2012/10/31

おやすみ

ボボの最後の夏

いつもこんな顔で、わたしたちを見上げていた。


 毎日決まってやらなければならない、結構大変なことのひとつが、ボボのお散歩。忙しい時、足が痛い時、寒い時、暑い時、雨や雪の時。。。毎日のお散歩は結構「あ〜あ」の作業だと思っていた。でも、ある日、突然、それをやらなくてもいいことになった。

 10月19日、金曜日、いつものお散歩のために家を出たわたしたちだったけど、公園の前で友人のロランスに会ってしまった。「ね、これからうちにおいでよ」と誘われ、ボボを連れたままロランスのうちに行った。ロランスはボボのことが大好きだったので、去年ボボと同じピーグルの、メスを飼いはじめた。「犬たちを庭で遊ばせて、わたしたちはお茶しよう」ということになった。けっきょく、公園に行く時間がなくなったけど、ロランスの広い庭で犬たちは仲良く遊んでいた。

 金曜日のお昼はゾエが自宅で食べる日。11時半が過ぎたら急いで帰らなくてはならなくなったので、公園の入り口を通過して、ロランスのうちからまっすぐ帰ることにした。でも、途中でボボの具合が悪くなって、歩けなくなり、ロランスの家からうちまで5分の距離なのに、30分もかけて帰り着いた。ゾエは自分の鍵で家に入ってはいたものの、親に忘れられたと思って、誰もいない静かな家のテレビの前で、泣きながらお腹を空かせてテレビを見ていた。その午後からボボは何も食べなくなり、金曜日の夜から土曜日の夜にかけて、何度もJPが注射器でミルクをあげたけど、吐き出したり咳き込んだりして苦しそうだった。ボボが九月に腫瘍の摘出手術をした時に、獣医さんに「この子、心臓がすごく悪いですよ」と言われて、思いがけないことでびっくりしたのだった。9月から5キロ以上もやせて、ずいぶん弱っていたのもたしか。

 日曜日の朝早くに起きて、ルルドという、うちから車で3時間ぐらい掛かるところに行く約束があったために、その土曜日の夜はいつもより早く寝るつもりだった。JPは土曜日の夜はいつもパソコンの前に座る。でも、わたしたちはなにやら落ち着かなかった。夕食のあと二人で台所にいて、わたしは剣道のレポートを書き、JPは夜の10時を過ぎてからいきなり「ジャムを作る」と言い出した。ボボはその前の日から引き続き、廊下に寝ていたけれども、わたしたちは交代で何度も様子を見に行った。11時半ごろ、ボボを見に行くと、わたしの顔を見ていきなり立ち上がった。一日中立ち上がれずに寝たままの姿勢だったのに、いきなり立ち上がった。ふらふらと、あちこちにぶつかりながら長い廊下を歩く。わたしはボボを追いかけながら、JPを呼んだ。ボボは、台所でジャムを作っているJPの足元をふらふら歩き、やがて、あきらかに左半身の様子がおかしくなり、左に傾いてぐるぐるその場で渦を描きはじめた。船が渦巻きの飲み込まれるように、どすんと冷蔵庫の前に倒れた。

 ゾエは三十分前ぐらいに「おやすみ」と言ったところだった。ノエミもさっき「おやすみ」と言ってトイレに行くのが聞こえていた。ノエミは寮に入っているので、「来週はもう会えないかもしれないから、ボボとちょっとお話しする」と言って、金曜日と土曜日は二人とも、何度もボボの様子を見に言っていた。金曜日に具合が悪くなった時に、ゾエが「医者に連れて行かなきゃ」と言ったのだが、その日に医者に連れて行ったら「注射で安楽死させましょうか」って言われるのはわかっていた。子どもたちは「苦しむのを見るぐらいだったら」と言ったけど、わたしとJPは、土・日に自然に、結果が出るような気がしていた、と、思う。ずっと世話したかったのだ。食べ物を受け付けなくなった時点で、わたしは「生きる気力が、もうないんだ」と思った。でも、JPは注射器でミルクと砂糖と小麦粉を混ぜたおかゆみたいなものを、飲み込ませようとがんばっていた。

 冷蔵庫の前に倒れて、投げ出された小さなボボの身体は、動かなくなった。JPが「もう、終わりだ」と言ってしばらくしてから、いきなりボボが咳をしたので、飛び上がるほど驚いた。そのあとまたびくとも動かなくなったので、JPは、「今度こそ、もう終わり。さっき心臓発作をやればよかった。」と言いながら胸をなでた。そのあとまたしばらくしてから、ボボは咳をしたので、もう、わたしは、ものすごくびっくりした。

