2008/12/31



 11月に日本から戻り、日本で見たり聞いたりしたことについて、書きたいことは山ほどあったのに、なかなか書くことができなかった。なんでいつもこんなに時間が足りないんだろう。2008年のお正月にもらった日めくりカレンダー。開くこともなく大みそかになってしまった。

 年が明けようとしている今日、なんだかいきなり焦っている。やり残したことが山ほどある。ノストラダムスが言ったように、世界の終わりがやって来るとほぼ確信していた、あの、1999年の大みそかにさえ、やり残したことはいっぱいあったのだから、しょーもない人間だ。あれからほぼ10年近く《生き延びた》というのに、ぜんぜん成長が見られないなあ。

 JPの両親の家に子どもを置いて自宅に戻ってから、この2日で気になるところを磨いたものの、思うようには家も片付いてないし、年賀状を書いていない相手もたくさんいる。その中にはパソコンで一斉メールを送っても、見ることのできない人もいるので、やっぱり年賀状を書かなければと、けっこう焦っている。なのに、パソコンの前に座っている。これからまた大みそかの夜を子どもたちと過ごすために、JPの両親の家に戻るというのに、服にはアイロンも掛かっていないし、洗濯も終わってない。

 でも、全体的に見て、いい年だった。片付かなくても淡々と進んだ年だった。
 健康について、生きるということや死ぬということについて、笑うということについて、そして、感謝するということについて、いっぱい感じ考えた。それらのことについて、反省したり(でも後悔はできるだけしないように)、前を向いたり(でもあごを引いて)、学んだり(教え子たちにまで学ばされて)わたしは、《一回り大きくなった》年だったのではないかと思う。身体も一回り太くなった。わたしの人生で1番デブだ。これは健康によくない。

 たしかに3つの悲しいお別れもあったが、その代わり2つの新しい命との出会いがあった。出会いはそこここにある。どうして今までですれ違ってばかりいたのかわからないぐらい、思いがけなく身近なところに出会いは待っている。出会いのあとに別れがあるのと同じで、別れのあとにも出会いがあるのだと、そして、別れのおかげで、あの別れがあったから、新しいこの出会いが訪れたに違いないと、去って逝った人たちと、必然的な運命に関わってくれた多くの人やものごとに、お礼を言いたくなる。

 お礼を言うこと、感謝の言葉を捧げるということの、なんと素晴らしいこと!
まるで魔法の言葉だ。
感謝の言葉は、自分も人も変える。ものや時間までも変える。
帰る家のあることと、そこに待つあたたかい家族のあることを思うと、寂しさなどはなくなる。健康な身体があるおかげで、思った所に行け思ったことのできる幸福を考えると、なんと自分は恵まれているかと、やっぱり感謝したくなる。

 おかげさまで母も元気そう。家族旅行ができて、本当によかった。
そう、その旅行については、絶対に書いておかなければならない。

みなさん、今年もいろいろ、ありがとうございました。
 来る年が、穏やかでありますように。
きっとみのりある年になりますヨ。信じて、信じて。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 みのり

種子島、ロケットマラソンみたいな1にち



 種子島に最後に帰ったのは、春休みのロケットマラソンで10キロ走った時だった。種子島で春にマラソンっていうのは、とっても暑くて苦しかった覚えがある。もう20年以上も前のこと。

 父は種子島で生まれた。なので、わたしたちは長い休みのときには種子島に《里帰り》をした。みかばあが、畳の上の大きなベッドの上で息を引き取った日のこともちょっと覚えている。おじちゃんちには五右衛門風呂があって、板の間ん中に上手に飛び乗り、五右衛門風呂のなべの底にぶくぶく沈みながら、大きな声で数を数えた。ガジュマルにぶら下がって、従兄妹たちとかわいい魚屋さんの歌を歌った。

