2006/06/30

希望の星

 この前、高校卒業資格試験で、日本語のテストを受けたリュドヴィックさんからメールが来た。日本語試験の結果はまだ出ていない。

 リュドヴィックさんは、在仏日本大使館のホームページで、独立行政法人科学技術振興機構(JST)公募というのに応募した。《戦略的創造研究推進事業》というものらしい。

 その公募に採用されたら、日本へ7年間の留学が約束される。留学の費用は免除される。リュドヴィックさんの夢は、アルツハイマー病や老人性痴呆症に関する研究と治療で、日本はその方面の学問が大変進んでいるという。海外からの学生を受け入れて、英語での授業を行なう大学もあり、世界で通用する免許がもらえるシステムもあるらしいので、日本で勉強したいのだそうだ。
 なんといっても日本が大好きだし。

 パリでの面接試験への案内が届いたので、7月上旬に試験を受けなければならない。
試験は、日本の高校卒業程度の化学と生物の試験で、英語で行なわれる。もちろん日本語の試験もあるが、初級程度で構わないとのこと。どうしてそのような公募に応募したのか、日本で何をしたいのか、将来どんなことに役立てたいのか、それをちゃんと発表できなければならない。

 将来の希望を持って高校を卒業しようとしている若者に、本当に久しぶりに出逢った。

 日本語は自分一人で勉強していた。美術も、文学も得意だ。彼の家に招待された時、きっと高いお金を払って買った、とても偉い画家の絵おぼしき素晴らしい絵が飾ってあって、「素敵ですね」と感想を述べたら、お母さんが「この絵は息子が描いてプレゼントしてくれた」と言ったので、JPと2人でうなるほかなかった。
 「息子はこんなに素敵な絵も描けるんですよ」と自慢げに言われたからというよりも、「自分で描いた絵を、お母さんにプレゼントする」という、その青年の優しさに感銘したと言ったほうが正しい。自慢の息子に違いない。

 バカロレアの試験を受けるために準備していたテキストは、夏目漱石の『我が輩は猫である』だった。翻訳ではなく、日本語で書かれた本だ。今どき日本の高校生でも夏目漱石を漢字とひらがなで読む学生は少ないのじゃないだろうか。びっくりする。

 こういう若者が、日本文化を大切にして、わざわざ海を渡って勉強してくれて、フランスで紹介してくれるなら、どんどん応援したい。刺激されて、私も勉強するしかない。

 リュドヴィックさんのお母さんは幼稚園の先生だ。この幼稚園では今年一年「日本」をテーマにした様々な活動が行われていた。日本から派遣されて来た保母さんが毎週幼稚園児に日本語を教えて、日本の踊りや折り紙も教え、発表した。日本年を締めくくる最後のお祭りに、招待していただいたが、ちょうど私たちも学校のお祭りの日だったので、行くことができなかった。リュドヴィックさんは、私の代わりに書道のデモンストレーションを行なった。きっと私より上手なお習字を披露できたに違いない。

2006/06/29

ディスカヴァリー・メニュー

 暑かったので、後回しにしていたが、じつは、仕事が入っていた。

 この一年ぐらい毎月定期でもらっている、メニューの翻訳だ。
春はイチゴやアスパラガスをテーマにしたメニューだったが、夏となって、冷たい料理が増えた。
食べてもいないのに、メニューを訳すのは大変だ。

 インターネットで食通やレストランのサイトを検索すると、フランス料理のほとんどがカタカナ表記だ。仕事でもらっているメニューにはなかったのだが、インターネットで検索中に《グルニュイ》という単語がでて来て、「なんだこれ?」と思ってフランス語を見たら《カエル》だった。

 カエルのモモの肉というのは、チキンみたいな感じで、「カエルだ!」と思わなければ、日本人でも食べられると思う。ぜんぜん臭くないし、クセがない。でも日本人は《カエル》ときいたらやっぱり食べたがらない。《カエル》ときいたら、脳裏に理科実験で腹を割いたカエルの、股を開いた様子が目に浮かぶのだろうか。

 六年生のカエルの実験の時には、朝念じて熱を出し、学校を休んだので、理科実験でカエルのお腹を切ったりはしなかった。カエル嫌いで有名な「ト」さんは、しっかり学校にでて来て、しっかり気絶しかけていたらしい。私は絶対にカエルのはらわたなんか見たくなかったので、念じていたら熱が出た。それぐらい嫌わなきゃカエル嫌いとは言えないのだ。

 《グルニュイ》は一回食べさせられたけど、それきり食べようとは思わない。一回味見したから嫌いと言える。《サーヴェル (たぶん羊の)脳みそ》も食べたことがある。《エスカルゴ》も食べたことがあるが、私はミナが好きだから、貝類には強い。「これは貝なんだ」と念じたらエスカルゴも食べられた。でも一回食べたからもう食べないと思う。

 コックさんのお得意料理、季節の珍味、レストランお勧めの料理を集めたメニューがあって、こういうのは昔だったら《料理長お勧めのメニュー》などとやっていた。でもインターネットでいろいろ調べたら《ムニュ・デクべールト》とか《ディスカヴァリー・メニュー》となっていて、腹が立って来た。
 《ムニュ・デクベールト》だったら、日本に住んでいる日本人の耳で聞いたフランス語をカタカナにしただけだ。こーんなふうには発音しないし、書き換えたとはいえフランス語のままなら、翻訳者の名が廃る。いちおう訳した風で、しかもこのほうが日本人には感覚としてとらえやすそう、と妥協して《ディスカヴァリー・メニュー》としておいた。ちょっと悲しい。誇りを傷つけられた気分だ。でも、いまの日本人はどんなものにも簡単にカタカナを使うし、時には、カタカナで現した外来語のほうが感覚的にわかりやすかったりもするので、柔軟にならなければいけないのだと思う。

 インターネットで見たら《ミトネ》という単語が料理用語としてよく使われているのだと理解できたが、誰もがそう表記しているわけではなかったので、私は私のかすかに残っているプライドとともに《レギューム・ミトネ》とせずに《とろ煮の野菜》とした。
《イチゴ》とか《サーモン》はカタカナにしたが、《桃》や《鴨》は漢字のほうが素敵じゃないかと思った。
 だいたい《カモ》と書いたら、まるで、デートに連れて行ってよと言われて、彼女を三ツ星に招待したのに、車で送ってじゃあまた明日と言われてドアの内側には入れてもらえず、あげくの果てに翌日には捨てられた男、みたいじゃないの?

 《ミトネ》は、来月以降どうするか、コメントが来てから考える。

2006/06/28

お誕生会

 ノエミがクラスメートのテオ君の誕生会に呼ばれた。連れて行ったら、「コーヒーでもどうぞ」と誘われて、ノエミ以外に招待されていたママ連たちと、お茶することになった。
 知らない人のいっぱいいるところでお茶するのは、かなり苦手だ。そこで、興味ありげに、いろいろ質問されるのもいやだが、いかにも興味ありませんというふうに、無視されるのはもっと居心地が悪い。
 本日はお誕生会に呼ばれて来たのだから、ホスト役のご両親がいろいろ気を遣ってくれて、そこに居た人たちに私を紹介してくれたり、失礼にならない程度との思いやりがわかる態度で、程よく私のことを訊いてくれたり、ノエミのことを誉めてくれたりした。

 テオのお家は、丘の上の高台にあって、塀も壁もない代わりに、ご近所の目もない。庭に立って360度見渡せる家にお邪魔したのは、久しぶりだった。お家の人は庭を、裸で走り回っても、きっと大丈夫だろう。プールがあって、20人ぐらい招待していた。

 招待されると招待仕返すのがしきたりだが、「招待するのが申し分けない」ということもたびたびある。おまけにテオの弟のユーゴーとゾエが同じくらいの年齢なので、「ユーゴーのお誕生日にはゾエちゃんを呼ばせて」と言われてしまった。2人とも呼ばれたら、ご両親さまを夕食にご招待とか。。。そういうことまで、普通だったら考えねばならない。

 「ゾエは夏休み中だし、ノエミは冬休み中なので、誕生会はしないんですけど、いつかお茶でも飲みに来てください」などと言って、とりあえず逃げた。まずい、これではできかけたお茶友を失う。

 テオのお父さんは町で眼鏡屋さんをやっている。お母さんもたぶん仕事していると思う。いつも仕事に行くような化粧をして、キャリアウーマンみたいな服を着ているけど、じつは専業主婦かもしれない。おとなしい女の子が2人居て、私はこーんなにやつれているのに、学校でも一番という暴れ者の男の子が2人も居るお母さんがあんなにきれいなのは、絶対なにか、ある。お家もあーんなにきれいだった。どういうことだ!?

