2008/07/31

粘り強い女




 朝から木陰で30度を超える日は、人通りが少なくなって、町は静か。
このごろは心臓に脂肪が絡み付いているような、右腰の辺りに錘がぶら下がっているような錯角がするので(錯角じゃないってば)、暑くとも、ちゃんとボボのお散歩には行っている。

 暑いのは嫌いだ。寒いのも嫌いだけど
でも、我が家は古い石の家だから、日中に雨戸を閉めて、1階でじっとしていれば、あまり暑さを感じない。なので家にこもってじっとしている。

 そろそろ納豆の季節だなあと思っていたら、大豆が手に入ったので、納豆を作ることにした。

納豆は納豆菌さえあれば簡単にできる。日中30度を超えるような日だったら、もう「へのよな」お手軽さだ。

「へのよな」というのは、「へのような」のことで、「へ」というのは、「おなら」のことで、「へのよな」は「おならをするように簡単」ってことだ。鹿児島人のポエジーには心打たれる。「へのかっぱ」よりもわかりやすい。それにしてもどうして「かっぱ」なんだろう?

 さて、納豆である。
納豆について真剣に考える人は、苦労をしなければならない。

 大豆をひと晩前から水に浸して膨らまし、小指と親指でつまんでぐにゃっと潰れるくらいの硬さになるように7〜8時間ほど茹で、納豆菌(市販の納豆に無菌水を流して汁をとり、それをゆで大豆の上にかけたものでよし)を混ぜてから20時間、40度の温度に保たねばならない、と本に書いてある。そんなこと真に受けていたら、納豆を食べる前に根性がなえる。

 納豆作りは「へのよな」作業で生まれる粘り強さがかんじん。

 わたしには納豆菌と圧力鍋という強い味方がある。
納豆菌はインターネットで買おうと思ったのだが、フランス語の商品名に「納豆菌」のことを「バクテリア」と書いてあったので、そんなものをインターネットで買ったりしたら、テロを疑われて捕まるんじゃないかと不安になり、あきらめた。わたしの納豆菌は東急ハンズ販売の「高橋純粋活性納豆素」なるもので、東京帰りの友人にお裾分けしてもらった。
 
 カップ2杯の大豆をカップ6杯の水に漬けて、一夜置く。
水を切って、かごに入れ、圧力鍋で30分ほど茹でると、ぐにゃっと潰れる大豆になる。
耳かきいっぱいの納豆菌を10mlの湯冷まし水で溶かし、プラスティック容器に並べた大豆の上に混ぜて、ラップを掛け、ラップに竹串で穴をあけ、容器をタオルで包む。
 これだけ。

さて、40度に保って20時間置く。これが問題。そんな根性は、わたしにはない。
 大嫌いな夏の日差しを逆利用しよう。暑い夏が幸せを運ぶように。
木陰で30度を超える日は、路上駐車の自動車の車内は軽く60度を超える。
 一度、タッパーをセーターにくるんで日の当たるテラスに置いておいたら、温度計が爆発した。
夏だから苦労しなくても高温が手に入る。
先ほど台所から路上駐車している愛車が目に入ったので、車中に温度計を置いてみたら、あっという間に50度を超えたので、大豆を並べた容器に、セーターは着せなかった。
40℃以下になったら、納豆菌は繁殖しないけれども、高い温度だったらいくらでも大丈夫とちゃんと本に書いてあった。読むべき所は読んでいる。午後は車は建物の陰に入るので、少しは温度が下がるかもしれないが、それでも40度以下にはならないと思う。
 なので、20時間待たずに、今晩、さっそく納豆が味わえるだろう。

 大豆が余っているので、来週は豆腐を作ろうか。温度調整は必要ないから暑くなくても良いのに、豆乳を作るまでに長時間ガス台の前に立っていなければならず、汗ダラダラになった割にはできる量が少ない。豆腐はけっこう根性がいる。

こう書いているうちに、根性が萎んでしまったので、手っ取り早く「こんにゃくキット」でこんにゃくを作るとしよう。

 納豆の作り方を学んだ家の光協会の『手作り食品大百科』には「さつま揚げ」の作り方もあったので、週末に作ろうと思っている。


 

