2009/07/30

バラバラ家族

7月17日に、ノエミがたった一人で飛行機に乗って、キャンプに向かってから、家の中がシンとしている。
わたしも24日から剣道の合宿なので、JPに料理を作り置きして冷凍庫に片づけたり、剣道の合宿で頼まれている講演の準備をしたりした。

18日は、友人≪か≫に教えてもらった「お財布を買い替える日」にあたっていたので、バーゲンも終わりかけて静かになった町に出かけた。お財布を買って破産するのもばかみたいなお話なので、ちゃんとバーゲンのお財布にした。でも、買った後で、デザインがあまりにも若すぎるなーと思って恥ずかしくなった。それに、まだ慣れないせいか、使いにくいし、これまでのお財布に比べてポケットが少ない。なんだかすごっく後悔している。

 お財布の中には、今年の初めに大吉だったおみくじを入れた。それから、今年の初めに日本で連れて行ってもらった高級フランス料理店の、野生のカモ肉の中から出てきた散弾銃の鉄砲弾を、大事に紙に包んで持ち帰っていたので、それも大切にお財布に入れた。

さあ、これでお金持ちになる準備はできたのだっ!!

「今月は赤字だなあ」と月の初めにJPが言った時には、真っ青になったが、そのあとでよく考えたら、先ごろ寝ないでやった特許翻訳の請求書を、いまだに出していなかったことに気付き、大急ぎで請求書を送ったら、すぐに支払いの約束が出た。合宿に出発する前にいただきたいなあーと思っていたら、合宿に出発する日に入金されたので、新しいお財布をホクホクにして、残っていた支払いや、スピード違反の罰金を精算してから旅立つことができた。心晴れやかな出発〜〜。

そういえば、心晴れやか。。。というのは、ちょっと違った。。。。

 ノエミが17日にキャンプに行き、そのあと着信払いの公衆電話から「すごい田舎だから電波が届かない」と言って来たあと、バス遠征の際博物館から2回電話してくれた。ノエミの声を聞けたはよかったが「同じキャンプの子が、豚インフルエンザの疑いで隔離された」との知らせの後、ぷっつり音信が途絶えてしまった。

 JPがキャンプ場に電話したら「そんな事実はありません、と言われた」というので、わたしは合宿に出発したのだが、合宿所についてからもう一度JPに電話すると、「ノエミの部屋の3人の子が隔離されたけど、ノエミは大丈夫みたい」という。
「そりゃあ、アンタ、うちの子ももうじき隔離だよ。」
とJPに言ったら、
「キャンプ場の子供たちがみんなで隔離されたら、みんなで楽しいキャンプが続けられるから、いいじゃん」
とのお返事。なるほどな〜。
「迎えに行かなくていいの?」と聞いても、
「外からの面会は謝絶だってさ」なんて言ってるし、まあ、ラジオでは「他のインフルエンザと同じです」とさんざん言ってる。どうしようもないの??

 合宿所からも毎日3度はJPに電話したけど、「自分にはなにもわからん」という。ノエミに携帯メッセージを送れば、「元気、元気」の返事。しかし、義弟のお嫁さんのソフィーと電話で話した時に、うっかり口を滑らして「ノエミ、隔離されてるんだってね」と、知らぬは仏の母(わたし)に言ってしまったのだった。
「えー、わたし、なにも、聞いてないけど?」
「一人だけ隔離されないよりは、みんなで隔離された方が、退屈しないだろう」
と言って、JPは、かなり平気だ。
じつは、わたしも、合宿があまりにも楽しく、かなり平気だ。
一歩家を出ると、すっかり家のことは忘れられるタイプ、だ。悪いけど。

 24日から29日までが剣道の合宿。
なんと、ゾエの誕生日が25日で、家族バラバラのお気の毒なお誕生日だった。
JPは、見かけによらず「かわいそうだから」と言い、電車を使って、一泊で実家に帰ってくれた。プレゼントを持って。JPが「かわいそうだから」なんて言うもんだから、ダニエル家のみんなに、みのりはひどい奴と、ちょっと、言われてるような気がした。(言われているに決まってマス)

 ゾエは、かなり平気だ。
ノエミは後で「隔離から解放されて、今は博物館に来てる」と、携帯から電話してきた。
JPはその週には、組合の出張でまたパリに行っており、4人の家族が誰も家におらず、よそでバラバラに暮らしている日々が続く。

さあっ!合宿が終わったら次の日には子供たちを迎えに行って、家族水入らずよ、と思っていたら。。。
とんでもないことになったのだ〜〜

つづく。。。 

2009/07/20

おくりびと

  土曜日の夜に、アルビに住んでいる日本人のマリさんから電話があり、アルビの映画館で日本の映画をやっているよと教えてくれた。
「しぶがき隊のモッくんが出ているよ」
というのだが、しぶがき隊が3人だったのか4人だったのか思い出せない。
《しぶがき》が《渋柿》ではないことは容易に想像できるし、《しぶ》と《がき》がそれぞれ片仮名と平仮名のグループに別れていたんじゃないかとも思うのだけれど、もしかしたら《渋ガキ》だったような気もするし。。。《錦織クン》っていう人がいたような気もするんだけど、あの人って《なに隊》だったっけ?

