2009/02/28

ミーさんのお仕事




 ミーさんのチョコレートはアルビで作られ、名古屋に送られる。ちなみに、日本で「フランス・ショコラティエ」と呼ばれ、高いチョコレートを売っているお店の多くは、チョコレートやケーキを日本で作らせている。

 ミーさんはチョコレートを日本に送る際、一部をアルビの工房に保管する。それから更にその一部を、工房外の、食品を保存するには悪条件と思われる場所に放置する。そうして、賞味期限の切れたずっと後まで、そのチョコレートたちがどのように変化していくか、その行方を観察する。

 空輸されるチョコレートたちは、運搬中の乗り物の中で、揺れや気圧の変化、温度の変化にさらされる。名古屋とアルビでは湿度が全く異なる。そのために、ミーさんは、自分の作ったチョコレートを悪条件の中に置き、その変化を観察する。ミーさんのチョコレートは砂糖をほとんど使わず、それはつまり、チョコレートを長持ちさせる、ひとつの保存料が少ないということだし、また、人工の保存料は一切入っていない。使われている原材料はできる限り自然に近いものを使い、工場での大量生産で作った板チョコのように、何年も保存食としてカバンの中に入れておくことはできない。チョコレートは冷蔵庫で保存してはいけない。だから、できるだけ早くに食べたほうがよい生鮮食料品と同じだ。

 ミーさんと初めて日本に行ったときに、彼は数週間前に空輸したチョコレートを食べさせてくれと頼んだ。展示用に事務所に置かれていたちょっと埃っぽいチョコレートを、かまわない、といって、丁寧に二つに切った。
中のガナッシュは指定の賞味期限を大きく過ぎていたにもかかわらず、痛んでいなかった。作る時に、できるだけ気泡を作らない、つまり、カビの発生原因となる空気を含ませていなかったということ。切れ味も美しいが、肝心のお味は、作った時とほとんど同じ状態を保っていた。(もちろん工房を出るその時に食べるチョコレートが最高)

 テレビの取材が来てくれたおかげで、私まで制作の様子を見る機会が何度もあった。テレビが来ない時でも、チョコレート工房に寄り道して、チョコレートをもらって帰ることもある。工房はいつ行っても清潔で、働く人たちの動きに無駄がなく、原材料は吟味され、最高のものが使われている。だから私は、このチョコレートの値段にも納得しているし、味を見込んでファンであり続けたダニエル一家の選択に、大変満足している。子どもたちには、もう変なチョコレートは与えられない。

 東海テレビの「スタイルプラス」という番組で、2月8日にミーさんの話題が20分報道された。スタッフからDVDをいただいて、大阪駅構内のレストランでそれを拝見した。撮影隊が来た時に年に一度の大雪で、暗い空しか撮影できずに残念がっていたら、最後の日におひさまが出て、輝くアルビの町を撮影することができた。朝早くに起きての密着取材や、時間をかけて撮影したチョコレートの映像を、すべて見るには20分は短すぎたが、とっても良くできた番組だった。

「ミーさんはすごい、ミーさんのチョコレートはおいしい」と、ひたすら宣伝するような番組ではなく、チョコレートにかける思いや、自然と愛情の中で生まれるひらめき、チョコレート作りの真剣な様子が、たっぷり表現できていたのではないかと思う。テレビ撮影隊の若い人たちの、素晴らしいチームワークがにじみ出ていた。

 あの番組を、だれかYOUTUBEか何かに登録してくれたらいいなあ、と思って、楽しみにしている。今回は吹き替えではなかったので、ミーさんの生の声も聴ける。バッグで私の声もちょっとだけ聞こえる。

 名古屋では、「テレビを見て感動したから、買いに来ました」という人がたいへん多かった。本当に、とても良い番組だった。
それにしても、名古屋の人っておもしろい。この話しは次回。。。




  
 

2009/02/27

わたしのおシゴト

 なぜ「片仮名」で書いているかと言うと、ちょっと照れくさいから。
じつは、わたしは日本語教師になるための勉強をして、20年以上外国人を相手に日本語教師をやっていて、今もかわらず日本語教師だ。
日本語を教えている商工会議所に、日本人通訳の要請が入り「通訳ができるかはわからないが、日本人なら、いる」というわけで、わたしの電話番号がミーさんに渡された。

