2006/05/28

休みが連なる

 24日は水曜日でいつも通り学校はお休み。

25日はキリスト昇天の記念日だとかで、信者でもないのに祝日だから、休み。

26日は金曜日だけど、休み。4月と5月の始めに振り分けて、普段休みの水曜日に半日出たので、そこで溜めてあったお休みを丸一日分にして、何でもない普通の日なんだけど、休みになった。

27日は土曜日だから休み、でも朝はヴァイオリンのレッスンがあった。

28日は日曜日だから、ユダヤ人じゃあなくたって、お休み。

 JPなんか、5月は12日も休んでいる。こんなことでちゃあんとお給料がもらえるんだろうか。

勝手にずる休みしたのではなくて、役所がお休みなんだから、行っても閉まっているのだし。

 大したことは何も。。。あ、そうそう、27日は馬車のコンクールがあったので、JPの同僚の家族といっしょに馬を見に行った。暑くて死ぬかと思った。

 それから、28日はフランスでは母の日だった。

 JPとノエミがサクランボウ入りのケーキを作ってくれた。

JPからはアフリカの音楽のCDと、ノエミからは、カマルグ湿地帯の特製壁掛けをプレゼントされた。ゾエは学校で作らされたポプリを持って帰り、ずっと私の目の届くところに隠してあったが、母の日が来たら、それを自分の目の高さまで降ろし届けに来て、幼稚園で覚えさせられた『母に捧げるポエム』を暗唱してくれた。

 プティ・ビズー(小さなキッス)というポエム。

 で、ほかには何をやっていたかというとじっとして過ごした。

日本に向かって手を合わせていた。いろんな人にメールを書いていた。

たくさんの人と、思い出を語って、生死について考え合った。

 お天気がいいのでノエミとゾエとJPは、せっせと自転車の練習に励み、私は昼は庭仕事などをして、夜は剣道に励んだ。

「あ」さんの置き土産の『太宰治』を読んだ。面白い作品もいくつかあって、新しい発見だった。

『文学アルバム』という本で、太宰治というペンネームで本を書いていた『修治さん』という人の歴史についてちょっと読んでから、彼の全集の作品をいくつか読んでみた。彼の人生や環境や、人間関係が、作品にもよおく現れているのがわかって、けっこう面白いのもあり、また、お先真っ暗になりそうな作品もあり、辛くなったり、腹を抱えて大笑いのもあったりして、人の人生というのは不思議よのお、と思った。

 JPが中庭にロープと板切れで作った、ブランコをぶら下げてくれた。

ノエミはブランコばっかりやっている。

先週は縄跳びばっかりやってけっこううるさかったので、ブランコになってちょっとほっとしている。子供の目を盗んで、私もブランコに揺られている。

ふふふ

2006/05/24

助かった

2006年05月24日
助かった
   朝から晩まで、同じことを少なくとも5回ずつ繰り返し言わなければ、ノエミは動かない。

このチャンスに、日本語の同じ単語を5回ずつ繰り返せば、日本語の単語を一日に何10個と覚えるに違いない。

どうして今までそれに気づかなかったのだろう。

 たとえば

 起きてー着替えてーフトン畳んで(ノエミは床にふとんを敷いて寝ている)ー下に降りてー朝ご飯食べてー片付けてー洗面所に行ってー歯を磨いてー髪をどうにかしてー上着を着てーティッシュ持ったの?ー気をつけて。。。

 その間に

 本を読むな(朝起きたら、まず本を開くので)ーふとんをきれいに畳めーパジャマを片付けろーさっさと動けー階段で飛び跳ねるなースリッパを履けー残さず食べろーこぼすなー散らすなー喋るなー時間だよー時間がないよー歯をもっとよく磨けー泡を飛ばすなー順番を待てーはやくウンチしてー髪がぐちゃぐちゃー寒くないのー暑くないのー靴下がちぐはぐーそのスカート短すぎるーシャツにジャムがくっついてるーウンチしたら流してー遅れるよー忘れ物はないのー靴ひもちゃんと結べー車に気をつけろーほらほらーケンカするなー時間ないーきゃあーぎゃあ。。。

 一応これだけでも44のセリフができた。その日によって44以上になることはあっても、44以下になることは滅多にないだろう。30分の間に44のセリフを5回ずつ、365日聞いたら、いくら何でもうちの子たちだって、少なくとも44のセリフが丸暗記できないわけがない。

 よし、がんばろう

 水曜日は音楽に、図書館に、乗馬があって、とても忙しい。

朝から「遅れるよ」「急いで」をさんざん繰り返した私は、夕方になると雑巾のようになってしまっていた。イライラしながら、のろのろする娘を待っていた。「このままだと遅刻する」という時間になってやっと準備できた我が子は、ブーツを履いて、ヘルメットを被ったそのかっこうで、腰に手をあてて、怒ったようにこう言った。

「ママン、急いでよ、遅れるじゃないの」

よくもまあ、言えたものよ。恥を知れ。

 ドカーンと切れた私は、「今出たら遅れるから、もう連れて行かない」と言って靴を脱いだ。

9歳の娘に「連れて行かないと、自殺してやる」とか言われたが、死なせたくないのに死なれてばかりの私に、よくもそんな脅しができたものよと思って、トーゼンいかり狂った。

 こんなにかわいくて、頭が良くて、夢がいっぱいある子が、親に負けたぐらいで自殺することの無駄を、おまえに理解できないとは驚きだ。死んで欲しくない人に先立たれた家族の気持ちの、何がわかるというのだ。そういうことをわかろうという優しさがないとは、私は不幸な母親だ。などなどと言っていたら、ノエミがおとなしくなった。

