しかったのかあ〜。

11時53分には東京駅に到着。
ホテルにチェックインして、お昼はイタリアンだった。
 フランスでもイタリアンはよく食べる。スパゲティーと言えば、赤と白のテーブルクロスを敷いたぐらつくテラスのテーブルで、隣の人に肘が当たらないように小さくなって食べるものという印象だ。そうして、汚い前掛け(エプロンともいう)をした、イタリア人みたいにおしゃべりなお兄ちゃんが、お皿を掲げて身体をくねらせながら、テーブルの隙間をすり抜けて歩き回る、というようなイメージ。
 こーんな窓もない「高級レストラン」風のイタリアンははじめてだった。しかも、スパゲティーを食べるのに、スプーンがないので、とっても食べにくかった。うちではスパゲティーはスプーンとフォークで食べるので。ミーさんにそのことを言ったら、「イタリアから遠いんだから、そんなこと言っちゃいけない」と言われた。わたしたちはたまに、二人でこそこそ、日本人の陰口を叩いた。

 ミーさんはタクシーに乗るたびに、カーナビ完備で、バックもらくちんな車内にて「日本ではだれでもタクシー運転手になれるな」とか「白手袋に帽子とは、行儀がいいな」とか、いちいちコメントをつけていた。
 あるとき、道路脇に止まっていた休憩中のタクシーに「乗せてください」と頼んだ。運転手さんはタバコを吸っている最中だったのだが、嫌な顔をせずに姿勢を正して、いきなり走り出した。「あれ?どこ行くの?」と見ていたら、200メートル先の自動販売機の所まで、タバコの吸い殻を捨てに行った。その辺の植木の足元や歩道に、投げ捨てるなんてことはしないらしい。ミーさんはもちろん感激して、またも大爆笑だった。(じつはわたしも驚いた)

 ランチのあと、午後は東京都内を走り回り、菓子店(フランス人の有名ケーキ屋さんとかMeijiのチョコレートバーなどなどなど)を視察、挨拶して回った。わたしとミーさんは「ここはどこ?わたしは誰?」と言いながら(本当に)、案内してくれる関係者、カバンを持って前を小走りにしている人(一体だれ?)、近道だとか言って地下駐車場をつきって行く別な人、なにがなんだかわからないまま、小走りで追いかけた。

 貿易会社側の人たちも、場所と時間の関係で菓子小売店視察組と、百貨店挨拶組に別れて、時差攻撃でわたしたちをさらいに来る。歩行時速約8キロだよと言われた。駅でわたしたちは引き渡されたり、引き取られたりした。タクシーで行くと、行った先で人が待っている。

 夜は銀座の某フランス料理店でお食事。「このような接待の会食では、通訳は食べる暇がないと思いますヨ。」と言われていたのに、いやあ〜、申し訳ないけど、わたしゃ食べましたぜ。
 このレストランは40席しかないのに、ボーイさんが45人もいて、至れり尽くせり。マリオットホテルのボーイさんのように、小さなことまでよく見ていて、立ち上がろうとすると、さっと椅子が引かれ、ナプキンを落とすと拾われ、代わりに新しいものがもう届けられている。プロだねえ。
 きっとわたしのフォークの使い方や、グラスの握り方まで見られているに違いない。おお恥。

 お仕事の会食とはいえ、百貨店の方々はワインや、フランス食文化に詳しく、ミーさんと楽しい会話がはずんだ。ここのフランス人シェフとミーさんはお知り合いだったので、シェフもテーブルにやって来ておしゃべりが弾んだ。シェフのブルーノ・メナールさんは、お酢の開発もしていて、とても興味深いお話が聴けた。料理は素晴らしかった。サービス係の中にはフランス語がペラペラな人や、もちろんフランス人もいて、その人たちもテーブルにやって来る。一人はカーモーのご近所出身だった。

 いちおう予定表には「22時ホテルに帰る」と記録されていたが、もっと遅くなっていたと思う。
ホテルのテレビで、台風が接近しているというニュースをやっていた。わたしの部屋は二方を壁に囲まれていて、風が吹いているのか、空はどうなのか、よくわからなかった。窓から見える視界に、風に吹かれそうな木々はない。

 わたしの持ち物を心配した東京都内の友だちが、シックなワンピースと、手提げのカゴなどをホテルあてに送ってくれていた。みんなわたしがいつも汚い格好をしているのをよく知っているので、ジーンズで仕事してるんじゃないかと心配してくれているのだ。鹿児島で買ったヒールが少々高くなっている靴を、もうずっと履いている。骨折と捻挫で痛めたことのある左足首は、すっかり腫れている。でも、夜はどんなに遅くても、ゆっくりオフロに入ってマッサージをしている。
 毎日夜が遅くて、頭はぼーっとしている。疲れすぎて寝付きが悪い。朝は疲れきっているのに、遅刻が怖いので、がばっと起き上がる。目覚ましが鳴る何時間も前に目が覚めて、「まだか。まだか」と寝たり起きたりしながら、時間が来るのを待つこともある。そして約束の時間よりもずいぶん前に起き上がって、部屋の中を動き回っている。

