2012/01/12

一眼二足三胆四力(いちがんにそくさんたんしりき)



 わたしは割と高い確率で、「はい、わかりました」と即座に言える方だ。答えた直後に「あ〜あ、困ったなあ」とか「一体どうしたらいいんだ?」とか「仕方ないなあ」とつぶやくことは多いし、あとから「やっぱり無理です」と謝ることもある。とりあえず《素直そう》に見える「はい」は言えても、「イヤなんだかどうだか。。。」のはっきりした意思表示はど〜も苦手。

 そういうわたしが、この週末、審判法の講習会に参加した。福岡の角正武先生の数冊のご著書に触れ、ぜひお会いしてみたいとずっと思っていた。去年の講習会は、ちょうどパリでの指導者養成講座と重なって、やむなく断念しなければならなかったので、今年は絶対に参加して、ご著書にサインを頂き、先生の御本のフランス語訳をさせていただく旨、直談判しようと心に決めていた。その前に、肝心の講習会で褒められるようなことをやってみせ、わたしを気に入っていただき、わたしの剣道も「よし」と認めていただければ、その他諸々のお願いはスムーズに行くのじゃないだろうか。。。。という作戦だった。口ばっかりじゃ信用してもらえない。

 審判は難しい。自分自身試合にはもう十年以上参加していなかったので、試合場がこんなに狭かったことも、作法・礼法がこんなに細かく決められているも、身体がすっかり忘れてしまっていた。一月終わりの地方大会で、四段以上のものは審判員になることを仰せつかっている。一秒にも及ばない速い打ちをしっかり見極めて、公正な判断を下さなければならない。試合場は約十メートル四方。試合の時間は3分から5分。試合場から出たり、みっともない剣道をやったり、作法が悪かったり、防具の着装が乱れていると反則となる。立礼の位置も蹲踞の位置も厳しく決められている。審判はと言えば、かかとをつけてつま先を開いて立つその足の先やあげる旗の角度、指先の動かし方から、副審とのコンビーネーションまで決められている。

 剣道を始めたきっかけは、わたしよりも数年早く始めた姉の、剣道着姿の美しさにほれぼれしたことだった。今も剣道着でキリリと立つ人を見ると、女性でも男性でも胸がときめく。女性と男性の身につけているものはほとんど同じであるけれども、動きの中に男性らしさや女性らしさは、やっぱり現れるものだ。剣道は美しくなきゃあダメなんだ。

 角先生のアシスタントとして、世界大会の審判をしているフランス人の先生方が、パリなどから来てくださっていた。その中に、佐藤先生のお宅に泊まり込んで修行をしたこともあるラブルさんがいた。ひと昔前にフランス・ナショナルチームのキャプテンであったラブルさんとは、もう何度も会ったことがあり、個人的なこともお話しできる大好きな剣士だ。ラブルさんは2年前にブールジュでの、5日間の夏期剣道合宿さよならパーティーで、「佐藤先生に習った黒田節を歌います」とわたしの目をまっすぐに見て言い、佐藤先生と同じ歌い方で、《黒田節》を歌って踊った。あれはさすがに涙が出た。

 2メートル近くある大きなラブルさんが、まっすぐに射抜くような鋭い目でわたしを上から見て、「みのりさん、ここに座りなさい」とパイプ椅子を差し出した。グループに分かれて、みんなの前で審判をやったあとで。



 「《真剣》というのは、どういう意味でしょうか。」
と日本語で訊く。ラブルさんには前にも訊かれたことがあるかもしれない。
《真剣》とは、《真っすぐな剣、真実の剣》と書き、《まじめにやる》って意味になる。わたしはいつもニヘラと笑い、ちょこちょこ動き、手をぶらぶら振り回していて、それでは、審判員としての厳しさやまじめさが、身体からにじみ出て来ないというのである。
「みのりさんがけっこうまじめにやってるというのはわかるんだけど、あなた、甘すぎ。優しすぎ。軽くてもあげるし、ちゃんと当たってるのに、気に入らない剣道だったらあげようとしない。審判員ははっきりした態度を示さなければならない。審判というのはきちっとしていて、胸を張っていて、試合場全体をくまなく睨みつけて、その中の世界を威圧し、そこにいるみんなを引っ張っていかなければならない。あなたの剣道も同じである」
 
 ニヘラと笑っていては、なにごともダメらしいのである。

 審判をやってみたあとは、こんどは違うグループの人が審判役に回るために、わたしは選手に変身する。みんなが見ている。怖い。期待を裏切りたくない。。。ちゃんとわかりやすい一本を打ってあげないと、審判する人が気の毒だ。。。とりあえず、試合に挑む直前に考えているのは、どうも《周りのこと》ばかり。名を呼ばれ面を着けると、いきなり《一人》になる。周りから音は消え、「なにをどうしようか」というようなことも、あまり考えられなくなる。足の裏の肉離れでずいぶん休んだあとながら、許される限りの稽古を続けてきたので、思い切った試合ができた。楽しく試合できた。もっと試合がやりたくなった。

 審判員をやるのは、本当に難しかった。知っている人であればなおさらのこと。その人がどんなに努力しているか、ふだんどんな技ができるのか、人間的にどうなのか。。。そういうことを知っている相手が、この数分の試合であっさり負けてしまったりすると、もう残念で残念でたまらない。ふだんからがんばっている人には、無条件で勝たせてあげたいぐらいだ。《公正である》というのは、そういうことではないのか?と言ってみたくなる。たまにやってきて、偶然勝ってしまう人や、《人間のクズ》と思っているような人が、(まぐれで、と言いたくなる)思いもよらぬ素晴らしい隙を突いたりすると、ちょっと腹が立つ。

 「でもこれは勝負なんだから」

《勝負》なんだから《勝つか負けるか》しかない。

 スポーツでも例えばギャンブルでも、勝負に挑む人というのは、きっとたくさんの努力をしてきた人だろうと思う。作戦があり、計画がある。そこには計算や統計や、集めた情報をもとにした推測もある。ふだんから《勝負》のその日を想定しながら、勝ったり負けたりの経験を意識して暮らし、額に汗を流し、《勝負》のその日を思い描いて胸が熱くなるようなことがなければ、《勝負》に挑む気持ちなんか起こらないんじゃないかと思う。そして《勝負》のその日には、運を天に任せる《度胸》と《捨て身》も必要じゃないだろうか。

 《隙を突く》《真剣勝負》っていうのはまさに剣道用語だ。「気合いを入れるて捨て身でいけ」とは、道場でしょっちゅう言われる。「一か八かでやってみろ」というのは、めったにない。修行を積んでいないものは勝負に挑むことを許されないことが多いので。盲滅法に打ちまくって当たることはほとんどないし、質より量の打ちを数打ちゃ当たると思ったら大間違いで、一本勝負の美学なんだけど、それはそれ、剣道の試合は《三本勝負》で、一度取られても次の機会が与えられるところに、《人情》ありの楽しい人生経験ができることになっているのが、剣道のよさだと思う。

 審判も選手も同じ。《一眼二足三胆四力》なのだそうだ。さて励もう。。。。

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