2008/01/31

放っておきなさい とのこと



 トゥールーズを過ぎたら、マドリッドの標識を見て進む。
カルッカッソンヌのお城を左手に見て、しばらくすると、スペインに向かう道と、コートダジュールに向かう道に別れる。高架の高速道路となり、風力発電の風車の羽が、目の前に迫って来る。ここまで来たらナルボンヌもすぐそこだ。

 家を出てから、コーヒーメーカーのスイッチを切らなかったことに気づき、Uターンした。やっと広い道路に出たと思ったら、ゾエが吐きたいというので車を停めて、なんとか、靴は汚さなかったけど、コートはどろどろになった。それを見たノエミが続けて吐いた。

 ナルボンヌに近づいて来ると、なんとなく「南だ〜」という気分になる。どうしてかなあ?と思ったら、道ばたの木々に白い花が咲いているからだ。梅かと思ったら、ノエミが「アーモンドの木だよ」と言う。「アーモンドは冬に花をつけるんだよ。」ポカポカ暖かい、春のような一日が終わろうとしていた。

 ナルボンヌには予定を大幅に遅れて4時半に着いた。カーモーからナルボンヌまで、高速道路で来たことがなかったので、まさか13ユーロも掛かるとは思っても見なかった。お義父さんはコートを着て、門を大きく開いていつでも車が出せるように待機しており、お義母さんは「はやくはやく」と言って、ゾエを引き取ってくれた。わたしとノエミは競い合うようにトイレに駆け込み、ゲロのにおい漂う手を洗って「ゾエをよろしく〜」と叫びながら義父の車に乗った。

 義父の運転はこわい。何度も死ぬかと思った。ノエミもわたしも緊張していて、口数が少なく、わたしは何度も後ろを振り返って「ノエミ、吐いてないでしょーね?」と言った。

 モンペリエの町は帰りの通勤ラッシュで渋滞。ほぼ空のトラムウェイが、優雅に町を走って行く。「あれに乗って行けばあっという間に着けるかもしれないが。。。」お義父さんがつぶやく。そして「暗くて標識が見えない」とか言いながら、何度も道を往復し、「こっちですよ」と言ってるわたしの声は全然聴こえないもんだから、あっちに行ってしまい、クラクションの嵐を浴び、とんでもない所で大げさなバックやターンを繰り返し、歩道に乗り上げ、通行人を踏みそうになり、わたしはまた「今日こそはだれかが死ぬ」と思いながら、両足を踏ん張っていた。彼の行動に口出しをすると、キレてもっとひどいことになるので、じっと運命に身を任せていた。

 約束の時間に30分以上遅れてしまったけれども、先生はまだまだほかの患者さんの相手をしていた。モンペリエには薬剤師になる学校や、医者になる学校が至る所にあって、それぞれの医学の専門の病院がたくさんある。病院マークが数限りなくあるので、わけわかんなかった。ペイロニという病院を探した。
 廊下に椅子を置いただけの待ち合い場所に座っていると、脚の悪い子どもや、体中の骨が曲がった子どもが通過して行き、ノエミがビビっている。わたしは付き添っている母親や父親のことを思い、両親とは違って明るい顔をして、大きな声で話す、小さな入院患者たちを見つめた。壁には『ライオン・キング』の巨大ポスターや、春の花の絵が掛けられ、2月の最初の週末に病院内で行われる、仮面仮装大カーニバルの派手なポスターがあった。
 
 アラブ系の訛りのあるディメグリオ先生は、クリスマスの前にアルビで撮ったレントゲンとスキャナーにちらっと目を通した。そして、ノエミを廊下に出して、そこを歩いてみなさいと言いながら、見てるのか見てないのか分からない様子で、廊下を通った助手に何やら指図をしていた。
 部屋に戻ると、大きな椅子にどかっと座り「なるほど。こりゃあ変な歩き方だ」と言った。義父のことをノエミの父親だと思っているらしく、義父に向かって話す。
 どうして、カーモーくんだりからやって来たのかと訊かれ、トゥールーズのどこの医者に見せたんだ?と言われた。

 トゥールーズの医者が「これは矯正が必要です」と言って造ってくれた矯正の器具を袋から出したが、それにも「ちらっ」と目を向けただけで、手に取ろうともしなかった。ノエミの身体の至る所のサイズを測り、録音のレコーダーをつかむ。

 「マスリ先生にお手紙を書いてください。(これは秘書に言ったんだろう)ノエミの骨には異常はなく、変な病気でもないので、心配しないように。今後よくなるくなることはあっても、今以上おかしな歩き方はしないでしょう。わたしは彼女の症状を《チック》の一種だと断言する。(《チック》は、日本語にすると《けいれん的(反射的)な動作あるいは《妙な癖》ということ。北野たけしが肩をひくひくあげるような、あれ?)思春期の変化とともに、この歩き方も、彼女の意識次第で変わって来ると思われる。どんなスポーツにも影響はないし、身体のどこにも悪い影響を及ぼさない。両親は、この歩き方のせいで彼女の身体の発育を疑ったり、親のせいで骨が曲がっているのではないかなどと、自分たちを苦しめないこと。どんな矯正器具も、治療も必要ない。無理な運動や医療器具による矯正を強制しないこと。ノエミは学校でよく勉強し、いい子どもであることだけを考え、脚のことは人に言われても気にしないこと。家族は脚のことを言わないで、放っておいてあげること。」

「確かにこの歩き方は美しくない。」と先生に言われても、ノエミはニヤニヤ笑って、「タンピ!(仕方ないじゃん)」と笑っている。先生はわたしを見て、「ほらね。まだぜんぜん自覚がないから、そのうち恥ずかしくなったら、美しくなる努力をするようになるよ」と言った。

 ずっと前からJPは言っていたのだ。「ノエミは、疲れているときとか、人前に出るとき、脚を見られてると思う時に、特にひどいような気がする。だから、いつもいつもひどいわけじゃないと思う。それは、つまり、どこかが悪くて、ちゃんとした歩き方ができないのとは違う気がする。気分の問題じゃないかな?」

 わたしは、5年ぐらい前に「これはあとでよくないことになるかもしれないから、今から矯正を」と偉ーい先生に言われたので、ずっと気にしていたのだ。そのあと、二人の医者が大した検査もしないまま「大丈夫、放っておいても成長とともに良くなるよ」って言った時に「検査もしないでよくそんなことが言えるね」と思った。

 中学生になって、ノエミが腰が痛いとか、足首が痛いとぼやくたびに、絶対にむかし矯正器具を途中でやめてしまった例の骨盤と膝の問題が今現れたのだと思った。あの時には矯正器具には何の効果もないと思ったけど、やっぱり何かあるのだと。

 でも、ディメグリオ先生は「中学生ぐらいだと、みんなあちこち痛いのだ」と言い、「ノエミのは、骨盤や膝のせいじゃない。ほかの子どもたちと同じ成長期のせいだし、きっとカバンが重いせいだ」と言った。

 そして、これまでの誰よりも自信を持ってこう言ってくれた。
 「放っておきなさい。自分で意識したら、良くなります。お母さんはもう自分を責めたりするのはやめなさい」
さらに「大人も子どもも、もうその件を口に出すのをやめて、すっかり忘れてしまいなさい」
なんと嬉しい解放だろう。
 これまであんまり言い過ぎたから、だから、子どもの方も「自分の脚は曲がってる」という暗示にかかっていたんだろうか?泣かせても矯正器具をつけさせたことなんかが、とってもかわいそうに思える。

 すっかり真っ暗になったモンペリエの街を、道に迷いながらやっとのことで抜け出て、世にも恐ろしい《義父が運転する高速道路》を逆行し、義母とゾエの待つナルボンヌの家に戻って来た。義母に「精神的なことで良くなるかも」って要約して話したら、「じゃあ、わたしは美しくなるんだって暗示をかけて、モデルのように歩く練習をしなきゃだめね」といきなり盛り上がってきた。
「いや、、、もう放っておいてあげて」とわたしは言ってるのに、ノエミには「美しくなるためにはオンナは苦しい努力をするものよ」なんて言ってくれてる。

 とにかく、変な病気でも、骨の異常でもないというレントゲン技師の評価が確認できたのでこれで安心できる。遠くまで行った甲斐があった。マスリ先生のジェネラリストの診療所では、半時間ぐらいで22ユーロだが、ディメグリオ先生の20分の診察は100ユーロも掛かった。空っぽの小切手を切りながら、カーモーに帰ったら真っ先にJPにお金をせびらねば〜〜と青ざめていたわたし。でもこれで安心して眠れるんだから、お安いもんさ〜〜。

 木曜日の午前中にカーモーに戻って来た。ノエミが車の中で「吐きたい」と言う前にも〜う吐いていた。二回も吐いた。ゲーゲー袋まで用意してやったのに。コイツはもう〜〜。
「おまえはボボ以下だ〜!」と怒鳴り散らしながら、いつもの母に戻ってしまったわたし。。。。。
健康第一、怒鳴る声に力がみなぎっているのが、わたしらしくてよろしいのだ〜〜。


皆様ご心配おかけしましたが、ノエミはタダの《変な内股オンナ》だったことが判明しました。これからは脚のあたりは見ないでやってください。よろしくおねがいいたします。恋でもすりゃ〜美しくなるざんしょ。とにかく ほっ

2008/01/28

ネクトゥーさんのわかめ




 これまでにも何度もネクトゥーさんのことを書いたことがあるので、覚えている人もいるかもしれない。ネクトゥーさんというのは、わたしの数あるボーイフレンドの中でも最高齢の君で、最もわたしを可愛がってくれているお友だちだ。今年はおそらく。。。84歳ぐらい?ずうっと気になっていたのに、去年の春以来会っていなかった。でも、会えない時には文通しているし、電話も掛け合っている。

