2008/04/01

2月18日 福岡のすき焼き




 始発列車が指宿駅に乗り入れた時、《銀河鉄道999》を思い出していた。小さな惑星の、ポヤ〜っとした灯りのともる駅に、銀河の彼方からいきなりやって来る長い列車。
 学生の時、言語学の授業で『銀河鉄道の夜』を読み直した。あの授業はとっても楽しかった。テーマは《オノマトペ》で、宮沢賢治が使う、不思議なオノマトペを求めて赤えんぴつで線を引いたら、本が真っ赤になった。

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、シュー

 しか、聴こえない。ほかには何も聴こえない。外はまだ暗く、窓に映る透明人間のわたしの向こうには、大隅半島の明かりや、電車と競争しながら走る自動車が、たまに見えるだけ。
 「次は、宮ケ浜〜」
車掌さんの声は、寝ているかもしれない客(わたしのみ)を邪魔しないようにと、遠慮しているようにどこまでも細い。車掌さんも眠いのかもしれない。
 
 南鹿児島駅に停まった。短大の時に毎日使っていた駅。そのちょっと前で目が覚めていた。電車の中には学生がいっぱい詰まっていて、前にも横にも人が座っていたので、最初自分がどこにいるのかわからなくなった。別世界じゃ?寝ている間にワープして。

 中央駅で、高速バスの乗り場を探す。わたしの知らない地下道を抜けて、駅の正面のビルからの出発だった。友人たちは「高速バスは予約しなくても大丈夫だよ」と言ってくれていたのに、おじさんからは「予約してなきゃ乗れませんよ」と言われ、「乗せてやるけど、空港で予約済みの人がいっぱい乗って来るようだったら降りてもらいますよ」と脅された。予約して往復で買ったら8000円になるはずだったのに、片道しか売ってもらえず5300円も払った。

 福岡には10時半ごろ着きたいと思っていた。
バスの中でも爆睡していたために、「降りちゃダメよ」と言われていた天神バスセンターで、隣の人につられて思わず降りてしまった。もうひとつ先まで行かなきゃならなかったのに。地下街からは携帯が通じず、しかも、電車の中で携帯の音を出しちゃいけないと注意されて、駅では電源を切ることにしたので、迎えに来てくれることになっている先生の奥さまと連絡が行き違い。「まったく、あいつはよー」と思われてるに違いない。

 自分でも、問題なく福岡まで行けるとは思ってなかったけど、午前中ですっかり疲れ切ってしまった。

 挿絵を描いてくださっている金藤先生には、初めてお会いする。先生の奥さまと、お嬢ちゃんのKちゃんには、夏にポリーヌさんの家でお会いした。日本語を教えていたポリーヌさんが、ホームステイでお世話になったのがKちゃんちだった。ポリーヌさんが帰国した夏に、Kちゃんと《お母さん》が、ポリーヌさんの家に遊びに来ていらしたのだ。その時Kちゃんのお父さんである金藤櫂さんの本(写真の詩画集)を見せていただき、その線の素晴らしさに感動した。そうして、「わたしの本の挿絵を描いていただけないだろうか?」と厚かましくもお願いしてしまったのだ。

 本は、だいたい一年で訳したことになっている。うだうだやって、納期が来たので一気に訳した。(夏休みの宿題と同じパターン。成長しておらず)訳したものは今度は編集さんの手で直されていく。校正さんは雇えないので、校正も編集さんがしてくれる。わたしは読み直して、たまに「訂正、お願いしま〜〜す」と甘えさせていただく。
 
 二年めは挿絵の仕事。ただし、準備を始めて二年後には本が出るということは、なにもかもの準備完了はその前ということになるわけで、8月に本を出すには、5月には挿絵も終わっていただかねばならない。わたしがすべての翻訳を出してから、ずいぶん短い時間で描いていただくことになる。芸術家は、《ひらめき》も大切。周囲の雰囲気も重要。もともとの仕事はもちろん優先。プロなので展示会などもある。だから、画家さんは、絵画にはとんと素人の人間たちに「この章はこういう内容なので、コレを描いてください」とかいきなり言われても、とっても苦しいのではないかと思う。

 実は、わたしも。翻訳なんだから、書かれてあることをそのまま訳すだけだろうと言われることもあるが、直訳とは違うので、「ひらめき」が大切だと思っている。芸術家と同じなのだっ!普段から読書量が少なく、文章作成能力も日々衰え、言語障害気味なので、「こ〜いう〜ことなんだけど、日本語でなんと表現したらいいかにゃあ〜」と悩むことばかり。

 とにかく、インターネットも電話もあるから、人にものを頼んだり、要求したり、指摘したり、写真を送りつけたり、そんなことはいくらでもできる。ただ、頭を下げるとか、先生の絵を見てわたしがどんな顔をするかとか、わたしのこのキラキラ輝く瞳とか、そーいうーのをちゃんと見ていただき、わたし自身も、先生が描かれている絵をこの目で見て、触れることができたら、そこには仕事の絆だけではない、なにかこう、異次元の世界が作れるのではないかと。。。まあ、芸術家だったら、そういうわたしから発せられる空気なんていうものを、感じてもらえて、そして、「はやく仕上げてちょーだい」と思ってることも、わかってもらえるのではないかと思ったので、今度日本に帰ったら、絶対に福岡に行くぞと決めていたのだ。

 帰りのバスもあるので、とりあえずは『歩く人』に直筆サインをお願いして、Lちゃんという名前の犬と遊び、すき焼きをごちそうになった。フグわかめのふりかけがおいしいと言ったら、そのまま袋ごともらえた。言ってみるもんだ。

 先生の自宅のアトリエには、遠方の展示会から戻って来たばかりの、大きなキャンバスが所狭しと置いてあった。遠くから見たらいいのか、近くで見るべきなのか?とっても不思議な絵なのだ。編集さんは「こんな面白い絵を使った子供の本は、そうはありませんよ」と言っていた。確かに、そうかもしれない。でも、わたしは、子どもたちはきっとこの絵を見ながら、それぞれの感じ方を、自分の言葉で表現してくれるだろうと思う。形の整ったものを与えるばかりの世の中だから、パーフェクトながらも、計算されていない(あるいは計算され尽くした)点や線や影や光の中に、ググンと引き込まれていく、金藤先生の絵は、子供たちに、自分たちで好きな形にこねていく、自由と余裕と空間を提案してあげられるのではないか。うがった穴や、立ちこめた霧や、しずくや、光線の空間に、何かをはめ込む、あるいは何も入れない、色を付ける、真っ黒に塗りつぶす、引き裂く、そんな創造の可能性を、プレゼントしてあげることができるのではないか。

 漫画やコンピュータグラフィックや写真や映像などの、くっきりした線に慣れ切っている子供たちに、《抽象画》の醸し出すまろやかさやバランス、そして、アンバランスや異次元のもつ不思議な世界。光と影のせいで色と形を変える、新しい表面の世界。触れることの許される紙という表面を通して、普段は身近に感じられなかったかもしれない、古く新しい抽象画の世界を、体験させてあげられるのではないだろうか。 

 バスに乗るまでは元気だった。そして、バスに乗ってしまったら、あとは寝るばかり〜。ワープして、鹿児島に到着。

 鹿児島で仕事帰りのフミに拾われ、そのまま、宴会場へと直行。チョウさんと聡くんと、ラルとフミとでごはんを食べて、バカ話をして、わりと早い時間にお開きとなった。聡くんからまた、面白そうな時代小説をたくさんもらったので、今晩は荷造りをして、明日は船便でフランスに発送する予定。なんだか《帰り支度》が始まるなあ〜。

 
 

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