 テオのお父さんとお母さんは、雑誌から抜け出て来たようなカップルだ。
 お父さんは、バービーの恋人のケンみたいに、笑うときらっと輝く白い歯に、最先端のスーツなんか来ている。プールサイドで身につけていた水着も、今年人気の柄で、色も褪せていなかったから、去年は履いていなかったに違いない。
 お母さんは、こめかみにシャネルのロゴがどーんと入ったかっこいいサングラスを、スターみたいに頭の上に載せている。「ケン」の横に立っていると、本当にバービーみたいだが、身長が足りない。私よりも背が高いけれども、私と同じで「16歳用の服が入るから安上がり」と言っている。

 敗北感にまみれて帰宅したが、じつは思っていたよりもとても感じのよい人たちで、おしゃべりは楽しく、もしかしたら相手に合わせてくれるという、優しさを持った人たちなのかなーと期待できた。ユーゴーのお誕生日で、また会えるのが、じつは楽しみだ。

2006/06/27

ざジズーぜぞー

 サッカーをやっている。うちにはテレビもないし、サッカー好きもいないので、あまり関心ない。でも、日本から「フランス勝ったね、おめでとう」などのメールが入る。ちょうどその頃、ウィンブルドンのテニスで、日本人の女性が健闘中のニュースはラジオで聞いていたけど、わざわざ「日本人がんばってますね、おめでとう。応援しています」などのメールは誰も書かずにいた。けっこう薄情だ。

 親の家で暮らしている時には、《青梅マラソン》も《オリンピックゲーム》も《甲子園》も、盛んに見ていた。親がつけていたから。《大相撲 秋場所》なども必ずついていたけど、私はあれだけはどーも嫌いだ。
 私はなぜかアイスダンスだけは好きだ。
 そういえば海外でも衛星放送で日本の番組が見られるよと、よく人に言われる。
「で?何が見れるの?」と訊ねると《SUMO》と返事が来るので《ちっ》と舌打ちしてしまう。

 余談だが、両親が日本人でフランスで育ったかずし君という少年が、「ちぇっ」と舌打ちするさまが、かなり印象的だった。「ちぇっ」と言うのだ。はっきり声に出して言うのだ。
「ちぇっ」というのは、確かに《舌打ち》の表現だけど、これは漫画などで《音》を表現する時の文字ではないか?擬態語って、書くことは多いけど、あまり声に出して言う人はいないのではないか?マンガで日本語を勉強する若者の落とし穴だ。
 《ちぇっ》というのは《ごっくん》とか《しくしく》みたいなものではないだろうか?《しくしく》とか《さめざめ》と言いながら泣く人なんていない。ちなみに《ちぇっ》は広辞苑に載っていなかった。擬態語なんだろうか?それとも擬音語?(問題提起、宿題とする)

 本題に戻る。
日本の芸術家やスポーツ選手の活躍を、テレビやラジオで訊くことはほとんどない。
音楽方面での日本人の活躍は目覚ましいと思う。ラジオで音楽番組を聞いているからだろうか?
でもスポーツ界の日本人の活躍は、ほとんどきかない。アイススケートと、スキーのジャンプはとても優秀よと、誰かにきいた覚えもある。そういう公式の試合で日本人を応援しないのは、わたしって薄情なんだろうか?《相撲》を見ないのは、よくない日本人の証なんだろうか?

 この前インターネットのラジオ(http://www.nhk.or.jp/nhkworld/japanese/index.html)で相撲の中継を聞いてみたら、一番強い関取は韓国人だった。相撲界はハワイ人だけではなくて韓国人にまで乗っ取られているとは、知らなかったのでびっくり、ちょっとがっかりした。
 《がっかり》の瞬間に、ささやかな愛国心が生まれた。(?)

 フランスサッカー界のホープ《ジズー》は、私でも知っている。とても控えめな彼は、あまりマスコミでも口を開かないし、口を開くとみんながほろりと涙を流すようなことを言う。ボランティアとか、チェリティーとか、そういうことにもたくさん参加しているみたいだ。一度彼がプレーしているのをテレビで見た。
 あれよあれよと敵のゴールへ向かい、ひらひらと飛ぶように芝生の波間を泳いでいた。いつも真剣で、厳しい顔をしているのに、ボールにはとっても優しいんだろうねえーと思った。ボールのほうが彼を好きみたいだった。もうすぐ現役をやめるらしい。惜しまれてやめられるのが潔くてよい、と私は思うけど、ちょっと勿体ない。

 サッカーの試合の日は、テレビやラジオをつけなくてもわかる。試合前に、トリコロールの国旗を翻しながら、若者たちが車で走り回る。
 試合が終わると、ご近所から一斉に声が上がる。
勝った場合には、試合終了の数分後に、クラクションを鳴らしながら、(たぶん国旗も翻しながら)走り回る車の数が増える。
 決勝に近づくに連れて、走り回る車の数や、路上での騒ぎが増える。

 みんなにとっての、眠れぬ夜。
時差があるから、日本のみんなには大変だ。

2006/06/25

旅行計画

 友達のために、インターネットで調べものをしていたのだった。

 夏休みに日本から友達が来る。せっかく日本から来るのだから、パリには行きたいと思うけど、パリに行きたいといわれたら、ちょおっと困る。遠いので。
「パリの土産は空港か飛行機の中で買うとして、地図で見たら、スペインとかって近そう?行ける?」などと言ってきた。

 うちを拠点にして、10日の全滞在期間にこの辺を案内して、残った3-4日もあれば行ける『すぐそこの外国』が4カ国ある。
 イタリアとモナコと、スペインとアンドラだ。車ですすーっと行ける。

 モナコのそばにJPの親戚が住んでいて、モナコで冠婚葬祭をやったから、行ったことがある。モナコというのは、映画祭のあるカンヌや、マティスの美術館のあるニースに向かって行くと、いきなり現れる『ロッシェ(岩)』の上に、美しく聳えるお城が見えて来る。そこには、歳取った髪の薄い王子様やら、おてんばで浮気者で、おしゃれで派手なお姫様が、ゴシップ紙に狙われながら住んでいる。水族館と植物館が素晴らしい、金持ちしか住んでいない国だ。イギリスのバッキンガム宮殿みたいに、宮殿の入り口におもちゃみたいな兵隊さんが立っていて、むすっとした顔のまま一直線に地平を見ている。(宮殿は見ていない)ちょっと笑わしたろ、と思って、兵隊さんの周囲でおちゃらけたことをやってみたけど、笑わなかった。あれは、面白い。

 アンドラというのは、フランスとスペインの国境になっているピレネーの山頂にある、小さな小さな国で、冬に行くのはけっこう大変だ。ここには10年前の里帰りの直前に『お土産』を買いに行った。ここはいちおう『外国』なので、お土産が免税で買えるのだ。この頃ではフランスではタバコにかけられる税金がものすごく高いらしいので、バスツアーが出て、タバコやお酒を買いに訪れる人たちでにぎわっているらしい。タバコを外国に行ってまで買うなんて、ちょっとあほらしい。はっきり言って、タバコを吸う人は嫌いだ。

 イタリアもスペインも自動車や電車だけでなく、自転車やヒッチハイクや徒歩でも行ける。ふと思ったが、馬でも行けるんだろうか?馬はパスポートもないだろうし?どうだろう?今度調べてみよう。

 うちからだとスペインまでバスで旅行するのが一番簡単で、安上がりだと、JPの意見。
ただし、マドリッドやバルセロナまでだとかなり遠いし、大都市のホテルに泊まったりするのは高くつくので、私にはとんでもない旅行になってしまう。できない。
 お金がないから今年は旅行をせずに、来る者は拒まずでお友達を歓迎しようと思っていたのだから、スペインまで旅行することになるのは、かなりまずい。

 とりあえず、友達がお金を出してくれるというので、『冷房も車もないエコロな夏』を目指していたJPにむっとされながら、子連れでも安心、冷房完備の快適なレンタカーを借りることにした。それで行けるところまで行く、ということになった。モナコはフランス語が通じるし、コートダジュールは前に住んでいて、懐かしくもあるので、モナコまでは行ってみたいと思っている。フランスの終わりにちょっと侵入しているようなモナコを出ると、JPのおばあさんが住んでいた、フランス領のマントンという町があって、そこを過ぎるとイタリア国境の税関にたどり着き、イタリア領バンティミーという小さな町まで15分も掛からない。

 友達が10日しか滞在できないというのは、実に淋しい。フランスの私が見て気に入っている場所だけでも、全部案内している時間はないし、私が行ったことがないけど、ぜひ観光してみたい場所というのもある。
 「また来たい。来て別なとこ廻ろう」と言わせるしかない。

2006/06/24

宴会

 アントワンくんの具合も良くなったので、予定どおり、モーガンたち家族を夕食に招待した。

 モーガンはカンボジアで生まれた。
 生まれた頃にカンボジアでは戦争をやっていて、母親を亡くしたあと、祖父母と父親と一緒にフランスに亡命した。父親はモーガンが3歳以上の時に、フランスで同じカンボジア出身の女性と再婚した。モーガンには三人の妹と弟が生まれたけれども、その時にはモーガンはすでにフランス人の家庭に預けられて、フランス人と同じ生活をし、カンボジア語も全く話せなくなってしまっていたので、カンボジア人の新しい家族とはうまく生きていけなかった。

 そのため、養子に引き取られたり、施設に送られたり、たまに家族と会ってけんかしたり、などなどしながら大きくなった人だ。彼女は口が悪くて、声が大きい。開けっぴろげでけっこう図々しいが、遠慮と親切はよく知っている。さりげない繊細な心遣いのできる人だ。彼女の口から親兄弟の話が出るまで、苦労ばかりで大きくなったような人だとは思いもしなかった。暗さのみじんも感じさせない。知らない人まであっというまに明るくしてしまう人だ。

 私は彼女といると、わがままを言うことや、やきもちを焼くことや、不満を言うことや、努力しないということの醜さを感じる。自分たちは裕福とは言えなくても幸福で、私にとっては不自由のない少女時代を過ごせたこと。毎日は会えないし、よく行き違ってもいるが、「そこ」に居て助けてくれる家族が、いまだに「そこ」にいるという幸せを感じる。助けてもらってばかりで、助けてあげられない、というあたりの一方通行だけれども。

 彼女は「みのりはフランスでたった1人でがんばっている偉い」と言ってくれる。「私たち似ているから助け合おう」と言う。ちっとも似ていないのに。母や姉たちが日本から送ってくれる小包みをみて、うらやましがる。中をのぞいて、「うらやましい」と言う。

 彼女が「うらやましい」と言うとき、私は素直に「じゃあいっしょに食べよう」と分けたくなる。彼女が居ない時に小包が届いたら、電話して小包みの山分けをとりに来るように言う。
 モーガンはカンボジアで生まれて、しっかりアジア人の顔をしているから、フランス人は「アジア人だ」と思って声を掛けてくれないこともある。フランス人からは「アジア人だ」と言って区別されることもある。でも彼女にはフランス人の文化しかない。
 アントワンくんとゾエは「ふたごですか?」と言われることがあるし、私とモーガンは「姉妹ですか」と訊かれることもある。(似てなくてもアジア系はみんないちおう兄弟?と言われる)

