2006/04/29

いよいよである

 先日から誕生日をすでに二回も祝ってもらったので、当日の本日は41歳を超えた計算だ。

日本ではみどりの日だけれども、今日はみのりの日だ。

朝から家を片付けて、ペンキはがしをやり、庭を掃除して、黙々とよく働いた。

夕方おやつを食べながら、JPがにやっと笑いながら映画の案内を見せる。

「映画を観に行こう。なにがいい?」
「ホラー」

子供が居たら見れない映画に決まっている。この頃はアニメと子供向けの、短い映画しか見ていないので、ぼろぼろ泣いて泣きまくるロマンスか、悪夢を見るほどのホラーを見たいと、ずうっと思っていた。

「でもこの映画、上映時間が遅いよ」
「じゃ、その前にレストランに行こう」

ほほお。

「じゃあ、シシカバブ。」

 シシカバブというのは北アフリカのファーストフードだが、カーモーにはそんな物を食べさせるレストランがないというので、仕方ないから中華にしてもらった。

 中華料理のレストランは二つあって、いつも行くのは教会のそば。ノエミのクラスメート、トマの両親の店だ。
本日は趣向を変えて、映画館のすぐそばの、知らないレストランに入った。
中国人じゃなかったけけど、中華料理だった。

 そういえば、日本に帰った時に、友達が連れて行ってくれたお店も「中華」がおいしいというお店で、料理人さんの奥さんは高校の同級生だったので、「まみちゃんのご主人って、中国人なの?」と訊いて笑われた。

 中国人じゃなくても中華作るんだよ。日本人だってフランス料理作るでしょ。
ま、たしかにね。
でもフランスでは、日本人じゃない料理人が作った日本料理はすぐにわかる。その店が日本人じゃなかったら、日本料理店に入らない方が身のためだと思っている。
JPがよく「これならみのりでもレストランが開けるね」と言っている。

 中華料理はタイ料理みたいだった。料理人はタイ人かもしれないと思いながら、時間がなかったので、感想を述べる間もなく、映画館に走って向かった。

 今回のホラーは、久しぶりに大満足のホラーだった。わけわかんないシナリオも、まさに、アメリカホラー映画の醍醐味というか、期待していなかった期待どおりに、いかにもホラーだった。
 カンヌ映画祭では賞をとれないと確信できるシナリオだったが、「悪夢を見れるような恐ろしいホラーが見たい」という、私の希望は叶えられ、お誕生日の夜には、朝までたっぷり悪夢を見た。

お誕生日のプレゼントは、念願のお鍋にしてもらった。
 家庭用必需品をプレゼントにしないという、JPの信念を曲げていただいて、自分の欲しい物を、いっしょに店に行って、いっしょに選んで買っていただくという。。。念願かなってばかりでうれしいお誕生日であった。うひひ

2006/04/28

歳をとったけど若返る

 朝起きて、コーヒーの香りの立つ台所に入ると、JPがいきなり「お誕生日おめでとう」と言った。絶句する。約30秒、自分が何月何日生まれだったのか、考える。
 「今日は28日だよね。」
 「そう」
 「じゃ、29日は明日だよね」
 「そう」
 「じゃ、誕生日も明日だよ」
 「へ」

 自分の誕生日も覚えていない彼だから、こんなことはよくある。
 結婚記念日とか、母の日などは一ヶ月前から警告を発して、一週間を切ったら、毎日警報を鳴らさねばならない。

 32歳を過ぎてから、自分が何歳だったのか時々わからなくなる。
 34歳で白髪がニョキニョキ生えだしてからは、何歳だったのか考えないことにした。
 35歳の誕生日からは、誰かがそのことを言うまで、自分ではいっさい言わなくなった。

 はじめて教壇に立ったとき私は21歳で、42人の学生の80%は40代以上の中国と韓国からの、労働者だった。当時の日本語学校という所は、中国人で溢れていて、先生と生徒の顔が見分けがつかないので、「教師はきちんとしたスーツを身に着け、女性はきれいにお化粧をすること」などという決まりがあった。中国から単身で来て、昼間は肉体労働やサービス業で働き、夜は半分寝ぼけた顔で仕方なく授業に出てくる、疲れた中国人みたいな顔をしていてはいけなかった。
 でも、自分の子供ぐらいの、こぎれいに着飾った、世間知らずな小娘を、「先生」と呼ぶことは精神的に難しいんじゃあなかろうかと思って、学生たちとの歳の差に、私は敏感だった。
 なかなか敬語をうまく使えない学生の、本当の問題点は、前に立っている自分ではなかろうかと思った。

 だから、クラスでは20代後半ということにしてもらっていた。それでも40代以上の学生から比べたら、見た目で「小娘」だったに違いない。

 今は、学生のほとんどは中学生とか高校生で、社会人でも年下のことが多い。だから38歳ですと言ったら、世間をよく知った、もののわかった教師のようなフリができる。
 そして、今どきの漫画好きの学生たちが持って来る、今どきの日本の話題や、流行言葉や、流行歌手の名前がわからなくても、「世代が違うねえ」と言って笑ってごまかすことができる。

 男性はシワの数だけ魅力が増えるけれども、女性はシワが増えたら振り向いてももらえなくなるような気がして、ちょっとさびしい。
でも、眉間じゃなくて目尻に笑い皺のできるおばさんになりたいと思う。

 ラジオで、103歳の女性と結婚した33歳の男性のインタビューがあり、男性は幸せそうに「彼女のシワに刻まれた歴史に惹かれました」と言っていた。テレビじゃないので彼女の皺が一体どんなに魅力的な皺なのか、見ることはできなかったけれども、103歳だったら、かなりシワシワだろう。誉められるようなシワができて、うらやましいかぎりだ。

 シワを増やして、なおかつ魅力的に若返えることができたら素敵だ。

2006/04/27

出発

 子どもたちは、祖父母に連れられて、朝早くに出て行ってしまった。
祖父母の住むナルボンヌによってから、コートダジュールのニースという所に行く予定だ。
コートダジュールだけでもかなり豪勢なのに、ニースなんていうリッチしか住んでいないんじゃあないの?と思うような街に行くとは、華やかなヴァカンス。