 実際のモッくんは想像していた人じゃなかった。しかもおじさんになっていたので、ものすごくショックだった。
ひさしぶりに画面で見る俳優が「歳取ったなあ〜」と感じる時、それはまさに、自分に跳ね返って来てちょっと寂しくなる。
吉行和子がおばあちゃん役やってるとか、むかし公私ともにツッパリだった(ハズの)杉本哲太が、役所職員の上に子煩悩なパパになってるのもかなりショック。
 主人公の父は、最後に死に顔でしか出ず、でも、大物役者に違いあるまいと思って調べたら、峰岸徹ではないか!?むかし、アイドル歌手が失恋して飛び降り自殺をした。あの!失恋の相手こそ峰岸徹ではなかったか。彼は死に顔でたった一度だけ登場したのだが、この映画を作りながら、死んだアイドル歌手のことをおもいだしただろうか。このキャスティングには意味があったんだろうか?
「おくりびとも、いつか、おくられびとになる」

 ところで。。。日曜日のお昼ごはんのときに、アルビまで映画を観に行こうよとJPを誘ったら、「ええ〜アルビまでえ〜」と生返事。あきらめてミシンを出し、袴の裾あげをしていたら、4時5分前になっていきなり、「映画行くよ」と誘いに来る。映画は午後4時半から。マリさんが「泣くよ」と言っていたから、いちおうハンカチだけ持って、化粧をする時間もなく急いで靴を履いた。

 お天気のよい午後の4時半に、アメリカ映画じゃない外国映画で、しかも字幕の映画を見に来るような人は。。。お年寄りだけだった。玄関ホールもシーンとしてる。閉まってるのかと思った。お客はほとんどが60歳以上ぐらいの人たち30人弱で、席はぜんぜん埋まってなかった。平均年齢を下げてるらしき人と言えば、わたしたちと、こんなに空いてるのに、壁際の前から三列目に静かにうずくまってる、ちょっと「おたくさん?」と呼びたくなるようなお兄さんのみ。

 映画が始まって、モッくんが遺体を洗いはじめたところで、いきなり後ろの席で
「助けて〜。バタッ」
という、まるで映画のワンシーンのようなセリフとともに、明らかに人が倒れた物音がした。
暗がりで殺人でもあったか!?

 「隣に座ってた人が倒れた!」
という老女の声に、人々が一斉に立ち上がる。非常口付近の男性が、映画館の人を呼びに行った。すぐに映画が中断され、館内が明るくなった。
 「誰か救急車呼んだの?」
とヒステリックに叫んでいる人約1名。60代はイってる、館内じゃけっこう若メのおばさん。
 「映画館の人が呼んだんじゃないの?」とJPはいつものようにかなり冷静。
 「私の夫は、心臓マッサージの講習を受けましたっ!」と、有閑マダムが勇敢にも、定年退職後約10年ぐらいらしき、ご主人様の背中を押す。ご本人は自信なさそう。だいじょうぶかな〜。
 「携帯、持ってる人?持ってる人?」
さっきの若メのおばさんが叫ぶ。
年寄り集団というのは、携帯なんか持ってない。若いけど礼儀正しいわたしたちは、映画館に携帯など持って来てないし。(実はいつも持ち歩くのを忘れてる)どう考えたって、映画館の人が呼んでるでしょう。
 若メのおばさんは、やはり若作りしているだけあって、いまはやりの携帯を持っている。が、しかし、肝心な時に、使い方がわからず、うろうろしている。

 いっぽう現場では、さきほど自信なさそうにしていたご主人様が「この人、意識があるみたいですよ」と言って立ち上がり、まるで自分が心臓マッサージで生き返らせたかのように叫んだ。有閑マダムは隣の人に向かって「やっぱり講習を受けた甲斐がありましたでしょ?」と涙ぐんでいる。「あなた、すばらしいわっ」などと、つぶやいたりなんかしちゃったりして。

 若メのおばさんはみんなが注目をよせている携帯電話にむかい「人が倒れましたッ。映画館です」と言っている。何度も同じフレーズを繰り返す。そしてみんなのほうにふりむいて「どこ?って訊いてるわ。馬鹿じゃないの?消防団のくせに」とか言う。そりゃあ、そうでしょう。アルビには4つぐらい映画館があるんですから。後ろの席の人が電話をひったくり、映画館の名前と、倒れている人の状態を説明するとすぐに、救急隊員たちがどやどややって来た。サイレンが聴こえるまでは、館内は緊張した空気に包まれていた。横溝正史の密室殺人事件の需要参考人になった気分だった。結局、倒れた人は、立ち上がった瞬間に一瞬目がくらんで、暗がりで段差を踏み外した。。。というようなことらしく、救急隊員の人も、大丈夫と言って連れて行ったので、ほっとした。ちょうどお葬式のシーンの所から再開したので、大丈夫じゃないような事件だったら、この映画を見続けるのは非常に気まずかったと思う。たしかに、お天気のよい日曜日に、重装備で働く隊員を見ながら、のんきにお年寄りたちと映画観てる自分がちょっと。。。気まずかった。

 観た映画は『おくりびと』
http://www.youtube.com/watch?v=E_z0_MLvwvw

 ≪旅のお手伝い≫というキャッチフレーズを見て、観光業界かと思い面接を受けに行ったモっくんだったが、実は≪安らかな旅立ちのお手伝い≫だった。
 友達には「もっとまともな仕事しろよ」と言われるし、奥さんには「けがらわしい」と泣かれるし、納棺師のお仕事というのも大変なんだなあ。

 わたしは父の葬式にも出なかったような娘だ。映画の舞台となっている東北と、九州の最南端では、風習も違うと思うけれども、まさか、この映画が、こんな内容だとは知らなかったので、大変。。。。。なんというか、勉強になった。

 映画の中で、火葬場のおじさんが、遺体に「またどっかで会おうな」と言っていた。わたしも、最後に父と別れる時に、まだ生きている父に、「いってまいります」と言えず、「また、どこかで会おうね」と言った。それまで輪廻転生とか、生まれ変わりとか、考えたこともなかったけれども、とっさに「また、きっとどこかで会える」と思ったのだ。