 ずっと種子島に帰りたいと思っていたが、4年前に家族で帰った時は、父の具合も悪く、種子島まで帰ることができなかった。その冬に、長姉の家族といっしょに父は人生で最後の里帰りを果たした。父の世代の親戚は、年老いて他界したり入院したりしていたし、インターネットもやっていなかったので、これまでもなかなか連絡が取れなかった。わたしにも余裕がなかったのだ。従兄たちのほとんどは島を離れてしまった。今はどうしているのか、わからない人もいる。従兄姉たちの新しい家族のことは、ぜんぜん知らない。自分の結婚式には来てもらったのに。結婚式で会った時には、おしゃべりなんかしてる暇がなかった。なんてことだろう。

 帰らないでいると、長く会わないでいると、すっかり忘れられてしまったのではないかと思って、どんどん連絡がとりにくくなる。それは指宿の人たちとも同じだった。去年から、仕事のおかげで帰国できる機会が続いた。それとは別に、インターネットのおかげで、思いがけず《繋がった》人たちが、ここ1・2年で急激に増え、《距離》は物理的なものではなく、気持ちの問題だったのだと、このごろ思えるようになった。インターネットはなくても手紙ぐらいは書けた筈なのだから。

 お金さえどうにかすれば、日本だっていつでも帰れるんだと、いまは思う。ミーさんとの仕事にしがみつかなくても、いつでも帰れるんだなと思う。

 「今度帰って来たら、種子島に行こうよ」と、言い出したのは母だった。父との思い出の場所で、ひと握りの親戚との不愉快な思い出もできてしまった場所なので、まさか母が率先して行く気になるとは思っていなかった。母はもちろん自分一人で行ったことはないし、車もないし、種子島のことを覚えてもいないわたしを案内できるのか、すごく心配していた。
 「とりあえず、ロケット基地には連れて行きたいんだ。あそこの博物館が立派だから。子供たちが喜ぶと思う」

 母は、すぐにホテルや高速船の予約をしてくれた。鹿児島の姉もずいぶん協力してくれたようだ。姉たちもいっしょに帰れたらよかったのに。

 母はホテルなどを予約したパック料金の中に、観光バスも含まれていると思っていたが、それには乗れなかった。路線バスで、種子島を縦断し、ホテルに荷物を預けたらそのまま宇宙センターの見学に出掛けた。博物館では子どもたちは楽しそうに遊び回り、予定外だったが、宇宙センター基地内の周遊バスにも乗ることができて、本物のロケットも見た。

 翌日は、ホテルのロビーでレンタカーを頼み、今度はあちこちの観光スポットを見て回りながら、反対方向に種子島を北上することに決めた。
 ホテルに来る途中で、路線バスの中から、《住吉》という停留所を見ていた。そこがきっと《住吉のおばちゃん》の家のあるところに違いないと、見当がついていた。主要道路の途中だから、あそこまでは問題なく行ける。遠くに見える風景にも、見覚えがあった。おばちゃんの家で覚えているのは、海の水に浸かるガジュマルの歩道と、大きな玄関だけだ。近所に何があったかは覚えていない。そばまできてから、むりやり母に電話をさせて、おばちゃんの家までたどり着くことができた。今の世の中、携帯電話というものがあって、素晴らしい。

 脚の悪いおばちゃんを外に連れ出して、埋め立てられて姿を変えた《岩の海岸》の公園で、記念撮影をした。ガジュマルはそこここに根を伸ばしていて、子どもたちはあの頃わたしがやっていたようにガジュマルによじ上ろうとしていた。

 そこではずみをつけた母は、一気に墓参りまでやるといいだした。リュージ兄ちゃんのうちに挨拶して、モリミおばちゃんのお見舞いをしてからフミばあちゃんの家に行って、最後にテツロー兄さんの漁港にも行こうと言う。途中、種子島港のそばで幕の内弁当を食べて、なんども「もう来ることもないだろうから」と涙を浮かべてはいたが、わたしはこれで弾みがついて、帰国のたびに種子島まで帰ってくるよと心に誓った。ここまで帰って来ないとわたしの里帰りは完了できないことが、身体でわかった。