2008/07/19

あとがき追加



 ついに初版ができました。
わたしの2冊目の翻訳の本が、つい先ほど、日本から届きました。
ほやほやです。

 原作者のハッサンさんに、「この本を訳したいのですが。。。」と自己紹介のメールを書いたのが2006年の1月。
「翻訳権を獲得しました」という出版社からのメールはその10月でした。
2007年の4月に文研出版の編集の方とフランスでお会いし、次の週には偶然にも、アルビで開かれた子供の本の展示会に参加中のハッサンさんにお会いすることができました。
2007年の8月に、ヴァカンス中の金藤さん親子(ポリーヌさんのホームステイ家族)に出逢い、Kちゃんのお父さんが画家さんだというので、「挿絵は描かれませんか?」と言ったことがきっかけとなり、金藤櫂さんに、挿絵を描いていただくことになりました。

 鉛筆を使った細い線画の出る金藤さんの絵は、ふだんはもっと特別な紙に描かれ、特別な機械で写真を撮るのだそうですが、予算やいろんな都合で、この本に合わせた仕事をしていただくこととなりました。芸術家にとっては、絵のことなどわからない、その道の素人を相手に、注文ばかりつけられ、急かされ、やりにくい仕事だったでしょう。

 編集者の坂田さんは、フランスまで、福岡まで脚を運んでくださり、電話やメールもよくくださり、わたしの調べものも手伝ったり、プロの校正は頼めないからと、何度も何度も読み直しをしてくださったりと、助けていただきました。この人の名前はせっかくあとがきに書いたのに、「謝辞はお断り」ということで、ご本人に消されてしまいました。ですから、本のどこにも坂田さんの名前が出ていなくて、とっても残念です。この人がいなければ本はできませんでした。

 《レジュメ》を書いて、あらすじを提出するまでに、ずいぶん時間が掛かりました。《レジュメ》というのは「あらすじ」「感想」「登場人物紹介」「作者・訳者紹介」などで、そういうものをまとめて、出版社に持ち込もうということになりました。
 レジュメを読んで「よしこの訳者なら大丈夫」と認めてもらうには、訳す本をどんな風にアピールできるかに掛かっているのです。けれども、なかなか文体が決まらず、上手にあらすじをまとめることができず、ふだんからわたしの日本語を気に掛けてくださっているヒントブックスの山田さんに、ずいぶん日本語の指導をしていただきました。そして、持ち込みを探すのまで手伝って頂いたのでした。それから、文研出版の持ち込み先へ導いてくださった、山田さんのご友人《るな工房》の山本さん、この方がいなければ、せっかく書いたあらすじも、坂田さんには読んでいただけなかったでしょう。
 会ったこともない(なかった)人々が、結んでくれた縁に心から感謝いたします。

 たくさんの厳しい感想を頂けることを、楽しみにお待ちしております。
たくさんの子供たちに、昔は子供だった人たちにも、広く読んでいただけますように。

2008/07/18

夏休み




 ノエミのキャンプが17日で終了。ゾエは19日に大親友のアントワヌくんのお誕生日に招待されている。
そろそろ子どもたちを迎えに行かねばならない。

 16日にナルボンヌに行き、一泊して、17日はゾエと一緒にノエミを迎えに行くことになった。

カーモーからナルボンヌまでは、田舎道を走って2時間半ぐらい。
ナルボンヌからトゥールーズまでは、高速を使って2時間ぐらい。
トゥールーズからカーモーまでは、高速を使って1時間半ぐらい。

 トゥールーズ市街で、運転する勇気もないし、トゥールーズ・マタビオー駅周辺で駐車場を見つける自信もないし、路上の縦列駐車をするようなテクニックもないので、郊外の地下鉄駅に車を停めて、ゾエと地下鉄で駅に向かった。
 道に迷ったり、渋滞に巻き込まれたりすることを予想して、義父母のうちを9時前には出て来たので、11時前には駅についてしまった。ノエミがボルドーから帰って来るのは、13時頃。

 ゾエと駅を探検する。ゾエはエスカレーターとエレベーターに乗りたくてしょうがないのだ。自動販売機というものも、カーモーではお目にかかれないので、わくわくしている。地下鉄のチケットは行きと帰りで合計5枚買えばいいのだが、いっぺんに買わず、5回に分けて買った。しかも、いちいち領収書を頼んだので、手元に10枚のカードみたいなチケットが手に入った。大事にバッグに片付けた。
 ジュースも、キヨスクで絵はがきと一緒に買えばいいものを、わざわざ遠くの自動販売まで行って、わたしのと、ゾエのと別々に買った。そのたびに、わざわざエスカレーターを降りて昇った。
 