 ネクトゥーさんは、剣道仲間だ。2、3年前までは、ドレイ先生の道場でいっしょに汗を流していた。ネクトゥーさんは柔道と空手と剣道歴が合計約60年ぐらいなので、当然のごとく日本マニアで、日本人大好き人間だ。
 ヨーロッパで「仏教勉強したい」と言うと、だれもが《そ〜か学会》に誘われていた1960年代後半の輝かしい時代に、日本で、かの大先生様さまからじかにメダルを手渡され、ツーショットを撮らせていただいたっていうのが、けっこう自慢というか、話のネタだ。《そ〜か学会》のフランス支部長みたいなことやらをやっていたこともある。ネクトゥーさんちの二階にある畳の部屋には、《そ〜か学会》の仏壇が座ってる。その仏壇には、違法に所持している拳銃をいじり回していて、つい発砲してしまった玉が貫通した跡があって、その玉が入った穴と、出た穴を見るたびに、「わたしは危ない世界に脚を踏み入れたんじゃないだろうか」と思って逃げたくなる。

 ネクトォーさんは、《そ〜か学会》のことを「ちょいとインチキ臭いな〜と思ったんで、さっさと足を洗った」と言う。「いろいろ味見しなくっちゃわからないよ」と、日曜日の朝にうちのドアベルを鳴らす、エホバの証人の隠し子のようなことを言った。で、「本日の気分は《般若心経》だ」と言うので、本日は二階の《そ〜か学会》の仏壇には行かず、一階のサロンにある鎌倉風仏陀の前に座って、般若心経を三回リピートした。
 わたしはお線香の煙が奇妙な3D模様を成して、目の前までフワフワとやって来るのをじっと見つめて眠気と闘った。見つめながら、自分のふたつの目玉が鼻の頭の方に集まって来て、焦点が合わなくなるのを楽しみながら、「ぎゃ〜てい、ぎゃ〜てい」「にゃんたら そわか〜」などのメロディーを聴いていた。「シキシキゼークー」の辺りはいっしょに声を出して言ってみたりもした。

 ネクトゥーさんは、物忘れがひどく、10分前に言ったことも忘れるくせに、般若心経はよく覚えていてびっくりする。わたしは何度も写経もどきをやってみたのにいまだに暗記していない。

 先日電話して「遊びに行ってもいいですか?なにか持参しようか?」と訊ねたら、ちゃっかり「巻きずし」と注文が出たので、ゆうべは午前2時半からいきなりネクトゥーさんのための巻き寿司を作った。でも、遊びに行ってみると、ネクトゥーさんったら巻きずしの件はすっかり忘れちゃってて、その代わりに、得意料理のシーフードカレーを作ってくれていた。巻き寿司よりもずうっとおいしいのだ、これが!アンコウのしっぽとエビが入っていて、ココナツミルクで仕上げている本格カレーだ。おかわりまでしてしまった。ネクトゥーさんも、わたしがいると食が進むらしい。電話では「あちこち痛くて、泣きたい。もう死にそうだ」とか言ってたくせに、とっても元気そうで安心した。

 夏に日本に帰った時に、指宿から送った絵はがきについて、お礼を言われた。その際に「あの絵はがきの池田湖っていうのは、大先生様々と何かご縁があるのだろうか?」と言われたが、「田んぼの真ん中にある湖だから、じゃないのかな?」と答えたら、ちょっとがっかりしたようだった。日本で浴衣買って来てと頼まれていたのだが,身体の小さいネクトゥーさんが着やすい浴衣を見つけられなかったので、お土産に甚平を買って来てあった。とても喜んでくれた。去年の春、最後に会った日にお寿司を持って行ったのだが、ネクトゥーさんが大事に保管してくれていたそのお重箱の中には、多すぎるほどの浴衣代が入っていた。次回のためのお餞別にしなさいと。。日本人みたいなことを言った。

 ネクトゥーさんに「いつかいっしょに日本に行こうよ」と言ったら、目に涙を浮かべて、「こんなよぼよぼじゃあ、無理だろうね。灰になったら手軽に連れて行ってもらえるだろう」と言って、わたしの肩を抱いた。わたしはネクトゥーさんちの台所を片付け、一階のすべての部屋にほうきを掛け、トイレを掃除した。わたしが台所のテーブルを拭き終わる頃に、しゃべり疲れたネクトゥーさんがサロンの椅子でうとうとし始めたので、おいとますることにした。朝来る時には一面の深い霧だったのに、午後には青空が広がっていた。とてもいいお天気になったので、いっしょにお散歩ができずとっても残念だった。

 帰って来てから、なんだかお腹が変な感じだ。じつは、カレーの箸休めにとわかめの煮物が出された。ただ水で膨らませたのを、味も付けずに煮たものだ。「数日前に作った」と言って、カツ丼のふた付きどんぶりが出て来た時、怪しげな雰囲気を感じたのだが、蓋を取って、何やら異様な気配まで感じられた。ネクトゥーさんをがっかりさせちゃあ悪いと思って、そのわかめを食べた。なんとな〜〜く、すっぱくて危険な味わいだった。あれ、だろうか。この、お腹の気持ち悪さは?


 今日の午後、幼稚園の担任の先生が急に具合が悪くなり早退したらしい。明日は先生がお休みを取るので、家にお母さんがいる子は、幼稚園には来ないでくださいという貼り紙があった。長い一日に備えて、寝ようっと。

2008/01/27

人のふり見て。。。

 わたしはいつも、不満を言っている。
JPのことだ。
JPは、超無口な人で、孤独を愛する一匹狼。世界中に友だちは二人しかいない。しかもその二人は遠くに住んでいるので、数年に一回会えればまだマシっていうような、とっても貴重な友だちだ。なので、普段「JPの友だちです」などというような人が、我が家に来たことはない。仕事の仲間は《同僚》でしかないらしい。今働いている場所は女性が多くて、あんまり仲良くなるといろいろとよくないっていうのもあるので、、、まあ、「友だちです」と女の人を紹介してくれるような甲斐性(?)もない。その代わりわたしにはボーイフレンドがいっぱいいるんだけど、それはどーでもいいみたいだ。

 長い休みに子どもたちがナルボンヌに行ってしまったりすると、JPは、居るのか居ないのか、わかんなくなってしまう。わたしが話しかけなければ、あっちから話しかけて来るということはなく、油断すると一日中物音を立てない。
 むかし軍人だったせいか?目覚ましを掛けなくても、時間が来たらガバっと起き上がる。日曜日などでもいつも仕事に行く時間にガバっと起きて、勝手に朝食をとり、ボボの散歩を済ませ、パン屋に行き、パソコンでメールチェックなどをやっているらしいが、わたしには何も聞こえない。わたしは起こされないので、いつも寝たいだけ寝ている。

 暑い、寒い、かゆい、痛い、腹が減った。。。の類いを、一切言わない。そういうことは言っても仕方がないそうなのである。「暑い」と愚痴って気温が下がるの?って言われたら、何も言えなくなる。
 腹が減らない人なので、メシを作らなくても文句を言わない。わたし自身は腹が減ると機嫌が悪くなり、頭の回転も鈍るので、メシを作れと言われなくても、作ってしまうのだが、JPに「メシを作れ」と言われたことはない。

 結婚したばかりのころは、下着を取り替えたの?だとか、ハンカチ持ったの?だとか、セーター着ないと風邪引くよとか言っていたものだが、いちど「きみは母親じゃないんだから。。。」って言われてから、JPのタンスには触れないようにしている。JPの服のサイズってものを知らない。コットンのシャツにアイロンをかけるのは、わたしよりも上手だ。JPはレシピ通りにぴしっと材料を計って作るので、ケーキなどはよく膨らむ。そのかわり、わたしのように鋭利なインスピレーションは働かないので、勘がモノをいう夕食のおかずなどはてんでだめだ。残り物を出すのが嫌いな人なので、残り物が出たらパニックになる。残り物の詰め合わせでひとつのおかずをテキトーに作るってことは、まあ、できないだろう。

 わたしが何やら機嫌悪い時、いくら鈍感なJPでも、できるだけわたしには近寄らないようにしているのがわかる。「どうしたの?」と言って優しい言葉をかけて来るような勇気はないとみた。その代わり、明らかに自分のせいで機嫌が悪いんだなって感じているらしい時には、チョコレートか花束を買って来て、黙って台所に置いて行く。そういう時に「なんで機嫌が悪いのか、わかってるの?」と訊くと、たいていの場合、返事は「わからない」

 たまに、JPはのれんか、ぬかみそか、壁のような人で、「まさに馬だぜコイツはよー」と思うことがある。ある時友人にそう話したら「のれんだって、黙って吊るしておけばたまには役に立つし」って言ってもらえたので、黙って吊るしておくことにした。ノエミが車よりも馬の方がお得でエコロだって言ってるし。

 そして、たまに、わたしは自分のことを、部屋のすみの植木鉢か、置物かなにかに見られてるんじゃないだろうか?わたしはJPの気を惹かないタダのおばさんで、「うちの子の母」ってだけの存在なんじゃあないだろうか。。。などと思うこともある。こんなに会話がなくっていいのかなって思っていたら、先日は日本から来た《なーさん》が、「でも、お互い心配かけたくないから、ちょっと何かあっても、溜めて、我慢して、どーしようもなくなってからやっと報告するって感じ。だから、いつも妻と話すことは、面白くもない問題ごとか、子どものことばっかりで。そういうもんじゃないの?結婚して10年以上も経てば?」と言われ、なんだか、目から鱗が落ちたような気がした。そうなんですよ、毎日毎日そーそー話すこともないんですよお。特に「暑い、寒い、痛い、かゆい、腹減った」などを言っても仕方ないって思ってるような人なので、お天気の話だとか、愚痴なんかは、夫婦の会話に成り立たんのです。ただ「おいしい」の時には、言わないけどわかる。JPは、おいしい物を食べる時には、普段よりさらに口数が減り、がつがつと一気に食べる。わたしがじーっと見ているのにも気づかずに一気に食べて、お箸を置いてから、見られていることにはっと気づき、《ニッ》と笑う。そういう時にわたしは「おいしいナーうれしいナー」とか言いながら、おいしそうに、時間掛けて食べなさいよっ、と叱るのだが、形容詞が苦手な人だから仕方ない。