 実はJPの祖父母はニースの出身で、ニースの内陸の方に、先祖代々のアパルトマンがある。一度いったことがあるが、その時には廃屋と化していた。うわさによると今はきれいにして、寝泊まりできるらしい。きれいになってからは行ったことがない。

 JPは、観光地も、コートダジュールも好きじゃあないので、一生行くことはないと思う。
 ノエミはトゥーロンという街で生まれた。マルセイユからニースに行く時に通るところだ。その頃に日本から友達が来たりもしたので、ニースにもモナコにも行ったことがある。
ニースにはシャガールの美術館があって、そこはとても好きだった。
ニースは映画祭のあるカンヌのすぐそば。ニースもカンヌもモナコもきいただけで《派手そう》と思ってしまう。

 子どもたちが居なくなったので、私は前から楽しみにしていたウィンドーショッピングをすることにした。と、言っても、ウィンドーのない店。
 家具屋をたくさん歩き回った。家具を買うためではない。そんなお金はないので、自分で何か作ろうかなーと思っている。それで、今どきの家具がどんなものか、見てみたかったのだ。仕組みとか、作り方を丁寧に観察してメモした。面白いアイディアがたくさん湧いてきた。
日本風、中国風の家具が人気らしい。

 家に帰って、JPのお母さんが持って来た大量の婦人雑誌や、室内装飾の雑誌を眺めた。そして、台所の脇に置きたいと思っている電話台の設計図を描いた。
うまく描けた。でも、うまく描きすぎて、とっても豪華な家具になってしまった。
そして結果的には「こんなにすごい家具作れなーーーい」という羽目に陥った。

 とりあえずは、子供部屋の要らない物を片付けよう。物がありすぎるから家具が欲しくなるが、片付けたら家具なんか要らなくなるかもしれない。

要らなくなった物という物は、ノエミと私の世界には存在しない。
もらった物、買った物、使った物、気に入っているもの、拾った物、集めた物。。。そういった物は「要らなくなる」ということがない。一度手にとったら、それがとっても好きなら特に、愛着がわいてしまう。腹を痛めて生んだ子供のような気がして来る。捨てられない。まだそこにいて欲しい、要らなくなるまで。。。。

 とりあえずはその辺一体に散らかっている、本とペンと紙の山を片付ける。私の机の上と全く同じスタイル。ノエミの紙の山の下からは、石ころや古くぎが出てくる。
「なかなかきれいな石を拾ったね」と思ったら捨てられなかった。
捨てない代わりに、私の机の引き出しに片付けた。一応ここで数週間隔離して、思い出さないようだったら捨てることにする。

2006/04/26

山のようなイチゴ

 イチゴを2キロも買った。近所の八百屋に買い出しに行って、ケース入りの山のようなイチゴを見ていたら、よだれが出て来た。JPの両親もやって来ることであるし、イチゴでも出そう。スプレーじゃない、自分で泡立てた生クリームを出してさしあげよう。

 同じ日には鳥カゼ菌を恐れた小市民たちが、買わずに避けたとり肉売り場で、いちばん大きい2キロ近くもあるニワトリを買った。私の10年選手のオーブンには鳥を丸焼きにする串がついている。ニワトリは1キロにつき1時間ぐらいオーブンに入れて、勝手にぐるぐる回しておけば、すてきにこんがり、小麦色に焼けたプレ・ロティさま(ローストチキンと言うやつか)が出来上がる。手間いらずだ。2キロ近くもあるので、2時間近くも回しておかねばならない。

 いよいよ義父母到着。お泊まり支度も万全に、土産を抱えてやって来る。
翌日には子どもたちを旅行に連れて行くと言っている。
お昼はレストランで食べて来たから、夜は軽くでいいわと言うので、
「鳥の丸焼きです」と言ったら嫌われた。
夜にお肉はいただかない主義。

 「ちょっと早いけど、あなたのお誕生会をしましょう」と言って、子どもたちを連れてケーキを買いに出掛けていった。うれしいけど、2キロのイチゴはどうなる?

 丸焼きの一部をほぐして、とり肉がほんのちょっと入った野菜サラダを作った。
そして、子どもたちが選んだ、パイナップルのケーキに、ろうそくを数本立てていただいた。
ノエミが39本立てると言ってろうそく入れを荒らしているが、JPが「足りるわけがないだろう」と言って、ノエミの年齢ぐらいでよいということになった。9歳ね、はいはい。
ありがとう、ありがとう。ちょっと早めに歳取っちゃった。ううう

 ノエミは自分のお小遣いで《プレイ・モビル》を買ってくれた。小さなひと形をしたおもちゃで、ゾエの小さな手に握れるぐらいの、小さなものだ。家具や、馬車などいろんな部品を買いそろえて行くと、楽しい町が出来上がる。私たち3人は今これにはまっている。
《プレイ・モビル》のファンパークというのがパリにあって、そこに行くのが私たち三人の夢だ。
http://www.playmobil.com/index.html

 子どもたちにそれぞれ違ったおもちゃを買ってあげると、貸し借りができなくてよく喧嘩になる。だから、最近は物を買う時には「お母さんのお金で買った、お母さんの物で、アンタたちには貸してあげるだけ」ということにしている。だから喧嘩が始まったら「ハイ私のだから返してね」と言って、取り上げる。実際、私はいまだにままごとやらお医者さんごっこや、学校ごっこや、プレイ・モビルなどを、子どもたちといっしょにやっている。人形の服も作るし、ままごとをすると言えば台所用品を惜しみなく貸す。本物で遊ぶのがいちばん楽しい。
 その代わり、まず私が遊んでから貸してあげることにしている。
 ノエミが買ったプレイ・モビルは「ネコとネズミを飼っている農家のおばさんという」セットで、箱の中には、エプロンを着ている農家のおばさんと、親猫2匹、子猫2匹、ネズミ2匹、魚の骨ひとつ、猫のお皿ひとつが入っていた。ネズミは大豆の粒ぐらいの大きさしかない。
 遊ぼうと思ったら夕飯の後片付けが待っていたのであった。
ケーキを食べ終わったとたんに、お誕生会が終わってしまった。