「ボンジュ〜・マダ〜ム」
ある春の日にミーさんが電話して来た。
 商工会議所の人から、ミーさんから電話があるかもと連絡を受けたいたので、滅多に電話のなることのない昼下がりに電話が鳴った時に「ミーさんだっ!」と思った。
 だから相手が「ボンジュ〜・マダ〜ム」「わたしの名前は。。。」と言い掛けた瞬間、名前も訊かずに、知ってる人への挨拶みたいに「ボンジュー・ムッシュ」と元気に答えた。その時、電話の向こうで相手が大きく微笑んだのが見えたような気がした。

 ミーさんは、わたしのことを知らずに電話して来たが、わたしはミーさんのことを何年も前からよく知っている。ミーさんのチョコレートとは、今のところに引っ越して来た5年ほど前からの付き合いで、JPは毎週ミーさんのお店で275グラム入のチョコレートを買っていた。クーベルチュールがブラックチョコレートのが我が家の定番で、275グラム入りのボックスには45個ぐらいが詰まっているのだが、だいたい3週間ぐらいでゆっくり食べる。
 ミーさんの作るチョコレートがどんなにおいしいかは、今では6歳になったゾエにまでよくわかる。

 ミーさんのお供をしての日本でのおシゴトは2007年の9月、2008年の2月、同年10月と、今年の2月と、これで4回目となった。そのおシゴトの内容は、じつは「食べ歩き」ではない。

 いちおう通訳、ということになっているが、ミーさんが我慢強いから首が繋がっているようなもので、わたしはビジネスの世界での語彙も少なく、経済のことはまったくわからず、しかも数字にも超!弱い。商売についての話し合いの席で、「ニジュウヨンオクって、0いくつでしたっけ?」とか、「1ユーロ130円だから、5万ユーロはええと。。。」などとやっていて、お話しにならない。今回は、見かねた《あーさん》が、10ケタまで打ち込める計算機をプレゼントしてくれた。それではボタンひとつで円とユーロが変換できる仕掛けもついている、なかなかの優れものだ。
 ほかにも、電子辞書やノートパソコンや、携帯電話なども常備しているべきが、有能な通訳なのかもしれないが、通訳業は半年に5日間ぐらいしかやらないし、日本でいただいた報酬は、日本にいる間に使い果たすので、まだ電子辞書も持っていない。辞書も持たずに仕事に出ているので、《あーさん》からは「みのりさんは、どんなフランス語の単語でもわかるんですか」と訊かれる。

 でも、このたび、いただいた報酬で、めでたくノートパソコンを購入したのであるっ!
仕事が終わるまではお店に行く暇もないし、報酬もらうまでは小銭さえもないので、パソコンはシゴトが終わってからようやく買ったために、シゴトでは使えなかった。
 
 今回もミーさんはハードスケジュール。バレンタインセールでにぎわう催し場でのサイン会や写真撮影、握手会のほかに、今回は特に、ファンミーティングも行なわれた。お客様を特別な部屋の一室にご招待しての、そのファンとの集いが、わたしにとっては数ヶ月前からのストレスで、ミーさんに台本を書いてくれとまで頼んで準備をした。本番では緊張して顔はこわばるし、たまに自分でもなにを言ってるかわからなくなることもあり、さんざんだった。でも、ミーさんはそういったお客様とじかに触れ合う時間が、いつもとっても楽しそうだ。

 ミーさんのところで修行をしたことのある人や、講習を受けたことのある人たちが訪ねてくれると、それはそれはうれしそう。毎年受け入れている日本人の研修生たちの多くは、フランス語もわからずにやって来ることが多いので、個人的に親しくなる時間がないまま、帰国の時期を迎えてしまう。帰国した研修生たちの多くは、言葉の壁もあるだろうが、連絡して来ないことが多い。近況を知らせない。年末年始の挨拶をしない。2度と訪ねて来ない。そういう人が多い。
 フランスは遠い。職人の世界は厳しい。言葉の壁は厚い。そんなこと、ミーさんはよくわかっているので、連絡して来ない昔の教え子たちのことを恨んだりしない。こうやって師匠自ら日本に出向き、再会が叶うなんて、みんなどんなにうれしいだろう。わたしは訪ねて来る人たちに、自分はミーさんのご近所に住んでいて、いつでもミーさんへの手紙を翻訳してあげられるので、遠慮しないで、ミーさんに手紙を書いてくれるようにと言う。旅立った教え子たちの行方を気にしているミーさんのために、みなさんが活躍している様子をぜひ教えてあげて欲しい。

