2008/04/28

自転車

 先日、ナルボンヌから帰って来る途中で、家族ケンカのせいで車の中があまりにも加熱してしまったためにーーそうとしか考えられないーー、走る気力をなくしちゃった我が家の自家用車。彼女は(フランス語では自動車は女性名詞)まだ我が家に戻らない。国道の非常用電話で呼んだトラックが運んでくれたのは、行ったことも聞いたこともないような田舎のガレージで、普通ならば貸してもらえる臨時の代車の用意もなかった。なので、私たちはタクシーでカーモーまで帰った。

 フランスでタクシーに1時間以上も乗って、こんな遠くまで送ってもらったのは、生まれてはじめてだ。100ユーロぐらい掛かってしまった。(タクシー代は保険で降りる。ほっ)自宅に帰って来たら、郵便箱がいっぱいになっていて、そのなかには(待ちたくないけど)お待ちかねだった、先月の電話料金の請求書も来ていた。先月は日本にたくさん電話したので、例月の10倍も払った。普段滅多に電話を使わないんだから、まあ、良いんじゃないのと思う。JPは今のところ何も言わないが、
 「電話代で消える金で、日本に帰っておいでよ」
と言わないかと思って待っている。

 車の故障と請求書に対面する以前に、すでに、
 「今月は赤字だな〜」
と思いながらバカンスに出掛けていた。のだけれども。。。
ナルボンヌで思いがけず、お小遣いをもらった。ほほお〜
お誕生日と言えば、おこづかいなのであるのであるう〜〜。

 数年前まで義父母はお誕生日にいろんな物品をくれていた。フリーマーケットで買った骨董品とか、今流行の小型家庭電化製品とか、義母のへんな趣味の装飾品とか。。。
 そういったものの多くが、いかに無駄で、あげるほうの希望に添うことが難しく、ときに狭い我が家には邪魔だったり、子供のいる家庭には迷惑だったりすることも、考えられるんだよな〜、ということが、10年以上掛けて理解できた、らしい。
 三年前に築百年以上の古い町家を買ったわたしたちには、必要なものが溢れている。なので、この頃は「家のものでも買いなさい」と言ってお誕生日やクリスマスや、いろいろな記念日に、お金をくれることが多くなった。誕生祝いで板や工具を買ったりしてきた。でも、毎回お金ってわけでもない。もちろん、そこは、それ、フランス人なので、できる時だけ、もちろん。お金をくれる時には、当たり障りのない小さな記念品もいっしょに添えてくれる。フランスではお祝いごとにお金をやりとりすることは習慣としてはあまりないので、お金を渡すのはいけないことのように感じるようだ。小切手切って、ハイよと渡す人もいるが、うちの義父母はちゃんと封筒に入れて、カードに「好きなものを買いなさい」とひとこと添えてくれるので、人情はある。
 
 誕生日だからといって、いつもいつもお金がもらえるわけではないから、あまり期待してはイケナイ。今回も「まあ、だったらいいな〜」と、思ってなかったヨと言ったらウソになるけど、なにせ、今月末が赤字なのはわかっていたので、ここのところ毎日「お金が降ってこないかな〜」と祈っていたのは確か。「お金が降ってきました。ありがとう」のおまじないも、ちゃあんと唱え続けていた。   
 宝くじを買おうかと思ったほどなのに、宝くじを買う小銭さえ勿体なかったので、まあ、運を天に任せて、月末が静かに過ぎ去ることだけを祈っていたのだ。お金が足りてる時でも、余ってる時でえも(滅多にないけど)宝くじを買うような勇気(?)はない。わたしは人の運はついてるけど、金運にはそっぽを向かれていると、ずいぶん昔から気づいている。

 と、いうわけで、お誕生日にお小遣いをもらって、赤字を切り抜けたのだ〜〜。
感謝感激。ありがとう、メルシー。グラシアス。ダンケシェ〜ン。

 自宅に帰り、子どもたちは改めてお祝いの絵を描いてくれ、JPは、夜中にこっそり台所で何やってるかと思ったら、ケーキを焼いてくれた上に、台所に盛大な花束も飾ってくれていた。

 歳をとるのも悪くないなあ〜。

 自動車は戻らない。なので、自転車で活動している。
このまま自動車は、ガレージで面倒見てもらえないものだろうかと思うほど、自転車のある暮らしは楽しい。
身体に優しい歳にする。つもり。
ゾエがJoyeux Anniversaireは長過ぎて書けなかったから、Bonne Anneeにしといたからね、と言って、習いたての筆記体でBonne Aneneee と書いた紙を持って来た。金色のドレスの女が激しく踊っている絵付き。
「良いお年を」の意味。その通りなのでヨシとしよう。

2008/04/26

バカンス〜〜



 春休みも終わろうとしている。JPは、子どもたちの春休み二週目に、一週間の休みを取った。屋根裏部屋の改修工事でもやってくれるのかと思ったら、実家に行くというのである。ああ〜。
 5日間のうち、3日は大雨だったのだが、残りはいいお天気となって救われた。
リル・シュル・テットという所に、二時間ぐらい掛けて行ってみた。砂の山が、風でボロボロに崩れた、壮大な風景の見られる場所だった。崩れた山肌は、ひだののようになっていて、《パイプオルガン》という名前がついている。
私たちは近くの野原でピクニックをした。JPはレストランに連れて行ってくれると言っていたのに、子どもたちにピクニックのほうが良いと言われてしまった。


 雨が降った最初の3日に、本をたくさん読んだ。
『ぼくが電話をかけている場所』レイモンド・カーヴァー(2回目。オチがなく、いつの間にか終わっている短編に、なぜか余韻だけが残る。不思議だ)
『水は答えを知っている』江本勝(お水にありがとうのいつもの友人『か』お奨め書。心温まる言葉を浴びた水は、心まで温めてくれそうな結晶になる。写真がきれい。)
『センセイの鞄』川上弘美(オチに味あり。でも、期待はずれなオチだったな?川上さんの文章、けっこう好きかも)
『袋小路の男』絲山秋子(ついこの前に続き、すでに2回目。クセになりそう)
『11人いる!』萩尾望都(実家にあった漫画。SFはあまり好きじゃないけど、つい読んでしまった)
『重耳(上)』宮城谷昌光(中と下まで全部読む根性、あるかな?とっても面白い)

 本をたくさん読むーーというのがこの春休みの目標だったので、持って行った本が全部読めて嬉しかった。おまけに、義母の婦人雑誌も片っ端から読みあさり、料理のレシピをたくさん切り集めて来た。パソコンのチェックは一回だけやった。日本語で返事できないのを理由に、おおかたは見ていないことにした。。。。以前は、パソコンが1日でもチェックできないとイライラしていたのだが、このごろのわたしは、なにが優先か、ちょっとわかってきたのかもしれない。