 脅す人間と脅し方を間違った。とーんでもない子じゃ。根性叩き直してやる。

 娘にまで馬鹿にされてなるか、と思ってやっと見つけた手段が「連れて行かない」とは情けない。いつか自転車に乗って、自分で家出をするのかもしれない。親のこーんな権力がどこまで役に立つんだろう。

 夜になって、ノエミのほうが謝って来た。あまりにも頭に来ていたので、もうガミガミ叱る気もしなくて、ずっと黙り込んでいたので、これはまずいと思ったのだろう。

 この子たちのほうが私よりも素直で、ずいぶん助かっている。

2006/05/23

婦徳富家 おんなの徳は家を富ましむ

   《悲しいお知らせ》というタイトルのメールが入って来た。誰からのメールか確認する前に、誰の何のことかわかった。

 「ついに、逝ってしまいました」の一文を見たとき、左手で頭を抱えて、右手では左胸をおさえたけれども、もう涙を拭う手は残っていなかった。

 「淋しくなるなあ」という気持ちよりも、「淋しかったんだなあ」と思った。そして、「もう淋しくないですね」と天に向かってつぶやいていた。

 秋に佐藤彦四郎先生を見送った、歌子さまは、寒く長い冬にどんなに淋しい思いをしていらしたことだろう。

毎年《桜堤》という町から桜の写真を送っていただいた。結婚式で長いスピーチをしていただいた。居合の足を指導していただいた。日本からのお土産をいつもたくさん持って来ていただいた。

 どこに案内しても興味を持ち、自然の美しさや、人の表情に敏感で、すぐに写真を撮っていらした。誰に紹介しても、すぐに皆の心を惹き付ける方だった。そして、誰もがいつまでも歌子さまのことを覚えていて、「あの方は、かわいらしい方だったね」と言う。

 私がまだ独身で、今よりももっと勝手気ままに暮らしていた時に、佐藤先生はこの言葉を色紙に書いてくださった。

「剣徳興国 婦徳富家」

裏には日本語でこう記されている。

 剣の徳は国を興し

 婦(おんな)の徳は家を富ましむ

 佐藤先生が一人でフランスにいらした時に、ちょっとした用事で、先生のスーツケースを開けるように頼まれた。そこには《鈍い》男子でもすぐに探し物が見つけられるように、無駄のない、整然とした空間があり、妻の心遣いがあった。

 先生はどこに行かれても尊敬されていて、誰よりも優れた技を持っていたけれども、このご婦人の前ではただの小さな剣士に違いなかろうと思って、嬉しくなった。

 そしてその時、初めて会った年にいただいた『婦徳富家』の言葉を思い出したものだ。

 見送って、これで安心したというように、歌子さんも逝かれてしまった。

 じつは、ちょっと、ほっとしている。

もうつらくない。きっとそうに違いないから。

前みたいに、お2人で漫才をやっているかもしれない。

 涙が出る時には「あの時のうれし涙」や「あの時の笑い涙」を思い出せそうな気がする。振り返ると、ずいぶんいろんなことを教えていただいていたものだ。

ありがたや。ありがたや。

 我が家では自分のスツケースは自分で準備する。私はJPの持ち物を選んだり買ったりしない。彼の服のサイズも知らないし、下着や靴下を買ってあげたこともない。

自分のことは自分ですることになっている。

 まだまだ修行が足りない。

2006/05/21

馬に馬鹿にされる

   JPが軍人や、肉体労働者だった時には、職場の同僚と顔を合わせたことがなかった。JPにとっては同僚は同僚でしかなく、いっしょに働いている人のことを「友達」と呼んだことはなかった。家に連れて来たこともない。

 公務員になってからは、職場でゾエの出産祝いももらったし、会議室で出産記念パーティーもしてもらったし、クリスマスには毎年農業高校の講堂を借りての、盛大なパーティーに呼ばれるし、定期的に遠足もある。職場の人とお稽古ごともできるサークルがある。

ノエミはこの夏休みに、職場で働く人たちの子どもといっしょに、グループで乗馬キャンプに出掛ける。親元を離れ、県外の山奥で三週間。

 今年の《遠足》は、乗馬付きピクニックだった。

うちから北西に60キロほどの、すごい田舎のほうに出掛けた。県外に出て、建物や町の風景もずいぶん変わった。森がたくさんあって、道路脇に鹿の親子が飛び出して来た。

 乗馬のクラブは《エルフブラン》という名前で、巨大な建物群だった。全体的に木造建築。清潔で設備の行き届いた、ノエミのポニークラブとは規模が違っていた。

そこでは、乗馬チャンピオンを育てたり、企業研修で馬の世話をさせたりもする宿泊設備も整えていた。馬を使った曲芸や、踊りなどのできるステージもあった。

 数年前にも乗馬付きのピクニックがあって、その時は、一日中馬に乗っていた。午前中は馬に乗って、馬場をぐるぐると走る練習。午後は、練習した馬に乗って、森や林を歩いて、とても楽しかった。

 今回は、趣向が変わっていて、馬に乗らずに調教する技を習ったり、馬車に乗って猛スピードで走ったりもした。

 馬を鞭で打たず、ただ馬のそばに立つだけで、左右自在に向きを変えさせたり、走らせたり、止まらせたり。。。とっても難しいのだが、この私でもできるようになった。

 私は馬が恐いので馬はすぐにキャッチして、そういう人間を《馬鹿》にする。馬は頭が悪くて、教えたことを決められた通りにしかできないので、こちらも決まりを守って動けば何でも言うことをききます、と言われたが、こっちが怖れていることを見抜けるとは、これは頭が悪かったらできないことではないだろうか。勘がよいということ?

