2006/01/30

犬は喜び庭駆け回り、猫はこたつで丸くなる

 月曜日なので、学校と仕事に出て行かなければならない。夕べはもう全然降らなかったが、夜に凍って、月曜日に車が出せなくては困るので、車の周辺の雪かきをした。自宅にガレージがないので、路上に駐車しているのだ。

 学校の周辺に、市役所の人たちが来ていた。スコップで雪かきをして、通学路と学校の出入り口が歩きやすくなった。土曜日も日曜日も市役所はお休みなので、職員も何もしなかったため、月曜日の朝はどこもかしこもパニック状態だった。雪かき用のトラックはどこから借りて来たものか。やっと道路の真ん中を、車が通れるようになった。とはいっても、一台ずつ譲り合って通らなければならない。

 この辺で「譲り合い」というものをお勉強したらいいのだ。普段は無理してまでも二台いっぺんに通ろうとして、歩道を走る車までいるのだから許せない。今日は除雪された雪が、歩道に積み上げられているので、歩道は、車も人間も通れない。自転車もベビーカーも通れない。みんな車道をゆっくり、譲り合って通り過ぎて行く。
 
 土曜日と日曜日は装備した車や、大型の四輪駆動車ぐらいしか通れない状態だったので、町がとても静かだった。排気ガスの匂いもなく、人々は町であいさつを交わし、「きれいですねえ」と顔がほころんでいた。なによりもオートバイという音の公害が、この世から消え去ったのは喜ぶべきことだった。ベビーカーや車いすの人はきっと不自由したに違いない。自転車通勤の人は、一日ぐらい徒歩通勤になるのは、それほど苦ではないのかもしれない。

 7時15分の電車に乗るために7時5分に家を出たJPが、8時20分に帰宅した。電車もバスもなくて、仕事に行けなかったのだ。私は、夜のレッスンにみんな出て来れるのだろうかと思って、一番遠くから来ている男性と、二番目に遠いところの女性に電話したら、どちらも「無理すれば行ける」とのこと。「本当は外に出て行きたくないけど、日本語には出て行きたい」
もう一人の女性はすでに「休みます」と言って来たので、残る一人に連絡をつけて休校にした。またほかの日に代わりのレッスンをする。

 結局JPも私も自宅待機をした。子どもたちは校庭の深い雪で、雪合戦をしたり、雪だるまを作ったそうだ。家に居るより学校で友達と遊んだ方がずっといいだろう。でも、ノエミのクラスでは26人中12人しか来ていなかった。まだまだ雪に埋もれている地域が多い。

2006/01/29

降っても降っても まだ降り止まぬ

 雪は夜遅くまで降り続いた。ついに50センチ以上は積もった。

 私は家の前の歩道だけちょっと雪かきをして、道路を渡りやすくした。日曜日だから、午前も午後も、ジャン・ジョレス公園で雪遊びをするつもりだ。
 
 JPが金魚の水槽を掃除して、洗濯物を干して、朝食のテーブルを片付けている間に、私は「子どもたちがうるさいから」と言って公園に出掛けた。るんるん

 新しい雪だるまを作った。
新しいソリのコースを作った。
ノエミがジグザグで、わざとでこぼこに仕立てた、面白い滑り台を造った。脇にはちゃんと丘に登るための階段まで造った。ゾエにも登りやすくなったので、一人で滑りはじめた。転んでも痛くなさそうなので、放っておいた。

 2003年8月に、滑り台で着地失敗して足首を骨折した経験がある。ボキーっとすごい音がしたらしいのだが、ちょうどJPの母親が下から「パンツ見えるから、やめればいいのに」と言ってたところだったので、まさか「折りました」とも言えず「平気、平気」と言って歩いてみせた。
 自宅に帰って子供にご飯を食べさせて、お風呂に入れてパジャマを着てもらってからJPに「ちょっと痛すぎるから病院連れて行って」と頼んだ。緊急窓口に連れて行かれて「折れてました」と言われた。やっぱりねえ。

 家族に迷惑をかけて申し訳なかったのだが、じつは、あの日滑り台をしたことに関しては、ぜっんぜん後悔していないのだ。滑り台に登るあのわくわく感と、滑り台の頂上に立った時のあの緊張感と、滑る瞬間の爽快な気持ちを覚えている大人が、世の中にどれだけいるんだろうか。そして、滑り台なんかで痛い目に遭う大人も、そうはいないだろう。。。わはは

 2003年8月1日から20日の間に猛暑のために、全国で14802人の死者が出た。(これは9月24日に全国の葬儀社などを中心に発表された数字。それ以前の政府の発表では死者5000人)その恐怖の夏休みをギプスで過ごした私は、もう絶対に滑りものには近寄らないと誓い、滑り台もローラースケートも遠目に見ていた。でも、ああ、ソリ三昧の週末は、もう絶対に忘れられないだろう。楽しくってお腹の底から笑った。笑っていたらJPもボボを連れて遊びに来た。そして子どもたちは滑り台に任せて、JPと雪合戦をした。JPの雪玉に日頃のストレスを感じた。そうそう、せっかくだから、おもいっきり発散した方がいいよ。

2006/01/28

ゆきやこんこ

 金曜日の晩に底冷えを感じたので、雨戸を開けてみたら雪がちらついていた。天気予報でも「注意報」が出ていた。

 そして、土曜日の朝は銀世界。子どもたちが重装備で学校に行った。小学校ではマラソン大会が催されていたので、延期になってみんな嬉しそうだった。幼稚園のゾエのクラスは、担任の先生を始めクラスの90%が休んでいて、ちゃんと出て行った子供は少々「迷惑もの」扱いだった。

 JPは休みなので、わたしにとって土曜日は、たった1人で時間を気にせずどこにでも行ける貴重な日なのだ。でも車が出せないので予定が狂ってしまい、歩いていける美容院に髪を切りにいった。お客さんの一人がカルモーから更に北のロデツという町から来ていて「あっちは今朝だけで1メートル50センチも積もっていた」と言っていた。

 ノエミは雪降る町をJPに連れられて、ヴァイオリンを背負って出掛けていった。ノエミのヴァイオリンの先生も、田舎の方から苦心して出て来ていた。最近は毎日ちゃんと練習しているので、めきめきと腕を上げている。土曜日のレッスンもすっぽかせない。雪の町に出て行くのも楽しそうだった。上手にできたと褒められて戻って来た。せっかく行くのだから、成果が上がらないと先生にも申し訳ないし。。。

 午後は近所の子どもたちといっしょに、ジャン・ジョレス公園でソリをした。ソリの道具は持っていないし、だいたい雪が降った時の準備などはないので、有り合わせのものを着込んだものものしい格好だ。子どもたちに言われてソリのためにゴミ袋を用意した。お尻の下に敷いて、前の方を掴んでシュルーと滑るだけだ。

 生まれて初めてそり遊びをした。
いくら大きくても黒くならない雪だるまを作ったのも、生まれて初めてだった。
土曜日は一日中降って、夜までに50センチ以上は積もったと思う。外の車はすっかり見えなくなってしまった。家の前の道路で動けなくなる車続出で、スクップや電話や、そして手も貸した。

 時間が遅くなるに連れて、車の通りが減り、道路には普段車で通り過ぎるだけのご近所さん達が、徒歩ですれ違って「え?この辺に住んでたの?」などという会話が盛んだった。

 面白かったのは、大人の男性がやけに浮かれていたこと。一人でせっせと雪だるまを作っている60代の人にも挨拶したし、雪合戦をしている40代ぐらいの男性たちの攻撃も受けた。そして、ボボはじっとしているとずぶずぶと雪に埋もれてしまうので、ぴょんぴょんとウサギのように跳ねながら、耳を雪に叩き付けたり、雪をなめたりしていた。寒がりボボもけっこう浮かれていた。

せめて日曜日までは溶けないで欲しい。

2006/01/27

空をあおぐ

 来るか、来るかと待っているが、なかなか来ない。雪雲。
金曜日だったので、朝市には行きたかった。
ムール貝のフリッターというのを衝動買いしてしまった。
「これください」と言った瞬間には「牡蠣のフリッター」だと思っていたのに、試食をしたら味が違ったので、ショックだった。私は「牡蠣」が大好きだ。

 ニューカレドニアでよく「牡蠣」を食べた。遠くの店まで自転車で行って、帰って来たら、自転車の後ろで大量の牡蠣が臭くなっていたこともあった。丘の上に住んでいたので、行きはささーと行けるのだが、帰りは自転車を押して、坂道を登らなければならなかったのだ。

 前年に剣道の先生のお世話をしたら、翌年にいらした先生の息子さんが「遠慮なく食べてください。おごりですよ」とおっしゃるので、遠慮なく牡蠣を4皿頼んだ。ひと皿には12個の牡蠣が入っていた。牡蠣はレストランではいつも「1ダース」で出る。その日は牡蠣の四皿のほかに、エビも二皿ぐらいは頼んだと思う。
 私はエビも好きだ。海のものは何でも好きだ。

 JPは、エビ・アレルギーだ。エビを食べると泡を吹いて、テーブルに吐いて死にそうになる、らしい。まだ見たことがない。面白そうなので一度見てみたいのだが、どうも食道が腫れて、窒息死するかもしれないので、試しにやるにはリスクが大きい。
その代わり、シーフードのお店に連れて行って、JPのところに来たエビ類を一切こちらに回してもらえるので、JPがアレルギーでよかった(?)