 一番喜んでいたのはフミばあちゃんで、モリミおばちゃんで、住吉のヨシコおばちゃんだったのかもしれないし、母とわたしだったのかもしれないが、わたしにはJPとノエミとゾエだったのではないかと思う。フランスに帰って来てから、日本で一番多く撮った種子島での写真を、人々に見せながら、種子島で会った親戚について、そして、種子島がどんなに美しかったかについて、わたしよりも熱く語る。
 種子島港で、船が出る直前に、走ってやって来たべつな従兄を見て、従兄が挨拶をする前にJPが、「あ、従兄が来た。いずみ姉さんに瓜二つだ」と笑った。この従兄は、母がたの指宿の従兄で、種子島の親戚とは違うのだが、今は種子島に単身赴任しているマモル兄ちゃん。

 翌日、種子島でもらった巨大やりイカを刺身にして、指宿の親戚たちと宴会をした。集まる指宿の親戚たちを見ながら、JPが「あ、この人はマモルさんの兄弟ですね」と笑う。やりイカとマモル兄ちゃんのおかげで、種子島がぐっと近づいた。宴会に続く数日のあいだには、鹿児島に来ている種子島の従姉たちとも、会ったり電話で話したりすることができ、JPもとっても喜んでいた。一人の従姉の息子さんには会ったことがないが、イタリア人のおともだちいるそうで、その辺りでまた「イタリアに来る時にはフランスまで来てね」というはなしが出る。JPのお母さんは半分イタリア人なので、イタリア人を連れた日本の親戚が遊びに来てくれたら、こっちでも大宴会となるだろう。

わたしは写真の父の歳を越えた。岩肌はあれ以来風化したのかもしれないが、遠目には「ぜんぜん変わってない」だった。

あるばむ








2008/12/21

クリスマス休暇中


      巻きずしと生春巻きを売ったスタンド


     誰もいない冬の地中海


     年末にJPが出張で訪れたパリ


(そりじゃなくて)馬車に、小人とプレゼントを乗せて、うちの中にまでやって来たサンタさん。

2008/12/20

楽しいでんわ、うれしい知らせ

 PTAのお母さん仲間といっしょに、町のクリスマス市でいろんな物を売る。クリスマスの飾りやカードや、お菓子など。去年巻きずしを売って大好評だったので、今年も作ることになった。昨日と今日で、巻きずしを200個と、なま春巻きを60本ぐらい作った。時間が余ったので、サモサという東南アジアのあげた春巻きのようなものも、いっしょに作って、それはみんなでわけて持ち帰った。巻きずしの、端っこの、売り物にならないものも分け合ったので、それといっしょに今晩のおかずにする。

 帰って来てみると、家人はまだだれも帰宅しておらず、家の中は真っ暗だった。ゾエの通っている乗馬クラブのクリスマス会から戻って来ていなかった。

 昼間は、実家に電話した。母とわらい話をして、生きることと死ぬことについて語り合い、《ありがとう》の効果と、このごろ2人で使っている竹酢の使い方とその効果について意見交換をし、次回帰った時に連れて行ってもらう予定の自然食品店について情報をもらった。母はあした4回目だか5回目だかの忘年会に行くといい、引っ張りだこでよろしいねと笑った。こちらはあさって、JPの両親の家に行く。人付き合いってものがないので、わたしには忘年会の誘いはない。

 そうそう、お知らせがあったのだ。
昨日、大阪の出版社の編集部から電話があり、いつもお世話になっている《さ》さんが、「出していただいていた企画の本が、版権取れましたので、次作品の翻訳をはじめてください」とのお知らせだった。
 今度のは小学3-4年生ぐらいの読み物になる。これまで2冊とはちょっと違って、楽しく笑えるお話だ。