 送る、送られることについて、深く考える映画だった。でも、まだ立ち直れそうもない人には、見せられないかなと思う。わたしは、立ち直ったんだろうか。大丈夫だった。
 ずっとずっと泣いていたけれども。

 わたしの記憶の《シブがき隊》ぜんぜんファンじゃなかったけど、やっぱりなつかしい〜。

ひとり身

 ナルボンヌから帰って来てからの2日間は、大忙しだった。ノエミが17日から29日までキャンプに行くので。
 《キャンプ》と言ってもテントなんかない。食事だって自分では作らないし、洗濯機まであるらしいし、JPのお母さんったら、「みんな持ってるんだから」と言って携帯電話まで買い与えてくれちゃったので、《キャンプ》とはほど遠いキャンプだ。
 毎年春になるとJPの職場から、夏休みのこどもたちのための、いろんな活動が提案されているカタログが届く。これまでにもノエミは、乗馬キャンプや、マリンスポーツキャンプなどを経験し、3週間も帰って来なかった夏休みもあった。今年はバンドデシネ(フランス式漫画)を習う授業が毎日組み込まれているキャンプを選んだ。同じ職場の人たちの、そのこどもたちが全国から集まって来る。場所はバンドデシネの博物館やフェスティバルで有名な、アングレムという町で、うちから電車で行ったら5時間ぐらいだと思う。

 ただ、係りの人たちと、全国から集合して来るこどもたちの引率の便宜上(?)、ノエミはいったん飛行機でパリに行ってから、みんなと合流して新幹線で南下するという、とんでもないコースとなった。このごろ飛行機が次々に落ちているので、ノエミはしばらく前からストレスを溜めていたが、12歳なので空港内と飛行機内で、世話をしてくれるベビーシッターは無し。特別なバッジとかそういうのもなし。トゥールーズからエアフランスに乗って、パリまで飛んで行った。乗るまではオンボロなのか、古い機種なのかなんてわからない。不安。
 飛行機は6時15分出発だったので、5時15分のチェックインに合わせて、3時15分に起きた。

 9時頃「わたし、パリに着いた」というメッセージが携帯から携帯に送られて来た。
 11時半に「今、みんなと新幹線待ってる」という内容のメッセージ。主語が複数形になったので、ホッとした。
それっきり、ぷっつり。
 子離れできてない母としては、携帯もあることだしと思って、じゃんじゃんメッセージを送っている。しつこくしている。そして娘と言うと、1日に1回だけ、「げんき」というメールを送って来る。
 向田邦子の本の中に、彼女の妹が疎開先から父親に葉書を送って来るというお話があって、手紙を書けない幼い妹は、元気な時は大きな丸、調子悪い時には小さい丸という風に、はがきに丸を書いて毎日お父さんに送ったんだよ。。。と、そういう話しをノエミにしたばかり。どんな形でもいいから、元気にしているかどうなのか、やっぱり知りたいものだなあ。ノエミはけっこう自立していて、苦難を乗り越えるのが上手な方だから信じたっていいのに、やっぱり心配なのだなあ。かわいい子には旅をさせろって言うじゃあありませんか。それにしても、携帯もメールもなく、国際電話もとっても高かった時代に、ずいぶん遠くまで行ってうろうろしていたわたしは、しかも、いつもお金がなくて、いつもおっちょこちょいだった自分は、ずいぶん親に心配をかけたんだろうかなあ。

 さて、ゾエもノエミもいなくなり、JPも連休が終わって仕事に戻ってしまったので、せっせと医者に通いながら、じゃんじゃか本を読んでいる。

 例えばこんな本

注文してたのがやっと届いた。国によって地域によって、習慣や体型によって、道具が変わって来るという研究の本。社会学、民俗学の分野で、『たたずまいの美学』の参考文献になっていたので買ってみた。生活習慣や道具が変わると、身体の使い方動かし方も変わる。そういうことにとっても深い関心を持っていて、フランス人と日本人の身体技法の違いを指摘することを、なんとか剣道の指導に結びつけたいと考えている。いろいろと難しいことを考えながら剣道やっているので、ぜんぜん上手にならないんだろう。


 友人《か》の影響でhttp://ameblo.jp/cocoro358/、斉藤一人さん(銀座まるかんの社長さんで、長者番付ずっと5番以内という商人)と、五日市剛さん(「ありがとう」が魔法の言葉だと言ってる人)に興味があったので、友人《か》のお奨めで買ってみた本。注文した本屋さんが「ずいぶん怪しい本ですが、いいんですか?」と問うてくれた。
 自分の理解できない分野は、つい「怪しげな世界?」と思ってしまうのが人の情なので、とりあえず、味見してから考えることにしている。本を読むぐらいだったらいいのでは?
 この前玄関に現れたシューキョーの人に「味見してみないと、好きかどうかわからないじゃないの」と言われ、「うまいな〜」と思ったが、さすがに集会場に行ってみる勇気はなかった。じつは簡単に丸め込まれる方なので。それについての自分の弱点は、もう痛いほどわかっているので、某プラスティック容器とシューキョーの集会場にだけは近寄らないようにしている。
 ところで、おもしろいことがいっぱい書いてあった。しあわせになることを信じる人は、強いンだな〜とあらためて気づかされた本。
 

