2009/09/29

燃えるオンナの JP改造 計画

 わたしには、夢がある。

 JPの顔を見ていると、どうも、コノヒトは人生を楽しんでいないような気がして悲しくなる。
「こんな顔なんだから、しょうがないだろう。十分幸せだ!」
本人はいうのだが、今年自殺した24人ものフランステレコムの社員もみんな、家庭では
「こんな顔だけど幸せ。さあ、仕事に行かなきゃ」
などと言って仕事に行き、会社の四階や高速道路の陸橋などから、いきなり飛び降りたりなどし続けている。
この前、JPが事務所の何階で仕事しているのかと訊いたら、四階だというので、そりゃあ危険だと思う。

 「どんな仕事してんの?」
と訊けば、まあ、あんまりおもしろくもなさそうな仕事に思える。たいへん失礼なんだ、わたしは。
わたしはナニゴトにおいても、
「楽しくやりたい。やってて幸せ。生き甲斐を感じる〜」
と言える職業に《あこがれ》があるので、毎朝《こんな顔して》仕事に出て行く人を見るのはつらい。

 仕事が面白くないのに、仕方なく仕事に行ってるんだったら気の毒だし、嫌々やってるんだったら不幸だし、
「どうせ何も変わらないんだから、どーせ、どーせ」
と言いながら、ただ家庭のためだけに自分を犠牲にしている一家の主を演じているならば、それはもう我慢ならないので、
「おもしろくない仕事なら、辞めちゃえ。」
と、簡単に言ってしまったのだ。

 現実は厳しい

 「いやいややってるなんて、輝きもなんにもなくて、ぜんぜん素敵じゃない」
 「闘うことをあきらめて、妥協して、人生を投げ出してしまったなんて、魅力ない」
と。。。かるく二週間ばかりは、そう思っていたのだ。
けれどもいくら言っても、本人の意志は堅い。
「仕事は辞めない」
仕事を辞めてもらいたい理由について、辞めたくない理由について、いろいろ話し合った。
《話し合う》と言っても、JPは言葉で表現することが上手ではないので、わたしの意見を聞いてるってだけなんだけど。
 でも、相手からの「うん」や「いや」や「ふむ」のタイミングと個数を分析しているうちに、ちょっと理解できたのだ。わたしにも。

 たとえば他人から見て情熱的とも言えない単調な作業だからといって、それが「なにもやってない」とか「社会に貢献してない」とか、「役立たずである」とか、「意味がない」とか言うことではない。

 主婦の毎日の家事について思う。
毎日単調な作業の繰り返し。しかも、ほかの家人がいやがることばかり。しかも無報酬。。。。
「つまんないことばっかりで一日が過ぎて行く、自分には価値がない。わたしなんて。」
とわたしのような主婦は愚痴るけれども、無意味な人生ではないはずなのだ。なのにわたしは
「もっと価値ある人生を送りたい。感謝されたい。理解されたい。もっと明かりに照らされたい。」
などと言ってしまうのだ。
家庭では一応わたしがいなくちゃ困るとか、わたしはすばらしい主婦であるとか、ヨイショをしてくれるのだが、見ていると、どうも、わたしがいなくても大丈夫じゃないのって思う。疑って掛かるのは、疑いがあるからだ。

 例えば、JPが今の仕事に生き甲斐を感じていないのが事実であっても、だからといって、今やっていることを投げ出すつもりはないらしいし、人生をあきらめてしまったわけでも、闘うことをやめてしまったことでもないんだと。。。ちょっと気づいたのだ。JPはJPなりに、彼のやり方で、闘っている。たとえば、職場の小さな人たちの、職場での待遇がもっとよくなるように、もっと生き甲斐を感じながら仕事ができるように、もっとやった仕事を形として評価してもらえるように、組合でもひたすらに闘っている。壁にぶつかっている。