 午後は、馬に《馬乗り》になって、手を放したり、馬上で身体の向きを変えたり、馬の背で四つん這いになって、片足をあげたり。。。そーんなすごいことまでやらされた。

馬が賢いおかげと、調教師が上手なおかげで、素人が背中に立ち上がっても、振り落としたりしない。「なんで馬の背中でこんなことやってるんじゃあー」と思いつつも、けっこう面白かった。

 最後は、身体の向きを変えて、馬のお尻のほうを向いた格好になった。

「ハイ、そこから跳び箱の上でやるみたいに、両手を馬のお尻に付けて、滑り台みたいに飛び降りてくださーい」

馬の背は1メートル60センチぐらいの高さ。

「滑り台」がちょっと恐い私。(滑り台で骨折した経験あり)

馬のお尻(バケツ?)は、熱くて、汗をかいている。

お尻に手をおいて、勢いを付けて飛び降りた。

カーボーイハットを被ってくればよかった。私ってかっこ良かった。

 ゾエとノエミも子供だけのクラスで、曲芸を楽しんでいた。

2006/05/20

腹を出して昼寝

 ダンスクラブと共有している剣道場で、今日は「ハラダンス」の講習会がある。 「フラダンス」じゃないよ「ハラダンス」だよ。 アラブ系の、腰の太いおばちゃん達が、お腹の部分が大きく開いた、そして、じゃらじゃらとビーズをぶら下げた派手な衣装で、腹踊りをする。

 道場横の物置で暮らしているドレイ先生は、「ああ、うッとおしいなあ」と言っていたが、使用料無しで、先生の顔だけで借りている道場だから、使用料を払ってダンスをしている人たちには、素直に明け渡さねばならない。

 私は、みんなに「えー?また、朝っぱらからアスパラ?」と言われながらも、先日買い占めたアスパラガスをグラタンやらサラダにして、残った時間で、ちょっとだけアイロン掛けをして、そのあとは腹を出して昼寝した。

 夜があっという間に訪れて、「いい一日だったねえー、今日なにしたっけ?」と言ったら、みんなが「アンタは何もやってない」と言った。

 JPは、井戸にポンプをつけた。

家を買った時から井戸があると言われていたのだが、完全にセメントで塞がれて、そのうえに土を入れて花壇になっていた。

その花壇を全部壊して(何も生えていなかったから)、井戸のふたに穴をあけ、おもりをつけたヒモを降ろしてみたら、なんとその井戸は30メートルもあって、しかも、井戸の一番上から2メートル付近まで水が来ているという。ラッキー。

 井戸に水が入っているかどうかさえわからなかったこの冬に、JPのお母さんが衝動買いして持って来た、井戸ポンプがいよいよ日の目を見た。これで枯れ井戸だったら、また私にぶーぶー言われていたところだが、水がたっぷり入っている井戸だから、ポンプがあるのはよいことだ。たまには感謝してみる。

 ポンプと言っても、今どきの電気式ではない。

「トトロ」の「サツキとメイの家」にもある、あの、手押しポンプだ。

ハンドルを、キーコーキーコと上下に動かして、水を汲み上げる仕組み。

いつもレタスを洗った水や、濯ぎの水と雨水はできるだけキープして、それを庭にまいていたが、これからは井戸のお水があるから楽だ。

 節水にうるさいJPが、私が庭中にまいた《日本の芝生》の種に、せっせと水を掛けている。

《日本の芝生》というのはこういう名前でスーパーで売っていた、野の草花の種を20種類ぐらい混ぜた種のセットだった。前の家でも撒いたことがあるが、ぺんぺん草とか、かすみ草、ポピーなどが生えて来る。そしてしばらくすると「その辺雑草で手に負えない」状態になる予定。

今はまだ不毛地帯なので、まずは雑草にがんばってもらおうと思って、この種を二袋も撒いた。

 雑草が一番しぶとい。

2006/05/19

ようこそ、ここへ

 朝早く、トゥールーズから「あ」さんがやって来た。「あ」さんはパリから5時間ぐらい電車に揺られて、トゥールーズの娘さんの所にやって来た。パリではこの冬から下宿生活をしていた。
 普段の「あ」さんは、フランスから飛行機で24時間以上掛かる南の島に住んでいて、この陰気な冬を、寒いパリで過ごしていた。パリでの滞在期間が終わったので、もうすぐ南の島に帰ってしまう。

 カーモーの朝市をぜひ見たいと、トゥールーズから足を伸ばしてくれた「あ」さんを、我が家に案内する。もちろん朝市を通過して。町に突入する前に、銀行からお金をおろしてしまった時の「あ」さんは、そこから我が家まで食べ物屋さんが果てしなく続くことを、まだ現実視できていなかっただろう。

 今週でアスパラガスが終わりなので、私は友達の分も含めて6キロのアスパラガスを予約してから、駅に向かった。「あ」さんを連れて、朝市を一周する間に、両手に持ちきれないほどの食べ物を買ってしまった。「あ」さんは歩きながら新鮮なグリンピースを生で食べ始めている。私もお裾分けさせてもらったけれども、はじめて食べた生のグリンピースはとても甘くておいしかった。

 評判のパスタと、今週から並び始めたサクランボウは、トゥールーズの娘さんへのお土産にした。お昼のデザート用にも別に買ってもらった。うんちのこびりついている、生まれたての玉子と、しそみたいなすっぱい味の葉っぱ(オゼイユという)をかったので、お昼はオムレツにした。
 その他にも、「あ」さんはデザートが足りないかもしれないと言って、我が家の子どもたちのために、クルミのケーキを買ってくれた。