 子どもたちのおかげで、食卓ではよく言葉遊びをする。学校の話題も出る。食堂でなに食べたかなどなどを話す。いつも食卓ではラジオか音楽を掛けているので、そこで生まれる単語について話す。子どもたちのつまらないギャグに、簡単に笑い声を上げることのできないJPには、食事の後に、ゾエが「ギリギリ」をする。ギリギリというのは「コチョコチョ」のこと。簡単なギリギリでは笑わないJPなので、わたしとノエミとゾエは時間とタイミングをずらし、隠れたり、いきなり暗がりから飛び出したりなどして、フェイント・ギリギリをやる。
 「つんまらないおとーさん」に、オンナどもはけっこう苦労している。

 「じきに、娘たちにお父さんは臭い、お父さんは汚い、お父さんはうっとうしいと、相手にされなくなる運命なんだから、今のうちに子どもたちとじゃれ合っていた方がいいよ」とよくJPには言っているのだが、どうもJPの育った家庭環境を振り返ると、お父さんが子どもにすり寄るのは、大変な努力と勇気とやる気と、プライドを捨てるというようなことが必要らしい。わたしはたまにJPのお父さんを見て、お父さんとしてのJPに絶望したくなることがないでもないが、「でも、母親の質が違うじゃあないの」と自分に言い聞かせている。

 この頃とっても仲良くしている女友達のダンナさんが、まことにのれんのような人だ。そして、彼女はいつも「わたしはじぶんが部屋のすみの植木鉢のように思えるし、わたしは彼にとって「子どもの母親」でしかないようだ」と言っていたので、「なんだ同じじゃん」と言って励ましあってきた。のに、その彼女が今週ついに家を出た。大変だ。
 「どこも同じだよ、うちだってそうだよ」と女友達連中に言われているそうだが、彼女にはもうひとつ理由がある。

 「みのりのJPも、壁みたいな人で、気の利いた優しいセリフは言えない人かもしれないけど、、、でも、ほら、みのりが長く家を空けた時でも、JPはなにもかもやってくれたでしょう?うちはだめなのよ。」

 そうなのだ。わたしは冷凍食品も買わなかったし、お惣菜の造り置きもしなかった。冷蔵庫に入っているものを一通り見せ、入っているもので、ピザ、キッシュ、スープ、ステーキ、パスタ、などなどが作れるよと提案した。パスタをゆでる時にいっしょにニンジンとかほうれん草を茹でたら、栄養も偏らなくて済むよと教えた。JPは台所のどこに何が入っているかを把握しているが、探しそうなものは目立つところに置いた。だから、子どもたちは餓えずに三食きちんと食べていた。洗い物は溜めずに洗い、台所は毎晩きれいに整理されていて、まるでダニエル家に新しい主婦が入ったかのようだった。子どもたちのシーツとパジャマは取り替えられ、洗濯物はこまめに洗われ、アイロンがかけられ、片付けられていた。玄関にあるのは埃だけで、靴や鞄はちゃんとしまわれていた。翌日の準備は夜のうちに終わっており、子どもたちの髪の毛も爪も清潔だった。夜はちゃんと読み聞かせをやって、母親がいるときよりも早い時間に、ぴしっと寝て、ぴしっと起きていた。「お母さんいない方がよくいうことを聞く」そうなので、わたしはいない方がいいのかもしれない。
 外に出て働いていいよって言う時には、それなりに協力してもらえる。

 と、いうわけで、のれんはのれんなりに、役立っていることや、人んちの旦那より、はるかにできるヤツだということがわかった。あとはギリギリでたまに笑わせて、わたくしめの巧みな話術で会話を引き出し、たまにわざと機嫌悪いふりをしてチョコレートと花束を貢がせ、あと10年ぐらいは辛抱してみようかと思っている。JPの方が辛抱強くなきゃダメだろう。「痛い」とか言えない人なので、バタンと倒れる前にドーにかしてあげられたらいいけど。。。(じつは、いきなり予告なしで倒れたことアリ。具合悪い時ぐらい頼って欲しいよなあ〜)

2008/01/23

yumekoさんに会えました。感謝します

 yumekoさんのご主人ジルさんのお父さんが、急逝した。でも、yumekoさんご夫婦はニューカレドニアっていう遠い所に住んでいるので、お葬式のためにささっと帰って来るのはとっても難しいことだった。yumekoさんたちはご主人の分のチケット代をどうにか工面して、ご主人はお葬式に間に合いそうだった。
 yumekoさんは「わたしの分まではお金ないから帰れない。ヌメアで静かにジルの帰りを待っているわ」と言っていた。そして、わたしたちはいっしょに『ジルさんがあっという間に元気になりました。感謝します』というおまじないを唱えた。これは、わたしとyumekoさんのこの頃の流行になっているおまじないで、願い事を『元気になりますように』の希望の形で言わずに、『元気になりました』と完了の形で言うというもの。

 先日、日本の母と電話で話していたら、孫2人の入学試験が合格するように、父の仏壇の前で「愛ちゃんと紫野ちゃんが合格できました。ありがとうございます」と『過去形』で願い事を唱えていた。「そうしたら本当に合格しちゃったよ」というので、なんだ、うちのお母さんは変なヤツだなあ〜と思っていたら、おまじないが大好きでいろんなおまじないを知っている友人《か》が、そのやり方はとっても正しいと教えてくれた。《ありがとうのお水》について教えてくれた友人だ。それでyumekoさんとわたしは、この《願い事は過去形、完了形》を実践しているのだ。

 yumekoさんが、「家で静かに待ってる」と書いたメールの終わりに「チケット買ってもあまるぐらいのお金が入りました。感謝します」と付け足しで書いていた。わたしは「ふふふ、yumekoさんったら。。。」と笑ってその部分を見ていたのだが、その数時間後に「みのりさん、大変なことになった」という折り返しメールが来た。
 「チケット買ってもあまるぐらいのお金は入らなかったけど、あのね、タダのチケットもらったの。だから、わたしもフランスに行けるの!」びっくり仰天。

 それから数日後。。。yumekoさんとジルさんは、パリでのお葬式を終えて、トゥールーズの大学に行っている子どもたちと合流するために、南フランスに降りて来ることになった。トゥールーズから1時間半ぐらいも掛かる我が家まで、脚を運んでくれると言う。
 この前yumekoさんが我が家に来てくれた時には、トゥールーズから電車で来てくれた。今回はジルさんの運転する車だったので、道順を説明してはあったものの、わたしの説明が悪かったらしく、我が家に来るまでずいぶん複雑な道のりを辿って来たらしい。

 yumekoさんたちを招待していたこの水曜日の朝は、レンタカーにガソリンを入れ、アルビのレンタカー屋さんに行き、そこに置いてあった自分の車にもガソリンを入れ、冷蔵庫が空っぽだったので買い物をし、yumekoさんを喜ばそうと思って、おいしいワインを買うためにワイン専門の店に走った。
 yumekoさんたちがまだ到着していなかったのでホッとしたものの、買ったものをまだ買い物かごから出す前にyumekoさんから電話が掛かり、道に迷ってしまったとのこと。ニンジンの皮を剥きながら、携帯で道順を教え、さらに混乱させ、道路に出たり、地図を引っ張り出したりしてる間に時間が過ぎた。テーブルクロスも出せなかった。いちおうご飯だけは炊いた。鶏肉が柔らかく煮え切る時間がなかった。エビを入れるのを忘れてしまった。デザートを作る暇がなく、隣のパン屋さんで買ったケーキなんぞ出してしまった。ワインはものすっごくまずかった。ハア〜〜、せっかくの再会だったのに。。。yumekoさんとは積もる話もあったはずなのに、胸が詰まって黙りこくってしまった。ジルさんには「ご愁傷さま」とかそういう類いの、気の利いた言葉さえ掛けてあげられなかった。14年ぶりぐらいの再会だったのに。

 アルビ観光にご招待しようと思っていたのに、yumekoさんたちは午後の早い時間にトゥールーズに帰らなければならず、カーモーを5分で一周して、そのあとキャップデクベートに連れて行って、炭坑の穴や、そこで使われていたトラックなどを見せた。ニューカレドニアにはニッケルを掘るための巨大トラックがあるので、そんなに珍しくなかったと思う。

 ジルさんに子どもたちを紹介できて、本当に嬉しかった。ノエミがジルさんのためのガイドを務め、ゾエは一人で自転車に乗るのを自慢していた。一人で自転車に乗れるようになったのはこの日が2回目だった。とってもよいお天気だった。

2008/01/22

ミーさんのチョコレート工房

 《きーさん》がパリとトゥールーズを通過して、アルビという人口4万9千人の地方都市に、うわさのチョコレートを求めてやってくる。チョコレート屋さんで試食して、「こんなおいしいチョコレートを作っているのは誰だろう?」と言っているところへ、にこやかな《ミーさん》が現れ、感じのいいおじさんである《ミーさん》は、「わたしのアトリエで、チョコレート作りをご覧になりませんか?」と誘うのである。