 ムール貝のフリッターを買って帰ろうとしたら、ちょっと雪みたいな粒が落ちて来た。
いよいよか。

2006/01/26

いい加減なやつ

 結局二日徹夜して、12時に出す仕事を15時まで待ってもらい「クレームつくかもなー」と思いながら、納品してしまった。「時間あったらもうちょっと見直しできるんですけど」と言い訳した。

 日本との時差があるので、私を見捨てて寝てしまったJPの代わりに、日本の友達に「SOS」のメールを送ってみた。彼は仕事に行く前、朝の忙しい時間に役に立ちそうなサイトをあれこれ送ってくれた。それが大変役に立った。持つべきものはだんなよりも友達である。
東を向いて手を合わせる。

 クレームが来るかもしれないので、来た時にささっと書き直せるようにと思って、いまさらながらお勉強したりしている。訳したものをインターネットのサイト上に書き込む時には、参加させてもらえるので、その時にも推敲の可能性があるからと思って安易に構えている。分野はマーケティングや情報処理。カタカナ用語が多くてとっても苦手。実務の翻訳は、だだーっとやって、2、3日で沢山の知識を得ることができる。なんとなく「業界」のことがわかりかけて、単語にも慣れて来た頃には納品しなければならず、振り返ると「あんな日本語でよかったの」と思うことがたびたびある。マーケティングのプロが作った、ハイテクなサイトは、日本語が少なくて読みにくいものになっている。私はやっぱり時間を掛けて、何度も書き直すことのできる仕事の方が、合っているなあと思う。

 疲れてもうなんにも考えられないので、もう寝る。

2006/01/25

懐かしの テツヤさん

 80年代末に東京の日本語学校で、日本語教師養成講座を受けていた。その講座はとってもインチキで、土曜日しか講義がな行くくせに、授業料だけは高く、一週間の土曜日以外は、がむしゃらに働かなければならなかった。土曜日以外の一週間を無駄にしたくなければ、どこかまっとうな会社のOLとなって定収入を得る道もあったのだが、土曜日一回やってることと一週間ずっとやっていることを比べたら「本格的」になる恐れがあるのはOLの方じゃないだろうか。
 そして、会社で知り合った誰かと早々と結婚をして、夢は諦めて主婦の世界に突入してしまう、安易そうな道もあるかもしれない。私は世間に流されやすいし、道を外しやすいので、OLになったらきっと日本語教師の道は捨てる日が来るのではないかと思った。

 だから、日本語教師の次になりたかった「司書」の道に近づくために本屋さんのバイトを見つけた。本屋さんは当時自給340円だった。正社員と同じように朝10時から午後7時まで毎日働いた。9階建ての渋谷の本屋で、わたしはずっと6階の婦人書と語学書売り場だった。エレベーターはボロでしょっちゅう止まっていたし、そんな危ないエレベーターは客専用ということになっていたので、私は一日中重い本を抱えて階段の上り下りをした。
 本屋のバイトは本を30%引きで買うことができたし、新刊に詳しくなったし、語学書の見本をもらえたし、とっても気に入っていた。でも、そこのお給料だけでは生きていけなかった。

 本屋の側にドーナツ屋さんがあったので、そこで夜勤をすることにした。駅が同じだから定期券を使えるので、自宅からは遠かったけれども、そこで働くことにした。ドーナツ屋さんでは夜の9時から翌朝の8時までが勤務時間だった。売り子ではなくて、店を閉めてから開店までのお掃除と片付けと、翌朝のドーナツを並べる仕事だった。自給480円で朝食の500円がもらえた。ドーナツ屋も本屋も週に2回の休みを取れたので、やりくりして「一日中寝ていられる日」というものもあった。それで「寝だめ」をして、多くの日は午前10時から午後7時まで本屋で働き、家に帰って食べて、着替えて、30分寝て、夜9時から翌朝の8時までドーナツ屋で働いた。「一日中寝ていられる日」を迎えるために、帰りの山手線に乗ると気が抜けて、電車で眠ってしまい山手線を3周ぐらいしたこともあった。

 昨日翻訳の仕事が入って、48時間で15ページぐらいを訳せと言われた。内容が簡単そうだったので受けたはいいけれど甘かった。しかも今や私には家庭というものがあるし、バイト時代から20年近く経とうとしているので、自由に使える時間と体力が足りない。

 徹夜一日目で、もう死にそうだ。

2006/01/24

おばさんとしては、ちょおっと、いい加減にして欲しい。

 以前、クラスの中で仲良くなりすぎて、おしゃべりがうるさい大学生のことを書いた。
先週から、ちょっと怪しいと思ったら、恋人同士になってしまったらしい。
授業が始まる三十分以上も前に教室に来て、抱き合ったり、キスしたりなんかしちゃっている。
  
    あー

 クラスの雰囲気がよくなって、楽しくできるならばまだいいのだが、5人のうちの3人がレッスン中にいちゃいちゃして、身体触り合ったり、「イヤーねー」とか「やめてよオーん」とか言いながら、身体を突き飛ばしあったりされると、机がガタガタいうだけでは済まされない、いろんな音の洪水になってしまって、授業中に必要のない音が響き渡る。
 
 「静かにして」というと「私じゃないもーん」などと言って、彼氏の身体を突き飛ばしたりしている。そして彼氏の方もまた「こいつうー」などなど言って鼻の下を伸ばしている。
 質問しても「はあ?」書く練習をさせて、私がぴったり横についていても、どうしようもない状態。私のことは、無視。いないも同然。

こんなことは初めてだ。

 私とは20歳近くも違うコドモで、親のお金で来ている学生で、けれども社会的には「成人」で、金を出してる親に会うと「うちの子はひとに迷惑などかけたことのないイイ子で、よく勉強している」と信じている。夜遅くにわざわざ何のために来てるのかわからん、というような状態だと感じているが、成人である本人に言った方がいいのか、保護者である親に言った方がいいのか迷っている。親が娘のしていることを知ったら、レッスンをやめさせられてしまうだろう。祖父の代からの教育者一家だそうだから、私の気持ちはわかってくれるかもしれないが、信じてもらえない可能性が強い。我が子を信じているからねえ。

 「あなたがもっと面白い授業をすれば、油断も防げるんです」「厳しくしすぎ。妬いてんの?」と言われるんだろうか。
 大学の講義などで30人ぐらいいるなら、無視できるのかもしれないし、みーんなやってることなんだろうが、5人しかいないクラスで、2人は中学生だし、自分の子供がこういうクラスで落ちつきなく勉強してると思ったら、やり切れない。

 とりあえず、みんな迷惑しているし、私はとってもやりにくいので、二人でよく話し合って欲しいことと、2時間ぐらいは我慢して欲しいことなどを、本人たちに伝えた。一人一人だと大人しくて素直そうなのに、今や強い絆で結ばれた二人組となり、なかなか態度がでかくなった。そして、注意したことでちょおっと雰囲気が悪くなった。「どうせ大学受験の塾じゃあないんだから、クールに行こうぜ」というところか。

 レッスンはあと18回残っている。なんだかこーんなことで憂うつになって来た。
もっと明るくいけないものか。「いっしょに映画を見ましょう」とか「あなたが好きです」とか「二人でお茶を飲みたいです」そういうレッスンをやったらうけるだろう。でもどんどんエキサイトして、ただ騒ぐだけの授業になりそうな気がする。

 普段からいい加減に生きている人間なので、今さらけじめをつけてと言っても難しいのだろうか。クラスのほかのひとが「いい加減にしろ」って言ってくれないかなあ、と思っているが、みんな見て見ぬ振りをしている。私とそのカップルにちらちら目配せして、様子を伺っている。

 なんだか地下鉄の中で、チンピラにちょっかい出されているオジョーさんを助けられずに、見て見ぬ振りをしている乗客その他の雰囲気に似ている。

 じゃあ、私は一体なんなのだろうか。。。チンピラ? オジョーさん?

2006/01/23

せっせ、せっせ

 一日中手紙を書いていた。
 面白い本を見つけたので、すでに翻訳が出ているかどうか訊ねるために、筆者に直接手紙を書いてみた。
 書いてから、住所がないことに気づいて、インターネットをさまよい続けた。その筆者はすでに10冊ぐらい本を出している人だということがわかり、彼女のほかの本をもっと読みたくなった。
 彼女はユダヤ系のフランス人で、イスラエルの学校で勉強したような経歴もある。書いているのはポーランド移民であった、ユダヤ系移民(フランスとそしてアメリカへの移民)の家族について、また、アウシュヴィッツでの虐殺について、生き残った人々の苦悩について書いている。
 かなり重いテーマなのに、10歳ぐらいの子供を対象に、とてもわかりやすく書かれている。

 ノエミは今学校で「読書ラリー」というのに参加していて、教師が「基準」に合わせて選んだ30冊の本を、一ヶ月でどれだけ読めるか、読んだあとの質問では理解度も計算され、読書量と理解力のポイント争いをする。
 学校で毎日一冊ずつ借りて来る。あっという間に読んでしまって、私が自分用に図書館で借りて来る本も、本人が借りた本も読む。この子は一日中本を読んでいる。そして面白かった、面白くなかったの評価もうまい。

 私が借りて来た本のうち、「今風で、笑えて、挿絵も愉快で、現代の子供の生活にマッチした「嘘つき」という本があったのだが、おもしろおかしくはあってもテーマが殺人と金儲けだったために、「これ、よくないと思うんだ。でも笑えると思わない?」と訊いたら「そんな本は絶対によくない。子供のためによくない」と言われた。

 そして、例のアウシュビッツで生き延びたおじいさんの物語について訊ねたら、「悲しすぎる」という感想だった。とってもよい物語で、心に残るけれども、悲しすぎるのだそうだ。
私もこんなに泣いた本は久しぶりだった。

2006/01/22

たらったりった ロト

 待ちに待ったジャン・ジョレス幼稚園と小学校の「活動する母の会」主催、《新年合同ロト》の日がやって来た。事前に何度も会議があり、みんなで準備をしてようやくこの日が来た。

 ロトの収益金は学校の備品や行事にあてられる。さあ、頑張っていこー!