 静かになり、JPがまたジャムの鍋に戻り、無言で鍋をかき混ぜはじめたので、わたしは二階に上がっていった。ノエミが廊下で泣いていた。「死んだんでしょ、ボボ?」とわたしに聞いてから、「おやすみ」と言ってベッドに入った。ノエミが3歳になったばかりのお正月にボボを拾ったのだ。もう13年ぐらい一緒に暮らして来た。

 夜中だったので、どうしようもなく、JPはシーツにボボをくるんで、犬小屋に寝かせた。そのあと、目を覚ますかもしれないと思って、何度も様子を見に行った。次の朝早くに、自宅を出る時にも、シーツにくるまったボボを見に行った。このかたまりが本当にボボなのか、もしかしたら起きてるかもしれないと思って、何度も見た。お線香をたいて、わたしは出かけた。静かな廊下に「おやすみ」と言った。

 昼間に一人で家にいると、寂しくて寂しくて仕方がない。そういえば、昼間、ボボはわたしの話し相手だったのだ。朝の散歩がなくなって、公園まで歩かない。公園を歩かない。こんなことではいけないけれども、近所の人に「あら?ボボは?」って言われるのがいやで、ご近所の人を避けている。

 ボボにとって大変な一生だった。でも、いい子だった。安らかに眠ってもらいたい。
おやすみ 合掌

十月の最後の日

 母に電話したいと思っているんだけど、なかなかできずにいる。フランスは急に寒くなって来た。風邪を引いていないかなあ。

 先週のガラガラ声も、どうにか元に戻って来た。9月の最後の週にパリでの3泊4日の講習会に参加し、10月にももう一回パリでの指導者講習会と、ルルドの地方講習会に参加した。どれも剣道の講習会。その間、10月には高校での『日本語クラブ』が始まった。

 剣道の生徒の中に、カーモーで唯一の専門学校で、地理と歴史とフランス文学を教えている人がいて、その人の尽力で『日本語クラブ』っていうのを開いてもらえることになった。週に1時間、全部で26時間の、来たい人だけ来てもいいっていう日本好きの高校生たちのためのクラブだ。そのほかに2時間の別な講義が2回。フランス文学と、地理歴史の授業の時間に、日本について話してほしいと言われ行くことになった。

 高校三年生のクラスは、今、『広島の花』という小説を勉強中。それと同時に『俳句』についてもちょっと練習したらしい。地理と歴史の時間にも、日本のことをたくさん勉強していた。第1回目の授業では、まず学校で習ったこと、知っていること、聞いたことをもとに、日本や日本人についての意見、あるいは質問を出してもらった。それに対応しながら、興味を持ってくれそうなことを付け加えていく。第2回目の授業の時には、まずフランス語で三行詩を作らせる。季語などを入れて。わたしにはその場で『俳句』として翻訳する仕事と、それを筆で書く作業が言い渡され、お習字苦手なので、ホントーに困ってしまった。高校生たちにもお習字を体験してもらいたいので、それぞれの書いた詩のテーマ、あるいはタイトルとなるような単語をひとつ選んで、それを漢字で書いてみるという企画を立てた。わたしが俳句を作っている間に、彼らはお手本を見ながら筆で漢字を書いた。わたしより上手。

 ミーさんのパティスリー・工房に、新しい日本人のパティシエが来た。これまで一年働いていたももちゃんも帰ってしまって、次はだれだろうと思っていたところだった。フランス語がわからなくて、ちょっと大変だ。ちょうどいい具合に「日本人会を作りましょうよ」と誘ってくれた、アルビの日本女性グループと初の会合を催した直後だったので、今後、ご紹介してあげられるかもしれない。この辺りで日本人が急増している!知らなかったけど、初会合の時に9人も集まったのには驚きだった。そういうところに行くと「年配の方グループ」で、しかも「古株でフランスのことをよくご存知」と思われており、若い奥樣方、実に丁寧な言葉で、恭しく接してくださるので、、、恐縮なのである。
「みんなでバトミントンをやりませんか」
と誘っていただいたのだけど、わたし、スポーツは全然ダメで。。。剣道と居合道で忙しいので。。と言ってお断りした。「みんなで剣道やりませんか」っていえばよかったなあ。月曜日と木曜日は剣道を教え、水曜日と土曜日は居合道を習い、火曜日は料理教室があって、週末は剣道の講習会やら試合のために遠征しているので、ぜんぜん余裕がない。時間があったらもうちょっと家のことやりたい。時間は全然ない。翻訳の仕事やブログを書くのやフェースブックは、家人がベッドに入って家の中が静かになる20時ごろからはじめ、3時ごろまで書斎でウロウロしている。昼間は常にぼーっとしていて、バトミントンをやる時間があったら昼寝したいのだけど、昼間は日本語と剣道の授業の準備をしたり、授業のあとには反省ノートを書いたり、掃除したり、洗濯したり、メールの返事書いたり、だれかに電話をかけたり、だれかが電話して来たり。。。。なんで1日は24時間しかないんだろうと思う。

