2007/01/25

Petit Bonhomme de neige 雪こだるま

Il a neige , aussi dans le Tarn. Mais elle n'a pas tenu .
Avec les filles, nous sommes allees faire un bonhomme de neige et une bataille de boules de neige.
Mais c'etait tres difficile d'en faire un gros, Noemie a fait un petit bebe bonhomme de neige.

 火曜日の午前中にカーモーでも雪が降った。アルビまで買い物に行っていたが、途中でものすごい吹雪になってしまい、帰れるかどうか不安になった。スーパーの入り口にあるバス停に、若い女の人がいて、吹きすさぶ雪に傘をさしてバスを待っていた。どこまで行くのか訊いたら、カーモーとは別方向だったけれども、吹雪の中に立たせておくのが忍びなく、町の中心にあるバスセンターまでは送り届けることにした。彼女はそこからバスを乗り換える予定だったが、そのバス停には屋根のついた待合所もあるし、乗り換えるバスは自宅の前に停まるということだったので。
 社会人になりたてのころ、わたしは自動車を持っておらず、ニューカレドニアに住んでいた五年半の間のほとんどを、ほぼ車なしで暮らした。友人たちがずいぶん助けてくれたけれども、炎天下や暴風雨の中を、毎日何キロも歩いた思い出の方が記憶に残っている。だからとんでもない場所をとぼとぼ歩いている人や、へんぴなところでバスを待っている人を見ると、車に乗りませんかと言ってしまう。後ろに子供を乗せたおばさんだから、女性でも安心して乗ってくれる。

 ちょっと遠回りだったけれども、道路にはまだ雪が積もる前に帰って来ることができた。ゾエが興奮している。二人で窓の外を見て過ごした。夜までにはあまり積もらなかったけれども、そのおかげでJPも無事に仕事から戻って来られた。

 水曜日の朝、子供たちは起こしもしないのに起きて、勝手に雨戸を開けて騒いでいた。でも、期待したほどは積もっておらず約5センチか?というところ。毎週水曜日は農場の野菜を取りに行く日だから、農場から野菜を預かってくれている女性の仕事場まで野菜を取りに行き、そのままジャン・ジョレス公園に直行した。
 水曜日で学校はお休みだったが、朝っぱらから雪遊びに来るような子供はいなかった。うちの子たちは二人で大騒ぎ。待ってるわたしが凍え始めるまで、雪合戦や、雪こだるま作りを楽しんだ。

 ひどいところでは大きな交通事故や、停電も起こっていたのだから、うちの辺りはちょっと降って楽しめて、めでたしだった。
その日は、取りに行ったばかりの野菜で作ったあつあつスープがおいしかった。

 木曜日の朝、ボボの散歩のついでに雪だるまを見に行ったら、地面の雪はすっかり溶けていた。ゾエが造った《お城》も崩壊していた。飾りに使った棒切れや、ドングリだけがその辺に転がっていて《夢の跡》って感じだった。
ノエミの雪だるまだけがぽつりと遊具の脇にまだ立っていて、朝日を浴びて輝いていた。

 

2007/01/22

ラベ・ピエール 

 朝からずうっとラジオでこの人の名前がこだましている。
『国民に最も愛される有名な男性』の投票で、毎年毎年トップを飾っていながら、2004年には「自分をその賞から外してください」と辞退していた人。今年94歳だったそうだ。
彼の作った財団は http://www.fondation-abbe-pierre.fr/

 1954年に、戦後困った人たちのために、毛布を集めたことから始まったピエール神父の、『すべての人に屋根を』という運動。我が家から歩いて3分のところにある『エマウス』も彼が創始者だ。
 