 明日は一日中時速9キロで歩きますよ、と言われているので、歩きやすい靴を履こうかなあ。
 

9月3日 Nagoya illumination



        自分で撮った写真がないので、絵はがきの写真を拝借

 7時半ごろ起床。8時半にミーさんを起こす約束になっている。電話をすると「つらい。起きられない」と言っている。でも9時半にはホテルに迎えが来てしまう。二人で向かい合って朝食を食べながら、今日はどんなことをするのか話し合った。夕べ、予定表を全部フランス語に訳したので、それをお渡しする。

 10時半からお昼まで商談。

 (昼食の場所に着いては秘密のため、本文から抹消)

 午後、名古屋市内見学。名古屋城へ。
 お昼に料亭でゆっくり食べすぎたので、名古屋城へは入場できず、お堀を散策した。大きな錦鯉がたくさん泳いでいた。「錦鯉はとっても高価なのよ」と話したら、「でも、さっと釣って簡単に盗めるじゃないか」と言う。「でも、釣りをしてる人、いないね」と話していたら、
ちょっと先に「お堀で釣りをしないでください」の標識が立っていて、ミーさんはバカうけしていた。
「日本人は標識をよく守るんだねえ」写真まで撮っていた。

 (中略)

 名古屋最後の日なので、お土産と絵はがきを買いたいと盛んに言っているミーさんを連れて、百貨店内をひとまわりした。(中略) ミーさんはお嬢さんのために、ハローキティーのシャツや動物の形をしたペンケースを買った。案内してくださった貿易会社のスーさんは、金のしゃちにまたがっている、名古屋限定キティーちゃんのキーホルダーをプレゼントしていた。(わたしも買った)

 夜、貿易会社のみなさんと、ホテルオークラの《桃花林》にて本格中華。
ミーさん、いきなり出た《クラゲ》にビビっていたが、名古屋の夜景を見下ろすレストランで、これでもかこれでもかと登場する、おいしい料理に舌鼓。とっても楽しい夕食だった。

 夜中、急ぎの翻訳の仕事をしなくてはならず、2時間ぐらいしか眠ることができなかった。
そういえば、わたしは仕事で来ているのだった。。。とほほ

2007/09/18

Nagoya Chateau et Hotel



J'ai dormi dans une chambre de cet hotel , a 21 eme etage.
Chateau de Nagoya, sa fierte est ses poissoins en or massif sur le toit.

ホテルでもらった絵はがきです。
合成写真のようでもあったり、なかったり?

Nagoya ville et chateau



Nagoya a ete tout brule pendant la guerre.
On a refait la ville entiere, le chateau a ete reconstruit dans un grand espace vert.
La ville possede de plusieurs grands boulevards, les batiments sont bien ranges.
Mon client Monsieur M etait surpris de voir les autoroutes qui sont en deux etages et sureleves qui traversent Nagoya.

9月2日

7時半ーホテル出発
8時半ーセントレア空港集合
8時55分ーフランス人の職人ミーさん、セントレアにご到着 なかなか出て来ないので心配した
10時から11時ー移動 ホテルへ
11時半ーホテルにチェックイン。ロビー横ラウンジでアイスコーヒーなど飲んでくつろぐ。
お昼は日本酒の飲み比べをしながら、お寿司。

(午後の模様は中略)

 ミーさんはタフだ。「ちょっとホテルでお休みしませんか?」と言っても、このまま夜まで歩き回ると言って聞かない。
フランスと日本の時差は七時間。お昼に到着すると、午後は大変辛い思いをしなければならない。お宅を出てから丸一日、眠らないことになる。でも、ここで負けてしまうと、5日間の滞在中に、時差ぼけのまま、何もできなくなってしまうので、がんばってもらわなければならない。

 ミーさんは東京には何度も来たことがあるが、名古屋ははじめて。海に浮かぶセントレア空港から自然がいっぱい見える高速道路を走って、名古屋に来るあいだ、建物や風景や外車の多さに驚いていた。

 日本の百貨店は面白い。わたしたちは食品売り場を歩き回った。お寿司屋さんで「なんだ?」と訊かれたレンコンが、生で売られていたので、ミーさんは写真を撮っていた。洋菓子が専門の人だが、和菓子の美しさにも素直に感動していた。会長さんのお宅で出していただいた季節の和菓子を喜んで食べていた。職人さんらしく、4種類のどれも食べてみたいというので、みんなで切り分けて、意見交換をしながら味わった。
 一緒にお仕事をするアーさんが、「日本酒にもいろいろあるんですよ」と言って、格の違う三種類を飲ませていた。ミーさんはさすが、安いのはおいしくないと言い当てた。お寿司屋さんではフランスでは見たこともない魚がでたので、お魚辞典を持って来てもらってみんなで眺めた。包丁の使い方や、ごはんの握り方に、目が離せないようだ。

 (中略)

