2008/11/20

合掌してみる




 ゆうべは、頭が痛く寒気もしたので、早い時間に本だけ持って、ベッドに入った。日本で買った《アジアンタムブルー》にした。
大崎善生の本だったので。

 東京に着いた日、成田エキスプレスが到着する池袋駅で、わたしを待っていてくれた友だちは、東急百貨店の下に大きなスーツケースの入るロッカーを見つけて待っていてくれた。わたしたちは百貨店の中にあるお豆腐屋さんで、ちょっと遅いランチを食べ、この夏急死した彼女のお母さんについて話した。彼女のお母さんは大変健康そうな人だったのに、「お姉ちゃん、お母さんが死んだんだって」という電話を、ある日突然弟さんからもらうことになった。自覚症状もなかったのに、いきなり苦しくなって、家族が集まる前に息を引き取ったお母さんは、ただの肺炎だった。この姉弟のご両親は、数年前から東京医大の解剖研究室に献体することを決めていらして、当時同意を求められてサインしていた筈の子どもたちは、お母さんが息を引き取るその日まで、《献体》という単語さえすっかり忘れていたという。お母さんといっしょに献体希望を提出していたお父さんの言葉で、再びその現実がよみがえった。
 「お母さんの遺志だから」
 わたしの友は長女だったので、家族を代表して東京医大に電話した。
そのあとどんなことが起こるか、知る由もなかった。

 お迎えはあっという間に到着。病院の地下の遺体安置所で簡単なお礼を言われ、お母さんは自宅に帰ることもなく、お棺にも入れられず、白いシーツにくるまれて、トラックの荷台に積まれ、医大に運ばれた。
「いつ戻って来るの?」という質問に,医大の人はこう答える。
「たくさんの遺体が、解剖を待っているのです。お母様の遺体が解剖されるのは3年後になります。3年の間、医大の冷蔵庫の中で待っていただきます。それでは、ありがとうございました。」
お母さんが倒れてから、医大のトラックが去るまで、あっという間だった。お葬式もやっていない。

 それ以来数ヶ月経ってなお、「なにも」解決できていないその友人と、なんともつらいお別れをしたあと、わたしは別な友人《か》と再会した。

 ロッカーに入れたスーツケースもあることだし、この辺は《か》もよく知らないというので、「じゃあ、このデパートの中のどこかに座ろうか」ということになった。わたしたちは、なんとなく、上へ、上へと向かい、そしてなんとなく、屋上に出た。
そこはなんとも不思議な空間だった。
 雑然と並んだ、不揃いなテーブルや椅子が、東京の空のもとに転がっていて、歳もバラバラな正体不明な人たちが、勝手な方向に身体を向けて座っていた。子どもたちは走り回っているし、椅子の上にかばんを載せたまま、ふら〜っとコーヒーを取りに行く人もいる。遠く海外から来て、久しぶりに会う古郷の友だちに、紙コップのコーヒーでごめんねとか。。。普通は思われるのかもしれない。。。。でも、その友人《か》とは、昨日もおとといも会っていたような気がしていたし、この人に会うのは地下の煙たいカフェなんかじゃいやだと思っていたので、わたしは、この屋上のパイプ椅子と、このシチュエーションをとっても愉快に思っていた。

 《か》は、コーヒーカップを運んでくれながら、「ここは、『アジアンタムブルー』の屋上だね」と言った。
だから、わたしは、一週間後に仕事が終わって、ゆっくりしてから一人で本屋に行き、大崎善生の『アジアンタムブルー』を買った。

 その場所は、孤独というものが自分の周りを月のように周回していることを確かめるためにあるような空間だった。急に賑やかになったり、突然静まり返ったりを不定期かつ無秩序に繰り返すその広場で、ぼくはいつからかありあまる時間をやり過ごすことを覚えるようになっていた。
 空は広く、適度な緑があった。(a.b.1の書き出しを抜粋)