 日曜日のピクニックのために、チーズを15人分買わなければならず、それでずいぶん重くなってしまったが、お金を払って預けてある6キロのアスパラガスも、取りにいかなければならない。肉屋でハムを買うために並んでいたら、ある人が肉屋さんに「時差が9時間もあるところ」と言っていたので、「あ」さんが「おたくも、あっちから来たの?」と話しかけている。その人は、「あ」さんがこれから帰ろうとしている南の島に、遊びに行って戻って来たばかりだった。

 「いい所ですよねー。こんな暗いお空じゃなくてー」
「そうでしょう?」
「あ」さんも、はやく帰りたそうだった。

 久しぶりにあったお友達と、いろんな話をして、おいしいものを食べて、ちょっとお散歩して、駅で2人は黙りこくった。
「今、話したいことが浮かんで来たけど、話しはじめると電車に乗れなくなるから。。。またメール書くね」とお互いそれぐらいしか言えなかった。
 
 インターネットと飛行機のおかげで、世界は狭くなったけれども、やっぱりお友達の顔を見てやっと、本当に距離が縮まったような気がする。

 名残惜しいけれども、「あ」さんがはやく自分のベッドで深い眠りにつける日を、願っている。
実際に会えた友だちが「どうせまた会えるし」と言ってくれると、ほっとする。

2006/05/18

エイ・エイ・オーの母親会

 先日の母親会議で、ボランティアを募っていたのに、役員以外は誰も来てくれなかった。
だから、会議やり直し。

「ボランティアが居なければ、学校行事が成り立たない。子どもたちが楽しみにしている、学年末のお祭りを、成功させましょう」
という内容のビラが配り直され、門の前にも貼り出された。

 さあ、折り紙スタンドのアシスタントも募らなければ、私一人でスタンドを切り盛りしなければならなくなる。でも、この前の会議でコブシを振り上げたものの、満月の下で興奮していた時に「とっつかまえて、むりやり手伝わせる」などと言っていたのに、朝の眩しい光のもとでは、そのような勝ち気はしぼんでしまった。
 それに、この会議で、誰かアシスタントを申し出てくれる人が居るかもしれない。

 今回は役員以外に、5人の父親・母親と、役員でも前回来なかった人たちが、新たに数名加わった。前回話し合われたことの解説が繰り返され、今回新たに会議に参加してくれた人たちが、一体何をやってくれるかのリストが作られた。

 折り紙のスタンドは、幼稚園に子供が居る、若くてきれいなモロッコ人のナディアさんが手伝いたいと申し出てくれた。すぐ横に座っていたので、ほかのスタンドにとられる前に「私といっしょに折り紙やりませんか?」と訊いたのだ。ちゃっかりしてる。
 ナディアさんは折り紙を知らなかったけれども、お祭りの前にレッスンしてくれるなら手伝うと言った。もともとアシスタント・マターネルといって、子供を預かる仕事をしている人だった。折り紙を習って、預かっている子どもたちを喜ばせたいと言ってくれた。

 ナディアさんは、うちと同じ通りに住んでいるそうだ。うちはカルビニャック通りの62番地で、ナディアさんのお宅は33番地。肉屋さんの隣。ちょうど同じ日に、このごろ親しくなりかけていた26番地に住んでいるカロルさんが「じつは来週引っ越すのよお」と打ち明けてくれて、ちょっと淋しい気分だったので、ナディアさんの登場でパアッと明るい気分が戻って来た。

 ナディアさんは女の子が1人なので、うちの子たちに遊んでもらいたい、と嬉しいことを言ってくれた。(でもうちの子たちまだ見てないからねえ。申しわけないけど、今は期待させておこう)
 ちょうど私とナディアさんの間に、役員の中で一番陽気でおしゃべり、とても親切なバレリーさんがいてくれたので、ナディアさんは「この母親の会は、とっても楽しそうなグループ」と思ってくれたようだった。(みんなバレリーさんみたいと思ったら大間違いなんだけど、今は期待させておこう)

 ナディアさんが手伝ってくれたら、お祭りのとき、交代でトイレにも行ける。助かったあ。
ノエミも手伝ってくれると言っていることだし、どうにかなりそうだ。

 どんな紙でも折り紙できると、繰り返し言っているのに、「みのりが使ってるようなきれいな折り紙を、どこかで手に入れなければ」とか、「薄い紙じゃなきゃだめだ、普通折り紙の紙は何グラムなの?」などしつこく訊かれた。新聞紙でも、ノートの切れ端でもいいんだけどって言ってるんだけど、私を無視して「トゥールーズのお店まで行かなきゃ、残ったら来年使えばいいし。」と話し合いが進んで行く。

 修行を積む前に道具にこだわる。料理が下手なやつは、道具のせいにする。
フランス人の縮図をここに見た。

 私は新聞紙で作る等身大カブトと、チラシで作るゴミ箱と、それからノートを破って、校庭で遊べる、嬉しなつかし紙ヒコーキを考えていたんですけど。

「来年も、私がやるんですか?」
アンタしか居ないでしょー。
 ノエミは最終学年だけど、ゾエは幼稚園と小学校、合わせてあと7年あるので、あと7年はやってもらうと言われた。え?うそ。