 と、こんな雑用も加わって、ミーさんとのおつきあいは、日本でのバレンタインセールがすぎたらおしまい、ということではない。フランスに帰ってからも、たびたび電話やメールの交換をする。時には呼ばれてチョコレートの工房に出て行く。ファックスやメールの翻訳をする。テレビの撮影隊が来たり、取材や質問も入る。日本のビジネスマンをどうやったら傷つけずに、それでもガンと叱りつけてやるにはどうしたらいいだろうかと相談もされる。

 日本にいる間にラグビーのヨーロッパ大会で、フランスが勝ったのかどうかをとっても気にしていたミーさんだったが、それにはこたえてあげられなかった。今朝ラジオで、「フランスがペイ・ドゥ・ガールに勝った」と伝えていたので、ミーさんにメールで「おめでとう」と書いた。パソコンの前でにやけているミーさんの顔が見える。

 長いおつきあいができたらいいなと思う。


 

2009/02/26

巨匠のご到着



 ミーさんご到着である。
東京でお世話くださる《あー》さんが、御殿山のホテルに迎えに来てくださった。
「みのりさんとミーさんのお世話は楽しく、わくわくいたします」といきなりコクハクされ、わたしも「では、また今回もよいレストランに連れて行ってくださ〜い」と図に乗ったことを言い、この前のテレビ撮影隊のことや、このごろのJPについて語り合いながら、あっという間に成田空港に着いた。


 ミーさんは飛行機の中で睡眠薬を飲み、爆睡しているらしいので、いつもけっこう元気だ。
お昼は《あー》さんの思いつきながらも、銀座のフレンチを食べにつれて行っていただき、夜はミーさんと《あー》さんの共通のお友だちパティシエと合流して、六本木のフレンチだった。
 わたしは個人的には、日本に帰ったらきつねうどんとか、カレーライスとか、お好み焼きとか、ラーメンとか、そういうものを食べたいのだけど、いまやミーさんは舌の肥えた巨匠であり、ン10年前にまだ若かりしただの職人だった頃に、ラーメンやらきつねうどんは体験済みなので、やっぱりフレンチじゃなければカッコつかないのである。日本のレストランには、フランスでは手に入らないようなものも、ある。しかも、信じられないぐらい高いボルドーやブルゴーニュのワインを外せば、思いのほか安く飲めるワインがいっぱいある。(それにしても信じられないぐらい高いけど)

 日本のフレンチのレストランは、どこもすばらしい!ほれぼれする!
フランスで星付きのレストランに行ったのは数えるほどなので、本当はどうなのか謎だが、日本のフランス料理店で働く人は、フランス語がわかる人も多いし、フランスで勉強したことをきっちり応用しているし、それに付け加えて日本人の繊細さや器用さが、お皿の上で輝いている。しかも、味はちょっぴり日本人好みになっているし、サービスの人たちの教育も、ソムリエの腕前も、たいしたものだっ!と、ミーさんも言っている。

 フレンチなのに、わさびやゆずや抹茶が取り入れられているのも、愉快だし、フレンチなのにフランスでは捕れないお魚が出て来るのも、おもしろい。

 ミーさんが車とか薬を売っている人だったら、わたしの旅行はちっとも(文字通り)味気なかっただろう。《あー》さんは、レストラン探しに頭を悩まさなくてもすんだだろうし、食費ももっと軽くで済んだかもしれないが、ミーさんは自分でレストランも経営している人なので、下手な料理ではうなづかない。《あー》さんのレストラン選びにも気合いが入っている。