「活動する母の会」は、PTAみたいなもので、毎年全席ほぼ女性のみなので、こういう名称になっているらしい。こんなに活動的な「母の会」は、今まで見たことがない。フランスのPTAというのは「あるかないかわからんもの」というのが一般的で、会議に行ったら主婦同士の悪口やら、前年と同じ計画に例年通りの反省をするのが常だが、ジャン・ジョレスの「活動する母の会」は違う。

 会議はというと、夜の8時半から始まリ、白熱したまま11時半ごろ終わったらまだまし。世間話はなし。悪口もなし。ただひたすらに子どもたちのよりよい学校生活について意見交換される。
 メンバーには働く母親が多い。みんな子供にご飯を食べさせてから来る。
 ただし、片親の家庭はこの「母親の会」に出席するのは難しいだろう。本当は片親の家庭こそ参加して意見を言って欲しい。片親家庭は母親父親両役を兼任していることが多く「母親役」だけでのんびり生きている専業主婦よりも、世間を知っているのだから。そして、片親であることで普段から問題をいっぱい抱えていて、それは学校に対する意見や反感、反省や改善点に繋がっていることが多い。だから本当は、会議をいつも夜遅くに開くことについて、わたしは全面的には賛成しかねている。自分が昼間にも会議に出て行けるものだから、こんなことも言えるのだろう。

 ロトくじ券は、すでに生徒たちの手で販売されている。当日会場に来てから、数字の入ったカードに取り替える。番号を打った玉を、ボールみたいなかごの中でぐるぐる回す。そこから転がり出て来る数字を「活動する母の会」の役員が、マイクで読み上げて行く。入り口でもらった数字入りのカードには、1から99までの数字が、ランダムに印刷されている。会場に来ている何十人分ものカードに印刷された数字は、すべて異なる。同じ数字を使った、全く同じ位置に並べられた数字列というものは存在しない。手元にあるカードは、会場内でたった一枚だが、異なる番号の組み合わせや、段の組み合わせの違いから、同時に数名の当りが出ることもある。

 読み上げられる数字が、自分のカード内にあれば印をつける。1列5つの数字が揃ったら「キーン」と叫んで景品をもらう。カード内の数字全部を当てた人に渡される「カートン・プラン」というコースもあるが、これはカード内の全部の数字が埋まった人だけ、ということになっていることが多く、時間も掛かる分緊張も高まる。

 休憩時間には「母親の会」のメンバーが手作りしたケーキやクレープが、安くで販売された。私はポットからコーヒーを注いで、売り子に渡すという役目だった。忙しかった。私の作ったケーキも、ちゃんと買ってくれた人がいた。残っていたのを自分で食べてみたら「こんなケーキにお金払わせてごめんね」という代物だった。

 午前中に女性軍が出したテーブルを、夜は「父親の会」も加わって片付けてもらえたのであっという間に終わった。テーブルをいくつか残して、あまったケーキや、買い足したピザ、ハム、チーズ、ローストビーフなどなどを、役員の中で希望者だけ残って食べた。私たちは新入りなので最初ぽつんとしていたのだが、気のきいたおかあさんの一人が「この人新入りだから相手してやって」と言ってくれたので、JPも「父親の会」のみなさんに取り囲まれて、ワインを振る舞われていた。

 ダニエル家ではだれも何も当てられなかった。お鍋セットもあともう一息だった。
景品の中にはMP3もあったし、食べ物の詰め合わせやワインセットもあった。
せっかく今朝うんちを踏んで「運がついたぞ」と思っていたのに、勘まで外れた。

 新年合同ロトの収益金は、全部で3000ユーロを越えていた。去年よりも多かったそうだ。
子どもたちによりよい学校生活がプレゼントできるんだろうか。小学校と幼稚園に分配される。
 次回の会議は2月7日、ロトの反省会と3月の行事の話し合いだ。

2006/01/21

コンサート

 友達がピアノとヴァイオリンのコンサートに誘ってくれた。前もってもらったプログラムによると、子供でも楽しめそうで、しかもJPでも知っていそうな曲ばかりだったので、4人揃って出掛けた。アルビ市のメディアテックは、数年前にできた現代的なガラス張りの建物で、玄関ホール脇の開け放たれた一角で、いきなりコンサートが始まった。

 無料コンサートだったので、誰でも来て良いしいつ出て行っても良い。でも、途中で出て行く人はほとんどいなかった。とても楽しいコンサートだった。ヴァイオリンは私よりもひとつ年上の女性で、かなり軽装だった。クラッシックのコンサートというものは、演奏する側もドレスを着ているものかと思って、一張羅を出して行ったのだが、その必要はなかったかもしれない。どうせJPはいつものセーターだったし。。。

 テーマが「映画」だったので、チップリンの「モダン・タイムス」や、ジャック・タティ「ぼくのおじさん」、オードレイ・トトゥが出た「アメリ」の曲もあったし、ショパンやチャイコフスキーなどの有名な曲の中から、映画やコマーシャルに用いられた馴染みのある曲もあった。
 例えば「007のテーマ」は、チャンチャカチャンチャン、チャンチャンチャン。。。や、ターラッティラーッタラッター。。。など、普段トランペットで出すような音も、ちゃんとヴァイオリンとピアノでやってもらえたので、すごく愉快だった。

 ほう、こんなテクもあったのか。。。と感動した。やはりプロは違うよなあ。

 プロのテクは、2弦を同時に弾いたり、半音ずつじわじわっと上がったり下がったりする「音程がずれているような、不愉快な音」(淋しい映画や恐い映画の音楽かな?)もあって、ノエミが「なんだ、これ私もやってる」などとつぶやいている。

 ちがうってばー。

 踊るように楽しそうに弾くヴァイオリニストを見て、ノエミの目が輝いている。拍手喝采を受けるヴァイオリニストに尊敬のまなざしを飛ばしながら「私も、頑張ろう」と言っている。

 よしよし

2006/01/20

へこんでます

 朝市に行き、土曜日に作らねばならないケーキの材料を揃え、ちょっと掃除をして、窓の下の方だけを拭き、午後はベッドに崩れ落ちた。

 風邪です。
でも、土曜日と日曜日に、以前から楽しみにしていたイベントが待っているので、どうしても元気にならねばならない。

だれか、おかゆを作ってくれえーい。


 2006年01月19日
ほら、きた
 火曜日の夜、日本語レッスンから学校の会議に直行した。週末に行なわれるロトの話し合いがあり、白熱した会議を夜の11時半に出ると、もう喘息みたいな咳が止まらなくなっていた。
 火曜日も水曜日もノエミ相手に怒鳴りまくり、剣道の講習会に2週間ぶっ続けで参加した時のような声になっていた。ほら、きたきた。

 ゾエもずうっと変な咳が止まらないので、二人でマスリ先生のところに行った。大したことはない。咳をどんどんして、ゼロゼロ言ってるのが出てしまったら完治というお話だった。ゾエは、注射もせず、泣きもしなかったのに、マスリ先生を脅迫して、ボンボン二つをいただいていた。

 サラダボールに熱湯を入れ、ユーカリのエッセンスを落とす。大きなバスタオルを頭から被って、湯気の出ているボールを胸に抱く。鼻の穴がすっぱーと広くなったような快適さだ。胸にユーカリの湯気が忍び込んで行くのが感じられるようだった。器官がヒリヒリする。

 次の日、家じゅうでアロマテラピーをしようと思って、ニアウリのエッセンスを買いに行った。
ニューカレドニアに生息する、白樺のような肌をした木で、樹皮からユーカリみたいにすーっとする湯気の出るエッセンスが出る。昔はニューカレドニアでしか売っていなかったので、ヌメアの友達にフランスまで送ってもらっていた。お風呂のお湯に2滴ぐらいたらしたら、湯船の中で酔いしれる。そして次の日にはすかっとさわやか、ひどい風邪でも元気になったものだ。マスリ先生のユーカリエッセンスもよかったが、ヌメアのニアウリが懐かしくなった。薬屋で売っていた。

 ヌメアはいま何度ぐらいだろう?夏休みだなんて、うらやましい。

2006/01/18

嵐の前に、静けさはない

 午前中、ノエミがヴァイオリンのお稽古を始めた。
 なんだか2カ所おかしい音があって、どうも気に入らないので「ちょっとピアノの音と比べてごらんよ」とアドバイスしたのだが、娘は「何度も弾いているうちに上手になる」と信じ込んでいて、言われたことは全く無視したまま、同じ曲を引き続けた。母の許しが出るまではやめちゃいけないという、かわいげ(?)もあるらしく、私の顔をちょろっと見ながら、狂った音のまま、40回ぐらいは繰り返して弾いた。

 よく聴いていたら、薬指の位置がずれているせいで、2本の弦の2カ所の薬指部分が狂っているというのが、私にはわかった。だから「薬指の位置が間違ったままでは、あと50回繰り返しても無駄だよ。位置を変えてやってごらんよ」といくら言っても「私の勝手にやる」と言っている。

 けんか腰になって、泣きながら同じ曲を間違ったまま弾き続ける娘。
あんたプロにでもなる気?
「ピアノの音と比べたら?」と繰り返す私。でも返って来る言葉を聞きながら、自分と娘の意思が通じ合っていないことに気づいた。

 怒鳴り合って、泣いて、疲れ切って、そうしてノエミの耳に私の声が届くまでに、ゆうに1時間半以上も経ち、彼女は狂った曲を50回以上弾き続けた。
我が子ながら手強いオンナだ。なんとも強情なやつだ。

 わたしが聞きたかったのは単に「あら?そうかしら?ママンが言ってるならそうかもね」という素直なお返事だけだったのに。。。耳に入れたかったのは「すごいっ、完璧。でもその薬指の位置が2ミリほどずれたらもっと素敵」ただそれだけだったのに。初心者の分際で、しかも私などはヴァイオリンは全く知らないのだから、音程がどうのという問題ではないのだ。

 1時間半を切ったら、ふっとのえみの気迫が静かになって、ピアノのところにやって来た。
「ちょっとこの音出してみて」というので、出してあげたら「あら変ね」と言っている。だーからー、1時間半以上前から言ってるでしょーが!