 ちょっと疲れたので、ホームでひと休み。
駅の構内のベンチでは、大きな荷物をもっと人で溢れているので、わざわざ新幹線が来ては去るホームに出て、電車が来ては去るたびにホームを換え、旅行者のような顔をしてベンチに腰掛けた。
 一番ホームは大きな建物を出てすぐにあり、建物にくっついている広いホーム。そこにはスズメとハトが集まっている。ゾエは、3歳ぐらいの男の子と2人で、お菓子のクズを飛ばしてはハトを集め、ハトが集まると追い払うという遊びを考えた。お菓子のクズは、遠くに投げていたのを、少しずつ近づいた場所に落としてみた。ハトたちは、だんだん近くにやってくる。ついにわたしの足元までやって来た。
 隣に座っていたおばさんが、「そのうちフンを引っ掛けられるわよ」と言って笑っていた。

 ノエミの新幹線は20分遅れて到着。予定では5号車に乗っているはずだったのに、降りて来なくて、迎えに来ていたほかの子のお母さんと一緒に、ずいぶん焦ってしまった。すると、トゥールーズから乗った4人の子どもたちは、3号車から降りて来た。真っ黒に日焼けしていた。

 ひと駅だけ、無人のメトロの最前部に立って運転手の真似をし、ゾエの運転で車を置いた駅まで戻って来た。

トゥールーズからカーモーに向かう高速道路は、海に向かう高速道路よりも空いていた。
ひまわりがきれいに咲き乱れていて、夏休み気分を盛り上げた。

 

2008/07/15

革命の記念日





証拠写真
若くてスマートな彼。
(てっぺんはアンテナじゃないよ)





。。。なので7月14日は祝日。大黒柱のJPは、翌日から仕事なので、専業主婦のわたしは、溜まった洗濯物にアイロン掛けを。
さて、大嫌いなアイロン掛けの苦労を忘れるために、テレビでも見るか。
朝から、シャンゼリゼでの軍隊行進を報道していた。
昼はコンサート、夜は花火大会だそうだ。
13日から14日に移る深夜には、パリ周辺では300台の車が燃えたと言うし、首都はにぎやか。

 1995年7月14日の軍隊の行進を、見に行ったことがある。ダカールで。
その頃JPは、ピシーッと完璧なアイロン仕立ての白いシャツの似合う、海軍の軍人さんであった、ので。
当時のJPは、ちゃんと自分で制服にアイロンを掛けていた。朝起きたら、シーツをピシーッと張って、ベッドメイクをする人だったし、髪の毛もしょっちゅう切っていたし、無精髭とは縁がなかった。
 いつ呼ばれてもいいように、制服は大事に仕まってあるけど、もう着られないでしょー。

 さて、シャンゼリゼの軍隊パレード。
今年はじめて国際連合国軍の兵士たちが、パレードに招待され論議を呼んだ。
145人の中には、ゴランで駐屯中の35人(カナダ・オーストリア・・クロアチア・日本・インド・・ネパール・ポーランド・スロバキア出身の兵士)がパレードに参加。ゴランでは現在1046人の連合国軍兵士が平和のために働いていて、1974年以来42人が死亡したという。パレードに参加する笑顔の日本人女性兵士を見て、びっくりした。日本も海外に兵隊さんを送っているのかあ〜。

 145人中98人はレバノンから、このパレードのためにフランスに来た。レバノンでは今12383人の連合国軍兵士が働き、1978年以来263人もの命が奪われた。

 残り、12人はキプロス島から。オーストリア・アルゼンチン・カナダ・クロアチア・ハンガリー・スロバキア・イギリス国籍を持つ兵士たち。キプロス島では44年の間に168人が帰らぬ人となった。

 きれいな制服や、騎馬隊の晴れやかな姿や、珍しい戦車や、青空を飛び交う戦闘機や、そんなものを見ながら、なんとも不思議な気分だった。そういう軍隊や、おもちゃみたいなトラックや、華やかに大空を飛ぶパラシュートは、もしかしたら7月14日のパレードのためだけに訓練されていて、軍人さんというのは一年中、この日に誇り高い姿を見せるためだけに、軍人さんをやってるんじゃあないだろうか?と思った。