 ミーさんは通訳のわたしにも「喋ってないでさっさと食べろ」としょっちゅう言ってくれる。
普通、通訳は食べないで喋ってるものなので、サービスの人もそれを心得ていて、通訳のお皿は、どんどん下げて、次々出さねばならない。こちらはちゃんと気を遣って「下げてください」と言わねばならない。
 でも、わたしが注がれたワインを飲まずに「下げてください」というたびに、ミーさんは「そういうオンナはむかつく」とか、「これを食べないで、フレンチを食べたと言うなヨ」などと、わたしをどやしている。
 そしてわたしたちは、接待の食事の合間に、お肉の焼き具合や、サービスの善し悪しや、グラスの形や、デザートの味について、意見交換をしている。

 ミーさんがわたしに通訳としての報酬を出してくれているわけではないのに、ミーさんは、「日本人はああ言っているが、本当のところはどうなんだね?」とか「ここでうんと返事したら、どういうことが起こるんだね」などのほかに、「今日は機嫌が悪いから、相手の日本人にちょっとわがままを言ってやりたい」など、(わたしを困らせたいんだな〜、このヒト)と思うようなことも言う。
 都合がいい時には「わたしはあんたより年寄りなんだから」や「わたしの方が経験豊かなんだから」などと言い、「もっとはやく歩け」と言ったかと思うと、「あんたはなんでいつもそんなに走ってるんだ?」とか、「なんできゅうに日本人女性みたいになるんだ?」と言う。

 ファンの前に出る時に、「わたしの頭はボサボサじゃないかな」などと気軽に聞くので、じつは「いつもぼさぼさじゃん」と思いつつも、わたしが「ミーさんはどんな格好をしてても、いつもとってもハンサムです」と言うと、いきなり照れて赤くなる。
 疲れた疲れたというので、「肩を揉んであげましょう」などと言うと、「わたしは妻を愛している」などと、ちょっとピントのはずれたことを言う。

 去年の2月には、インターネットでミーさんの名前を検索しても、彼のことを書いている人は、わたし以外に2人だった。けれども、本日ミーさんの名前を片仮名で検索したら、198000ものサイトが出て来た。びっくりした。
 日本で沢山の、沢山の、ミーさんファンに会った。
ミーさんは、ファンのみなさんと握手をして、写真を撮って、おしゃべりをした。とっても喜んでいた。
 日本人女性の多くは控えめで、手も差し出せない、声も掛けられない、目も見れない。。。という人もたしかにいたが、わたしはできるだけそういう人にこそ声を掛けて、「何かお伝えすることはありませんか」とうながしてみた。

 「XXのチョコレートが好きだった」「去年も食べた」「今年はじめて」「お父さんにあげる」。。。女の子たちのどんな言葉も、すべてとっても嬉しそうに聞いていたし、家族づれや、子供や、男の子が来ると特に喜んでいた。
 来年は、ファンのみなさんが、もっとそばにきて、わたしに「ちょっと通訳してもらってもいいですか?」と言ってくださることを祈る。そうしてくれたら「働いてるのは自分だけだ」とミーさんに言われることもなくなるだろう。

 じきに、ミーさんの、今あるフランス語のサイトを、日本語に翻訳させてもらおうことになっている。報酬はチョコレートということになっているので、がぜん張り切るのヨ〜〜。
 

 

2009/02/24

ツキを呼ぶ感謝のことのはブログ について

 日本でお会いした数人の方々から、《ツキを呼ぶ感謝のことのはブログ》をやっていた、友人《か》は元気だろうか?との質問を受けた。毎朝うちのブログに来てくださって、うちのブログを読む前にまず、《ことのはブログ》をチェックし、元気を出してから、再びうちのブログに戻って来る。そうやるのが朝の習慣だ。。。などと言ってくださる方が、けっこう居る。

 それだったら「ことのはブログ」の方を「お気に入り」に入れてくれたら、いつもまっさきに元気出るのに。。。と思うのだけど、みんないちおう「わたし、みのさんの方の友だちだから」と義理堅い。
 友人「か」は古郷の同級生なので、たぶんあなたの「同郷」のものであり、「同級生」かもしれない。だから、遠慮しないでどんどんツキを呼んでもらったらいいのだ。

 ところで、彼は元気。
2月6日の夜に会った。般若心経の写経セットをもらった。欲しいと思っていたのでとってもありがたかった。

 10月に帰った時には、彼と二人で秩父のお地蔵さんを観に行った。
彼は混雑する朝の池袋駅でわたしを待っていた。
 黒いスーツを着た顔色の悪いサラリーマンが、波を作って流れて行く中、彼は青いウィンドブレーカーに、かさ地蔵みたいなかさを頭の後ろにぶら下げていた。
 そして、赤い目と赤い鼻をして、ハンカチで涙を拭きながらわたしを待っていた。
 「風邪引いたの?」とわたしは言った。