 去年の春頃、義父母の親切心で、頼みもしないのに要らない家具をもらった。結局うちでは使わないので、JPが『エマウス』に寄付した。エマウスでは、要らなくなった物を、中古でも壊れていても、部品が足りなくても何でも持って行けば、修理したりリメイクしたりして、破格で一般の人に売ってくれる。そこの収益は、住む場所のない人たちや、フランスで最も貧しい人たちのスープや毛布を買うお金になる。そして、そういう人たちよりはちょっとは恵まれているけれど、経済的に困っている人たちにとって、エマウスで手に入れることのできる安い家具や衣類は、苦しい日常生活の助けとなる。がらくたの中から、ずっと探し続けていた部品や、壊したやかんのふたや、百科事典セットの欠けていた一冊や、一組だけ足りなかったコーヒーカップの、同じものを掘り出すこともある。蚤の市やアンティークショップのようでもあって、毎週金曜日の朝にその倉庫をぐるっと歩いて回るのが大好きだ。

 先日母が「フランスでは家のない人たちがテントで暮らしているってテレビで言ってたよ」と電話で話していたが、それは今話題になっている『ドンキホーテの子供たち』というグループだと思う。彼らが冬の間路上で凍死しないように、政治家は「冬の間の住宅を提供します」と約束して、みんなテント生活をやめてくれると期待したが、実際にはそれは「春になったらまた路上に戻ってください」と言われてるのと同じこと。だから、住所不定の人たち、低所得の人たちの生活を、基本的にもっと向上させるために、公共の住宅を増やしたり、補助や援助をより充実させることなど、まだまだテントからの呼びかけは続いている。
 ピエール神父も、ずっとそんなテントの横で、運動を続けて来た人の一人だ。

 彼の運動はフランス国内だけにとどまっていなかった。世界各地で彼の精神は生かされて来た。
彼はずっとずっと「わたしは死ぬために生きている」と言っていて、「死を待っていた」とみんなが言っている。94歳で入院したこの最後の八日間、面会したすべての人が「会うのはこれで最後だろう」と思ったという。ずいぶん弱っていたらしい。そしてみんな「彼の運動を続けて行こう」と誓ったそうだ。

 先ほど、わたし、銀行口座の寂しい残金を確認し、心寂しい冬の寒空の下を、とぼとぼ歩いて教会の前を横切り、自宅に向かいながら『エマウス』の前を通りかかった。いつも通り、でもみんなちょっと寂しげな顔をして、エマウスのボランティアの人たちが、カーモーとその周辺地域から寄せられた、古いソファーや冷蔵庫や、段ボールいっぱいの古着や、欠けたお皿、とっての曲がった鍋などを、おんぼろなトラックの荷台から降ろしているところだった。今度の金曜日の市のために。一方で要らなくなったものを、必要としている別な人の所に届けるために。わたしも今週ちょっと小銭を溜めて、『エマウス』でなにか買おうと思う。貯金箱なんていいかもしれない。いつまでも空っぽで溜まらないから、エマウスに持ち込まれた貯金箱だろうか?それでも、参加することでピエール神父を讃えられるかも、しれない。金曜日にはパリのノートルダム大聖堂で国葬が行われる。

 

2007/01/19

在仏ユダヤ人のこと

 第二次大戦中にユダヤ人が集められて、各地の強制収容所などに送られ、無意味な虐殺や、過酷な労働をになわされていたことは、だいたいみんな知っている。
 わたしは今、アウシュビッツの生き残りというおじいちゃんと、戦争を知らない孫娘の物語を翻訳していて、アウシュビッツでいったいどんなことが行われたか、アンネ・フランクがどんな逃亡生活を送っていたか、ユダヤ人の歴史などについて、参考のためあらためて読み直している最中だ。

 19日、フランスでは在仏のユダヤ人を、かくまい、助けて、虐殺から救ったフランス人 2725人の一般市民をたたえる儀式が行われた。1995年にシラク大統領は、当時の対独協力政権によるユダヤ人迫害について、『仏国家として責任がある』と大統領として初めて認めたにもかかわらず、これまで一般市民が残した歴史上の功績を公式に認定していなかった。