 でも、たしかに、わたしはこの目で見た。
太平洋の海の上に、島々の隠れた入り江に、いつでも出て行ける艦隊がいるのを。
湾岸戦争の時に、慌てて出て行った若者たちを。
アフリカの旧植民地に置かれた、フランス国旗をかざした基地を。
港を出て、遠く岸から見えなくなるまで、船上で敬礼する船乗りたちを。
そして、アイロンがピシーッと掛かった制服を。
 
 JPは、もうわたしがどこに制服をしまっているかさえ、気にもかけない。シャンゼリゼのパレードも、ど〜うでもいいらしい。

〜〜〜
 夜は、リュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」を観ながら、ビーズでネックレスを作っていたら、近所でものすごい爆音が鳴って、びっくりして玄関を開けた。すぐそこの公園で、革命記念日の花火大会をやっていて、玄関から丸見えだった。JPは、すでにぐーすか寝てしまっていて、あんなにすごい花火の音も聴こえないらしく、わたしはひとり寂しく、玄関に立って花火を観た。

 爆音も火花も、警報も聴こえないでは、も〜軍人は無理だろう。
よかった。

7月14日の模様をニュースで。右上にビデオもあります。
http://info.france2.fr/france/44954615-fr.php#

2008/07/13

ヘリ

 またも、居間のペンキはがしを再開した。
築百年以上の家なので、壁のペンキは4重構造で、下の層の古いペンキだと鉛入りの危険なものまである。古い家は昔の知恵がいっぱい詰まっていて、それなりにいいことがたくさんあるのだが、それが30年前ぐらいにいろいろ手を加えられたとなると、どうも生きにくく改修された証が残っている。
 この頃エコロに走っているJPは、家じゅうをできる限りエコロジカルな素材で、今の私たちとこれからの子供たちのために、よりよく改修しようとがんばっている。
 なので、わたしもがんばらねばならない。

 居間は入居当時とっても湿っぽく、壁もはげ落ちていたのだが、居間の外に広がる中庭を半年掛けて改善した。1年掛かって内壁のペンキを落としたあと、漆喰を使って塗り直し、床に敷かれていたビニールのカーペットを捨てて、そこにゴザを敷いたら、ずいぶん湿気が改善された。あとやることと言ったら換気に気をつけ「きれいに飾る」。
これに一番時間が掛かっている。普段全然どーでもいいと思って、室内装飾には手をつけないので。

 窓やドアの枠、装飾用の木の飾りも、一昨年ペンキをはがし、去年色を塗った。でも、その色のウケが悪く、塗った本人も「とんでもない色だ」と気になり始めたので、塗り替えることにした。ペンキはがしの薬品は臭いので、閉め切った部屋の中ではできない。子供がいる時や、冬の間はできない。なので、今やることにした。

 本を読んだり手紙を書く時には音楽は聴けないので、こういう時にこそ音楽をかける。さて、何を。。。

『喜納昌吉&チャンプルーズ』
 この前帰国した時に、CD屋さんのお兄さんとなったリッキーに、選んでもらった一枚。彼にはCD屋のおにいさんがよく似合っている。井筒親方や三浦和義の物真似でディスクジョッキーをしながら、レジに立っていたりしたら面白いなあと思う。でも、彼がもっと哀愁漂う50歳ぐらいになったら、レコード屋の親父のほうがいいんじゃないかと思う。それまでに、また黒いプラスティックのレコードがじゃんじゃん売り出されるように、運動しなければ。 

 学校で習った『てぃんさぐぬ花』などが聴こえてきて、ちょっと口ずさんでみる。
『アリアン』のイントロが始まって、「おおこれも学校で習ったね」と思っていたら、歌詞の中に『あなたを奪ったあの人は としは三十八まだ消えぬ』というのがあって、「ええ?」と思った。こんな歌詞の曲を中学校で教えるもんでしょーか?

