2007/02/28

ピッカピカ

 ノエミの歯の治療が終わった。矯正歯科医のキリキニ先生が、「どうです。素晴らしいでしょう、お母さん!」と言って、ノエミに「にー」をさせた。
 矯正器具を入れる前にとられた、歯形を、記念にもらうことができた。口から出した入れ歯みたいに、上下の歯が噛み合ったもの。
こうして見ると、そんなに悪い歯並びではなかったと思う。

 悪かったのは上の歯の犬歯が一本多く生えていて、場所が足りなくなり一本が変な方向に伸び始めたのだった。
余分な一本を抜いて、スペースを作ってから、隙間をできるだけ狭くするという作業になった。半年ぐらい掛かっただろうか。
 二回に分けて、550ユーロずつも払うことになった。
1回目に払った分お保険が未だに下りず、今回どうやって払ったらいいのか、頭を抱えている。

 矯正器具をつけていたのは、上の歯だけで、金具を外したあと、金具を支えていたボンドのようなものを剥がしとるために、歯垢を落とすような治療が行われた。それで、上の歯は、ぴっかぴかになった。
 下のは金具をつけていなかったのに、磨かれてぴっかぴかになった上の歯に比べると、黄ばんでいる。ニッと笑うとちょっと怖い。

 ノエミはとっても喜んでいる。口の中がどんなにすっきりしたことだろう。あんな物をつけて何ヶ月も生活できるとは、わたしには考えられない。

 思春期が来る前に、恋する乙女となる前に、履歴書用の写真を作る前に、歯の治療が一応終わって大喜びだ。また二年後に検査をするとのことだ。

 今月の終わりには、目の検査も待っている。ノエミは本を読みすぎるんだと思う。この頃はパソコンにもハマっているからよくない。

 わたしはついに老眼鏡を作った。339ユーロも払って、4.85ユーロしか保険が下りずに、今月はまだ始まったばかりだというのに、どーしよーという生活状況だ。ううう

へろへろ

 小さい時から「水を飲むな」と言われ続けた。9歳までおねしょしていた。小さい頃には水洗トイレではなく外便所だったので、夜中に起きて、外に出て行くのは恐怖だった。出かける前には体中の水分を絞り出し、知らない場所に行くと、非常階段よりも先に、トイレを探すことから始める少女だった。

 わたしは、水を飲まない。
コーヒーとかスープとか、果物を摂るから、水分はある程度は取れているに違いないのだが、コップで水を飲むということはほとんどない。1.5リットル入りのミネラルヲーターなどは、何週間も減らない。剣道に行って帰って来ても、水を飲みたいということはあまりない。
 
 身体には良くないし、ダイエットもできない。

 わかってはいるのだけれども、飲めない。

 いつも食卓にコップを出すのを忘れるので、JPがだまって取りに行き、わたしの前にたっぷり水の入ったコップを置く。彼はアルコールはほとんど飲まないけれども、水やお茶をよく飲む人だ。そして、食事の後にいつもたっぷり残っているわたしのコップを見ると、「飲め」と言ってコップを手に追いかけてくる。JPが見ていない時には、コップの水を植木にあげてしまったりする。

 身体の調子が悪い。寝不足もたたっている。体中の血液が濁っているような気がする。だから頭の回転も悪いのだろうか。

 今日は反省して、モン・ルクーのナチュラル水ボトルを買って来た。この頃水道の水が臭いと感じていたために、以前にも増して水を飲まなくなっていたのだ。タルン県の水はミネラルが豊富で、赤ちゃんでも水道の水を飲ませてよいし、普通乳児のカルシウムを補給されるために、全国の医者が処方する錠剤も、ここではいらないと言われて、タルン県で生まれたゾエはその錠剤は1回も飲まなかった。
 
 水が変わったのだろうか?

 ボトルの水を今日一日で3分の1飲んだ。朝より身体の中がさらさらしているような。。。気がした。

今日こそは、早く寝る。でも、仕事は全然終わってない。。。あー

2007/02/27

これでやっと眠れるうー

 中学を卒業してから、ずうっと会っていなかった同級生をインターネットで発見した。彼と直接つながれなかったので、いろんな所にメールを書いて「彼と連絡とりたいんですう」とお願いした。彼が本名で仕事をして、本名でインターネットに名前を出していたから、思いがけず簡単に見つけることができた。これはちょっと恐ろしいことだなあ、とも思う。
 私のことを信頼して、ちゃんとメッセージを伝えてくださった、彼の奥様や友人S氏に、大感謝しなけれればならない。そして、その友人S氏もまた、何を隠そう同級生だった。彼らは故郷から遠い大都会で、いまだに仲良くやっていたらしい。嬉しくなった。
 気づかぬうちに、二人目の友人ともインターネット再会。
 メールが飛び交う。一つのメールから、また他のメールへ。

ここ数日、友人探しに没頭してしまった。
今日は早く寝る。。。といっても、彼らにメール書いてたら2時半になろうとしている。
いつも、「寝ようかな」と思ってるところに、朝になって目が覚めたヌメアや日本の友人たちからメールが入り始めて、私はベッドにたどり着けなくなってしまう。

