2010/05/31

パリへ

 指圧の診療所研修のために、パリに行っていた。ゼネストの影響でどうなることやらと思ったが、予約していたTGVの席が無かったこと以外は問題なく、時間通りにパリにたどり着けた。子どもが学校に行かない平日に家を留守にするのはどうかと思っていたのだが、ストの日はJPも家に居るので大助かり。カーモーからアルビまでの電車は無かったので、アルビまで自動車で送ってもらえた。
 
 電車で、解剖学などの復習を。疲れてくると車窓をながめる。フランスは広いのだなあ〜。どこまで行ってもこんな風景。パリ到着の三十分地点まで、ずうっとこんな風景。7時間以上掛かった。でもあまり疲れなかった。


 夏に知り合った剣道の友だちの、お母さんの家に泊めてもらうことになっていた。バスティーユ広場のすぐ近くで、オペラ・バスティーユの前には、ストをやっている労働組合の人たちが集まって、大騒ぎをやっていた。いつも通りの風景、らしい。

 

 パリに到着した木曜日の晩には、指圧の先生に、ちゃんと50ユーロも払って指圧をやってもらった。実習は金曜日と土曜日。金曜日は患者さんが大変多く、わたしには指圧の現場を見学することは許されていないので、先生ばかりが忙しく、わたしは何もやることがなかった。患者さんにお茶を出し、ちょっとおしゃべりにつきあい、電話の応対をし、パンフレットなどを折ったりして過ごした。
 夜には剣道の友達と集まって、お好み焼きと、カレーライスと、豚カツを食べに行った。



 土曜日。
午前中は一人しか患者さんが来ないというので、まず掃除機を掛け、それから、先生がモルモットになって実験台に上がった。わたしの指圧の腕前を披露。ちょっと訂正するところがあって、そのあと患者さんがやって来た。わたしの実験台になってくれる、本物の患者さんだ。でもじつは、先生のお友だちで、彼女自身指圧を習っている人だった。だから、わたしが変なことをやると指摘される。要領がわかっているので、自分で向きを変えてくれたりもする。
お昼は三人で、合気柔術の稽古に出かけた。

道場の前に着いた時、玄関のドアに《居合道フランス全国大会》という大きなチラシが見えたので、ドキドキした。全国大会だったら、絶対にソバージュさんが来ていると思ったからだ。ソバージュさんは、恩師の佐藤先生が《フランスの弟》と呼んでいた人で、彼が七段に合格した時も、佐藤先生のお宅の道場で稽古してから試験に臨んだのだ。身体の小さな人で、恥ずかしがりやで、声は小さく、普段着の時にはときどきどもる。でも、居合道の着物を着ている時には、とっても大きく見える。フランスで一番居合道の上手な人だ。去年からは居合道協会の会長さんをしている。
 合気柔術の稽古が終わってから、居合道大会をやっているところをのぞきに行ったら、玄関のところにソバージュさんが立っていた。居合道の大会は中断されていて、お昼ごはんの最中だった。審判の人たちは体育館の真ん中にテーブルを出してお弁当を食べているところで、参加者たちは、体育館のひな壇席でサンドイッチなどを食べていた。体育館の中はシーンとしていた。
 ソバージュさんはお昼を食べない人なので、体育館の入り口付近でうろうろしながら、挨拶に来る人たちと言葉を交わしたり、参加者の質問に答えているところだったのだ。
 わたしの顔を見るなり、ニコニコマークみたいに目を小さくして、口を耳元まで緩ませる。
「あ、妹が来たので、ちょっとごめんね」
と言うと、人をかき分けてわたしのところにやって来た。シーンとした体育館の、みんなが見ている前で、ソバージュさんはわたしを抱きしめた。ずいぶんと、ずいぶんと長い間、彼はわたしを強く抱きしめて、わたしたちは肩を揺らしながらその場所に立ちすくんでいた。
 ソバージュさんに指圧の実習に来ていると言ったら、ちょっと腕を揉んでくれと言う。それだったら、わたしの先生に頼みましょうと、まだ着替えを終わらせていないわたしの指圧の先生のところに連れて行った。
 ソバージュさんは、「わたし、みのりの兄です」と深々と挨拶をし、自分で腕を痛めていることを説明した。指圧の先生はさっさと手ぬぐいを取りに走って、ソバージュさんの腕に指圧を施し始めた。
 