 無宗教墓所パンテオンで開かれた式典の様子を、映像で見たがとても感動的だった。
名誉をたたえられたのは、危険を顧みずユダヤ人を救ったとして、イスラエルのユダヤ人大量虐殺記念館から正式に《諸国民の中の正義の人》という称号を与えられた人のなかから、フランス人2725人だそうだ。
 式典には、尊敬するシモーヌ・ヴェイユさんが、シラク大統領と並んで参列していた。彼女は哲学者。過去には、保健省の大臣だったこともあり、1975年に堕胎の権利などについて打ち出した人。1927年生まれの女性で、1944年3月から45年の1月まで家族とともにアウシュビッツで強制労働をさせられ、生き残った姉妹二人のうちのひとり。隠れたヒーローたちに名誉を与えるために、長く尽力して来た人だ。
 戦争が終わってから名誉をたたえるまで、ずいぶん時間が経ってしまった。生き残った人、彼らを助けた人たちも、ずいぶん数が少なくなっている。シモーヌ・ヴェイユさんとジャック・シラク大統領を囲むように立っていた子供たち。生き残りと、救いのヒーローが私たちに残してくれた、大事な子孫だ。

2007/01/17

おおめに見てもらいたいですってー!? C'est Intorelable !



以前は犬にいじめられていた亀。わたしの友達に救われて、平和に暮らしています。
Soyez plus attentifs pour la securite des enfants !! Regardez La tortue par exemple, elle vivera tres longtemps meme elle marche tout doucement, mais les hommes roulent a 100 km/h en ville et ils perdent la vie en une seconde. Nous habitons pres de l'ecole, nos enfants faillent se faire ecraser quotidiennement souvent par les parents des autres enfants !!
Respectez egalement des regles de stationnement et concentrez-vous au volant, s'il vous plait.

 火曜日の夜はPTA役員の会議だった。今月のロトくじのほかに、交通について話し合われた。

 学校周辺道路で、登下校時間に送り迎えの車で渋滞が起こることや、不法な駐車が多いことについて、意見が交わされ、役員の名前で昨年内に張り紙をした。実際、歩道に乗り上げる車、場所の取り合いや、譲らなかったためにお互いの車に傷がついたり、渋滞が原因で喧嘩を始める親などもあって、登下校時間の周辺道路でのトラブルは絶えない。

《子供たちのために、もっと安全に責任を持ってください。決まりを守って児童に見本を見せましょう。》というような内容。
平行して、市役所と県庁には周辺道路の設備の見直しと、登下校時間内の警察による法的な取り締まりなどを申し込んでいたので、暮れには、登下校時間中に《駐車違反》の罰金を取られる人が続発した。
 校門前の二カ所の歩道には警官が立ち、歩行者優先について徹底された。

 そしてクリスマス休暇が明けると、学校に大きな張り紙が待っていた。
《登下校時間には、どの家庭でも親子揃って大慌てです。いつも時間ギリギリで、駐車のことまで考えられないのは当然です。もう少しおおめに見てもらいたいものです。怒りに震える親グループより》
というような内容。(実際にはもっと長い)

 なるほどねえ。自分たちが仕事に遅れないために、歩道の上や交差点に身勝手な駐車違反をして、朝っぱらから罰金を取られたら、そういうことも言いたくなるだろう。でも、実際に歩道に乗り上げていた車がバックしてひかれそうになったとか、ミラーにひっかけられたなど、危ない目に遭っている子供は大勢いるのだ。違反をしている大急ぎの親に限って、子供はといえばシートベルトさえ締めてもらっていない。罰金を払うのは親でも、怪我をしたり命を落としたりするのは子供の方だ。