 さあ、いよいよ本格的なお仕事は明日から。

 ミーさんは、45階のお部屋。なんだかそわそわしているみたいだ。
フランスではとても忙しい人で、一日中電話が鳴りっ放し。走り回っていて、会おうと思ってもなかなか会えない。日本に来てやっとゆっくりお話ができた。ダニエル一家の数年来のあこがれ職人さんと、この数日間一緒に過ごせるかと思うと、わたしもわくわくしていた。どこに行っても食品や料理、ワインの話をしている。これから数日間、じつに楽しみ。

彦根城 



Chateau de Hikone au bord du lac Biwa au centre du Japon.
Cette fois-ci, je n'ai pas eu le temps de visiter. La photo a ete prise il y a trois ans lors de voyage en famille.
Noemie avait 7 ans.

9月1日 


          民家のお庭で見た 彦根城の模型

 マンション11階のテラスに出ると、ラジオ体操のメロディーが聴こえてきた。
思わず腕が動き、両腕を大きく広げて深呼吸をはじめながら、「ああ、我も日本人なり、身体は覚えていたんだねえ〜」と深い感動に包まれた。でも、《ラジオ体操第一》の最後まで覚えていなかった。ショック。
 
 《ラジオ体操第二》が始まる前に、携帯にメッセージがどっさり入っていることに気づく。すっかり忘れていたけど、今晩から仕事。そのために日本に帰ってきたのだった。

 朝から姉と姪と三人で彦根市内を歩き回った。お土産屋さんは、昨日駅からマンションに戻って来る前にすませた。今日は本屋さん。
欲しい本はいっぱいある。読んでみたい本もいっぱいある。でも本は重い。料理関連の本と日本語関連の本をたくさん見つけた。JPと子どもたちが好きな、科学の本やふろくつきの雑誌も。わたしは友だちに紹介されていた『太閤の手紙』という文庫を買った。
 
 そのあと、おもちゃ屋さんを一周し、雑貨屋さんを一周し、母と同じく「仕事はちゃんとした服で」などと心配する姉に連れられて、また洋服屋さんにも行った。お昼は念願のお好み焼き屋さんへ。

 新幹線の時間まで、ちょっと昼寝をした。爆睡したら、気分が良くなった。

 姉と二人の姪が駅まで送ってくれた。別れはやっぱり辛い。子どもたちもずいぶん大きくなって、姉を助けてくれているが、この姉こそ、実家から遠い所で、若い時から一人でがんばってきたのだ。苦労をしていると思う。わたしも《遠い所》に住んではいるけれど、《言葉がわからない》とか《習慣が違う》などと、外国人であることを武器にして、すっとぼけていればすむこともある。フランス人と対等に仕事をしているわけではない。日本語を習いに来る人たちや、剣道を一緒にやっている人たちはみんな親日家で、日本人女性には甘く優しい。わたしはどこに行っても可愛がられている。
 でも姉は、看護婦という難しい仕事をしていて、風習がちょっと違う実家からは遠い町で、日本人としての厳しい習慣はあり、なまりは違っても言葉は共通な場所で、《よそから来た人》として苦労したはずだ。仕事をしながら子どももしっかり育てている。二人とも健康で健全で、お母さん思いのとってもいい子たちだ。偉いなあ。

 さて、名古屋。
 再び、名古屋駅からマリオットホテルの15階ロビーに上がる。ガールさんとボーイさんが、わたしの荷物めがけてすっ飛んで来る。ロビーでは、この上もない優美な敬語でご挨拶され、21階のお部屋まで荷物は届けられた。
 この、ホテルに着いてから、夜の約束の場所まで、一体なにをしたのか、すっかり記憶がない。
多分荷物を開いて、お風呂に入って、化粧をして、2階の車寄せホールまで降りたのではないかと思う。

 車寄せで、これから数日間一緒にお仕事させていただく、アさんとムさんに再会。お二方とは春にもアルビでお会いしている。名古屋人で、わたしの雇い主であるスさんの車に乗り、名古屋の夜へ出発〜〜。
 いきなり会議かと思って緊張していたら、《名古屋で一番おいしい焼き鳥の店》に連れて行かれた。いやあ〜おいしかった。
食事のあと場所をかえて、ホテルの喫茶室みたいな所で、夜の9時頃から仕事の打ち合わせを行った。スケジュールがびっしり。「遠藤さんの力量が出る部分」や「これは偉い人」などに印もついていて、ドキドキ。
わたしの力量ですかあ?もう消費しきりましたケド。。。
 途中携帯が鳴ったけれども、ブチッと切った。

 ホテルに帰り、先ほどの電話に返事を出す。名古屋版同窓会メンバーは、6時半からすでに飲み会を始めていて、わたしが合流するのを待ち構えていた。「会議は1時間ほど」とのことだったので、すぐに合流するつもりだったのに、焼き鳥屋と喫茶店のはしご、けっこうまじめな会議にて遅くなってしまった。みんなはホテルのわたしの部屋まで会いに来てくれると言う。ヒロタンなどは「最終に乗れるかな?」と言っている。一人は泊まるので大丈夫。もう一人は自動車で来ているので、帰る。
 ちょっとしゃべって、写真を撮って、「帰る」組が帰った。あっという間だった。
一日も、あっという間だった。