 さらに、『ソーラン節』に来て、このグループがとんでもない編曲で民謡を歌っていることに、決定的に気づいた。
刷毛の動きを止めて、つい聴き入ってしまう。
『ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン ソーダン しましょう /
 西は中国 東はアメリカ サーッサ日本は どこへ行くの /
 ヤサエン エンヤー 全くわからない』
思わず刷毛を落としそうになりながら、一人でリッキーのことを思い、大笑いした。やられた。
あんなに笑ったのは久しぶりだった。

 CDについている小さな本(ってなんていうんですか、あれは?)を見たら、『ソーラン節』じゃなくて『騒乱節』になっていた。
JPは、このCDの色々混ざり混ざった音楽や、南の島の女にしか出せない色気のある声のコーラスがとっても好きなのだが、歌詞まではわからない。元気がなくなったら、わたしもこのCDを聴く。

 気を取り直して、ペンキはがしを続ける。
あさ、子供たちから別々に電話が来たことを思い出す。
前日の夜は農場に行っていたので、留守電になっていて心配したらしい。

 ノエミがキャンプ場からコレクトコールで掛けて来た。こんな技を使えるとは知らなかったので、彼女の成長を感じて胸が熱くなった。
 いろいろと質問し、いつもの注意事項を繰り返していると、生返事が返ってくる。
「そんなに何度も言わなくても、大丈夫だよ」と娘。
「でも、心配だからさ」と母。
「心配しないで、信頼してよ」と娘。
ちょうど、つい先ほど、友人からも、「お母さんのことは、心配よりも信頼してあげなさい」と言われたばかり。

 心配よりも信頼デスか。。。はい、はい、ワカリマシタ。
だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ

刷毛を置いて、おぼうさまにお線香を上げた。
おかげさまで平和です。

 ヘリのペンキをはがしていたら、ヘリの音が近づいているのに気づいた。3機か4機、カーモーに向かっている。
おおっ!これは、ツールドフランスが近くまで来ているとみたっ。
テレビをつけたら、ロデツからカーモーに入ってくる長い坂道を、自転車軍団が降りて来るのが見えた。2階に上がって、パソコンで、約2名に向かって「今、うちを通り抜ける。テレビを見よ」とメールを書く。
 一人は「うちのテレビでは生中継をやってな〜い。」
 もう一人は、スポーツ専用の衛星放送でも観てるか
「もう通過しちゃったね」

 居間に降りて行ってテレビを見たら、もう通過していた。あっという間だった。
ヘリコプターが通り過ぎるのを聴きながら、ヘリのペンキはがしを再開した

 チャンプルーズとユーミンをリピート2回聴いて、ペンキはがし終了。

2008/07/12

リシャーの畑

 リシャーは生粋のイギリス人で、カテルはイギリス人とフランス人のハーフ。リシャーの犬は英語しかわからない。2人は、30代後半ぐらいで、この世界ではずいぶん若い自営農家。無農薬野菜を作っている。わらの家を建設中だが、なかなか進まないので、今は農家の横にある、農家とは縁のないカテルの両親の家に居候している。子供が産まれる前は、農家脇の倉庫に住んでいた。そこにはJPが憧れている「水を使わないトイレ」があって、子どもたちはそこで用を足すのを楽しみにしている。
 
 彼らはアマップという全国チェーン(?)の無農薬野菜組合みたいなのに入っていて、私たちはそのグループに年間登録し、定額を払って、季節の野菜を買っている。お金を払っていても、農家に野菜がない時にはもらえないし、野菜が余るほどある時には、食べきれないほどもらえる。去年の夏は冷夏だった。それに続く冬と、腐ったような春のせいで、4ヶ月ぐらい野菜がもらえなかった。それでも文句を言う人はいない。払ったお金はリシャーの損害賠償になるし、農場が動かない間、機械類の整備費に使われる。朝市やスーパーでは手に入らない古代品種の野菜や、外国から入って来た野菜なども、頼めば作ってもらえる。

 会員は、自分用のニワトリを農場で飼ってもらって、卵をもらうこともできる。また、草むしりや、ビニールハウスの設置、その他、リシャーが一人では大変な時には、いつでも手伝いに行くことになっている。そういう時、うちでは、子連れで行って、子供にも畑仕事をさせている。自分で植えて草をむしったニンジンは、大喜びで食べるし、食卓でぐずる時には、リシャーが炎天下で働いている姿や、カテルが雨に打たれている様子を思い出させる。