 モーガンは、私と居ると「アジア」の雰囲気を感じることができるようなのだ。私は「カンボジアの文化」というものは知らないけれども、モーガンは「アジア系」でいっしょくたにしている《フランス人》だから、日本もカンボジアもたいしてかわらないらしいのだ。ほかのどんなフランス人とも同じ考え方だ。

 うちに来て、漆塗りのお椀でみそ汁を食べたり、お箸でお寿司をつまんだりするのが、たまらなく好きだ。日本のものは何でも好きだ。アジア的な装飾品のような「物」は好きでも、「刺身」のような特殊な食べ物を「口に入れることはできない」という《アジア好き》はいっぱいいる。でも、モーガンは何でも好きだ。料理だったら、すぐにレシピを書き留めるし、写真だったらコピーして行く。私がなにか「あげるよ」というと何でももらって行く。

 食の細いアントワンくんが《ふりかけご飯》だったら何杯でもいけるということが判明したので、私もモーガンもアントワンくんに、せっせとふりかけご飯を食べさせている。

 夕食では、ブタ唐揚げの南蛮漬けと、まき寿司、カリフラワーとアスパラガスの酢みそ和え、グ沢山、豆腐とわかめ入りみそ汁(赤だし)、などなどを出した。普段は押し入れに入ったままの、お祝いの日のためだけのきれいなお椀や小皿を大放出した。

 とても楽しい夕食会だった。今度いっしょにアジア雑貨の店に行って、《日本人の台所に必要な物》をモーガンと2人で物色する予定。

2006/06/23

連休

 昨日の夕方、小学校の門の前で「幼稚園のゾエの担任は明日もおやすみだが、代行の先生が来る予定」と伝えられていた。でも、うちで遊んで帰る時のアントワンくんが熱っぽかったので、担任の先生が居ないなら、明日もまた預かろうと思っていた。どうせ年度末で、教室では大したことはやっていない。
 
 モーガンはアントワンくんを幼稚園に預けるつもりだったのだが、やっぱり熱があるので、私が預かることにした。モーガンはもしものことを考えて、ちゃんと薬のかばんを持って来ていた。
アントワンくんは《おたふく豆》に含まれるなんとかいう成分のアレルギーで、赤ちゃんの時におたふく豆を食べたとき、白血球と赤血球に異常が起きて、死にそうになったことがある。身体中の血液を取り替えることになった。おたふく豆と同じ成分を含む薬や、おたふく豆以外の食品も危ないので、モーガンは子どもを人に預ける時には必ずそのことに注意してくださいと頼む。もちろん勝手に薬はあげられない。熱があるからうちにある薬を飲ませようなんて親切心を出したら、子どもを殺すことにもなりかねない。こんな子を預かるのはちょっと恐い。

 前日よりも具合が悪いのか、アントワンくんは少々ぐずりやで、全体的におとなしかった。
相棒がおとなしいせいか、ゾエもけっこう静かにしていた。
また昼間に川の字になってベッドに寝転がっていたら、2人はすぐに寝入った。
1時半から4時過ぎまで、「ぐーすか」いびきをかいてよく寝た。
子どもたちも年度末で疲れているのかなあ。
おかげで私はいろんなことができた。
ただし朝市には行けなかった。

 4時過ぎまで寝かせていたら、今度は夜に困るだろうと思い直して、まだよく寝ている子どもたちのベッド脇で「おやつだよー。おやつの時間だよー」と繰り返して言ったら、一人、また一人と起きて来た。

 モーガンが戻って来て、「アントワン、昼寝好きじゃないのよ。どうやって3時間以上も昼寝させられたの?」というので、必殺の《アイスノン》を見せた。
1時半に熱っぽかったので《アイスノン》を出して来て、頭にのせてあげたら、すごく気持ちよいと言った。ベルトでおでこに貼付けるミニ・アイスノンもある。

 夜に熱を出したら困るから、と言って、我が家の大小アイスノンを二つ貸してあげた。
帰るときやっぱり熱があって、ちょっと心配。

うちの子たちは健康で丈夫で、親は幸せだなあ、と思った。

2006/06/22

逆行

 あさ学校の方に歩いていたら、この頃とっても仲良くしているモーガンが、蒼白な顔をして、息子のアントワンくんを引きずりながら、逆行してこちらに向かっていた。
「どうしたの?なにか事故でも?」こちらも焦る。
「担任の先生がおやすみ。理由は不明。子どもは自宅待機との貼り紙。わたし仕事に遅れそう。子どもたち家で見れる?」

 モーガンが言ってる間に、ノエミは勝手に学校に向かってしまった。
「いってらっしゃーい、ノエミー。ひとりも2人も同じだよ。仕事に行きなさい」
モーガンは行ってしまった。お年寄りが待っているのだから。

 じつはこの朝にはガレージに予約を入れていた。
数ヶ月前から、フロントガラスにヒビが入っていたので、ようやくそれを取り替えてもらうことになった。保険も降りる。仕方ないから、子どもを2人とも連れて行くことにした。

 JPが「駅を過ぎたら一番目を左に折れて、踏切を渡ったらすぐの道を左に」と言ったので、その通りに左に折れたら、一方通行だった。
人の子どもを車に載せて、一方通行を逆行してしまった。あーあ

 ガレージというところには子どもの好きな車がたくさんあって、しかもそこにある自動車は、修理のために窓が外されていたり、おじさんが車の下に寝っ転がっていたり、ボンネットが開いていたりするので、子どもたちは大喜びだった。おまけに通された事務所の時計は、ブリジストンタイヤの宣伝の入った、ブリジストンタイヤ型をした時計で、子どもたちにかなりうけていた。
《ようこそ》の足拭きマットも自動車の形だった。

 窓の外で、いよいよ私のフロントガラスの取り外しが始まったので、窓の内側にイスを持って来て、2人はひとつのイスを取り合いながら、仲良く窓の外で行なわれている修理を眺めた。

 1時間も掛からなかった。21ユーロしか掛からなかった。本当は200ユーロもするそうだ。保険というのは有り難いものだなあ。

 家に帰って、子どもたちはミニカーで遊んでいた。私は鳥の唐揚げと、みそ汁を作り、白いご飯を炊いて、モーガンが帰って来るのを待った。モーガンは、お年寄りの家を廻って、書類書きを手伝ったり、ご飯を食べさせたり、病院に連れて行ってあげたりするヘルパーさんだ。木曜日は8時半から11時半まで、午後は1時半から6時までの予定だった。

 モーガンが帰って来た。お昼ご飯をいっしょに食べようよと言ったら、始めは遠慮していたが、子どもたちがすでに食べはじめていたので、ノエミが一人で学校から戻って来てから、いっしょに食べた。

 モーガンはカンボジアで生まれて、3歳の時にフランスに来た。アジアのものに憧れているけれども、3歳から過ごしているのはフランス式の生活で、顔は私みたいなアジア系なのに、生活様式も、考え方もすっかりフランスの女性と同じだ。カンボジアの料理などもよく知らない。

 前にもみそ汁を食べさせたら、とても喜んでいたので、今日も食べさせようと思って作って待っていたのだ。豆腐とわかめも入れた。3杯おかわりしていた。
アントワンくんはいつも食が細いのに、ふりかけを掛けたご飯と、みそ汁ならいくらでも食べるのでびっくりした。

 モーガンは「ごめんね、ごめんね」と言いながら、子どもを置いて仕事に出て行った。私たちは3人で川の字を作って、昼寝をしようと試みたけれども、子どもたちはすっかり興奮していて、遊びたくて仕方がないようだったので、ちょっと横になって休んで、あとは勝手に遊ばせた。

 2回はけんかして、どうなることやらと思った。一日はあっという間だった。
夕方モーガンが迎えに来たとき、アントワンくんがちょっと熱っぽくて、心配。
興奮しすぎたんだろうか?

2006/06/21

体験入学

   ノエミは、お友達のニナのうちへご招待。お昼までいただくらしい。

 午後の音楽学校はお休み。

 今週は音楽学校で「体験」ができる。ゾエがもうここのところずうっと「ヴァイオリンとクラリネットをやる」とはりきっているので、体験させてあげられるかもしれないと思って、連れて行った。でも、ヴァイオリンとクラリネットのクラスは、体験できなかった。

 「代わりにトランペットのクラスを見学したら?」って言われて、この先生、ゾエを馬鹿にしてんの?と思ってむっとしたが、「ジャズをやってるよ」と言われてゾエの目が輝いたので、連れて行った。

 ゾエはジャズが好きなのだ。

よく「わーっちゅーせー!!」と叫んでいる。

これはアームストロングの歌のリフレインで、What do you say ? かなんかだと思う。

英語は苦手。本人もわかっていない。

 ちなみにノエミはボビー・ラポワントが好きで、この前「あ」さんが来た時にいっしょに歌った

「タカチタキテ」も新しいレパートリーとなり、ゾエと2人でよく歌っている。

「タカチタキテ」というのは ta cathy t'a quitte 「いとしのカティーちゃんが、おまえを捨てた(いとしのカティーに捨てられたかな。)」というような意味、だとおもう。

 どれも子どもらしくない選曲。JPの趣味。「ママン・デ・プワッソン」は私も大好き。

個人的にはアフリカやらメキシコやら、アイルランドやらコルシカ島の歌が好き。

 トランペットとピアノのジャズを見て、子どものための音楽教室をのぞいた。

5歳からのクラスで、ゾエは入れないけど、5歳以上らしきそのクラスのメンバーはというと、先生の言うことは聞けないし、じっとしていられないし、音楽はどうでもよいという感じの子どもたちで、ただ騒がしいだけだった。楽器には触れずに走り回っている。5歳からでも楽しそうなクラスだったら、新学期には4歳になるゾエも入れてもらおうと思ったが、私のほうがよっぽど面白いレッスンができるわっ、と思ってしまったので、申し訳ないけど、ゾエには音楽学校は諦めてもらうか、ほかを探そうと思った。