楽しく笑える読み物に、しなければならない。しばらくは3-4年生の読み物について、少々お勉強を。

2008/12/19

ああ、いそがしい

 火曜日の夜サーカスを観に出掛けた。
 いつも預かっているジュリエットのお母さんに、割引で買ったというサーカス券をもらったので、子どもたちと三人で行ってみた。時間より早く行ったのにものすごい数の人が並んでいて、わたしたちよりもあとから来た人もたくさんいた。結局、わたしたちを含めて300〜400人の人が入場できなかった。
 
 「もう入れません」と聞いた時点で、潰されないうちに帰ろうと思って、子供たちをバックさせた。ノエミは文句を言いながら、脚を踏む大人を怒鳴りつけるし、ゾエは泣いているし、帰り道は悲惨だった。数日前からエキサイトしていたので無理もない。
 夜の催しは火曜日だけだったので、遠くから大人と一緒に来た子供たち、大人だけで来たグループも多かった。チケット売り場では払い戻しを要求する、荒れ狂った人々で大変だった。

 わたしたちにはセカンドチャンスがあった。
翌日の2時半からのサーカスを観に行くことにした。5時から日本語レッスンがあるので、大丈夫か心配だったので、火曜日のうちに行っておきたかったのだけど。
 2時半からのサーカスのために、12時半に学校からノエミが戻ると、大急ぎで食べて1時には家を出た。1番だろうと思ったら、10番目ぐらいだった。こんな寒いところで1時間半も待ちたくないな〜と思っていたら、2時15分ぐらい前には中に入れてもらえた。

 前日に行った友人たちのアドバイス通り、正面の席に陣取った。
2年前にも来たサーカス団で、半分は一年契約でサーカス団といっしょに移動する外国人が入っている。今年は、このサーカス団定番のクルーンと動物ショーの他に、中国人の女の子10人グループによるアクロバットと、アルゼンチンから来た空中ブランコチームだった。
 写真は、フラッシュが使えなかったので、上手に撮ることができなかった。

 子供たちは大喜び。おやつもたくさん持って行ったのに、雰囲気に呑まれて、思わずポップコーンまで買ってしまった。

 サーカスは4時半に終わり、5時から6時までの日本語レッスンに間に合った。今年最後のレッスンなので休みたくなかった。

 そのあと、JPがなかなか帰って来ないので、子供たちを留守番させて、6時からもうひとつのレッスンへ。6時半と7時に自宅に電話しても、JPが帰っていないので心配した。7時半に帰らなかったら、レッスンを中断して家に帰りますと言いながら、携帯電話もつけっぱなしでレッスンをやった。こんなに落ち着かないレッスンは滅多にない。ポールさんが、わたしの8年前に買った携帯を見て、「そんなの、使えるの?」とびッくりしている。
 中断して帰ろうか、どうしようか。。。決断ギリギリの7時半に、自宅に戻ったJPから電話がちゃんと鳴ったので、ポールさんがまたまたびっくりしている。

 これでひと安心。8時半まで今年最後のレッスンをやって家に帰ったら、ハンサムに若返ったJPがニコニコ待っていた。子供たちはお風呂に入り、ごはんを食べて、ノエミはヴァイオリンまでやり、ゾエの宿題も終わっていた。

「へへ。。。レッスンのこと、忘れてた。。。」
コイツったら、美容院に行っていたのである。あ〜〜〜。

 ちょうどJPから新しい電話をもらったので、「わたしは古いの使うから、こっちあげようか?」と言うのに、JPは要らないと言う。
「どこにいるの?いつ帰って来るの?」としつこく電話して来るオンナは嫌いなのだそうである。
職場にそんなオンナがいっぱいいるらしい。。。(みんな仕事中に、子供や旦那に電話している)
どこに行ってなにをしてるのかわからないダンナを持つ身になってみろよ、と怒られるJPなのであった。。。

 新しい携帯電話は、わたしがもらった。写真も撮れ、音楽も聴けるすごいやつである。フフフ。
クリスマスでもないのに、どうしちゃったんだろうと思ったら、なにかの景品だそうだ。