 山のようなイチゴは、明日にでも、ジャムにせねばなるまい。

2006/04/24

春休み

 4月22日から5月8日まで春休みだ。子どもたちが家にいる。
4月24日と25日はノエミが乗馬の講習会があるというので、静かだった。
ゾエと公園を散歩したり、植物や動物を売っているスーパーに行って、植物園と動物園に遊びに行ったような気分になれた。

 屋外にある、家畜のコーナーは、門が閉まっていた。
中国から来るカゼ菌のせいで、鳥や家畜が危ないといううわさなので、動物を飼っているような公園は閉鎖されている。

 ノエミとゾエはネズミやハムスターに憧れていて、このスーパーに行くのが好きだ。行ったら欲しがるが、買ったらボボのエサとなり得るので、買ってあげられないし、籠の中で飼う動物は好きじゃない。

 だいたい三歳の子供が鳥かごの掃除とか、毎日の餌やりとかできるわけがないので、そんなペットを飼ってしまったら、私がイケニエとなるに決まってる。

 ボボを連れて幼稚園の前を通ったら、共働き家庭の子どもたちが、幼稚園に預けられていた。
子どもたちがフェンスに集まって来て、ボボとゾエに話しかけて来る。
ボボを触りたい子供もいたので、しばらくフェンスの前に居た。

 「ゾエはママとお散歩できていいねー」と言われながら、名残惜しそうにフェンスの向こうから手を振る子どもたちをあとに、家に戻った。

 お天気はまずまず。水曜日にはJPの両親がやって来る。そして子どもたちを旅行に連れて行ってもらうことになっている。

春休みが来た。
一年でいちばんすてきなお休みだ。

2006/04/20

消えた過去と、待っている未来

 いきなり気づいたが、操作の手違いで、11月と12月の日記を消してしまった。
ショックで腰が抜けた。
もしも、もしも、もしも、どこかに、私の日記を保存しているような人がいたら。。。いないだろうけど。。。私にお知らせください。プリントアウトしたものでもいいですので。

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4月20日に戻る。
 木曜日だが、学校の役員の会議が開かれることになっていた。
夜の8時半から11時半ごろまで、出歩ける主婦はそうはいない。
だからいったい何人来れるんだろうか。
と思ったのだが、こういうことに決まっているんだから仕方がない。

 夏休み直前に開かれる、学校のお祭りの話し合いだ。今回に限り、役員でない母親たちも来てください、手伝ってくださいというチラシが回されていた。
なのに、集まったのは20人にも満たず、しかも、いつも来ている役員のメンバーだけだった。
役員には役員の仕事がすでにあるので、今回は、一般からボランティアを募って、仕事を手伝ってもらう予定だった。

ということは、つまり、役員以外のボランティアは一人もなし。
ということは、つまり、お祭りが開けない。

 このお祭りはロトくじの時のように、持ち寄りのケーキなどを販売したり、ゲームをして子どもたちにプレゼントをあげたり、バザーで物を売ったり。。。まあ、お金が要るお祭りなので、全員参加というわけにはいかない。経済的に無理な家庭もあるかもしれない。

 学校は公立だが、お祭りをやったりするお金は、教育委員会からはもらえない。
だいたい、教職員不足で、遠足も、文化祭も、発表会もないのだから、母親の力でこのようなお祭りぐらいはやって、小銭を稼いで学校に寄付するしか方法がない。ロトくじで上げた収益金で、幼稚園ではサーカスのピコチーユ一座を招待することができた。
子どもたちは歌や踊りを習い、曲芸も習い、締めくくりにはサーカスに招待され、とても楽しい一週間だった。ロトくじ収益金のおかげだ。

ボランティアがいなければ祭りは運営できない。
ボランティアがいなければ学校の運営が滞る。
なんてことだ。

 春休みが明けてから、また新しくチラシを配り、校門の前で個人的に知っている人を《とっつかまえて》泣き落としで手伝わせるしかない。嫌われるの大覚悟だ。

 私は折り紙のスタンドをすることになっている。成功させる自信がある。すでにこのような折り紙のスタンドは何度もやったことがある経験者だから。
 ゾエの友達のアントワンくんのお母さん、モーガンが、私のスタンドを手伝ってもいいと言ってくれているが、大変な仕事だから、大好きな友達にはあまり手伝わせたくない気もする。

 それにしても、どうしてみんな会議に出て来ないんだろう。
 自分ひとりでは力になれない、と思っている人たちがたくさん集まったら、きっと何かができると、私は信じている。

 こういう時にフランス人は「ヌ・パ・ベッセー・レ・ブラ」と言う。「ブラ」は腕のことで、直訳すると「両腕をおろさない」つまり、一度きつく握った拳を振り上げたら、簡単に下ろしてしまわずに、闘い続けるということだ。
 エイエイオーのあのコブシだ。

 私の一人の姉は、人に優しすぎて自分には厳しいために苦労している。
もう一人の姉は、人にとっても厳しいかわりに、自分にはもっと厳しいから苦労している。
私は人にも優しく、自分にはもっと優しいので、何かと苦労している。
あまり拳を握って振り上げたことがない。平和がなによりな日だまり人間ながら、ちょっと祭りごとには気合いが入ってしまう。
 
 子供のため(だけ)にがんばっているんじゃなくて、自分が(も)折り紙スタンドのスターになる日を夢見てがんばっている。
自分のためになると思えなければ、くじける。
算数はとんと弱いくせに、これでもけっこう計算高いんだろうか?