 わたしも、小学校と中学校のPTAで、ちっともよくならない学校生活の改善に、絶望しながらも、けっきょく、会議にはいってる。選挙に参加し、意見を言ってる。空しいけどやめられない。わたし一人が抜けたって、良くも悪くもならないと思いつつ。
動かなければ、なにも起こらないことを知っているから。
JPもそうなんだろうか。

 この前JPに迫った時、
「いやなのは、職場に行くことじゃない。こんな顔をしてるのは、多分、社会と世界に絶望しているからだ。毎日がつらいんだ。」
と、口に出して言われて、どうしようかと思った。この人は明日、駅のホームか、職場の四階から飛び降りるんじゃないかと思った。

 今月は組合の会合でパリに三回行った。お母さん仲間に「怪しいんじゃないの?」なんて言われる。だって、お母さん仲間のだんなさんたちは、毎晩テレビの前で、サッカーやラグビーの試合を見るために、時間には帰宅し、夜は家事をやってる奥さんよりも早くいびきをかいているんだから。うちのJPは夜行でパリに行き、早朝到着してそのまま会議に出て、その日の夜の夜行で帰ってくる。パリが嫌いだから、パリには泊まらない。

JPたちは農林水産省の会議室で、話し合いをする。
「なにを話し合ったの?だれのために、なんのために闘っているの?一昨年からそれをやってて、なにか変わったの?」
と訊いたら、一瞬言葉に詰まったJP。質問の嵐には弱いオトコである。わたしは個人的なことはほとんど訊かないヒトなので、彼が毎日どこでなにをし、貯金をいくら隠しているとか、ぜんぜん知らない。だから、たまに質問すると、びっくりするらしい。
一時間後に返事が来た。
「農林水産省の会議室には、全国から15人の組合員が集まり、最低賃金以下でこき使われている職場の数名の待遇について、仕事の内容改善について話し合った。そのような人たちがいることを紹介することは大切。そのような人たちがいなければ、社会は動いて行かないことを訴え続けることも重要。これからも自分たちは闘い続けるつもり。そして、去年は何人が救われたんだよ。」
などについて、熱く語ってくれた。JPは、こんな顔してじつは闘っていたらしい。

 わたしは、JPに、《NOZOMI.jp 計画》っていうレポートを提出した。バインダーに30ページぐらいになった。レポートを書くために読んだ本を三冊付録につけた。
 わたしの夢と野望が、いっぱい詰まったレポートだ。
違うかたちの闘いもある。
その闘いは、わたしにも協力できそうなこと。
いっしょに夢を見れるんじゃないかということ。
夢はかたちにできるということ。
いつまでも若くないってこと。
いつまでも元気じゃないってこと。
いつまでも夢を見れるんだよってこと。
。。。などなどを、このレポートの中にいっぱい書いた。

そうして、JPは、そのレポートをざっと読むとポイと放り出して、
「自分はやりたくない」とはっきり言った。
はっきり言われたのは、よいサインだ。無視されるよりはよい。
「わたしはあきらめない」
と答え、レポートの返却を許さなかった。レポートは、毎日、PCの前にどーんと置いてある。好きな時に読み直せるように。
「どうしてやりたくないのか。ほかにどんな提案があるのか」
それをレポートにして返してくれるまで、「ただなんとなくいや」というのでは、わたしには許せない。
わたしのことを知っているみんな、JPも含めて、わたしがあきらめの悪いオンナだってことを知ってる。
わたしが、「どうしてもと言ったら、どうしてもやる」と言ったら、どうしてもやるオンナだということを知ってる。だから、わたしは、宣言したい以上、どうしてもあきらめることだけはやめない。

 夢が、描いた通りのかたちに実現することは、そうはない。
それもよくわかっている。突っ走って、転んでばかりいることにも気づいている。
でも、違うかたちで実現することもある。
だから、わたしは、あきらめない。
わたしはついてる人間だから、あきらめるわけにはいかない。
わたしにはいろんなものが憑いている。
そして、JPにはわたしがついているので、大丈夫。