 と、いうような設定らしい。しかし、火曜日の朝はまずチョコレート工房からスタートした。
ガナッシュやプラリネを手作りする作業を映像に撮り、《ミーさん》がフォークのようなものでチョコレートに飾りをつける。待ち時間などもあるので、すでに2日前に作っておいたガナッシュを、今できたばかりの様に見せかけるシーンもあって、料理番組のようだ。

 《ミーさん》は、テレビ撮影には慣れたもので、どの辺をカットするだろうというような予想を立てて準備をしていた。チョコレートがくっついてしまった白衣の、右のポケットがカメラに映らないように、身体の角度を調整するというような、俳優のような心遣いまである。ライトの位置を気に掛ける。トレーを持って次の部屋に入るシーンを後ろから撮ったあとは、カメラが移動して、トレーを持ってミーさんが前の部屋を出て来るシーンを撮りなおす。
ほお、こういう風にやっていたのかあ〜。

 インタヴューの時には、わたしは《きーさん》の横後ろに居なければならない。《ミーさん》はわたしに向かって話してはいけない。なかなかに気を遣う作業だった。通訳のタイミングや、インタヴューの仕方がわからず申し訳なかった。ただ、《ミーさん》に「こんな風なこと言って」と頼むと、勝手に演じてくれるので助かった。このお方はま〜よくしゃべるんですわ。

 撮影は午前9時から午後3時まで、休みなしで行われたが、あっという間だった。とても良い仕上がりになったのではないだろうか。

 午後3時から5時頃までは、町の映像を撮ったり、街頭インタヴューをしなければならない。カメラマンはパリから来た人でフランス語を話せるので、インタヴューの通訳を代わりにやってくれることになり、わたしはプロデューサーの《エンさん》と、お会計をすることになった。
 レンタカー費用、ガソリン代、4日間のわたしの報酬と、ダヴィッドさんへの報酬について。ユーロの現金が足りなかったので、銀行に行ってお金を替えなければならなかった。文具店に行って領収書の紙を買った。何も問題なくすべてを現金でいただいたので、わたしはこれを自分の翻訳会社の口座に入金し、ダヴィッドさんの分は今日中に渡す。明日、レンタカーを返しに行く前にガソリンを入れ、レンタカー屋さんにミニバスを持って行く。この4日に立て替えたお金は、細かく要求しなかった。ガソリンも、おそらく60ユーロぐらいにはなると思ったが、40ユーロぐらいにして、全体がきりのいい金額になるように調整した。レストランにも連れて行ってもらったし、そんなに大変な額じゃない。こんなことを言うとまたミーさんに叱られそうだが、お金のことで細かくいうのには、とっても勇気がいるのだ。わたしが予約したホテルは、パリでみんなが泊まったホテルよりもずっと条件が悪く、部屋は小さかったし、土曜日と日曜日にはあんなに連れ回したのに、結局はアルビ市内だけの映像で終わってしまった。わたしが案内したすべての場所が具合よくは使えなかったということだ。不慣れとはいえ、いろいろと申し訳ないこともあった。

 朝《なーさん》がまだ具合悪いというので、《ミーさん》の店まで往診してもらう手配をした。具合が良くなるかどうか不安な人を、このままトゥールーズのホテルに置き去りにするのには抵抗があったのだが、医者に診てもらって薬を換えたら急に良くなったと、あとで《なーさん》が電話で知らせてくれたので、本当に安心した。

 パリのカメラマンたちは、夜の便でパリに戻らなければならないので、みんなでトゥールーズの空港に送った。翌日は、フランス語がわからない3人の日本人が、自分たちだけでホテルを出て、朝7時ごろには空港からパリに向かうので、本人たち以上にわたしが不安だった。ホテルは繁華街にとったので、レストランには困らなかったのではないだろうか。
 夜の食事をいっしょにしませんかと誘っていただいたが、ダヴィッドさんが翌日は6時からの出勤で、今週からバレンタインのチョコレート作りが始まるので、普段よりも忙しくなるとのこと。わたしも子どもたちが待っているので、最後の晩のお食事は遠慮させていただいた。

 JPだけが待っていた。今朝予定よりも早い集合になってしまったので、ゾエはゆうべのうちにモーガンに引き取ってもらい、ゾエはアントワヌといっしょに寝て、朝はモーガンが幼稚園に連れて行ってくれていた。JPは、仕事が終わったあとゾエを幼稚園に迎えに行き、ノエミは一人でカギを開けたりしめたり、勝手に出入りしていた。火曜日の夕飯はオムレツかなにかで、わたしは特に用意していなかったので、JPが作って食べさせてくれていた。帰宅するとJPは、洗濯物にアイロンを掛けていた。
 わたしが《ミーさん》のアトリエでもらった《ご褒美》のチョコレート合計5キロをJPに見せると、彼は《ニッ》と笑った。「いくらなんでも、そんなにたくさん、どうするの?」と、いちおう言っているが、もちろんわたしが食べるのは知っている。これっくらい平気だ。でも、明日はニューカレドニアから友だちも来るし、モーガンにもお礼をしなければならないので、それぞれ500gずつのお裾分けは当然考えている。

 
 明日からは《なーさん》が持って来てくれた一保堂のお茶を飲みながら、チョコレートを食べて優雅にくつろぐ主婦に戻る。
もらったお金は、自分でやってる翻訳の会社の保険年会費の支払いと、音楽学校の学費のために、あさってまでにはすっかり消えてしまう。
ああ、もっと働かねば〜〜。
でも、働くオンナは4日で充分だなあ〜と思った。

2008/01/21

テレビ取材班到着



 2日間乗っていた小さな車をレンタカー屋さんに戻して、これからの2日間はメルセデス・ベンツ車のヴィトという、ミニ・バスを借りることになっていた。9人乗りのミニバスを運転する不安があると言ったら、運転手を雇ってもいいと言われ、普段からトラックの運転に慣れている、チョコレート屋さんのダヴィッドさんに助っ人を頼むことになった。
 レンタカー屋さんで合流して、そこからトゥールーズに向かった。深い霧と渋滞のため、空港に到着するのが少々遅れてしまった。

 ダヴィッドさんと話し合って、トゥールーズ市内で連れて行けるところをリストアップしてあったのだが、パリから来たカメラマンの一人が、トゥールーズのよい場所を知っていて、そこに連れて行ってくれと言われた。ダヴィッドさんはカーナビを用意していたのだが、最初の設定に手間取っている間に、わたしが《きーさん》に借りた紙の地図で、行きたい場所にたどり着いてしまった。
 トゥールーズのキャピトル周辺の商店街は、予想通り、月曜日の朝ということもあって、閉まっているところが多かったにもかかわらず、さすがは学生の町。若い人がいっぱい歩いていた。ただし、《ミーさん》のチョコレートについてインタヴューしようとしても、学生のような若い人たちが、簡単に買えるような値段のチョコレートではないので「そんなチョコレートは知らない」とか「知ってるけど買ったことがない」とか言われて、インタヴューはうまくいかなかった。
 ミニバスの高さが1メートル80センチを超えていたので、キャピトルの地下駐車場に入らず、駐車違反を承知で路上に停め、ダヴィッドさんが車の中で待機していた。

 お昼を過ぎて、みんなが食事している間、ダヴィッドさんはなんとか車を駐車できる所を見つけた。キャピトルからけっこう離れたところに車を持って行き、戻って来てから、ダヴィッドさんとわたしは、冷たくなってゴムのように硬いピザを食べた。駐車料金はダヴィッドさんが立て替えてくれた。

 午後は予定していた場所にはもう寄らず、まっすぐアルビに戻って来た。太陽が傾きはじめたので、急いでアルビに戻って、アルビの映像をできるだけたくさん、そしてきれいに撮影しなければならない。ダヴィッドさんが居てくれたおかげで、次から次に出る要望に応えられた。地図にも乗ってないところを走り、柵を乗り越えて映像を撮った。一方通行で、もう一体どこをどう走っているのか、わたしにはよくわからなくなるぐらい、走り回った。住んでいると歩いたことがないような場所にも行ったし、思っても居なかった角度から、アルビの町の姿を撮ることができた。

 夜は、ダヴィッドさんに頼んで、レストランを探してもらった。月曜日の夜に、開いているレストランを見つけるのは非常に難しく、ホテルの人にもアドバイスを頼んで、サント・セシル大聖堂のま裏の、石造りのレストランに、席を取ることができた。

 夕方ちょっと行われた会議で、若いディレクターの《きーさん》が、わたしよりは若いけど《きーさん》よりは経験のあるプロデューサーの《エンさん》にこっぴどく叱られ、それをどうカバーしてあげられるものかと頭を働かせてはみたものの、かばおうと思ってわたしが口を出せば、ますます《きーさん》が叱られた。お気の毒だった。《きーさん》はずいぶんへこんでいたので、無理やり彼をわたしの隣に座らせ、《エンさん》には遠くに座っていただいた。《きーさん》にはダヴィッドさんとたくさん話をさせようと思った。
 ダヴィッドさんは《ミーさん》の右腕チョコレートシェフで、この人が居なければ《ミーさん》のチョコレート屋さんは成り立たない。《ミーさん》のチョコレートを誰よりも理解していて、《ミーさん》のことを尊敬している。《きーさん》は作り方のこと、ほかとの違いのことなどを、聞き出すのに熱心になっていた。その様子に、明日の撮影本番への実感が湧いて来た。プロデューサーの《エンさん》も、もう何も言わなかった。《エンさん》はカメラマンの人が遠慮なく注文しまくるガヤックのワインを、うれしそうに飲んでいた。

 パリから合流したカメラマン2名、テレビ局のディレクターと、プロヂューサー、百貨店広報課の《なーさん》と、チョコレート職人のダヴィッドさんとわたし。みんなで記念写真を撮った。きれいな月が出ていて、気温は2度ぐらいだった。