2012/10/16

ヤカラのおかげです。ありがとう。

 きのう(月曜日)から、声がもうぜんっぜん出ない。金曜日からずっとパリで剣道やって来たので。張り切りすぎてしまった。いつものように。通訳もやった。人がたくさんいたので、声を張り上げなくてはならなかった。

 「みのりさん、気迫が足りないよ」と、仲良し大好きな剣道仲間から言われるのである。「気合いはいちおう入ってんだけどね」とも。「そろそろ気勢と品格、気位が大切」と先生はおっしゃる。二週間前に、五段の昇段審査を受けたのだ。それでめでたく五段に昇段したので、元立ちをやらなければならなくなってしまった。責任重大なのである。

 元立ちというのは、まあ、向き合った相手を指導する立場みたいなものだ。何か指導できる要素を備えていなければならないらしいのだ。でも、わたしは相変わらず自分にあんまり自信がないように、見えるらしい。おかしいなあ。

 剣道の講習会ですれ違う人は、ほとんどが日本人好きで、日本のことを知りたく、日本人の友達が欲しい。だから、わたしがその辺を歩いていると気軽に声をかけてくれるし、誰もがにこやかに挨拶してくれる。名前を覚えてくれる。日本語のクラスでも同じだ。なのでわたしはこの二十数年の間、あちこちで大切にされて来た。ありがたいことだ。

 たまに、わけわかんない人もいる。わたしが優しいことを言ったり、にこやかにしていると、どうも神経に障るらしい。「礼で始まり礼で終わる」と言われる剣道やってるくせに、挨拶しても返事ができないヤカラだ。「ゆるせん!」のである。そして、そういう許せんヤカラが、わたしを透明人間のように見過ごして、目の前を通過するたびに、イラッとするのは、修行が足りない証拠なのである。なんで自分が透明人間になってしまったのかを考えていた時に、親しい友人から、「気迫が足りないからだ」という意見が出た。「ちょっと、そこのヤカラちゃんよ、あんた、あたしがコンニチハって言ってるでっしょーがっ!」と、ヤカラの肩をとっ捕まえて喝を入れるぐらいの「気迫」が欲しいと、友は言うのである。友だったら、見てないで代わりにとっ捕まえて欲しいところだけどねえ。

 「アンタ取り柄ないんだから、ニコニコ笑って世の中を渡れ。挨拶されたらさわやかに応え、嫌なこと言われたら口答えせずに聞き流せ。」
と、言われて大きくなった商売人の娘なのである。そのような商売人の娘として20年間親のもとで暮らした。家を出て、国を出て、はや24年を親のいない所で暮らしているのだということには、最近ふと気付いた。海外暮らしも板に着き、フランス人相手もかなり有段者になってきた。なのに、どうして自己主張というものは、日本人のままなんだろう。

 わたしの自己主張は、やはり「ニコニコ笑って、挨拶されたらさわやかに応える」であり続ける。うちにいて、アタマがカタマって来て、顔色も目つきも悪くなり、ヒステリーを起こし始めると、家人に「剣道で発散して来い」と言われるぐらいだから、やっぱり、道場はわたしの「道を探す場所」なのだと思う。そこに行ってまで、挨拶もできないヤカラの機嫌を取るなんぞ、無理。無理。そういえば先日の講習会は体育館だったから、道場だたらちょっと違っていたかもしれない。「道場」という場所には、不思議な力があるものなので。

 と、いうわけで、わたしはそのヤカラをとっ捕まえて、返事が来なくても構わずに「こんにちは」と元気よく言う。突っ返されてもいいので、優しい言葉をさわやかに言ってみる。無視されても平気で「あなたはいかが?」などと誘いをかける。ご機嫌を取っているのではない。こうなったら嫌がらせだ。ひひひ。ヤカラの困った顔が、いい気味だ。

 さあ、どうだ、かかってこい。こんな暗い顔をして道場に立っているヤカラは、わたしのように澄み渡る声も出ない。切れ味抜群ですっきりさわやかな返し胴もできない。どうだ、参ったか。。。。あら、いつの間にやら負けず嫌い?勝った負けたじゃないんだけれども、マイペースで楽しくやってるわたしの方が、ずっと人生有意義に謳歌していると、確信する。明日、死んでも悔いはない。この(ない)胸を張ってるあたりに、品格も出るというものよ。わっはっは。

 相変わらず気迫はないが、気合いだけは一応入っているのだ。ほら、声枯れてるし。ヤカラはきっと、あんまり声枯らしてないと思う。だって、小さい声で「こんにちは」も言えなかったもの。

 ああ、また、あのヤカラのことを思い出しているわたしって、器が小さいなあ。



昇段審査に向かう電車の中で読ませていただいた、角正武先生のご著書

クラブのみんなが待っていてくれた。ありがとう。