 母親が「上手にできたからやめてもいいよ」と言わないのは「自分がへたくそだから、ママンが怒っている」と思っているらしい。やめていいよなんて私は言わない。やめるか続けるかは本人の自由なんだから。やめろと言われるまでやらなきゃいけないなんて、誰が言いましたか。

 「嫌々やっても仕方ないよ」というと「いやじゃない」と言う。
やれと言えばやらないくせに。へそまがり。

 母親が「調整をしないまま何度弾いても同じだから、むきになるならやらない方がいい」と言っているのは 「おまえってやつは、いくら練習してもだめだから、何度弾いても仕方ない」と言われていると思ったらしい。

 自分の言いたいことばかりをがなり合って、相手の言っていることが耳に入らないのは、血筋なのかもしれないけれども、ここまで耳がつまっていると心配だ。

 「じゃ、伴奏してね」とにっこり言ってヴァイオリンを構えた娘は、1度目できれいな音を心に刻んで、2度目でつっかえることも変な音もなく弾けた。

 「なんだ、ママンが言ったみたいに、ピアノに合わせたら簡単だね」

ま、1時間半以上掛けて、それっくらいはわかったなら、よしとしよう。
 ううう、疲れる。私って厳しすぎるんだろうか。

2006/01/17

同期の桜

 夕方から日本語レッスンに行った。大学生は試験の季節。みんな目の下にクマなんか作っているが、ちゃんと出て来るのでかわいい。何か面白いことをしようかな、と思ったのだが、商工会議所のロッカーには面白い物が入っていなかった。

 面白いもの。すごろく、カルタ、カセット、ビデオ、マンガ、雑誌など。
カルタはいいかもしれない。折り紙もロッカーに入れておこうと思う。
ロッカーに頭を突っ込みながら、ほかの言語の先生たちがどんな物を使っているのか、探りを入れてみる。中国語とロシア語と、アラビア語と日本語は、大したものがなかった。みんな自前で教材を揃えているようだ。

 英語はアメリカの英語とイギリスの英語の教師が別々にいて、商業英語、旅行会話、初級から試験で別けられた沢山のクラスがあるので、教師も4.5人いる。職員室で、英語が飛び交っている。

 去年からスペイン語を教えている人が、おととしまで教えていて復帰したばかりのスペイン語教師と口をきかないので「あの人知ってる?」と訊いたら、案の定「知らない」と応えた。スペイン語の先生だよ、と教えたら、きゃあ、と叫んであいさつしに行ってしまった。
 コピー機の前でスペイン語が飛び交っている。

 私がぽつんと一人でいたら、職員室の隣の教室に入って行く私の生徒たちが「こんばんはー、みのりサーン、お元気ですかあ」と声を掛けて通る。
「あー、ロールさん、こんばんは。ありがとう、元気でーす。あなたはあ?お元気?勉強しましたかあ。平仮名を沢山書きましたか。今日は早いですねえ」とできるだけ長ーい会話になるように返事をする。
すると、英語やスペイン語やアラビア語やロシア語の先生たちが「すごい、10回20時間のレッスンでここまで!?」という尊敬のまなざしで見ている。

 平仮名とカタカナ、漢字が入り乱れた教科書のページが、コピー機から流れ出て来るのを見て「すごい。こんなのやってるなんて」と覗きに来る。
実はまだ、カタカナも漢字も教えていないんだけど。

 今日は、「どこへ行きますか」を勉強して、甲子園や大阪城に行った。
「本当に、マンガで見るみたいに、日本の春はどこもかしこもピンクなんですか」と聞く学生が居たので「そうだよ。どこもかしこも桜でいっぱい、ピンクだよ。」と応えたら、みんなが一斉に口を開くのをやめ、夢見心地に日本のさくら吹雪を思い浮かべている顔をした。

 先ほどの男性が「来年、日本へ行きますっ。」と宣言していた。本当は「行きたいです」と言いたいのだけど、まだそこまで勉強していない。

 次回は「JALで行きます」や「恋人と行きます」も言えるようになっているはず。クラスでも「昨日、どこへ行きましたか」などが使えるようになって、もっと楽しくなる。
同僚はいなくても生徒がいるから淋しくないのだ。
それにしても「せんしゅうの すいようびに、わたしは ともだちと びじゅつかんへ いきました」この長い一文が全部平仮名で読み書きできるようになった。脱帽してしまう。

2006/01/16

成人の日は、清二郎の日

 数年前までは1月15日が成人の日だったので、いつもお休みだった。休みといっても特に何かした覚えはない。うちの母は祝日には「日の丸」を立てる人だったから、「日の丸」を立てるという行事はあったと思う。1月15日の祝日は特に大切「お父さんの誕生日だからね」などと言っていたような気もする。この人は家人のために旗を立てていたのだ。(実は私の誕生日も祝日)

 亡くなった人のお誕生日は、もう祝わないものだろうか。父は4月8日の「お釈迦様のお誕生日」に旅立ったので、お誕生祝いができる。実にめでたい日だ。

 私の幼稚園は乗船寺の住職が経営されていたので、お釈迦様のお誕生日の花祭りがあった。白い象が倉庫から出て来て、小さなお釈迦様に甘酒をかけた覚えがある。とてもよい季節だ。

 冬の合間の、ポカポカと暖かい1日だった。

先日日本に電話したら「うなぎ池に縁起のいいお祭りが出るから、お姉ちゃんとちょっと遊びに行ってくる」と母が言っていた。去年はお父さんと一緒にお参りをしたうなぎ温泉だ。
あの仏像はたけおじちゃん(母の兄)に似ているから、会いに行くのが楽しみなんだそうだ。

 いい天気だったらいいねえ。
温泉にもつかってくれば?

強情なオンナに 拷問される

 なんでも、暗い小部屋で「ぽたっ、ぽたっ」という水音を何時間も何日も聴かせ、やがて「やっ、やめてくれえー。白状するから、水を止めてくれー」と言わせてしまう、恐ろしい拷問があるらしい。

 確かに「時計のチクタク音が好き」とは言ったが、普段は耳には入らず、気づいた時に鼓動のようなチクタク音が聴こえたらほっとするというだけで、暗ーい小部屋でチクタクしか聴こえなかったら、たしかに頭が変になるかもしれない。

 私もかなり愚痴る方だが、いっやあーノエミの「ぴーちく ぱーちく」にはかなわない。
このオンナ、一日中しゃべりまくっている。
 この頃は音楽もやっているので、音程の狂った歌を一日中歌っている。口笛も吹けるようになったので、こちらが愚痴り始めると、あごを突き出し、鼻を天に突き立てて「ひゅー」と口笛吹きながら逃げる。のび太みたいに。食事の時は歌も口笛も禁止というと、足を踏み鳴らしている。足が使えない時には、テーブルをタムタムにしている。油断すると食器も叩く。たまにテーブルの上の食品も床に落とし「ぐしゃっ」と親の神経を逆撫でる。

 辞書を読むのが好きなオンナは「テレビを発明したのは一体誰でしょう?」とか「水星までの距離は何キロでしょう?」とか一瞬頭よさそうに思えて実は、生活にはぜーんぜん役に立つとも思えない、難し気な質問をして来る。
応えられなければ「ママン、学校行った方がいいよ」  うるさい。

 子供部屋にはノエミの物が散らばっている。ノエミは物を捨てないオンナだから、9年分のありとあらゆる物が、部屋を覆い尽くしている。そこに物には未練を持たない、でも面白そうな物は全て自分のと信じていて、借りる時には敬語も使えず、返す時には投げてよこすゾエが加わったら、子供部屋は戦場と化す。

 「それは私のだ」「これは貸してない」「それはくれると言った」「私が大事にしている物を」叫び合いと取り合いと、つかみ合いととっくみ合い。

 我が家でただ1人、ノレンのようにクールに生きているJP(ジャン・フィリップではなく ジョン・ノレンと呼ぼう)がついに爆発した。
「毎日毎日同じことの繰り返し。耳障りな音が果てしなく続く。頭が変になりそうだあああ。水音の、あの拷問にあっているようだああ」ついに、キレた。

 子供に向かって大声を出すと、もうそれだけで恐ろしいお父さんのお出ましだ。
そして、プライドを傷つけられた娘と、父のめったにきけない大声にびびった娘が、いつまでもいつまでもさめざめと泣く。涙がぽたぽた落ちる。ぽたぽたぽた
 「やめろー。やめてくれえええ」

 なんで泣いている、なんで泣き続けてる、怒鳴られた原因はなんだったのか。子どもたちがそれぞれに泣かされた訳を唱え始めて、カエルの大合唱となる。
「あっちがわるい、おとうさんがわるい、わたしはわるくない」
 ゲロゲロ ゲロゲロ ぐわっ、ぐわっ、ぐわっ

 「ほら、だから、どうして私が爆発するのか、ちょっとはわかったでしょ」
頭を抱えているJPの背中に向かい、クールなおいうちをかける。

 人がキレてる姿を見ると、愉快だ。自分もあんな顔をしているんだろうか。
家じゅうに鏡をぶら下げたら、もっと穏やかになれるだろうか。
いや、それってもっと恐ろしい拷問かも。