 PTAの会議で、図々しくも《日本文化センター(私が勝手に言ってる仮称)》のチラシを配った。すでに評判を聞いている人、知らなかったけれども日本に興味ある人などが、そこに来ていた人たちの中にも、数人居ることがわかった。
 「日本語に興味あるのよお」と言ってる人もいて、「日本語教えてるんですけど」と言ったのはよかったけれども、「じゃあ、ちょっと教えてー」などと言われた。むっ
プロに「ちょっと教えてー」と言ったらいけないのだ。

 私は、ボランティアでは日本語は教えないんだから!
プライド高い分、お月謝も高いのよー。
私の授業料は高いので、JPはもう習のをやめた。
結婚したら日本語が上手になれると思ったら大間違いだった。
 高い月謝を払って、宿題をもらって、叱られて。。。そういう覚悟がなけりゃあ、上手になれないのであるからして。ほほ

 剣道はただで習ってる。そうか。。。だから上手になれないのかねえ。
 

2006/05/14

母の日

 日本は母の日だった。でも、日本の母に電話しなかった。何も送らなかった。どうしてと言われても困る。母の日に送りたいものは、店にもどこにも置いていない。週末には子どもたちが居てゆっくり話ができないので、週末には電話しないことにしている。

 ゾエが、幼稚園で習った、《母に捧げるポエム》を暗唱している。こんな長い詩を暗唱したのは初めてだったので、感動した。ノエミもよく幼稚園や学校で《母に捧げるなんとか》を作って持って来たものだ。でもこの頃は小銭を貯めているので、「母の日には何かを買ってやる」と言っている。

「ありがとう。でもね、母の日じゃなくても、ママンの手伝いしてくれたっていいのよ。それにね、私の欲しいものは、お店には売っていないよ」
「何が欲しいの?」
「思いやりのある、いい子」

 よく、こんなことが言えるものだ。
 
 フランスの母の日は5月28日なので、それまでには電話ぐらいしよう。



 金曜日の朝市で、アスパラガスとホウレンソウを大量に買った。アスパラガスは生で、ホウレンソウは固ゆでして、冷凍庫に入れた。アスパラガスの販売は来週辺りまでらしいので、こんどの朝市では、アスパラガスの買い占めをする予定。

 庭のイチゴとヒマワリが大きくなりはじめた。
セメントをはがして、処理場からもらったコンポストを散らした中庭に、《日本の芝生》という種をばらまいたら、足の踏み場がなくなった。

 時が移りゆく

2006/05/13

闇討ち

 JPが試験勉強をしているので、お弁当を二つ持ち、子どもたちを連れて剣道に行った。

 お弁当は道霊先生と、後輩のフレデリックにあげるため。道霊先生は道場の物置で暮らしているので、小さな部屋でカン詰などを食べて暮らしている。ネクトーさんの話では、毎週日曜日には、ネクトーさんの家で食事や、庭仕事をしているらしい。
 道霊先生は、ジャングルで自給自足ができるほどの、狩猟の腕を持ち、食べてよいものと、食べたら死んでしまう植物を見分ける技があり、料理の腕前はプロ級だ。この前ドレイ先生お手製の、《タンポポのジャム》を食べた。こんなの作るのはこの人ぐらい。逸品だった。

 この前ネクトーさんにまき寿司を持って行ったら、「フランソワ(ドレイ先生の名前)が来るから、残しておいてやろう」と言っていた。ドレイ先生にお弁当を持って行ったら、「ピエール(ネクトーさんの名前)と食べよう」と言っていた。
 そう言うと思って、しっかり2人分作ってある。

 一度お弁当持参で道場に行ったら、先生が留守だったので、独身のフレデリックに「まき寿司は好き?食べる?」と訊いた。まき寿司を知らなかったので、むりやり食べろと言って持たせた。
そうしたら、あとで好きだったと言ってくれたので、今回もお弁当を作ってあげた。

 今回はまき寿司ではなくて、ゆかりご飯のおにぎりに、きんぴらごぼうと、ホウレンソウのおひたしと、大豆とひじきの佃煮にした。肉も魚もなし。思いつきだったから、あり合わせで我慢してもらおう。ドレイ先生とネクトーさんはダイエットをしているというし。ははは。。。

 数年前、道場にノエミを連れて行ったことがある。ドレイ先生にも、ノエミという名前の孫がいると言われて、何かのご縁を感じた。ゾエを見て「この子はノエミだったね」というので、「いいえ、ノエミはこーんなに大きくなりましたよ。そっちはゾエです」と言ったら、ビッックリしていた。自分の孫のノエミちゃんには、ずいぶん長いこと会っていないのかなーと思って、切なくなった。

 以前は「子供は嫌いだから、剣道も教えない」と言っていたのに、ノエミに「そろそろ、剣道を始めなさいよ」などと言っている。ニコニコして嬉しそう。
 この人も数年で丸くなったんだろうか?

 「そうそう、エマニュエルがみのりの居合刀を返すって言っているよ」
こんどは、私がびっくりした。
 じつは、先日《日本文化センター》の会長さんにお会いしてからというもの、居合道を再開したいという、血が騒ぎはじめていたのだ。今年は剣道も居合道もしないと、ちょっとそっち方面は避けたいと、思っていたものだから、クラブの新人に、私の居合刀を貸してあげたのだ。じつは剣道より居合道の方が好き。

 赤い鞘(さや)で、鶴が羽ばたく形の鍔(つば)は、佐藤先生と奥様が、私のために選んで買ってくださったのだ。中味は模擬刀、全然切れない。ちゃんと長さも佐藤先生が測ってくださったので、身体にフィットしている。
 海外に居て、日本のものといえば通信販売を利用する。いつも身体に合わないものが届いてしまう。だからこの居合刀は、私にとって貴重な特注品だ。お金は自分で払ったけれども、佐藤先生に贈っていただいたと思って大事にしていた。