 県庁と市役所からは、丁寧な返事が来た。
数年前に学校周辺道路が整備され、徐行を促すドーダン(道路が一部盛り上がっているために、30キロ以上は出せない仕組み。交差点のそばに設置)・目につく大きな標識・歩道には危険を促す着色、そして、各学校では子供を対象にした安全教室・親の注意を促すチラシ配り・警察官の配置など、一連のキャンペーンが行われた。しかも、免許を持っている人はすべて知っているはずの《優先》や《駐車》の決まりに関しては、学校前だからという変更はない。(ということは、特別知っておかなければならない決まりというのはなく、ただもっと注意深くなるべきである)。しかもジャン・ジョレス小学校の100メートル先にはジャン・ジョレス公園の無料巨大駐車場もある。だからこれ以上の設備補充は行われないこと。PTAで関係者に呼びかけて、各学校で改善してもらいたい。
 と、言うことは、学校前であっても、駐車違反は駐車違反なので、これからも罰金を取られる人は、取られるってことだ。

 この会議の日、フランスの北の町で、学校の周辺道路での大きな事故が報道された。
被害者は、中学生女子三人。決まりを守って歩道を歩いていた。
加害者は、PTAの一人である母親。その人は標識通り時速40キロ以下で走っていた。薬もアルコールも関係なし。どうやら、中学生三人がまさに横断歩道を横切ろうとしていたその瞬間に、後ろに座っていた赤ちゃんに気を取られて、後ろを向いてしまい、三人グループを轢いてしまったのだった。三人のうち二人は双子の姉妹で、うち一人は頭蓋骨骨折などの重体。

 おとといは、我が家の目の前でも、歩道に乗り上げて駐車していた車が、バックして後ろに停まっていたバイクを、轢いてから、引きずって、その上転げ飛ばすという事故があった。すごい音だったので急いで飛び出した。バイクのまわりには人が折らず、けが人はなかったが、道路の真ん中まで転がったへルメットにも、粉々になり道路に散らばった買い物かごにも、ものすごい音を立てて三度に渡って転がったり引きずられたりしたバイクの壊れる音にも《気づかなかった》らしく、わたしが家を飛び出した時には、その車は猛スピードをあげて遠く彼方まで行ってしまっていた。

 ちょうど路上にいた目撃者がナンバーを覚えていたので、わたしがペンと紙を出して書いてもらった。バイクの持ち主は、70歳ぐらいのおばさんだった。「怪我がなかったからいいですよ」と平気な顔をしていたけれども、集まった目撃者たちはみな口を揃えて、「ああいう人間は、一度痛い思いをしないとわからない。どっかできっとひき逃げもやってる!」などと言われて、警察に届けることを決心したようだった。

 なんでみんな、そんなに急いでいるんだろう。亀はゆっくり暮らして萬年も生きるが、人間は時速100キロであっという間にあの世ゆきだ。自分の子供があとどのくらい生き延びられるか、とっても心配だ。

見取り稽古 L'observation : Mitori-geiko



 うちのボボです。どうぞよろしく。

 森のそばの道路脇でボボに出合ったのは、2000年の1月2日のことだった。
首輪はつけておらず、大きな耳の裏側には入れ墨もなかったので、捨て犬と決めつけて自宅に連れ帰った。
 寒かったので、暖房の横に寝床を作ってあげた。どうやら脚にけがをしているらしい。顔も傷だらけだった。

 翌日医者に見てもらったら、右前脚を骨折していることがわかった。しかも、打撲傷や内出血などないことから、交通事故にあった可能性はかなり低いと言われ、獣医さんは「これは人間の手か、罠にはまって、ポキッとまっぷたつに折られた骨折です」と判断した。
人間は犬にもなんともひどいことをする。
 自分よりも弱いものをいじめてどうする!