 それにしても、インターネットというのはすごいなあ。
みんなとまたいつか会えるだろうか。

 とりあえず、頭が働かなくなって来たので、寝る。

2007/02/26

うずうず

 中学の時の友だちを、インターネットで発見してしまった。
彼がどんな仕事をしているのか、だいたいどんなところで仕事しているのか。。。などもわかってきた。
わたしがそんなことをしてるとは思っても居ない彼には申し訳ないのだが、昨日からずううううっと、彼の名前で検索して出てくるサイトを、くまなく読んだ。どこかをクリックしたら彼に連絡が取れるかもしれないと思って、ただひたすらにインターネットをサーフしている。そこまで来ているのに。。。彼にはたどり着けない。

 土曜日の夜、メリオッサンの両親がやっている劇場の催しで、ジャン・ジャレス広場にサーカスのテントが張られた。
夜8時半から始まるサーカスで、テント内にはバーまで設けられている、子供よりも大人の多いサーカスだ。
 土曜日のお昼に、子供たちが義父母に連れられてナルボンヌから戻って来たので、冬休みの最後の土曜の夜は、親子でサーカスを観に行くことにした。

 去年と同じで、冷たい雨が降った。それでも満員で、椅子が足りずに開幕まで時間がかかった。

Monobass Cie と、Cirque Manoli の出し物。
《モノバス》は、モノシークル(一輪車)とコントラバスの略だろう。巨人とも呼べる大きな男性と、小柄な男性二人のサーカス。
巨人の方がコントラバスを抱えて特製自転車でやってくる。小さい方は一輪車を背負って、子供用の三輪車でやってくる。
コントラバスの楽しい音楽に合わせて(ロックあり、タンゴあり、クラッシックあり)一輪車で面白いことをやる。
ゾエはテントの人たちがみんな振り向くぐらい、大笑いをしていた。ノエミが恥ずかしがって「静かにしてよ」と袖を引っ張っていた。

 《マノリ》のグループも二人。第一部の二人同様。パントマイムだけ、おしゃべりはない。
こちらはマント(冬のコート)を使ったサーカスで、球投げや、曲芸をしながら、コートを脱いだり着替えたりする。とても不思議なサーカスだった。最後にコートをたくさん並べて掛けたハンガーに、自分たちもコートごと吊るされて、飛び交う帽子を被ったり、とったりする技が見事だった。

 休憩のあと、ムッシュ・ディレクターという歌手が、エレキギター1本で現れた。
子供たちが舞台に出て踊りまくった。
80年代のロックやポップスや、60年代のアメリカンミュージックもやって、たまにヘビーメタルっぽいものも演奏した。いろいろな声が出せるので、まるで歌手が数人居るグループみたいだった。キーボードや足につけたカスタネットみたいな、鈴みたいな道具をあやつて、一人数役をこなしていて本当に楽しかった。こちらはとてもおしゃべり好きな人で、ずっと笑いっぱなしだった。

 80年代の音楽を生で聴きながら、数日間コンタクトをとりたくてたまらずにいる、中学生の同級生のことを考え続けていた。
彼は、昔から大好きだった音楽を生業にしているようなので、とっても嬉しい。

2007/02/23

代わりに授かるもの

 朝市に行く直前と、帰って来た直後に二人の親しい友人から電話が鳴った。

 まずは一週間前に女の子を出産して、自宅に戻って来たモーガン。ジュリエットは順調に体重を増やしているとのこと。
わたしは十日前から咳がひどいので、これが治ったら走って会いに行くつもり。

 もう一人はナディア。このごろ仲良くしているご近所さんで、子供たちも同い年なのでよく預け合いをしている。
お母さんが亡くなってしまったので、遺体を故郷であるモロッコに運ぶそう。馬鹿な私が「エトワ?サヴァ?(それであなたは大丈夫なの?」って言ってしまったら、泣き始めた。こちらももらい泣き。

 さて、お天気もいいので、先日から廊下に放りっぱなしのイチゴを植えなければならない。身体を動かさなければ「やってらんない」という気持ちだ。庭に穴を掘っていたら、ミミズがうじゃうじゃいて、倒れそうになった。でも、庭いっぱいに広がるイチゴ畑を連想して、「冷静に、冷静に」と呼吸を整えつつ、神経集中して植えた。
 身体を動かして気持ち良くなった。


 モーガンは、先月おばあさんを亡くした。3歳のとき戦地のベトナムから一緒に逃げて来たおばあさんだった。ちょうどその数週間前に、お腹の赤ちゃんが女の子だとわかったところだったので、おばあさんが亡くなったと知らせて来た時に、
 「ああ、それで、女の子だったんだ」
と言ったら、モーガンは「何のこと?」ということもなく、「みのりもそう思う?」と笑っていた。
 モーガンはわたしとまったく同じことを考えていたのだ。
そして「上の男の子を生んだばかりの時に、おじいさんを亡くした。その時に、去る前にこの子を授けてくれたんだと思ったのよ」と言った。
 
 わたしは、ノエミはJPの二人のおばあちゃんの代わりに授けられたんだと思っていたし、ゾエの時にはおじさんだった。父は大好きなソフィー(弟の奥さん)のお腹の中に、甥のコランを置いて逝ってくれたんだと、一人ずっと思っていた。ソフィーは、先月おじいさんを亡くしている。

 この十年か二十年の間、いつも誰かが逝く時に、身近なところで新しい命の訪れを知らされた。
モーガンが「妊娠した」と言った時に、わたしは「今度はだれが行くんだろうか」と《警戒》した。
モーガンとナディアにはつながりはないけれども、二人の間にいるわたしには、とてもつながりのあることのような気がしている。