 おととい、ナルボンヌから帰って来る時、後部座席で娘たちが姉妹喧嘩を始めた。喧嘩と言っても、ご機嫌なゾエが鼻歌を歌い始め、それが30分以上も同じフレーズなのに腹を立てたノエミが『うるさい。やめろ』を三百回ばかりコピーして、ついに、両親までキレた。こいつらは、まったくもって、限りなく、病的にしつこい。
『ルルルンーやめてよ。ルルルンーやめてよ。ラリラリーうるさい。ラリラリーーうるさいー。タララ〜ーおんち。タララ〜おんち』が一時間以上も続き、気が狂いそうになる。
『ルルルンーおんちーいい加減にしろー2人とも静かに』の四拍子が、
『ラララ〜うるさいー耳が痛いー2人ともアホ臭いーケンカが幼稚ー程度が低いーいい加減にやめてー降ろすよー降りたいー』連発、苦しみの九拍子になり。もう拍子も取れない。
 終いにはなぜか知らないが「お母さんはわたしよりもゾエを愛しているんだ」の、ノエミ音頭が始まり、JPがイラつきはじめる。
「こりゃ〜いけないなあ〜。もーやだな〜」と思っていたら、車が、《ぷすっ》と、本当に《プシュッ》と、炭酸が抜けるように、まるでくしゃみをするみたいな音を立てて、《ヒョロ〜〜〜〜》と停止した。
「もう全然走る気なし」って感じだった。

 ノエミがついに黙った。家出するとか言ってたクセに、今度は「緊急の電話を探してくる」と言って、道路脇を走って行く。(こんな時に限って携帯は充電切れ)
 電話を掛けに行ったJPと交代してボボのおもりをするとノエミが張り切って言い、不安がってるゾエに優しい言葉をかけ、まあ〜そうこうしているうちに、近所のガレージからトラックが来てくれたので、わたしたちは知らない田舎のガレージに車を預けて、タクシーでカーモーまで帰って来た。

 カーモーに着いた時には、もう誰も怒っていなかった。そして、みんなで五体満足、帰り着いたことにだけ、ほっとした。
大急ぎで用意した、ハムとトマトソースだけのパスタに、誰も文句を言わなかった。

2008/04/18

雨なので


 午後の三時に、電気点けなくちゃならないような日は、家の中が一日中暗いので、学校でも一番暴れん坊な男の子の友だちに、家に来てもらう。子どもたちには「喧嘩したら、おもちゃはすべて家に置いて行きます」という書類にサインさせた。明日からナルボンヌのJPの実家に行くので、おもちゃを持って行けないのは、ちょっと辛いだろう。
 気にいってるおもちゃとは。。。
NINTENDO DS
シルバニアンファミリー(日本の従妹にもらった)
プレイモビル

子どもたちがぎゃーぎゃー言ってるのを完全無視して、春休みになってから、わたしは手紙を書き続けていた。
 3週間かけて6回も書き直した手紙を、今朝やっと送った。肩の荷が降りた代わりに胃が重くなった。

 本ならいっぱい読んでいる。

ゆうべは『教養としてのスポーツ・身体文化』なる本を読んだ。國學院大学の教科書だが、縁があってこの教科書を戴いた。武道の項目で、剣道競技審判で、審判員の主観に負うところが多い指摘があり、審判の妥当性、信頼性に関わる問題であると述べられている。審判員に嫌われてたら、試合でなかなか一本取ってもらえない。。。そういうことを思い出す。
 ガッツポーズを見苦しいものとする剣道の習慣や、声援しないことについて。規定でもないのに暗黙の規定となっている様々な『間違い』について。様々な習慣を『それが当たり前』と決めつけず『なぜそうなのか』と考える姿勢を持ち、武道に見られる伝統や文化の意味を問い直すべきだとの表記があって、興味ぶかく読ませていただいた。
 『自分を粗末にするものは、上達がおぼつかない』とは、まさに、剣道だけのことではないなあ〜と思いながら読んだ。
 若い人たちに、こんな教育をしてくれる先生が、いるんだなあと思って、頼もしくなった。

それから、一度挫折したことのある『言語の脳科学』も、再び出して来て読んだ。
 「言語に規則があるのは、人間が言語を規則的に作ったためではなく、言語が自然法則に従っているからである。」
というチョムスキーの言葉がある。脳化学を研究している著者が、科学的な面から、言語を習得する脳について述べた本だ。とっても難しい研究書だ。
 脳は、とっても複雑で、まだまだ解明されていない謎が多いので、この本でも「今後の研究に期待がかかる」みたいな点が多くて、ちょっとがっかりした。でも、ひとつ、とっても感銘を受けたことがあった。
 「人間は、ほかの動物と違って、何十年もかけて大人になって行く。だからこそ脳が複雑に育って行く時間もあるわけで、複雑な脳の構造を作っていくのにも都合が良い」というようなことだった。
 そうかあ。時間掛かってるから、脳も複雑に出来上がるのか。じゃあ、時間掛けてる分、できるだけ多くのことを取り込まなくちゃ。

 
 これからTom Waits を聴きながら、子供たちに頼まれて、人形のお洋服を縫うつもり。
今日はお菓子を作らない。昨日、日本から船便の小包が届いた。その中に、2ヶ月前に買って日本から自分で送った、いろんなお菓子が詰まっていた。

 ゾエは栗羊羹が大好きだ。。。「ン〜おいしい〜」と目を閉じて鼻を天に向ける姿は、《ミーさん》のチョコレート以来だ。
栗羊羹とは、ちょっと意外。。。

あ、お日様が。。。

2008/04/17

ありがとう




 二月の忙しい時に、友人『か』のブログを斜め読みしていたので、春休みに入ってじっくり読み直そうと、彼のブログを引っ張り出してみたら、『夢十夜』のことが書かれていて、
ドキッとした。
http://kansya385.blogspot.com/
 教育実習で、母校の中学三年生に国語を教えた。受け持ったのは、運慶が仁王を刻んでいるという第六夜だった。今読み直したら、こんなに奥の深い文章を、本当に、このわたしが中学生に教えられたんだろうか、生徒もかわいそうに。それとも、あれは夢だったのかもしれない。
 わたしは第八夜が好きだ。
床屋で鏡に映る、往来の様子を細かく描いたくだりが素晴らしく、自分もこんな表現力があったら良いのにと思う。
 わたしは子供の頃に、《つばめのおじちゃん》って呼んでいた床屋さんと、ニイホ先生という女医さんがやってる歯科医に行くのが大好きで、用がなくても用を作って通っていた。なぜわたしがあんなにせっせと通っていたのか、夢十夜の第八夜を読んで、目が覚めるようにわかった。これは何十年越しの大発見だった。

「自分はその一つ(註・床屋の鏡)の前に来て、腰を卸した。すると、お尻がぶくりと言った。よほど坐り心地が良くできた椅子である。」

 そうだったのか。まさに、あの《お尻がぶくりと言う》感覚と、そのぶくりの椅子に包まれて、居眠りをするのが気持ちよくて、わたしは床屋と歯医者にせっせと通っていたのだ!!そうだそうだ。

「腕組みして枕元に座っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う」
これは夢十夜の第一夜の出だし部分。