 15歳の少年に中学生でも読める日本文学を紹介してと言われ、とっさに『我が輩は猫である』を紹介してしまった。JPが15年ぐらい前に「ワタシ ハ ネコデス をよみました。おもしろかったです」と言っていたことがあったので、フランス人でも楽しめるんだったらいいやと思ったのだが、15歳の少年でも大丈夫だろうか。夏目漱石作品は、前半だったらまあ、好き。後半の『夢十夜』とか、かなり難しいと思う。でも、『夢十夜』って、中学3年生の教科書に出ていた。母校に教育実習に行って教えた。『我が輩は猫である』のなかで、猫が「庭の木に登るのは簡単だけど、降りるのへけっこうテクニックが必要だ。」。。といって、木の降り方をながなが解説する部分があって、その部分は中学校の国語で習った覚えがある。だから、15歳の少年でも大丈夫だろう。紹介した手前、内容について質問されたら困るので、いちおう、読み直し。


 わたしが武道教育について模索していると知り、姉が読んでから送ってくれた本。悩んでたわけじゃないけど、この歳になったら嫌でも《指導者》をやらされる。だから、口達者で頭でっかちなフランス人に対抗するには、勉強に勉強を重ねておかなければ、ありとあらゆるとんでもない質問に対応できない。 いろいろと参考になった。
こんど実践で!



 もともと英語で書かれた本なので、世界中で読まれている。宮本武蔵の『五輪の書』と並んで、「剣道やってるならこれぐらいは読んでるだろう」と思われている本。これも姉が送ってくれた。でもこれ読んでると眠くなる。翻訳がまずいんじゃないかと思う。書かれてあることがよくわからない。なので、斜め読み〜〜。

2009/07/19

革命記念の日

 日本ではなぜか《パリ祭》という名前で呼ばれているらしいが、7月14日は《革命の記念日》だ。マリーアントワネットがギロチンで首を切られた、あの革命だ。
 でもカレンダーには《国民の祝日》と書かれているだけ。JPもお休みだ。7月14日は火曜日だったので、月曜日も休みにして、11日から14日までの四連休にしてしまい、これを利用してゾエをナルボンヌのJPの実家に連れて行こうという魂胆。

 わたしは医者通いと合宿の準備で忙しいし、ノエミはもうすぐキャンプに出発するので、JPも両親の顔が見れるし(わたしも見れるけど)ちょうど良かった。

 4日の間に、海岸で、年寄り抜きのピクニックをやった。JPの従姉フランソワーズとその息子ケビンも参加。ケビンは水泳の選手だ。今月高校卒業試験に合格したので、9月からは大学で科学を勉強する。科学警察官か軍人になりたいのだそうだ。JPの弟夫婦フレデリックとソフィー、その子コランも参加。JPのお父さんがハムの入ったケーキを作ってくれたけど、自分の家みたいにあれもこれもともって出掛けられなかったので、JPに海岸でピザを買わせた。ソフィーの用意したキュウリのサラダとチップスとパンと、男性軍にだけビールがあって、夜の海岸で楽しいピクニックになった。風が出て来て、海岸でピクニックをやってるのはわたしたちぐらいだった。

 翌日は天気が悪く、一日中家でゴロゴロ。こどもたちはプール。わたしは監視。ほかの大人は家族会議。弟が両親の前に住んでいた家を買うことになったので、ダニエルの息子たち三人と両親は、親はまだまだ元気ながらも、《相続》についての話し合いをしなければならない今日この頃なのだ。ダニエルの一族は《話し合う》ってことが下手なので、ど〜もいろいろなことが進まないが、弟の奥さんのソフィーが、とても積極的なおかげで、前よりも話し合う一族になっている。わたしが子供たちを見ている間にっていうことが多いので、わたしはたいしたことを知らない。

 みんなが難しい顔をしてテーブルを囲んでいる間に、わたしは子供たちを遊ばせながら読書と、インターネットなどをいじっている。昼寝とつまみ食いもやった。

 例えばこんな本、四日間大変充実していた。義母の婦人雑誌も見た。

 「古武術と身体」合宿で行う講演のための資料として。読み直し。
 このほかに『中世武家の作法』も読み直した。
 すでに3回ぐらいずつは読んだ。
  

 東野圭吾という作家は、ちょっとサスペンス系と思っていたのだが、『手紙』はちょっと違っていた。泣いた。いっぱい泣いた。
 むかしむかし連城三紀彦の『恋文』という小説も、そのタイトルに心惹かれて買って、ずいぶん心打たれた乙女時代だったものだけど、今回のこの『手紙』も似たような気持ちになれるかと思って買った。でもぜんぜん違った。

 わたし、字は恐ろしく汚いけど、手書きの手紙を書くのが好きだ。ただ長い長い10ページぐらいの手紙なんぞは、いくら私でも誰にでも書くわけじゃない。「この人に書き出したら、やめられない」という人が、ほんの数人いる。そういう人には、返事が来なくてもじゃんじゃん書いてしまう。聞き上手というか読み上手というか、そういう人たちなんだと思っていたものだから。つい甘えてしまっていたのだろう。
 相手はかなり迷惑しているらしい。このごろはインターネットもあるからねえ。

 「返事なんかどーでもいいから、こっちの気持ちを聞いてちょーだい」と、これまで一方的に送りつけて来たが、『手紙』を読み終わったあとに、そういう自分の嫌な性格のことをとっても反省した。この小説の中で、数年間に渡っていやいや手紙を受け取り続けて来た方は、手紙が届くたびに嫌な気持ちになって、「なんで手紙なんか寄越すんだよ」と言いながら破って捨てていた。しまいには引っ越しまでして逃げる。電話もしないし、会いにも行かない。「お気の毒だねえ」と思いながら物語を読んでいたら、手紙を送り続けた方が、最後に絶交を言い渡されて気づく。
「わたしは手紙など書くべきではなかったのです。(略)自己満足だったのです」と反省する。
 「なに、これ、わたし?」と恥ずかしくなっていたら、二日後に、《しつこく手紙を送りつけてるのに、返事をくれない友人》が夢枕に立ち、なにを言っているのかはわからないけれども、わたしのことをがんがん怒鳴る。わたしったら、がんがんがんがん、怒鳴られた。
 その友人からいつか返事が来るまで、もう二度とこちらからは書かないでおこう。わたしに、そんなことが、できるかな〜。うずうず。絶交を言い渡されるまでネチネチしつこく送ろうか?返事が来なくてもいいとは思っていたけれども、友だちを失ってもいいとまでは思っていなかった。それにしても、あんなに怒らなくてもいいのにと、夢から覚めてからずいぶん悲しくなった。いったいどっちが友だち甲斐がないんだろう。