 彼は朝早くに自宅を出て来てくれたらしく、朝ご飯を食べていないから「あそこのお店で弁当を買おう」と言った。
でも、真っ黒いスーツを着た顔色の悪いサラリーマン集団の波が、まるで一方通行のベルトコンベアーみたいに、ガーッと目の前を走っていて、わたしには「あそこの店」がナイル川の向こうに見えた。

 10年以上も、こんな東京の真ん中で人波にもまれていた人間は、やっぱ違う。ベルトコンベアーをまたいで、人波にぶつかることも無く、忍者が飛び石を渡るごとく、シャシャーと向こう岸にたどり着く。わたしはというと、波に揉まれて、ちょっと流された先のほうで、ようやく岸にたどり着いた。

 弁当が手に入ると、晴れやかな気持ちになって、いそいそと秩父行きのホームに立つ。リュックサックに首の後ろにはかさをぶら下げている我が心の友《か》の勇姿を見ながら、「みんなうらやましがってないかな〜」と思って辺りを見いたが、《か》の怪しげな出で立ちを怪しく思っているような人間は、池袋駅には居なかった。
 誰かがどんなことを考えているだろうかと、辺りを伺っている人間は、わたしぐらいだった。みんな、前の人のかかとを見るともなく見ていて、ただ、ベルトコンベアに流されて改札口にむかって行く。

 《か》の鼻水と涙は、秩父の手前の小さな駅に降り立った時にピタリと止み、夕方池袋駅に戻って来た瞬間に、いきなりぶり返した。変わった体質、、、素直な体質(?)のオトコだ。彼は繊細なのだ。

さて、秩父の写真




 
 
 その10月に、彼から打明けられたことがあった。
「彼はお元気でしょうか?」の質問の嵐で、まだ、彼のファンには教えていなかったことに気づいたので、今日慌ててお知らせする。

 彼は元気。でもちょっと引っ越したのだ。
http://ameblo.jp/cocoro358/
「人は誰もが幸せになるために生まれて来たんです」という、とってもアヤシゲなタイトルがついている。
わたしのこのサイトでも、右上の「幸せになるために生まれた」というところをクリックしていただけば、リンクできるように設定したので、ぜひ、訪ねて欲しい。書き込みも、前よりたぶん簡単。

 昨日のわたしの奇跡を起こした「斉藤一人さん」という人を教えてくれたのは誰だったかなあ?と思っていたら、やはり「ツキを呼ぶことのはブログ」だった。
 このごろスピリテュアルがはやっているので、あやしげなサイトもいっぱいあるのだろうが、感じ方や、考え方、人のものの見方や、ものの受け取り方の違いや、経験や実績について、できるだけ沢山の人の話を聞きたいと思っている人間なので、友人《か》に限らず、必要に応じて素直に人の意見を訊くことにしている。悪いことじゃないと思う。

 この前大阪で会った従姉妹たちが、青い石のついたブレスレットをくれた。そういう怪しげなものが好きな従姉妹たちだと、前から思ってはいたのだが、わたしもけっこういろんなことを天に任せる今日この頃なので、ありがたくちょうだいした。
「で、なんに効果があるの?」と聞けば、従姉妹はこう答える。
「試練に耐えられるように」
ええ〜。もうこれ以上試練はいらないよ、と思っていたのにい〜。

おかげさまで、試練を乗り越え、無事に戻りました。。。ってことで、効果ありか!?