つづく。


 
 

2009/09/28

パンチ

 剣道の友達に教えてもらって、見たビデオ。

 1992年リオデジャネイロで開催 された環境サミットで、12歳の少女セヴァンが、子どもの環境団体の代表として参加した。
この会議で子どもの視点からの環境問題について講演を行い、満場総立ちの喝采を博した。
そのビデオ。

http://www.youtube.com/watch?v=XjlUyVnDGIA

 わたしなどは娘を「親が説教してる時に、肘なんかつくんじゃない」などとよく叱るのだが、《ほおづえ》は政治家たちが子どもに叱られるポーズだったらしい。
《満場総立ち》での喝采だったらしいのだが、1992年からあまり進歩してないどころか、悪化しているだけというあたりが、悲しい。
悲しすぎて泣いてしまった。

 朝市に栗が出ていたので、森に栗拾いに出かけた。
落ちてしまったいがぐりはまだ小さかったので、拾わなかった。
また来週、拾いにいくつもり。
夏の間に水が不足したため、森の奥のダムが、枯れていたのには驚いた。
カラカラに乾いた森の木々の葉っぱが、ハラハラと散りいそいでいた。
今年の栗は小さいかな〜。キノコも出ないかな〜。



 帰りに、丘の上に一機、風力発電用の風車が立っているのを見た。去年の秋にはなかった風車だ。畑の真ん中に立って優雅に回っている。
 「個人で風車建てられるの?」
とJPに聞いたら、
「建てられるだろう。もちろん」
との返事。
「建てようよ。」
と言ったら、
「ふむ」
と考えている風だった。
じつは、風車など建てる庭がない。なので、また、
「田舎に引っ越そうよ」
と、迫られる、JPなのだ。

 ふむ。。。

2009/09/25

ベベ


 日本に帰らなければならなくなった友人に、預かっていた猫。ベベ

 春に《仕方なく》預かった猫だった。生まれてはじめて猫と暮らした。ベベは、どうやらわたしたちのことが好きになってくれたようだった。特にノエミのことが大好きで、ゾエのことはうっとうしく、JPに嫌がらせをすることが趣味だった。


 JPが出張で留守だった夜に、食事の時ベベはJPの席に座って、わたしたちが食事している様子を眺めていた。向かいの席に座っている私からは、猫の頭しか見えない。まるでテーブルの上に、猫の頭の丸焼きが載ってるみたい。薄目を開けて、テーブルの上を監視している、ベベ。わたしが、
「ミヌどうしたの?お腹すいたの?」というと、子ども達が一斉にわたしの方を見て、ゲラゲラ笑った。

「ミヌ、毛深いね。耳からも毛がはみ出してるよ」
「ミヌ、散髪屋に行きな。ひげが伸びてるよ」
「ミヌ、無口だねえ。なにか言ったら?」
「ミヌ、静かだねえ。足音も聞こえない」
「ミヌ、ゴロゴロ言いながらよってくるから、かわいいねえ」
「ミヌ、あんたゆうべいびきをかいてたよ」
「ミヌ、お魚好きでしょ」
「ミヌ、よく食べるね」
「あ、ミヌ、おならした〜。くっさ〜い」
「ミヌ〜、笑いなさいったら〜」
子ども達が、ゲラゲラ笑いながら、猫に話しかける。

 猫は、我が家の《ミヌ》同様、無感動、無関心、無表情のむっとした顔で、半分居眠りしながら、JPの席にじっと座っていた。
《ミヌ》というのは《にゃんこ》のことで、じつは、わたしはJPのことを家庭では「ミヌ」と呼んでいる。(JPっていうのは、書く時だけ)子ども達は、どうしてわたしがJPのことを《ミヌ》と呼ぶのか、理由を考えたことはなかったと思う。フランス人の男性は、奥さんのことを《ラパン(ウサギ)》とか、《ビッシュ(子鹿)》あるいは《プッサン(ひよこ)》と呼んだりするから、わたしも理由なく《ミヌ》と呼んでいると思っていたことだろう。