 歴史というのは、こうして続いて行くんだなあ、と深い感動につつまれている。

2007/02/22

最後のサムライ

 午前中、アルビに住んでいる日本人の友だちの家に遊びに行った。彼女は彫刻を勉強した人で、ご主人とジュエリー・ショップを経営している。最近は、趣味で日本刀を作っているフランス人の男性と一緒に、日本刀の柄頭などにつける金具の細工や、鍔(つば)の彫刻にも関心を持っていて、たまに作っている。

 先日は染色法に関する本の中から、とても古い漢字の読みを訊ねられた。
 一つはインターネットで調べ、もう一つは、日本の常用漢字ではなかったので、手持ちの辞書では見つけることができず、日本で国語の先生をしている友人に、調べてもらった。インターネットで写真の出ているページを教えてもらえた。

 今日は、その友だちの家で、『座頭市』のDVDを借りた。最近やたらと、時代劇にハマっている。
この前はネクトゥーさんに借りた『ラストサムライ』という映画を、一週間の間に10回ばかりも繰り返してみてしまった。
アメリカ映画のサムライものだからと思ってバカにしていたのだが、映像は素晴らしかったし、サムライの武術も、日本のスタントマンがやっていて、とても鮮やか。アメリカ映画にしてはちゃんとした日本のサムライがいっぱい出ていた、きれいな映画だったと思う。

 そうしてまた『武士道』などという言葉が、頭をよぎってしまうのである。。。あらあら。。。

 映画は映画として、ただきれいねエーで見ていたのだけれども、どうしてこの映画をこんなに繰り返してみたかと言うと、主役の渡辺謙さんが演じていた『勝本』が、最後のサムライであった西郷隆盛をイメージしていたからだとわかってから、急激にこの映画への関心が高まってしまったのだ。

 わたしは南北朝時代の『武士』の世界にとても興味があって、数年来その辺の本ばかり読んで来た。特に北畠顕家のことが好きで好きでたまらない。でも、明治維新以降、刀狩りが出て、武士がなくなってしまい、戦争で剣を使わなくなってしまったこの時代から、戦国の世の中とは違う形の、新しい武士道が生まれたのではないかと思う。『武士』がなくなろうとしていたその時代に、最後のサムライたちがどんな生き方をしたのか、とても興味がわいて来て、『武士道の逆襲』とか『戦場の精神史』などをまーた引っ張りだして来ては読んでいる。そういう本には『生き残るためには闇討ちもやったのが武士だ』とか。。。まあ、そういうことも書いてある。

 『最後のサムライ』というタイトルの映画から、最後のサムライであった西郷隆盛、そして、鹿児島へと知らず知らずのうちに故郷に戻って来ていた。そこで暮らしていた時に、どうしてもっと勉強しておかなかったんだろう。どうして示現流を習わなかったんだろうと、ぎりぎりと歯ぎしりする。

 サムライのように誰かのために闘って、なにかのために死ぬとか。。。そういうことはけっこうどうでもよくて、わたしはやっぱり《さや引き》や《二刀流》の方法《脇構え》の位置とか、テクニックが気になって、何度もビデオを泊めたり繰り返したり、スローにしたりして、観察してしまった。ま、やっぱり映画は映画だ。でも、日本の俳優さんは、さすが《らしく》やってると思う。

 明日はネクトゥーさんのお宅で、日本刀の刀匠の作業風景を撮ったカセットを一緒に見る予定。
カレーも待ってる。はず。

  

2007/02/20

餃子

 先日トゥールーズで、全国チェーンの中国食材デパート!!PARIS STORE に連れて行ってもらった。
噂には聞いていた。パリに住んでいる義弟の奥さんのソフィーも、「パリに遊びに来たら、絶対に連れて行ってあげる!」と宣言していた。
でもこおんなにすっごーいスーパーだとは思ってもいなかった。
http://perso.orange.fr/cuisine-thailandaise/lesproduitsetlescommerces800x600.htm

 その、《パリ・ストアー》なるアジア系の食材巨大スーパー(形容がよくわからん)で、ワンタンの皮を買った。四角いやつ。
それで大量の餃子を作った。

 先週は焼き餃子を食べた。それで、インターネットで「レパートリーを増やそう」という面白いグループに入ったので、早速「子供も喜ぶ餃子の具と、ソースの作り方を教えてください」とメールを書いたら、あるわ、あるわ、家庭で作る餃子の、びっくり驚きな具の提案が、山のように寄せられた。さすがインターネットだ。シーチキンやチーズを入れてる人も多いらしい。マヨネーズで食べるとか。そんなの思いつきもしなかった。そういえば子供のころ、チーズを餃子の皮で巻いて、カラッと揚げたのをよく食べていたような気がする。
 そのインターネットできた提案メールの中に、焼き餃子じゃなくて、水餃子で食べたらどうですかというのがあって、ふうんと思っていた。

 今晩いきなりきしめんが食べたくなって、カツオだしにお醤油を足して、ニンジンと白菜と、《お父さんの形見》として日本から送られて来た自家製の椎茸を入れ(イッヤアー、これがまた巨大で風味がよろしいんですの)、きしめんをゆがいたところで、今度は《天ぷらうどん》が食べたくなった。
 でも、天ぷらにする材料がなかったので、ふとひらめいて、フリーザーから冷凍しておいた餃子を取り出し、凍ったまま、白菜がぐつぐついってる鍋の中に《ドップン》と投げ込んでしまった。
 きしめんもワンタンもつるんつるんでおいしかったけど、揚げ餃子でもスープがジューシーになって、よかったかもしれない。でもこっちの方が低カロリーにちがいない。