 21階から見下ろす夜景にドキドキしながら、明日の朝ちゃんと起きられるように目覚ましを掛けた。

 日はどっちから昇るんだろう?朝日の方向がわからないというのはやけに不安だ。

 

2007/09/17

8月31日



人生は水もの?《水物》までたどり着けず、心残りに終わった 綴り箱弁当。ううう

L'aeroport international de nagoya est sur une ile. Avec le train rapide, j'arrive au centre de Nagoya. La gare, un grand magasin et un hotel sont sur le meme batiment, j'ai pris deux randez-vous dans cet hotel.
Prendre Shinkansen-TGV japonais-pour aller chez ma soeur a Hikone.
Le soir , j'ai fait du kendo avec ma niece, aller au bain publique, manger dans un restaurant de Sushi tornant.

Le travail commence demain, mais je suis deja bien epuisee, je ne veux plus bouger.

 午前9時頃名古屋に向かう飛行機に乗るには、指宿を7時には出なければならない。
従兄二人が、母も一緒に空港に連れて行ってくれると申し出てくれた。空港でお茶して、従兄のお嫁さんがお土産を買いに走り、あっという間に時間が来てしまった。飛行機の中から、お見送り団の4人が、写真を撮ったり手を振ったりしている姿が見えていた。わたしも手を振っていたのだが、見えていたのかな?

 名古屋には11時頃到着したが、12時半には、仕事のために、名古屋市内で人に会うことになっている。とても忙しい方で、会う約束をやっと取り付けることができた。でも林さんは1時半の新幹線に乗らなければならなかったために、12時半に名古屋駅の上にあるマリオットホテルのレストランで、お食事をいただきながら、1時間だけお話をさせていただくことになっていた。
 ホテルは駅の上だからすぐにわかると聞いていたけれども、名古屋駅は2つあった。海上に浮かぶ中部国際空港《セントレア》から、名鉄名古屋駅に向かう電車は、オートマチック化された素晴らしい特急で、《オートマチック》の苦手なわたしは、切符の買い方やら、電車の乗り方がわからず、うろたえてしまった。駅に駅員さんがいない。あ〜〜〜
 わたしはどこかに行くと、必ず迷う。でも、あまり長い時間迷ったりせず、《係りの人》を取っ捕まえて、すぐに質問する。本屋さんでは書店員を、レコード屋さんでは販売員を、道ではおまわりさんや通行人を呼び止めて、直ちにその場の《専門家》の意見を聞くように心がけている。でも、駅に駅員さんというものがいなくちゃあ〜、困るよなあ。
 
 スーツケースは重い。バッグもお土産もある。仕事用の革のカバンも袈裟がけにしてある。ぜーぜー。空港にはキャリーというものがあるのに、駅にはそんなものがないばかりか、変なスロープや数段の階段まである。人々はまっしぐらに進み、道を開けるということを知らず、左側通行、一列に並んでいるお行儀よさは大したものだが、そこを突っ切ろうとしている《外国帰り》には冷たい。こんなに黒いのに《外人》に見えない《変な日本人の女》にはもっと冷たい。道を聞いても教えてくれない。どこに行っても親切な標識があるのだから、迷うのがバカなんだけど。反射神経が日本人のそれにはもうついていけない体質になってしまったのだろうか。なんでみんなこんなに歩くスピードが速いんだろう?待ってくれ〜い。

 名古屋駅の上はデパートになっているらしい。目指すホテルのロビーは15階にあった。そのあたりで、ちょっと場違いなところに足を踏み入れてしまったことに気づく。
 15階のロビーに到着すると、かっこいい制服を着たボーイさんとガールさんが、四方から一斉に「荷物をお持ちしましょうか」と走りよってきた。なんだこのスピードは。まるでわたしが訪れるのがわかっていたみたいだ。汗まみれのわたしは、イヤーありがたいとばかりに荷物を持ってもらう。スーツケースは壊れかけていて、走りが悪く「コツがあるんですよお」と教えながら、その15階の光り輝くロビーには、汗みどろの変なオンナも、壊れかけたスーツケースなんぞを転がしているオバンもいないことに、気づく。なのに、ボーイさんは平等に美しい微笑みで、なんでも許してもらえる女王様に対してのごとく言葉遣いまで腰が低い。この親切ていねいさに、心癒されてしまった。20キロを超えるスーツケースを持ってもらうのが申し訳なくって、見ているだけでストレスがたまる。こんなとこ、来るんじゃなかったよ