 そうやって、宣言してくれたら、心の準備もできるものだろうか、と思う
さて、時間だ。行こうか。。。

 朝から冷たい雨がひっきりなしに降り続く冷たい日だった。そんな暗い夕方に、わたしはチェックの傘をさして、リリアンの葬儀のために、カーモーのサン・プリヴァ教会に向かった。
 リリアンは、ポーランド語とロシア語の先生で、商工会議所の語学研究所の教師仲間だった。教会の前で霊柩車の到着を待つ人々が、彼女はいつも笑っている人だったから、今日も泣いちゃ行けないよ、と言い合っていた。「わたしわざと派手な服を着て来たわ」と言う女性もいた。
 わたしは英語教師のジェームスと、彼の恋人のパトリックといっしょに、教会のずっと後ろのほうに立った。

 フランスのお葬式は、明るいアーチの下に響き渡る、唄とオルガンの音で始まり終わる。
キリスト教のお祈りの言葉も、意味もわからないので、わたしはみんなのようにアーメンと言ったり十字を切ったりしない。教会の石像の薄く開けた目が見ているものや、指さきの指し示すものに想いを馳せる。彫刻の着衣の繊細なシワに、ポーズに、どんな意味があるのかを考える。アーチやステンドグラスや壁画や絵画の現さんとするものに、心惹かれる。たくさん歌われた賛美歌のなかで、二曲だけは口ずさむことができた。

 「最後のお別れを」
人々が腰をあげる。一人一人、棺の前で、手を合わせたり十字を切ったりした。
わたしはどんなお別れの言葉も見つけられなかったので、ただひとつだけ、思いつくままに「ありがとう」とだけ言った。
いつも元気な大きな声で笑い、人を笑わせていたリリアンには「ありがとう」が似合っている。リリアンが静かに目を閉じているせいで、太陽も元気がない1日だった。でも、太陽もリリアンのようにからからと笑う日が来る

 リリアンは、灰になり、ポーランドに戻る。
自分が死んだら、JPは、一体どこでお葬式をやるんだろうかと思って訊いたら、「そんなこと考えたこともなかった」と言われた。
JPに「教会でお葬式やってもらいたいの?」と訊いたら、「生きてても行かない場所に、死んでから行ってどうする?」と言われた。

 

2008/04/10

人は、一度巡り会った人と二度と別れることはできない



 母に電話して、相変わらずバカ話をしながら、ガハハと笑った。
母がいきなり「ナカマタダイサクくんを覚えているか?」というので、びっくりした。ナカマタダイサクくんのことなら、よく覚えている。
 身体が小さくて、口は一文字にきりっとしており、色黒で、脚が速く、頭のよさそうな声をしていて、確かに頭が良かったので、わたしが入れた高校には、彼は入らなかった。
 「ナカマタくんのご両親にばったり会って、世間話をしたんだけど、ナカマタくんのお父さんが『みのりちゃん元気ですか?』と訊いていたよ。みのり、悪いことできないね」というので、わたしはナカマタくんが40歳になっているだろう顔を想像して、それぐらいの歳のナカマタくんのお父さんを想像してみた。運動会でいつも1番だったナカマタくんの体操服姿は思い出せても、40歳のおじさんになっている姿は、どうやっても想像できなかった。
「お母さんが、折田先生はお元気だろうかって訊いていたよ」
去年の夏に、折田先生には知覧のご自宅でお会いしたので、「お元気ですよ」と伝えることができたそうだ。
私たちの《おぼうさま》をクスノキに彫ってくださったのは、4年の時の担任だった折田先生で、あのクラスにナカマタくんも居たのか〜と、懐かしくなった。

 またもや翻訳の本の読み直しをしていた。今度こそ最後。調べものの再確認などや、個人的な興味も手伝って、ユダヤ教のことを調べていたら、《ユダヤ歳時記》という面白いサイトに出逢った。ニューヨークに住んでいる日本人女性で、結婚の関係で、ユダヤ教に改宗したという経歴をお持ちの方だ。質問のメールを送ったら、すぐにお返事をくださって、わたしはまた、ひとり、遠い空の下にメル友を持てたような気がしている。教育のことなども聴いていただいている。うれしい。この方の名字が、わたしの本の主人公で、ユダヤ人のおじいちゃんの名字とまったく同じ。あまりの偶然に驚いてしまった。

 数日前からちびちび読んでいた『パイロットフィッシュ』を読み終えた。一気に読んでしまえる本だったのに、時間が掛かったのは、新しいページを開くごとに、やるせない気持ちになったからじゃないか、と思う。
 この本を読んでいる間中、本を手に取るたびに、呼吸が乱れた。
鼻から動物の骨を吸い込んでーーそれはたぶん、完全なY字型をしている鳥の胸骨かなにかで(そんな物は鼻からは入らないんだけど)ーー、それが、心臓と胃の中間辺りの、脂肪と筋肉の間の、わけの分からない液体の中で、きしみながらもだいているような、落ち着かない不安と切なさに包まれる本だった。

 19年間も、さようならを言えなかったぼくが、昔の恋人に呼ばれて、待ち合わせの場所に行く。「19年前にどうしてもさようならと言わせてくれなかった彼女が、さようならをするために、ここに来てくれたんだ」と山崎がつぶやく瞬間に、「ああ、そうだったのか」と涙が出た。
 彼女とはもう会えないかもしれないけど、ずっとここにいてくれる。彼女は長い間ぼくのそばにはいなかったのに、本当はずっとそばにいた。
 始発の誰も乗っていない電車の暗い窓に映った、透明人間の自分を見ているよりも、寂しくなった。 

 今朝、たった一人で朝食をとりながら、ピース・クボタ氏がわたしのために、心を込めて作ってくれた、オリジナルカセットを聴いていた。いつも知的作業をする時に音楽が鳴っていると集中できないので、書斎では音楽を掛けない。台所でジャガイモの皮なんかを剥いている時に、音楽を掛けることもあるけれども、じっと歌詞に耳を済ませるようなことはない。じっと座って、音楽と歌詞をちゃんと聴くことができるのは、何もしていない時で、何もしていないことが滅多にない。だから、今朝「一人で音楽を聴く」ことができて、とても貴重な時間が過ごせた。
 そんな時に大沢誉志幸じゃなくてハナレグミのほうの、『そして僕は途方に暮れる』が一曲目に入っているカセットというのは、あまりにもタイミングが良すぎる。そして、途方に暮れてしまったわたしは、ボボを連れて、春の公園まで散歩することにした。

 公園で、子猫の悲しい声に呼ばれて、鼻から入った鳥の胸骨に関する思考が中断された。足元を見ていたわたしの頭が、階段の上のほうに持ち上がり、耳がアンテナのようにひくひく動いた。猫のサイレンはだんだん近くなり、遠くなり、わたしは、子猫を探して公園じゅうを歩き回ってみたけれども、その声は「ここかな?」と思う辺りで、途絶えてしまった。「ここかな?」の場所に立ち止まり、みゃうみゃうと母猫の真似をしてみたけれども、子猫はうんともすんとも言わなくなった。
 公園には、携帯電話の呼び出し音みたいな声で鳴く鳥もいるので、もしかしたら、子猫のように鳴く鳥だったのかも、しれない。