 JPがいつもの電車に乗り遅れ(理由は「時間通りに来たから、間に合わなかった」)暗くなってから帰宅して、ちょうど餃子もふんわりおいしそうになって来たころだったので、すぐに夕食の運びとなった。アツアツで、はひっ、ほへっ、などと言いながら7分弱で食べ終わってしまった。子供たちがいないと夕食があっという間に終わってしまうなあ。

 子供たちは夕食のあと電話して来た。いつも電話してくるのはノエミ。
ゾエは「電話には出たくなーい」性質。
天気がよかったので、海岸に遊びに行ったそうだ。水遊びをしたらしい。日中とっても暖かく、この辺りでも町でコートを着ている人はあまり見かけなかった。

 昼間、母に電話して、ピーナッツ豆腐の作り方を習ったので、近いうちピーナッツ豆腐を作る。
そういえば、パスタを作るという宿題が残っていたのだった。
母に「そばがボロボロだった」という話をしたら、つなぎにする山芋を日本から送ってやろうか?などと言う。
いや。。。やはり生ものはよくないんじゃあないでしょうか?椎茸も自家製で、こんなの送ってよかったのかねえ。。。
そういえば、するめも、干し大根も自家製の包装されてないやつ。。。でしたね。一応税関パスしてる。
 この調子だったら、山芋も送ってもらえるかもしれないが、なんといっても例のパリ・ストアーで山芋を発見してしまった!!今度そばを打つ時には、あそこに山芋を買いに行くとする。
 パリ・ストアーで買ったオクラで作った《オクラの納豆風》もおいしかった。
あ、そういえば、どこかにオクラの種があったはず。。。税関を通過して日本から持って来たやつ。

2007/02/18

豆腐のテリーヌ

 義父母と一緒の夕食。

 JPの実家では、毎日の食事が必ず前菜・メイン・サラダ菜・チーズ・デザート・コーヒーのフルコースになっている。
夏の前菜はコンポジション・サラダ(いろんなもののミックスサラダ)で、冬は毎日毎日果てしなく野菜スープ。
わたしの台所の師匠は義母なので、結婚当時はけっこう真似してやっていたが、このごろは子供たちと一緒に1回2時間ぐらい掛かる食事なんかやってられないので、我が家では前菜とメインを合わせた一品料理・サラダ菜抜き、ということが多い。デザートは果物だけ、とか。

 夕食にはスープを作らなかった。
寒かったので義母が「うちでは冬はスープと決まっている」と言っていた。
寒かったのに、前菜を冷蔵庫から出したので、「見ただけでゾクゾクする」と言われた。

 数日前に「義父母が来る」と思って作り置きの料理を用意した。その2.3日の間は、夏のように暖かく天気もよかったので、ついメニューもスープを避けてしまったのだ。作り置きしたのは餃子と、魚のテリーヌ

 《鮭のテリーヌ》
鮭の切り身を200-300グラム
豆腐1.5丁
卵3個

 豆腐ぐちゃぐちゃにして、沸騰したお湯の中で10分ぐらいゆがく。
だいたい湯がかれたらざるにとって冷ます。
以上3点の材料をミキサーにかけてぐっちゃぐちゃにする。
塩・こしょうをする。
ケーキの型に流し込んで、ケーキ形が湯煎になるように工夫してから、オーブンに入れる。
適当に固まるまでオーブンに入れとく。
ケーキの形にオーブンシートを敷いておけば、出来上がってから取り出すのが簡単。

 レモン汁とオリーブオイルでドレッシングを作る。 
レモン汁の代わりにお醤油とすし酢、オリーブオイルの代わりにごま油を使い、あとはごま塩などで味を整えて、和風ドレッシングを作ってもよろしい。

 セロリ・ラヴ(セロリの根っこ)や、大根を細ーく切ったものを、テリーヌと同じドレッシングで食べてもとってもおいしかった。

私以外の大人はテリーヌと一緒に、ガヤック産の白ワインを飲んでいた。

2007/02/17

直伝 シーフードカレー

 先日ネクトゥーさんのお宅で、シーフードカレーをごちそうになった。
本日義父母がやって来たので、ネクトゥーさんのカレーを真似してみようと考えた。

《シーフード・カレー》なのでシーフードが入っている。使った切り身は《ロット》というお魚のしっぽの方で、辞書で見たら《カワメンタイ》とか《アンコウ》とかあるが、グニャグニャと素手ではつかめない皮がついていて、骨は平たくない。《アンコウ》じゃないかと思うが、日本でアンコウなど食べた覚えがないのでわからない。

《一生もの》のル・クルーゼの鍋は、工場までいって安値で買った代物だ。
グツグツ煮る料理にはとてもよいお鍋。
 鍋を温めて油を敷く。そこにタマネギと長ネギを炒めた。
香りが出て来たら、魚の切り身を並べて、焦げ目がちょっとつくぐらいに焼く。あまり動かすと崩れてしまうので気をつける。
コップ二杯分の水とカレー粉と、野菜のブイヨン半かけ(ネクトゥーさんは牛乳を入れていたが、牛乳は長く煮込むとヨーグルトみたいな粒が浮いてくる)
ホールトマト(この季節、缶詰のほうがよろしい。ネクトゥー師匠は乾燥トマトを入れていた)
セロリの根っこ(生ですってサラダにした残り)
魚が煮立ったらココナツミルクを入れる。
ぐつぐつとろ火で1時間以上煮た。(翌日はもっとおいしい)