 さあ、明日は本番。《ミーさん》のすご技を見ることができる。すみちゃんもアトリエで仕事をすることになっているので、すみちゃんの仕事ぶりも撮影してもらえたらいいなあ、と思う。
「でも、ピースしたらカットしますよ」と、《きーさん》に言われていたすみちゃんなのであった。


 上司に叱られなければ、働くオンナも悪くないなあ〜と思うのであった。
 

2008/01/20

働くオンナ


 
 日曜日は、《ミーさん》のチョコレートのアトリエはお休みの予定なので、当初の予定では10時集合となっていた。
けれども、ゆうべすみちゃんから仕入れた情報によると、《ミーさん》はパン屋さんの裏にあるケーキ・ラボに出て来るとのこと。日曜日の朝だったら、ケーキとパンは作られているのだ。それで、わたしたちは早朝7時頃にはケーキ作りを見学に行くことにした。
 7時に《ミーさん》の携帯に電話するが運転中とのこと、お店に到着してしまってから、いきなりの予定変更の報告となった。《ミーさん》はケーキ屋には居らず、日曜休業のチョコレート屋さんにある事務所で、書類整理をしていると言う。電話してもらうと、「きみたち日本人は一体こんな時間に何をやってるんだ?日曜日は仕事するんじゃないよっ」と怒鳴られてしまった。
「マダム・エンドー。家庭はどうしたんだね?」
「ミーさんだって、日曜日の朝に仕事してるじゃないですか?ちょっとパン屋さんとケーキ屋さんも見学したくなっちゃったんですよ」

 でも、実際にはパン屋さんとケ−キ屋さんは3時、4時には仕事が始まっており、8時には仕上げて、各販売所に運ばれる時間になってしまっていたのだ。
「ケーキを作るのが見たければ、4時に来れば良かったのだ。」
と言われてしまったけれども、2時に寝て4時には見学開始というのは、いくらわたしでもきついのだあ。

 本日はワイン農家と中世の古城と、コルドの丘を見学する予定だったのだが、ワイン農家との約束まで時間があるので、アルビ市内を散策することにした。《なーさん》は具合が悪くて昨日ずっと寝ていたので、まだアルビを見ていない。
 市場の地下に車を停めて、朝市に出掛けた。人通りはまだなく、しんとした朝市でパンを買って立ち食いした。ひとっこ一人いないサント・セシル大聖堂をひと周りし、霧が掛かって上まで見えない大聖堂の鐘つき堂を、下から見上げて写真を撮った。
 《なーさん》はまだ具合悪そう。医者を呼んであげた方がいいと思うのだが、本人かなり遠慮しているのだと思う。「良くなりました」とか言っているが、ズボンがゆるゆるになっているらしいし、大丈夫なんだろうか?美食の国に来て、痩せやつれて帰る日本人は、《なーさん》ぐらいだろう。

 カユザック=シュル=ヴェールのワイン農家に出掛けた。
ここのプラジョルさんは一家5代で72ヘクタールのぶどう畑を持つ、ワイン農家だ。《ミーさん》のお友だちで、曾おじいさんは、ジスカール・デスタン大統領の時に、おじいさんはミッテラン大統領の時に、ベアーナーさんはシラク大統領の時に、エリゼ宮にワインを卸していた。数年前に美智子皇后がヨーロッパ旅行された際、大好きなトゥールーズ・ロートレックの美術館があるアルビを訪れ、招待された場所で飲まれたプラジョルさんちの《ムスカデル》という白ワインをたいそう気に入り、それからはヨーロッパ各地にいらっしゃるたびに、電話を掛けてお取り寄せになるそうだ。数年前にも、領事館を通じてお電話があり「今、スイスに来て居るから、《ムスカデル》を6本、スイスの大使館に送ってください」と連絡があったそうだ。
 その《ムスカデル》という白ワインを、《きーさん》と病み上がりの《なーさん》とわたしはその場でいただいた。ほんのり優しい味わいで、普段飲めないわたしでも、すんなり飲むことができた。車の運転があるので残してしまったが、《きーさん》がわたしのグラスを残さず飲んでくれた。ゆうべ、ひとつ星のレストランでは、ワインが52ユーロだったが、その《ムスカデル》は1本9.20ユーロだった。《なーさん》と《きーさん》は自分の分を買っていた。わたしも買いたかったのだが、おとといからずっと高速代やら駐車場代、ガソリン代などの小銭を出していたので、日曜日の本日はお財布の中に数ユーロしか入っていなかった。またJPといっしょにプラジョルさんの農家までワインを買いに来ればいいことなので。。。。出直すとしよう。

 夜までアルビ周辺の観光をし、アルビの俯瞰ができる丘を見つけ、火曜日にカメラマンが来た時に連れて行ける場所を探し、一日中歩き回った。夜は自分たちで勝手にすると言われたので、わたしは夜早い時間に解放されることになったのだが、日曜日の夜に開いているレストランを見つけるのはきっと大変だろうなあ。。。と思って、とても心配だった。それに一日中いっしょに過ごして、夕食の時間に「自分たちのことは自分たちでやるので帰ってください」と言われると、なんだか邪魔にされたようで、少し寂しかった。ただ、《なーさん》などは小さな子どものお父さんなので、「お母さんが居ない家庭」のことを心配してくださっているのがよくわかった。「早く帰ってあげてください」との心遣いが、じつはとっても嬉しかった。

 そろそろ帰ろうかという時に、すみちゃんから電話があり、すみちゃんは今にも泣きだしそうな声で「ショックなことがあったので、今晩みのりさんとお話がしたい。仕事が終わったあと、どんなに遅くでもいいので連絡してください」とのこと。《きーさん》がすみちゃんの携帯パソコンを借りたいと言っていることだし、すみちゃんと合流することにした。

 わたしはすみちゃんを車に乗せ、カーモーに向かった。車の中ですみちゃんといっぱい話した。
   大変なことがおこった!!

 子どもたちはテーブルについていて、JPは、スープを用意しているところだった。前触れもなく母親が帰り、おまけに大好きなすみちゃんも来たとあっては、子どもたちは興奮せずにはいられない。ノエミが作ったキッシュをいただくことになった。
落ち込んでいたすみちゃんもわたしも、元気になった。
 この2日間、ぐずりっぱなしだったらしきゾエを自分のベッドに入れ、すみちゃんはゾエのベッドに寝てもらった。3時から働いているすみちゃんも、夜更かし続きのわたしもグロッキー状態。明日の朝また車の中でじっくり話すことにして、早めに床に入った。

2日目も無事終了。「働くオンナは大変だなあ〜」と思い始める。

2008/01/19

霧が生まれた

 JPがごそごそやっているので、目が覚めた。
「何時?」と訊くと、「7時半だよ」って。。。そんな。。。アンタ。。普通に「7時半だよ」だなんて言うもんじゃあありませんよっ。わたしは今日は6時に起きる予定だったのにい〜〜。
6時に起きて、ちゃんと朝ご飯を食べて、7時半にはとっくに家を出ておかねば、トゥールーズの空港に8時40分に着くことなんて無理なのだあ。レンタカーをゆうべのうちに借りておいてよかった〜〜。
 化粧もせずに、頭はぼさぼさ。「空港でお待ちしております」と言ったのに。なんてこったい。

 JPがマイペースでコーヒーをいれてくれている間に、いちおう着替える。靴下を用意してなかったよお〜〜ん。ええ〜〜ん。

こんなに口に出して「どうしよう」を連発したのは、数年ぶりだ。
レンタカーに飛び乗って、空港へ。
しかし、なんとしたことか、カーモーからトゥールーズまで、ずっと切れ間なくものすごい霧だった。
深い霧の中を時速150キロでぶっ飛ばした。
「こんな霧だったら、どうせ飛行機の到着は遅れてるにきまってるさ」
などとつぶやきつつ、トラックの列を追い越しながら、「わたしは今日死ぬかもしれない」と思った。
手に汗握って、心臓は爆発寸前。

 10分遅れで空港に到着すると、飛行機もほんのちょっと遅れていた。
出口で待っていたのに、いくら待っても日本人らしき二人が出て来ない。
そこにいた人に訊いたら、やっぱり「パリからですよ」と言っているし、これのはずなんだけど、どうしちゃったんだろう??
出て来るグループが、「ドイツから」に変わったので、パリからの乗客を諦めて、空港内をさまよった。
 
 何やら怪しげな日本人が、玄関近くのベンチにうずくまっている。
一人はビジネスマン風で、予想通りの日本人スタイルながらも、インドネシア人のように顔が真っ黒。
一人は、予想をはるかに超えた若者。その辺のゲームセンターから出て来た風な軽い足元に、ボアのついたジャンパーを着ている。
真っ黒に焼けているのは、波乗りが得意な《なーさん》で、もう一人のジャンパー青年はとし若き有能ディレクターの《きーさん》であった。わたしの方は「背が低くて丸っこい40のおばさんです」と言ってあったので、すぐにわかったようだった。

 「お待たせして申しわけありません。あっちでずっと待っていたんです」(「ずっと」の辺りがウソっぽい。)
「外国人だからこっちから出て来たんですよ」「トイレ行ったりしてたから。。。あまり待ちませんでした」

 そういえば《きーさん》は「霧」のつく名前だ。そうか、この人が霧を運んで来たんだな。。。。
トゥールーズからアルビへの田舎の風景をあちこち堪能していただこうと思ったのに、霧が深くて本当に残念だった。

