2010/02/22

アルビのカーニバルへ






 春を呼ぶという、アルビのカーニバルに行って来た。
山車(っていうのかな、フランスのでも?)が出発する地点から、ずいぶん離れたところに陣取ったので、ずいぶん待たなければならなかった。パレードのあとに、町中に繰り広げられている移動遊園地で遊んだ。この移動遊園地、2週間の間アルビの町を占領する。
 
 パリから来たリリーには、アルビの15度っていう気温は、もうそれだけで春の気分らしいのだが、町中にただようカーニバルムードに、疲れも吹き飛んだよう。頭からセーターの中まで、紙吹雪だらけになった。

 ノエミに寄ると、今年のミス・アルビは、なかなかの美人との評価。

 すべての写真はこちらで見れます。

http://www.facebook.com/album.php?aid=15999&id=100000112720171&l=5fc57e5e9c

2010/02/21

リリー



 リリーが来ている。
土曜日の夜に夜行列車でパリを発ち、カーモーに朝の8時44分に到着した。

 この夏の五日間の剣道合宿のときに、リリーと出会った。
リリーの両親は中国からの移民だけれども、リリーはフランスで生まれ、二人の妹と弟とは、フランス語でしか話さない。

 リリーは、23歳。
でも、ゲームとマンガの件で、ノエミとたいへん話が合う。いかにも《パリの中国人》っていう、機関銃のような話し方で、俗語と略語がじゃんじゃん出てくる。ノエミも、普段から、「この子、ものすごく話し方が早い」と言われていて、それこそ息が続く限り一気に言葉を発するので、もう一体なにが何だかわからない話し方だが、リリーとは同じリズムで話している。
 いや〜、うるさい。
家の中が、二体の機関銃で穴ぼこにされて行く感じだ。
家が穴ぼこになる前に、JPがぶっ倒れそうだ。

 今は、リリーと子どもたちはカードゲームをしている。
リリーは、ニンテンドーやプレステにもものすごく詳しいのだが、普段は子どもを相手に仕事しているだけあって、トランプを使ってのゲームや、はさみやペンを使っての遊びもものすごく上手。

 リリーはわたしの剣道の友だちで、わたしに会うために来た、わたしの友だちなのに。。。わたしはこうやってパソコンの前に座っている。子どもたちと楽しそうに遊んでいるので、子どもたちがベッドに入るまで、楽しんでもらおうと思って。
 いや〜、わたしには、彼女たちの会話力にも、ゲーム力にもついていけないし、いっや〜、ホント、うっるせー!!ので、二階に逃げて来たというのが本音。じつは。

 
 夏の剣道合宿のあとはFacebookなどで連絡を取り合っていた。それで、今年の春にパリで指圧の実習をしなきゃならないので、「パリに行ったら泊めてね〜。そのかわり、南に来る時にはうちに泊めるから」と言ったら、わたしがパリに行く前に、「じゃ、来週遊びに行く」と言って、そしていきなり遊びに来た。いきなりだったけど、とても自然だった。普段人が来るとなると片付けだの、料理のメニューだの、緊張して何日も眠れないのだけど、リリーが来るとなってから、片付けも掃除も、テキトーにやっただけで、普段のそのままでいいやっと思った。自然な方がリリーも過ごしやすいだろうと思ったし、リリーが掃除や片付けにとやかく言いそうな子には思えなかったから。

 リリーは金曜日までいる予定。
連れて行きたいところがいっぱいあるので、この冬休みは楽しくなりそう。
バレンタインセールのために、去年と一昨年の冬休みは子どもたちと過ごさなかったので、子どもたちも大喜び。

 今日は、昼寝していたリリーを叩き起こして、午後からアルビのカーニバルに連れて行った。昼はちらし寿司と肉じゃがとみそ汁を食べさせ、夜は寄せ鍋をした。
 明日はカーモー周辺と、コルドにでも連れて行こうかとおもう。夜はお好み焼きとたこ焼き。


 

2010/02/13

おとうとのお嫁さんの着物


 おとうととソフィーは5年前から同居していて、3歳の子どももいるのだが、いよいよ結婚式を挙げることになった。
お正月に《宣言》してから、あれよあれよという間に本番がやって来た。

 お嫁さんのソフィーは、
「もう歳だし、モデルみたいな体型でもないし、フリフリは嫌い。普通のかわいらしい花嫁さんが着ない、みんながあっと驚くようなドレスを探している」
とずっと言っていたのだが、結婚式の三週間ぐらい前にいきなり
「着物を着る!」
と言った。いっやあ〜困った。着せるのはわたしだって言うんだもの。