 とまあ、ただの小説にこんなに反省させられたのはひさしぶり。

診察室で

 左肩と左足首が、なかなかよくならなくて、いまだに医者に通っている。
左肩は、エコグラフィーの結果、肩の骨がこすれあっているらしいのと、筋肉に穴が開いてるとかなんとかいわれている。
左足首は、数年前の骨折がちゃんと治ってないかららしい。
6月の終わりから、合計10回ぐらいアルビの医者まで行って、1時間の間、電気ショック、冷却ショック、引っ張り、マッサージなどをやっている。身体にいろんなコードを繋がれて、ベッドでじっとしている。暇なので、本を読んでいる。

 例えばこんな本を読んだ。

 『パークライフ』日比谷公園と帝国ホテルの描写が懐かしく。
 「あらよ」というあっけない最後。
 表紙からちょっと怖いのを想像していた。前に読んだ『パレード』がすごく怖かったので。


 もう何度も読んだ。今度ちょっと「日本人の身体技法」についての講演会をするもので、読み直し。
 

  「折原一」という作家を知らなかった。でも、このサスペンスはドキドキしながら読んだ。続きもすぐに。

隔離

7月19日前後のこと

7月17日日に、ノエミがたった一人で飛行機に乗って、キャンプに向かってから、家の中がシンとしている。
わたしも24日から剣道の合宿なので、JPのための料理を作って冷凍庫に片づけたり、剣道の合宿で頼まれている講演の準備をしたりした。

18日は、友人≪か≫に言われた「お財布を買い替える日」にあたっていたので、バーゲンも終わりかけて静かになった町に出かけた。お財布を買って破産するのもばかみたいなお話なので、ちゃんとバーゲンのお財布にした。でも、買った後で、デザインがあまりにも若すぎるなーと思って恥ずかしくなった。それに、まだ慣れないせいか、使いにくいし、これまでのお財布に比べてポケットが少ない。なんだかすごっく後悔している。

 お財布の中には、今年の初めに大吉だったおみくじを入れた。それから、今年の初めに日本で連れて行ってもらった高級フランス料理店の、野生のカモ肉の中から出てきた、散弾銃の鉄砲弾を、大事に紙に包んで持ち帰っていたので、それも大切にお財布に入れた。

さあ、これでお金持ちになる準備はできたのだっ!!

「今月は赤字だなあ」と月の初めにJPが言った時には、真っ青になったが、そのあとで、よく考えたら、先日寝ないでやった特許翻訳の請求書を、いまだに出していなかったことに気付き、大急ぎで請求書を送ったら、すぐに支払いの約束をしてもらえた。合宿に出発する前にいただきたいなあーと思っていたら、合宿に出発する日に入金されたので、心晴れやかに出発となった。

そういえば、心晴れやか。。。というのは、ちょっと違った。。。。

 ノエミが17日にキャンプに行き、そのあと「すごい田舎だから電波が届かない」というメッセージが何度か入って、外出先から二回電話してくれたノエミの声を聞いたはよかったが、「同じキャンプの子が豚インフルエンザの疑いで隔離された」との知らせの後、ぷっつり音信が途絶えてしまった。

JPがキャンプ場に電話して、「そんな事実はありません、と言われた」というので、わたしは合宿に出発したのだが、合宿所についてからもう一度JPに電話すると、「ノエミの部屋の三人の子が隔離されたけど、ノエミは大丈夫みたい」という。
「そりゃあ、アンタ、うちの子ももうじき隔離だよ。」
とJPに言ったら、
「キャンプ場の子供たちがみんなで隔離されたら、みんなで楽しいキャンプが続けられるから、いいじゃん」
とのお返事。なるほどな〜。
「迎えに行かなくていいの?」と聞いても、
「外からの面会は謝絶だってさ」なんて言ってるし、まあ、ラジオでは「他のインフルエンザと同じです」とさんざん言ってる。どうしようもないの??

 合宿所からも毎日3度はJPに電話したけど、「自分にはなにもわからん」という。ノエミに携帯メッセージを送れば、「元気、元気」の返事。しかし、義弟のお嫁さんのソフィーは、うっかり口を滑らして「ノエミ、隔離されてるんだってね」と言ってしまった。
「えー、わたし、なにも、聞いてないけど?」
「一人だけ隔離されないよりは、みんなで隔離された方が、退屈しないだろう」
と言って、JPは、かなり平気だ。
じつは、わたしも、合宿があまりにも楽しく、かなり平気だ。
一歩家を出ると、すっかり家のことは忘れられるタイプ、だ。悪いけど。

 24日から29日までが剣道の合宿。
なんと、ゾエの誕生日が25日で、家族バラバラのお気の毒なお誕生日だった。
JPは、見かけによらず「かわいそうだから」と言って、電車を使って、一泊で実家に帰ってくれた。プレゼントを持って。JPが「かわいそうだから」なんて言うもんだから、ダニエル家のみんなに、みのりはひどい奴と、ちょっと、言われてるような気がした。