 わたしが東京で一人暮らしをしていたあの頃に、この場所を知っていたら、きっと、ここに来て、一日中でも人の流れを見ていたかもしれない。

 あの日、あの場所で、友人《か》と紙コップのコーヒーを飲み、そして彼が『アジアンタムブルー』と言ったのには、そうか、わけがあったのかと、わたしはゆうべ、いきなり、そう思った。
わたしは、あの日、あの場所で、もっと『大崎善生』という作家の、名前の方に注目しなければならなかったのだ。そして、ある大事な人のことを、思い出して、気に掛けて、電話するべきだったのだ。

 じつは、その3日前に、帰国のためのスーツケースをやっと準備して廊下に片付けたあと、機内持ち込みにするバッグの中に入れていく本について悩んでいた。手元には最終選択肢に挙げられた2冊があった。今回は友人『か』といっしょに秩父の地蔵尊巡りをするつもりだったので、向学のために、飛行機の中で『日本の神々と仏』という新書を読んでおくことにした。
 もう一冊は大崎善生の『将棋の子』というノンフィクションで、これをプレゼントしてくれた『てーさま』には、今回はお会いできそうもないので、とりあえず急いで読まなくても、今度会う時に(おそらく来年早々に)感想を述べられるよう、準備しておけばよいだろうと言うことにして、その本は持たなかった。まだ時間があるから。

 わたしは飛行機の中で『日本の神々と仏』を読み、勉強し、翌日友人《か》といっしょに秩父の山を歩いた。とても清々しい日本での日々が始まり、そして、無事に終わった。念願かなってうれしかった。《か》と、ずいぶんいろんな話をし、話を聞いてもらい、自分たち以外の人たちのことも心配したり、彼らのためにお祈りしたりした。過去のことを打明け合い、今のことを語り、これからの夢や希望について語った。

 わたしたち家族は10日にフランスに帰国した。これまで2回の帰国でお会いした《てーさま》には、今回に限って会わず、「今度帰国した際にはきっと会おうね」と約束したからと思って、滞在中に電話さえしなかった。それが、《てーさま》は11日に倒れ、13日に息を引き取り、次の週末にはお通夜もご葬儀も終わっていた。週末にはわたしたちは預けてあったボボを迎えに行っていて留守だったので、日曜日の夜にやっと日本からのメールを見て、ただただ驚くばかりだった。

 昨日、《てーさま》の《兄じゃ》からメールを頂き、妹さんの最後の数時間について書かれたブログを紹介された。
いつも《てーさま》はわたしのこの公開日記を楽しみにしてくれていて、気になったらすぐに書いたことへの意見をくださった。ただ、わたしがアイバンク登録のことを書いた時、彼女は何の意見もくださらなかった。臓器提供について話し合ったことはない。なので、彼女がドナー登録をしていたことも、まったく知らなかった。
http://blogs.yahoo.co.jp/sasuraino777/55907485.html

 太陽のような人だったのだ。面白い話題を見つけるのが得意で、その表現力と言ったら天才だった。笑ってしまう。どんな状況も、よく目に浮かんで来て、そしていつも大爆笑をしていた。
例えば、今、彼女と話ができたら、「みのさん、死後の世界ってのはですねえ〜」とか、「あの息が絶える瞬間、なにを見てたかっていうとですな」とか、すごくリアルにお話を聞けそうな気がするのだ。「こんなはずじゃなかったわよお〜」とか「ミーさんのチョコレートもう一回食べたかったなあ〜」とか、苦笑いしながら頭をかいてる姿も見える。
 そんな彼女の身体の一部が、11歳の少年にも希望を与えたことを知る。11歳の子を持つ親としては、もう、この人には、ありがとうという言葉しかない。生きるということや死ぬということについて。笑うということや、感謝するということについて。《てーさま》のおかげで11歳の我が子と、たくさんたくさん話している。

 『アジアンタムブルー』が、死にゆく恋人を見守った青年のはなしであったということには、昨日気づいた。これもまた、なにかの暗示だったのかなとおもったりするが、今さらどうしようもない。

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