2007/09/25

9月7日の夜 続・最終日

 日本でもメールチェックをしようと思っていたけど、そんな時間は全然なかった。
毎日の諸雑用をクリアするのが精一杯で、メールを受け取って読んだり、書いたりする気持ちの余裕もなかったし、なんといってもポータブルパソコンがないから、使えるパソコンを探すことから始めなければならない。母の携帯を借りていたので、電話はどこからでもできた。東京についてから、母の携帯でもメールが使えるということがわかったので、急に便利になったけれども、人が一緒にいる所で、携帯のボタンをチャカチャカやるのは、あまり好きじゃない。お喋りしている相手が、そこには居ない誰かにメールを送ったりすると、はり倒したくなる。

 が、携帯をチャカチャカやる姿が、日本の風景となっていた。だれもかれも、おじさんやおばさんまでもが携帯をいじっている。駅のホームで、電車の中で、みんな片手を胸の前に出して、うつむいている。小さな画面と向かい合っている。

 そんなこんなで(どんな?)メールチェックをしなかったので、武蔵境の佐藤さんちでは、わたしが本当にやって来るのか、やきもきされていたことであろう。電話ぐらいすればよかったのだ。(でも、携帯に慣れていないので、携帯を切ったままだったり、存在を忘れていることが多かったのです)

 約束の時間はとっくに過ぎて、暗くなってしまった。
不親切なホテルの受付嬢に、いらつきながらも、4時にいよいよ部屋に行ってもいいと言われた。が、しかし、部屋の電気のつけ方がわからん!ホテルの部屋に、電源というものがない!
 「これは絶対になにかし掛けがあるに違いない」と思ったので、ロビーに電話した。電話の使い方がわからないので、説明書を読んだりしている間に、貴重な最終日が刻一刻と過ぎて行く。
 「部屋の電気のつけ方がわからないんですけど。。。」
いちおう控えめな声で言ったつもり。フランスなまりで言えばよかった。
ロビーの不親切なお姉さんは、
「バッカじゃないの、こいつ。何てまぬけなの」とのどの奥で言っていた。確かに言っていた。
「カギがついてる棒を、入り口の穴に突っ込むんですよ」
突っ込んだら電気がついた。部屋を出るとき、カギを持ったら自然に電気も消えるというわけやね。頭いいなあ。日本人は。
 まーさーかーーー、こんな仕組みになっていようとは。

「駅はどこですか」
まるで、日本語初級テキスト「みんなの日本語初級本冊1」第3課の例文じゃあないですか。
そこで、正しい日本語を使うならば、
「駅はホテルを出て、右にあります」
と言って欲しかった。受付嬢らしく。
が、しかし、ホテルの不親切なお姉さんは「はあ?」とすっとぼけてる。
「ホテルを出たら見えてるんだから、出りゃあいいだろう」と言ったね、あんた、今、言ったよね。
もう、わたしはかなりいらついていた。帝国ホテルのボーイさんに慣れ親しんだマダム・エンドーに、世間の風は冷たかった。

 品川から、新宿を通過して、武蔵境まで行く間に、とっぷりと日が暮れてしまった。
 電車に乗るまでには、苦しい戦いと、冷たい風と、人の波と、迷路でのうろうろがあり、《住所不定無職》みたいな駅に座り込んでる若者だけが、わたしの味方だった。

 佐藤さんちのテーさんは、この数日間ずっとメールを送ってくださっていたらしい。迎えに行く時のことや、待ち合わせの時間、乗り換えの電車のことなども、詳しく教えてくださっていたのに、わたしがそれを見ていないばかりに、世間の荒波にひとり投げ捨てられたかのような、錯覚に陥らなければならなかった。テーさんの顔見れたら、もううれしくて崩れそうだった。