 ぜひ、「幸せになるために生また」も訪ねてください。

2月6日 成田へ到着






 我が家からカーモー駅まで車で連れて行ってもらった。
カーモーからトゥールーズの駅までちょうど1時間。
トゥールーズの駅からトゥールーズの空港までバスで20分ぐらい。
トゥールーズ空港から、ドイツはミュンヘン空港まで約1時間半。
ミュンヘンから成田まで約11時間半。

 ドイツの空港で遅れが出ていたので、成田に着くのも遅れるだろうと思ったら、やっぱりそうだった。
荷物の受け取りや携帯電話のレンタルに手間取っていたら、乗る予定だったバスにも乗り遅れ、「お昼いっしょにどう?」と言ってくれていた《やっさん》に「お昼いっしょにできない」と電話する羽目になった。15時にはまた別な約束もあったので。

 リムジンバスでホテルに直行。乗り換えも無く安心だった。ホテルは《やっさん》に取ってもらった。御殿山の、わたしナンゾにはもったいない良いホテルだ。でも、ここは《てーさま》との思い出の場所だし、やっさんの職場の下で会うのにもたぶん便利だと思った。方向音痴のわたしには空港からホテルまで直行のリムジンバスがあるのもいいし、「1回泊まったことのある場所」というポイントはかなり高い。お金には換えられない快適さを求めると、お金が掛かる。旅行中はそういうことばっかりなので、お金がないと旅行ができないっていうのは身に沁みてよくわかる。

 疲れすぎていて、15時の約束はけっこうどうでも良いような気になってきた。どうせやっさんは上で仕事してるんだから、ちょっと電話して、おりて来てもらってお茶でも。。。と思ったのだが、部屋に入ってお風呂を見たら、湯船に直行してしまった。ながなが時間を掛けて疲れを取り、ついでにお風呂の中で寝てしまい、15時の約束には大幅に遅れた。

 15時の約束は、フランス人の剣道仲間の《JJさん》。JJさんは、わたしと逆で、日本人女性と結婚していて、日本に住んでいる。日本語はペラペラで、彼の剣道も日本人を見てるみたいだ。流鏑馬(やぶさめ)の衣装がとってもよく似あい、頭の形もまるで日本人。それで、わたしたちは霞ヶ関ビルの31階で、おいしいエスプレッソコーヒーを飲んで、共通のお友だちであった《てーさま》や、剣道範師の佐藤先生について語り合い、バカを言って、不景気について語り、JJさんが発行している歴史の雑誌を見せてもらったりしているうちに、時間はどんどん過ぎてしまった。

 で、16時の約束はすっぽかし(じつは、相手の都合が悪くて、約束の場所にはいなかったらしいので良かった)、18時頃とお約束していた武蔵境の《てーさま》の実家に、19時半に到着してしまった。相変わらずはた迷惑な人間だ。

 《てーさま》の位牌があった。ご両親のお隣に座っていた。かわいらしい結婚式の写真があった。《兄じゃ》も相棒の《いぬやまさん》も揃っていた。姪っ子ちゃんは美しくおきれいな女性に成長していて、《おねえちゃん》はすっかりやせてほっそりしていたけれども、前と同じように温かいお茶を出してくださった。いなかったのは《てーさま》だけだった。
 
 寂しいけれども、残念だけれども、みなさんのお話を聞いていると、壮絶に、けれども安らかに、「自分が死ぬ時にはこんな死に方ができたらいいな」と、もしかしたら《てーさま》が誰かに語っていたかもしれないような、そんな最期だったらしい。ご家族はみな平穏なお顔をしていて、《てーさま》はきっと心を残すことも無く、ただ、おそらく想いや思い出や愛情や何かしらの《教え》をわたしたちに残しておいてくれたのかもしれないけれども、わたしは、その家に《てーさま》がフラフラさまよって、うろうろしている姿も、そんな 気 も、いっこうに感じられなかった。

 彼女はもういなかった。きれいさっぱり、もうそこにはいなかった。逝ってしまっていた。だからわたしはとっても平穏な気持ちになった。ご家族に会いに行けてよかった。ここにもわたしたちの帰る場所があったと思わせていただいた。《てーさま》の身体が帰らない代わりに、こうやって、思い出をしみ込ませた誰かが、たまにあそこに帰って、家族といっしょに思い出を語り合うのも、《てーさま》の里帰りになるのかな?と、ちょっとだけ勝手なことを思った。

 ほんの少ししかいられなかったけれども、佐藤家のみなさんに温かく迎えられ、温かく見送られ、わたしは友人たちの待つ場所へと向かった。

 彼らもまた、そこにいた。この前いっしょに秩父の地蔵尊巡りをやった友人《か》も、《クマさん》も、《ピースくぼた》もいて、みんなで乾杯した。《やっさん》は遅れたけれどもやっぱり来てくれた。