 「柔道やってみる?」と言ってみたけど、やりたくないそうだ。「剣道ならやる」とは言っているが、カーモーには剣道のクラブがないし、ドレイ先生は子どもには教えないので。

「小さい子のヴァイオリンのクラスはないんだってさ」と言っているのに、「いーや、ヴァイオリンかクラリネットをやる」と言ってきかない。

母は、もう少し考えることにする。

習い事もけっこう出費なのよねー。

2006/06/20

反省会

  午前は幼稚園の映画鑑賞会の引率。

子どもたちの手を引いて、町の映画館まで中国の映画を見に行った。

お昼は、幼稚園の前の公園で、ピクニック。

 夜は8時半から母親の会。主に先日の祭りの集計と反省会。

全体的に「よかった、という うわさ」

 細かくは、祭りの時間帯についての不満や、予定どおりに進まなかった事柄の結果報告。うまく切り抜けた人の自慢話や、パスポートや夕食会、飲み物スタンド、お菓子売り場の売り上げ発表。

 折り紙スタンドはだれからも好評を得た。特に、母親の会に参加している人たちの子どもたちが、ずいぶん私のことを誉めてくれたらしく、そのおかげで、今まで母親の会で口をきいてくれたこともなかった人たちからも、「うちの娘がまたやって欲しいと言っていた」などと話しかけられた。

 折り紙スタンドで用意していた、作り方のコピーを、パニックの中で全員配布出来なかった。用意した紙もたくさん残ったので、家に帰ってから自分で試してみられるように、折らない紙もあげればよかったと思った。紙がたくさん残った、と話したら、「来年も、再来年もあるから、自宅に保管するように」と言われた。来年はもっとうまく準備できると思う。折り紙は大好きだから、ほとんど一人で切り盛りした時間も、あまり負担ではなかった。暑くなかったのもよかった。

 係を決めたんだから、と言って、自分の仕事の時間が来なければ、立ち上がらないという役員もたくさんいた。私は、自分の役割が一体なんだったのか忘れたので、とにかくいろんな所に出しゃばって「やることある?」と声を掛けてみた。どこに行っても人手は多い方がいいと、喜んで遣ってもらえた。

 でも「自分の役割でもないのに出しゃばって、私の出る幕はなかった」との不満を述べる人がいた。そういう人は、「いや、別に人がやってくれるならやらせておけばいいと思った。。。」というのが本音。私がなにか言う前に会長さんから「やりたいなら出て来て、すすんでやったらいいんですよ。手伝いは多ければ多いほどいいんだから」と反撃を受けていた。まさにそのとおり。

 その代わり、出しゃばってたくさん働いた人は、こーんなに働いた、と言ってはいけない。わたしはJPに「ちょっと座っていたら?」と言われながらも、身体がうずいてしょうがなかったので、たぶんお祭りが楽しくて仕方なかったのだと思う。やることはあとからあとから出て来た。疲れはあまり感じなかった。

 反省会のあと、年度末のピクニックの計画が話し合われた。

母親の会と、祭り委員会のみんなで、家族ぐるみのピクニックがある。12月には忘年会もあって、JPは行きたくないと言ったのだが、ピクニックには喜んで行くそうだ。彼もまた、祭りの間に、いろんな人と知り合いになれたみたい。来年はJPに役員をさせようかなあ。

2006/06/19

スイミング・プール

   降るぞー降るぞーと言われているのに、ぜーんぜん降らない。

ラジオのニュースによると、各地のダムや貯水池の水位が、7月後半並みらしい。

この辺でどどーと降ってくれないと、7月も8月も完璧に水不足だ。

それにしても暑くて、子どもたちがぐったりしている。

 前から気になっていたビニール製のスイミングプールを見に行った。

見てしまったら、やっぱり欲しくなった。

 高さ30センチ、直径が150センチのカラフルなプールを買った。

ゾエが昼寝している間に、空気入れ用のポンプを探すのが面倒くさくて、廊下に座って自力でプールを膨らまし始めた。全部で4段膨らまさなければならない。

 2段目まで膨らましたら、汗が流れて来た。3段まで膨らましたら過呼吸で気分が悪くなって来た。死にそうーと言いながら4段目まで行った。執念だ。

 プールを中庭に置いたら、中庭がぐっと小さくなってしまった。さて、水を入れねば。

はっ!世間様は水不足を警戒して、節水が呼びかけられている。。。どうしよう。。。

 よっしゃ、母はやるぞ。

 庭にまわって汲み上げ式の井戸ポンプのとってをつかむ。バケツには10リットルのラインが入っている。とりあえず5杯を目安に、汲んでは運び、汲んでは運んだ。水はこぼしていないのに、私はびしょ濡れだ。でもバケツ5杯ではプールはただの水溜まりでしかなかった。

 よし、あと5杯ね。でも先は長いねーと思いながらも、せっせと井戸の水を汲んだ。早くしないとゾエが昼寝から覚めてしまう。

 10リットルのバケツを10回運んだが、いまいちプールらしくならなかった。ゾエはまだまだぐっすり眠っているが、ノエミが帰って来る時間が近づいて来たので、15回を目安に、妥協することにした。

 「ゾエちゃーん、あんまりたくさん寝ると、今晩も夜遅くまで寝付けないよー」無視された。「プール膨らましたよー」と耳元でささやいたら、がばっと起きて素っ裸になって出ていった。

井戸水プールは20度しかなくて、ゾエはブルブル震えていたが、いちおう遊んでいる。

 ノエミは今日一日またボート実習で、帰って来たら顔がひやけで真っ赤になっていた。ブルブル震えながら、顔をつけて喜んでいた。

「でも、これじゃあ、あんまりプールって感じじゃないよね」

親の苦労も知らずに、水が少ないと訴える子どもたち。

「うちには井戸がある」と太っ腹になっていたために、じゃああと5杯ねと言って水を運んだ。子どもたちは大喜びしている。

 先日、JPはテラスにブランコを下げたので、ノエミはブランコで身体を温め、プールで冷やすという遊びを考え出し、夕方遅くまで仲良く遊んだ。

 その夜、ものすごい風が吹き荒れて、雷が鳴っていた。ずっと稲光で空が明るく、なかなか眠れなかったので、夜中に部屋を暗くして、窓のそばに1時間くらいいて、空を見ていた。夜の間に気温がぐっと下がり、湿り気も感じたが、雨は3ミリしか降らなかった。

 翌日、3ミリの雨で汚れたプールの温度はぐっと下がり、子どもたちはプールに近づかなかった。ボボがプールの外に縄張りを貼ったので、臭い。JPはプールの水を、トマトとヒマワリとトウモロコシと、芝生に撒いた。

200リットルの汚れた水は、これからしばらく放置されて、水まき用の貯水池となるだろう。

ああ、悲しい。

2006/06/18

父の日

   キャップ・デクベートの大きな広場で、《風祭り》が催されていた。

凧上げや、ハンググライダーなどのお祭りだ。

去年も行きたかったのに、行けなかったので、学校のお祭りあとで疲れていたのだが、どうしても行きたかった。

 セネガルに住んでいた時に、JPは広げた羽の長さが3メートルぐらいにもなる、大きな三角の凧を持っていた。その凧には操縦用のヒモがふたつついていて、両方の取っ手を操って、空に《八の字》を描いたり、自由に円を描いたりすることができた。真っ白い砂浜の海岸に座って、何時間でも凧上げを楽しむJPを眺めて過ごした。大きな凧だから、私には操作できなかったのだ。風にあおられて、空に飛ばされることもあったぐらい。腕の力がなくて八の字なんかは絶対に無理だった。

「今日は父の日だから、パパの好きな催しに参加しようねー」と言って、凧を見に行くことにした。セネガルで遊んでいた大凧は、遊びすぎて壊れてしまった。でもしっかりモトはとったと思う。

 会場では、凧上げがすでに始まっていた。昔《インド人の黒んぼ》というゲームをよくやったものだが、フランスでは全く同じ遊びで「アン・ドゥー・トろワ・ソレイユ」という。「1.2.3」で動き回って、「ソレイユ」と言われたらぴたりと止まらなければならない。それを、空高くに飛んでいる凧でやっていた。八の字や円を描いて、暴れ回っていた凧が、マイクの「ソレイユ」でぴたりと止まるのは面白かった。

 その他にも、様々なタイプの風車や、風鈴みたいなもの、庭の飾り、テント、リボン、ありとあらゆる風にまつわるオブジェがところ狭しと並んでいた。本物の鯉のぼりも風にはためいていた。放送を聞いていたら、「世界の凧」の解説があって、日本の「紙製の凧」という言葉も出て来た。

そして、ふと、昔のことを思い出した。

 子どものころ、お正月に、父は畳一畳分ぐらいの紙製の凧を作った。ある年の大凧のことは特によく覚えている。じつはその凧のことしか覚えていない。数人で抱えて海岸に持って行ったのではなかったかと思う。

 母などが昔話をする時に「毎年、あげていた」というので、きっと毎年大きな凧をあげていたのだろう。姉たちにはもっと鮮明な思い出があるかもしれない。私が覚えているのは、自分よりも大きな紙の凧で、父が自分で描いた、なにか恐い絵が風に吹かれて、正月の冷たい空に高くあがっていったことだ。どんなふうにそれが地上に戻って来たのか、覚えていない。落ちて壊れたのか、壊れないまま持って帰ったのか、覚えていない。覚えているのは、空高くに飛んでる巨大な凧だけ。