 そのあと、わたしたちはまた肩を抱き合って居合道の道場の方に戻り、新学期には、わたしの道場にも来てくださいと言ったあと、また長い間抱きしめ合ってお別れした。わたしのあごはソバージュさんの肩に乗っかる。こんなにぴったりサイズに抱き合える男性は、フランスではこの人ぐらいだろう。そして、こんなにすばらしく羽織袴と白足袋に草履が似合うフランス人の男性も、この人しかいない。

 合気柔術のみんなと中華を食べ、先生とわたしはまた診療所に戻り、午後には先生は二人の患者さんの指圧を行い、わたしは指圧に使う手ぬぐいにアイロンをかけた。最後にまたわたしの指圧の復習をやって、ずいぶん褒められ、とってもよい実習生だったと言っていただき、プレゼントまでもらってお別れした。

 剣道の友だちが昨日に引き続きまた電話してね、また食べようねと言ってくれていたのだけれども、最後の夜こそは地下鉄の駅を抜けて、地上に出たかった。そして、どうしてもパリの街を一人で歩きたかったので、もうだれにも電話しなかった。



 冷たい雨が降る、風の強いパリの、セーヌ川のほとりを歩いた。人びとは冬の服にコートとブーツの装いで、まるで秋のパリに来ているようだった。今年出版される翻訳の本の舞台となっている、コンコルド広場のオベリスクや、ルーブル美術館の写真を撮った。帰ったら、この本のゲラをちゃんともう一回読み直して、大阪の出版社に最後の提出をする。今は挿絵画家さんががんばってくださっている。
 
 土曜日の夜には、夜行に乗ってカーモーに向かった。日曜日は母の日なので、子どもたちが待っていた。

2010/05/30

パリの風景

         ルーブル美術館のピラミッド


          オルセー美術館


          コンコルド広場のオベリスク   


         国会議事堂の向こう側に飛び出ていたエッフェル塔 


           セーヌ河畔の本屋さん 


       バスから見えてた。。。なんだったかなあ〜?

2010/05/09

剣道のことをちょいと。。。

 剣道は中学と高校の時に、学校の部活でやっていた。中学に入ったら剣道クラブに入るんだと心に決めていた。仲良しの友達数人もいっしょに入った。その中でずっと前から心に決めていたのは、友達よりもわたしだったのに、友達の方が上達が早かった。その時の仲間で、高校に行ってからも続けたのはわたしだけで、多分それは、続けたら辞めたあの子たちよりも上手になれるかもしれないと思ったのだろうし、続けることに意義があるんだとか、一回始めたことは続けるべきなんだとか。。。辞めないということに誇りを覚えたものか。。。どうもよく覚えていないし、上手に表現できないけれども、とにかく高校でも続けた。高校では「なんでやってるんだろう」と思いながらやってた。そんな熱血というわけではなかった。
 短大の時には学校に剣道部がなかったので、町の道場に通っていた。ニューカレドニアで働き始めてすぐに、ここでもまた剣道を再開した。だから、剣道は大人になってからもずっと続けていて、18年ぐらい高校でもらった三段のままだったけど、10年ぐらい前にフランスで四段をもらって、このごろははやく五段を受けなさいとみんなに言われている。
 フランスの田舎では二段以上となると人口が急激に減るので、四段というともう上座に座らされることが多い。ストレス感じるのだ。日本人だし、経歴だけは長いので、あちこちで責任持たされる。

 今では「あんまり剣道ばっかりやってると、ダンナに見捨てられるよ」と言われることもあるが、昔は、「剣道ばっかりやってると、彼に逃げられるよ」と言われ、ほんとうに逃げられたのだから、用心に越したことはない。でも、剣道のせいで誰かに見捨てられるぐらいだったら、それはそれまでの人間関係だったのだろうと思う。剣道のせいじゃなかったと思う。

 わたし、剣道の友だちには、いつも、どこに行っても、どんなに遠く離れていても、ずっと会っていなくても、どんなに大変な時でも、見捨てられたことはない。剣道のおかげでJPにも会えたのだから、剣道のせいでJPに見捨てられることはないだろう。

 とにかく外に出る時には、家の中のことをちゃんとやってから出かけている。
と、思う。

 ことし通っているアルビのクラブには、来年はもう行かないことにした。指導の内容と、練習の仕方と、時間的なこと、経済なこと、いろんな理由から、辞めた方がいいことに気づいたから。不満を募らせながら、ストレスを溜めながら、だらだらとやるべきじゃないとわかったので。
 今年はいろんな講習会に参加した。たくさんの人に会った。たくさんのよい先生方にお会いできた。それで、来年度もまた、いろんなところの様々な先生方の講習会に参加して、アルビでは習えないことをいっぱい習いたい。そして、たくさんの友達の応援と声援とアドバイスで、カーモーに剣道クラブを作ったらいいじゃんということになって、じつはもうその方向で動き始めている。