2006/01/14

ひょこり にっこり

 去年の9月11日の日記に、JPの海軍時代の同僚の話を書いた。クリストフという。フランスの私の結婚式に来てくれた従姉や友人たちは、彼に会ったことがある。真夏に真っ黒い革ジャンで、しかも時速150キロで走る巨大なオートバイで、結婚祝いに来てくれたあんちゃんだ。

 彼はJPの、世界にただ二人しか居ない友達の一人だ。

9月11日に同時テロの日、うちでテレビを見ながらお茶を飲んでいたら携帯がなった。地中海のフランス軍港であるトゥーロンから、アメリカ軍攻撃に備えて紅海とインド洋の安全管理のため、軍艦が出動することになったので、休み返上で船に戻れという連絡だった。
 それ以来、半年以上音信不通となった。

 フランス海軍は、インド洋と紅海がぶつかる場所にあるジブチという国にも軍港を持っている。地中海から出動した船は、スエズ運河を通って紅海に出る。パキスタンやイランの沖に行くには、ジブチを拠点にしなければならない。クリストフの乗った軍艦は「その辺」をうろうろしていたと思われる。

 ジブチ帰りの青年は、真っ黒に日焼けして、肌の真っ黒なエチオピア人の妻を連れて来た。ひょっこり帰って来た。彼女の名前はとても難しいので私たちは「ベラト」と呼んでいる。
とてもかわいい人だ。エチオピア人ときいたら、身長3メートルぐらいかと思っていたが、彼女は1メートル50センチぐらいしかなく、会ってすぐに親近感が湧いた。
目線が同じ、というのはおつきあいのポイントだ。

 エチオピアという国は、ジブチ・ケニア・ソマリア・エリトニア・スーダンに挟まれた大きな国だ。山あり谷あり、河あり湖ありの自然に溢れた国らしい。いつもベラトが来るというと、私たちはピクニック用品を用意して、森や林に連れて行くことにしている。靴を投げ出して子どもたちと跳ね回る、陽気な女性だ。


 今日、クリストフとベラトに会った。ひょっこり来た。引っ越してから初めて遊びに来た。
今度はベラトのお腹が1メートル以上になっていた。四年待ち望んだ赤ちゃんが、冬の終わりに生まれるのだそうだ。こりゃあ、おめでたい。

 革ジャンを着て、オートバイで走り回り、外国紙幣と持ち物のない暮らしが大好きだったクリストフも、なーんだか、それらすべてが似合わなくなっていた。海軍も辞めて、今年からは陸で暮らすそうだ。うちの側に家を探している。こりゃあ、うれしい。

 赤ちゃんがちょっと大きくなったら、エチオピアの家族に初孫を見せに行くのだそうだ。私たちもついて行きたいねーと言っている。

2006/01/13

4メートル!?

 ノエミのクラスメートのお母さんが、朝私の顔を見るなり
「テレビ見たっ?」と叫んだ。
テレビがないと言ったら問題がこじれるので「見てないけど?」とだけ応えた。

 「日本で2メートルの雪が降っているって、テレビで言ってたよ」
とのこと。「日本の北の方でしょ?」って言ったら「日本よ、日本」
薩摩地方で2メートルってことはなかろうと思いつつ、指宿の母に電話してみた。

 「新潟とか長野では4メートル」
ほらやっぱり「あっちの方」じゃないの。
4メートルの雪だなんて、想像もできない。見たこともない。
私はスキーができるような深い雪を見たことがない。

 今週の日本語レッスンで「沖縄は台湾の隣」で「北海道はサハリンのすぐ下」と言っていたら、みんなびっくりしていた。日本の小説を読むと「うちの裏山」とか「目の前の小川」とかでて来るので、「日本は山や川に囲まれた自然の豊かな国」という解説を読んで、みんなびっくりする。

 ノエミが「パパはどうしてマクドが嫌いなの」と訊いていた。マクドはアマゾンの森を切り開いた牧場から牛肉を取り寄せているからだ、と応えている。「マクドだけじゃないけど」
 狂牛病の事件以来、ヨーロッパの国々はアメリカからのお肉の輸入をやめて、ブラジルから買うことにした。ブラジルでは、牧場のほかに、大豆を作るために「地球の肺」であるアマゾンの森を切り開いて畑や牧場にしている。2003年にはこの年だけで6120平方キロメートルの森が消えてしまったらしい。北海道の3分の1なんだそうだ。広大なる北海道の。。。

 インターネットで衛星からの全世界の写真を見ることができるので、ノエミとJPは数日前からそれにはまっている。毎日「サハラ」や「アマゾン」や「ニューカレドニア」を空から見ている。

「指宿市」も見ることができた。JPはフランス北西部のブルターニュ地方を訪ねて、昔よく遊びに行ったおじいさんの家を発見した。区画整理でよくわからなくなっていた。

 ボタンひとつで、アマゾンも指宿市も見れるなんて楽しい。それにしても「小さな日本」で雪が4メートルも降っている所と、菜の花の咲き乱れる中、太陽を浴びながらマラソンのできる指宿市のあること。。。なんとも不公平だ。

 自然の威力というものはすごい。そのすごい自然を破壊し続ける人間も、なんかやっぱりすごいというかひどい。衛星の映像でサハラの侵略を見たら、じっとしていられない。宇宙旅行を夢見ている人も居るし、実際お金さえあったら宇宙旅行もできる時代になってしまった。今は宇宙からみた地球が美しいから、宇宙旅行も楽しのではないか。
 宇宙から腐った地球をみたってしょうがないと思うのだけど。

2006/01/12

南向きの図書館の日だまり

 太陽が輝いている。日だまりを歩いていると身体が柔らかくなって、スキップしたくなる。パソコンの前にじっと座っている日々を反省して、仕事も外ですることにした。
メディアテック内の図書室へ。

 カルモーには「ビブリオテック」つまり図書館はない。今フランス中で人気の「メディアテック」と呼ばれるものだ。絵画美術の展示会や講演会ができ、大きな資料室もある。「ディスコテック」と呼ばれる部屋もあるが、これは踊る部屋という意味ではなくて「ディスク」つまりCDが保管されている場所。このメディアテック=文化センターは、文化的活動の情報交換のばであり、図書、文書資料、音楽CD、CD−ROMなどを借りることもできる。

 いつも水曜日と土曜日に子供といっしょに行く。子供は勝手に子供の図書室へ行き本を選ぶ。私は10分ぐらい大人の図書室をうろうろするが、すぐに二階の子供の図書室に向かう。

 今日は一人で子供の図書室に行った。もちろん学校の時間なので、子供は誰も来ておらず、司書の女性があくびをしながら「ダヴィンチ・コード」を読んでいた。この本の一巻後半で挫折した私は「面白いの?」と訊いてみたが、彼女も「彼の始めての作品に比べたら落ちるけど、図書館で訊ねられるから流行の本は読むようにしている」と言った。

 私は筆者別に並べられた本棚のAとBの棚に座り込んで、一冊ずつ本棚から引っ張りだした。
フランス語の本は縦に並べてあるので、書名は首を左に傾けて読まなければならない。ローマ字の書名は日本語のように縦には書かないのが普通だ。本棚は日本と同じで、本を縦に並べるのに、書名は横書きだから困る。

 子供の図書室の床はカーペット敷きだから、床にあぐらをかいて本を読んでいると、私は周囲のテーブルよりも低くなり、図書質に入って来る人からは私の姿が見えない。昼間の静かな図書館で働く人たちが、誰もいないはずの児童室に上がって来て、同僚の悪口を言ったり、家族の問題を訴え合ったり、奥の休憩室でタバコを吸ったり、コーヒーを湧かしたりした。普段は笑顔の窓口嬢の、第三者にとっては笑い話にもなりそうな悩み事が耳に入り、図書館では感じたことなどなかったタバコの煙やコーヒーの香りも感じた。面白い光景だった。

 よさそうな本を三冊見つけて戻って来た。さっそく読み始めてみたが、古い作品だったのと、日本の子供には難しそうなテーマだった(ユダヤ人の問題)ので、この三冊は返そうかと思う。
ちょっと残念だったが、一人で図書館に行くという、素敵な幸せを見つけた。

2006/01/11

面白い本はないか。。。

 いつもの水曜日。忙しい。
音楽に行き、図書館に行き、ノエミを乗馬に連れて行った。

 日本のある出版社に問い合わせていた本が「その本は企画が出されている」という返事だったのでちょっとがっかりした。でも、自分が良いと思った本が、たとえ誰かほかの人の手でも紹介される可能性がある、と思うとうれしくなる。自分の目に狂いがなかった、と思いたくなる。

 その出版社の人が、親切にも「あなたも企画を出したら読みますよ」と言ってくださったので、今、本を探している。「あなたの本を読みましたが、とても良かったですよ」と褒めていただいた。今までこの日記で話したことはなかったのだが、実は、私は2004年に始めて翻訳の本を出した。

 強運と偶然と、たくさんの人の協力と励ましがなければ生まれなかった本だ。そして「とても良いお話でした」と褒められたその文章は、何度も何度も書き直し、叱られ注意を受けて、編集さんにもずいぶん手伝ってもらって、やっと出来上がった本だ。次回は自分一人の文章を書きたいと思っているので、なかなか形にならない。

 先週・今週と、翻訳をしているひと数名とメール交換をした。子供の活字離れと偏った「ブーム」、日本社会の不況が子供の読書に与えて来た影響などを、憂えずにはいられない。時間が掛かるわりには、認められるということの難しさ。これはどんな職業でも同じだとは思うけれども。もっといい本を紹介したいのに「売れる本」を探さなければならないという事情も、話を聞くたびに悲しくなる。