 ゾエは、かなり平気だ。
ノエミは後で「隔離から解放されて、今は博物館に来てる」と、携帯から電話してきた。
JPはその週には、組合の出張でまたパリに行っており、4人の家族が誰も家におらず、よそでバラバラに暮らしている日々が続く。

さあっ!合宿が終わったら次の日には子供たちを迎えに行って、家族水入らずよ、と思っていたら。。。
とんでもないことになったのだ〜〜

つづく。。。 

2009/07/08

20世紀が終わった

 特にいまファンっていうわけじゃあないけど、やはり思い出の人である。

 マイケル・ジャクソンが亡くなってからこの一週間ずっとラジオで彼のことを言っている。
おとといの晩、夜の7時から、生放送で追悼番組があるとさかんに報道されていたけれども、その時間帯は夕食の支度と夕食の時間だから、主婦がテレビの前に座っていられるわけがない。

 みんなが食べ終わって、片付けを済ませて、テレビをつけたら、スティービーワンダーが唄っているところだった。

 追悼コンサートがあると報道された時に、スティービー・ワンダーとライオネル・リッチーは当然歌いに来るんだろうと思っていたけれども、もしかしたら、We are the world をいっしょに唄った、あの頃の大スターたちが、こぞってコンサートに参加するのではなかろうかと期待して、この追悼コンサートを楽しみにしていたのだ。あのなかでもシンディー・ローパーが飛び跳ねながら唄うシーンが、なぜか好きだったなあ。
  http://www.youtube.com/watch?v=WmxT21uFRwM

 わたしもともと、映画や小説の分野ではスリラーが好きだ。血みどろの切り裂きXXとか、ジュルジュルとなにやらが垂れ流れるゾンビとか、吸血鬼とか、精神異常者にしつこく追いかけ回されるのとか、殴り合いと切り合いたっぷりのやくざとギャングの映画が。。。映画だったら、好きだ。

 MTVで《スリラー》を見たとき、このアルバムを買おうと思った。アルバムを買ったはいいけど、ジャケットはちっともスリラーじゃなかったし、アルバムで音楽は聴けてもクリップの映像が見れるわけではないので、ちょっと残念。でも、あの頃の多くの若い人たちのように、わたしだってなんどもなんどもこのアルバムを回した。
http://www.youtube.com/watch?v=cIqj0xD7VCY


 テレビの生中継追悼コンサートが終わったので、シャワーを浴びて、いつものようにテレビを見ながらアイロンをかけようとサロンに戻った。夜中の12時頃、予告も無しにマイケル・ジャクソンのライブが始まった。あまりにもいきなりだったので、びっくりした。
 1992年のDangerousというツアーで、ルーマニアのブカレストでの、約2時間半ほどのライブをノーカットで見ることができた。
http://www.youtube.com/watch?v=vOqY18Nzr1A
http://www.youtube.com/watch?v=CXl-4kyP2LU

 夜中に一人、テレビに釘付けになった。腕を振り上げたり、マイケルジャクソンの「ひゅ〜」をやってみたりする。変な主婦。
《スリラー》を毎日聴いていたあの時期が過ぎたら、もうわたしの中でマイケルジャクソンは終わっていたと思っていたのだが、どうやら、コマーシャルとかラジオで彼の音楽はずっと耳にしていたらしく、歌われる曲のどれもを、なんとなく知っていた。

 1992年の元気なマイケル・ジャクソンのライブを見ながら、今どきのラップやテクノやテクトニックが、ここから発進されていたのだということを感じた。彼のダンスやファッションやメロディーが、2009年の今日、古くさく感じられないのは、つまり、今の新しい音楽やダンスのどこかに、彼のそれが引き継がれているからなんだと気づいた。
 おそらく何万人もの中から選ばれる、最高のダンサーやコーラスがバックについているのだと思うが、どのダンサーよりも動きにメリハリがあり、どんなに激しい動きのあとにも、声はぶれず、息切れをしている様子も見られない、すばらしいパフォーマンスだ。どうやったら身体があんな風に動くんだろう。

 ライブの間、人々がバタバタと倒れて、運ばれて行く映像が映った。みんな叫んでいるから、ライブの会場にいる人たちは、彼の声を聴けなかったのではないかと思う。でも、いっしょに唄うことができて幸せだろう。男性も泣いてた。

 ライブの最後で、マイケル・ジャクソンは宇宙服を着て、NASAで使われているマシーンを背負い、一人空に飛んで行った。(絶対に本人じゃないと思うけど)《未来》を意識した最先端の技術が駆使された、派手なライブだった。

 追悼番組の最後で、マイケル・ジャクソンの個人的な友人であるクリスチャンなんとかという男性が、
「彼がいなくなり、これで完全にわたしたちの20世紀が終わった」
とつぶやいていた。

 音楽カンケ−の仕事をしている友人Sと、MJについて話したとき
「残念ながら、ビートルズをリアルタイムで体験は出来なかったけど、僕らにはマイケルがいたんだよなあ。」
とSが言ったのも、じつに感慨深かった。

 ぼくらにはマイケルがいたんだねえ。

2009/07/07

アトランティス


         ノエミ〜〜!端っこはやめろと言ったろ〜が!