 マリオットホテルの上の階の料亭で約束がある、と言うと、荷物だけ預かってもらえた。コインロッカーを探す手間が省けた。急いで約束の料亭に行くと、林さんはまだいらしておらず、ちょいと化粧直しをする時間が持てた。でも、汗臭い。なんで日本はこんなに暑いんだろう。どこに行っても冷房は効いていない。節約しているのはとてもよいことだ。なのに、どうしてトイレは電化されたままなんだろう?なんか変。
 そしていよいよ緊張の林さん登場。そして綴り箱弁当が次々に運び込まれた。その数29品。でも、食べたのは多分5品ほど。。。
仕事のお話で夢中になり、林さんは新幹線に乗り遅れてしまったのではなかろうかと思われる。

 林さんをエレベーターまでお見送りすると、エレベーターの前の椅子に、大阪の出版社の編集者さんが、ちょこんと座って待っていてくださった。4月にお会いしている。《知った顔》がそこにあり、わたしは崩れそうになるほど安心した。雲の上の最上階。まっ昼間っからピアノとフルートのデュオが奏でられる、シックな喫茶店(多分コーヒーは地上の5杯くらいの値段?)で、来年出版される予定の、わたしたちの本について語り合った。多分編集者さんも、落ち着かない場所であったのではないかと思う。彼には地上での祭り太鼓と盆踊りが似合う。

 編集者さんは大阪へ、わたしは彦根に向かうことになっていたので、3時頃新幹線の駅に向かった。米原まであっという間だった。彼がいてくれたおかげで、無事に米原で降りることができた。でも米原の駅は工事中につき、合計30キロほどの荷物を移動させるのは、大変だった。しかもそれを持つ本人も、日本到着とともに一気に体重増加で、身体が重い。

 米原から彦根へ。姉の家に泊まる予定。
 夜は姪と剣道の稽古をした。練習不足と疲労と体重増加に苦しみつつも、稽古をはじめると疲れも忘れるあたり単純。
銭湯に行ってサウナや岩風呂を体験し、回転ずしでたらふく食べて、マンション11階にて布団になだれ込む。
 途中姉が「あ、地震だ。揺れてる」と言っていたが、「もーどーなってもいい」と思った。母から借りた携帯が鳴って、メッセージが来ていたけど「もーどーでもいい」と思った。以降は遠くで電車の走り去る音を聞きながら爆睡。

 明日の夜から名古屋で仕事なのに、こんなに疲れていて大丈夫なんでしょーか。

2007/09/15

8月30日



Aller voir mon instituteur de mes 9 ans, c'est toujours un grand plaisir pour moi et beaucoup d'emotion pour lui. Professeur Orita a 83 ans , il est malade. Mais il est toujours aussi bavard, nous avons beaucoup parle et il nous a servi du meilleur the du Japon : Chiran-cha.

J'ai fait beaucoup de choses en une journee, a la mairie , au temple, a la banque, chez un copain, voir les cousins et les cousines et aussi ma vieille tante.

Le soir, pas de fete avec mes copains mais avec un repas avec mes cousins.
En revenant chez ma maman, un ami est venu me chercher, on a fait un tour de la ville en voiture pour dire au revoir et a bientot.

市役所を訪ねた。市役所には働いている同級生がたくさんいるし、それに、いろいろな書類のことで用があった。母の車を借りて、午前中はいろんなことをするつもり。
 市役所のあと従兄の電気屋を訪ね、また別な従兄の事務所を訪ね、大阪の人にあげる指宿のお土産を買い、銀行に行った。昔は知らなかった一方通行がいっぱいあって、よく知っていると思っていた指宿駅前で、思いのほかうろうろしてしまった。
 母の車は右ハンドルで、道路は左側通行なので、運転するのがとっても怖い。日本にいる時には免許がなかったので、自分が車でこの町を走っているなんて、なんだか変な気分だ。

 銀行に行って、昔作った口座を解約しようとしたら、住民票やらカードがなかったので、完全に解約はできなかった。
口座は残して空にして、自然消滅するのを待つしかないそうだ。面倒くさいなあ。。。
 銀行の帰りに、幼なじみの聡くんの家に行って、おばちゃんとおしゃべりをして、そのあと、聡くんの愛読書をいっぱいもらった。聡くんは仕事のために、数年前にフランスに2年間住んでいた。今年こそは奥さんと一緒に観光でフランスに行くことを計画中だとか。 
郵便局から、フランスへ小包をひとつ送った。わたしがフランスに帰り着くまでには届かないだろう。あんなに考えてスーツケースを作ったはずだったのに、日本に帰ってきてみると、無駄なものがいっぱいあって、あしたからまたいろんなところに行くことを考えたら、フランスに送り返した方がよいものがいっぱい出てきた。
 