 子供のためだけに生きることや、学校のやり方に絶望している母親たちが、お祭りでどんちゃん騒ぎをやるゾーという軽い気持ちで来てくれたら、どんなに楽しかろうと思う。
義務感だけでお祭りに行っても面白くない。

2006/04/16

ボボにタマゴを盗まれる

 日曜日。剣道の講習会は引き続き行われていたのだが、命を張ってまで剣道に行ってもしょうがない。。。というぐらい、足の裏がまめだらけ。ひっさしぶりに行って苦労するのは、筋肉痛ばかりではない。ちなみに筋肉痛は、初日にお酢を一気呑みしたおかげか、ほとんど感じられない。

 普段はどんなにまめができても、稽古をしている時には気にならないし、少々痛くてもやる。わたしは、マメぐらいでは愚痴を言わないのだ。でも今回は両足で合計五つもできたうえに、1個は半径4センチもあって、元立ち(といって、自分より下の人たちに掛かって来ていただく。そして稽古を付けてあげることになっている)に立ちながら、大した動きができないので、申し分けないやら恥ずかしいやら。。。だから、最終日は車のせいにして行かなかった。
へへへ

 車はたしかにものすごい音を立てていた。夕べも帰って来れないんじゃないかと思った。
結局週明けにガレージに持って行ったら、車輪の辺りに異常があって、部品交換をしなければならず、360ユーロも払った。JPがガレージの人に「これでトゥールーズまで往復したとは、危なかった。」と言われたらしい。じつはJPには秘密だけど、車がものすごい音を立てていたのは「一往復」ではなくて「二往復」
へへへ。ないしょ。

 「二往復」もして音には慣れてきていたから、あと一往復ぐらいはできるかなーと思わなかったわけじゃないが、そういう気持ちにはなんとか歯止めがかかった。
実はこの日曜日はタマゴを拾う日だったのだ。

 イースター(フランスではパックという)のお祭りで、タマゴやウサギやニワトリの形をした、チョコレートを庭の草むらに隠して、それを子どもたちと拾うのが習慣だ。JPが売り切れるずいぶん前から、買ってきていて「日曜日にはママは剣道に行っちゃうから、パパとチョコレートを探そうね」と楽しそうに話していたので、どうにかしてタマゴ拾いを延期できないものかと、
歯ぎしりをしていたのだ。

 チョコレートのタマゴは、この私が子どもたちと競い合いながら拾って、JPは写真を撮る、というのがおきまりだ。そうでなければ、私の分のチョコレートまで拾われてしまう。それはこまる。何が何でもこの日は家に居て、子どもたちよりも早起きをしなければならない。

 数日前からの疲労で、ノエミに先を越された。
「早く起きないと、全部拾っちゃうよー」と庭から叫んでいる。
きゃあああああ。
ゾエと競って階段を駆け下りる。
ノエミはちゃっかり買い物かごをぶら下げている。
「ゾエの分のかごもあるよ」と言って待っていた。

 タマゴやニワトリの形をしたチョコレートが、全部で1キロばかり庭に隠されていた。
もう拾い残しはないよねー。
あれ?ボボ、鼻先に銀紙ついてるよ。
「ボボにチョコレートのタマゴ、横取りされたよー」

トリュフという高価なキノコは、ブタか犬が匂いで探し当てる。それを探させようと思って森に連れて行ったボボは、やはり役立たずであった。
しかし、トリュフというチョコレートだったら、探し当てたうえに食べ尽くすんだろうか。

 ボボもチョコレートが好きだとは思いもしないことだった。
ボボがサクランボウが好きなことは知っていたけど。
これからはチョコレートの隠し場所に気をつけなければ。
庭には探し残しはないだろう。
 
 剣道にも行かず、チョコレートでエネルギー回復。
ま、いいか。

2006/04/15

冗談ぬきで上段に構える

 火曜日からトゥールーズに滞在されていた佐藤先生は、金曜日の飲み会のあと、次の講習会場所であるモンペリエに向かわれた。
 金曜日には、佐藤先生のほかに、この週末の別な講習会の指導者であるラヴィーニュ先生と、トゥールーズの別な会場で行なわれる居合道の講習のためにいらした、三人の範士の先生方、パリからの高段者の方など、それらの講習のためにわざわざ全国から集まった勇士たちが一同に介して、親善地稽古のあと、持ち寄り大宴会が行われた。道場にござを敷いて。

 トゥールーズのクラブの若者たち6人が、去年の秋に日本に武者修行に出掛けた。京都に行くというので、だったら滋賀県の彦根にも行きなさいよといって、姉の所に行かせた。私だってまだやったことがないのに、姉と姪と稽古をして帰って来た。旅行から帰って初めて会ったので、写真をたくさん見せてもらった。

 木曜日と金曜日は夜遅く帰ってきた。でも帰って来たおかげで家のことだって、子どもたちのことだってできた。興奮しているから、ぜんぜん疲れていなかった。金曜日の朝は朝市にも行った。

 土曜日は日本に長く住んでいらっしゃる、フランス人のラヴィーニュさんという方による、上段の講習会だった。普通剣道は中段に構える。向かい合った竹刀の先(剣先)を相手と交えて、距離と気持ちを測る。
 
 「上段をやりたい」と彦四郎先生に言ったら「冗談言ってる間に中段もっとやんなさいよ」と本気で叱られたものだ。日本人の先生は上段があまり好きではない。中段を極めていない者が上段なんかやっちゃいけないのだ。でも、実はいつかこの技をコッソリ極めて、スポットライトの当る試合場でほほーと唸る声をきいてみたいものだと思っている。
上段は冗談抜きでかっこいい。

 中段の構えの時、右足が前で左足が後ろになる。でも、いろいろ形のある上段の構えのうち、今回の講習会で稽古をした「左上段」というのは中段の構えから左足を一歩踏み込んで、左の拳が左の眉毛辺りに来る。左足が前にあって、相手に打ち込む時には左足を前に出す。打つ瞬間、片手打ちとなる。左手だけでしないを握って相手を打つ。

 普段は左足が右足より前に出てはいけないと、そればっかりうるさくやっているので、左足が右足よりも早く前に出るというような動作は、とっても難しい。左足で踏み込むなんてとんでもない。調子が狂う。(歩み足とか、まあいろいろあるんですが、面倒くさいので説明を省きます)それに肩よりも高く振りかぶっている竹刀というのは、とっても重い。

 ラビーニュさんは普段日本の道場で稽古している方だから、素振りも切り返しもたくさんさせられた。腕立て伏せと腹筋までやらされた。フランスでは準備体操もろくにやらないので、いっやあーきつかった。この歳になって高校生みたいな運動をしているなんて、私も逞しいおばさんになってしまった。腹筋を続けたら脂肪が減るだろうか?と期待して、講習会以来毎日やっている。
 でも腕は三日連続の剣道三昧で、もりもりになってしまった。
半袖の季節が来てしまう。恐い。