《ミーさん》のチョコレート屋さんに一番近い駐車場に到着。今回は、普段自分で運転している自家用車よりも小さい車だったので、地下駐車場もすんなり。昨日わわざわざ予行演習した甲斐があったというもの。念のため駐車場からチョコレート屋さんの《ミーさん》に電話してみる。
 「日本からのお客様ご到着しました。今からお店に伺います。」
 「ええ?今日だったの?今から来るの?ええ〜〜!?」
《ミーさん》が焦ってる。わたしは絶句してる。
「今どこにいるんですか?」
「う。。。まあ、お店に行っといてください。走ってそっちに向かうから」

 わたしは、心の中で《ミーさん》をなじりながら、できるだけゆっくり地下パーキングを突っ切り、広場を突っ切り、できるだけゆっくりお店の扉を開け、できるだけのんびり奥さまと視線を交わし、「どうぞ、お店を一周してください」とお客様に頼んでる隙に、奥さまと二人で「ミーさんはどこに?」の電話を掛けまくった。チョコレート屋さんは40平方メートルしかないので、一周するまでもなく、玄関に立っているだけで、すべてを見ることができる。ご主人がいらっしゃるまで、ちょっとチョコレートの試食をしていただきましょうということになり、わたしたちはまたチョコレートの試食に励んだ。

 何ごともなかったかのように《ミーさん》が現れ、わたしは「大変お忙しい方なので。。。」とかなんとか誤摩化し、隙を見て奥さまが奥の部屋で《ミーさん》を叱りつけ、《ミーさん》はわたしにウインクさえすりゃあ、どーにでもなると思っているようだった。
このオトシマエはつけてもらいますぜ。カメラマンは火曜日に来るので、その前にちょっとチョコレートのアトリエを見学していただくことになった。そして、12時半まで《ミーさん》と奥さまは丁寧に応対してくださって、お昼にお別れした。
 別れる時に、《ミーさん》自ら「オトシマエ」のチョコレートをいただいた。

 《なーさん》と《きーさん》はわたしにも日本からのお土産をくださった。《なーさん》は飛行機の中で食べた鶏肉かエビにあたったらしく、お腹をこわしていて具合が悪そう。薬局で下痢止めの薬などを買って、ずっとホテルで休んでいただいた。わたしと《キーさん》はいっしょにお昼を食べ、午後はアルビ市内観光をした。
 夜は、《ミーさん》の共同経営しているひとつ星のレストランに三人で予約してあるので、《きーさん》にお願いして、病気の《なーさん》の代わりにすみちゃんを招待してもらうことにした。《ミーさん》のケーキ屋さんで修行中の、すみちゃんだから、チョコレートのことや《ミーさん》の天才ぶりについて、すみちゃんから面白い話が聴けると思ったのだ。すみちゃんは、レストランに行く前に、ホテルで寝ている《なーさん》のために、うどんを作ってくれた。《きーさん》とすみちゃんは歳も同じぐらいだから、意気投合して、3人でとても楽しい土曜日の夜を過ごせた。《なーさん》が《ミーさん》のレストランに行けないのは、本当に残念だった。

 《きーさん》はとっても小食で、そのうえ、日本出発前に忙しくて3日ぐらい寝てないらしく、レストランでもほとんど食べずに、食事時もお皿に鼻を突っ込まんばかりにうとうとしている。すみちゃんは、平気でチーズもデザートも食べた。さすがだ。すみちゃんのマイペースは、《ミーさん》からの直伝なのだろう。

 二人をホテルとアパートに送って、家に帰り着いたのは夜中の12時近くだった。JPは本を読みながら待っていてくれたが、子どもたちはもちろん寝ていた。ゾエが機嫌が悪いというので、《ミーさん》からもらった「オトシマエ」のチョコレートの箱に、「子どもたちへ。ミーさんからプレゼントだよ」「優しい日本のおじちゃんたちも、日本からプレゼント持って来てくれたよ」とメッセージをつけて、JPが用意した朝食のテーブルに置いた。

 台所はきれいに片付けられ、洗濯物は取り込まれていた。廊下には子どもたちが明日着る服がきちんと並べて置かれ、夜も9時ぴったりにはベッドに入ったらしい。夕食のピザはゾエとJPが作り、ノエミはちゃんとヴァイオリンの練習をしたそうだ。
 「ママが居ないと、子どもたちはよく言うことを聞くんだよ」
と、パパが言っている。JPは主夫になる気はないんだろうか?
 わたしは一歩外に出ると、家のことはすっかり忘れている。それにこの頃は携帯電話ってものがあるから便利。けれども、仕事中に家から電話が掛かって来ることはまずない。仕事1日目はいつも「働くオンナも悪くない」と思う。

1日目、無事終了。

 

2008/01/18

さあ、来るゾオ〜

 テレビの取材班がやって来るっ!
夏に日本に帰るきっかけとなった、アルビのチョコレート屋さんが、バレンタインに日本でチョコレートを売ることになったのだ。
雑誌の取材はすでに来た。
日本で配られるその雑誌は、もうできた。
インターネットでも名前と写真が見れる。
2月にまた日本に行くことになった。
そして、明日から4日間、テレビの取材班が来るのだああ〜〜。

チョコレート屋さんでの映像は、チョコレート屋さんのスタッフに任せるしかない。
「ミーさん、何か派手なデモンストレーションをお願いしますよ」
と電話したら、
「ふむ。水着で出演するか。超ミニのビキニはどうだろう?」
ミーさん、なかなか、やる。
わたし、なかなか、楽しみだ。。。。ミーさんの水着姿。

 わたしは、取材班の運転手と世話役と、通訳をすることになった。大きな車を借りる最後の2日間は、この前パリから来た駐在員のアドバイスのためか、「プロの運転手をお願いします」と言われてしまった。それで、ミーさんの右腕であるダビッドさんが運転手をやってくれるので安心だ。メルセデスのワゴン車で、7人も乗れるほとんどバスというような車なので、ブレーキに脚が届くのかちょっと不安だったのだ〜。
 
 「で?トゥールーズのどこに連れて行きたいの?」
とダビッドさんがすっかりその気で電話して来た。
「え?どこって言われても。。。トゥールーズみたいな大都会のことは、わたしはわからないから。。。」
「え?ぼくも。でも、ぼくにはGPSという強い味方がある。」
カーナビってヤツね。
 ミーさんが、「あれさえあれば誰でもタクシー運転手になれる」と言っていたヤツだ。ダビッドさんったら、アルビでは利用価値がないカーナビを、流行に釣られて買ってしまったんだろう。それで、このたびトゥールーズでカーナビを使えるからうれしいらしい。
 本日、2人で会議をする。チョコレート屋さんの映像のほかに、この辺の田舎のきれいな風景や、建物の映像を撮りたいということなので、いろいろ迷っている。とりあえずワイン農家と中世の古城にご案内しようと思っていたので、昨日は、近辺の距離を測ったり、道を確認するために、一人で3時間もドライブしてしまった。
 いやあ〜アルビ周辺は、ほんっとーに、田舎だなあ。。。きれいな風景だらけ。古い建物だらけ。

さて、この番組は。。。
2月1日金曜日、14時から16時まで放映される、「2時っチャオ」という番組の、約数分間のコーナーで報道される予定だ。
ミーさんのすご技と、アルビ周辺の田舎風景を、ご覧いただきたいと思う。
と、公表してしまったところで、ミーさんの正体もバレバレになるなあ。。。もう変なこと、書けないなあ。。。。
ミーさんの素敵な写真が公開されている、デパートのホームページも、そのうち紹介するとしよう。

 明日から4日間の報告をお楽しみに!

2008/01/14

春が走る

 フランスでは雪崩注意報も出た週末だった。でも、カーモーはそんなに寒くない。
1月9日から冬の大バーゲンが始まっていて、ノエミとわたしはコートを買おうねって言っているのだが、ろくなものが見つからない。こんなに温かかったら、新しいコートなんか買うのやめようかな?と思ってしまうほどだ。
 「暑いのは困る」と言っていた友だち。
マラソンで完走できたかな〜と気になった日曜日。

指宿の菜の花マラソン。写真集がインターネットで見れるそうですのでご紹介。
写真が多すぎて、目指す友人たちや従姉妹たちを探すのは至難の業だ。。。どのページも黄色い菜の花がまぶしいっ!

http://www13.ocn.ne.jp/~ibu-nano/phototop.html

40歳になった同級生たちが、元気に走っている様子を想像して、励まされる気持ちだ。


 すみちゃんが来たので、フォマージュ・フォンデュを食べた。
ゾエが補助輪なしですいすい自転車に乗るのを見た。

とってもよい日曜日だった。

2008/01/11

イギリスのTakakoさんを求めて。

 これはイギリスにお住まいのTakakoさんへのメッセージです。

 11月26日に書き込みをしてくださっていました。
わたしの日記なんぞは、友人知人と親戚ぐらいしか見ていないと思っていたし、これまで書き込みは非常に少なかったので、チェックを怠っていて、26日のあなた様の書き込みに、本日(1月11日)に気づきました。
  ベジエのアパルトマンには、クリスマスとお正月にも来ていらっしゃったのでしょうか?
ウヴェヤンの家にはもう行くことはないと思いますが、JPの両親はSalle d'Audeに住んでいるので、そちらにはしょっちゅう行っています。よろしかったらまたご連絡ください。
 今年も読んでくださってるかなあ〜〜?