 午後は、小学校の4年の時の担任で、日本で結婚式をやった時に仲人をしていただいた、折田先生のお宅へ行った。折田先生は、定年退職されてから知覧町の実家に住んでいらっしゃる。知覧町は、特攻基地と武家屋敷と、そして日本で一番おいしい知覧茶の産地で、面白い風景が見られる場所だ。指宿市内を出て、山川、開聞、頴娃の豊かな自然を眺めながら、母と二人でのんびりと知覧町までドライブをした。最後に知覧町に来たのは家族といっしょに里帰りした時で、父が折田先生のために鯛のお刺身を用意した。父は先生の武家屋敷造りの庭で柿の木にのぼって、おいしい柿をたくさんもいだ。みんなで記念写真を撮った。ノエミがシャッターを切った写真では、父も先生も、わたしも笑っている。
 あのとき先生が趣味で手作りされる、クスノキで作ったおぼうさまをいただいて帰ってきた。先生が、どれでもいいから持って帰ってよいというので、父と一緒に選んで、弥勒菩薩やお釈迦様の像ではなく、その、名もないおぼうさまの木像をいただいた。わたしたちはフランスで仏壇の代わりにおぼうさまに手を合わせている。

 知覧の帰りに、指宿の墓地公園に行った。海を見下ろす美しい墓地で、春には桜が咲き乱れる、指宿でも一番いい場所だと思う。わたしたちはそこに、父のお墓を設けることはできなかった。母が歳を取ってしまってから、その高台にある自宅からは遠い墓地に、いつか通うことができなくなること心配して、父の大親友のおぼうさまとその息子さんが見てくださる町の納骨堂に、場所をいただいた。今年の春にできたばかりで、わたしはまだ見たことがなかった。
 納骨堂は狭く、その場所は清潔ながらも、暗い場所でしかなく、海も見えず、風も吹かない。わたしは父に対してとても申し訳なくなった。納骨堂を一周すると、友だちのお父さんや、ご近所のおじさんの名前などがあり、胸が締め付けられた。
 乗船寺の藤岡先生に会うと、いつも、どんな時でも、涙があふれてくる。優しい微笑みをたたえる、穏やかな目に見つめられると、言葉を失う。フランス語で書かれた浄土真宗の本と、お数珠や法語カレンダーなどをいただいて戻ってきた。わたしは、どんなところに父を預けているのか気になっているので、すこし浄土真宗のお勉強をしているのだ。

 夕方、エステをやっている同級生(あこがれのまみちゃん)の店に行って、眉毛をきれいに揃えてもらった。そういうことはやったことも、やってもらったこともなく、緊張してしまった。でも、学生時代にとってもあこがれていたまみちゃんが、なんだかとっても彼女にぴったりな職業に就いていて、相変わらずきれいで、はじめて2人だけでお話ができて、とっても嬉しかった。

 指宿最後の夜は、母とおばと三人でお好み焼きでも食べに行こうかと言っていたのに、いとこたちに強引に説得された母は、おばの家で夕食をごちそうになることを承諾していた。わたしはお好み焼きを食べに行けると思って楽しみにしていたので、ブーブー文句を言った。母は母で、わたしが毎晩遊び歩いているのがよくないとかなんとか、ブーブー言っている。実家で3日も過ごさずして、すでに親子喧嘩などをしている。あ〜あ
 
 いとこたちの(結局は)楽しい夕食を終えて戻ってきた。夜、同級生男子から電話があり、指宿をドライブした。
ーーーと、いうか、東京の友だちに渡してもらいたいものがあるから寄ると言って車で来たので、彼の車に乗り込んで「あっちへ行け。そこを走れ」と命令し、自分で行きたいと思っていたいくつかの場所に連れて行かせたのだ。
 でも、学生時代に、夜、車で、同級生男子(しかも中学生)とドライブしたことはないので、ちょっと期待はずれだった。夜の海に行っても、本当は友だちと遊んだ昼の風景が見たかったのだと気づき、何も見えない夜の海を見ながら寂しくなった。大隅半島に明かりが増えて都会化しているのも、ちょっと悲しかった。
 彼が掛けた昔のカセットが一周する前に、指宿を一周してしまい、わたしはやりきれない気持ちで、「また会おうねー」とお別れした。

 フランスから帰ってメールチェックしたら、この同級生男子から、わたしの見たかった《昼間の指宿の海の写真》が届いていた。
メッセージはない。写真だけ。でも、彼はわかっていたんだなあ、と思って幸せな気持ちになった。
持つべきものはやっぱり田舎の友だちだなあ〜〜。


 最後の日なので、温泉にはたっぷり、どっぷりつかったのであった。。。

日はまた昇る 大隅半島の向こうから。

8月29日

Je suis allee a Kagoshima, chez ma soeur.
A Kagoshima, il y a un volcan actif : SAKURA-JIMA. Sakura qui veut dire la fleur de cerisier, Jima ( Shima) se signifie l'ile
Sakurajima est calme en ce moment, Kagoshima n'est pas polue de cendre depuis un moment.

Dans la journee, avec ma soeur et ma mere, nous sommes allees acheter mes vetements, puisqu'elles trouvent que mes vetements que j'ai apportes de France ne sont pas adaptes pour le travail qui m'attend a Nagoya et a Tokyo. Je dois etre chic pour voir des gens de grande ville, pensent-elles.....

Le soir, j'ai vu mes copains de lycee, on a beaucoup parle et rigole, je suis rentree vers 3 heures du matin.