 でも、いくら大事にしていても、佐藤先生は喜ばない。わかっていたけどスランプ。宝の持ち腐れは勿体ないから、熱心にがんばっているエマニュエルさんに貸したのだ。そして、いざ、「またやりたいなあ」と思った時には、「返してよ」と言いづらくなっていた。
 
 そんな時に、彼女が返してくれるというので、びっくりした。
「どうして?やめたんですか?自分の刀を買ったの?」
「いや、やめてない。まだ買っていない。でも、そろそろ返したいって。」
テレパシーが通じたんだろうか。
闇の中から、刀がひゅっと出て来た感じだ。
 むむーん。修行が足りないので、よけられない。《鯉口》を切られたからには、こっちも《受け流し》のしたくをせねば、《袈裟切り》で、まっぷたつにされてしまうゾオ。

 来週、居合刀を返してもらったら、《切りつけ》と《抜きつけ》と《血ぶり》と《納刀》
(のうとう)を、毎日20回ずつやろう。ああ、宣言してしまった。やらねばなるまい。
 模擬刀なれども、真剣勝負なのだああああ。

2006/05/10

運命の出逢い!?

 80年代後半に、渋谷のある本屋さんでレジを打っていたとき、「エンドーさん?」とびっくりした声で呼ばれた。顔を上げるとそこには指宿の同級生が立っていた。大都会の真ん中の、地下1階から地上8階まである本屋さんだった。

 95年にフランスで結婚して、トゥーロンという地方の町に住んでいた。子供はまだなく、JPは船に乗っていた。巨大デパートの、上下に交錯するエスカレーターで、向かいを降りて来る人が「あ」ッと叫んだ。お互いに首をぐるっと回して行方を追った。彼は、一度下まで降りたエスカレーターをもう一度上り直して、私のいる所まで来てくれた。90年ぐらいに、ニューカレドニアの自動車学校でお世話になった先生だった。

 剣道の恩師、佐藤先生にはアヴィニョンでばったり遭い、引っ越して来てまたトゥールーズでばったり遭った。

 鹿児島出身で、ひとつ年上で、誕生日が同じで、彼女のお兄さんは私の同級生とつきあっていたという、そんな友達も居る。結婚相手はお互いに船乗りだった。彼女と知り合った時に、こんな運命の出逢いはもう二度とないだろうと思っていた。

 ところがどっこい。このカーモーで、すてきな日本人に出逢った。ただの日本人ではなくて、書道家で、禅や俳句にも通じた方で、茶の湯や生け花などと、様々な武道との繋がりについて学び、修行を積まれた方だった。その方が、カーモーに、日仏交流の場を開こうとしているのだ。

 剣道や居合道にも関心があって、とおっしゃるので、私がそれをやっていると話すと、お弟子さんが最近「鹿児島で示現流を学んで戻ったばかり。鹿児島が気に入り、指宿がとても好きだった」とおっしゃる。
「わたし、指宿出身なんですけど」お互い驚く。
なにかの縁だねえ。。。
 その方と、同席していた娘さんと、私たち三人同じ未年だったので、かなりうけた。

 「指宿の秋元さんって、知ってる?」
不思議な質問だが、外国で知り合った日本人同士というのは、こーんなとんでもない会話をするものだ。ちなみに指宿には「秋元」という地名があるので、秋元さんという人はいっぱい知っている。指宿の「アキモト」さんはみんな「元」の字を書く。学校にも何人も居た。

 でも「秋元さんって知ってる?」と訊かれた時に、私には一人しか思い浮かばなかった。
「秋元塾のかおる先生じゃあないですよねえ」
そうだった!!ちょっとぞっとした。

 去年帰った時には、区画整理のためになくなってしまっていたけれども、父が眠っている乗船寺の目の前にあった、塾の先生だ。初めて「ロブスター」という英単語を教えてくれた人だ。毎日学校の行き帰りにあいさつしていた先生だ。

 剣道と居合道を稽古しながら、武士の教養であった茶の湯や、書画や俳句について、もっと知りたいと思っていた矢先だった。歴史や文化を勉強するために通信教育を探していたところだった。何かもっと日本のことを学ばせていただけそうで、これからとても楽しみだ。

2006/05/08

サンピエール海岸で

 地中海に面した、サンピエール海岸に行った。
(秋の休みの時、海岸の写真を公開しました)
 お天気がよいので、海岸通りで開かれている朝市も、ものすごいにぎわいだった。
 カーモーの朝市ではまだ見られない、麦わら帽子や、パレオや、水着のお店も出ていて、華やかだった。「南仏」という雰囲気の、オリーブ屋さんや、石けん屋さんも出ている。

 海辺には、泳いでいる人はいないが、犬を連れて走っている人はいる。何キロも続く長い砂浜をゴマ粒ぐらい小さくなるまで、ずうっと眺め続けることができる。
釣り人も、釣り船も出ていた。

 子どもたちとJPは、砂遊びを始め、私は砂浜に寝っ転がった。
ああ、気持ちいい。
 シートもタオルも敷かずに、そのままそこにごろんと転がったら、そのままぐーすか寝てしまいそうだった。
 何か怪し気な物体が前を横切って行った、と思ったら、鎖につながれた猫だった。
海岸沿いに立ち並ぶ、ヴァカンスだけの貸家に来ている、都会の人だろう。
ヴァカンスにも猫を連れて来たのに、居なくなるのを用心して、鎖に繋いでいるとみた。
猫を鎖に繋いで、散歩させる人が居るなんて始めて見た。
 都会のアパートでは、きっと閉め切って飼っているに違いないのに、ヴァカンスに来てなお、「逃げられない。盗まれない」ように警戒を厳しくしなければならないとは、かわいそうなのはいったい誰なんだろう。
 ボボも海岸に連れてきたかったなあ、と思った。

午後にはカーモーに帰る。

2006/05/06

来ないでというが、行ってやります!!