 子どもたちを連れて日本に帰った時にも、同じようなお祭りがあって、子どもたちは会場でゴミ袋を利用した凧を作った。魚見岳の麓の、昔と変わらない風が吹き荒れる広場で、ゴミ袋の凧はよくあがった。ノエミが「日本で作った凧、どこにやったかな?今日持ってくればよかったね」と言っていたが、じつはその凧は日本に置いて来た。あの時に父と凧上げをすればよかったなあ、と思った。

 子どもたちに無料で凧を貸し出しているコーナーがあり、ノエミはJPと、ゾエは私と凧上げをした。遠くの空に入道雲がモクモクとあがっていて、真っ青な空をバックに気持ちよかった。鯉のぼりも元気よく泳いでいた。そういえば《空に泳ぐ本物の鯉のぼり》を見たのは、18年ぶりぐらいだ。

 ノエミとゾエの父も喜んでいた、と思う。

私の父じゃあないので、プレゼントはなし。

2006/06/17

Kermesse ケアメス 学校のお祭り当日

   大雨の予報だ。風が吹き荒れているし、空は不運な雲が流れている。風に流される雲の加減で、日がガンガン照りつけるかと思ったら、数分後には真っ暗になり、夕方ごろには大雨だなーと思いながら、10時半に我が家の冷凍庫を学校に運んだ

 うちにはJPの祖母からもらった冷凍庫がある。お祭りでアイスクリームを販売するので、冷凍庫を持っている人は貸してと言われた。薪を運ぶ「ディアブル(悪魔)」という名前のキャリーを利用して、JPに運んでもらった。

 お祭りでは母親たちが作ったケーキやクレープも販売されるので、私はリンゴとアプリコットのケーキを作って持参した。(好評だったので、今度レシピを紹介します。)

 折り紙スタンド用のテーブルを、木陰に確保して、貸してもらったホワイトボードに、折り紙のモデルを貼った。一応幼稚園生には簡単なのを三つ用意して、あとは人の流れと、生徒のやる気と、こちらの対応能力に合わせて、臨機応変に生徒の要望に応えられるよう、動物の顔や、箱、船、飛行機などなどを用意した。

 アシスタントを申し出てくれていた「ナ」さんは、予行演習したはずの《かぶと》と《セミ》と《ネコ》をすううっかり忘れてしまっていて、スタンドをオープンした時点で「もうやめたい」と言い出した。ノエミとJPが来て手伝ってくれたので、暇な時に「ナ」さんはどこかに行ってしまって、そのあとは、消えた。

こいつううう

 風が吹き荒れていたので、折り紙スタンドはハプニング続きだった。声を張り上げたのでノドもからからになったが、風と雲のせいであまり暑くなかったので助かった。あのJPがコーラを買って来てくれた。

 この日、ヴァイオリンの発表会もあったので、JPとノエミは予行演習と、本番のために抜け出した。ノエミの演奏は大変よかったといううわさで、ほっとしたが、行けなくてとても残念だった。

 子どもたちは入り口で《パスポート》を買うことになっていた。幼稚園児向けと小学生向けに別れた、それぞれ5つのスタンドを廻って、スタンプを押してもらう。スタンプが5個そろったらプレゼントがもらえる。スタンドによっては景品付きのゲームをやっているところもあって、子どもたちはいろんなものを獲得していた。

 折り紙スタンドは、このスタンプを押してもらえる《有料》のスタンドとは別で、《メーキャップ》スタンドと、《コラージュ》スタンドと並んで無料参加できる《アトリエ》と言われるもので、ここではクリエイティブなことをやって持ち帰ることになっていた。ノエミの担任のミゲレーズ先生も飛び入り参加していった。先生にはノエミが《ネコ》を折らせていた。折り紙に来てくれた人には、私が前の夜に200個用意した《金魚》の飾りをプレゼントした。

 ゾエは友達の家で昼寝をさせてもらって、夕方遅くに出て来たが、大好きな《アヒル釣り》で馬のぬいぐるみをもらっていた。それから《メーキャップ》のスタンドで、自分で選んでチョウチョの模様を顔いっぱいに描いてもらっていた。

 ノエミは「目隠しで絵を描こう」に参加してフラフープを獲得。馬の絵を描いたらしいのだが、目隠しが透けてるんじゃないの?というぐらい、ちゃんとした馬の絵を描いて、周囲をあっと驚かせたらしい。馬の似顔絵は家じゅう至る所にある。あーんなに毎日練習していたら、目隠ししていても描けるだろう。もらったものがフラフープでひと安心。子どもによっては《たて笛》をもらった子もいた。祭りの間中どこかでピーヒャラ鳴っていて、その横では親が「うるさい、笛を片付けろ」と叫んでいるのが聞こえていた。

 夜には市役所からのプレゼントで、祭りに来ていた人全員に、キールとジュースとチップスのアペリチフが振る舞われた。そのあとのお食事会では、事前に申し込むことになっていた、大人一人12ユーロ、子どもは無料のフルコースで、メニューはサラダ・エリヤ・チーズ・コーヒー・ワイン・デザート(アイスクリーム)・コーヒーだった。パエリアは、校庭に大きな専用のフライパンが出されて、みんなの目の前で料理された。エビが入っていたので、JPにとり肉をあげる代わりに、山盛りのエビをもらった。おいしかったあああ

 母親の会の役員は、家族や親戚まで動員して準備から配膳、後片付けまでを受け持った。見るに見かねて臨時ボランティアも、何人か加わってくれた。

 朝の10時半にテーブル出しなどの準備に始まり、片付けが終わったのは午前2時ごろだったと思う。参加者たちは口を揃えて「よいお祭りだった。楽しかった」と言って帰って行った。批判と反省は、あとから出てくるだろう。

 疲れを忘れるぐらい楽しかった。 

このお祭りを境にたくさんの人と親しくなれた。

雨は全然ふらなかった。

2006/06/16

雨の予報

   週間予報によると金曜日から崩れて、土曜日は大雨といううわさ。近所のおばさんが「リュウマチが痛むから、お祭りは雨よ」と予言されてしまった。

 久しぶりに「ダニエルさんちでおしゃべりする」に参加してくださった「あきこさん」の素朴な疑問で、「ゴトウさんちのお布団」ってのは一体なぜ?の疑問にちょっとだけ応える。

 ごとうふとん店は高校の同級生のみゆきちゃんのお嫁入り先。「ごとうふとん店」のサイトを覗いて、訪ねた人はちゃんと買ってください、よろしく頼むよ。

 それにしても、最近のおしゃれなお店は「喫茶店」と言わずに「ティールーム」。「散髪屋」と言わずに「カットショップ」や「ヘアーサロン」などと呼ばれていて、どーも馴染めない。みゆきちゃんのお店が「ごとうふとん店」という名前でいささかほっとしている。そういえば、フランス語の辞書でもsushi、nori、tofu、bonsai、はそのままだから、futonにも訳語はないのだろう。うちにも布団があるが、床が板敷きだから背中が痛くなる。早く和室を完成させ、畳を入れて、ごとうふとん店の布団を購入するのが、今の私の夢だ。

 金曜日、空が真っ暗。朝市でも雨に降られるかと思って、大急ぎで買い物した。

ニュースによると、貯水池やダムなどで、はやくも7月後半の水位。すでに各地で山火事が発生しているとのこと。普段あまり水を飲まない私も、よく水が欲しくなる。これはよほどの暑さを現す。 

 私は1.5リットルの水ボトルを、2週間以上掛けても一人では飲み終われない人間だ。昔から、トイレに行くのが嫌いなのと、おねしょをするのが恐いので、水はあまり飲まない。

 隣のお年寄りが「暑いねー」と言っているので、「水を飲まないといけませんよー」と声を掛けた。その足で台所に行って、水を飲んだ。

 祭りはやりたいけど、雨が降ってくれるなら、中止になってもがまんできる。

かんかん照りのもとで、三時間も折り紙をやるよりは、ましかも。。。。

雨あめ、降れ、降れ。。。土曜日までに降ってくれえーーーーい

2006/06/15

ばっしばしの抜歯

   ノエミの犬歯が抜かれる。犬のような歯というよりは、鬼ばばあのような歯だ。しかも外に向かっているのではなくて、歯茎の内側に生えている。もちろんほかの歯と並ばずに、両隣の歯に比べたら45度ぐらい曲がっている。その歯はなくてもいいと歯医者に言われた。矯正器具をつけるのに邪魔らしい。

 三週間後には矯正の器具をつけることになっているので、今からその歯を抜く。歯医者は数週間前から予約してあって、普通の歯医者ではなくて病院内の特別治療室で「手術」並のものものしさ。親は「子どもに麻酔をすることを認めます」とサインさせられた。

 その医者に予約を入れてから、JPが同僚から「その医者は肉屋だ」と言われた。同僚は娘の治療のためにその医者にかかって、娘は治療の最中に痛みで大暴れし、口を血だらけにして、治療室から泣き叫びながら出て来たと語った。

 私は、どうしよう、どうしようと思いながら出掛けた。(カーモーのかかりつけ医の紹介だったから、信じることにして。)

 その医者にはこれまでにも、矯正器具の見積もりのために二回ほど会った。子どもにはけっこう優しいし、ギャグなど飛ばして、ノエミを笑わせている。けれども、アシスタントの看護婦さんたちを怒鳴り散らす様子や、《命令》の仕方を見ていて、腕が良くなかったら絶対に挨拶したくないなあ。。。と思うような医者だった。自分と《客》以外はみんな敵!みたいな雰囲気があった。

でも歯医者は、神経質に細かいことを気にするぐらいでないと勤まらないと、じつは思っている。なにしろ細かい作業だから。

 昔わたしは(なぜか)歯医者になりたかったのだが、私のようなおおざっぱな人間には、絶対に無理だっただろう。

 緊張して、朝も早くから支度し、遅刻だけはしないように余裕を持って出掛けた。あの神経質な医者をイライラさせてはまずかろう。病院での待ち時間を予想して、雑誌や本も大量に持って行った。抜歯してから数時間は食べられないのではないかと思ったので、出掛ける前に「無理してでも食べろ」とノエミに無理を言った。