         とりあえず、着水〜〜

 アルビにあるアトランティスというプールに行った。
夏休みにプールや海岸に行くのは嫌い。
日光も、日焼け止めクリームも嫌い。
サングラスも水着も似合わない。
でも、友だちが誘ってくれ、その友だちは入場料を払うと言い、それをきいて子供たちはすでに歓声をあげており、わたしが「い〜や行かない」と言ったらテンションは下がるうえに、友情にもひびが入るなあと思ったので、一年間ずっと断り続けて来たアトランティスだったが、行くことにした。

 そこは、想像通り《芋の洗い場》と化していた。
わたしは壊れた筋肉を癒す注射を肩にうったばっかりだったので、やけに不機嫌だったのだが、とりあえず子供たちは泳げるし、走って転んで病院にも行ったことがあるうちのこたちはプールでは走らない。監視の人たちもたくさんいて、かなり厳しいようだったので、お任せすることにして、わたしはかってに友だちの下の子を遊ばせる小さなプールで、お風呂みたいに胸あたりまで浸かって、そこに座り込んだ。たまに、泡が吹き出るジャグジーのプールに行って、マッサージを楽しみ、恋人たちがいちゃいちゃ始めるまで、泡のプールでうとうとした。

 滑り台は二度としないと決めていたのに、誘惑と欲望のおもむくまま、ついつい室内のトンネル型滑り台を体験してしまった。
いっや〜死ぬかと思った。
 屋外の滑り台は、見ただけでめまいがした。
ゾエとノエミは30回ぐらい。。。滑ってはのぼりを繰り返していた。
ゾエには「どーか、お願いだから、滑り台の両端はやめなさい」と頼んだ。子供たちが滑り落ちるたびに、両端からつるんと外に放り出されるんじゃなかろうかと思って、ヒヤヒヤした。

 誰も放り出されず、誰も骨折せず、水着のお尻も破れることなく。。。五体満足で帰って来た。
ずいぶん楽しかったらしく「また行こう。また行こう」コールが連呼している。
行かなきゃよかったヨ。あ〜あ



 

2009/07/06

まだ、だけど

 さあっ夏休みだっ!
 最後の週は子供たちがとっても少なく、もう教師陣にもすっかり気力は残っていないので、ゲームなどをやるのが慣例となっている。「最後の日に学校におやつを持って行きますが、よいでしょうか」と提案したら、先生は大喜びだった。
じつは、ゾエの誕生日が7月25日で、夏休み中にお誕生会をしても人が集まらないし、なにしろ本人は、海のそばに住んでいる祖父母の家に行くつもりでいるので、今年もお誕生会はお預けになる。だったら、6月のうちに学校でお祝いをしてしまおうと、そうすれば、友だちを家に呼ばなくても済むなあと、母は考えたのである。

 ノエミの幼稚園時代から数えて、すでに4回目か5回目の、定番お誕生ケーキは。。。
じゃじゃ〜〜ん。お菓子の家なのだ。



 前日はピクニックとプールと医者に行っていたため、昼間に時間がなかったので、《即席お菓子の家》になった。今までで一番みっともない形になってしまったが、そこはそれ、前もって買っておいた《フルーツの形をしたボンボン》を。ゾエが派手にあしらって、見た目よだれが出そうなおかしの家に変身させた。ゾエは眠い目をこすって、夜遅くまで手伝ってくれた。
「わたしのケーキだもの。わたしがみんなを招待するんだもの」
と言って、妥協を許さない態勢だった。


 前回作った時には、量が多すぎて、一週間ぐらい職員室に置きっぱなしだった。。。などというジンクスもあるので、今回は、もとになったクッキー生地の出来も悪かったことから、先生には「余ったら捨ててください」と言って預けた。

 ジュースとコップとお皿とスプーンも持参して、先生にはカメラも預けた。ほんとうは、クラスのみんなと撮って欲しかったのだけど。。。 


 その日の放課後は、わたしは医者に行っていたためにゾエを迎えに行けなかった。ケーキがどうだったのか先生に訊いたり、一年お世話になったお礼を言ったりできなかった。
 翌日、ゾエがカメラを学校に忘れて来ていることに気づき、夏休みにカメラがないとは残念だと思っていたら、先生が家まで届けてくれた。先生によると「みんな大喜びで、一気に食べた。学校中で分けてみんなで全部食べた。」とのこと。無駄が出なくてよかった。
 「ゾエちゃんは、三年生といっしょのミックスクラスに入れといたので、来年は沢山勉強してね」と言ってゾエの頭をなでて帰った。ゾエは毎あさ夏休みの練習帳をせっせとやっている。
 「もうすぐ7歳だもの」
と、ことあるごとに言っている。
もうすぐ7歳かあ〜。

おひろめ

 ノエミはずいぶんヴァイオリンの腕を上げたと思う。

 春にアルビで、国立音楽学校の試験を受けた。
4年間のプログラムを終了して、来年は今までのグループよりひとランク上がる予定なので、そのための試験だった。
プロのピアニストの伴奏、恐い顔をした知らない先生たちの前で実技の試験を受けた。試験前にリハーサルまであった。
演奏したのはRussian Fantasia No. 3 : Leo Portnoff



 三人の試験官からとても褒められ、カーモーの学校の先生にはお礼まで言われた。
「よく勉強してくれて、ありがとう」
「こんな鍋みたいな楽器で、よくあそこまで演奏できたね」
音楽学校で借りているヴァイオリンは、「なべ」と言われている。
弓も真っ黒に汚れていて、ガリガリと弦をこする。
一度ヴァイオリンが壊れた時に、修理をしてくれた人からは、
「よくまあ、こんな鍋みたいな楽器を、お金を出してまで借りてるね」
と言われた。その時に、彼のアトリエに中古の安いのがありますよと言われたのだが、その手作りのヴァイオリンは、《お買い得》ながらも、なんと3000ユーロ!とのことだった。わたしが一年ぐらい掛かってやっと翻訳した本が、もし運良く出版されたらもらえるかもしれないお金では。。。足りないぐらいだ。ちょっとやそっとじゃあ手が届かない。