Les photos de la region, vous pouver voir sur ce site : mots cles sont : Kagoshima, ibusuki, Chiran, Kaimon.
http://www.pbase.com/inusuke/kagoshima

 午前中、はんこ屋さんに行った。《ダニエル》の印鑑がなくて、母があちこちで困っているので、フランスから電話して、実家近くのはんこ屋さんで、実印を作ってもらうように頼んであった。昔住んでいた商店街のそばのはんこ屋さんも、息子さんの代に変わっていた。多分、高校の先輩ではないかと思う、都会風な男性が出てきた。Uターン組だろうか。

 はんこ屋さんのあと、東京の友だちあてにお土産を詰めた小包を1個出して、鹿児島市に向かった。
海沿いの細い道は、崖崩れの工事中だった。鹿児島市内まで一本道なので、台風あとの土砂崩れの時にはよく閉鎖される道だ。
鹿児島の姉の家で、夕べの残りの煮物や、おいしいみそ汁を食べ、母と姉と三人だけで、買い物に出掛けた。
 母は、わたしが名古屋と東京で仕事するいうので、到着するや否やスーツケースをひっくり返して「どんな服を持ってるの?」とわたしの持ち物を調べに掛かった。そして、そんな靴じゃかっこわるいとか、よくそんな服が着れるね、そんなじゃ恥ずかしいよと言って、わたしを《山形屋》に連れて行こうとした。
 鹿児島の《山形屋》は、東京の《高島屋》とでも言えるだろう。《デパート》と言えばそこしかない。
でも、わたしはお金と時間を無駄にしたくなかったので、《デパート》じゃなくて《スーパー》でいいよと言って、鹿児島でも一番大きな《ダイエー》というショッピングセンターに連れて行ってもらうことにした。
 姉と母に「そんな安っぽいものはだめだ」とか、「ここはおフランスじゃないんだから」とか言われながら、洋服を選んだ。この日だけで、5年分ぐらいの衣類を買わされた。下着やストッキングまで買わされた。靴も二足揃えた。一足は姉が買ってくれた。一生に一度ぐらいしか履かない、ハイヒールだ。

 子どもたちは夏休みで、中学生の甥は宿題の途中だった。DSのテストをやったら《徒歩級》と出たので、まさかと思って甥の数学をやった。でも割り算ができな〜〜い。わたしは疲れているんだ、そうにちがいない。長女はお昼過ぎても帰って来ない。夏休みというのに、日本の高校生は忙しいんだなあ。次女は黙々と机に向かって、何やら秘密の世界にひたっている。お年頃だねえ。夕方、高校生の姪が体育祭の練習から帰って来るのを待った。みんなで麦茶を飲んでから、母と二人指宿に戻ってきた。みんな元気そうでなにより。

 夜は高校の同窓会。3年前にも会ったメンバーだった。普段からメール交換もよくしている友だちで、まるで昨日も会っていたような雰囲気だった。一人だけ、高校卒業以来、会っていなかった男子がいて、思いがけない飛び入り参加でみんなも喜んでいた。
 二次会は3時頃までだった。楽しい夜があっという間に過ぎてしまった。

 3時に帰っても、ちゃんと温泉には入った。
実家には24時間お湯が流れる蛇口があって、いつでも出しっぱなしで温泉に入れるのだから、素晴らしい。

 明日は指宿最終日。

2007/09/13

8月27日-28日

 最後の最後まで、スーツケースを用意していなかったので、出発前夜はほとんど寝ずに旅支度。
27日、トゥールーズを13時(日本時間27日の20時)発だったので、家を10時頃出て、空港で飛行機を見ながら子どもたちとサンドイッチを食べた。

 JALの国際線、しかも直行便に乗るのは、今回がはじめて。前はドイツとかイタリア経由の安いチケットで帰った。
「日本の飛行機なんだなあ」と思ってうれしかったのは、両足がぴったりと床についたこと。わたしは脚が短いので、飛行機でも電車でも、レストランでも映画館でも、脚がぶらぶらしてしまう。 飛行機の中でひと晩明かすとなると、脚がぶらつくことほど辛いものはない。いつも、飛行機に乗る時には、足元にバッグを置いて、足置きにしていたのだが、今回の旅行ではそれも必要なく足元すっきり。

 手荷物のバッグの中には、お仕事関連のお土産として頼まれたチョコレートが13箱。重かったけれども、日本に着いたら空っぽになると思ってがまんをした。日本は35度を超えていると聞いていて、溶けたら困るので、スーツケースの中に入れて預けることはできなかった。手に持ったら少しは安心できる。
「へへへ。帰りはこのバッグにお土産をいっぱい詰めてくればよいのだ」
甘いことを考えながら飛び立った。

 飛行機の中では映画を3本見た。本や雑誌を読んだ。結局、あまり寝なかった。
28日の13時(フランスは午前6時)に、名古屋空港に到着。空港で友達一人に再会。お風呂屋さんまである楽しい名古屋空港で、焼きおにぎりをごちそうしてもらった。
「日本のおいしい物を毎日食べてやるのだ〜」
食べたいものとは? きつねうどん、ラーメン、たこ焼き、お好み焼き、冷や奴、みそ汁、コロッケ、餃子、カレーライス、遠藤家のスパゲティーミートソース、などなど。
 まだまだ夢見る余裕があった。

