2009/09/25

ハサンさんとの縁

 ミクロソシエテといって、資本金もいらず、一人から始められる会社形態がある。1999年に、翻訳と通訳を仕事の内容にする《ダニエル遠藤翻訳サービス》っていうのを始めた。その頃はJPが軍隊を退職して転職の道を求めていた頃で、公務員試験にも一度は落ちたので、2年間の失業者生活も体験したころ。
 その頃に思いがけず特許翻訳の仕事が入った。会社を始めてからメニューや私信などの小さな文章しか訳してこなかったので、初の大仕事となり、ずいぶん張り切ってやったものだ。

 国際特許の申し込みは、その頃は何かと複雑だったし、特許翻訳には特殊な書式もあって、翻訳と登録は普通は専門が異なる別な人が行う。わたしはずいぶん苦労しながらも、日本の友人を通して登録にこぎつけた。ただ、翻訳の依頼人が、どうやら経済的な理由で、登録後ピタリと連絡が途絶えてしまった。1000ユーロ近くの仕事をやって、何週間も家庭を犠牲にしながら、お金はもらえなかった。
 彼の発明は世界の自然保護のためにとっても貴重なものだったし、彼の発明品について翻訳するために読まなければならなかった資料の中から、わたしたちは、自然保護の重要さに気づかされ、このごろずいぶん《自然派》になったのも、彼の発明の影響が大きかったように思う。ちょうどその頃に、京都の自然保護サミットに参加した人の新聞記事も訳した。世界が自然破壊の脅威にさらされていることを、その頃実感始めたのだった。 あのとき、あの発明の翻訳をやらなければ、公害や自然エネルギーや、ゴミ処理や温暖化について考えるのは、もっともっと遅れていたかもしれないと、ずっと思っていた。


 先週、その発明者のハサンさんから、いきなりメールが来た!
メールの受信者の名前を見ても、最初は誰だかわからなかった。
 ハサンさんは、2003年ごろ破産して(その名の通り。。。冗談抜きで。)食べるものにも困る生活をした時期もあったらしい。ちょうどその頃わたしたちはカーモーに引っ越してしまって、電話番号も変わった。ハサンさんは前に勤めていた研究所が倒産して、引っ越さなければならなかったし、インターネットも電話もない暮らしが続いていた時期。
 そして、つい最近、新しい職場が決まり、また新しい研究が始まった。国際特許について調べている時に、自分が10年前に開発した発明品の日本語訳が、公開されていることに気づいたそうなのだ。わたしが苦労して訳した、熱エネルギーを運動エネルギーに換える、自動車のエンジンの研究だ。そして、さっそくインターネットでわたしの会社について調べてくれたのだった。

 まず最初のメールで、新しい電話番号を尋ねられ、すぐに電話がかかってきた。みのりさんのことは忘れたことがなかった、と泣きそうな声で言った。こちらこそ、トルコ人のアクセントがある、細く消えそうな、ハサンさんの声を、すぐに思い出した。
彼は破産のいきさつや、自分の発明が実際には工業技術の現場で実現されなかったこと、引っ越しを繰り返して今の職場にたどり着いたいきさつなどを話してくれた。何度も声が詰まって、泣き出しそうになりながら。わたしは、当時JPが失業中で、支払われなかった翻訳料のことがあの頃は惜しくてたまらなかったなどとは言えるわけがなかった。

 そして彼が「支払わずに逃げてしまった、あの10年前の翻訳料を、分割で払わせて欲しい」と言ったときには、内心びっくりした。そのことを言い始めた時の彼の声が、はっきりと強く響くのを感じた。倒産の不幸を語る彼のうなだれていた頭が、今まさに上を向いて、背筋は伸び、彼が胸を張って「お金を払わせてください」と言っているのが、電話の向こうから感じてとれた。今はサラリーマンだから、お給料があるから、と。わたしは、発明者の彼が、発明だけに集中できない不幸を思った。よいスポンサーを見つければ、彼は、お金のことも考えずに研究ができるのにと思う。
 18年ぐらい前にわたしが友達といっしょに《みのりの学校》っていう学校の経営を始めた時、のんきでおおらかな教師だったはずのわたしが、経営者になってしまったことは、すべての不幸の始まりだった。わたしはいつか楽しく自分の本来の仕事だけに集中することができなくなった。「生徒があと何人増えたら、コピー機を修理に出せる」とか、「ペンを何本買うことができる」とか、生徒の頭がお金に見え始めた時、学校の経営状況はどんどん悪くなってしまった。
 研究者は、研究だけをやっていられるのが一番よいと思う。それでハッサンさんには「お金はいつでもいいから、研究を続けてください」と言った。お金が余っている訳じゃないけど、うちに払うお金があるくらいなら、世界を救って欲しいと、じつは本気で思った。
 ハサンさんは、払い終わったら、今度は今やっている《ゴミを資源に換える機械》について、改めて翻訳して欲しいと言う。まずは見積もりを作って、ちゃんと契約してから。(10年前にも契約はあった。わたしには裁判に掛けるようなお金がなかったから訴えなかっただけだ)
 ハサンさんが、ゴミを有効な資源に作り替える機械の話を始めた時に、わたしは、この社会も捨てたもんじゃないよと、心の中でJPに言っていた。あきらめないこと、闘う方法はいくらでもあるんだということを、わたしは心の中で叫んでいた。

 わたしが一番うれしかったのは、ハサンさんが苦しい状況の中で、夢を捨てず希望を持って、貴重な研究を続けていてくれたこと。トルコ人なので、外国人がフランスで研究者として生きることだけでも大変だと思う。この不況の中で、外国人の彼を拾って雇ってくれた会社があることにも驚いた。ハサンさんが価値ある研究をしているからこそだろう。

 「あなたのことは忘れたことがなかった」と言ってもらえて、とても幸せだ。
わたしはハサンさんのことを忘れたことはない。だって、わたしが訳した二冊目の本は、ハサンさんという女性が書いた《わたしは忘れない》だったのだから。「なにかの縁だなあ〜」とずっと思っていた。そして、自然保護から世界を救おうとしているハサンさんが、今こうしてJPにとって大事な時に電話して来てくれたこともまた、きっとなにかの縁だろう。

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