 けれども褒めてくださったと、先ほど書いた出版社の方が「日本でも図書館を巡る状況が向上している。図書館への国からの援助や司書が増えている。ボランティアによる読み聞かせの努力がみのりつつある。学校でも読書時間を増やすことに取り組んでいる」というようなお話を聞いた。
「日本の読書事情も捨てたものではないんですよ」と現場の人の前向きな発言に、身体が震える思いだった。

 もっともっと良い本を紹介したいなあ、と思っている。

2006/01/10

上げ膳 下げ膳

 この前おそばを食べてもらった友達が、おそばの作り方を教えて欲しいというので、作り方の出ている本を持っておじゃました。火曜日の朝はお互い忙しいので、1時間ぐらいしか話をすることができないので、「本を貸すからやってみて」ということになった。

 友だちは娘さんの服をノエミにと言って出して待っていてくれた。同い年なのに、大量のお下がりをもらうことができてうれしかった。

 ノエミはさっそくお昼休みに帰宅した時に、お下がりを着て喜んでいた。

 夜は日本語のレッスンに行ったが、このクラスは全部高校生と大学生で、配ったしゅくだいをちっともやって来ていなかったため、2時間ずっと復習するハメになった。平仮名も忘れているし、困った。でも、「明日も試験」と言いながら、ちゃんと出て来るあたりがかわいい。

 夜はノエミが作った「クロック・ムッシュー」だった。
食パンにチーズとハムを挟んで焼いた、いわゆるホット・サンドイッチ。
「パパの手を借りずに、ノエミ一人で作った」と妹のゾエが自慢していた。とてもおいしかった。

家に帰って食事の支度ができているとはうれしい限り。
よい娘を持ったものよのお。

2006/01/09

新学期

 日本の歴史を勉強しようとしている。新学期であるしインターネットで、かねてより気になっていたパリのある大学の試験内容を見てみたら、日本語学科の試験で「弥生時代と古墳時代について説明せよ」という問題があった。高校時代の歴史の参考書をみたが、そうするともっと詳しく知りたいと思うことがいろいろ出て来た。
 
 ほかにも「古事記」についての作文や「平安時代に関する解説」の問題もあったので、もっとちゃんとに本の歴史を勉強しなければと思った。フランス人が試験官のテストで、「日本人のくせにそんなこともわからないのか」と言われたら恥ずかしい。フランス語で日本の前方後円墳について語れる日がくるんだろうか。

 日本語のレッスン再開。クリスマス休暇は、お祝い事や親戚との食事、里帰りで、とても忙しかったはずなのに、皆よく勉強して来ていた。
 12月のレッスンで「書いてください」「タバコを吸ってもいいですか」「起きて、顔を洗って、朝ご飯を食べます」などに使う「て型」と、「タバコを吸わないでください」「勉強しなければなりません」などと言うための「ない形」を勉強していたので、その復習から。

 新年初のレッスンは
「年末ですから、大掃除をしなければなりません」
「休みだから早く起きなくてもいいです」
などの会話練習をした。

 筆を貸してあったフローランスさんは、ご主人のために「義根主手」と書いて、額に入れてプレゼントしましたと言った。フローランスさんの名字を思い出して「ああーギネストね」と読んであげねばならない。努力は褒めてあげねばいけないのだ。漢字4文字の名字って日本人に存在するのだろうか。湯通堂さん(ゆつどう)さん、上敷領(かみしきりょう)さんという同級生がいたし、福岡のお友だちに「安河内(やすこうち)さんという人がいるけれども、4文字はちょっと覚えがない。

 頭の中で「もっといい字を見つけてあげようか」という想いが駆け巡っていたのだが、友達の「出龍(デルリューさん)」 剣道の先生「道霊(ドレイさん)」クラスメートのポリーヌさん「宝林(発音するとポリンと聞こえるので)」のように、美しくもぴったりの名前がとっさに見つからなかった。ちなみに「Emilie (笑美理)」「Thomas (冬馬)」などのハーフの子供を知っている。なかなかよいと思う。

 ノエミはNoemieというフランス語の名前だが 「乃恵海」と書くようにしている。日本の小学校に入れた時に同じクラスに「もえみちゃん」や「なおみちゃん」という子もいたので、違和感はなかった。

 ゾエは日本人の名前にしたら、変。とっても変。濁音はなんとなく避けたかったのだが、いい名前が思い当たらなくて、名付け辞典をAからたどっていたら、Zではじめて「コレ」と思う名前に突き当たったのではなかったか。。。その辺りの事情は忘れた。

 フランス人の男性の名前に「エリー Elie 」というのがあって、むかしサザンの「いとしのエリー」という歌が大好きだったので、「エリー」にしたかったのだが、男の子が生まれなかったのでゾエになってしまった。
「ゾゾーとする、エエーとのけぞる」でイマイチのネーミングだったかなあと思った。この頃は使い慣れてきたから好きだけど。

 漢字は「象」「蔵」では、ちょっとかわいそうなので「想」を「ゾウ」と読んでいただくことにした。むりやり過ぎる。「エ」は「愛媛県」の「愛」にした。「恵」も「愛」もうちの子どもたちと血が繋がっている者の中にいるので、おばちゃんと従姉から一字ずつもらったということにした。

 JPの母親は「ゾエ」が生まれた翌朝一番に、産院に電話して来て「どうかお願いだからその名前はやめてくれ」と言った。「怪盗ゾロ zorro」「価値のない人間のくず zero ゼロ 」「動物園ゾー zoo」に似ているから、きっとその子は不幸になると言われた。自分のはじめての子供に「ジャン・フィリップ」なーんてつけるような人に、そんなことが言えるんだろうか。

 フローランスさんのご主人は「ギヨム」さんという名前。「義を与えて無(何も残らず)」や「疑惑の世の中、夢をみる」じゃだめだろうか?


漢字4字から5字では無理だと思うが、淡い期待とともに「ギヨム=ドゥ・ギネスト」の漢字表記を募集します。どうぞよろしく

2006/01/08

ガレット・デ・ロワ 王様のケーキ

 今日はEPIPHANIEエピファニーと言って、キリストが生まれたので、三人の王様がお祝いに来たと言われている日だ。この日は、ケーキの中に陶製の小さな人形が入ったケーキを食べる。
毎年自分で作っているが、今日はメリオッサンのお誕生日に呼ばれているので、そのケーキが出ることは間違いないと思って作らなかった。

 子どもたちをメリオッサンの家に連れて行った。子どもたちのパーティーだと思っていたので、子供だけ置いて私はおじゃましようと思っていた。もちろんJPは連れて行かなかった。そうしたら、実は私たちの分まで切り分けられていた。8つに切り分けて一人ずつ渡された。JPが来ていなかったのと、メリオッサンのパパの帰宅が遅れ、来るはずだったパパの友人も来なかったので3つ残っていた。そこにいた二人の母親と、4人の子どもたちのケーキにはお人形が入っていなかったので外れだった。

 子どもたちを置いてうちに帰った。夕方JPに子どもたちを迎えに行くように頼んだ。その前にメリオッサンのパパも帰宅していたので、残っていたケーキはJPの分だけだったらしい。みんなは最後のケーキにお人形が残っていることを知っていたので、JPに食べて帰れと誘ったのだが、事情は知らないし、人様のお宅は苦手だし、夕食前だし、外は暗くなっているので、JPはケーキをいただかずに戻って来てしまった。

 自分の分のケーキも切り分けられていたんだね、とびっくりしたと同時に、申し訳なさそうだった。私の方こそ、自分がケーキを勧められた時に「家に居るJPも呼びに行っていいですか」と言ってあげればよかった。もっと人付き合いでは緊張せずに、親切な人にもう少し気軽にできないものだろうかと思った。

 親切だと思った人に「思い違いをしていたのかあ」と感じることは、これまでに何度もあったので、そのたびに臆病になるようだ。思いやってもらうことにももっと慣れたら、思いやれるようにもなるのかもしれない。人付き合いは難しいなあ。

2006/01/07

プレゼントを買いに

今朝はいつもより早く目が覚めたらしくて、ノエミの方が先に「ママン、おはよー」とキスをしに来た。掛け布団の私の足元に座って「さあっ、ネズミ来たかなー」と言っているので「なんだ、こんな早くに起こされたか」とうつろだった私も、そのひとことで一気に目が覚めた。

 しまった。せっかく用意したのに、ネズミからのプレゼントを枕の下に置くのを忘れた。

 「トイレ行って来なさい」
いつもこれを一番に言うことにしていたのは、正解だった。

 ノエミが走ってトイレに入ったので、私はがばっと起き上がって、だだーっと走ってのえみの部屋に行き、枕の下に「野鳥の地図」とイタリアの2ユーロ硬貨を置いた。そしてだだーと自分のベッドに戻り、寝たフリをした。

 1本目が抜けたほどの感動はなかったみたい。1本目のころは私も張り切ったもので、その頃フランスではまだ見かけることの少なかった《シルバニア・ファミリー》のネズミのお母さんを置いた。2本目はそのネズミのお母さんの子供だった。そのあとシルバニアファミリーがちょっとずつ増えて行ったのだが、あまりにもぼろぼろ抜けるので間に合わなくなって、ネズミのシールとか、ネズミの小さな絵本とか、格下げとなってしまった。ああ、情けない。ノエミも、以前は抜けた歯といっしょに「ネズミさんありがとう」のメッセージを置いておくようなかわいさがあったのに、この頃は「なんだ小銭か」などと言っている。

 ノエミはリッチだ。この子は何でもとっておくタイプ。お菓子でもおもちゃでもいつまでもいつまでも大事にとっておく。そしてゾエに横取りされる。
 ゾエはもらったお菓子は全部その場で食べ尽くし、要らなくなったおもちゃは「あげていいよ」と言える。