   

けっこう悩んでます。

 マスリ先生から電話があった。
マスリ先生というのは、我が家のかかりつけ《ジェネラリスト》だ。
日本では《お腹が痛いなあ》とか《耳が痛いなあ》とか思ったら、《胃腸科》やら《耳鼻科》を勝手に選んで行くけれども、フランスはたいていの場合はまず《ジェネラリスト》に相談に行く。基本料金は22ユーロで保険で全額戻って来る。
 《ジェネラリスト》が内診、問診をして、「レントゲン技師に会いに行ってください」「血液検査をしてください」と指示するので、レントゲン専門の病院と、検査専門のラボに出掛けて行き、検査結果が出たら(その日のうちに出るとは限らない)またジェネラリストのところに戻る。そうして「これは胃腸科じゃなくて、泌尿器科です」とか、「耳鼻科じゃなくて、脳みそのスキャナーを取り直しなさい」とか、ちゃんと指示してもらった上に、紹介状も書いてもらえる。

 クリスマスの前にノエミが「腰が痛い」と言った。
 中学の新入生は「みんな腰が痛いって言ってる」といううわさだ。何しろカバンの重さが10キロを超えてるんだから、腰はギシギシ言っているのだ。
 もしかしたら生理が近づいてるのかもしれないし(いちおうまだ)、引っ越してからずっと寝かせている折りたたみベッドのせいかもしれないし、ただ「腰がいたいと言ってみただけ」の可能性もあるし。。。母はいろいろ悩むのだ。(医者に行った翌日には腰がいたいと言わなくなった。病は気から?医者の顔見てすっかり安心?)

 数年前に骨盤と膝が曲がっているせいで、矯正の器具をつけさせられた。腰にベルトがついていて、太もも、膝、ふくらはぎと足首がベルトで固定されたバネ入りの金具で、その金具は革靴に接着されている。『巨人の星』の《星飛雄馬》の腕が連想されるような代物で、まったく美しくないし、邪魔だし、心地悪いし、しかも軽いバネ入り金具なので、全然「固定されてる」って気がせず、娘を泣かせてまで矯正器具をはめてやりながらも、じつはわたし自身「効き目あんのかよ〜」と、頭から疑っていたのだ。

 腰が痛いのは、もしかしたら脚が曲がっているせいじゃないか(実際には骨盤と肘の角度のせいで内股)と思ったので、マスリ先生に数年前のレントゲンとスキャナーを見せた。先生は「こりゃあ〜ア専門的すぎてわたしには理解できません。レントゲンも古いので、取り直して、専門家に見てもらいなさい」と言った。
 専門家というのはモンペリエに住んでいる。
モンペリエはナルボンヌからマルセイユに行く途中にある街で、たぶん1泊覚悟じゃないときついだろう。そこまで行くのは平気だ。しかも医者のところなんだから、行くしかない。

 脚が曲がってること自体に関しては、いくら「美しくない」と言われても、どうってことはない。体育の授業にも支障がなく、どんなスポーツでもできる。(内股だからスキーは極端に苦手)美的欠陥なんて内臓が悪いのとはわけが違う。ノエミ自身も卑屈になったりしないと思う。ただ、今度会う先生は、わたしに「今すぐ直しなさい」か、あるいは「一生治療の必要はないですよ」と断言してくれるのだろうか?小さなことがあるたびに「脚のせいじゃないだろうか?」といちいち不安になったり、「あの時治しておけば」と後悔しなければならない日が来たら?

 解決できない試練はないといつもJPが言っている。問題には必ず抜け道があるって。
わたしはそれに「健康でさえいれればね」って、付け足すのだけれども。
 自分が40年も生き延びて来れたのは、健康な身体で生まれさせてくれた両親のおかげと思うとき、もし娘のことを「この脚、変」と言われたら、やっぱり気になる。気にするなと言われても、気になる。
わたしにとっての問題は「気になる」ということで、たとえ家族の病気が治らなくても、そのことに関してわたし自身が気にならなくなったら、わたしの問題はなくなるといことだろうか?死んだ人に対して、もう会えないことをちゃんと理解し、ついに諦めることができて、ほっと安心できるような瞬間と同じ?《仕方ない》と言える瞬間?

 とにかく気になってしょーがないので、モンペリエに行くとする。諦めるのは嫌い。《エンドーはめげない女》なのだからして。

2008/01/10

雀の手帖




 ムッシュ・アサクマによる、《鳥玉》という作品が素晴らしく、どこに行ったら買えるのか問い合わせをしたら、すでに売り切れだった。
 東京の《パペットハウス》という人形屋さんのサイトで、《鳥玉》の写真を見てください。この中の《雀》がお気に入りです。
http://www.puppet-house.co.jp/

 その日《雀》が手に入らなかったことにいじけながら本棚をひっくり返していたら、『雀の手帖』が出て来た。幸田文さんが「ちゅん、ちゅん、ぺちゃくちゃと自分勝手なおしゃべりを毎日書き溜めた手帖」とのこと。
 1月1日にJPの実家から戻ってからというもの、年賀メールなどなどに返信するのも超忙しかったし、来週日本から受け入れるチョコレート屋さんの取材の件でもいろいろ忙しく、この一週間ずうっと4時とか5時に寝るのが習慣になってしまい、昼間はゾンビ状態。それで、いよいよ眠らなくてはもうどうしようもないと、身体と頭が危険信号を発しはじめた。すべてを忘れて布団の中に入ることにした。されども布団の中には、つい本を持って行く。

 『雀の手帖』が面白く、布団に入ったはいいが夜更かしをしてしまった。
これをかいた幸田文さんは1904年生まれで、1990年に亡くなっている。文さんは幸田露伴の娘さんだ。青木玉さん(孫)の読み物も好き。
 『雀の手帖』には100の短編が載っている。一話がだいたい2ページで、あっという間に読んでしまう。
 日常のさまざまなことがテーマになっていて、その観察力と、表現の絶妙さに、驚いてしまう。そして、昭和初期に生きた、東京の離婚経験まである飛んでる女が使う、江戸っ子言葉と、片仮名を使わないオノマトペが、面白くって仕方ない。
 
 隅田川の洪水で、『たたっこわそうとしている』感じで流れる川が、いろいろなものを運びさる。日常の身近なもの、例えば家具などが、濁ってはやい川に揉まれ、呑まれる様子を見て、「平和と団らんを流して行きやがった!」と悪態をつく。
「家具よ、といういとしさがたまらない」
「無力に翻弄されているのに、なお形を保って流れて行くのである。家具が川の中を行けば、異変が正常をぶっ壊した、と目に焼きつくのである。」
 そこで近所の老仕事師がいう。
「軽くて、縦と横が組み合わさっているものは、助かるかもしれないんだよ。樽はなかなか壊れないものなんだ。いつの洪水にもー」
 そして幸田文さんは、こう締めくくる。
 「川は美しくばかりない。恐ろしい川を見たおかげで、わたしは家具を違った角度から見る。」 

 隅田川の洪水は、「日常」とはかけ離れているのかもしれないが、「川を見て家具を思う」辺りが、「書いたものを読んでもらいたいと思っている人の観察眼だなあ〜」と感心する。縦と横が組み合わさっているものが、丈夫であることに関しては、おそらく、樽のことだけを言っているのではない、と思わせてくれる。
 基本がしっかりしていると上手になれるはずの剣道のことや、便利に片付いていると平和なわが家のことや、組み合わさって丈夫な人間関係のことにまで、思いを馳せる。

 パソコンの前で夜更かしする時間を、もっと読書に費やさねば〜〜と反省した。作文コンクールも待っている。

2008/01/07

わたしたちの新学期

 木曜日辺りから、ノエミがストレスを溜めに溜めてる。
「学校に行きたくない」と言って、オタオタしている。
宿題が終わっていないらしい。
おばあちゃんちに行く時に、宿題を持参したはずだったのに、肝心なコピーや宿題に必要な本を、一部カバンに入れ忘れ、すべての宿題を終えることができなかった。

 わたしは宿題をぎりぎりまで溜めておく方だったので、まあ、焦る気持ちもわかるけど、そんなことは言わない。「宿題は休みの始めに全部終わらせておくべきだったでしょ」と怒鳴りまくっている。こんな母親が居ると子どもの家庭内でのストレスが高まる。

 ある日などは泣いて喚いて「どーしよー」と騒いでいた。
確かに先生がやって来るように、と言ったことがあったはずなのに、それについてどこにもメモしていない。先生は「メモしなさい」と言わなかった。かすかに記憶している「宿題」は、教室でそれを言い渡された時点では、やり方がわからなかったので、あとで訊きに行こうと思っていたら、時間がなくて訊きに行けず。。。などなどなど。。。言い訳をしている。

 メモしてなかった、実際にはあったのかなかったのか、わたしにはさっぱりわからない宿題に、彼女は悩み泣いた。恥を忍んで友だちに電話させたら、なんということもない結末だった。先生は「休み中に個人できる復習」としてXページを読んでおいたらいいですよ、と言っただけで、正式な宿題ではなかったのだ。やっておいたら得、とのことで無事解決。
 晴れやかな顔に変わったその夜には、今度は「新学期から鉄棒があるので、学校に行きたくない」と言い始めた。

 鉄棒をやることに、自分の今後の人生にとって、どんな意味があるのか理解できないし、とっても危険なスポーツなんだから(じつは鉄棒の時間に転んで手首を骨折した経験アリ)、なんで無理にさせるんだろう?横暴だ!とまで言っている。
 体育の時間が無駄ではないことなどなどについて、親二人で説明。
「でも、やりたくないんだったら、自分で先生に言いなさいよ。人生にとって鉄棒にどんな意味があるのか質問しなさいよ。先生が答えられなかったならば、その時に、その先生を信じていいのか、従うべきなのかを、改めて話し合おうよ」って言った。うちで鉄棒の意義を訊かれたってねえ。。。