 別な鍋でニンジンを茹でる。
さらに別なフライパンで、皮をむいたエビを炒めて、カレー粉をふる。
JPがエビアレルギーなので、魚を煮ている鍋にエビを入れることができないが、魚とエビを一緒に煮てもいい。

ニンジンはすでに茹だっているので、いつ加えてもよい。
 ご飯にとってもよく合う、マイルドなカレーになった。
見た目は美しくないので、写真はなし。

子供にも大人にも大好評だった。

 月曜日に子供が義父母の家に行き、JPが職場の食堂で食べる時に、私は残った一人分を味わって食べるのだ。むふふ

2007/02/15

あなたのおそばに。。。


 バレンタインデーだったから、思い立ったというわけじゃないけど、そばを作りたくなった。

 友達にもらった《パン作り器》にそば粉をこねさせ、別な友達に借りた《パスタ作り器》のスパゲティー・キットに、そばの生地を切らせた。出来上がったおそばはボロボロだった。

 去年も年が明けてからそばを作った。そば打ちの本をわざわざ注文して、レシピに従って作った。のし棒は「いつかそばを打つ」という決意の明かしに、2年前に日本で買って、スーツケースに入れて持ち帰ったものだ。できたての名古屋空港で「超過してます」と言われた時でも「じゃ、のし棒置いて行こうか」とも思わなかった。決意ののし棒と堅い決心のもと作った去年のそばは、本格派とは言えなくても、一応家庭の味が出ていて、大変喜ばれたものだ。

 今年のそばは《年越しちゃったそば》の上に、さらに何から何まで機械にやらせたインチキなそばだ。JPから「このそば、機械にやらせたね」と軽く見破られて、またもや赤っ恥をかいた。

 JPといえば、私が先週買って冷蔵庫に入れておいた《ヨーグルト》をしぶしぶ取り、むすっとした顔で食卓に出した。いつもは100パーセント牛乳から作られた本格派ヨーグルトを、自然食品のお店で買っているのだが、先週は忙しくて、自然食品のお店に行けなかった。入ったスーパーのヨーグルト売り場で、自然食品であることを証明するABというマークが入っていた製品を発見したので、成分表も見ずに買ってしまった。しかし、ノエミによるとそれは、牛乳のほかに水も保存料も入った代物で、パッケージには「ヨーグルト」ではなく「乳製品」としか書かれていなかったのだ。今日まで気づかなかった。
 そーれーでー、JPはむっとしていたのだ。

 食卓でJPとノエミが成分表を読み上げ始めると、険悪になる。何度も言うが、私は先週とっても忙しかったのだ。それにいつも「自然食品」のマークを探し求めて、けっこう苦労していることや、それらの商品がお高くつくせいで、いろんなことを犠牲にしたり、他の物を諦めたりしている日常のことなどが、わわあああーと頭に持ち上がって来て、キレた。
 JPは、いつもの自然食品のお店で高くてもちゃんとしたものを買わなかった、忙しくても無理しなかった。。。それを怒っているのではなくて、「買い物する時にはちゃんと成分表や表示を読む習慣をつけよう」「客の気をひく商品展示のやり方や、大げさな宣伝や、嘘の広告に惑わされないようにしよう」そういうことを言いたいんだと思う。

 子供たちもJPもずうっとお休みなので、私は三食ちゃんと作らねばならず、洗い物は多いのに誰も手伝ってくれない。みんなを喜ばせようと思ってそばやパンを作れば失敗し、時間を掛けて作った物は味わう間もなく五分で平らげられてしまう。よかれと思ってヨーグルトなどの贅沢品を買ってしまうと、成分表を眺めてため息をつかれる。。。

 いくら私が仏のみのさんでも、いい加減疲れているのであるのである!!

 今日は朝10時から19時まで台所の中だけで暮らした。洗い物と片付けを6回ぐらいのローテーションでやった。布巾はびしょびしょで三枚替えた。テーブルと調理台は10回ぐらい拭いた。買い忘れがあって、吹きすさぶ風のなか町までひとっ走りもやった。小銭が足りずに肝心な白菜が買えず気分が暗くなった。帰って来ても気分は変わっておらず、そのまままたすぐに台所に直行した。そのぴりぴりな私を、ヨーグルトの件でどかーんと刺激した家族。「今日は一日中ガスと水と電気を使って申し訳ありませんでした。時間のやりくりをして、遠くの自然食品のお店まで、ガソリンを消費してまで出掛けて行き、お金もないのに高い物を買って、ただひたすらに家族のためにと思っているけど、できないこともあるんだよ」と怒鳴り散らしてしまったあああ。

 今夜はちょっとお経でも詠む? ううう。。。もう寝たい。。。

2007/02/14

県道を通って剣道に行く

 今週から来週いっぱい、アルビの街では、各種の春を呼ぶカーニバルの催しが行われる。今週と来週の日曜日には大きな山車が繰り出して、ミス・アルビの発表や、楽隊やクルーンなどが街を練り歩く。うちの子たちも仮装行列に参加するつもりでいる。街の至る所に、県内外から集まった移動遊園地が(メリーゴーランドやゲームセンター、カジノ、アヒル釣りなどなど)にぎやかにきらめいている。今日は久しぶりに剣道に出て行ったので、メリーゴーランドなどのために道路が封鎖されていて、けっこう大変だった。