 JPの両親の家に預けっぱなしだった子どもたちを、そろそろ迎えに行かねば、学校が始まってしまう。電話してゾエに「明日迎えに行くよ」と言ったら、「いやー、来ないでー」と叫ばれてしまった。電話まで切られてしまった。なんて奴。

 車で2時間半ぐらい掛かるし、家の片付けも残っているから、本当は私だって行きたくないのよー。
ボボもいるしねえ。

 ボボは、土曜日の朝、JPがはるか彼方まで散歩に連れて行き、へとへとに疲れきって戻って来たところへ、山盛りの乾燥ペットフードを放り込まれた。さっき、大好きな犬まんまをいただいたばかりだから、山盛りのペットフードには見向きもしないで、小屋の奥に入ってしまった。
 これならば土曜日の夕食と、日曜日の朝食は、どうにかなりそう。日曜日の午後帰って来る。
天気予報によれば、雷を伴う大雨だそうなので、ボボはきっと小屋から出て来もしないだろう。

 さて、一泊二日の里帰りである。

 地中海まで車で30分ぐらいのところなのに、お庭いっぱいのプールがある。プールの水は26度ぐらいで、まだ冷たいのだが、子どもたちとJPは、プールのお掃除と称して水遊びをした。
私は太陽にはもううんざりするぐらい当たって、この若さでしみそばかすだらけなので、プールは大嫌いだ。木陰で『子供の本とは』という小冊子を読んだ。

 夕方、昔ダニエル一家が住んでいた、古くて大きな家に行った。わけあって、この家を手放すことになったのだが、すでに7年間も、物置き状態だ。家を売りに出す前に、中の家財道具も処分しなければならないから、居るものがあったら持って行きなさいと言われて、ちょっと訪ねてみることにした。

 私たちの結婚式のパーティーをした、思い出の詰まった家だ。JPが船に乗っている時には、ノエミを連れて、ここへ《里帰り》をしたのだ。家の引き出しや、扉の後ろに何があるか、隅々までよく知った家だった。今は物の場所が変わったり、傾いていたり、埃だらけだったり、なくなっていたり。。。ずいぶん淋しくなってしまった。

 小さな家具をいくつか《予約》して、台所用品を少しもらった。
JPの部屋から私のラブレターや、JPの子供のころの写真や、ダニエル家の子どもたちが遊んだおもちゃが出て来て、段ボール箱に詰めて戻って来た。

 子どもたちは大喜びで、パパやおじちゃんたちが親しんだおもちゃで、なかよく遊んでいる。 

2006/05/05

コンポスト

 お天気がよい。さわやかな初夏のようだ。去年の誕生日に義父からもらったジャスミンが花盛りで、中庭に出るといい香りを放っている。JPがジャスミンティーにすると言って、毎朝ジャスミンの花を摘む。前に住んでいた人が植えたバラも、壁を這い上ってたくさんの花をつけている。桜島の火山灰で造った花瓶にとてもよく似合う。

 中庭一面にへばりついていた、セメントの床を、去年からちまちまと壊して来た。庭にセメントを張るなんて一体どういう了見だろう。湿気が溜まって、家の壁を上って来るようだ。セメントの床を壊し始めた時に、いろんなアドバイスを受けた。レンタルで大型機械を借りて一気に壊せという人も数人いたが、粉々にすると処分が大変なので、50センチ四方ずつの塊になるようにして捨てた。

 3分の1はがした段階で、義父がセメントを切る機械を貸してくれた。今度はそれでタイルのようにます目に切り、セメントの下を掘りながら、はがして行った。

 この春休みに、いよいよそのます目が《あと6枚》という所に来た。隅の方がグラグラしているので、そこに鉄の棒を突っ込んで、テコの要領で持ち上げたら、私の力だけで一気に6枚分が持ち上がった。丁寧なJPが、危なくない方法、物音や埃を立てない方法で一ヶ月以上掛かかる分量だ。
だから、その部分もあと一ヶ月ぐらいは要する予定だったのに、私がミナを取る要領でやったら、5分で持ち上がった。

 《ミナ》というのは、本当の名前はわからないけれども、花瀬公園辺りの海岸で、大きめの岩をテコの要領で転がすと、ごろごろ出て来る巻き貝だ。私たちはよく家族で《ミナ取り》に行った。東シナ海に向かってしぶきを上げる岩場で水を汲み、海水だけを入れたお鍋にとったばかりのミナを入れて、その場で茹でていただいた。母の塩辛いおにぎりといっしょに。
 花瀬公園という所には、太平洋戦争で、日本のために亡くなった人々の慰霊塔と、機関銃と穴の開いた鉄かぶとがある。一昨年帰った時には、10年前よりも整備されてはいたけれども、昔と同じ姿で、慰霊塔も鉄かぶともそこにあった。父は昔からその慰霊塔の前で頭を下げるのが好きで、よその人が来るとそこに連れて行く。
 私はそこから旅立った日本人たちが、太平洋の島々で本当はどんなことをしていたのか?日本を出てから、フランス人の口から学んだ。そして、インドシナで日本人にひどい目にあった家族の、その子孫と結婚したのだ。