 治療は5分。書類を作って、お金を払って、次回の予約をして。。。病院を出るまでに15分しか掛からなかった。駐車場に来てから、ノエミが「抜いた歯をもらうの忘れた。歯がないとネズミが来てくれない」と言うので、歯をもらうためにUターンした。

 抜歯後の歯はすぐにゴミ箱に捨てられたらしい。もうどれがノエミのかわからない。看護婦さんは、病院内で患者の体内から出たものは、すべて消却されることになっていると説明してくれた。

「ノエミはとっても強かったから、ネズミの代わりに、ママンがプレゼントをあげるよ」となぐさめたら、ちょっとは安心したみたいだ。

 夜少し痛みはあったものの、熱を出したり、ひどく痛がることはなかったので、ちょっと安心した。

矯正の器具なんか、つけなくてもいいのになあー、かわいそうになあーと思う。

「女の子だから、きれいにしてあげなさい」とみんな言うけれども、今現在は自分の歯並びの美しさなんかどーでもいいと思っているので、そんな子に矯正器具を強制するのは心苦しい。でも、義母などはきれいにしてあげないとあとで恨まれるよ、と言っている。

 そんなものだろうかねえ。

健康な子どもに生んであげたんだから、あとは死ぬまで感謝されると思っていたけどねえ。

2006/06/14

折る紙

   学校のお祭りが近づいているので、準備に追われている。

私は校内にもうけられる15のスタンドのうちの、折り紙スタンド担当。

 祭り委員会会計係が小切手をくれたので、折り紙用の紙を買いに行った。

普通のプリンター用の紙は1平方メートルにつき80gだそうだ。お店に行って紙を触って「これじゃあ固すぎる」と思った。

 最近はフランスでもORIGAMIが人気で、フランス語の本も沢山出ているし、専用の紙も売られているのだが、大量に買って小学生に配るには少々高価。パックになっていた折り紙セットを見つけたが、10枚で6ユーロもした。

 祭り委員会からお金はもらえるけれども、あまり無駄遣いはできないし、小学生が家に帰って、専門の折り紙ではなくても、どんな紙でも《折り紙》は楽しめると知ってもらいたいので、高価な紙をわざわざ買いたいとは思わなかった。ちなみに新聞紙も用意する予定。私たちは新聞を買わないので、JPが職場から束でもらって来た。

 プレゼントを包むつるつるの包装紙もなかなかよいのだが、これは大きな一枚の包装紙が、クルクル巻かれて売られているので、20センチ四方ぐらいにいちいち切ることを考えたら骨の折れる作業だ。

 造花を作ったり、工作に利用する《絹の紙》という名前の紙もあるが、書道はんしのような透き通った紙で、折り紙に使うには薄すぎる。

 文房具店を歩き回っているうちに、《スー・シュミーズ》なる代物が目に止まった。数枚の書類をバインダーや箱に納める時に、色分けする紙で、A3サイズが二つ折りになって売られている。これにA4サイズの書類を挟んで片付けることができる。厚紙になっているものや、見出し用の窓がついたものもあるが、その中に1平方メートルあたり60gという薄い素材のものを見つけた。ひとパックに150枚入っていて7ユーロだった。1色につき10枚の束が3つずつ、5色ある。これを折り紙用に、21センチかける21センチに切ったら300枚。子どもは200人集まる見込みだから、1束で足りそうだが、多めに買うように言われているので、2束買うことにした。

 基本的には「どんな紙でも楽しめるのが折り紙。役に立つものも作れる」とアピールしたかったので、正方形の紙のほかに、新聞紙と、普段学校で使うA4の用紙(長方形の紙)を用意した。新聞紙では《シャッポ(本当はカブト)》、長方形の紙では《シャツ》や《ゴミ箱》も作ることにした。

 上手に折れないけど、作品は欲しいという子どもも絶対に居ると思うので、自宅にあったきれいな千代紙で200匹の金魚を作り、糸を通してぶら下げられるようにした。子どもたちにプレゼントするつもり。

 私といっしょに折った作品を、自宅でも家族と楽しめるように、作品のモデルをコピーした。

準備ができた。

当日、ちゃんと教えてあげられるように、せっせと練習に励む私であった。

2006/06/11

ロバ祭り

   カーモーから約13キロほどに位置する、モネスティエという町で《ロバ祭り》が開かれた。

モネスティエは、カーモーからコルド・シュル・シエルという町に向かう途中にある、森の中の小さな町だ。コルドにチェロを習いに行く途中、毎週この町を通過するが、数週間前から「ロバ祭り」を知らせる垂幕が、町の一番目立つところに掛かっていた。

 《ロバ祭り》で子どもたちが楽しみにしていたのは、ロバの背中に乗ってのお散歩と、ロバに引かせる馬車ならぬ《ろ・ば車》でのドライブ(?)、そして、なによりこの祭りの目玉は《ギネスブックにもでている、世界で一番小さいロバ》に出逢えることだ。なーんでこんなところに《世界一小さいロバ》が居るんだろう。指宿の池田湖にいる《世界一大きいうなぎ》を思い出して、ププッと笑ってしまった。この双方に共通するのは「だから、何?」と言ってしまうほど、本来の役割を果たせない、ただ見て楽しい動物、ということだろうか?

 ボボサイズのロバには荷物は運べないし、背中にも乗れない。

直径30センチのウナギは、蒲焼きにしたってまずそう。

 でも小型犬ぐらいの小さなロバは、おとなしくて、とてもかわいかった。

 お祭りでは子どもたちにロバの絵を描いてもらう、絵画コンクールが行なわれていた。ノエミは馬を描くのが得意だから、青一色でささっと二枚の馬を描いて、長い耳を付け足していた。スタンドのおばさんを唸らせていた。

 ゾエはロバを引く自分まで描いた。ロバは鞍を背負っている。朝からずっと「ロバの背中に乗るんだ」と言い続けていたので、思わず鞍も描いてしまったらしい。

 ロバの背中に乗ろうとする子どもたちは、チケットを買って順番待ちしていた。イギリス人観光客がいっぱい並んでいた。小さな子どもが流暢な英語を話すのを聞いて、ノエミがえらく感心していた。15分以上待って、いよいよゾエとノエミの順番が来た。JPはゾエのロバの隣を歩いて、ノエミのほうの大きいロバには、農場のおじさんがついてくれていた。《農場のおじさん》と言っても、ロバを使って畑を耕す農家なんてないし、乗馬みたいにスポーツとして楽しむわけでもないだろう。ロバを飼うのはたいてい草刈りが嫌いな人だ。日がな一日その辺を歩き回って、草を食べているのが、フランスのロバの最近のお仕事だ。ヤギやヒツジも草刈り業を専門としている場合が多いが、ヤギやヒツジは草刈りのほかにもいろんな勤め先がある。《ロバ祭り》には生後三日の仔羊も来ていて、ゾエは哺乳瓶でミルクをあげた。この羊は毛糸を作るための毛むくじゃらのヒツジとなる。その他にヤギ・チーズも売られていた。

 子どもたちがロバの背中に治まったので、私は写真を撮ろうと思って、カメラを構えて参加したものの、ロバの足の速さに着いて行けず、ロバのお尻ばかり撮るハメになった。二度ぐらいはダッシュでロバを追い越して、前から撮ろうと思ったのだが、ロバがあっという間に追いつくので、なかなかいい写真が撮れなかった。見るに見かねて農場のおじさんがロバを駐車してくれたのだが、JPのほうはロバをコントロールできずに、ポーズをとっているおじさんの前を通過して行ってしまった。

 《ろ・ば車》に子どもを乗せると、JPと私はちょっと暇ができたので、カフェの木陰に座ってコーヒーを飲んだ。あんまりゆっくりしすぎて《ろ・ば車》が戻って来ていることに気づかず《迷子のお知らせ》で呼ばれてしまった。

 JPとノエミは自転車で来ていた。私とゾエは車にピクニック用品一式を積めて先回りした。お昼には食事のできるスタンドも出ていたが、私たちは《セルー川》のほとりでピクニックをした。

 絵画コンクールの発表があり、参加者全員が優秀賞を受賞された。商品は大きなボンボンの袋だった。子どもたちは大喜び。

 とてもよい一日だった。

2006/06/09

文藝の春秋

   クレルモンフェランというところに住んでいる、日本人の友達が、ご主人の『文藝春秋』を束で送ってくれた。日本に居る時には買ったことも読んだこともなかった、分厚い雑誌だが、読むものがいっぱいあって、今の日本のこともわかるような記事があるので、もらえるならもらう。

 『文藝春秋』で『蹴りたい背中』などの芥川賞作品も読んだ。

 この週は、もう一人本を送ってくれた友達があった。

トゥーロンに住んでいる人で、彼女のご主人はフランス人だけれども、彼女は一年に何度も日本に帰るので、家の中には日本のものが溢れている。彼女は大変な読書家で、彼女の超乱読な友達から送られて来たり、自分で日本で買った本などを、読み終わったあとに私に送ってくれる。私と違って読み終わった本はすぐに処分したい性格。

 一年に1回か2回、毎回文庫本が100冊ぐらい入った大きな段ボール箱を送ってくれる。以前は渡辺淳一や、田辺聖子、遠藤周作が多かったのだが、この頃は藤沢周平や大沢在昌も入っている。青木玉とか、なだいなだもある。人がくれる本だと、自分では絶対に買わないだろうと思うようなものもあるので、なかなか読む気になれないものも、確かにある。でも、味見をして、意外にも好きになったり、偏見を持っていたことに気づかされることもあって、友達からもらう本には、よく驚かされる。