 ドレイ先生は昇段試験のためにベルギーに行って、親戚の多いリールに寄っているらしく、そこからまだ帰って来ていない。
このごろでは先生が留守の時には、三週間前に三段をもらった、フレデリックが指導者として稽古を運営している。
フレデリックは元アメリカンフットボールの選手だったので、けっこう《熱血》なあんちゃんだ。若い人たちへ指導している姿を見ていると、かなり熱が入っているので、肩を叩いてあげたくなる。

 今日は久しぶりに、中学生の新米くんが来ていた。名前も思い出せない。フレデリックも「名前なんだったかな?」と何度も訊ねていた。有段者たちが日本剣道形の稽古をしている間、私がその《名無しくん》のお相手をした。まずはすり足から。

 フランス人というのは《すり足》と《蹲踞 そんきょ》がとおっても苦手だ。足を地面に擦って歩くのは、日本人の特徴だと思う。日本人が足を引きずって歩くのは、脱げやすい草履を履いていた風習に深い関係があると『たたずまいの美学』という本で読んだ。それから、《そんきょ》という礼の作法は、川べりでうんこ座りみたいにしゃがんで腰を丸め、洗濯物を洗うおばちゃんの格好に似ている。膝を折ってつま先立ちをし、かかとにお尻を載せて、膝は大きく開く礼の形だ。それもまた、かなりつらい体勢だけれども、洗濯おばさんが下駄を履いてしゃがんでる、と思えばなるほどそういう形になるんだなあーとわかる。

 そういううんちくの本を読んでからは、初心者に《すり足》という動きを教える時には、「脱げやすいビーチサンダルを履いてる時みたいに、右足の親指と人差し指(足の指もこう呼ぶのか?)の間に、鼻緒を挟んで前に引っ張る感じよ」と言って教えている。足の裏が相手に見えてはいけない。足は平らで、でも歩行に邪魔にならないように、かかとは紙一重分床から持ち上がっている。頭が上下しないように、お化けがすすーっと動くみたいに動くのだ。能の歩き方にも通じている。

 まあ、こういうことを考えたり教えたりしながら、剣道というのは《茶道》や《華道》や《能》のように、生活の中から生まれた《道》の一つであるんだなあ、という感慨にふける。

 先日ネクトーさんの家で、日本の剣道スポーツ少年団の稽古風景カセットを観た。稽古の終わりに、もと立ち(打たせる側)である先生に向かって、子供たちが一人ずつ、先生がよいというまで打ちかかって行くという、掛かり稽古風景だった。ある時から先生は急に厳しくなり、意地悪っぽいつばぜり合いをしては子供を転ばせ、足さばきが遅くて駆け抜けない子供たちは、竹刀で背中を押されて、遠くまで吹き飛んだ。体当たりをすると、みんなみんな《先生》という分厚い壁に激突して沈没した。。。。全滅だった。みんなみんな転んだ。転んでは立ち上がり、先生に頭を下げてまた体勢を整える。ぶつかってまた転ぶ。。。の繰り返し。。。涙が出て来てしまったが、じつは私だってこんな稽古をさせられたものだ。それでフランス人が剣道は哲学だとか、美しい精神を養うために、とかいうと、「なに言っとる、稽古は拷問です」と反論したくなる。
 ネクトーさんは、「こんなことをフランスでやったら、生徒は来週の稽古から参加しないだろうし、親からは訴えられるぞ」と言った。確かに、小さな子供をここまでしごいてどないする、という気がしないわけではない。私も。
でもネクトーさんは「これぐらい根性ないと、上達しないんだよねえ」とため息をついていた。

「根性」という単語は、この場合状況判断で、私が勝手に日本語で訳してみた。
それにしても、フランス語で《根性》ってなんだろう。。。
確かにフランス人に「根性出せ」とか言っても、「はあ?」って感じだ。
 この前両足にマメを2個作って血を流しながら稽古を続けていたら、「信じられない。何が楽しくて。。。」と言われてしまった。豆は楽しくない。確かに。でも、マメなんかは稽古中は気にならない。痛くても動ける。マメのせいで剣道できないとか言うぐらいなら、剣道やるのは諦めた方がいい。手にはマメができない体質でラッキーだ。

 今日はフレデリックのおかげで、アメリカンフットボール選手のように走り、叫んだ。なんだかとっても若返った気分だ。いつも父と同い年のお年寄りに、6段の技とか見せてもらい、昔話を聞き、あまり汗もかかずに帰ってくる。しかも、稽古に一時間ぐらい送れることもあるので、見取り稽古ばっかりやっている。このままではもっと老ける。

 2月25日の日曜日に、ナルボンヌという所で、朝9時から夕方5時まで試合稽古ノンストップという行事が催される。8時間の試合稽古は、けっこう疲れるだろうなあ。。。行きたいけど。。。どうしようかなあ。。。と悩んでいる。冬休みの最後の日曜日だから、まずは家族水入らず、だろうねえ。。。うーん。もっと剣道行きたいなあ。。。

2007/02/12

ネクトーさんとRendez-vous



 Le voici, mon tres cher ami Monsieur Pierre Nectoux ( 84 ans), il est Le Doyen de kendo francais. a gauche, vous avez notre professeur Monsieur Delay.
Monsieur Nectoux pratique le kendo a Albi avec moi. C'est un imbattable, infatiguable.
Nous mangeons parfois ensemble, nous parlons souvent au telephone. Il m'a prepare un curry de fruit de mer exquis !!
Ce debut de l'annee, il etait un peu malade mais je sens qu'il reviendra au dojo au printemps prochain.
Nous prions ensemble devant ses precieux statues de Bouddah, il est un connaisseur de Bouddhisme et d'histoire de Japon. Il connait plus que nous les Japonais ordinaires... C'est un ami tres interessant.