「まるで、パパ!」
「パパ、そのもの!」

 我が家に笑いを振りまいてくれたベベだったが、飼い主がわざわざ日本から迎えに来た。
ベベとの別れを一番心配していたノエミだったが、「猫は犬に比べて記憶力が低いから、自分のことなんかすぐに忘れてしまったと思う」と、かなりクール。
ゾエはさっそく次の猫について検討中だが、ゾエは猫の世話などやらないので、検討してもらっても仕方ない。

 猫はもう飼わないと思う。JPが猫アレルギーと花粉症なので、この前の春みたいな春がやってくることを思うと気の毒。しかも、動物というのは、人間の心理をよく感じ取るらしく、「近づかないで欲しい」と思っている人のところには、来たがるのだ。ベベは、JPの椅子に座り、JPの足下をうろうろし、JPの服に身体をこすりつけていた。いまだに、ときどき、ベベの毛を発見する。もうしばらくは続くだろう。ボボもちょっと寂しげだ。

ハサンさんとの縁

 ミクロソシエテといって、資本金もいらず、一人から始められる会社形態がある。1999年に、翻訳と通訳を仕事の内容にする《ダニエル遠藤翻訳サービス》っていうのを始めた。その頃はJPが軍隊を退職して転職の道を求めていた頃で、公務員試験にも一度は落ちたので、2年間の失業者生活も体験したころ。
 その頃に思いがけず特許翻訳の仕事が入った。会社を始めてからメニューや私信などの小さな文章しか訳してこなかったので、初の大仕事となり、ずいぶん張り切ってやったものだ。

 国際特許の申し込みは、その頃は何かと複雑だったし、特許翻訳には特殊な書式もあって、翻訳と登録は普通は専門が異なる別な人が行う。わたしはずいぶん苦労しながらも、日本の友人を通して登録にこぎつけた。ただ、翻訳の依頼人が、どうやら経済的な理由で、登録後ピタリと連絡が途絶えてしまった。1000ユーロ近くの仕事をやって、何週間も家庭を犠牲にしながら、お金はもらえなかった。
 彼の発明は世界の自然保護のためにとっても貴重なものだったし、彼の発明品について翻訳するために読まなければならなかった資料の中から、わたしたちは、自然保護の重要さに気づかされ、このごろずいぶん《自然派》になったのも、彼の発明の影響が大きかったように思う。ちょうどその頃に、京都の自然保護サミットに参加した人の新聞記事も訳した。世界が自然破壊の脅威にさらされていることを、その頃実感始めたのだった。 あのとき、あの発明の翻訳をやらなければ、公害や自然エネルギーや、ゴミ処理や温暖化について考えるのは、もっともっと遅れていたかもしれないと、ずっと思っていた。


 先週、その発明者のハサンさんから、いきなりメールが来た!
メールの受信者の名前を見ても、最初は誰だかわからなかった。
 ハサンさんは、2003年ごろ破産して(その名の通り。。。冗談抜きで。)食べるものにも困る生活をした時期もあったらしい。ちょうどその頃わたしたちはカーモーに引っ越してしまって、電話番号も変わった。ハサンさんは前に勤めていた研究所が倒産して、引っ越さなければならなかったし、インターネットも電話もない暮らしが続いていた時期。
 そして、つい最近、新しい職場が決まり、また新しい研究が始まった。国際特許について調べている時に、自分が10年前に開発した発明品の日本語訳が、公開されていることに気づいたそうなのだ。わたしが苦労して訳した、熱エネルギーを運動エネルギーに換える、自動車のエンジンの研究だ。そして、さっそくインターネットでわたしの会社について調べてくれたのだった。