 試験に合格した翌週のレッスンで、先生はわたしの顔をちろちろ見ながらノエミに言う。
「ノエミもいよいよ大人サイズのヴァイオリンが持てる体格になったね。そろそろ自分のを買ってもらってもいいんじゃないか」
先生は、わたしがヴァイオリンを買ってあげたがっていることは充分承知。毎週ついていって、レッスンを聴いているせいか?熱心な親だと思われている。

 2分の1サイズ、4分の3サイズと、身体に合わせて少しずつヴァイオリンの大きさを換えながら、4年間レンタルで習わせた。いっしょに習いはじめた友だちは、成長に合わせてなんども買い替えてもらっていたけれども、ノエミはいちばん大きいサイズのヴァイオリンが、自分の身体に合う時になってから考えようよと言って、おねだりはしなかった。ほかのイヤイヤやってるような子たちが、自分の楽器を持って習いに来るのを見て、わたしはまじめに練習するノエミにこそ、無理をしてでも良い楽器を持たせるべきなのではないかと思い続けてきた。じっさいには「下手な職人は道具に文句をつけるんだよ。楽器が悪くても上達できる」などと言って、ノエミよりも自分を励ましていたかもしれない。買ってあげられないことは情けなかった。いくら私だって音の悪さはよく実感していたし、借りているヴァイオリンの修理にお金を掛けるのもいやだった。
 
 「ヴァイオリンを買っ؁てあげたはいいが、それ以外には無関心の親がいっぱいいる。高いヴァイオリンをおねだりして、続けないこどももいっぱいいる。ようすをみましょう。ノエミがずっと続けることに決めたら、その時にちゃんとした大人サイズのヴァイオリンを買ってあげればいいんですよ。身体も成長段階だから、まだいい楽器を選ぶ余裕はありますよ」
と先生は言い、4年の間《鍋みたいな》ヴァイオリンでよく指導してくださった。そして今は、
 「鍋みたいな楽器でよくここまで続けて来れたね。応援してくれたお母さんに感謝しないとね。ノエミのヴァイオリンが上手に唄えるように、もっとがんばらないとね」
と、ノエミに言ってくださる。

 ノエミがヴァイオリンを始めたころの日記は、2005年の9月頃にいっぱい書いた。あの年にいっしょに始めた、同い年の4人の子どもたちは、みんなやめてしまった。わたしもチェロを続けられなかった。

 学年末のコンサートでは、最上級生として小さい子とデュエットをしたり、試験で弾いた難しい曲を披露した。先生は、みんなに紹介する時に「うちの学校の希望の星、一番よく練習する子です」と言った。そして、先生の期待通りに、拍手喝采でコンサートのフィナーレを飾った。

 今年始めた女の子たちは「ノエミみたいになりたい」とか「ノエミに憧れている」と言ってノエミお姉さんを取り巻いた。わたしは、その子たちのお母さんたちに囲まれて、どうやって毎日練習させてるんだなどと質問された。じつは、毎日怒鳴りつけたり、脅迫しながら、とりあえず30分はやらせている。《やらせる》のはとっても大変だ。でも「来年も続ける。ずっと続ける」と本人が言うからには、好きなんだろうと思いたい。音楽が、ノエミの中で、なにか大切なものになりつつあるんじゃないだろうか、それはいいことなんじゃないだろうかと思う。

 わたしとJPは、毎日どうやったら30分稽古させるかに頭を悩ませている。ノエミが平気な顔をして「あ、忘れた」などととぼけるようなときにJPは、ノエミが本当はヴァイオリンは好きではなくて、いやいややっていると疑う。わたし自身はピアノを10年ぐらい習ったが、自宅でのレッスンは延べ1ヶ月分ぐらいじゃないか。レッスンは大嫌いだったけれども、コンサートで舞台に上がるのはけっこう好きだった。
 小さい時に音楽をやってよかったと思っている。これまでスポーツでも、家事育児をするのでも、音楽は何かにつけてけっこう役に立ってくれたと思うし、音楽はやはり癒しによいと思う。ピアノをしていたおかげでいま、ノエミに合わせて簡単な伴奏だってできる。娘と一緒に唄えるのはとっても楽しい。

 あいかわらず定収入はないけれど、臨時収入が入ったので、JPがなんといってもいま買ってやらなきゃと思った。そのせいでちょっとケンカもした。
 そして今日、ようやくお金を払い終わった。
先生がコンサートで使った思い出のヴァイオリンで、新品同様の中古ながらも、修理の跡があるためにお店では売れないとのこと。修理した部分に職人さんのサインが入った特徴のあるヴァイオリンで、先生の口添えで6000ユーロぐらいのを600ユーロにしていただいた。一ヶ月の間、試しに使っていい。お金がある時に、少しずつ払ってくれればいいと、貸してくださっていた。 

  JPには「ノエミが今より学校が忙しくなったり、社会人になったりして、ヴァイオリンをやめる日が来たら、高く売ればいいよ。ちゃんとしたヴァイオリンなんだから、いいねだんになるよ」と言って説得したが、じつは、そのときにはわたしがやればいいやと思っている。じつはノエミがいない時に、こっそりいじっている。
 一人で音符も読めるようになったので、これからはあまりノエミの後ろに立ってガミガミ《指導》するのはやめようと思う。「すごいねえ。楽しいねえ。すばらしいねえ。気持ちいいねえ」と毎日言ってあげようと思っている。



             先生のピアノ伴奏で

             今年始めた小学生のルイ君と

こうやってノエミがたのしそうに笑える音楽に、悪いことなんかぜったいない。