2008/11/24

予報通りの晴れ間 いま




《兄じゃ》からの「悲しいお知らせ」というタイトルのメールを開いた瞬間、《てーさま》は遠近法で描かれた、狭く細き一本道を、さささーっと冷たい音を立てて、遠ざかっていき、ずっとずっと奥の消失点に呑み込まれてしまったようだった。
わたしだけがココに取り残されて、放り出されたような気分。一瞬、たしかに一瞬、どうしてわたしたちを残して、一人で逝っちゃったのヨという恨み言とともに、お先真っ暗になった。

《てーさま》に何かあったら知らせることに、おそらく決まっていたであろう4人に電話をし、メールを書き、彼らとともに《てーさま》のことを語りながら、わたしはネジを巻いた。彼女は、きりきりきりと音を立てながら、少しずつココに戻って来た。あのひとがこちらにもどって来る。その距離が縮まるごとに、ココは明るくそしてあたたかくなる。それは皆既日食が終わって、少しずつ太陽が戻って来た、あの果てしなく続くフランス北部の草原の昼下がりに似ていた。1999年8月11日だった。太陽を失った草原には、小鳥も飛ばない。風が止み、人々は言葉を失う。黙って空を見上げ、太陽を探し待ち続けるばかりだった、あの夏の日。

「きょり」という漢字は《拒離》なのではないか。
「彼女は静かに息を引き取りました。これは現実です。」
との現実を拒み、そしてわたしは《てーさま》を遠近法で描かれた狭い道の奥の暗い穴へ向かって突き飛ばし、現実から離れてしまったのではなかったか。

彼女を語り、彼女に語りかけることで、ネジを巻く。
《てーさま》がいつもそばに居て、わたしの思いつくことに
「そうそう、みのさん、そうなんですよ。」
と、うなずく姿が目に浮かびはじめる。
もう逃げも隠れもできない。彼女との《きょり》はなくなった。いつもあの人はココにいる。そう思ったら、わたしは、語りかけることも、彼女が喜んでくれそうなことを書き続けることも、決してやめないという気になる。
わたしのせいで泣くなんてもってのほかのありがた迷惑と、あの人だったら言うに違いないので、もう泣かない。
わたしはこれまで通り、彼女の反応を気にしながら、書くことを続けようと思う。

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