 自分の家族をその海岸に連れて行ったのは、慰霊塔を見せるためではなくて「ここでミナ取りをやったんだよ」と見せたかったからだ。海岸に下りる階段は台風で崩れてしまって、降りることができなかった。私は岩場をピョンピョンと自由に駆け回るのが得意だった。今でも、岩場に行くと飛び跳ねるし、岩をひっくり返して《ミナ》を探してしまう。

 大きな岩を持ち上げるのは得意だ。だから、JPのセメントも一気に持ち上げた。この一年間うだうだやっていたセメントはがしが、あっけなく終了した。

 セメントは市営のゴミ処理場に運んだ。そこでは回収した草木を、コンポストにするために数年前から処理していたのだが、いよいよこの春から、一般に配布できるよいコンポストができたらしい。無料配布だったので私たちももらって来た。自家用車一台につき200リットル、スコップで15杯分もらうことができた。

 JPはミントティーも好きなので、もらったばかりのコンポストを撒いた小さな花壇に、ミントを植えた。シソも植える予定。

 アイスミントティーがおいしい季節がやってくる。

2006/05/03

デートに誘われる

 鯉のぼりが優雅にはためくような一日だった。

 ネクトーさんと、デートのお約束である。ネクトーさんはフランス剣道界の最年長者で、なんといっても現役だ。私が洞穴でくすぶっていたこの冬、年賀状に「道場での対決を楽しみにしております」と書いてくれた。83歳だそうだ。
 暖かくなって、ネクトーさんが毎週日曜日に出て来ているというので、私も毎週日曜日を目安に再開することにしたのだ。

 肩が上がらないので、剣道着や防具の脱ぎ着も、一人ではできないのだが、みんなで手伝ってあげる。口は達者、記憶力も抜群で、この人とおしゃべりをしていると楽しくってしょうがない。

 前から誘われていたので、ネクトーさんのお宅にお邪魔した。ダンナは抜きだよとウィンクをされたので、ダンナは抜きで伺った。

 約束どおりまき寿司を持って、ネクトーさんが好きそうな重箱に風呂敷で行った。

 ネクトーさんのお宅には石灯籠も、畳の部屋も、仏壇も、布袋さまの彫刻も、浮世絵も、広重の版画もある。台所には日本食と、日本の食器しかない。
至る所に17世紀の刀や短刀がある。刀を仕込んだステッキや雨傘もある。14世紀のお椀とか、16世紀の彫刻もある。
 仏壇のそばに壺が並んでいて、何かと思ったら、奥さんと、息子さんと、その他にも今までに飼っていた動物たちの《灰》だった。2人でお線香を上げて、お経を詠んだ。

 よくわからないけど、「ハンニャーハラミター」というのと「ナンミョーホーレンゲッキョー」というのだった。ネクトーさんは「仏教」を学ぶために日本に留学したこともあるそうだ。
 池田氏の写真があって、「これは私が写した」というので、ほほおと思った。

 6人の美女が季節の着物を着たカレンダーを着物屋でもらっていたので、それをお土産に持って行ったら、とても喜んでいた。アジア系女性が大好きだ。

 たくさんおしゃべりをして、いっしょに剣道の形までやって、この前2人で見た試合のコメントをして、お互いの知り合いの悪口を言って、お互いの知り合いを誉めて、すれ違ったり、教わったりした先生方の思い出話をして、お茶を飲んで、まき寿司を食べて、盆栽について習って、あっという間に時間が経ってしまっていた。

 帰りに手作りのジャムをもらった。大変珍しい木の実のジャムで、味見をしてから、JPに食べさせたいと言ったら、快く一瓶分けてくれた。そして
「もし腐ってて、ダンナが倒れたら、私が嫁にもらってやる」と言った。

 シワシワの男性は、なかなかに魅力的だ。

2006/05/02

消えた過去がよみがえる

 猛烈に働いて、六ヶ月片付かずに居たサロンのペンキはがしと、庭の整備がついに終わった。あとははがしたペンキの上から新しいペンキを塗って、整備した庭に草花が生えて来るのを待つだけだ。いったい今までなーにをやっていたんだろうと思うぐらい、この数日間で片がついた。

 ノエミの部屋を片付けていたら、幼稚園時代に描いたものの紙や、クリスマスに食べたキャンディーの包みや、一昨年の冬に拾った石も、去年の夏に拾った貝殻も、至る所から出てくる。ちびた鉛筆も、折り紙で作ったウサギやツルの山も、欠けた物差しも、ネジがゆるくなったコンパスも、捨てられない。

 それで、はっとして、日本に電話した。

 操作ミスで、これまでこのサイトで公表した、11月と12月の日記が、先日あと片もなく消えてしまった。途方に暮れて腰を抜かしたのも束の間、実家の向かいに住んでいる従兄が、母に毎日の日記を運んで行って、仏壇に線香を上げて帰るのが日課になっているという話を思い出し、従兄と母なら、私の日記を残しておいてくれているかもしれないと思ったのだ。

 あった、あった。
実家には全部あった。

 当然パソコンには残していないけれども、従兄がプリントアウトして母に届けたものは、何から何まで残っていた。

   お兄様、アリガトオオオオ

 従兄は私のメールを読んで、私が母に電話する前に、すでに母の所に日記が残っていないか訊きに行ってくれていた。何ともまあ、ありがたいことだ。

 こんど山川漬けやら、かつお節やら、エビせんとともに、11月と12月分の日記も送ってもらうつもり。

 希望は捨てるものではない。
母も、すてたものではない。

  かあちゃん、ありがとよーーー

 教えを守って、ものを捨てない主義を実践するべきだろうか。。。