 アルビの道場に帰って、ドレイ先生に「上段をたくさん習いました」と言ったら、「冗談じゃない。私は上段なんか嫌い。ハイいつも通り面打って!」と言われた。お年寄りだから、やっぱりねえ。そしてほかの剣道仲間にも「上段なんか難しくってやれないよ」などと、みんなに合わせて上段の悪口を言っている。

 が、しかし、じつは、密かに上段を練習し続けている。
上段はかっこ良すぎる。(上手にできたらね)
ふっふっふ。。。

2006/04/14

佐藤先生を求めて

 カーモーの出口と、アルビの出口で、大きな道路工事をしている。だからトゥールーズまで車で片道2時間以上掛かってしまった。90キロぐらいの距離だ。トゥールーズまでずっと、夕方の眩しい光を真っ正面に浴びて、しょぼしょぼする目で道路の白線を頼りに走る。高速道路は最低90km/hから最高120km/hまで出してもいい。高速に乗ってから、ガソリンが足りるかどうか心配になって来たので、ゆっくり走って行った。
 車はなんだか変な音を立てているし、先日左のバックミラーを当て逃げされて、ミラーはないし、そのうえフロントガラスは半年前からヒビが入ったままだし、おまけにトゥールーズ市内のことはよく知らない。なんで剣道なんぞのために、こんな命まで張って?と思いながらも、真っ赤な夕日が見渡すかぎりの菜の花畑に沈んで行くのを見るのは、とても気持ちよかった。

 木曜日の稽古は夜の9時から、金曜日は8時15分からだった。
 フランスに指導に来られる剣道の先生としては、とってもお若い40歳になったばかりの、佐藤先生という方が、トゥールーズのクラブの招待で、火曜日からいらしている。「センダイ出身です」とおっしゃるので、「北の?」と訊いたら「あなた鹿児島の人?」とバレてしまった。鹿児島県には『川内(せんだい)』という町がある。

 「福之上里美さんの時代です」と言ったら「じゃあ僕より一つ下だね」と歳までバレた。福之上里美さんという人は、私と同級生で、当時鹿児島県でいちばん強かった人だ。姉妹で全国チャンピオンだった人なので私の年代で剣道をしている人だったらみんな知っている。その福之上さんと、高校最後の県大会の三回戦で試合をしたことがある。私は一回戦でまぐれで勝って、二回戦で相手が欠席のため不戦勝、三回戦で偶然福之上さんに当った。すらりと背の高い人だったのを覚えている。ブンッと体当たりされて、ぽーんと飛ばされ、床に大の字に寝た覚えもある。福之上さんが走りよってその手を貸して起こしてくれた。本当は倒れた相手を打ってもいいのに。
 
 この試合はたぶん一生忘れない。福之上さんと対戦して一本勝ちに抑えたからだけではない。この試合には、私にとってはじめての応援団が来ていたのだ。

 高三の始業式当日に大怪我をした父が、高校最後の年には入院したり、リハビリをしたりしていた。高三の一年間は、家族にとってはある意味で思い出に残る年となった。父がある日突然家に帰って来れなくなることについて、家族みんながはっとさせられた。いろんなことがあった。でも高校にも通い続けることができたし、クラブ活動も続けることができた。

 その高校最後の試合を、父が応援に来た。当時はまだとても仲良しだった、種子島のおじさんと一緒に。すらりと細い身体に柔道衣を着て、黒帯をきりりと締めた父の写真に「兄貴、いかすじゃないか」と墨で書いて残した、父の弟だ。
 父はまだふらふらする身体で、弟に支えられながら見に来た。県警の古い道場の、二階スタンドのまん中あたりで手を振っていた。そして三回戦まで行った娘が、チャンピオンと闘って、一本勝ちに抑えたのをおじに自慢していた。

 もう覚えていないと思っていたのに、病気で弱った細い声で父が、「あの試合は面白かったな」と懐かしそうに言ったのでびっくりした。

 今年は剣道の方はまじめにやっていなかったから、いきなり講習会なんかに行っても、筋肉痛で苦しむだけだろうとは思ったのだが、日本からいらっしゃる先生が《佐藤先生》というお名前だと知ってから、落ちつかなくなった。どうしても行かなければならないような気がした。今年はほかにも日本から先生方がいらしたのに、どの講習会にも行かなかったくせに。

 去年亡くなった恩師の佐藤先生が、私を呼んでいるような気がした。大好きな佐藤先生と稽古をしたトゥールーズの道場で、懐かしい仲間に会った。佐藤先生が弟と呼んでいた先輩も来ていて、「ああ、やっと洞穴から出て来たね」と言って私のことを抱きしめてくれた。みんな私を待っていてくれた。そのうえ《佐藤》という垂れを着けた先生が、正面で私を待ち構えていた。佐藤彦四郎先生に習ったことだけを考えて稽古をした。

 見学にいらしていた、居合の先生に「あなたきれいな面を打つね」と誉めていただいた。「佐藤先生に教えていただきました」と言った私の顔は、さぞ誇らしげだったろう。道場に、ちゃんと《わたしの佐藤先生》も戻って来てくださっていたのだろう。
そして「よしよし、みのりちゃん」と頭を振っていらしたに違いない。

2006/04/12

メリオッサン

 三軒となりのメリオッサンが火曜日の夜から泊まっている。
曲芸師のお父さんと、舞台照明係のお母さんの、それぞれの仕事の都合で、家に大人が居ないので、数日間預かることになった。中学生のお兄ちゃんは、別な友達の家に行ってしまった。

 メリオッサンは火曜日の夕方、我が家にやって来た。でも、私はレッスンのために出掛けたので、夕食から就寝までの子どもたちの世話はJPがした。私が夜遅くに帰って来たら、みんなもう寝てしまっていた。

 私は日本語レッスンのあと、大急ぎで学校の会議に出席したので、帰って来たのは23時半ごろだった。6月の学年末に行われるお祭りの話し合いで、私は折り紙のスタンドを引き受けることになっている。

 別なスタンドでは、リサイクルや、分別ゴミの講義などをゲーム仕立てにしたものを考えた人も居て、母親たちに大うけだった。

 その祭りの別な催しで、カードのついた風船をいくらかで子どもたちに売って、一斉に空に飛ばし、何か特別な仕掛けで、その風船たちがたどり着いた場所をキャッチできるというゲームを提案した人が居た。数年前にそれをやって、県外のどこか遠くの街で発見された風船があったらしい。 
 今回は、いちばん遠くまで飛んだ風船のカードに名前を残していた子供に、すごいものをプレゼントするというアイディアだ。なんと夢の広がること。