 明日から仕事なので、いつもよりも早い時間に解散し、ホテルまでやっさんと歩きながら、古郷のかあちゃんについて、さんざん語り合った。古郷のかあちゃんには、おたがいに心痛めているのである。これでも。でも、ここ数年のかあちゃんのおかげで、ここ何十年もろくに古郷を振り向かなかったわたしたちが、あそこに引き戻されているのだから、ありがたいものヨ。

 やっさんはお正月に自家用車で東京から鹿児島まで里帰りをした。なんと18時間もかかったそうだ。わたしなんか、東京よりもずっと近いところに住んでいるんだなあ〜と思った。

 指宿は、いやはや、まことに地の果てだ。日本に帰り着いたのに、指宿はまだまだ先。。。

とりあえず、明日からシゴト〜〜。

2009/02/23

拝啓

 フランスに戻りました。いっやあ〜、寒いです。
日本には2月5日に出発し、2月7日から13日の朝までおシゴトをして、その昼からフリーとなり、21日にトゥールーズに戻って来ました。詳しくは、おいおい書き連ねて行くとしますが、日本でお会いできたみなさん、お世話になったみなさん、会えなかったけど声だけは聴けたみなさん、本当にありがとう。うれしかったです。
連絡できなかった方、すれ違いになってしまった方、待っていてくださった方、本当にごめんなさい。

 また、がんばって帰りますので、その節はどうぞよろしく。

 子どもたちは元気です。
ノエミは冬休みの宿題を終えておらず、いきなり母に怒鳴られました。ずいぶん身長が伸びたように思いますが、さすがにお土産に買った25センチの靴は大きすぎました。
ゾエは二本目の乳歯が落ちて、変な顔になっています。髪もぼさぼさに伸びて、不憫でした。くっつき虫ですが、かわいいもんです。
子供たちはやせ細ってもおらず、風邪も引いておらず、五体満足、本日から新学期、元気に学校に行きました。

 わたしは、名古屋での最後の夜に、ホテルでメールを見ることができたのですが、そこでひどく悪い知らせを受けてしまい、最後の夜と、ふたつの飛行機の中での合計14時間近くを、不安と緊張の中で過ごしました。

 鹿児島で何気なく手に取って買った「佐藤一人さん」の本を飛行機の中で読みました。その中で「ついてる」と1000回唱えたら良いことが起こるというお話があり、普段はそんなことはぜんぜん信じないわたしなのですが、その時は例の悪い知らせに絶望的になっていたので、飛行機の中で「ついてる」と1000回唱え、帰宅してからも布団の中で1000回唱えました。
 そうしたら、数日前に受けた悪い知らせがもたらした、その大きな問題点が、本日一気に解決したのです。我ながらびっくりしました。どうしようもない問題だと思っていたので。飛び上がって喜びました。「ついてる」と叫んで、涙まで流してしまいました。

 自分はいつもついてる人間だと思っていましたが、いや、本当に、こんなについてる人間とは思ってもいなかったので、このおまじないの不思議な力に、ただただびっくりするばかりです。

 実家で母に「便器の蓋を閉めないと、うんが逃げて行くよ」と言われ、そのせいで、便座の蓋がおりていないことがやけに気になりだし、うんが逃げないようにせっせと気を使い始めた、この数日間の自分の心がけも、大きく力を貸してくれたのかも、しれません。

 とにかく、乱気流に巻き込まれることも無く、無事に我が家に戻りました。
「佐藤一人さん」が本の中でおっしゃっている、「目の前の人を大切にする」ということを、深く心に刻んだのであります。
取り急ぎ、無事帰宅のお知らせと、もろもろのお礼まで。

みなさんお世話になりました。また会う日まで。


みのり

2009/02/04

帰国予報

 そろそろバレンタインなので、帰国します。
 2月5日に成田着で、この日は、10月に逝ってしまった《てーさま》のあしあとを求めてさまよう1日となりましょう。

 6日から13日の朝まで、ミーさんと嵐のような日々となりそうです。
新宿、日本橋、横浜、名古屋、大阪、京都各地に低気圧とともに出没予定です。
たまにミーさんの雷も落ちるでしょう。