2008/12/15

にほんごクラブ














 3回目にして、年内最後の《にほんごクラブ》
本日は予定通り、一月のカレンダーを作った。
数字や曜日を、全部漢字で書かせた。
ちょっと説明して、ひたすら写させる。。。という作業だったので、ただただ慌ただしかったが、みんな面白がっていた。
 20の数字は、「2かける10だから二十と書くんだよ」と、口頭で説明していたら、十を2回で 《十十》 と書いた子供が何人もいた。大人と同じ説明じゃ、ダメなのね。。。

 飾り付けの時間が足りなくなってしまったが、なかなかきれいなのを作っている生徒もいた。おうちでもう一度作り直すという子もいたので、切手や折り紙をあげた。二月のカレンダーはもっと上手にできると思う。

 新年第1回目のクラブでは、福笑いをする予定。

ビクトル・ユーゴ中学校の《にほんごクラブ》のブログはここ
http://clubjaponais.blogspot.com/

中学校のホームページはこちら
http://collegevictorhugo.monsite.wanadoo.fr/

Russian Fantasia No.3 Leo Portnoff



 夜中の2時に、外があまりにもしんとしているので、郵便受けの穴から外を見たら、雪が降りはじめていた。
土曜日と日曜日は、フランス南東地方と中央高地で大雪の予報が出ていて、日曜日の朝にはさっそく被害の報道でにぎわっていた。
そういう時でも、カーモーの辺りは雪は降らない。

 カーモーに来てから4年経ったが、たしか2年目に大雪が降って、70センチぐらい積もった。一昨年は10センチぐらい積もっただろうか。どちらも1月に入ってからだった。

 来週の月曜日にはJPの両親の家に行く。両親の家は地中海に面した町にあって、そちらも雪は降らない。そこに行くまでにマザメという地方で山を越えなければならないが、そのへんはクリスマスに雪が降っていることがある。

 カーモーから北に30分ぐらいの《バラックヴィル》という町がある。ロデツの剣道クラブに行く途中、そこを通過するのだが、他は天気がよくてもバラックヴィルだけはいつも天気が悪い。町に入るといきなり霧が深くなるし、雪も降る。雨も多いし、風も強い。バラックヴィルに住んでいると聞くと、「よくまあ、そんな所に住んでるね」というような町だ。

 ノエミのヴァイオリンの先生はバラックヴィルに住んでいる。そして、片道1時間半ぐらい掛かるガヤックの町と、1時間ぐらい掛かるアルビと、30分以上掛かるカーモーで、子どもたちにヴァイオリンを教えている。

 火曜日に音楽学校の発表会があった。ピアノ・フルート・ギター・ドラム・コーラスも発表された。去年よりも子供の数が増えたので、去年よりも大きなホールでの演奏会となった。
 
 ノエミの課題曲は、わたしが日本に帰る前に楽譜を注文しておかなかったばかりに、届くのが遅くなり、コンサート前の一週間しか練習できなかった。それでも先生は、その《ロシアのファンタジー Russian fantasia Leo Portnoff》をどうしても演奏させたいと言った。
 4分の4拍子のアンダンテと、4分の2拍子のアレグレットと、8分の6拍子のところにはピッチカートも出て来る。唄ったり泣いたりしているようなテンポが続く。1オクターブを行ったり来たりする重々しい最後で、高いラから低いラに落ちて締めくくるという、カッコいい曲だ。でもとっても難しくて、1週間の間喧嘩ばかりしていた。わたしが偉そうに指導して、ノエミが偉そうに反発するから、いつも喧嘩になる。でも、ノエミは腹を立てるとすごい威力を発揮するので、「ほらまた間違った」などというとムキになって次は意地でも間違わない。この子はなかなか叱りがいがあるのだ。(いじわるな母)