 正月頃、剣道のみんなが「ネクトーさんの具合が悪い。今会っておかないと。。。」などというので、慌てた。
一応去年まではずっと一緒に剣道をやっていた現役とはいえ、84歳だからねえ。。。。心配した。
医者を呼んだりして、大騒ぎだったらしい。
 嵐が過ぎ去った頃に会いに行ったら、げっそり痩せてふらふらしているネクトーさんは「みのりが来てくれて元気が出た」と涙声で言った。医者に連れて行こうか、看護婦を呼ぼうかと提案したのだが、結局食べ物を買いに行きたいというので、スーパーやクリーニング店に連れて行った。夕方には看護婦さんが注射を打ちに来てくれた。医者によると今は入院しなくてもいいそうだ。でもヘルパーさんぐらい頼めばいいのに。嫌なんだそうだ。

 2月7日から9日までJPはパリ出張。9日の金曜日は子供たちが学校の食堂で食べる日だったので、また3週間ぶりぐらいになったがネクトーさんに会いに行った。1月よりもずいぶん顔色が良くなっていた。
シーフードカレーを作って待っていてくれた。私は朝市で買った新鮮な椎茸と、果物と、リンゴのタルトを持参した。

「そのまえに。。。」
ほらきた。いつもの、あれだ。。。
「今日は二階に行こう」
「エー、私は一階の方がいいなあ」
「でも、一階はこの前来たときやったから。。。」

「二階」にあるのは『創価学会』の仏壇(?)で、一階にあるのは鎌倉の大仏さまと同じスタイルで座っている仏さまだ。一階では『般若心経』を読むことになっている。個人的には般若心経の方が好みだ。ネクトーさんは、天台宗やら、法然やら親鸞についてもやけに詳しい。この前来た時には一緒に『般若心経』を読んだ。

 海外で「仏教やってる」という人は必ずと言っていいほど『創価学会』の信者か、チベット仏教のダライラマを尊敬している人たちだ。ダライラマはフランスにもいらしたことがあって、尊敬している人はいっぱいいる。
 ネクトーさんは若かりし頃に、創価学会の正本堂(っていうのか?)で、池田先生にメダルをもらい、ツーショットを撮っただけではなく、世界にたった一枚「私のためにポーズをとってくださった」という、インターネットオークションにネガを出せばいい値がつきそうな、すごい写真を持っている。フランスに帰って来て、創価学会の布教に励んだ時期もあったが、あるときふと『悟り』を開いて(?)、創価学会の責任者という立場からは足を洗った。「ちょおっと違うんだよなあーと思ったから」が理由。でも、お線香を炊いて、静かに座って念仏するという、それ、が好きみたいだ。
 仏間に敷いた畳に座って「ナンミョーホーレンゲッキョー」とやり始めた。ものすごい量のお経を一気に読み上げて、30分のセレモニーが終了した。「聖書」みたいなアコーデオン式の本を渡されて「ついて来なさい」と言われたけれども、ネクトーさんのスピードについて行けず、漢字についたふりがなを目で追って、「ナンミョーホーレンゲッキョー」の箇所が訪れたら口をもごもご動かしただけにとどまった。
 信者でもないのにこんなことやってて罰が当たらないかなあ、とちょっと怖い。四時の方角でふんぞり返っている、世界にたった一枚の池田先生の視線が背中に痛かったああああ。

 ネクトーさんの創価学会の仏壇には、穴があいている。
どうしたのかと訊ねたら、毎週遊びに来ているドレイ先生に、ネクトーさんが趣味で持っているピストルを見せていて、ドレイ先生がいじっていたら、玉が入っていたらしくていきなり発砲した、ガハハ。。。と言って笑っている。危ないじいさんである。

 そうそう、ドレイ先生は日曜日に七段の昇段試験を受けた。夕べネクトーさんから電話が来て、ドレイ先生が昇段できなかったと報告を受けた。とっても張り切っていたので残念だ。ネクトーさんに言わせると、「70前のじいさんのくせに、30代の若造みたいに動き回って貫禄が出せなかった」とのことだった。「まだまだ修行が足りない」ですって。耳が痛い。

 ネクトーさんはテレビが壊れて、最新の液晶テレビを注文したらしい。品質保証は5年あるんだ、ガハハと笑っている。最低あと5年はここでこうしてテレビを楽しむ気だ。この大先輩はまだまだ大丈夫そう。ネクトーさんが貸してくれた『ラストサムライ』を先週は10回以上観た。それについていろいろ討論しているうちに、帰宅せねばの時間になった。「液晶テレビは来週届くから、また来週遊びにおいで。日本刀作りの解説をしたカセットを持ってるからさ一、緒に観よう。カレーも作っておくし」と言われた。
おいしいお誘いであるなあ。。。

 

2007/02/05

Bien Re−venue  おかえりなさい?