 景品がMP3だというので「私の方が欲しいわ」とか叫んでいる母親も居て、私はなんだか落ちつかなくなってしまった。この案に賛成の人は手を挙げてと言われ、みんなはおしゃべりしながらいい加減に手を挙げていたが、私がためらっているのを見て、会長さんに意見を求められた。

 「ほかのスタンドではゴムや紙を自然に捨ててはいけません、と講義を受けた子どもたちが、隣のスタンドに行って、こんどは大人に風船を買わされた上に、母親の手でそれを一斉に自然に放すんですか?そんなことしていいんですか?ノエミだったら絶対にひとこと言います。」

と言ってしまった。つい、言ってしまった。。。

 わいわい楽しくしていた母親会議が、一瞬にして凍りついてしまった。
すぐに「それはそうね」と言ってフォローしてくれた人が2.3人居たので、ちょっとは救われたが、そのアイディアを出しみんなに喜ばれて、胸を張っていた人に、一気に嫌われたのが肌で感じられた。隣同士でこそこそ話している人もいる。

 会長さんの「いずれにしても、そういうことをするには市役所の許可がいるから、できるかどうかわからないし。ハハハ。。。」という引きつった笑いとともに、別な話題に移った。

 次の日のお昼、メリオッサンとノエミに、学校のお祭りで風船を放すんだってと話した。実はメリオッサンの家庭はエコロジーな生活をしている上に、うちよりももっと厳しくって、動物を殺すの反対とかで、ベジタリアンだ。食堂でも、友達の家でも、出されるものに文句を言わないで何でも食べるので、うちに来たらメリオッサンはベジタリアンではなくなる。別に親もそこまでうるさく言わないが、今回泊まりに来て、この子供がフランス製の自然素材の服や靴下、安心マークの入った靴を履いているのを見た。ゴミ箱も「別けてるんでしょ?」と訊いて紙を捨てるゴミ箱を探してうろうろしている。与えられるおやつにも注意をしている様子が伺われた。表示を読んでいるのが、ノエミと全く同じだ。ノエミはいい友達を持ったなあ、と思った。

 メリオッサンとノエミは風船の話を聞いて、お互いに顔を合わせた。そして2人の小学生は「自然に優しいトイレットペーパーなどは聞いたことがあるけど、風船はゴムだから自然に捨てたらいけないよね」と言った。
 ノエミが「自然に捨てるための風船に、お金払うのなんか勿体ない」などと言っている。

 今のところ私たちは少数派で、うんちくばかり述べる「可愛げない」側だと思うが、ノエミ一人じゃないことがわかったので、この子たちの未来も捨てたもんじゃないと思った。
探したらあの学校にも、話せばわかる子供(とその親)がもっといるかもしれない。

2006/04/11

2005年度 終了

 2005年の10月から受け持っていた、商工会議所での日本語レッスン(初心者のクラス)が終了した。6人のうち5人が学生で、一人社会人の女性は、レッスン4.5回目の頃に脚を怪我して、治療が長引き、ついに戻って来ることができなかった。戻って来ることが前提だったので、休むたびにコピーを送ったり、メールで解説したりして、戻って来た時に遅れが出ないようにフォローし続けたが、結局彼女が家でちゃんと続けたかどうかもわからないままに終わってしまった。一人でも続けて、来年度に戻って来てくれたら、私のやったことも無駄にはならないと思う。

 6人のうち2人は中学生で、一人は最終学年のために試験に追われながらの出席となった。彼女はピアノも空手も学級委員もしていたので、学校が定休日である水曜日の前日、火曜日には、発表会や会議が重なって来れないことも多かった。

 もう1人の中学生は兄弟5人居て、それぞれが別々な学校に通って、いろんな習い事をしていたために、お母さんの送り迎えの都合などが大変そうだった。夜6時半から8時半までのレッスンに、街の向こう側から通うのは、大変なことだったと思う。そんな思いをしてまで娘の大好きな日本語にお金と時間と情熱を傾けてくれた、お母さんに深くお礼を言いたい。自分だったら、どんな先生が教えているのか知りたいと思うので、商工会議所では個人的に生徒と繋がることは許されていないのだが、内緒で電話番号を聞き出して、お母さんに直接電話をしておしゃべりをした。見えなかった家庭の事情や、娘さんがどんなに日本語が大好きで、家でどんな教材を使って勉強しているのか、いつか日本に行かせてあげたいと思っているという、お母さんの秘密も聞くことができてよかった。

 6人のうち3人は同じ大学の別々なクラスの男女で、そのうち2人は恋人同士となってしまった。クラスではうるさいことが多く、腹を立てたりもしたのだが、彼ら3人とお互いの友人同士が集まって、大学内で仲良しのクラブができたようだ。学生時代の友達は、とても貴重。日本語科のない大学内で、日本語好きの若者が集まっていると思うと、楽しくてしょうがない。彼ら「日本語をならった」3人を中心に、友だち同士7.8人で来年の夏休みに日本に行くという計画を立てている。日本の大学に留学しようか、と考えている人も居る。頼もしいことだ。

 私も、なんだかんだ言いながら、週に2回、若いエネルギーを吸収できて、とてもよかった。大学などはっきりしたプログラムのあるクラスではないから、楽しくできたと思う。それでも予定どおり「みんなの日本語」の8課まで終わった。始まる時に商工会議所に提出した「授業計画」と「目標」もちゃんと達成できた。形容詞の「みのりさんの授業は面白かったです」も言えるようになったし、カタカナも全部読めるようになったので、まずまずだった。
 商工会議所に提出する「評価表」にも、生徒側からいい評価をもらえたのでよかった。

これから火曜日の夜には、もっと剣道の稽古に顔を出せるかもしれない。
そろそろこちらの方が恋しくなっていたところ。

2006/04/08

一年経った

 父の一周忌だった。
 朝からお線香を炊いて、湯気の上がるご飯をあげた。だからと言って、何もない。日本の実家では人がたくさん集まることになっていて、長姉が「頭がおかしくなりそー」と言いながら走り回っていたに違いない。