 ナカマタくんのお父さんに手紙を書こうと思って、中学の卒業名簿を見たら、ナカマタくんの名前がなかった。彼はいつの間にか、転校してしまっていたのだろうか?
 ナカマタくんにいつか、会えるだろうか?彼は、わたしのことを覚えていてくれるだろうか?
 さて、わたしは、これからまた、子猫を探しに、公園に行ってみようかと思っている。見つけてしまったら、どうしよう。。。

2008/04/08

おたん生の火



子供の頃の4月8日と言えば、やはり、甘茶とお線香の香りと、そしてゴロゴロと動く、白い紙でできた象だった。
わたしの通っていた幼稚園では、お釈迦様のお誕生の日に花祭りをする。今も子どもたちは、あの象の後ろを並んで歩くのだろうか?白い象さんは、この日は色とりどりの紙のお花で飾られ、お釈迦様もピカピカに磨かれていたのをよく覚えている。

 2004年の4月8日は、姪っ子の高校の入学式で、愛ちゃんは、じいちゃんのお葬式に参列できなかった。前日に入学式を済ませた紫野ちゃんは、新しい高校の制服で参列した。わたしはこの日、一体何をしていたのか、全然覚えていない。引っ越しの段ボールに囲まれて過ごしていたのではないかと思う。姉2人から実況中継のメールがずっと来ていた。

 紫野ちゃんの新しい制服は、従兄が送ってくれた写真で見た。従兄は、わたしの代わりに参列してくれた友人たちや、親族代表で挨拶してくれた別の従兄の写真や、霊柩車や、花輪や、ありとあらゆる写真を送ってくれて、わたしはそれが届いた日に、一回だけ、見てしまったので、母がどんな顔で泣いていたか、姉たちの目がどんなに赤かったか、そうして、どんなにたくさんの人たちが涙を流していてくれたか、その(たぶん)一部を目に焼き付けてしまった。そんなの、見なければ良かった。

 声だけが聴こえない。音は聴こえない。何も聴こえない。そこで黒い服を来ている人々は、死人のように口をきかない。誰もわたしを責めない。誰も慰めたりしない。誰もわたしを見ていない。みんなの輪の中心になっている、肝心の父の顔は、見ることができない。だから、写真の上からでさえ、触れることはできない。
 お葬式用に飾られた写真の、その父を、わたしは知らない。これはわたしの知っている父ではない。わたしは父を知らなくなるまで放っておいてしまった。
 そうして、だから、わたしは、父が、本当に、その四角い箱の中にいるのかどうかさえ、実は、わからない。

 「今日は、いろんな人からお花がたくさんお花が届いたよ。お父さんはいい季節を選んだものだねえ」
去年のように、今年も母は、花に囲まれているらしい。
母は花が好きだったけれども、父は、花なんか好きでもなんでもなかったのではないかと思う。
父が好きだったのは、海や風や竹やぶや林や泥や畑やキノコや。。。そういうものだったのではないかと思う。
JPが「命日だからお花でも送ろうよ。なに色の花を贈るべきなんだろうか?」と訊いて来た。「白?紫?」
「今日は花祭りの日で、花束はお母さんのために贈りたいから、できるだけ派手で、明るい色の花束を送ってちょうだい」と頼んだ。

 ノエミが日本語を勉強するようになった。ばあちゃんに毎日メールを書いている。ばあちゃんからもメールが届くようになった。今日はちょっとだけ、電話でも話ができて、本人はかなり喜んでいた。
 みんなでお線香を上げる。ヒヤシンスを買って来た。ろうそくも灯す。ろうそく立ては、ゾエが幼稚園で作った。
クスノキを掘って作った私たちのおぼうさまが、ろうそくの光に揺れている。

 父が、こことは違う世界で、生まれ変わった日が静かに過ぎ去り、また、明日が来る。



 

 

2008/04/07

 
 午前7時半に、パリを出発しようとしていたフミが、「小包はやっぱり届かなかったよ」と電話して来た。フランスのお土産やミーさんのチョコレートを、パリに来ているフミに届けようと思っていたのだが、この週末はカーモーを空けることができなかった。だから、木曜日にミーさんの店に行って、チョコレートを買い、そのあとすぐにパリのホテルに送っておいたのに、土曜日の午前中までには手元に届かなかったらしい。とっても残念だった。

 フミがパリから送ってくれた、日本のみんなからのお土産は、月曜日の11時半に我が家に届いた。今ごろチョコレートもホテルに届いているだろうが、フミはもう空港に行ってしまった。
 「パリは雪が降っているよ」とフミが言っていた。

 JPは、けさ4時に起きて、パリに向かった。
午後2時半から、農林水産大臣に会うのだそうだ。
JPは農林水産省の地方事務所で働いているのだが、去年辺りから、やけに労働組合の活動に参加している。今年は何やら役員もやっていて、全国に125人ぐらいしか居ないらしい組合の代表として、定年問題や労働条件や、公務員の雇用についてなどなど、話を聞いてもらいに行くのだそうだ。ゆうべ遅くまでレポートを書いていた。

 「で?何着ていくの?」
オンナですので、そーいうーことが、まず気になる。やっぱり。
わたしが着るもののことを言うと、JPはいつも不機嫌になる。
「いつも着てるのを着ていくよ」
シャツは去年の終わりに買ったのが二枚はあるからいいとして、「いつもの」って、ジーンズでしょ?
労働組合なんかやってるヤカラは、着るもので勝負しないんだよって、JPの目が物語っていた。
「で?一人で行くの?」
ある友人が
「あんた、ダンナがホントーにパリに行ってるかどうか、確かめたほうがいいよ。一人で行ってんでしょーね?」
と言うような、まあ、それに近いことを言っていたので、いちおう探りを入れる。
「2人だけだよ。ブルターニュの農業高校の教師」
なんだ、農業高校の教師だったら、ちゃんとしたスーツなんか持ってないだろう。ちょっと安心。

 お義母さんはいつもどんなものでも「なんでいつもJPの意見を訊くの?買いたかったら買っちゃえ」というのだが、JPの持ち物を買って、気に入られたためしがない。(わたしのものを買っても同じだけどさ)わたしはJPの着るものは買わない。うちのダンナはパンツも靴下も、自分で買ってる。だからサイズも知らない。なので、ふとお店で彼のために衝動買いしたくなっても、買えない。

 JPは、いつものジーンズと、3年前に本人がカタログショッピングで買った、今じゃ色が落ちて流行遅れになったシャツを着て、パリの農林水産大臣に会いに行った。午前5時の電車でパリに向かい、今晩11時にアルビに帰ってくるらしい。弟の家にでも1泊ぐらいしてくれたらいいのに、どーしても帰ってくるそうだ。明日は仕事だし。労働組合なんかで活動している人間は、上司には嫌われてるんじゃないかと思う。まさか、有給休暇を使って自費で行ってるんじゃあないでしょーねっ、と思っているけど、まだ確かめてはいない。