 ノエミにお金を借りたら必ず返せと要求される。そのノエミがお友だちのプレゼントを買いに行くと言って張り切っている。二軒隣のメリオッサンという変わった名前の女の子だ。

 ノエミは12月で9歳になったので4年目の学年(CM1セー・エム・アンと読む)で、メリオッサンは1月で9歳になるので3年目の学年だ。(CE2セー・ウー・ドゥー)
ノエミがクラスで一番小さいと思っていたら、一番若かったのだ。今日メリオッサンのお母さんに、学年は1月生まれから12月生まれで分けられる、と聞いて始めて気づいた。

 メリオッサンは、犬が好きだけど両親が芸人で地方巡業なども多く、自宅には庭もないので犬が飼えない。だからたまにボボを見に来るが、ボボはあまり子供の相手が好きではないので、申し訳ない。耳を引っ張られても噛み付いたりしない優しい犬なんだけれども。

 ノエミはメリオッサンのために、犬に関する本を買うんだと張り切っていたので、いっしょに本屋に行った。でもお小遣いでは大きな写真集などは無理だし、小説で犬が主役になっているものは二冊しか見つけられず、どちらもノエミがその場で読んで「イマイチ」だったので買う気になれないようだった。読んでしまったから買う気が失せたのだと思う。

 「女友達」という小さな本を買った。それは、ルノアールやラトゥールの絵画なども出ている、きれいな本だった。「女友達」をテーマに仕立てられたもので、女友達の絵画のほかに、やさしい詩や、女友達と長続きするためのアドバイス、女友達にしてあげたいことが書いてある。有名な書物の明言などが、たくさん引用されてまとめられた本だった。

 なかなか良い本を選んだものだ。7ユーロだったので、私も3ユーロ参加した。犬好きのメリオッサンのために、レジのところにぶら下がっていた犬のシールも付け足していた。

2006/01/06

でき あがり

 幼稚園の先生が、昨日泣いた子数名を再検査に連れて行ってくれた。
「だって、健康診断ぐらいは最後までやってもらわないと」
ゾエなどは体重も身長も測っていないし、視力と聴力の検査もまだ。
 子供には「今日はわがまま言わないでね。検査なんだから、全部やってもらうんだよ」と何度も言った。担任の先生も仲良しの子もいっしょだったので、服を脱ぐのも、体重計に乗るのも、平気だったらしい。
 
 先生がこの子は色もわかるし、数字も読めるし、教室では積極的に取り組んでいる、というような助言もしてくださったらしい。教室で使っているノートも持参したそうだ。でも、昨日すでにチェックが入ったところ、例えば「三部構成の人の絵が描けない」というような点に関しては、取り消されていなかった。「検査拒否」の記録も残されたままだった。

 昨日看てもらいたかった、皮膚のかぶれとひどい咳については、今日母親同伴でなく、集団となったため、看てもらえなかった。今度ちゃんと小児科に行くつもり。


 ノエミの乳歯が今週立て続けに2本落ちた。4歳から生え変わったのに、去年と一昨年は1本も落ちず、いまになってぼろぼろっという感じだ。抜けた歯は、枕の下に置いておくと、ネズミが抜けた歯をみに来て、代わりにプレゼントを置いて行く、ということになっている。ネズミは私。急に抜けたので、プレゼントにできそうなものがない。

 ほかの家庭では小銭を置いておくというのは聞いていたが、それじゃあ夢がないじゃないのと思って、いつも、ネズミの絵が入ったものや、ネズミの小物、ネズミが主役の本、ネズミが好きそうなチーズの模様の何か、などをあげて来た。先日はサロペットの胸当てに貼付けるワッペンをあげて、ついにネズミ小物が手元になくなってしまったところに、また抜けた。仕方ないからJPが「2ユーロでいい?」と言ってポケットから出す。ただの2ユーロじゃ芸がないから、イタリアから来た2ユーロ硬貨にした。ノエミは各国のユーロ硬貨を集めていて、ドイツやスペインの硬貨は全部集まっている。

 それでもやっぱりただの小銭じゃ夢がなさ過ぎるので、本棚を漁っていたら、まえにGEOの雑誌の付録についていた、「渡り鳥地図」というのを見つけた。今日ラジオのニュースで、ヨーロッパにも中国の「鳥カゼ菌」が届いて、若い人が二人か三人亡くなったとのことだった。

 さて、明日の朝の反応が楽しみ。

2006/01/05

でき そこない (本当はやれるのに、うまく見せられなかった)

 専門家による3歳児検診。問診のほか知能テストや健康診断が行なわれた。
 昨日家で特訓した、飛ぶ・ボールを投げる・片足で立つ、あたりはおもしろがっていたが、だんだんゾエの元気がなくなって来た。
 色の質問や、影絵から物を判断するテストで、口ごもり始めた。「この色なに?」と言われて、当然「赤」と元気に応えると思っていたら「わかりません」というのでびっくりした。

 続いて「プティ・ボノムを描け」と言われた。丸と四角と棒線を使って、人の絵を描けたら合格となる。 実はノエミもこれでつまづいた過去がある。二人とも絵を描くのは好きな方だ。3歳のころ、すでにノエミは、ドレスにアクセサリーをつけたお姫様を描くことができた。それなのにテストの日「プティ・ボノムを描け」と言われて呆然としていた。私に「だれ、それ?」と訊いた。「誰でもいいから好きな人を描いて」とか「ママを描いて」と言ってくれればよかったのに。

 さて、ゾエは普段から動物や乗り物の絵を描くのは得意なのに、丸と四角と棒線でなにやら知らないものを描けと言われて呆然としている。文字を書くための導入で、幼稚園でも「丸と四角と棒線を描く」練習をしているが、それを検査するなら「丸」とか「四角」と言ってくれればわかるのに。検査用のマニュアルがあるので、言葉を言い換えたり「好きなものを描け」と言ってもらえないのがしゃくに障った。検査の人とゾエの関係がぎくしゃくし始めた。

 次に絵見て、物の名前や動作をいうテスト。「この犬、何してる?」との質問に、ゾエよりも呆然としたのは私の方。「座っている」と応えるべきなのかな?と考えていたら、ゾエが黙っているので検査の人が怒ったように「犬小屋の前にいるのよね!」と言った。「前」と「後ろ」を判断するテストだったのなら「どこにいる?」と訊いてくれたらよいのに。

 イルカが頭を上にして描かれている絵でも「何をしている?」と訊かれ、これは大人の常識で私も検査の人同様「ジャンプしている」という応えだったのだが、ゾエは「イルカは浮かんでいる」と言った。水面を泳いでいる、ということ。でも、浮かんでいるか、泳いでいるか、ジャンプしているのか誰にもわからない。そこにはイルカが描かれているだけで、背景は描かれていないので「いまイルカが何をしているのか」は誰にも言えない。
「イルカはどんなことをする動物か」と解釈したら「イルカは水の上をぷかぷか浮かぶことのできる動物」とも言えるかもしれない。

 そして、その検査の最後の絵を見て、ゾエが「わからない」と言った時には、もう連れて帰ろうかと思った。その絵はゾエの大好きな「オートバイ」だったのだから。完璧にやる気をなくしているらしい。

 聴診器で心音を聴いてもらうことも、聴力・視力検査も、体重測定や身長測定も、全部拒絶し、泣きわめいて暴れまくり、不機嫌そうな顔の検査官に、続けられないと言われた。
 ノートに「検査拒絶」「三部構成の簡単な人物画さえ描けず」という表記。
 わたしは、検査の人に自分の子供が「できそこない」と評価された気がして辛くなった。このままだと進級できないんじゃないかと心配になった。

 でも、問題はそんなことではなかった。そんな1日のテストで評価できるはずがないのだ。そして、親が「この子はこれができる」「こういう言い方をしたらわかる」「こんな風に言えば自信を持つ」というようなことがわかっていたら、それでいいのだと思った。検査の人の態度や、子供との接し方をみていて、「これじゃだめだ」というのがわかっただけでも得をした。あんな人たちからの評価に惑わされることはないのだ、と思えるようになった。

 教室に戻り、担任の先生にゾエの様子や評価を見せ、親として憤慨していることを伝えたら、身体検査などは、明日またやり直してもらえるように頼んでくれるとのこと。先生は自らクラスでの様子やいつものゾエのことを、検査の人に話してくれるとのこと。
 「知らない人がいきなり来て、いろいろ命令したのが悪い」と先生は言う。クラスにも、泣いて検査に応じなかった子がほかにもいっぱいいたらしい。
 「いつも接して、子供と行動をともにして、毎日話して、たまには個人的にじっくり話し合ったりしなければ、子供のことはわからない。ゾエは今日調子悪かっただけ。成長に関しては心配しないように」と元気づけられた。

 母親が側にいたから、甘えていたのかもしれない。「わがまま言ってないで、早く服を脱ぎなさーい」といつも通り怒鳴っていたら、服ぐらい自分で脱いだかもしれないが「泣くので、中断して帰って来た」という状況は、ただの甘やかしとどう違うのだろうか。

 強制することと自由にさせることの境界がつかめない。不安だ 

2006/01/04

初夢は「馬主」?