 まず最初のメールで、新しい電話番号を尋ねられ、すぐに電話がかかってきた。みのりさんのことは忘れたことがなかった、と泣きそうな声で言った。こちらこそ、トルコ人のアクセントがある、細く消えそうな、ハサンさんの声を、すぐに思い出した。
彼は破産のいきさつや、自分の発明が実際には工業技術の現場で実現されなかったこと、引っ越しを繰り返して今の職場にたどり着いたいきさつなどを話してくれた。何度も声が詰まって、泣き出しそうになりながら。わたしは、当時JPが失業中で、支払われなかった翻訳料のことがあの頃は惜しくてたまらなかったなどとは言えるわけがなかった。

 そして彼が「支払わずに逃げてしまった、あの10年前の翻訳料を、分割で払わせて欲しい」と言ったときには、内心びっくりした。そのことを言い始めた時の彼の声が、はっきりと強く響くのを感じた。倒産の不幸を語る彼のうなだれていた頭が、今まさに上を向いて、背筋は伸び、彼が胸を張って「お金を払わせてください」と言っているのが、電話の向こうから感じてとれた。今はサラリーマンだから、お給料があるから、と。わたしは、発明者の彼が、発明だけに集中できない不幸を思った。よいスポンサーを見つければ、彼は、お金のことも考えずに研究ができるのにと思う。
 18年ぐらい前にわたしが友達といっしょに《みのりの学校》っていう学校の経営を始めた時、のんきでおおらかな教師だったはずのわたしが、経営者になってしまったことは、すべての不幸の始まりだった。わたしはいつか楽しく自分の本来の仕事だけに集中することができなくなった。「生徒があと何人増えたら、コピー機を修理に出せる」とか、「ペンを何本買うことができる」とか、生徒の頭がお金に見え始めた時、学校の経営状況はどんどん悪くなってしまった。
 研究者は、研究だけをやっていられるのが一番よいと思う。それでハッサンさんには「お金はいつでもいいから、研究を続けてください」と言った。お金が余っている訳じゃないけど、うちに払うお金があるくらいなら、世界を救って欲しいと、じつは本気で思った。
 ハサンさんは、払い終わったら、今度は今やっている《ゴミを資源に換える機械》について、改めて翻訳して欲しいと言う。まずは見積もりを作って、ちゃんと契約してから。(10年前にも契約はあった。わたしには裁判に掛けるようなお金がなかったから訴えなかっただけだ)
 ハサンさんが、ゴミを有効な資源に作り替える機械の話を始めた時に、わたしは、この社会も捨てたもんじゃないよと、心の中でJPに言っていた。あきらめないこと、闘う方法はいくらでもあるんだということを、わたしは心の中で叫んでいた。

 わたしが一番うれしかったのは、ハサンさんが苦しい状況の中で、夢を捨てず希望を持って、貴重な研究を続けていてくれたこと。トルコ人なので、外国人がフランスで研究者として生きることだけでも大変だと思う。この不況の中で、外国人の彼を拾って雇ってくれた会社があることにも驚いた。ハサンさんが価値ある研究をしているからこそだろう。

 「あなたのことは忘れたことがなかった」と言ってもらえて、とても幸せだ。
わたしはハサンさんのことを忘れたことはない。だって、わたしが訳した二冊目の本は、ハサンさんという女性が書いた《わたしは忘れない》だったのだから。「なにかの縁だなあ〜」とずっと思っていた。そして、自然保護から世界を救おうとしているハサンさんが、今こうしてJPにとって大事な時に電話して来てくれたこともまた、きっとなにかの縁だろう。