 パリは雪が降っているらしい。
そして、オリンピックの炎がパリに到着したらしい。

 1時のニュースをつけたら、炎のことばかりを報道していた。
エッフェル塔に昇って降りて来た、ステファン・ディアガナ(400メートルのチャンピオン)が、まあ、なんとか快調なスタートを切ったところがテレビに映ったが、前後に70台のパトカーと、いっしょに走る消防軍団と、ローラースケートで追いかける警察官集団と、上空を飛び交うヘリコプターと、中国の旗やチベットの旗を持った応援団の人たちと、そして、野次馬とパパラッチと。。。なんだかものすごい警備だな〜と思ったら、そのうちランナーが途中で走るのをやめさせられて、炎はバスの中に片付けられた。ときおり、道路に羽交い締めにされた人や、鼻血を流している中国人の映像も出た。この騒ぎは、カーラ・ブルーニ付きのサルコジ大統領の通過にも勝る警備だったらしい。みんなが炎を取り囲んで、怒鳴り合ったり、つかみ合ったりしていた。
 
 パリの交通渋滞と、ものすごい警備と、アラレと、雪と、サイレンと、人の波と、交通渋滞をテレビで見ながら、フミは無事に空港に行けたんだろうか?JPは、農林水産大臣に会えたんだろうかと、心配になった。農林水産省って、どこにあるんだろう?農林水産大臣って、誰なんだろう?JPは、写真を撮って来てくれるんだろーか?あの人のことだから、話し合いの途中でキレて、農林水産大臣に飛びかかって、そのまま刑務所行きになるんじゃないだろうかと、かなり心配だ。
 みんなどうして、それほどまでも命がけで、自分が大切なものを守ろうとするんだろう。そのエネルギーは、どこから来るんだろう。

 カーモーは静か。青空が広がり、冷たい風が吹いているけれども、さわやかで気持ちがいい。
週末に部屋と台所の大掃除をやったので、窓を大きく開けて、風を入れて、とっても気分がいい。
洗濯機を3回回した。セーターを洗った。家族全員のシーツも洗った。ときどきお隣から桜の花びらが飛んで来る庭に、たくさんの洗濯物を干した。遠くのスーパーまで歩いて買い物に出掛け、高い空の下をちょっとお散歩した。

 子どもたちはほっぺたを真っ赤にして帰って来るのではないかと思う。
おやつを作って待っていよう。

2008/04/06

2月22日 再びの旅立ち

 日本を始めて飛び立ったのは、1989年2月22日だった。そうして2008年2月22日にまた、偶然にもこの日に、わたしはまた飛び立つことになった。
  1988年の秋から、わたしはバイトを二つに増やしていた。朝の10時から夜の7時まで本屋で働き、ちょっと休んで9時から翌朝の8時まで、本屋よりもお給料の良いドーナツ屋さんで働いた。男女雇用均等法なるものができたので、わたしは夜のメンテナンスという仕事を、男の子達に混ざってやっていた。売り子の甲高い声の女の子達が帰った後に、皿を洗ったり、トイレの掃除をしたり、椅子を上げてテーブルを動かし、床を拭いたりしていた。どちらのバイトも一週間に2日休みをもらえたので、うまく調整して「寝だめする日」を作っておいたし、なにしろ若かったので、いつも眠かったわりに、疲労で倒れたりはしなかった。

 1989年1月7日に天皇崩御が伝えられ、24日に大喪の礼を控えていたので、日本はなんだか暗くぶるぶる揺れていたような、とても寒い冬だった。ドーナツ屋の店長さんは、ちょっと右に傾いた人で、天皇陛下が危篤となってからは、せっせと皇居に通っていた。崩御と伝えられると、朝から晩まで暗い顔をして、たまに涙を流し、店員全員に黒い腕章を配った。売り子は甲高い声で笑ってはならない。渋谷の公園通りが、朝から晩まであんなに静かで暗くなることなんて、かつてあったのだろうか?通りに黒い布が翻り、商店では音楽を消していた。

 各国から大喪に参列する人々が集まり始める22日、わたしは成田空港に向かった。空港に到着するまでに5回ぐらい荷物のチェックがあり、見送りは一切受け入れられなかった。だから、わたしは一人で空港に行った。あのとき灰色のスーツを来ていたのをよく覚えている。わたしは髪の毛がお尻まで長く、(これでも)ボディコンを着ていた、若くて色の白い女の子だった。

 〜〜 2008年2月22日の朝
 具合の悪い姉を起こして、米原駅まで送ってもらった。寒いし別れが辛いので、ホームにはもう来ないでいいからと、改札で送り返した。名古屋まであっという間だった。

 名鉄名古屋駅で、地下に降りる長い階段まで来た。わたしという人間はいつも荷物が多い。大きなお土産の袋には提灯と和紙が入っているので、軽いんだけど嵩張る。小さいスーツケースとお土産の袋を階段の下に降ろし、階段の上に置いて来た大きなスーツケースのところにUターンした。そこへ、上から、麦わら帽子をかぶった金髪の女性が、ため息をつきながらスーツケースを抱えて降りて来ようとしていた。すれ違い様に目が合った。1989年の2月22日にわたしといっしょに日本を出た古いスーツケースを抱えて、階段の下に降りた。

 ため息をついていると、麦わら帽子に金髪の女性が、英語で「切符の買い方がわからないから教えて欲しい」と話しかけて来た。それぐらいはわかったけど、あとが困った。
「わたしは英語が苦手で、しかも切符の買い方なんて全然わからないんです。あなた、フランス語は、わからないよね?」
とフランス語で言ったら、
「え〜、ウソ〜、フランス語、わかります。あなた、わかるの?」
と、妙に感動されてしまった。
 英語と日本語が話せる人は、日本にはかなりいるけど、フランス語が話せる日本人にはあまり会ったことがないというのだ。彼女はカナダ人なので、フランス語がかなりよく話せる。名古屋に住んでいるそうだから、ちょっとは日本語も話せるのだろう。
 2人で協力し合って、切符を買い、ホームに降り、乗り場を探し、スーツケースを置いた。そして、電車を待つ間、お互いの自己紹介と、なぜこんな所にいるのか、どうして空港に行くのかなどを話した。

 彼女は、名古屋商科大学の講師で、本職は子供の本の作家だった。カンボジアで行われる子供の本の展示会で、講演をするというのだった。わたしが子供の本の翻訳をしている話をし、カナダ人の作家に一人友人がいると、彼の名前を言ったら、知ってると言われた。彼の名前が日本人の口から出るとは。。。と、確かにそうなので、2人で驚いた。

 電車が来た。わたしが彼女に指定席のチケットを買わせてしまったのに、乗降口を間違ってしまい、わたしたちは、自分の乗るべき車両から、遠く離れたところに乗り込んでしまった。その車両は指定席ではなく、満員で、古くて大きいスーツケースを抱えたわたしたち2人(しかも2人とも変な帽子をかぶっていて)かなり目立っていたけれども、通路に立ったまま空港まで行くことになった。
「私たち、似たもの同士」
帽子のことかと思ったら、彼女はお互いの古いスーツケースを交互に指差していた。タイヤが壊れかけていて、古くさいデザインで、地球を三周ばかりはして来たようなぼろいスーツケースを彼女も持っていて、ちゃんと転ばないのでかなり苦労しているようだった。