 奈良から里帰りしていたおじがメールをくれて、母の誕生日のプレゼントと一緒に子どもたちの写真が届いたよとあった。ぎりぎりセーフだったらしい。親戚が集まっているところに郵便屋さんがおフランスからの小包なんか運んで来たら、さぞかし派手なコトだろう。なんだか親孝行な娘みたいで、トレビアンであった。

 滋賀の姉が帰れないと連絡したら「誰が帰って来てもお父さんは帰って来ないから」と言われたらしくて、かなりショックを受けていた。わたしは、その通りだから代わりに私ぐらいは帰ってあげたかったなあ、と思ったけど、たしかに誰も代わりにはなれない。

 夕食に呼ばれていた。「も」さんの家はうちと同じぐらい古い家で、うちと同じ一年ばかり前に引っ越して来て、うちのように自分たちで改修しながら、年中工事現場みたいなごちゃごちゃした家で暮らしているので、とっても気軽に寛げた。普段のうちの夕食よりも、3キロぐらい重い夕食だったが、おしゃべりの気軽さと一緒に、フォークも軽かった。

 JPは「も」さんとは数回あいさつした程度の付き合いだったので、大丈夫かしらと心配していたのだが、普段は人見知りをするJPに向かって、ジジ臭いとか、むっつりスケベとか。。。まあ、そんなことを平気で言える「も」さんなので、JPも面白がっていた。とっても楽しかった。

 テーブルの真ん中に、水に浮かぶ仕掛けのろうそくが四つ浮かんでいた。帰りがけに「も」さんが「みのりのお父さんのために、ろうそく灯したよ」というので、とても感動した。
 奈良のおじが「みんなでにぎやかにやっているよ」というメールをくれたお昼は、ちょっと淋しかったのだが、「も」さんのおかげで私もにぎやかに過ごせた。

 生きている時には遠くに居て、私のことなどは忘れているだろうと思って知らん顔していたが、今はどこから父に見られてるかと思って、気が気ではない。一年は早すぎて、成長はできなかったけれども、一応どこかで見られている気がして、過ぎた年よりはましになろうと思って暮らして来た。
 ここに、この場所に、私のやってることを見に来てまで、叱ったりはできないだろうと思うと、なんとでも言えるけど。ほんとうは、一年の間ずっと左肩の後ろ辺りから、父が怒鳴っている気配を感じていた。

 叱られてばかりというのはうっとうしいが、叱られなくなると淋しいものだ。

2006/04/06

久々に汗

 久しぶりに剣道に行った。
ドレイ先生は赤ら顔でぜーぜー言いながらも、わりと元気そうだった。
7時半に始まると思って余裕を持って出掛けたのに、もう始まっていて恥ずかしい思いをした。

 今年はチェロをやりたかったので、剣道のクラブには正式に申し込んでいない。生きたい時にふらっと行っている幽霊部員だ。
全フランス剣道協会。。。とかなんとかいうのがあって(正式名は知らない)そこに年会費を払って《スポーツパスポート》をもらう。(剣道はスポーツか?)保険だとか、試合出場資格だとか、全部パックになっている。
 私は試合には出ない。そのパスポートを持っていたら団体戦には出場する権利があるけれども、うちのクラブには5人の選手をチーム編成するには弱小すぎるので、団体戦には出ることができない。それに、みんな趣味で剣道やっている人たちだから、試合に出るとか、昇段試験を受けるといったことには、あまり関心なさそうだ。

 私は(何度も言うけど)税金を払おうが、年会費を払おうが、日本人だから、個人戦には出れない。日本人の私がフランス・インターナショナルチームや、フランス・チェンピオンになってはまずいのだろう。(まさか そんな。。。)
そしてまた、わたしも、試合はどうでもいいのだ。

 何か習い事をしている人は、どこかで発表の場が持てるのはいいことだと思う。目標ができるし、参加して誉められたり、失敗したりして、得るものはいっぱいあるから。この歳になって誉められることは、だんだん少なくなった。叱られることもあまりなくなった。目標を持って、コツコツやることも減ったような気がする。この歳になってもまだまだ何かを教えてくれる先生が居て、叱られたあとにちゃんと誉めてもらえたりするのはとても幸せだ。叱る分はちゃんと誉める段階まで育てなきゃならないので、先生も大変だ。

 4月の13日から18日にかけてトゥールーズに剣道をしに行く。日本から先生方がいらっしゃるし、パリからも先輩や友達がやって来る。剣道のあとには、道場にシートを敷いて飲み会もある。みんなが持ち寄ったもので小さなパーティーをする。私は以前は毎年焼き鳥とまき寿司を持って行っていたのだが、引っ越してからはトゥールーズの道場まで片道2時間以上は掛かるので、お店で買ったチップスを持参するつもり。剣道クラブの友達にまき寿司の作り方を教えてあげたので、彼が私の分まで作って来てくれるだろう。

 出掛ける前に家のことをやって、子どもたちに「お母さんは私たちを見捨てて剣道なんぞをしに出掛けた」と思わせない手だてをいろいろ考え、ぎりぎりまでうちに居てあげて、さっさと帰って来なければならない。往復4時間も掛かる。トゥールーズに泊まり込むというてもあるが、そうすると家族を見捨てて剣道なんぞにはまり込んでしまうことになってしまいそうなので、それはちょっとまずい。朝ぐらいは家族の顔を見たい。

 実はフランスには、剣道なんぞのせいで家族を犠牲にしたり、離婚したりする人がいっぱい居る。見ていると多くの人が「剣道いのち」だから「これじゃあ、船乗りや山男をダンナに持つのと同じだなあ」と思うことがある。でも、うちのダンナがもっと「剣道いのち」で、子供もみんな剣道をやっていたら、私も家事を放り出して剣道三昧できるのになあ、とチラと思うこともある。
一緒にトゥールーズに泊まり込んで、朝から晩まで剣道することもできるかもしれない。休みといえば剣道の講習に行き、日本に帰国してまでも剣道をするかもしれない。ちょっと恐い。

 私は、ひまひまで気晴らしできたら、いまのところそれでいいと思っている。
久しぶりに道場を走り回って、とっても気持ちよかった。
帰宅したら子どもたちはちゃんとお風呂に入って寝ていたので、うれしいやら淋しいやらだった。
一人だけで好きなことをするというのも、ちょっと空しい。

2006/04/03

がんばって行こー!!