 今週の収穫は、
葉っぱつきの新ニンジン 1キロ(葉っぱはスープの具か、近所のロバのエサになる。細くて長いニンジンは、皮も剥かずに生でガリガリ食べると、馬のように幸せになれる)
パティソンという古代品種のカボチャ 1個
クルジェット 2本
キュウリ 2本
レタス 1玉
葉っぱつきのベトラブ(葉っぱはほうれん草と同じように使う。ベトラブは砂糖大根と呼ばれるもので、真っ赤で甘い大根。生をすりおろしてサラダにしたり、茹でてキューブにしてサラダ。など)
その他、その辺に生えてた草(ハーブと呼ぶ?食べられるものだけリシャーが選別してくれる)
卵1箱6個入り

 1ヶ月に1回、会員が農場に集まって、交流を深めるためのピクニックが開かれる。ただし外での食事が可能な季節のみ。

わたしは、農場の野菜を使ったベジタリアン巻きずしと、ベジタリアン生春巻きと、桜餅を作った。
桜餅は食紅の代わりに、ベトラブの真っ赤な汁を薄めて使った。麦茶も持って行った。
大好評だった。

 リシャーが、手作りワインを出してくる。

「今晩雨の予報だったので、朝から畑を耕して、長ネギを植える準備をした」
とリシャーが空を見上げている。
リシャーの家のプール(ただの池で、魚も泳いでいるが、家族はそこで泳ぐ)では、カエルの合唱が始まる。
風が吹き、ハエがいなくなる。
女たちが食器を片付け、男たちはテーブルと椅子を片付けた。

 別れる前に、また立ち話が続く。
途中で拾って乗せたメンバーを、彼女の自宅前で降ろし、しばらく続く暗い農道を進んでいると、刈り取られた牧草の広大な畑の向こうに、今は光を落とした、見渡す限りのひまわり畑の向こうに、稲光が見え始めた。
 住宅街に入り、我が家まで100メートルという所で、大雨が降り出した。

 長ネギが天に伸びる夢を見た。



 

2008/07/10

キャンプ




 ノエミは、夏休み、毎年キャンプに行きます。
今年は大西洋沿岸のミミザン・プラージュで2週間。
7月3日にトゥールーズまで電車で送り、よそから来る人たちを合流し、新幹線に乗せて、係りの人に預けて、一人で旅立っていきました。17日に帰ってきます。

 キャンプ場のブログはこちら。
http://www.cvmimizanasma.blogspot.com/

写真もたくさんありますが、ノエミどこにいるか、わかるかな〜。

もうすぐ六歳 ゾエ



 お誕生日は7月の終わりですが、3日から夏休みに入るし、9月からは小学校に上がるので、お友だちとは6月でお別れです。なので、ゾエの必死の頼みに応えて、6月中に、幼稚園のクラスでお誕生日会をやってもらうことにしました。
 幼稚園ではおやつの時間があるので、前もって「お誕生会をやってもらいたいのでおやつを持参します」と言っておくと、先生たちは喜んでくださいます。

 ノエミの時にも作ったので、ゾエにもお菓子の家を作りました。
じゃじゃ〜〜ん
 糊代わりの砂糖がうまくできず、キャンディーなどが上手にくっつかなかった。。。残念。
写真は先生が撮ってくださいました。
2年間お世話になった先生ともお別れです。

ツール・ド・フランス

 恒例の、自転車ロードレース

 テレビでアイススケート以外のスポーツを観るのは、全然私の趣味じゃない。
でも、フランスでスポーツ大会があれば、日本の人たちにフランスの映像を見てもらえるし、日本でサミットがあれば、フランスの人たちに日本の映像を見てもらえるので、わたしもたまにはメディアを利用させてもらえるのである。

 さて、ツール・ド・フランスだ。(フランス人はトゥオ〜・ドゥ・フランスと発音する)
去年も近くを通過していたようだったが、今年はなんとカーモーの目抜き通りを通過する。
さっき、買い物に行ったら商店街の人が「交通規制があって、商売上がったりなので、今度の土曜日は店を閉めます」というので、なんでかと思ったら、自転車軍団が通過することだった。