 身の上話をしているうちに、お互いの父親が、2人ともガンで、2004年の春に他界しているはなしになった。彼女はカナダの実家に呼ばれて帰り、お父さんが亡くなるその瞬間に、手を取って送ったのだそうだ。わたしはそれができなかったので、彼女が語る、最後の最後のお父さんの話に、大変心を打たれて、電車の通路でわんわん泣いてしまった。

 空港では、友達と待ち合わせることになっていたので、「いっしょにお茶をしませんか」と言われて、一瞬困ったのだが、みんなにもこの人を紹介したくもあったので、チェックインのあと友達と待ち合わせしている場所にあなたもいらっしゃいよと誘って別れた。

 19年前はたった一人で旅立ったのに、今回は、フランスまでいっしょに帰るトシと、みゆきちゃんとひろたんまで、お見送りに来てくれていた。時間があまりなくて、今回もまたゆっくり話すことができなかったけれども、顔を見れただけでも嬉しかった。お土産ももらって、本当にありがたいことだった。
 麦わら帽子の彼女は、待ち合わせの場所に現れなかった。チェックインに手間取ったのかもしれない。出発ゲートのところで、向こうに彼女が歩いているのが見えたけれども、気づいてもらえなかった。彼女には、なぜか、またきっと会えるような気がする。そうして、みゆきちゃんとひろたんにも、絶対会える。
 元気でね。また会おうね。とっても名残惜しかった。トシが居てくれたおかげで、これからの長旅も、楽しみな。
ちょっと、帰りたくないのだ〜〜。


 
 

2月21日

 日本海を見に行くのだ。
 錦江湾で水浴びをして育ったわたしだが、指宿とういう所は、何しろ日本の最南端間近なので、ちょっと走ればもう東シナ海に出てしまう。わたしは太平洋と地中海と大西洋でも、泳いだことがあるノダ。でも、日本人のくせに、40年の人生で一度も、日本海を見たことがなかった。これはもう、日本人の恥とも言えるかもしれない。

 米原で《関ヶ原古戦場 方面 右へ》などという、ゾクゾクするような看板を見て通り過ごし、わたしたちは国道365選をまっすぐ北上した。小谷城跡のそばを通り、余呉まで来たらもう琵琶湖も見えなくなった。この辺りにはまだ雪が深く積もっていて、寒い所なんだなあ〜と感じる。高速道路の脇に深沢トンネルを抜けると、そこは福井県だった。(しかも雪国)
敦賀(つるが)まで来ると、海の香りがしてくる。海がちらっと見えて「おおー日本海だ〜」の声。

 道の駅みたいなところで、海産物を見て、ノリだのタコだのを味見して周り、キーホルダーやお団子を買い、そして「イクラ、甘エビ、明太子丼」なるものを頼んだ。いっやあ〜、おいしかったあ〜〜。こんなにプチプチのいくらは久しぶりだった。福岡で明太子を買うのを忘れたので、ここで敗者復活戦だあ〜。

 途中、手作り和紙のお店で、JPの弟の奥さんのソフィーのお土産に、和紙をたくさん買った。ソフィーはアーティストで、わたしが趣味でやってる切り絵や、貼り絵や、難しい折り紙が大好きで、そういうものを和紙で作ってプレゼントするととても喜んでくれる。この頃は着物の模様などを使った、トレーや大皿を作っているらしい。

 小浜市でちょっと海を見たが、湾になっていたので、「おお〜日本海だあ〜」というような感動は、あまりなかった。しかも、太平洋の青さに較べたら、どんよりと暗くて寂しげだった。ちょっとがっかり。でも、見れたからとりあえず嬉しかった。
 小浜市のそばで、古い町並みが見れるというので、そこに行った(名前を忘れてしまった)。交番も木造で、とってもかわいかった。こんな静かな町では犯罪などはきっとないのだろう。交番前には丸くて赤いランプの下に、古い自転車が一台停まっていた。商店には昭和30年代ぐらいのポスターが貼られていて、店先にぶら下がっている売り物のセーターや靴下は、おそらく20年以上も同じ所にぶら下がっていたのではないかと思われた。神社の境内は雪で埋もれていて、入ることができなかった。家々の前を流れる川は下水道ではなく、清流が流れていた。家の人が水汲みや洗い物ができるように、各家庭の玄関先には小さな階段がついていて、せせらぎの中に入って行けるようになっていた。夏などはここにキュウリやトマトを入れたかごをぶら下げて、冷やして食べたりするんだろうか?そのカゴには、ビー玉の入った、緑色をしたラムネ瓶などが入っているんだろうか?

 さて、明日はいよいよ早起きをして、名古屋空港に行かねばならない。
あっという間だったなあ〜。

2008/04/03

2月20日 彦根へ

 福岡から帰って来た夜ぐらいから、風邪の諸症状が出始めた。いよいよ鹿児島を発つ朝は、5時に起きて、6時半ごろには家を出た。実家の向かいに住む従兄が、送ってくれることになっていた。鹿児島で働いている友人達からも誘いがあったけれども、朝が早すぎたので遠慮した。

 空港で朝ご飯を食べ、あっという間に搭乗の時間がやって来た。飛行機に乗り込む時に、母と従兄が、寒い空港の屋上で手を振っているのが見えた。いつも、わたしを送ってくれた人たちは、あの屋上に上って手を振ってくれる。いつもいつも、見えている。

 どんどん具合が悪くなる。名古屋空港に着くと、すぐに近鉄名古屋駅に行かなければならない。彦根に向かう前に、大阪の編集さんと会う約束だ。お昼ごはんにはまだ早く、ジュースを飲んで、おしゃべりをして、豆腐屋さんに連れて行っていただいた。
 鼻が詰まっているし、耳はよく聴こえなくて、なにがなんだか良くわからなかった。編集さんにはフランスでも、この夏名古屋でもお会いしている。次回の作品にしようと思っている本のあらすじを、ゆうべ従兄のパソコンでダッシュで書いたので、それをお渡ししたが、帰ってからまたゆっくり検討します。。。というようないい加減なものだった。

 編集さんが手伝ってくれたので、新幹線の切符を買うのも、乗り場を探すのも、問題なくできた。ホームに出るのも戸惑わずにすんだ。編集さんはそのまま東京方面に出張とのことで、ホームでお別れした。わたしは一人になったので、またふと思い出し、空港まで迎えに来てくれた友達に電話をした。出ない。仕方ない。もう声も聞けないかもしれない。

 夏にやっていた彦根駅の工事は終わっていて、エレベーターを使うことができた。姉と高校3年生の姪が待っていてくれた。そのまま、たこ焼きを食べに行った。「なにが食べたいか」と訊かれるので、「カレーライス」と答える。スーパーでカレーライスの材料を買った。その隣にあるおもちゃ屋さんで、ゾエに頼まれていたおもちゃをわたしが選び、姉が買ってくれた。
 彦根にはまだ雪が深く残っていて、吹く風も冷たかった。姉はよくこんな寒いところで暮らしているなあ、と感心する。