 3月3日にひな人形を出すのを忘れた。3月2日にひな人形を出していないことに気づいではいたのだが、すぐに片付けなきゃならないかと思ったらめんどうくさくて、出さなかった。

 3月3日に、懐かしい友達に会った。
 「あ」さんは大事な試験のために、はるか彼方、フランスよりも10時間ぐらい早く日が昇る、小さな島からパリに上京して来ている。彼女の島のお風呂場では、水が排水溝から流れて行く時に、渦巻きがフランスとは逆方向だ。彼女が島を出て来た時にはその島では、みんながサングラスをかけて、プールサイドでサイダーなどを飲んだり、真っ赤な日の沈む浜辺でアイスをなめたりしていた。

 明るい太陽をいっぱいに浴びて、1月の夏休みを家族と過ごした彼女は、パリでの試験のために水着を分厚いコートに着替えて、スキー焼けで真っ黒なヨーロッパの人々が溢れる空港に、海岸で日焼けした顔で降り立った。

 パリの空は手が届きそうなぐらい低く、暗い色をしていた。たまに大雪が降り、みんな着膨れた身体と同じように、むすっと膨れっ面の顔をしていて、ストのために何度も電車は止まり、人々はイライラしていて、家族をおいての一人暮らしで鬱にならないのがおかしいぐらいだ。

でも、3月3日に久しぶりに会った彼女は、あいかわらず大変元気そうであった。
輝いていた。
ーーーーーー

 ついにこの日が来た。彼女はいまごろ試験会場に着いているだろうか?
先週の火曜日に引き続き、今週のこの火曜日もCPE(いつか詳しく話す)を巡る全国的なストが繰り広げられていて、パリを走る電車は少ない筈だ。道路ではみんながイライラしていて、時には車や商店を壊して歩くデモ隊のせいで、警察が道路を塞いでいる。時間どおり会場にたどり着けただろうか?大学の正門はちゃんと開いていただろうか?デモをする大学生たちに、試験会場を閉鎖されはしなかっただろうか?  

 彼女はデモ隊の学生たちと同じように、「長く続く雇用」と「よりよい教育のため」に試験を受ける。私は何もお手伝いができないので、遠くから応援するしかない。「あ」さんの遠い南の島の家族よりも近いから、私のこのテレパシーも届くかもしれない。
今までさんざんがんばった彼女に、こんなことを言うのは失礼かもしれないけれども、「あ」さんはこれが好きだから、また言っちゃうぞ。

「がんばって行こー!!」

がんばっている人を見ていると、がんばらずにはいられない気持ちになって、私もがんばろうという気持ちになれるので、友達にはがんばってもらわねばならない。おほほ

2006/04/02

早く寝る

いつの間にか4月になってしまっている。

 4月2日は母の誕生日だったので、電話しておめでとうを言った。
先週送っておいた誕生日のプレゼントがまだ届いていない。
度重なるストのせいか?残念だ。
中には10月の姉の誕生祝い(去年分)も入っている。
去年の4月から、ずうっと忙しくしていて、何もかもが遅れ気味だ。

 JPが先日税金の深刻(間違い、申告でした)の紙を書いていて、《184》という数字を見せた。
「みのりが去年一年であげた利益」
ええー!?184万円ですって?違うってばあ。
184ユーロ(約 26270円)
保険の積み立てなどで差し引かれて、利益というのはこれだけだったというので、泣きたくなった。こーんなに働いているのにい。
税金払っても選挙権はないのにいいいい。
くやしいいいいい。

電話で、母が「夏休みにフランスに行く」と宣言してくれた。従兄たちの家族旅行に便乗するつもりらしい。頑張って家も片付けなくては。。。。

 そういえば去年の誕生日には、滋賀の姉が子どもたちと里帰りをしていて、姉の子どもたちと一緒にケーキを食べたと言っていたのだった。私は姉よりちょっと早く3月13日から23日まで実家に帰っていて、菜の花をマヨネーズで食べたり、夜に冷たいこたつで《羽衣あられ》をガリガリと音を立てた食べたりしていたのだった。せっかくの里帰りだったけど、どこにも行けなかったから、食べることだけが楽しみだった。私があられをかじる音があまりにも響くので、
「お父さんが起きるじゃないの」と母に叱られた。

去年の4月2日はローマ法王が亡くなって、ヨーロッパの方は大騒ぎだった。
 一年はあっという間だ。

 わたしのこの一ヶ月も、瞬く間だった。

 3月の始めに提出した筈の仕事が、修正と確認、要するにやり直しで、納期が十日延長になり、結局3月はずうっと仕事していた。「環境負荷物質に関する政令」というスイスの政令でエコロな生活を見直すとてもよい勉強になった。

 例えば車は走っているときだけが「有害」なのではない。自動車というのは、カドミウムや六価クロムや、鉛などをたくさん含む部品や車体のパーツのせいで、廃車する時に気をつけなければならないことがいっぱいある。
小さな部品から有害物質が沢山出て来る。
「車を売って馬を飼おう」というノエミは正しいのだ。
馬の糞は堆肥として再利用されるのだから。。。。

 朝は9時ごろから子どもたちが帰って来る11時半まで、昼は子どもたちが居なくなる14時から帰って来る16時半まで、夜は子どもたちが寝てしまう21時過ぎから、ついにイスから落ちそうになる午前2時か3時か4時ごろまで、せっせせっせと働いた。

 家事は滞り、アイロンがけを待っている洋服が山づみになっている。
 家じゅうがなーんだか汚くって、家族みんながちょっとイライラしている。もう限界だ。

ちょうどよかった、今日で本当に終了した。

家の中でパソコンと過ごしている間にいつの間にか春が来てしまっていた。
庭にお花が咲いていない。準備しなかったので。

さて、明日からまた主婦に戻ろう。子供にも、ちゃんとしたご飯を食べさせよう。
3月の日記は、まとめて書こうッと。

今日はもう寝る。ああ、4時半だ。隣のパン屋さんから朝のパンの匂いが漂い始めている。