 7月12日、土曜日の現地時間で13時から15時の間ぐらいということなので、日本では夜の10時頃以降。
この日《Etape 8》のコースは、Figeac から Toulouse までの172.5キロメートルということらしい。
http://www.letour.fr/2008/TDF/COURSE/fr/800/etape_par_etape.html

 この地図によると、私たちが住んでいるカーモーCarmauxは、一番下の緑色5番のところ。

ブレイ・レ・ミンBlaye-les-Minesにレストランマークがついているので、炭坑あとをスポーツ施設に改造したキャップデクベートという公園で、お昼休みとなっているのに違いない。

 そのあと、ワインのおいしいガヤック、チョコレート屋さんのミーさんが住んでいるリル・シュル・ターンを通過する。ミーさんは自転車ファンなので、テレビを見ていたら、路上で選手を応援するミーさんの映像を捕らえることができるかもしれない。

 続いては、ネクトゥーさんが住んでいる、モンタストゥリュック・ラ・コンシエーも通過する。この辺は今ヒマワリが満開で、トウモロコシもぐんぐん伸びた広大な緑色の畑が広がっているので、きれいな田園の風景を見ることができると思う。

 そして、夜はトゥールーズに到着するらしい。
トゥールーズの市役所はキャピトルという広場にある、だだっ広いスクエアになっているところ。派手なレンガの建物が、とっても魅力的な街だ。トゥールーズの人は普段はみんなラグビー・ファンということになっているけれども、土曜日には、自転車ファンに変身するんだろうなあ。

それでは、日本の皆様、テレビでカーモーをご覧ください。
(わたしは人ごみが苦手なので、路上には立ってないと思います。。。)

2008/07/08

かみしめる せんべい

 日本の友だちから、小包が届いた。

 予告つきだったので、小包が届いたことには驚かなかったけれども、SAL便で送ったものが5日以内で届くとは、驚きの早さだった。
 ちょうど暑くなったところだったので、《ミネラル麦茶》はうれしい。さすが、てー様。感謝デス

 おおっ。これに見ゆるは《たこ焼きソース》。しかも3本!
(《♪あれに見ゆるは〜 おはらは〜 桜島〜♪》をもじってみた)

 空港の持ち物検査で、うかつにも、機内持ち込みの小さなスーツケースに、おたふくのお好みソースとたこ焼きソースを入れてしまい、名古屋の空港で「すみませんけど、これ、持ち込めませんよ」と、ほんっとーにすまなそうな顔をされた。液体はいけないって言うから、できるだけドロドロのソースを選んだ。これで完璧だと思ったのに、荷物検査のレントゲンには《どろどろ》も《さらさら》も瓶に入った液体に見えるらしい。セントレア空港のゴミ箱に消えた、あの、無念のたこ焼きソース。友だちの友情と愛情にどっしりと重い、ソースが、今ここに、再現されたのだあっ。

 そして、そして、てー様の小包でいつも何が一番幸せかというと、それは《おせんべい》

 おせんべいが好きだ。
丸一日、唇が塩でびりびりにしびれても、食べ続ける自信がある。

 せんべいを丸一日かじり続ける。。。。。。

 それは夢〜。そんな贅沢は20年ぐらいやっていない。

 2月に雪で凍結した日本に到着したあの深夜。24時間態勢で働いていることになっているわたしであったが、実はホテルを抜け出し、ホテル近辺の滑る道を、ひたすら歩き、やっと見つけたコンビニでせんべいを買った。
 ゆずの香りのお風呂に浸かりながら、せんべいをかじるという。。。まさに夢のような日本での第一夜。お風呂じゅうに《ガリガリ。バリバリ》が響き渡り、頭の中も《バリバリ。ガリガリ》しか聴こえなくなる。わたしはこうやってねじを巻く。

 せんべいの袋を開けるのは、大変な勇気がいる。何たって、12000キロメートルもの彼方から、わたしのためにせんべいはやってくるのだから、どんなにおいしくても、食べ方も味もわからないフランス人なんぞには、分けてあげられないのであるからして、それぐらい貴重なのであるからして、記念日にこそ、せんべいの袋は開かれるべきなのだ。