 「明日は、日本海を見に行くよ!」
具合悪くて死にそうな姉が言う。
「へ〜?日本海ってえ〜?近いのお〜?」
「オバマ氏を応援してる小浜市に行くよ」
なに?それえ〜?
地図を見たら、滋賀県の隣に福井県があった。。。地中海は見たことあるけど、日本海は見たことがなかったので緊張してしまう。40年の人生で「福井県のものです」という人にも会ったことがないので、どんな言葉を話し、どんなものを食べているのか、非常に興味がある。そして、日本海がどんな色をしているのかも、気になるのであった。。。

2月19日 しゃぶしゃぶ

 郵便局から、船便やら航空便を全部で5箱ぐらい送った。
向こうで受け取ってから「なんでこんなものを送ってしまったんだろう」ということになるのは、まあ、経験上確実だけど、またしても郵便局に奉仕してしまった。。。
 
 お昼は鹿児島の姉達と食べる予定だったのに、午前中いろいろ動き回っていたら、遅くなってしまった。

 しゃぶしゃぶなんだそうである。ミーさんでさえ、何度も経験済みのしゃぶしゃぶだが、わたしは、ちゃんとしたしゃぶしゃぶを食べたことがないので、実に楽しみ。

 ちいさなお庭の見える静かな個室で、落ち着いて食べることができた。それになんといっても薩摩黒豚、とってもおいしかった。姪っ子達とも話が弾み、楽しいお昼となった。

 午後、どうしても指宿図書館に行きたかったので、早めに鹿児島から帰る。

 二つの指宿図書館をよく覚えている。
 一つは中学の時に通った、木造の崩れそうな図書館。自分の中学校の同級生に、そこで会ったことはなかったかもしれない。当時は二月田駅のほうにあって、指宿市の中心に住んでいたわたしたちにはとっても遠かった。

 その図書館が廃館になり、新しい図書館は指宿駅のすぐそばで、とっても便利になった。近代的で明るい建物になり、なんと言っても本の数が増えた。高校の時には、お小遣いでは買えないハードカバーの小説をよく借りた。短大の時にはよく調べものに行ったし、友達といっしょに教員試験の勉強をした。人の少ない時間に、大きな窓の前の日だまりに座って、ちょっときしむソファーに座り込んみ、木の床に脚をつけて、できるだけ分厚い本を、抱えるようにして読むのが大好きだった。

 短大の時に、この図書館の本棚で、自分の書いた作文を見つけたのだ。
海外に行ってから、よく文章を書くようになった最近になって、あの作文のことが気になって仕方がなかった。特に現在、小学高学年から中学生向けの本を訳しているし、その年齢向けの本をよく読むので、自分がその年齢に、どんなことを書いていたのだったろうかと、ものすごく気になっていた。

 文集「いぶすき」を探し歩いたが、昔とは本棚の位置が変わっていて、自分では見つけられなかった。司書の方に訊いてみたのはいいが、「平成何年度ですか?」と訊かれて、さて、困った。
「すみません。今、平成何年ですか?」
こんな質問をしてしまうと、いつも日本の人に「あれ?この人、ヘン」という顔をされる。
 「えーと、年齢で逆算して、、、中学2年生の作文だったと思うから、、、今から26年前ですかねえ、、、1982年?、、ってことは、昭和何年ですかねえ?」
 司書さんも困っている。2人して別々に、ぶつぶつ言いながら何やら数字を書いて計算する。司書さんはやっぱり文系の人間なんだねえ〜。わたしも司書の免許もってるんだ、実は。計算できないねえ〜〜。もう一人出て来て、別な紙に計算している。

 探してもらっている間ブラブラしていると、《てんちの杜》をやっている従兄がフラ〜と入って来た。
従兄は、こども達を集めて、図書館の横の公園でスポーツをさせていたところ、駐車場で居眠りしている母を見たらしい。この従兄はもうすぐ60歳なのに、フルマラソンもやっている。いぶすきの菜の花マラソンをもう15年ぐらい走っているそうだ。すごいなあ。
 自分の作文を探してもらっている話をしていたら、ちょっとこれ見てと言われた。それは『浮来亭』という新聞だった。創刊号からぎっしり詰まったバインダーが、ずっしり重かった。ぺらぺら読んでみたがとても面白かった。でも、全部読んでいる時間はなさそう。インターネットでも読むことができるというので、新聞の名前を頭にインプットした。フランスに帰ってからじっくり読ませてもらおう。
 そうこうしていると、奥から『文集 いぶすき 20号』が出て来た。記憶とは違い中学2年生ではなく、1年生の時の作文だった。1年1組だったので、文集の1番前にわたしのが出ていた。感動した。この年齢にしてはなかなか。今とほとんど変わらない文体。(ってことは、昔から成長してないってことだねえ〜嗚呼)
 その作文のタイトルはずっと覚えていたけれども、書いた細かい内容についてはすっかり忘れていた。自分以外の家族四人のことと、家のことなんかが、すごくよく書かれていて、わたしはこんな風に、中学生のわたしが見た家族を、ここにこうして残しておいて、ほんとうに良かったなあと思った。今はバラバラに離れてしまった家族のことを思うと、昔みんなでいっしょに暮らしていたことが、夢だったのじゃないかと思うことさえあるのに、中学生の自分が書いた作文の中に、ちゃんと《家族》が揃っていた。わたしのつたない作文を、こうして記録に残しておいてくれた、指宿市にも感謝したい気持ちだ。

 さて、明日は飛行機に乗る。

 迎えに来てくれた友達に、まだお土産も渡していない。いつでも会えると思っていたのに、なかなか会えなかった。まあ、そんなもんだろう。電話しても出ないし。また会えるよね。フランスからもって来たミーさんのチョコレートは、彦根から送ってあげよう。最後の夜には、会えなかったほかの友達数人から電話が来た。「次回は会おうね」と約束する。いつになるかね〜。

 マラソンマンの従兄が奥さんと一緒に遊びに来て、私たちはフランスの写真集をいっしょに見た。いつか遊びに来てくれるそうだ。
もう一人の従兄は、数年前に家族でフランスに来てくれた。本人のブログで、フランスの写真をたくさん公開してくれている。
(いぶすき情報と篤姫情報もあり)http://imasami.mo-blog.jp/photos/france/index.html
明日は、またまた別な従兄が、朝5時に起きて、空港まで連れて行ってくれるそうだ。

 従兄達がお母さんのことをよくしてくれるので、本当に助かります。ありがとうございます。

2008/04/01

2月18日 福岡のすき焼き




 始発列車が指宿駅に乗り入れた時、《銀河鉄道999》を思い出していた。小さな惑星の、ポヤ〜っとした灯りのともる駅に、銀河の彼方からいきなりやって来る長い列車。
 学生の時、言語学の授業で『銀河鉄道の夜』を読み直した。あの授業はとっても楽しかった。テーマは《オノマトペ》で、宮沢賢治が使う、不思議なオノマトペを求めて赤えんぴつで線を引いたら、本が真っ赤になった。