 天堂荒太の『永遠の仔』を貸してくれた人がいた。上下二段のページで、上下巻。とても長い小説だった。夜中にドキドキさせられるのが刺激的で、昔私は血みどろのホラーや、やくざの殺し合いの小説をよく読んでいた。『永遠の仔』はホラーじゃないのに、心の奥深くをちくちく刺されるような、陰険で、不安をかられる物語だった。夜中にドキドキして眠れなかったこともある。

 幼い頃に親から受けたせっかんや強姦が、大人になっても一生つきまとう、悲しい物語。一見して成功したように見える昔の少年少女の人生は、秘密で溢れている。誰も本気では愛せなくなってしまっている。誰にも心の中をのぞかせず、心を閉ざして暮らしている。

   登場人物の中に、親にこんな言葉を言って欲しかった、と後悔したまま死んで行く人がいる。

また、自分の親のようになってしまうことに恐怖を感じながら、自分など死んだ方がいいと思いつつも、生きて同じ間違いを繰り返さない努力をすること、生きて、死んだものたちのことを覚えていてあげること、生きていることに意味があるんだと、自分を励ます人がいる。小説の中で語られている数ヶ月は、登場人物たちにとって凄まじい日々だった。普通に暮らしていると思っていた隣人の、人生の節目を「目をそらさずに見てください」と突きつけられたような小説だった。

 読んだあと、子どもの育て方に気をつけようと思う反面、もう遅いような気もした。小さい時分の親の発する言葉や、体罰の影響を深く反省しなければならなかった。親の心子知らずで、子どもは勝手に大きくなっていると思っているのだが、まだまだうちの子たちは小さいから、「こんな私だって、子どもたちには必要なんだよなあ」と思った。親の背中を見て大きくなるのではなくて、正面からぶつかりながらも、心を割って話し合えたらいいなあ、と思う。

 ガミガミ叱りすぎ。

 反省、反省。

2006/06/08

学校のお祭りが近づいているので、また、会議。

 学校のお祭りが近づいているので、また、会議。 友達から折り紙サイトを教えてもらったので、大いに利用するつもり。

 ヌメアの大親友の「よ」さんが、「身体ちょっと壊してる」みたいなメールをくれてから、続きが来ないので、ずいぶん気になっている。そのことを「あ」さんに話したら、同じ町に住んでいるので、すぐに電話をかけてくれたらしい。「あ」さんが「電話したよ、元気そうだったよ」とすぐにメールをくれたので、ちょっと安心した。

 ほとんどいつもメールで遠くの人とやり取りをしているから、メールが途絶えると不安になる。メールでしか知らない人も居るので、いつか歳をとったり、病気で入院したりして、こちらからのメールに返事が来なくなったら、私はきっと孤立してしまうんじゃないかなあ、と思って心配。

 のどの弱い母が、「声が出なくなったら、アンタとも電話で話せなくなるし」というので、そうなったら辛いなあ、と思った。父が病気で寝ていた時にも、電話に出てもらえなくなって、その日が近づいていることを感じた。

 いつか私がメールを書けなくなり、電話を掛けられなくなった時のために、JPには日本語とフランス語の、遺言と知らせて欲しい友人知人の連絡先リストを作っておかなければならない、と、いつも考えているのに、まさかそんな日が明日にでも来ようとは思っていないあたりが、人間らしくて情けない。地震も台風もないところに住んでいる人間というのは、こんなものだろうか。親父もいないし。。。でも、火事と事故はありそう?

 身近なところで不幸が起こらないと、自分にも同じようなことが降り掛かる可能性なんか、考えられもしない。でも、毎日ラジオから流れている事故や事件を思ったら、今までこうやって生き延びていることこそ、奇蹟のようなものなのかもしれない。

 友達にも、家族にも「気をつけてね」と言いつつ、「気をつけててもどうしようもないこと、あるよね」と思ってしまう。毎日、できるだけ大切にしたいねえ。

 言える時に、「ありがとう」は言っておいたほうがよいに違いない。不満を言ってる暇があったら、やりたいことをやってしまおう。

例えば日記を書くとか。残してなんになる?という気もしないでもない。

2006/06/07

遠方よりの便り

   つい先日、カーモーで会ったばかりの「あ」さんが、もう南の島に着いたという知らせが届いた。フランスから飛行機で24時間以上飛ばなければ行けない島だ。時差は7時間もある。日本からだったら9時間で行け、時差はたったの1時間。

「あ」さんはニューカレドニアという、フランス海外領土の島に住んでいて、フランスの公立学校で正式に日本語を教えている、フランス共和国の公務員だ。

 わたしはニューカレドニアという島の、ヌメアという町に5年半住んでいた。

 ちょうど「あ」さんから「帰り着きました」という知らせがあった頃に、ニューカレドニアでいっしょに剣道をしていた「リタさん」からもメールが来た。クラブの近況や、彼の家族のこと、島の友人たちの近況を訊くことができた。

 「リタさん」は、ヌメアでもっとも長く、親しくつきあっていた大切な友人の一人で、私がヌメアに到着してから、旅立つまでの毎日の出来事を、事細かに覚えている。ヌメアを出てからは音信の途絶えてしまっていた、昔の下宿先のことを聞いたら、私の下宿先をわざわざ訪ねてくれた。下宿させてもらったいた家族の近況を知らせてもらえた。

 私は下宿の息子さんに、日本語を教えていた。出逢った時にはその子はまだ9歳で、私よりも小さかったが、とても頭の良い子で、五カ国語ぐらいをペラペラ話すことができた。日本語なんかすぐに話せるようになった。その子といっしょに日本に行ったことも何回かあるし、彼は一人で指宿の両親の家に滞在したこともある。両親はその子のことが大好きで、去年と一昨年に帰った時にも、その子の話が出た。

   グアドループからも久しぶりにメールが来た。グアドループというのはカリブ海に浮かぶフランス海外県の島だ。2004年に翻訳した『サトウキビ畑のカニア』という本の著者であるピションさんという方は、その島に住んでいて、島の子どもたちの身近な話題をテーマに、小学生ぐらいの子どもたちを対象にした小説を書いている。

この6月に新しく《アメリカ・インディアン》に関する本を出版するので、そのご報告をいただいた。できればまたその本も訳したいと思っていて、すでに下書き原稿はいただいている。いよいよフランスで出版されるので、新しい本を送ってもらうのを楽しみにしている。

   南の島々が懐かしくよみがえった一日だった。

2006/06/06

絵描き歌

   歌いながら、お絵描きをした少女時代がある。 

たしか「6月6日に 雨ザーザー降って来て」という歌詞もあった。

 とおい昔、6月6日生まれの少年が好きで、毎年毎年、6月6日が近づくと緊張してプレゼントを選び、6月6日の放課後が来るたびにふられていた。いまも日本語の教室で、絵描き歌を歌いながら、いつも「6月6日という日付けは、一生忘れられない」と思う。少年の顔は忘れた。

 今年はタイミングよく、大きくなったその少年から『同窓会の報告』がきた。彼が企画した同窓会は、8人しか集まらなかったという悲しい結果とともに報告された。がっかりしている様子だったので、なぐさめの言葉の代わりに「お誕生日おめでとう」とメールを書いた。

 「覚えていてくれたんだね!」という感動の言葉ぐらいあったらかわいかったのに、当然覚えていただろう的な返事だったのでむっとした。

これだから梅雨どき生まれの男は。。。

 教室ではよく、こんな絵描き歌も歌っている。

「てーる子さんにつーる子さん、ハチミツ飲んで叱られて、ヘーキでヘーキで、のんきでのんきで、試験は0点、縦タテ横ヨコ、丸描いてちょん、縦タテ横ヨコ、丸描いてちょん」

 これを考えた人は天才だと思う。

2006/06/05

やる気は、あるんです。

   婦人雑誌を買わなくなって、ずいぶん経つ。

前は手芸ようのパトロンなどが出ているのが好きで、『プリマ』や『モード・エ・トラヴォー』(モッゼトラヴォーのように読む)を買っていた。そういう雑誌には季節ごとのレシピなども出ていたので。

 でも、レシピを読みながら料理している余裕がなくなった。手芸の材料を手に入れるのが難しい。手芸なんかやってる暇がない。。。などなどの理由のほかに、雑誌本体の中味が軽すぎるし、雑誌の中味の大半は宣伝なので、買うのがばかばかしくなった。

 日本から「フランスのきれいな雑誌を送って」と言われたので、とりあえずうちに眠っていた、手芸専門雑誌や婦人雑誌を送ることにした。

その人は絵を描く人だから、色のセンスなんかも素敵で、ちょっとした手芸にも光るものがある。彼女の好きなパッチワークやレース編みは、私は全然興味ないので、手元にもそれらを扱ったものはなかったけれども、ほかにも引っ越したばかりで、まだまだインテリアにプラスしたいものがあるに違いないと思って、家庭に役立つアイディアが載っている、きれいな雑誌があったらいいなあと思って探した。

 最新号も見たかったので、新聞屋さんにも行った。

《新聞屋さん》というのは、『マッシャン・デ・ジャーノー』といって、直訳すると《新聞屋さん》になるから、私が勝手に《新聞屋さん》と言っているだけのことで、じつは『ジャーノー』というのは、「新聞」に限らず、情報誌、雑誌のこと。そういう店ではたいてい、ロトくじや、タバコや、簡単な雑貨や、切手や、絵はがき、おかしなども売っている。

 ちなみに、フランスでは「新聞配達」というのは一般的ではない。もちろん定期購読で郵便箱に届く新聞を取っている人はいるけれども、『新聞配達の少年』というのは存在しないとおもう。