 わたしは高校一年の時に、いじめられていた、と思う。その時にはよくわかっていなかった。
剣道部で、いつも居残りをさせられて、ひとり暮れ落ちた光のない体育館の軒下の冷たい水道で、同級生や先輩たちの汚い手ぬぐいを洗わされた。部活動の時間に発せられる、あるいはひそひそと後ろでささやかれる、言葉の節々に、手ぬぐいを洗う冷たい水よりも冷ややかなニュアンスを感じた。その時には一年生なんだから、先輩の言うことは全部聞くのが当然と思っていたけれども、毎日の周囲の仕草や、ささやきで、自分が汚いもののようにつまみ出されているのを感じ始めた。
 はっきりわたしの何がいけないのか、言ってくれたらいいのに。陰湿だ。
あの子、道場に来なきゃいいのにねって言ってるらしいのに、休んだら次の日はもっとひどい目にあった。

 わたしは、ずいぶんがんばったと思う。つらいと思っても始めたことは終わりまでやるというのは、たぶん《家訓》みたいなもので、苦労しなければうちの子じゃないというような家風があったので、がんばることはいいことだと信じていたのかもしれない。

 これまでにも《ずいぶん がんばった》ということは何度もあった。それで《結局いい結果が生まれた》ということもたびたびあったので、とことんやるのは素晴らしいことのような気がしていた。

 そして今、わたしは自分の首を絞めている。がんばりすぎ。あっちこっちに褒められたくて、みんなにいい顔しすぎだ。
時間がない。ぜんぜん足りない。頼まれごとや、義務や、責任や、学校のため、クラブのため、誇りのため、誰か知らない人のため、自分と自分の家族を後回しにしている。けっこう好き勝手に生きているように見えて、じつは自分のやりたいと思っていることはちいっとも進まない。目の前のことしか見えない。目の前の不幸しか考えられない。先のことを考える余裕もなければ、夢を見ている時間もない。すり減る。がんばりすぎ。いいかっこしいも楽じゃない。
 肩が上がっている。広々とした道場にじっと座って、大きく息を吐きながら心静かに黙想をする、そーんな気持ちの余裕もない。息切れしている。これでは目標にしていたはずの大きくて美しい、遠くから飛び込んで取る面なんて、できやしない。
 そうだ。あんなにいじめられたのに、先輩からは何も教えてもらえなかったのに、わたしはいまだに剣道を続けている。あの人たちに教えてもらえなかったのは、ラッキーだったのかもしれない。おかげでわたしはあの人たちのような先輩にはならなかった、と思う。
 きばったらイケナイ、がんばりすぎるのもよくない、踏ん張っていたら脚さばきが鈍る。そうだ。そうだった。

 今《三殺法》というのを習っている。剣を殺す、気を殺す、技を殺す。
なかなか上達しない。隙がある、油断している、気合い入ってない、足下ふらついている。なにより相手を真っ向から見てない。向かって来る相手をひょいとかわし、相手をびっくりさせられないか。ま、地道にやる。焦ってはいけない。大きく深呼吸をするそんな時間もきっと大切。まず自分が居て、そして相手が居るのだと思う。
 たまには場外に出て見取り稽古もよいと思う。人の欠点を見て、自分の悪いところも見えたり、する。
人がいて、自分もいる。向かった相手はきっと何かを教えてくれている。
振り回されないように。自分と自分の分身である家族が、まずここに居て、誰よりも大切なんだと唱えてあげたい。
いい格好をしなくてもいいんだね。

 ボボは意地悪な人間にひどい目に遭いながら、その命までも操られながら、逞しく生きている。
負け犬らしく尻尾を巻いて、悪い人間が立ち去るのをじっと待っていたんだろうか。
どんな犬よりも優しい。きっと、いじめられてその《痛み》をわかっているからだろう。
ボボにさえ、教えられる。
 
『いじめられている君へ。いじめている君へ。』も読んでみようか。
http://www.asahi.com/edu/ijime/
 
 

2007/01/16

きゃあ!!