 ニューカレドニアの友達が家族四人で来た。
6年ぶりの再会だった。
《よ》さんは、わたしが独身の時に毎日《食べさせてくれた》人だ。《よ》さんの結婚から出産、子供が一歳ぐらいになってわたしがヌメアを経つまで、本当に毎日のように会っていた。彼女の家はわたしの家だった。

 その時によく子守りをしていた長男くんと、下の女の子はすでに中学生だ。
今どきの中学生を想像して、わたしはかなり緊張していたのだ。

 家族が四人増えると、住む所も食べるものも、どういう計算でやったらいいのかわからなくなる。もともと無計画な人間だし、人が来て出掛けたりすると予定も狂うので、前もって用意した食事も、足りなかったり多すぎたりした。きれい好きで完璧主義な《よ》さんの目も気になったのだが、彼女もずいぶん丸くなっていて、昔のように厳しく言われなかった。もしかしたらわたしも《よ》さんのお目に叶う主婦に慣れていたのかも???しれない。

 とっても楽しい三日間だった。《よ》さんたちはお正月にフランスに着いて、スイス、イタリア、フランスのコートダジュールを突っ切ったあと、スペインからジブラルタル海峡をフェリーで渡って、モロッコでも過ごして来た。モロッコからスペインに戻って、うちに来たのだ。とっても疲れていると思う。でも、いろいろな場所での思い出話を聞くのや、写真を見せてもらうのがとても楽しかった。

 先ほどJPが仕事に出て、五分後に《よ》さん一家が去り、子供たちが学校に行ってしまって、家の中が急に寒くなった。

 《よ》さんたちは残り20日間の《夏休み》を、夏のヌメアではなく、真冬のピカルディー(ベルギー国境のそば)のご主人の実家で過ごし、3月の新学期に合わせて、日本を通過してヌメアに戻るそうだ。全部で何KM歩いたことになるだろう。

冬眠 

 どうも、頭が働かない。

 1月30日(水曜日)
ノエミが午後友達の誕生会に呼ばれていたので、プレゼントを用意しなければならなかった。
それで一週間の買い物のために、朝JPが現金を置いて行ったので、アルビまで子供たちと買い物に出掛けることになった。
「出掛ける」となると「それそれ、やれやれ」でいつも慌ただしく出て行く。

いつもは行かないアルビの大きなショッピングセンターで、ノエミは友達へのプレゼントを、お小遣いの予算内で買うことが出来た。
さて、わたしの番。
子供たちが一緒だったのでゆっくり買い物できず、最低限必要なものだけを持ってレジに並んだ。
いざ支払いの段階になって、お財布が空っぽだった。
真っ青。
レジにはほかに人がおらず、お店のおばさんもとっても良い人だったので、助かった。
大恥をかいて、商品を置いて、逃げるように店を出た。
当分はあそこには行けない。。。

 帰り道、12時半を回っていたので、子供たちがお腹空いたと言っている。
「ノエミ、お金貸して」
友達のプレゼントを買った残りのお金で、ノエミにサンドイッチとサラダを買っていただいた。

JPが置いて行ってくれた6枚のお札をどこに置いたのか、すっかり忘れてしまい、そのことばかりが気になって、大急ぎで帰って来た。
とんでもない場所に、ポンと置いてあった。

===

 2月2日の金曜日には、ノエミの眼科検診のために、二ヶ月前から予約していたというのに、一時間遅刻してキャンセルとなってしまった。朝のうちに時間を確かめていたのに、午後になってわたしの頭の中で一時間ずれてしまったのだ。
やいのやいのと騒ぎ立て、子供たちのお尻を叩いて、疲れきった身体でやっと病院まで着いて、「ああ、時間通りに来れた」とほっとしたのもつかの間、一時間も遅れていたのだ。

 なんだかとっても疲れているみたい。
もうすぐ冬休み。がんばろう。。。

Loto de l'ecole 新年ロト会

1月21日

 例年通り、学校のロト会があった。
PTA主催、母親の会有志たちの万全な準備のもと、市の建物を借りて行われる。クリスマス休暇の前にロトくじ前売り券が発行されていて、子供たちは親戚や祖父母、ご近所の人たちにチケットを売り歩いた。
 わたしはPTAの役員もやっているので、ロト準備の会合にも出て行ったし、当日の机並べや商品の振り分けも手伝った。

ロトというのは、子供も大好きだ。
 大きな丸いカゴの中に1番から99番までの番号の打たれたボールが入っている。そのカゴをぐるぐる回すと、やがて一個だけがぽろっと飛び出る特別な仕掛けになっている。マイクでその番号が読み上げられる。
 入り口で買ったカードには1から99までの数字のうち30個ぐらいの数字が、バラバラに並んでいる。同じカードは一枚も存在しない。自分のカードをじっと見て、マイクで読み上げられる番号をよく聴いていなければならない。もし読み上げられた番号が自分のカードにあったら、その番号の枠におはじきみたいなものを並べて行く。
 一列番号が並んだり、カード全部がおはじきで埋め尽くされたりしたら、「キーン」と叫んで手を挙げる。確認作業が行われたあと、用意された商品をもらうことが出来る。

 休憩時間には母親の会で用意した手作りのサンドイッチやお菓子が売られる。
入り口で販売されたろとカードや、休憩時間に売られた飲食物の収益金が、学校に寄付されるのだ。
今年は3600ユーロの収益となった。幼稚園と小学校に半分ずつ寄付される。

 先日スキー旅行の報告をもらったが、クリスマス前に子供たちと一緒に作って売った、クリスマス用品の収益が、スキー旅行の費用に充てられた旨、書いてあった。

 公立の学校ではお金が足りないので、自給自足している。
職員も設備も足りない。
現在全国で換算すると、一人の教師が48人の生徒を一人で受け持っているということになる。それなのに今後5500人の職員が削減される予定。
2月8日は全国で学校のストが行われる。