 インターネットで見つけた中古の訪問着ではあったけれども、こんなきれいな着物、見たことないって言うぐらい、きれいな着物だった。
銀色で、ちょっと青く光る。獅子の刺繍がある。

 結婚式の一週間前に、肩を痛めて吊っていたけれども、がんばって、電車でナルボンヌまで出かけた。結婚式を自宅のガレージでやるというので、ガレージのお掃除と、飾り付けも手伝ったが、メインは、着物の試着だった。

 当日。セレモニーの一時間前から着付けをはじめて、なんとか仕上がった。帯は、ソフィーが自分でこしらえた。インスタントながらも、レースや、絹をあしらって、かわいいブローチをつけたら、とってもおしゃれになった。脚には靴。下にもいっぱい着てる。
 生まれてはじめて着付けというものをやったにしては、なかなかのできだった。ソフィーは、一日中大股で歩き回り、ダンスホールとなったガレージで踊りまくったが、夜中まで着物はほとんど着崩れしなかった。

 親戚や、ただの恩と義理っていうような招待客は一人もおらず、大好きな友達ばかりを集めたパーティーだったので、酔っぱらってくだを巻いたり、親戚同士の恨みつらみが出たり。。。そういうことの一切ない、とてもとても楽しい結婚式だった。
ノエミの結婚式のマーチも、大好評だった。


 

2010/02/08

とってもみのりらしい。はいはい



 肩を痛めている。
な〜に、たいしたことはあるまいよ。
 
 自宅の居間で、一人、夜中に、合気柔術の《受け身》の復習をやっていて、それで、肩をがつんと打ったのだ。へへ
ちゃんとマットは敷いてた。
一応、座り受け身からはじめて、できるようになったから立ち受け身に移ろうと思って、いきなり立った状態から肩を下にすっ転んで、それで、肩をがつんと打ったのだ。
 当時「がつん」じゃなくて、「ボキガリ」と鳴る音を聞いた。びっくりした。

 数年前に、室内滑り台で、自分の体重が重力に勝てないことをすっかり忘れていたわたしは、途中からいきなりスピードを上げた滑り台で一気に下まで滑り落ち、壁に激突した。左足首が「ぼきがり」と鳴った。
 滑り台の下でわたしを見守っていた義父母に、「アンタ、そんなことをミニスカートでやるもんじゃない」とか「今すごい音がしたけど折れたんじゃないの」とか言われ、あまりにもプライドを傷つけられたもので、そのまま一秒間に2倍ぐらいに膨れ上がり、サンダルから溢れ出る紫色の左脚を、「平気、平気」と痩せてもいないのにやせ我慢し、冷や汗かきながらひきずって歩いて家まで戻った。子どもを風呂に入れ、食事させ、パジャマを着せてから、夜が更けてからようやく「脚があまりにも痛いんで、医者に連れてってくれ」と、プライドを捨ててJPに訴えた。
 
 あの時の、じんじんじんじんと地の底から突かれているような痛みが、すぐによみがえったので、肩の「ガキボリ」も、こりゃ〜骨折やな、と自覚した。けれども、カーモーの病院に駆け込んでも、どうせ夜中にはレントゲン技師がいないから、翌朝また出直してと言われるのはわかっているので、家人を起こすのを避け、肩にアイスノンを貼付けて、朝まで寝ずに待った。

 翌朝、自分で車を運転して病院に行った。骨折はしていなかった。
「三週間ぐらいは肩を動かさないように」とのことだった。困るよなあ〜。

 そのかわり、電車でナルボンヌに行ったとき、人びとが、首から下げたわたしの腕と、痛そうに眉毛を吊り上げ眉間にシワを寄せてるわたしを見て、荷物を持ってくれたりしたのは、じつにありがたかった。
 ナルボンヌから戻り、夕方から学校の《新年ロトくじ会》に参加したが、その時にも、テーブル出しの加勢や、床拭きや、物持ちや、くじ券売りなどなどから免除され、ラッキーだった。腰の療養中であるJPともども、《ハンディーキャップ夫婦》と呼ばれ、みんなに大事にされた。そしてわたしは《とってもみのりらしい》と笑われ、かなりバカにされた。
 