新聞というのは、毎日毎日お店に買いに行くものだ。私とJPは好きな時に、読みたい新聞を買いに行っている。

地方紙はほとんど読まない。

 うちから一番近いところでは、大したものは置いていなかった。『ル・モンド紙』を買う時には、どうせそこには置いていないと思うので、立ち寄りさえしないで、町の中心街にあるお店に行く。その店はタバコの代わりに、文庫本や写真集を売っていて、ロトくじはないけど、ノートやボールペンが買える。

 近所の「新聞屋さん」の少ない在庫の中から、前によく買っていた婦人雑誌を見つけた。そうか、ここでも売っているたぐいの婦人雑誌であったか。。。まあ、仕方ないから、手芸のページを見て、不満でもなかったので、これを買って日本に送ることにした。

 人がやる気出してるのを感じると、自分もやる気が出る。

先日町の生地屋さんが店じまいセールをしていたので、コットンや麻の生地を少し買った。

せっせと夏の服を縫った。あっという間に二着できた。

 今度の学校のお祭りにこれを着て行くのだ。

2006/06/04

ビオシベル

   去年も一昨年も行った『ビオシベル』に今年も行くことにした。

会場が大きくなって、新しい市や催しが増えているのではないかという期待とともに、ガヤックという町に出掛けた。

 健康食品、自然食品、無農薬食品の試食販売、説明会。

自然に優しい、身体に優しい衣類や、生地の紹介。(布製の生理用品や、最近見直されている赤ちゃんの布おむつ。おんぶヒモ、抱っこヒモ、綿入れや布団の紹介。毛糸やオーガニックコットン、革製品の販売など)

自然素材を利用した建築素材の実演販売、説明会。

節電・節水のアイディア紹介。

太陽熱、風力の利用についての討論会、説明会、実演。(太陽熱を利用して煮物を作る。)

石臼で挽いた、無農薬の小麦で作るパンの実演、研修。

無農薬野菜の育て方、無料体験。

コンポストや、水無しトイレの紹介。

竹やロープで組み立てた、遊具で遊べるコーナー。

竹、ロープ、石、木の実などを使った楽器の紹介。自由に手にとって鳴らせる。

 癒し系ミュージシャンによる演奏会。

珍しい食品が味わえる、レストラン・スタンド。

出店では、地域のハチミツ、無農薬フルーツや、ジュース、ハム、チーズなどなど。。。ありとあらゆるものを買ってその場で食べることもできる。

 いっやあー、楽しい一日だった。

 でも、JPとノエミが急に居なくなって、勝手なところに行ってしまうので、私は待ち合わせ場所近辺でみんなが集まるのを待ちながら、荷物の管理で、少々疲れた。

オーガニック・コットンの生地を切り売りしているお店があったので、訪ねたかったのに、みんなの荷物を管理している間に、午後遅くにやっと私だけの自由時間が来て、行ったらもう反物屋さんは店じまいをしていた。

 アンゴラの素敵なセーターも売っていたが、さすがにこのくそ暑いのにセーターなんぞを買う気にはなれず、買っても、アンゴラアレルギーでくしゃみをするものが、約1名居るので、(JPです)セーターは、なし。《一生もの》と言ってもいいぐらいの、品もお値段も頑丈な皮靴を買って、ニコニコ帰って来たJPを、怒鳴りつけようと思ったら、おいしいサクランボを一袋と、ゼラチンを使わないハチミツ・キャンディーや、ジャムを渡されて、思わず許してしまった。。。

 来年こそは、荷物持ちはJPにゆずる!

《のぞみの関心事》にて写真を公開中。

2006/06/02

レジで

   県外に住んでいる友達が、カルモー近辺の家賃の安さに興味を持っている。

「こんど引っ越す時はその辺りにしようかなー」と言い始めたので、ぜひともこの辺に決めてもらいたいと思って、この辺りのよさをアピールしている。

 売ります、買います情報誌というのがあって、不動産屋さんの店先で無料配布されているので、そういうのももらって来て、情報集めをしている。

 スーパーのレジで、私の前に通過した人が、レジを打っている人と知り合いらしく、おしゃべりに花が咲いていた。聴くとはなしに聞いていたら、「こんどうちを売るからよろしく」と言っている。「スーパーに勤めている人の中に、誰かいい人がいたら」と言っている。

 隣のレジを打っていた人が、「え?家を売るんですって!?どんな家?」と客をほっぽり出して身体を乗り出して来る。

 2台のレジのベルトコンベアーが停止してしまったが、客の少ない時間帯でもあったので、なんとなくのんびりしている。私も、私の後ろの人たちも、「どんな家?」の続きに耳を立てていた。

 改築したばかりで、部屋は三つあり、庭はX平方メートルで。。。湖のそば。

 ほお、湖といえば昨日行った《ルーカイエ湖》だろう。あの辺の田舎道を思い浮かべた。

 これは友達に知らせねばならぬと思って、レジを離れていこうとしている大家さんを取っ捕まえて、住所と電話番号をいただいた。友達にさっそくメールを書いた。

「でも、今すぐ見に行けないし、今すぐ買えないし」と言われて、ちょっとがっかり。でも自分のおっちょこちょいが丸出しで恥ずかしい。

 その友達、この夏休みに、遊びに来てくれる。

 いい所をたくさん見せて、絶対この辺に住みたくなるように、せっせとアピールしなければ、と鼻息を荒くしている。

 一昨年私たちが家を探していたころよりも、土地も家も安くなっているような気がする。《情報誌》を眺めていると、今住んでいる家よりもいい家がいっぱいあったように思えて来る。

 友達は「今住んでいる家を高く売って、田舎で広大な土地を買う」と言っているのだが、彼女はコートダジュールに住んでいるし、雑誌から抜け出したようなすてきな家に住んでいるので、きっと高くで売れるに違いない。

  うちの庭にだって、ちょっとずつ草が生え始めているのだ。。。

 《住めば都》の言葉も、わかり始めたところ。

やはり友達に、ぜひ引っ越して来てもらいましょう。ふふふ

2006/06/01

フランスだけど日本晴れ

  サイクリング大会当日。

 お母さんボランティア3人、担任と合わせて大人4人で、24人の小学生を引率することになった。

 4年生と5年生のひとクラスずつで、ノエミは4年生、午前中に出発した。5年生の24人は10時ごろ出発して、昼ごろ目的地で合流の予定。

 目的地は5-6キロぐらい離れた、人工湖《ルーカイエ》まで。

 私は自転車を持っていないので、車に子どもたちの荷物を積んで出発。数週間前に回されて来た担任の先生からの手紙では、車2台の募集があった。1台は空っぽ状態で走り、事故の場合に、事故を起こした子とその自転車を載せられるようにしたいというのが、先生の希望だった。けれども応じた人が少なく、車はうちのおんぼろプジョー1台。誰かが怪我をしたら子供は載せて走れるように、チャイルドシートを用意。でも、事故車は放置するしかないだろう。

 大人の自転車引率も希望より少なく2人だけ。担任の先生がちょっと不安げだった。

 地図を見せられたが、私はまだこの辺の地理に詳しくないので、後ろから静かに着いて行くしかない。

 そのかわり2人のママさんボランティアは、よく慣れている様子。

走る姿がなんとも頼もしい。

グループから遅れがちな子供の、背中を押しながらいっしょに走るというような技も持っていた。

 ノエミは数週間前に買った新しい自転車で、ここのところ毎日練習して来たが、こんなに遠くまで行ったことはなかったので、不安のようだった。子どもはダムのある人工湖までの、のぼりの多い田舎道を、とてもよく走った。金色に輝く波が、風にあおられてうねっているような、広大な麦畑を突っ切り、その向こうに広がる澄み渡った空に向かって、色とりどりのヘルメットが光りながら坂を上って行くのを、後ろから追いかけた。

 沿道で声援するお年寄りが多かった。普段は人通りがないのだろう。

まるでツールドフランス並みの声援を送る人も居た。

 到着地のルーカイエ湖では、小型の帆付きボートの研修が待っていた。

子どもたちはすでに教室で、帆付きボートの操縦の仕方を、すでに勉強している。多くの子どもが去年も研修をうけている。去年ノエミは転校したばかりで研修を受けられなかったが、なにせ風向きとか、方角とか、そういうのを読むことは普段から元船乗りの父に習っているので、なかなか呑み込みがよろしい。こんな小さな子どもたちにヨットが操れるなんてびっくりした。

 母親ボランティアの三人で、船着き場の日だまりに座って世間話をした。

そのうちの一人は、顔だけ見て憧れていたロランスさんだったのだが、たくさん話ができた。

とても美しい人で、いつもきれいな服を来て、かっこいい車に乗っている。優雅な物腰からどこぞのお嬢様で、きっと大金持ちのご主人なんだろうなあ。。。と思っていたのだが、苦労ばかりの人生だったんだねえ。。。という打ち明け話だった。人は見かけによらないのだ。

 そして私のほうも、中国人じゃなくて日本人だったという事実や、まあ、いろんなことやってるんだねえ。。。ということを理解していただけた。こんどロランスさんのお宅にお茶飲みにおいでと言われた。どきどき

 合流した5年生のボランティアグループ、ヨットクラブの指導員約三名、教師陣。大人は全部で10名ぐらいになった。大人だけで集まって、テーブルを出しての食事会となった。子どもは湖のほとりでピクニック。私はデザート係で、ロランスさんはソーセージ係。ほかにチーズ係、サラダ係、パン係、飲み物係、ワイン係。。。みんなで分担したのですごい昼食になった。

 教師陣が昼間の遠足で、ワインを飲むというあたりがいかにもフランス。

 帰りは下りが多くて、あっという間だった。

一度、大通りを横切る時に、担任に言われて、道路をふさごうとしたが、道路に立ちふさがるタイミングを外して、1台こすりそうになり、もう1台は後ろからぶつけそうになり、もう1台にはクラクションを鳴らされて、大恥をかいた。

 来年はぜひとも自転車で参加したい。

今からいい子にして、サンタさんに自転車をお願いしようっと。