2009/09/21

新学期だったので

 なにかと、忙しかった。
 新学期前の最後の週に、シゴトの関係で、日本から数人の方々がいらしていたので、バタバタした。
食べてはしゃべりの楽しいおシゴトが始まるぞと、ルンルンな気持ちでスタンバイしていたというのに、胃腸の調子が悪くて、みんながデザート食べてる時に、わたしは無口になって座っているだけだった。ミーさんから、
「おまえさん、どっかおかしくないか?」と言われたぐらい、おかしかったのである。
チョコレートもケーキも食べ放題だったのに、レストランご招待だったのに、具合悪かったなんて〜〜。

    くやし〜〜。

 日本の方に、日本の胃腸薬をいただき、お腹が痛いのは治まったけど、トイレに行くと「しゃ〜」なので、「いつ来るか?」と思うと、不安で不安で。。。とにかく緊張しきっていたみたいだ。緊張の面持ちをどうやら隠しきれなかったわたしは、ついに、日本の《精神安定剤》までいただいた。「お腹痛いのに精神安定剤なんて。。。」と信じられない気持ちで、でも、くれる人に申し訳ないから呑んで見せたろうと思って、ちょいと服用してみたら、これが、なかなか効いたのである。

 「みのりさん、お仕事のことで、緊張していたのでは?」
と言われ、
「シゴトごときで、緊張ですと?このわたくしがっ!?」
と反論しようにも、精神安定剤がかなり効いたところを見ると、見かけによらず緊張していたらしいのである。

    わたくしとしたことが〜〜。

 おシゴトが終わり、日本人のみな様が無事にお帰りになり(じつは、誰も無事には帰り着いてなかったんだけど)、這うようにして帰宅すると、JPが台所で食器を洗っていた。
「お腹がやっぱり変だ。もう三日前からおかしい」と言いながら、薬草茶でも入れようかとうろうろしていたら、JPがにんまり微笑む。
そして、台所の棚に首を突っ込んでいたかと思ったら、ジャック・ダニエル専用の小さなグラスを引っ張りだして来て、パスティスを飲めというのである。わたしが「げ?」と言ってる間に、パスティスをスリーフィンガーぐらいもって来て、ふたたびにんまり微笑む。テーブルの向こうから、ジャック・ダニエルのグラスが、シュ〜と滑ってこっちに来た。まるでアメリカンなバーのようだ。

 JPは、海軍にいる時、ジャックというあだ名だった。JPの名字がダニエルだから。。。軍人というのは想像力があんまり豊かじゃない。と、いいつつ、《ジャック・ダニエル》と書かれた同名のお酒の宣伝用グラスを衝動買いしてしまったのは、なにを隠そうこのわたし。ジャック・ダニエルって書いてあるというだけで、アホな買い物をしてしまった。そんなアホな買い物は断固として許せないJPなので、ジャック・ダニエルのグラスはずっと使われずに無視されていたのだが、アルコールに弱いわたしに、楽しく一気のみをさせようと思ったのか、そのグラスをわざわざ選び、お酒をついで来たと思われる。わたしが笑うとでも思ったのかね。元軍人というのは、ユーモアセンスがこの程度なのねえ。でも、元軍人というのは、いろいろと、生き残る方法を知っているのであるのである。
 
 セネガルにいた時に、わたしが「どーしてもアイスクリームが食べたい」とわがままをいい、JPは「セネガルでアイスクリームなど食べるもんじゃない」といやがった。わたしが「どーしても、と言ったら、どーしてもなんだ」と言って、勝手にアイスクリームを買って食べた。そうして、JPの予想した通りに、その日のうちにひどい下痢を起こした。わたしにとって前世紀最大の下痢だった。その時にも、パスティスの一気のみで、下痢は一気に治まった。この原始的な医療方法は、とっても有効なのだ。