 水曜日に先生から電話があり、「昨日の発表会は、ノエミ、よくがんばりましたね」とおっしゃる。
私もノエミ自身も「ちっともよくなかった」と思っていたので、「そうですか?先生はあれで満足だったんですか?」と言った。
「うちの子、もっと練習したら、もっと良くできましたよね?」
「そうですね。時間足りなかったですね。その割には、わたしはよかったと思います。もっと練習したらもっと上手にできますよ。ノエミは」
ほら、そういってもらいたい訳ですよ。ノエミには。
ノエミも先生の言葉を横で聞いてる。そして「今度はもっと練習します」などと言ってる。よしよし。
 「ところであの発表会は、最低でしたよね」
というはなしになる。子供たちのほとんどは、いかにも練習不足だった。面白くなさそうに、無感動な表情で、仕方なさそうに、いやいや演奏している。音楽なのに、音は出ないし楽しそうじゃない。発表会なのに、見せるものがあまりない。感動が湧かない。
 中学校に行って思うことにちょっと似ている。子どもたち、なんだか、生気がない。笑わない。面白くなさそうにしている。先生たちも、教えがいがないだろうなあ、と思う。その点、にほんごクラブのみんなは生き生きしているから、よかった。やっぱり、義務でやってるのと、遊部では違うんだろう。

 「ところで、明日わたしのコンサートがあるんですよ」
ノエミの先生のコンサートは、できる限り行くことにしている。とっても面白い先生だし、先生がどんなにすごいかを見せてあげたいのだ。尊敬してる先生とそうでない相手では、習う方も気合いが違って来る。それに、こんな田舎でコンサートなんて滅多にないので、たまに本物を聴かせてあげることは大事だと思うから。去年の冬はモネスティエの教会で、ジャズとクラシックのコンサートがあった。とってもよかった。意外な組み合わせで、楽しかった。
 今回のは、先生がいまハマっている、ロシアのバラライカとバイオリンとチェロのコンサートだという。ノエミもいまロシアの曲をやっているので、ぜひ来てくださいと誘ってくださった。

 ガヤックの教会に集まったのは、50人ぐらいだろうか?ロシアのバラライカとギター、歌とピアノもロシア人の女性、そしてバイオリンとチェロで構成される4人のフランス人グループ。そこに、ノエミの先生も座っていた。先生がたまに冗談を言う。そして、たまにソロが入れ替わって、先生もソロをやる。

 わたしがいちばん好きだったのは、スピルバーグの《シンドラーのリスト》という映画で流れたジョンウィリアムスの曲だ。この映画もそれはそれは感動的だったが、この曲を聴くと、赤いマントの女の子の姿が目に浮かんで泣きたくなる。赤いマントの少女が出て来るシーンに流れるOifn pripitchikという曲は、イーディッシュ語のユダヤの古い音楽。
http://jp.youtube.com/watch?v=JkS3cZntDTY&feature=related

イツアック・パールマンの《シンドラーのリスト》テーマ曲演奏ビデオがあったので、ご紹介。この人、ちょっとノエミの先生に似ている。
http://www.juif.org/video/2559,la-liste-de-schindler-musique-de-itzhak-perlman.php

 今晩クリスマス休暇まえ最後のレッスンのために、先生は、雪の降るバラックヴィルから出て来てくださるのだ。ノエミ、昨日もがんばって練習していた。

2008/12/14

ダッシュ

 あっという間の一週間だった。

《月曜日》
 通訳のお仕事関係で、日本からお客さんが8人もいらっしゃるので、車やホテルの手配やら、いろいろ忙しくなって来た。ついでにミーさんもわがままを言うので、お話を聞いてあげたりなど。
チョコレートでも食べて心を休めなさいよ、とアドバイスをした。
 
 中学のにほんごクラブ2回目終了。ブログ作成中。

《火曜日》
 先週に引き続き、友だちの赤ちゃんを預かっている。わたしもなにかと忙しいので、無理やり寝かせて大急ぎで仕事する。ちょっと10年ぐらい前に戻ったみたいで、新鮮な雰囲気を味わっていないでもない。