28日15時40分名古屋発、17時(フランスは午前10時)鹿児島着。フミが待っていてくれた。ありがとう。子どもとは笑顔で別れたのに、フミの顔を見たらホッとして、涙が出てしまった。ううう、帰ってきたよお。

 渋滞の時間に引っかかり、指宿着は19時頃になってしまった。飛行機に乗っていた時間は合計13時間ちょっとだったけど、自宅を出てから実家に到着するまで、25時間以上も掛かってしまった。指宿は遠いなあ。。。

 はじめて見る父の仏壇の前には、わたしに見せたかったとおぼしき灯籠が、お盆が終わっても片付けられずに待っていた。
里帰りのきっかけとなった、《ミ》さんのチョコレートを、さっそくお仏壇に捧げた。

 母は、10人分ぐらいの煮物を作っていてくれて、肉厚のシイタケや昆布や厚揚げをたっぷり食べた。ミートソースは《明日》とのこと。楽しみだあ。

 しゃべりまくっている母に送られて、中学の同窓会会場となっている《むさし》に出向いたら、懐かしの野球部員やバスケット少年が並んでいた。
 その中に一人、名前の思い出せない人がいた。
「エンドーさん、ボクのことわかる?」と言われ、
「わかるよ、でもキミ、あだ名で呼ばれてたでしょ?本名忘れちゃったよ」と苦笑い。
いや、名前どころか、あだ名も思い出せないよ。悪いけど。するともと生徒会副会長の男子が、
「こい、あだ名はなかったいよ。みんなタムラち呼んじょったろが」訳「こいつ、あだ名はなかったじゃないか、みんなタムラって呼んでいただろう」
そうそう、キミにフォローしてもらおうと思ったわたしがバカでした。
同窓会が一気にもり下がった。そしてこれでわたしは
「おフランスに行って、同級生の名前も忘れてしまった薄情なオンナ」
ということになってしまったじゃあないの。
 本当は同級生の中でも、タムラ氏は顔と名前をよく思い出せるグループの一人だった。でも、その思い出の彼は15歳から歳をとっていなかったので、彼だとわからなかったのだ。25年以来の再会とは、かくもミステリーをはらんでいたのか。嗚呼。タムラ氏が「むさし」ののれんをくぐる前に、道路でわたしにばったり会ったら、わたしだと気づいてもらえたのだろうか。だめだろうなあ。

 東京でも25年ぶりの友だちに会うことになっている。一気に恐ろしくなってしまった。

《むさし》の調理人さんは、なつかしのおじちゃんではなく、後輩のアキラくんだった。遠くの調理師学校に通っていたアキラくんのこともよく覚えているけれども、彼もまた少年のまま記憶に残していたので、思わず「大きくなったねえ」と言ってしまった。(おばさんみたい)

 中学生から大きくなってないのはわたしだけだ。
もと生徒会副会長の男子から、
「エンドー、俺たちが中学の頃のおばちゃんそっくりやっどね」
と言われてしまった。たしかにわたしは、あのころの母の年齢になってしまった。(あの頃の母には白髪はなかった)
あの頃には、実家から25時間も離れたところで暮らすことになろうとは考えてもいなかった。母は「ああ、こんなことなら、北海道に就職することを、許しておけばよかった」と嘆いている。でも、県外に嫁いだ友だちだって、そうそうは帰って来れないらしいから、どこでも同じかも。

 「遠い所からようこそ」「お誕生日を外したから」「お年玉をあげてないから」と言って、お小遣いをくれる親戚のおばちゃんなどもいて、遠くに住んでいることや中学時代から大きくなってないことが、得することもある。

 指宿の温泉は、やっぱりいいなあ〜〜。

もう帰ってきちゃったよ De retour



Me voici, je suis deja de retour !
Trois jours chez ma mere, une nuit chez ma soeur : m' a fait beaucoup de bien avant d'attaquer au travail a Nagoya et a Tokyo pendant cinq jours. J'ai beaucoup courru, j'ai fait de bons rencontres et surtout, partout ou je suis allee, j'ai bien mange.
J'ai meme vu des copains de classe que je n'ai pas vu depuis 25 ans !


 予想を越える忙しさだった。
自分が食べたかったものの「食いだめ」はできなかったけれども、各地で最高の料理人さんたちの最高の料理を、ごちそうになった。至る所でお菓子やケーキを試食した。とっても楽しく、おいしいお仕事だった。

 旅行のことは、これから少しずつ書いて行くつもり。(一年後、検閲が入り、省略した部分多々あり)

日本で再会を果たせたみなさん、お世話になったみなさん、お仕事で出会ったみなさん、本当にありがとうございました。またいつかお会いできるのを楽しみにしております。フランスにも遊びにきてください。