 が、しかし、欲望のおもむくままに、記念日も待たず(例えばもうすぐ結婚記念日だってことを、今、おもむろに思い出してしまったが)袋、もう、開けてしまったのである。

 袋はびりびりに破いてはいけない。
 これより、ちびちび時間を掛けて消化するとの前提であるから、湿気に気をつけねばならない。なので、袋の明け口は、できるだけ小さく、わたしの手が入る程度にする。(こうしておけば、JPの手は入らないし)
 さて、袋の中を遠くからみつめ、できるだけこんがり焼けているおせんべい、割れてないおせんべいを選ぶ。

 割れていないおせんべいを選ぶのには訳がある。

おせんべいは、丸かじりしてはいけない。

 小袋に入っている場合、ギザギザの右から3番目辺りを縦にそっと割く。
おおっと、ここで、焦って、おせんべいを小袋から出してしまっちゃ〜いけない。
気を沈めるのだ。
 おせんべいは、お餅同様、慌てて食べたら危険な食べ物である。落ち着くのだ。
麦茶ぐらいは用意しておいたほうがいい。食卓では何があるかわからないので。なにしろ、餅同様危ないんだから。

 丸いおせんべいを(四角いおせんべいは、おせんべい失格)まずは、小袋の中でまっ二つに割る。(羽衣あられに関しては、四角でなければ失格)できるだけカラッとさわやかな音を立て、できるだけクズを飛び散らさないようにすべし。

 ふたつに割ったおせんべいを、小袋の中で、くりっと回し、半分を半分に割る。
おせんべいは4分の1ずつ食べるのが正しい。
でも、おせんべいをきっちり4分の1に割るということは、長い修行を積んだ者のみに許される究極のテクニック。わたしはまだまだ修行が足りないので、たいていの場合は、小袋の底に木っ端ミジンなクズが残ってしまう。
 誰も見ていなければ、小袋を逆さまにして、口に流し込み、たいていの場合はむせて、麦茶にお世話になることになる。
 これを《育ちが悪い》という。

 ついでにいうと、親指と人差し指の先に残った塩は、ちゃ〜んと舐めなければ、おせんべいを食べ終わったとは言えない。いちおう、こういうことも、《誰も見てない場合》ということになっているが、《育ちが悪い上に、お行儀も悪い》人間は、《つい》やってしまう。おせんべいを食するにあたって、気を抜いたら恥をさらすのである。

 人目を気にしておせんべいを食べるのは、味や風味を見落とすことにもなりかねないので、やっぱり、人目のないところで、のんびり、こっそり、けれどもできるだけ豪快な音を立てて食べるのが、おせんべい。

 おせんべいは、できるだけ硬いのが、よい。

って、いつも言ってるのに、てー様は、今回、小包に《ぬれせんべい》まで入れてくださっていた。
わたしへの挑戦だろうか?
《ぬれせんべい》なんぞというものは、20年前には誰も語らなかったのではなかろうか?
 ただでさえ肉食ヨーロッパ人に較べると、アゴの筋力が弱いというのに、イマドキの日本人はおせんべいまで《ぬれせんべい》傾向とは、日本文化の明日も危ないというもの。嗚呼、悲しいねえ。

 2月に彦根のコンビニで、《こんがり焼けた色黒のおせんべい風》な絵に魅せられて、つい買ってしまった大きい袋がこともあろうに《ぬれせんべい》だった。湿ったせんべいなんぞ、せんべいじゃないっ!と叫んでしまった。もう二度と買うものかと誓ったのに、ああ、誓ったのに、《ぬれせんべい》が、12000キロの彼方から、我が家にやって来た。

 塩せんべいが終わったら、今度はぬれせんべいが待っている。できるだけ時間を掛けて塩せんべいを味わうとしよう。
ああ、どうしよう、食べたいけど、食べたくない。食べたくないけど、食べたい。
まがりなりにもせんべいなので、見ていると、やっぱり食べたくなる。塩せんべいの袋も、どんどん小さくなっていく。

 次の記念日は、ぬれせんべいか。
でも、結婚記念日にぬれせんべいなんて。。。ちょっと縁起悪い?
 4分の1にきっぱり割ろうにも割れない。しっとりネチネチな13年目の結婚記念日。この数字まで不吉?

 とりあえず、まだ来ぬ記念日のことは忘れて、おせんべいの4分の1修行に励む。

麦茶とおせんべい。。。もうなにもいらない。
子供もいないので、食べ放題だあ〜〜。残してなんかやるもんかあ〜。