 夜は音楽学校のコンサート。ノエミは一週間で準備したロシア民謡を演奏。もっと練習できたらもっと上手にできたと思う。ずいぶん上がってしまったみたいだった。

 コンサートのあと、わたしはPTAの会議で夜中まで。そのあとミーさんのための翻訳。

《水曜日》
 レッスンを二つ急きょキャンセルした。JPの職場の人たちが集まっての、クリスマスパーティー。手品やピエロの登場するお楽しみ会だった。最後は、前もって親が注文しておいたプレゼントを、サンタさんに配らせるという催し。ノエミは12歳になったので、もらえるのは今年が最後。ノエミはいま生物で解剖などをやっていて、家でカエルの内臓のはなしをよくするので、JPは、《解剖セット》なるものを注文してた。理科室によくぶら下がっている骸骨の模型を自分で作るというもの。ノエミは包みを開けた途端に、プレゼントを投げ出す。「げ〜。気持ち悪〜〜」わたしも、もっとマシなものにしてもらいたかったよ。

のえみ、いよいよ
「お父さんにはわたしの気持ちなんかわからないっ」
ジェネレーションに突入か。。。
それにしても、父よ、女心がわからんか。。。やっぱりな。。。
 
 《木曜日》《金曜日》
 子守り、家事、買い物、みーさんのわがままの件、レッスン、などなど。。。。
無料でやっていた日本語のレッスンだったのだが、子どもたちのお母さんがクリスマスプレゼントとレッスン料の代わりと言って、お小遣いをくれた。やっほ〜

 《土曜日》
朝一番にケーキを作り、水曜日にキャンセルした日本語レッスン。
午後は、ノエミの友だちを呼んで、お誕生会。
ゾエの友だちも呼んだので、我が家には10人の少女が集まった。JPたじたじ。
10人の少女が集まると、とんでもない騒ぎだ。
耳栓をして、部屋にこもり、年賀状を書く。 

 《日曜日》
中央高地辺りでは大雪らしい。
カーモーは5度。雨が降っている。
ゾエは友だちのうちに行き、ノエミは宿題をやっているので、静か。
本当はクリスマスプレゼントを買いに、アルビの街にでも行きたいのだが(今週と来週は日曜日もお店が開いているらしいので)、寒いし面倒くさいので、あと1時間でノエミの宿題が終わるかどうか。で。。考える。


 来週は、もっと忙しい。クリスマス休暇直前、最後の週。

2008/12/08

12歳になりました

























ノエミ、無事12歳になった。
次回日本に帰る時は、大人料金〜〜〜〜。
足のサイズは38号(日本で は24.5センチぐらい?)
身長は145センチ、体重は。。。ナゾ(わたしよりは軽い)
先日、フランス語の今学期平均が20点満点の19.4だった、とすごく自慢している。ビクトル・ユーゴ中学校始まって以来の高得点と、本人は言っているが、ほんとかな?
色気、なし。
流行にも、あんまり興味なし。(親がこうなので諦めている気配)買ってあげようと思っていた白いワンピースは、冷たく断ったオンナ。
親と一緒に選んだ誕生日のプレゼントは、DSの中古のカセット。夜遅くにそれがもとでゾエと喧嘩になり、母にこっぴどく叱られ、涙のうちに《せっかくのお誕生日》が幕を閉じた。
6日に再び父がたの祖父母と祝いをしたので、2日連続でお誕生日ケーキを食べることとなった。来週の土曜日は、友だちを呼んでのパーティーを予定している。ってことは、わたしは三個目のお誕生ケーキを作らねばならないのだ〜〜。そんなに歳取りたいか〜〜?