 フランス カルカッソンヌのお城。。。。の壁。。。

 去年の11月20日から、また例年通り商工会議所の日本語レッスンを受け持たせていただいている。初級のクラスは4人。遠くから通っているロシア人のエレンさん、高校生のフランソワさんとフォスティンさん。フォスティンさんのお母さんのエレンさん。中級のクラスは、去年よりも集まらず3人。わたしにとっては個人レッスンでも10人居ても給料は同じなので、数は少ない方がやりやすくて好きだが、商工会議所にとっては苦しい決断だった。それでも、毎年一応生徒は集まるので、今年はちゃんと教材を買ってもらえることになった。うれしい。

 初級のクラスでは11月からの5回のレッスンでひらがな全部を終了した。クリスマス休暇の二週間の間に、《ひらがな表記の決まり》などを渡して、濁音や発音の勉強もして来るように、と言ってはみたものの、「一人でやって来い」と言われてもできるものじゃない。
わかってはいたが、クリスマスには休むことになっていたので、「続きは休み明け」ということになってしまった。

 みんなよくがんばって勉強していたが、こちらの指導不足で、《びよういん》と《びょういん》の違いや、《すずき》と《こづつみ》の表記に頭を抱えた人が多かった。《さとう》を《さとお》、《ありがとう》を《ありがとお》と書いているし、まだひらがな全部を完璧に覚えていないので、《い》と《こ》、《し》と《つ》が混在している練習ノートもあった。そして《わたしは、、、、》のふたつのwa や《おはしを、、、》の二つの o については、当然ながら教えていないのだからできるわけがない。

 クリスマスに入る前に、「今日渡した練習用紙、すべてはできません。習っていないものもあります。ここと、ここ。習ったところだけやってください」といちおう言ったのに、わからないところに時間を掛けてしまったようだ。「ひらがなの五十音だけをみっちりやって来てください。決まりは来年」と言えばよかった。

 「きゃ/きゅ/きょ」を教えながら、漫画好きの高校生がみんな知ってる「きゃあ」の話になった。平仮名と片仮名で書いて見せたら「ひらがなの方が好きだ」と全員一致の感想だった。「キャー」だと恐怖の叫びで、「きゃあ」はちょっとびっくりどっきり、期待はずれにうれしい時などにも使える?「きゃあ」と言うからにはセーラー服を着ていなくてはイケナイ?ふむ、ひらがなみたいに丸っこく言うと、少しかわいらしくなるかなあ?などなど。。。そんな個人的な意見を述べていたら、ひらがなの丸さにかわいらしさが出てますと、みんな言っていた。

 ああ、そおんなことを言っている間に、《ぎゅうにゅう》や《しょうゆ》の練習時間が足りなくなってしまった。
平仮名という第一関門のあとには片仮名も待っている。高くて二重の壁。まるで守りの堅い中世のお城のようだ。

 Je donne des cours de japonais a la CCI d'Albi. Ce soir a la classe elementaire, nous avons revise les Hiraganas.
Les eleves ont bien travaille pendant les vacances de Noel, mais je devais ajouter quelques explications supplementaires pour completer les regles de Hiragana. Ils sont ravis de pouvoir lire des phrases entieres, c'est normal, puisque ils ne connaissaient aucune lettre il y a deux mois.
 

2007/01/15

誕生日 Anniversaire



 父の誕生日だった。
数年前まで、この日は「成人の日」という祝日だったので、毎年お休みだった。
田舎の商店街にあった我が家には、毎年日の丸が掲げられていた。
あの頃、日の丸は国旗か!?という人はそばに誰もおらず、成人式でも卒業式でも、みんなが『君が代』を歌っていた。

先ほど母に電話した。
じつは、新年の挨拶もまだだったのだ。なんという親不孝!
『明けましておめでとうございます』と言うと、びっくりしていた。
母はきのう、指宿に春を呼ぶ『菜の花マラソン』に出店で参加したので、売り上げの計算をしているところだった。
テレビと向かい合って、こたつの中で電卓を叩き、巨大そろばんをはじく、母の姿が目に浮かぶ。
「フランスでテント暮らしをしている人たちの様子を、テレビで言っていたよ」
母は、テレビで見た最新のフランスの映像を、国際電話で解説してくれる。
うちにはテレビがないから、私は最新のパリの映像は何ヶ月も見ていない。
「フランスでは日本の地震の話題をラジオでも言っていたよ」
「ああ、あれは北海道だったからね」
フランスよりも遠いって感じの、素っ気ない返事だ。