 カーモーにはすばらしくモダンで巨大な市立の体育館があり、そこでは柔道や空手の稽古も行われているので、体育館を借りれないかと思って市役所に掛け合った。けっきょく、体育館の使用に関してはもういっぱいで、新しいクラブは受け入れられないと言われた。
市の職員さんはとても熱心に話を聞いてくれて、誠実に申し訳ないと思っていることがよくわかった。いずれにせよ期待していたバスケット場は板の床ではなくて、セメントにゴムを敷いた今はやりの体育館だったので、こっちからお断りだったのだ。

 市役所の人が、町の私立のジムを紹介してくれたので、市役所を出てまっすぐ行ってみた。ジムのおじさんもとっても親切な人で、ダンスの教室を見せてくれた。そこは一面が鏡になっている板の床で、とてもよかったのだが、朝の10-12時と午後の14-16時しか開いてないと言う。そんな時間帯に剣道の稽古に来れるのは専業主婦ぐらいなので、カーモーじゃわたしだけってことになるだろう。

 別れ際におじさんが、「ちょ、ちょっと待って。今いいこと思いついた」と叫んだ。
なんと、我が家から200メートルのところに、二年前に営業を中止したダンス教室があるという。そこの教室を貸してもらったら?というので、そのまままっすぐダンス教室のある建物まで行った。同じ建物の一階には、血液などの医療検査をするラボがある。ラボの人に建物の所有者はだれですかと尋ねたら、Dr.マッシェだと言う。

 Dr.マッシェというのは、ラボのすぐそばで耳鼻科を開業しているお医者さんで、前にわたしの耳から大きな塊を掘り出した、あの怖い先生だ。勇気を出して行ってみた。
 「あそこの建物を借りる件で。。。」と言ったら、ニコニコして、
「あの建物は母のものだから、訊いてあげる」といい、さっそく白衣のまま裏口から出て、ラボの前を通って、隣のお母さんの家の裏側に連れて行かれた。
 
 白衣を着た、怖い顔でいい歳したDr.マッシェが、
「ママン!ママ〜ン!お客さんだよ〜」
と言って叫んでいる姿が、かわいらしかったのだが、肝心のお母様はいらっしゃらなかった。犬の散歩だろうというので外で待っていたけど、いくら待っても帰ってこない。しばらくすると、Dr.マッシェのお母さんにしては若すぎる、きれいな女の人がやってきて、裏口から入ろうとするので、声を掛けて、じつはマダムマッシェを待ってると事情を伝えた。彼女は誰もいない家の中に入って、ダンス教室の建物の鍵を探し出してくれ、建物の中を見学させてもらえることになった。

 その建物は三階建てで、一階の半分だけがラボとして使われているものの、二階の全面と三階の半分は空っぽのすっからかんの、ほんとうになんにもない、不思議な建物だった。三階に着くと、奥にきらびやかな部屋が見えた。誇りまみれの倉庫のような空っぽの建物の中にいきなり現れた、光のあふれるダンス用の教室だった。大きな鏡が壁の一面にあって探し求めた木の床。木の床は100平方メートル以上はあるだろう。わたしのフランスの剣道の友だちだったら、みんなが声を揃えて
「夢のような道場」
とため息をつくに決まってる。全国の剣道仲間がこぞって遊びにきてくれるに違いない。
日本からも先生たちを招待しよう、このカーモーに。

 来年は、剣道の指導者資格の国家試験を受ける。八年前に受講していたのを、妊娠しちゃったせいで中断したあの試験だ。これがあれば公に自分のクラブを開くことができる。ちゃんと教えることができる。
 クラブを設立したり、宣伝して人を集めたり、場所を借りたり。。。途方もない大仕事が待っている。剣道連盟の経済的援助願いを出したり、やることがいっぱいあるのだが、家賃が高かったら、わたしにはどうしようもない。家賃については月曜日に返事をもらえることになっている。どうなるか。

 今年この建物が借りれなかったら、とりあえず当初の予定通り、いろんな場所の講習会に参加して、指導者講習会を受けて。。。修行を続ける。クラブはなくても剣道はできる。

 でも、いい場所があったら、もっといい稽古ができるんだがな〜と。。。夢見ている。

 
 これからまた、いろんな友達に助けてもらう。家族にも協力してもらわなければならない。