 
 顔はデカい、鼻は高い(ホントは低い)、頭は固い、口は軽い、舌は回りすぎ、耳は遠い(なぜかわたしの命令だけが聞こえない)、そして、尻は重い〜〜。
まあ、いちおう、そこら辺の12歳並みに育っていると言えよう。
こんな親で、そりゃまあ、よくがんばって生き伸びてくれていると、つくづく思う。

2008/12/01

ふたをあけてみる

日本語クラブ第1回目

 なんか。。。準備しすぎた。

 12時45分から13時半までの授業で、しかも初回、用意された教室の場所もわからず、あつまる生徒の数もわからず。。。という状況。教室の前まで行くと、カギがかかってるし。。。時間が過ぎて行く。
 
カギをとりに行ってもらっている間に、子どもたちとおしゃべり。
 「どうして、日本語クラブに入ったの?」「なにか特別、やりたいことがあるの?」

だいたいは予想通りの返事が返ってくる。
− マンガが好きだから。
− 読み書きに興味あるから。

 教室に入ると、まずは自己紹介から。
そこで、知っている子どもたちには「XXさん、こんにちは。お元気ですか?」を言わせ、応えさせる。
知らない子には「はじめまして。XXです。どうぞよろしく」と言ってもらう。
中学生ぐらいだったら、わけがわからなくてもいちおうリピートしてくれる。何度もやってるうちに、勝手に想像したり、応用できる。
 でも、わけわからないのにただ写すだけ。。。に慣れてる中学生というのも、ちょっと危ない。

 フランス人の大人はプライドが高くて理屈っぽいので、「先生の言うことを、ひたすら繰り返して言う」というのが嫌いだ。いちいち訳してくれとか、なんでリピートするのかわけが知りたいとか、そんなこと初回からいっていたら困るのに。子供は素直でいいなあ。大人のクラスには恥を捨てて、子供のように同じことを繰り返すということを嫌がる人がけっこう居る。でも、わたしは有無を言わせず繰り返して言わせるほう。書くのはあとで。ニュアンスでわかって〜、が外国語学習初歩のポイントじゃないの?完璧に話せるようになってから。。。なんて言ってたら、いつまでも日本にいけないヨ。身体で覚えよう。

 ひがらなやりたいという中学生たちの集まりは、なんとも頼もしい。ひらがなは一週間で10字しかしないのが常だけど、いちおう、クリスマス休暇前の目標だけは立ててしまったので、初回と2回目でやるべきことが山のようにある。

 じつは、クリスマス休暇に突入する前に、一月のカレンダーを作る予定。
なので、まだ覚えてもいないひらがなを(三週間ですべてのひらがなは無理)、お手本を見て写すという力をつけなければならない。
それから、みんなが知りたがっている《漢字》をいくつか書かせてあげたい。
 自己紹介のためにも、2ケタの数字を教えたい。2ケタが書ければ、年と日付が書ける。(そのあとの時間と電話番号もすぐに。そうしてショッピングも)

《あけまして おめでとう》
のついでに、《おめでとう》《お誕生日おめでとう》もいっしょにやれば、12月生まれの我が子に《おめでとう》と言ってもらえるのだ。なんてラッキー。
 この2週間で、《あ行》から《た行》まで完璧に覚えさせるので、カレンダーには「ことし、うし どし」まで書ける。すごい、すごすぎる。ちょうど今年の1年生が丑年だ。ノエミはネズミ。

 これらすべてを総合して、「日本語なんて習わせて大丈夫かしら?」と心配している教師陣と保護者一同に、3回のレッスンの結果として、書道と折り紙と切り紙で飾られた、日本情緒たっぷりの一月のカレンダーを、クリスマスプレゼントとして家庭に持ち帰ってもらうつもり。

 月が変わるごとに、カレンダーを作ったらどうかとも思っている。


 お正月は、カルタと双六と福笑いが待っている。。。。
カルタをやりたいから、早くひらがなを覚えて欲しい〜〜〜。
書き初めのために「はつはる」も、おぼえてほしいところだが、ら行はまだまだなので、とりあえず新年に入ったらすぐにた行をやって、「いいとし」にしようかと思っている。

 たのしみ、たのしみ。