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、シュー

 しか、聴こえない。ほかには何も聴こえない。外はまだ暗く、窓に映る透明人間のわたしの向こうには、大隅半島の明かりや、電車と競争しながら走る自動車が、たまに見えるだけ。
 「次は、宮ケ浜〜」
車掌さんの声は、寝ているかもしれない客(わたしのみ)を邪魔しないようにと、遠慮しているようにどこまでも細い。車掌さんも眠いのかもしれない。
 
 南鹿児島駅に停まった。短大の時に毎日使っていた駅。そのちょっと前で目が覚めていた。電車の中には学生がいっぱい詰まっていて、前にも横にも人が座っていたので、最初自分がどこにいるのかわからなくなった。別世界じゃ?寝ている間にワープして。

 中央駅で、高速バスの乗り場を探す。わたしの知らない地下道を抜けて、駅の正面のビルからの出発だった。友人たちは「高速バスは予約しなくても大丈夫だよ」と言ってくれていたのに、おじさんからは「予約してなきゃ乗れませんよ」と言われ、「乗せてやるけど、空港で予約済みの人がいっぱい乗って来るようだったら降りてもらいますよ」と脅された。予約して往復で買ったら8000円になるはずだったのに、片道しか売ってもらえず5300円も払った。

 福岡には10時半ごろ着きたいと思っていた。
バスの中でも爆睡していたために、「降りちゃダメよ」と言われていた天神バスセンターで、隣の人につられて思わず降りてしまった。もうひとつ先まで行かなきゃならなかったのに。地下街からは携帯が通じず、しかも、電車の中で携帯の音を出しちゃいけないと注意されて、駅では電源を切ることにしたので、迎えに来てくれることになっている先生の奥さまと連絡が行き違い。「まったく、あいつはよー」と思われてるに違いない。

 自分でも、問題なく福岡まで行けるとは思ってなかったけど、午前中ですっかり疲れ切ってしまった。

 挿絵を描いてくださっている金藤先生には、初めてお会いする。先生の奥さまと、お嬢ちゃんのKちゃんには、夏にポリーヌさんの家でお会いした。日本語を教えていたポリーヌさんが、ホームステイでお世話になったのがKちゃんちだった。ポリーヌさんが帰国した夏に、Kちゃんと《お母さん》が、ポリーヌさんの家に遊びに来ていらしたのだ。その時Kちゃんのお父さんである金藤櫂さんの本(写真の詩画集)を見せていただき、その線の素晴らしさに感動した。そうして、「わたしの本の挿絵を描いていただけないだろうか?」と厚かましくもお願いしてしまったのだ。

 本は、だいたい一年で訳したことになっている。うだうだやって、納期が来たので一気に訳した。(夏休みの宿題と同じパターン。成長しておらず)訳したものは今度は編集さんの手で直されていく。校正さんは雇えないので、校正も編集さんがしてくれる。わたしは読み直して、たまに「訂正、お願いしま〜〜す」と甘えさせていただく。
 
 二年めは挿絵の仕事。ただし、準備を始めて二年後には本が出るということは、なにもかもの準備完了はその前ということになるわけで、8月に本を出すには、5月には挿絵も終わっていただかねばならない。わたしがすべての翻訳を出してから、ずいぶん短い時間で描いていただくことになる。芸術家は、《ひらめき》も大切。周囲の雰囲気も重要。もともとの仕事はもちろん優先。プロなので展示会などもある。だから、画家さんは、絵画にはとんと素人の人間たちに「この章はこういう内容なので、コレを描いてください」とかいきなり言われても、とっても苦しいのではないかと思う。

 実は、わたしも。翻訳なんだから、書かれてあることをそのまま訳すだけだろうと言われることもあるが、直訳とは違うので、「ひらめき」が大切だと思っている。芸術家と同じなのだっ!普段から読書量が少なく、文章作成能力も日々衰え、言語障害気味なので、「こ〜いう〜ことなんだけど、日本語でなんと表現したらいいかにゃあ〜」と悩むことばかり。

 とにかく、インターネットも電話もあるから、人にものを頼んだり、要求したり、指摘したり、写真を送りつけたり、そんなことはいくらでもできる。ただ、頭を下げるとか、先生の絵を見てわたしがどんな顔をするかとか、わたしのこのキラキラ輝く瞳とか、そーいうーのをちゃんと見ていただき、わたし自身も、先生が描かれている絵をこの目で見て、触れることができたら、そこには仕事の絆だけではない、なにかこう、異次元の世界が作れるのではないかと。。。まあ、芸術家だったら、そういうわたしから発せられる空気なんていうものを、感じてもらえて、そして、「はやく仕上げてちょーだい」と思ってることも、わかってもらえるのではないかと思ったので、今度日本に帰ったら、絶対に福岡に行くぞと決めていたのだ。

 帰りのバスもあるので、とりあえずは『歩く人』に直筆サインをお願いして、Lちゃんという名前の犬と遊び、すき焼きをごちそうになった。フグわかめのふりかけがおいしいと言ったら、そのまま袋ごともらえた。言ってみるもんだ。

 先生の自宅のアトリエには、遠方の展示会から戻って来たばかりの、大きなキャンバスが所狭しと置いてあった。遠くから見たらいいのか、近くで見るべきなのか?とっても不思議な絵なのだ。編集さんは「こんな面白い絵を使った子供の本は、そうはありませんよ」と言っていた。確かに、そうかもしれない。でも、わたしは、子どもたちはきっとこの絵を見ながら、それぞれの感じ方を、自分の言葉で表現してくれるだろうと思う。形の整ったものを与えるばかりの世の中だから、パーフェクトながらも、計算されていない(あるいは計算され尽くした)点や線や影や光の中に、ググンと引き込まれていく、金藤先生の絵は、子供たちに、自分たちで好きな形にこねていく、自由と余裕と空間を提案してあげられるのではないか。うがった穴や、立ちこめた霧や、しずくや、光線の空間に、何かをはめ込む、あるいは何も入れない、色を付ける、真っ黒に塗りつぶす、引き裂く、そんな創造の可能性を、プレゼントしてあげることができるのではないか。

 漫画やコンピュータグラフィックや写真や映像などの、くっきりした線に慣れ切っている子供たちに、《抽象画》の醸し出すまろやかさやバランス、そして、アンバランスや異次元のもつ不思議な世界。光と影のせいで色と形を変える、新しい表面の世界。触れることの許される紙という表面を通して、普段は身近に感じられなかったかもしれない、古く新しい抽象画の世界を、体験させてあげられるのではないだろうか。 

 バスに乗るまでは元気だった。そして、バスに乗ってしまったら、あとは寝るばかり〜。ワープして、鹿児島に到着。

 鹿児島で仕事帰りのフミに拾われ、そのまま、宴会場へと直行。チョウさんと聡くんと、ラルとフミとでごはんを食べて、バカ話をして、わりと早い時間にお開きとなった。聡くんからまた、面白そうな時代小説をたくさんもらったので、今晩は荷造りをして、明日は船便でフランスに発送する予定。なんだか《帰り支度》が始まるなあ〜。