 佐藤先生のお宅は、桜が咲き乱れるであろう公園の、すぐ横に、昔のままたっていた。父が他界したその年に、佐藤先生もみんなを置いて逝ってしまった。あんなに可愛がってくださった奥さまも、もういらっしゃらない。もう絶対に桜堤には来ないだろうと思っていたのに、佐藤先生にそっくりな息子様と奥さま、お嬢さんのテー様が、わたしを待っていてくださった。
 もらい物で申し訳なかったけれども、《大吟醸》は佐藤先生しか思い浮かばなかったので、お仏壇に上げていただいた。あとでテー様がみなさんに振る舞ってくださるだろう。
 佐藤先生と奥さまの最後を見届けてくださった、お嫁さん。どんなにお会いしたかったことか。
「ごはんがおいしいんだよねえ」といつも褒めていらしたあのお嫁さんとも、いよいよご対面できた。思っていた以上に、さわやかで頼もしい方だった。佐藤先生のお写真の前で、先生のお声を聴いた。
 「おお、みのりちゃん。来たね。」とおっしゃっていた。
その後ろで、「ねえ、みのりちゃん」と、先生と同じ声をしている息子様が、お茶に誘ってくださる。
道場は、主をなくしてなんだか寂しげだった。
 息子様はわたしに佐藤先生の遺品を預けてくださり、その中には「白雲悠々」などの手ぬぐいや、先生ご愛用の鹿革と漆の小物入れもあった。その赤い袋をよく覚えている。
 わたしたちは写真を見ながらいろんなことを語り合った。またきっと桜堤に戻って来れるだろう。
「先生、じゃあ、また来ますので。」
最後に会った時と、同じ言葉をつぶやいた。よし、フランスに帰ったら、また剣道やるぞ。

 さ〜、いよいよ待ちに待った《呑ん方》である。
指宿時代の友人たちが、恵比寿で待っている。約束には二時間ぐらい遅れてしまった。
インターネットで見た地図では、駅の前には二軒しか建物がなく、駅から二軒目の建物だったので、すぐにわかると思ったら、恵比寿の駅前には大小様々な建物がどどーんと並んでいて、人もわんさか居て、倒れそうになった。
 「こんなに暗いのに、どうしよう。。。」
そうだ、現代の神器! 携帯で宴会場にいる友だちを呼び、駅まで迎えに来てもらった。
一人は指宿でも会った人で、指宿から東京まで見送りに来てくれた女子。
もう一人は高校卒業以来、実に22年ぶりの再開を果たした《ヤッさん》である。
まじめなアーさんは居ないし、感動の場面だから許されるということで、思わずヤッさんと抱き合ってしまったじゃあないのっ。
うれしかった〜〜。涙出ちゃったよお。やっと自分の居場所にたどり着いたって感じだった。

 会場では、お鍋がぐつぐつ音を立てていて、「エンドー食べなさい、食べなさい」と言って座らせられる。その間、わたしがフランスから持ち帰った、「タクちゃんと一緒に舞台に立った、思い出の結婚ワルツ」(幼稚園)の写真やら、「持久走大会 ジャージ姿」(中学)の写真やら、高校卒業記念写真、ならびに、高校の遠足などなどの昔懐かしい写真を、みんなで回し見てもらった。
 「エンドー、今指宿から来たみたいっ」って、みんな言ってる。そーですか。そーですか。あんたたちはアカ抜けてますって。
 リッキー氏には、ちゃんと指宿から持参したカセットを、そしてピース・くぼた氏にはかの君のために彼が捧げた思い出のカセットを、しっかりお届けした。ムートンも、タナカも、「そのまんま」でうれしい。従兄の子どもの有希ちゃんも、安コーチ嬢も、ちゃんと東京で生き延びている。カンゾン君には仕事を頼み、ほかの女の子ちゃんたちとは再会を誓った。

 二次会は、沖縄料理店へ。アーティストのクマさんが合流し、ずいぶん長いこと鹿児島弁で語り合った。始発が出る時間まで、嫌がるみんなの背中を強引に押して、エンドー念願の「みそラーメン」を食べに行ってからお開きとなった。友だちと見る朝日は、ひっさしぶりだった。駅で別れる時、「じゃ、また来週ね〜」という雰囲気で別れた。

 なんだかもう、フランスに帰りたくないなあ〜。

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