 と、いう訳で、夏休みの最後の週の三日間、今世紀最大の下痢を経験したわたしだったが、おかげさまで、元気はつらつな新学期を迎えた。

 小学校と中学校のPTA役員に復帰し、剣道クラブに登録し、子ども達のヴァイオリン教室と、乗馬クラブにもお金を納めた。
 
 JPは労働組合の会議が毎週あって、毎週パリに出て行っている。

 わたしは整骨の専門の医者に今も通っていて、アキレス腱と古い骨折の治療を続けている。
「アキレス腱が痛いのは、虫歯のせいだろう。頭が痛いのは、老眼鏡のせいだろう」と言われたので、歯科と眼科の予約を取った。歯科は1月、眼科は11月まで待つ。こんなことだろうと思ったので、ついでに婦人科も予約をとった。今はどこも悪いところはないが、悪くなってから予約すると、3ヶ月も待たされて、待ってる間に死ぬかもしれないと思ったので、一応婦人科にも電話した。予約は3月にやっととれた。やはり待たされるのだ。さあ、病気になるなら3月に!
なりたい時に、思うような病気になれないのは不便だ。
絶対になりたくないのに、なんらかの病気になる人の運命は、とっても不安だ。


 JPは元気。検査に検査を重ね、痛い思いも嫌な思いもしたが、けっきょく病気の原因はつかめず、なにも出てこなかったので、「病気じゃないんじゃないの?」ってことで、治療も入院も、病名もない。
 このごろは、「アンタ、いきなり倒れるから困る」とか、「人の運命なんて、明日なにがあるかわかんないんだから、もっと笑いなさいよ」とか、さんざん妻に怒鳴られている。そのわたしは、JPの友達に「ストレスから石が溜まる人もいる」と言われ、病原菌はこのわたし?と、考える今日この頃。
JPがストレスためるはずが。。。ない。。。はず?


 中学の日本語クラブはまだ再開していないが、自宅での日本語プライベートレッスンは再開した。

 翻訳の第一稿を納めなければならないので、じつはかなり焦っている。ギャグがギャグらしくならないので、ちっとも面白くならない。

 日本人の友達から預かっていた猫《ベベ》は、飼い主さんが約束通り日本から迎えに来てくれ、無事日本に連れて行った。あっけないお別れだったが、子ども達は一週間でベベのことは言わなくなった。わりとあっさりしたもんだ。

 7月25日のゾエの誕生日に、わたしは剣道合宿に行っていたので、先週末にお友達を呼んでお誕生会をやった。プレゼントもいっぱいもらった。わたしは乗馬の時に使う、お馬さんのお化粧箱をプレゼントした。ブラシとかひづめのお掃除道具が入っている。


 そして、この二週間ほど、わたしはJPに提出するレポートを、せっせと書いていたのである。だんなにレポートを提出する妻っていうのは、そうはおるまい。これには訳がある。

つづく。。。

2009/09/01

なつまつり

 8月24日から一週間、カーモーは「サンプリヴァ」というお祭りでにぎわった。なんの祭り?と言われても、そんなのは知らない。夏祭り。カーモーは、町の大きさに比べて、週に一回の金曜日の朝市もかなり大きいが、サンプリヴァと言えば、もうとてつもなく盛大なお祭りだ。去年の夏にも、ダーバス家と弟一家が来ていたのに、ちょうどこのふた家族が入れ替わる時期にあたってしまい、ダニエル家だけで楽しんだのだ。