いつもの水曜日が復活した。
学校が休みなので、午前中に図書館へ行き、午後はノエミが音楽と乗馬。ゾエは前にやったBCGの再検査がよくなかったので、もう一度注射し直すことになった。もう二回ぐらい買いに行っているが、薬屋に予防注射が売っていなかった。今朝また電話が来て、「約束していたけれども、今朝来てもらっても、注射が卸屋から届いていないので来ないでください」と言われた。

 ノエミの音楽も、ゾエの医者も14時15分の約束だったので、ノエミを13時45分に音楽学校に送り、薬屋が開店する14時に出直して注射をもらってから、マスリ先生のところに駆け込んだ。14時14分だった。
 ゾエは痛くなさそうなのに、それでもぎゃあぎゃあ泣いて、またボンボンを2個もらってポケットに入れると、急に元気になった。

 いったん家に帰り、ノエミを迎えに行き、そのあとおやつを食べて、すぐにポニークラブ。

今回もノエミしか来ていなくて、先生とアシスタントは暖炉の前で小さくなっていた。
「一人なんだったら連れて帰る」と言ったら、「せっかくの新学期だから一人でもみてあげる」と言いつつ、先生たちは暖炉から離れられずにいた。

 そうこうしているうちに、女の子が二人、男の子が二人、いつものメンバーが揃った。元気に「ボンナンネ」と言ってキスをして、抱き合って、けんかしながら「今日の自分のポニー」を取り合いして、みんなで外に出た。

 ノエミは休みの間に、馬の絵をたくさん描いた。乗馬用の靴やジャンパーを祖父母にもらった。ヘルメットは私が買ってあげた。ズボンと鞭(ムチ)はJPの弟が使っていたもの。ただし「ムチで操らないと馬が動かないのは、下手だから」というプライドにより、ノエミは家に置いて行く。この頃はたまに鞍(くら)なしでも乗っているらしい。

 「車を売って、馬を飼いましょう」運動推進中。ノエミはこの頃「ジョッカーになりたい」などと言っている。じゃあ親は「競馬の馬主になれる?」と、いっしゅん眉毛が動いた。なんかカッコいい響きである。オペラ・グラスに幅広の帽子。。。ちがうの?

2006/01/03

新学期

 新学期。学校が始まった。冷蔵庫が空っぽで、牛乳が1本もなくなってしまったので、買い物に行かねばならない。
大したこともしていないのに、食料だけは減って行く。。。

 子どもたちが昼間いないので「しゃべる人形」も寝ている。「寝ろ」と命令したら、「オッケーグーグー」と言ったあとに目を閉じる。口笛を吹いて起こすまでグーグー寝ている。

 目が開いている時には、まぶたも動くし、鼻の穴や瞳孔が大きくなったり小さくなったりするので、こいつといるととっても恐い。しかも子供の心を惹く技は、母よりも勝っていると見えて、子供にジョークを飛ばして、ゲラゲラ楽しそうに笑わせている。
 
 いつか、母親の座を奪われないかと一瞬心配したものの「この子はお料理も、お掃除も、食器洗いもできないしー」と言われている。
そうか、母親ってそんなに重要な存在なのね。。。ううう。

 子供はクリスマスの時よりも、人形のことを忘れる時間が長くなった。このまま忘れられて、やがて私が《隔離病棟》と呼んでいる、倉庫の段ボールに片付ける日が早く訪れて欲しいものだ。


 買い物に行くついでに、友人におそばを持って行った。なかなか良い出来だと自慢したかったので、むりやり持って行って食べるようにお願いした。夜にメールが来て、子供さんと「おいしい」と言って食べたとのこと。よかった、よかった。
ただ、やはり三日も経つとくっついてしまったらしく、茹でる時にぼろぼろになったらしい。
あとで本を読んだら、こねる時間が少なすぎたのだという結論に達した。
次回はもっと要領よくできるかもしれない。

2006/01/02

トシ

 鹿児島出身のトゥーロンに住んでいるトシから電話が来た。鹿児島弁で1時間以上も世間話をして、気分爽快となった。

 「家出をしたくなったらうちにおいで」と言ってもらえたので、近いうちに必ず家出を。。。いや。。。旅行を、しようと思った。

 ノエミはトゥーロンで生まれた。フランス海軍の地中海の軍港があって、ノエミが生まれたころはJPがまだ船に乗っていたので、しばしば「岸壁の妻」した。

 トゥーロンには日本からのお友だちにもたくさん来てもらった。そして鹿児島出身で、ひとつちがいで、同じ誕生日の「トシ」にも出逢ったし、ニューカレドニア時代に親しくしていたカップルとも再会できた。いつか「帰りたい」街だ。

 トシが電話して来て、馬鹿笑いをして、鹿児島の話なんかもして元気が出た。

トシが縁起をかついでくれたのか、夕方にはグアドループのピッションさんからメールが来て、彼の新しい本ができたので、来週わたしにも送ってくれるという連絡だった。
今年も彼の本を訳すこことができたらうれしい。

 気分が良くなったので、トシにこの詩を送ろう。

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    あした    石津ちひろ

あしたのあたしは
あたらしいあたし
あたしらしいあたし

あたしのあしたは
あたらしいあした
あたしらしいあした

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 明日から学校が始まる。夜更かし癖のついた子どもたちが眠れないようなので、パソコンを消して、私も布団に潜ってみせなければならない。

おやすみなさい。

2006/01/01

年越したソバ

 クリスマスにはJPの実家で、お店で買ったアイスクリームの《ビュッシュ・ド・ノエル》が出た。しかも、カスタードクリームではなく、アプリコット・ジャムのクリーム。アプリコットの季節ではないから、あれはインチキな代物だッ!ゆるせん!と思いながら帰って来た。

 クリスマスが近づくといつも《ビュッシュ・ド・ノエル》という、薪を形どったロールケーキを作りたくなる。季節ものだから。カスタード・クリームが入ったロール・ケーキで、チョコレートをドローリとかけ、フォークで木の肌模様を描く。

 クリスマスは自宅で過ごせなかったので、敗者復活戦だーと思って、せっせとデザート用の《ビュッシュ・ド・ノエル》を作っていたら、肝心のソバを打つのをすっかり忘れてしまった。

 夜は除夜の鐘もないし、イベントなしの予定だったから、軽く魚のアルミホイル焼きと、トマトのご飯ファルシにした。ご飯の上にカビチーズの《ロックフォー》がのっている。一応フランスだからー。ご飯は残り物だったので、夜には《お坊さま》にご飯を差し上げられなかった。

 除夜の鐘も、パリのような車が燃える騒ぎもないので、しーんと静かに食べ、シャンペンの代わりにレモネードを飲んで、JPが仕上げたチョコレートまみれの《ビュッシュ・ド・ノエル》を食べた。気がついたら23時57分になっていたので、世間の盛り上がったカウントダウンでも聞こう、と思ってラジオをつけた。

 台所の電子レンジのタイマーは、3分も遅れていたらしくて、ラジオをつけたら、カウントダウンどころか「イギリス人が《ハッピーニューイヤー》と言いながら抱き合っていますッ!」
というシャンゼリゼからの生中継をやっていた。

 あーあ、すでに年が明けていた。
まーた、出遅れちゃったよ。

 仕方ないから、家族で「ボンナンネ」(よいお年を)と言い合って、キスをして、抱きしめ合った。子どもたちは眠くてふらふら。
 あんなに盛り上がっていたのに「ボンナンネ」と言ったとたんに「だから?どうする?」ということになってしまった。

 日本の母に電話したら、8時なのにまだ寝ていた。孫たちが来ていて、夕べはにぎやかだったよ、というので安心した。去年の今ごろなんて毎日寝不足だった人。

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 で、ついたちは、午前中に煮豆やまき寿司やみそ汁を作って、午後は昨日食べそこなったソバを打った。レシピには「そば粉を1キロ用意する」と書いてあったけれども、失敗した場合に1キロもどうしたらいいのかわからないので、333グラムだけにした。見た目はなかなかだった。夜が楽しみ。

 そのあと、煮豆をして残った大豆で豆腐を作ろうと、すり鉢で必死に大豆を潰していたら、ラジオで「世界のお正月」というのをやっていて、ちょうど日本からの中継。フランス人の記者の報告。

 「日本人の大晦日は、男性軍と女性軍に分かれた歌合戦のテレビの前で暮れ、初日の出を見なければならないので、みんなけっこう早く寝た。三ヶ日は奥さんが料理をしないので、男性が台所でスープを作る」などと言っている。おいおい。

 《三ヶ日は寝て暮らす日本式》というのをすっかり忘れ、食べるもののことばかり考えていた私。。。働きすぎ。すり鉢を片付けて、大豆はミキサーで潰して、温度調整とか全く無視した、木綿豆腐を作った。これは明日食べる。

 豆腐でインチキして、余裕ができたので、ピアノの練習をしていたら、夜になってしまった。
 夕食は、手打ちソバと、昼に食べ残したまき寿司。なんて豪華。お肉ものがないので、ハムを出した。ちょっと淋しいから、この前日本から届いた《するめ》も出した。来年の大晦日あたりに食べようと思っていたのに。なんて太っ腹。

 手打ちソバは、歯ごたえがあっておいしかった。ソバ職人になれるかもしれない。次回は手打ちうどんもスパゲティーも夢ではないかもしれない。(この食い意地って一体。。。)

 餅の代わりにだんごでも作ろうと思って、あずきを探していたら、この前使い果たしたとばかり思っていた、サトウの切り餅が1個だけ出て来た。去年従兄が送ってくれた切り餅の生き残り。お兄さんの切り餅には、2年がかりでお世話になってしまった。東を向いて手を合わせる。

 木綿豆腐の入ったみそ汁と、おからを使ったお惣菜と、ソバの残りと、サトウの切り餅を四つに割って焼いて食べるのだー。お正月っぽくなった。

 12月31日が過ぎ去った瞬間から、たまった洗濯物も、ホコリもぜーんぜん気にならなくなったので、心穏やか。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。
健康で、穏やかで、平和な1年になりますように。
いろんな夢が見られますように。
そして夢に近づくことができますように。