 体育の授業は1週間に2時間で、ノエミだけがみんなの前で鉄棒に触れている時間は、おそらく3分か5分か、それぐらいだろう。鉄棒から落ちて恥をかくとしても、一瞬のこと。
 宿題を忘れてしまったとして、先生が学期末の成績表からマイナス一点をつけたとしても、普段から褒められっぱなしのノエミに、何の支障があるというのだろう。「1点ぐらいくれてやんなさいよ。自分が悪いんだから仕方ないんだもの」とわたしは言った。
 もし、宿題を忘れたせいで1時間の居残りを言い渡されたとしたら、喜ぶべきだ。1時間みっちりお勉強できた上に、「これからは絶対に忘れないぞ」という闘志が生まれるに決まってるんだから、ありがたく思いなさいよって言った。
 ただし、こういうことを言っている背景では、ノエミが「なんだ。だったら宿題忘れてもいいや」って思わない子だということを知っている母親が居るわけだ。

 プライドの高いノエミにとって、宿題を忘れてみんなの前で叱られるのや、パーフェクトであるべきの成績表に汚点が残ること、忘れていさえしなけば完璧だったはずの宿題で恥をかくなんて、どっおーーしても、我慢できないのはわかっている。だから、「気にするな」と言われるとますますストレスが溜まるわけなんだなあ。
プライドの高いオンナは手に負えない。

 数年前、妊娠中の体調に関する、不愉快な数々のことで愚痴っていたら、そのころ助産婦をやっていた滋賀の姉にこんなことを言われた。
「あのね、物指しを出して来なさいよ。それが人生だとしてね、妊娠中の時期なんて、ほんの数ミリじゃないの。しかも、不治の病とは違って、生んじゃったらその不愉快な重さとか苦しみは、終わるんだからさ。妊娠なんて人生の終わりじゃないよ」
確かに人生の終わりというよりは、悪夢の始まりだったヨ。

 先人の教えは役に立つ。姉の真似して「1日24時間のうちで、鉄棒に触れる辛い時間はたったの2分なんだから、そんなことで数日間悩んだり、楽しい夕食の時間を台無しにしたり、貴重な睡眠時間に眠れないとかいうのは勿体ない。たかが宿題ごときで、人生の破滅だなんてなげくのは、ばかみたいよ。鉄棒がこれからの人生にとって何の役に立つかと言うけど、世の中には「今すぐには役に立たないかも」ってことがいっぱいある。学校で勉強するひとつひとつは、外の世界を深く見つめる助けになったり、基礎になったりするはず。いろいろ無駄だな〜と思えることも、いちおうはやってみなくちゃ、無駄かどうか、今のアンタに何がわかるの?」と言ってみた。いちおう自分にもそう言い聞かせてみるのだ。わたしだってせいぜい人生のUターン地点ぐらいなので、わからないことがいっぱいある。そして、「その件に関してはお母さんも知りたいので、鉄棒が人生に何の役割を持っているか、じかに先生に質問しておいでなさい。その応えの如何によっては、その先生を信用しても大丈夫かどうか、お母さんが責任持って意見を述べるから。」
 と、言い渡して、学校に送り出した。
カバンが重いから学校に行きたくないとか、雨が降ってるから迎えに来てよとか言っている。
 なんだこいつめ。そういうことか。

 自分がどんな中学生で、どんな悩みを抱えていたのか、いろんなことを忘れてしまっている。お正月に指宿で、中学や高校の同窓会が開かれ、参加した友人たちから報告が来た。みんな楽しそうでうらやましい。でも、思い出話に花が咲いた様子を聞くと、「楽しいこと」はけっこう覚えていて、宿題忘れて焦ったことは笑い話になってることに気づく。「ヨネミツは怖かったよな〜」とか「カワナベの牛乳ビンは今だったら刑務所行きだよね」とか。。。過去の恐怖が笑い話。そして、なんであんなに先生が恐かったのだろう。ただのおっさんだったのに、どうしてあんなに巨大に見えたんだろう。子どもに恐怖を与える、あの威力はなんだったんだろう。

 ノエミも元気で大きくなって、友だちと宿題の恐怖について、笑い話ができる日が早く来たらいいねと思う。
学校というところは、わたしにとっては人生の始まりだったと思えるし、たまに帰りたいところでもあるので、やっぱり人生のなんセンチかの部分をちゃんと飾っているのだと思う。

さて、新学期。

2008/01/05

身動き取れない 仏陀



 タイを旅行したお友だちからもらった写真です。
がんじがらめでちょっとお気の毒、でも、やっぱり「感動的」じゃあ、ありませんか。この《がんじがらめさ》が。

新年の話題

CNNのニュースから一部抜粋

 フランスでは1月1日から、バー、ディスコ、レストランなどの飲食店でも全面的な禁煙に踏み切った。2007年の2月からすでに、健康への煙害などを理由に職場、学校、空港や病院で既に実施されている。カフェなどでは設置した換気装置付設の喫煙室ではタバコを吸ってもいいことになっている。2007年はそういったカフェなどの喫煙席設備への投資・作業に各方面からの協力が行われていた。

 世界保健機関(WHO)によると、フランス総人口の約6千万人のうち約1350万人が喫煙者だそうだ。シラク政府が煙害などの死因について注意を促すとともに、職場などの禁煙政策を推し進めてきた。

 美食の国・フランスでは食事や飲み物の後の一服を楽しむ国民が多く、禁煙政策には批判も根強かったのだろう。でも、数年間翻訳を請け負っていたパリのホテルリッツでは、数年前から「タバコや葉巻は喫煙席で」とメニューに書かれていた。収益減少を恐れるたばこ販売店組合などはストも起こしているし、ベルギーなどの国境そばのカフェでは、国境を越えて煙草を買いにいくついでに、ベルギーのカフェで煙草を思う存分吸ってくるという人も多いそうだ。
 カフェの外ではタバコを吸ってもいいってことは、テラスで食事しようと思ってもタバコを吸いたい人で溢れているから、室内で食事するしかなくなってしまうのかな?今は冬だから「喫煙者追い出し」でほくそ笑んでいても、春になったら喫煙者が街に繰り出すんだろうか?

 1日は実際には「大目に見る」とのことで、宴会などの場まで出掛けていって、罰金を要求するようなことはなかったらしい。実質的には2日以降がいよいよ本格的に処罰など本格化されたとのこと。罰金もじゃんじゃん支払われはじめているようで。
 

 

2008/01/01

あけましておめでとうございます



 Je vous souhaite une bonne et heureuse annee 2008, que l'annee vous apporte beaucoup de bonnes choses.
Merci a tous ceux qui m'ont envoye les messages de Noël et de Nouvel an, nous etions a Narbonne du 23 au 1er. En rentrant je les ai decouvert avec plaisir !
Nous avons fait les fetes avec la famille de Jean-Philippe, nous etions tous tres gates.
Je vous repondrai petit a petit, un par un, en attendant je vous embrasse tous bien fort, et je vous souhaite encore une fois : Bonne Annee et Bonne sante a toutes et a tous.

 明けまして、おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 23日から1日までJPの両親の家で過ごしていました。大変のどかで、心安らかな、年末年始。上げ膳下げ膳で平和な毎日でした。お天気はよく、子どもたちは地中海に脚を突っ込み、トンネルを掘り、貝殻を拾い、海岸でバドミントンをして汗を流し、プレゼントをいっぱいもらって、おいしい物を食べ、(フォアグラとシャンパンもあり)ゲームをし、昼寝をし、読書をし、キレず、怒らず、腹を立てず、たくさん笑い、ちゃんと気持ちよくお手伝いをし、大掃除はせず、買い物も洗い物もせず、お金は遣わず、頭も使わず、パソコンも使わず、電話は鳴らず、請求書は届かず。。。こんなに素晴らしい年末年始は、いつから味わっていなかったでしょうか。

 留守中に、メールが40通来ていました。大急ぎで返事を書いていますので、ちょっとお待ちくださいますように。

とりあえず、皆様にとって、この年の始めが、心も身体も寒すぎませんように、お祈りしております。
 冬らしく寒い冬がちゃんと春まで続くあいだ、温かなものに守ってもらえますように。身体に気をつけてくださいね。

明るく笑いが起こるような、華やかでにぎやかで踊りたくなるような、心軽く心弾む春ができるだけ早く訪れ、そして明るい春ができる限り長く続きますように。

 雨はほどよく大地を潤し、風はほのかに花の香りを運び、そしてまた遠くからのうれしいニュースを、じゃんじゃん運んでくれますように。

 みなさんの歩く道が、あまりでこぼこしませんように。落とし穴などないように、寄り道したくなるような楽しい道であるように、そしてそこには素敵な秘密が隠れているように、オオカミに出逢わないように。。。お祈りしています。

ついでに、

 去年までの重荷が、少しでも軽くなりますように。
身体の中が、身体の外以上にきれいになりますように。
頭の上にも、脚の先にも、指の先にも、鼻の先にも、まぶたの奥にも、心の底にも、そっと静かに触れる、優しい「何か(あるいは誰か)」に巡りあえますように。
 ずっと忘れたくなくなるような、素晴らしい思い出が作れますように。

 もっと仕事したい人には大きな仕事が飛び込み、
 もっと休みたい人には長いバカンスが許され、
 もっとお金が欲しい人には、ちょっとした運が巡り来て、
 もっと笑いたい人には楽しいことが、
 もっと泣きたい人には、悲しみでなくばかばかしいほど可笑しいことが起こりますように。

 もう誰にも会いたくない人には、孤独に浸れる静かな夜が、
 もう一人では辛すぎる人には、だれかにそっと包まれて眠れる夜が、
 もう何にも我慢できない人には、空を見上げて自分の小ささを知る夜が、

 昨日とはちょっと違う夜が来ては去り、暗い夜の次には必ず明るい朝が来て、朝とともに毎日ちょっとだけでも成長していられますように。

 わたしの周りから、憎しみや、悲しみや、嫉妬や、妬みや、後悔や、恐怖や、不安などなどの恐ろしく暗いものが遠ざかり、それが伝染して、世界中に広がりますように。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。
よい年になりますように。
                        みのり