 子供たちといっしょに、『おぼうさま』にお線香を上げた。
「じいちゃん、お誕生日おめでとうございます」ノエミが手を合わす。
「じいちゃん、いただきます」ゾエが温かいご飯をあげながら手を合わす。
ゾエの『いただきます』は、フランスでは『どうぞ召し上がって』に代わるボナペチを、ゾエなりに翻訳したのだろう。
ノエミに『お誕生日おめでとう』って言いなさい。と注意されたが、意地になって『いただきます』と言っている。

 そろそろじいちゃんの写真でも飾ろうかなあーと言っているが、なかなかそんな気になれない。おぼうさまの隣に写真を置いたら『いかにも』だからねえ。。。ちょっとねえ。。。
 母も「年賀状は買ったけど、『おめでとうございます』と心の底から言えない気分だったから、買った年賀状全部無駄にした」と言っていた。

 まだ誰も、立ち直っていない。
それでも、新年が過ぎ、お誕生日までやって来た。
おぼうさまの前のろうそくはゾエが吹き消した。

C'etait le jour d''anniversaire de mon pere qui ne vieillera plus.
Au Japon, l'annee ou nous l'avons perdu, nous n'avons pas eu le doit d'envoyer ni recevoir des cartes de voeux. Nous avons juste signale aux gens qu'ils ne recevront pas les voeux de notre part et qu'ils nous excusent.
Le printemps prochain ma mere fetera troisieme anniversaire du depart de notre pere, cette annee nous aurions du envoye les cartes de voeux comme tous les autres annees passees.
Mais Maman n'a toujours pas de coeur a " Feliciter " l'arrivee de nouvel an que, elle a du gaspie les cartes de veoux qu'elle avait achetees a la fin d'annee. Elle est allee faire une priere a Unagi-ike où ils passaient tous les ans feter autrefois l'anniversaire de son mari. Je pense qu'elle a bien fait d'avoir suivi son coeur. Elle est une femme formidable.
Que cette annee soit douce pour elle.

明けましておめでとうございます Bonne Annee !

明けまして、おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

ヤフーで約一年間、私の日記を公開していましたが、2006年の11月以降、もろもろの事情により停滞しています。
ヤフーのどどーんと浮かび上がる宣伝にも嫌気がさしていたし、管理もちょっと面倒くさくなってしまったので、あちらよりも簡単そうなこのサイトで、公開して行きます。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

Je vous souhaite une annee douce et heureuse, et aussi pleine de rire.
A cause de beaucoup de choses, j'ai demenage mon site de Yahoo Japan.
Pour ce nouveau site, j'essaie egalement de mettre un peu de textes en francais. ( malgre mes capacites )

2007/01/14

としをとる

明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 ずいぶん出遅れてしまった。
ずいぶん日記を休んでしまった。
数人に年賀状もどきを出し、久しぶりにメールでの新年の挨拶を行ったら、いろんな人に「このごろ日記書いてないね」と言われた。
 彼らが、まーさか私なんかの日記を、いまも読んでいるとは思っていなかったので、びっくりした。久しぶりに『ダニエルさんちのフランス田舎だより』を訪ねたら、なんと11月の2週目以降なにも書いていない!!
こんなに長いことさぼってしまっていたとは。。。
光陰矢の如し。
いつの間にか年も暮れて、明けていた。

 とりあえず、新年のご挨拶。
そのうちちょっとずつ。年末のことも書いて行こうと思う。

読んで気に掛けてくださっているみなさん、どうもありがとう。
もうちょっとましなことが書けるようにがんばります。
ダニエル一家は元気です。

 ではでは。