 「ダニエル家だけで楽しむ」と言っても、あまり楽しそうな顔のできない父と、遊具に乗って揺れたら吐く母なので、子どもたちにはお気の毒。今年はちょうど従弟のコランが来ているときだったので、ゾエはとっても楽しみにしていた。お祭りでは、まずお祭りの初日に選ばれた、ミスカーモーのパレードと一緒に、お花で豪華に飾られたトラックを改造した山車のパレード。楽隊のパレードが観られる。バトントワリングやフラメンコ、リオのカーニバル風の裸のダンスやカントリーダンスなどの各クラブのショーが行われるほか、町のあちこちでコンサートや、クイズコーナー、一週間だけの路上簡易バー、ペタンクの試合、サーカス、歌合戦、花火大会、ロトくじ会などなど、、、一週間にわたって、いろいろな催しが行われる。そして子供たちが一番楽しみにしているのは、町の中心にある三つの広場に、県内外から集まった、移動遊園地が設置されることだ。しかも、一週間、毎日毎日、目の前に遊園地があるのだから、うれしくてしょうがない。カーモーの各家庭で、一週間に一体どれだけのお金を、子どもに持って行かれたことだろう。。。県内でもこんなに大きな移動遊園地が一週間も設置されるのは、アルビの春のカーニバル以外にないので、遠くからもこのお祭りに合わせて人が集まる。着飾った田舎の人もいっぱい見かけるし、都会から戻ってきた人を連れたふうな、家族連れもたくさん見かける。

 かなり本格的な移動遊園地だ。いろいろなタイプのメリーゴーランドが常に子供たちを乗せてグルグル回り続けている。ゾエが一番好きなのは、「オートタンポヌーズ」という電気仕掛けの自動車をぶつけ合う激しい乗り物だ。ゾエはまえから車が大好きで、もっと小さい時からよくこのカートに乗って修業を積んできた。今や、ぶつからずに自由にハンドルを切りまくることができるので、本当はぶつかり合うのがこの乗り物のテーマなのに、ゾエだけは、人を避けて、狭い通路を口笛など吹きながら行ったり来たりしている。親はゾーンの外から「そこだ―、いけー、突っ込めー」などと応援しているのに、ゾエは、ぶつかろうとするほかの子たちの車をさっさと避けて、渋滞に巻き込まれることもなく、悠々とドライプを楽しむ。
 ノエミのお気に入りは、去年まで小さなクレーンでおもちゃを引っ張り上げる、ゲームセンターの宝探しみたいなものだったのだが、二三年かけて「自分の反射神経では、お金が消えるばかりである」ということにやっと気付いたらしく、今年はそれをやりたいとは言わなかった。
 ノエミはもう中学生なので、友達と出歩く約束をしていて、電話がかかってくるのを楽しみにしていた。親としては、あまり夜遅くに出歩いてほしくないけれども、内心勝手にやってほしい。ゾエとコランは一緒の遊具でも楽しめるけれども、ノエミはやっぱり一ランク上の、お化け屋敷だとか、ジェットコースターだとか、360度自由自在に回転する、円盤みたいのだとか。。。そういうのに乗りたがるから、ノエミのお相手はゾエにもわたしにも無理。去年、ノエミに付き合って、ジェットコースターをやって、気分悪くなって、降りた直後に吐いた、わたし。だから、ノエミのためにもわたしたちのためにも、ノエミは友達と行ってくれるほうがいい。

 ノエミの友達グループは、男の子と女の子全部で6人ぐらいの仲良しで、けっこうおとなしい方なので、あの友達だったら、まあ、悪いこと(?)などしないだろう。友達とでかけてもいいヨと言ってあげた。一人で出ていく娘が、なんだかとっても成長したような気分だった。本人もそんな気分だっただろう。その代わり、夕方のまだ明るい時間に出て、明るいうち、つまり6時までには帰ってくるようにといった。
お祭りでは、ノエミのクラスの女の子たちにすれ違ったが、お化粧をしていたり、派手な格好をしていたり、中には年上の男性と歩いている子もいて、こっちの方が目をそらしてしまうほどだった。

 ノエミを一人で送り出したその日は、日本からのお客様をお迎えに、トゥールーズの空港に行かなければならなかったので、娘のことを気にしながら、夕方から一人でトゥールーズに向かった。問題があって、お客様は到着せず、Uターンして戻ってきた。帰ってみると   
 ノエミは6時にはちゃんと家に戻ってきていた。友達と過ごせて、とっても楽しかったようだ。今年のミスカーモーは、クラスメートのおねえさんだと自慢していた。


          ミスカーモー