 13日には、大阪の出版社も襲撃したいと考えております。
翻訳はぜんぜん進みませんけど。。。本当はこっちが本職の筈。。。もっとこの辺に停滞せねばなりません。
大阪では従姉たちや20年以上ぶりの同級生も、待機しています。

 14日から19日まで、指宿の実家に上陸予定ですが、その間に日帰りで、大分と、別な日にまた日帰りで種子島まで、突風をまき散らすこと間違いなし。

 20日、再び名古屋に向かって北上し、そのうち電池切れで、いくらわたしでも勢力を弱めながらーーー

 21日、涙なみだのお別れとなるでしょう。
荷物の重量制限にご注意ください。

 子どもは7日から21日まで冬休みなので、ナルボンヌの実家に預けます。
JPは、花の独身生活突入にて、わくわくしております。

 日本のみなさん、暴風雨のほか、地震と台風にもご注意ください。
上陸の際は、戸締まりしないで待っててね〜。
どうぞよろしく。

2009/02/02

おかげさまで ついてます

 たんこぶはすっかりなくなった。
 頭痛が続いているのは、低気圧と、おそらく疲れ目のせいだと思う。
老眼鏡を作ったのに、掛けていることが少ない。だからきっとそのせいだと思う。
いちおうマスリ先生が、大きな病院で健康診断を受けられるように手続きをしてくれたので、今日は朝から病院へ行って来た。
朝ご飯を食べず、トイレにも行かないで来るようにと言われていたので、朝ご飯はどうにかなるとしても、トイレは普段からとても近い方だから、前日から水分をあまり摂らないように、それから、夜中の遅い時間にトイレに行くこと、などなど。。。ちょっと緊張した。
 朝の6時頃にはもうトイレに行きたくなったので、9時過ぎにレントゲン室に呼ばれる直前まで、「どーしよーどーしよー」と思っていた。
 エコグラフィーで、膵臓・肝臓・腎臓・腸、それから子宮や膀胱などの映像を撮ってもらい、問題なしとのことで、今度は血液検査専門のラボに行った。6本のチューブに血を採られた。結果は明日。胃カメラとか、頭のスキャンとか、乳がんとか、いろいろやりたかったのに、マスリ先生から「アンタ、まだ若いし、見た目元気だし、内診でも問題ないし、病院は忙しいんだから、明らかに元気な人は、行かんでもよろしい」と言われた。ふうん、そんなもんですか?「あまり心配してると身体に良くないよ」「病は気から」なんて言う医者もいるのね。 

 とりあえず、自分の健康について、考えはじめたのはよろしいことですよと、褒められたので、よし。

 健康診断の前日、日曜日は小学校の新年恒例ロトくじ会だった。今年は、あまりPTAの会に参加していないので、準備のほとんどを人任せにした。当日に、休憩時間に販売するためのケーキを2種類持参し、トンボラくじの券を売る仕事だけさせてもらった。
 ロトくじも、トンボラくじも、みごと外れまくって、何も勝てないまま帰って来た。ゾエがあと一歩でパン焼き機と電子レンジを獲得しそうになったが、どちらも持っているので、当たってもあまりうれしくなかったかも。。。と強がりなど言いながら。。。

 お正月にJPが買ってくれた15枚セットのロトくじ券は、当たったのが全部で3枚あって、14ユーロの現金に引き換えることができた。ロトくじの件は1枚2ユーロだから、もとは取れなかったが、1枚も当たらなかったよりはよいじゃないかと、わたしはお正月そうそうほくほくした。ノエミはずっと「たった14ユーロだなんて、ツイテない。」と言い続けていたし、学校のロトくじ会でも、「運がないのは、お正月からわかっていた」とぼやいていたが、14ユーロも当たって、わたしはついていると思う。それに、昨日のロトくじ会でも、パン焼き機や電子レンジなどの不要品や、子供だけが無料の動物園や遊園地の入場券をもらっても、仕方なかったので、やっぱりついていると思う。 
 当たるわけないとわかってて(でもちょっとは期待してたんだよね)、それでも投資した学校のロトくじ会。そんな人が80人ばかり集まったロトくじ会。夜遅くに出た収益金の発表では、1500ユーロ以上だったそうだ。子どもたちのために小学校に寄付される。
よかったなあ。