2008/04/06

2月22日 再びの旅立ち

 日本を始めて飛び立ったのは、1989年2月22日だった。そうして2008年2月22日にまた、偶然にもこの日に、わたしはまた飛び立つことになった。
  1988年の秋から、わたしはバイトを二つに増やしていた。朝の10時から夜の7時まで本屋で働き、ちょっと休んで9時から翌朝の8時まで、本屋よりもお給料の良いドーナツ屋さんで働いた。男女雇用均等法なるものができたので、わたしは夜のメンテナンスという仕事を、男の子達に混ざってやっていた。売り子の甲高い声の女の子達が帰った後に、皿を洗ったり、トイレの掃除をしたり、椅子を上げてテーブルを動かし、床を拭いたりしていた。どちらのバイトも一週間に2日休みをもらえたので、うまく調整して「寝だめする日」を作っておいたし、なにしろ若かったので、いつも眠かったわりに、疲労で倒れたりはしなかった。

 1989年1月7日に天皇崩御が伝えられ、24日に大喪の礼を控えていたので、日本はなんだか暗くぶるぶる揺れていたような、とても寒い冬だった。ドーナツ屋の店長さんは、ちょっと右に傾いた人で、天皇陛下が危篤となってからは、せっせと皇居に通っていた。崩御と伝えられると、朝から晩まで暗い顔をして、たまに涙を流し、店員全員に黒い腕章を配った。売り子は甲高い声で笑ってはならない。渋谷の公園通りが、朝から晩まであんなに静かで暗くなることなんて、かつてあったのだろうか?通りに黒い布が翻り、商店では音楽を消していた。

 各国から大喪に参列する人々が集まり始める22日、わたしは成田空港に向かった。空港に到着するまでに5回ぐらい荷物のチェックがあり、見送りは一切受け入れられなかった。だから、わたしは一人で空港に行った。あのとき灰色のスーツを来ていたのをよく覚えている。わたしは髪の毛がお尻まで長く、(これでも)ボディコンを着ていた、若くて色の白い女の子だった。

 〜〜 2008年2月22日の朝
 具合の悪い姉を起こして、米原駅まで送ってもらった。寒いし別れが辛いので、ホームにはもう来ないでいいからと、改札で送り返した。名古屋まであっという間だった。

 名鉄名古屋駅で、地下に降りる長い階段まで来た。わたしという人間はいつも荷物が多い。大きなお土産の袋には提灯と和紙が入っているので、軽いんだけど嵩張る。小さいスーツケースとお土産の袋を階段の下に降ろし、階段の上に置いて来た大きなスーツケースのところにUターンした。そこへ、上から、麦わら帽子をかぶった金髪の女性が、ため息をつきながらスーツケースを抱えて降りて来ようとしていた。すれ違い様に目が合った。1989年の2月22日にわたしといっしょに日本を出た古いスーツケースを抱えて、階段の下に降りた。

 ため息をついていると、麦わら帽子に金髪の女性が、英語で「切符の買い方がわからないから教えて欲しい」と話しかけて来た。それぐらいはわかったけど、あとが困った。
「わたしは英語が苦手で、しかも切符の買い方なんて全然わからないんです。あなた、フランス語は、わからないよね?」
とフランス語で言ったら、
「え〜、ウソ〜、フランス語、わかります。あなた、わかるの?」
と、妙に感動されてしまった。
 英語と日本語が話せる人は、日本にはかなりいるけど、フランス語が話せる日本人にはあまり会ったことがないというのだ。彼女はカナダ人なので、フランス語がかなりよく話せる。名古屋に住んでいるそうだから、ちょっとは日本語も話せるのだろう。
 2人で協力し合って、切符を買い、ホームに降り、乗り場を探し、スーツケースを置いた。そして、電車を待つ間、お互いの自己紹介と、なぜこんな所にいるのか、どうして空港に行くのかなどを話した。

 彼女は、名古屋商科大学の講師で、本職は子供の本の作家だった。カンボジアで行われる子供の本の展示会で、講演をするというのだった。わたしが子供の本の翻訳をしている話をし、カナダ人の作家に一人友人がいると、彼の名前を言ったら、知ってると言われた。彼の名前が日本人の口から出るとは。。。と、確かにそうなので、2人で驚いた。

 電車が来た。わたしが彼女に指定席のチケットを買わせてしまったのに、乗降口を間違ってしまい、わたしたちは、自分の乗るべき車両から、遠く離れたところに乗り込んでしまった。その車両は指定席ではなく、満員で、古くて大きいスーツケースを抱えたわたしたち2人(しかも2人とも変な帽子をかぶっていて)かなり目立っていたけれども、通路に立ったまま空港まで行くことになった。
「私たち、似たもの同士」
帽子のことかと思ったら、彼女はお互いの古いスーツケースを交互に指差していた。タイヤが壊れかけていて、古くさいデザインで、地球を三周ばかりはして来たようなぼろいスーツケースを彼女も持っていて、ちゃんと転ばないのでかなり苦労しているようだった。

 身の上話をしているうちに、お互いの父親が、2人ともガンで、2004年の春に他界しているはなしになった。彼女はカナダの実家に呼ばれて帰り、お父さんが亡くなるその瞬間に、手を取って送ったのだそうだ。わたしはそれができなかったので、彼女が語る、最後の最後のお父さんの話に、大変心を打たれて、電車の通路でわんわん泣いてしまった。

 空港では、友達と待ち合わせることになっていたので、「いっしょにお茶をしませんか」と言われて、一瞬困ったのだが、みんなにもこの人を紹介したくもあったので、チェックインのあと友達と待ち合わせしている場所にあなたもいらっしゃいよと誘って別れた。

 19年前はたった一人で旅立ったのに、今回は、フランスまでいっしょに帰るトシと、みゆきちゃんとひろたんまで、お見送りに来てくれていた。時間があまりなくて、今回もまたゆっくり話すことができなかったけれども、顔を見れただけでも嬉しかった。お土産ももらって、本当にありがたいことだった。
 麦わら帽子の彼女は、待ち合わせの場所に現れなかった。チェックインに手間取ったのかもしれない。出発ゲートのところで、向こうに彼女が歩いているのが見えたけれども、気づいてもらえなかった。彼女には、なぜか、またきっと会えるような気がする。そうして、みゆきちゃんとひろたんにも、絶対会える。
 元気でね。また会おうね。とっても名残惜しかった。トシが居てくれたおかげで、これからの長旅も、楽しみな。
ちょっと、帰りたくないのだ〜〜。


 
 

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