 確かに、「なんでそんな痛い思いをしてまで、武道をやるのか」と言われるが、《武道》は本当は痛くないのだ。修行が足りないから、ヘマをやるのであって、修行を積まないと上手になれないのだ。ノエミには、
「マゾじゃないの?」
って冷たく言われたけれども、ノエミだって、合気柔術のお稽古は楽しそうに着いてくる。ノエミも喜んで始めた。いつか、指一本ですっ飛ばされる日がくるんだろうか?
《転んでも立ち上がる》
いつも、みんなに「みのりらしい」と言われることを、すこしは理解してくれるだろうか?と思っている。
 「ママンが怪我するぐらいだから、危ないから、わたしはやめる」と言われるんじゃないかと懸念していたが、「先生の居ないところで隠れてこそこそ勝手な復習などしなければ、怪我をしない」と言って、ノエミは一人で稽古に出た。わたしは見取り稽古。

結婚式の準備

 JPには弟が二人いる。二番目の弟は5年前からすでに恋人を暮らしていて、三歳になった息子もいる。《恋人》というのかどうかわからない。結婚はしていないけれども、市役所にちゃんと同棲の届けをしていて、息子に対する法的な権利は平等で、二人で使える銀行の口座もあるし、二人のお金で家も車も買った。
 五年一緒に暮らして、このお正月にいきなり「結婚式をする」と宣言した。準備まで一ヶ月しかなく、しかも冬で(結婚式っていうのは普通夏休みにやるもんだ、というのが義母の意見)、引っ越したばかりの改装工事中の家のガレージで、結婚式をやるというのだから、何やらバタバタする。

 弟たちがいま住んでいるのは、10年前まで両親が住んでいた家で、14年前にわたしたちの結婚式をやったところだ。わたしの結婚式にはまだ健在だったJPのおばあさんも、モナコとの国境付近に住んでいるJPのお父さんの弟も、お母さんがたの従姉も来てくれた。そして、日本からわたしの奈良の二人の従姉妹と四人の友人たちも来てくれた。
 セネガルからフランスに帰って来てまだ一週間足らずだったが、「結婚というのは家族のお祝い事だから。息子のために。」という両親が、何から何まで、準備も支払いも、ぜ〜〜んぶお膳立てしてくれて、わたしはなんにもやらなかった。日本でやった披露宴も、同じように、わたしはな〜〜〜んにもやらなかった。
 わたしにとって、JPとの人生はセネガルで、親とも故郷とも離れたところで勝手にスタートしてしまっており、《結婚披露パーティー》というのは、親のためにやったようなものだった。。。と、いま考えれば、そんな気がする。まだ若かったので、そういう《公的なこと》に慣れている大人たちに、なにもかも任せ、相談し、やってもらえるならそうしてもらって、お金出してもらえるならラッキー。。。という感じでもあったかもしれない。

 弟たちは、親戚を呼ばない。そして、両親は、弟たちの結婚披露宴の準備には口出しできない。口出しして、喧嘩になって、双方が譲り合えなかったので、両親は結婚式に参列しない。なんとも残念。

 わたしがダニエル家の女性を代表するのだ!弟のお嫁さんの結婚式の準備を手伝うために、週末に電車でナルボンヌに行って来た。肩を怪我して車の運転が不自由なので、電車を乗り継いで行って来た。やることはいっぱいあって、三日のあいだ働き詰めだった。肩も痛くなり、風邪もひどくなった。あと一週間。《バレンタインデー》を意識して、どうしてもこの日、この冬に結婚式をやりたいという二人なので、やるしかないのである。
 親と喧嘩してまでやる結婚式って、どんなだろうと言ってみるが、そういえば、自分だって、親にはあまり認められない結婚をしたんだ。すっかり忘れていた。結婚式って(お葬式も、そう)、家族の問題ではあるんだろうけれども、結婚っていうのは、とりあえずは、当事者二人の問題なんだと思う。

 とりあえず、五年間も様子を見て、ダニエル家の人間関係もよくわかっているはず。こんな喧嘩になることもいちおう想像できただろうに、それでも意地を張って近くに住んでる親と喧嘩し、これからずっと気まずいのはわかりきっている。それでも、この家に嫁ごうとしているわたしの義妹に、「がんばろうね」と言うしかない。

 意地の張り合いは、人ごとだと、すごくバカみたいなものに思える。
 意志を通すのと、意地を張るのは別なものなのだ。そのことに気づいただけでも、この14年以上のダニエル人生や、親の家の外で体験した20年以上の社会人人生も、そう捨てたものじゃなかったんだろう。親から離れるのは、親を見捨てるわけでも、感謝していないわけでも、尊重していないわけでもないと思うんだけど、それがわかる親に、わたしはなれたらいいなと思う。

 そう言いつつ、ノエミが独り立ちをしようとする時、ことごとくいちゃもんをつけるんだろうな〜。