2012/03/20

寒かった

二月は、一体なにをしていたんだろう?

寒かった。ものすごく寒かった。
「ヨーロッパ、シベリア化しています!」などとテレビで言っているのに、うちじゃあ、暖房は壊れるし、シャワーは水だし。。。困った。
毛皮を着ているボボでさえ、寒そうでお気の毒なので、毎日家の中で暮らした。毎朝お散歩する公園では、噴水が底まで完全に凍っていた。ちょこっと降って道路脇に積んでいた雪が、溶けることができず、そこに風が吹きつけるので、体感温度はどんどん下がった。毎日、となりの家の煙を吐く煙突にできた、ツララの写真を撮るのが楽しみのひとつとなった。ツララが一本ずつ増えて行くのがおもしろかった。

 2月の最後の週末に、カーモーで剣道の大きな講習会が催されることになっていたので、準備に追われていた。体育館はただで貸してもらえることになったのだが、この寒さではやはり暖房を入れなければ。。。ということになり、暖房費用だけは払うことになった。ただし、当日ことのほか温かい一日となり、暖房なんか要らなかった。でも、お金を払ったので、がんがん暖房を入れて剣道やって、汗を流した。。。田舎にぽつんと立つ体育館なので、昼休みにちょっと外に出てサンドイッチを買ったり、レストランに行く。。。。ということができない。なので、《白悠会》では、5ユーロにてお弁当を用意した。調理の学校の同窓生エリックが、クレープを作るプロの機械を持って来てくれ、一日中クレープを焼いた。飛ぶように売れた。ゾエはバーの係。コーヒーやビールを売って、クラブの収入に貢献した。

 40人ぐらいの参加者があり、その程度ならばお弁当を用意するのもそんなに難しくないこと。みんなの喜ぶ顔を見るのが、気持ちいいこと。。。運営者としての役割も果たせたこと。。。いろんなことがわかった。そしてまた、民宿創立の夢は広がったのだが。。。JPは相変わらずのって来ない。残念だ。

 2月11日から26日までが冬休みだったので、この間に、ナルボンヌの実家にも行った。マザメやサンポンスという山間の町を抜けると、ナルボンヌは春のようないいお天気で、アーモンドの花が咲き始めていた。小さくて、ほのかにピンク色をした花が、道路脇に並んではえている姿は、日本の春の桜並木みたいだ。


 そうそう、四冊目の翻訳本の第一稿を仕上げなければならず、そういう時に限って、数ヶ月ぶりの実務翻訳の仕事も入り、徹夜の日々も続いた。なんだ。。。なにもしなかったわけじゃなかったんだ。。。それにしても、あまりぱ〜っとしたことは、なかったなあ。。。



とにかくただただ寒かった、という思い出しか残っていない二月。





2012/01/15

いちかばちか

「いちかばちかはやんない」と言ったばかりだけど。。。じつは、《いちかばちか》で剣道の地方大会に参加する。去年始めた我が剣道クラブ、現在16人のメンバーがいる。面を着けているのが12月の段階で8人になり、面を着けてはいないが小手、胴、垂れをつけているのが4人。稽古もちょっとサマになってきた。11月にチュヴィ先生に稽古を見ていただいた時に、みんなをどんどん試合や稽古会に参加させなさいと言われたので、わたしたちは1月28-29日に、ピレネー山脈の麓の町《タルブ》で行われる地方大会の団体戦に出る決意をして、今日までがんばって稽古してきた。

 剣道の団体戦は5人。先鋒、次峰、中堅、副将、大将。
今年の新学期によそのクラブから引っ越してきたフランソワは、すでに初段を持っている。JPとともに、試合に出るのは当然と、本人も思っている。フランソワは、サンテチエンヌという街にある、フランスでも一番大きく優秀なクラブから移ってきた。そのクラブでは三ヶ月を過ぎたらみんな否応無しに面を着けさせられ、日本の高校か大学並みの稽古を受ける。世界大会に出たり、ヨーロッパチャンピオンを出すクラブなので、初段ごときは下っ端である。

 でも、わたしたちの地方ではそういう《選手》は本当に少ないし、しかも、うちのクラブにはこれまで初心者しかいなかったので、《白悠会》に来ていきなり《先生の助手》となって、先生の期待も背負っているので、フランソワくん、張り切っている。けど、スポーツ選手のような数打ちゃ当たるの剣道をするので、《白悠会》で厳しくし込み直されている。ふっふっふ。。。全国一の先生たちとお稽古してきた人にしてはエバっておらず、自分よりもうんとちっこい先生(はやりにくいはずなの)に、がまん強く素直について来てくれるので、わたし幸せ〜。

 わたしは日本国籍だから、フランスでの個人戦には出場できない。団体戦は《外国人一名以下》なら出場できるので、10年以上ぶりに試合に出ることになった。JPも、剣道を辞めていたので10年以上ぶりだ。わたしたち、もう40超えちゃったのでおそらく選手としては最高齢ぐらいだろう。

 さあ、あとの二人。。。ローラは彼氏と別れて12月から剣道に来なくなった。エリーズとリュックは年齢制限で、わたしたち大人の団体戦には出ることが許されないということが判明し、若い人のグループの個人戦に出る。残るシルヴァンは去年のライセンスがないということを指摘され、さあ困った。
 
 カッサンドラとエリック。二名の大人の存在が、いきなり浮上。。。二人はまだ面をつけたことがない。。。。あと二週間で鍛えるか〜〜〜。無謀だな〜。十年も剣道やっていなかったJPを出場させることさえ迷っているのに、面を着けてまだ二週間。。。というような二人を、果たして試合に出させてもいいものか。。。

 チュヴィ先生、あっさりおっしゃる。
「出せ、出せ、みんな出せ。そのあとの稽古への意欲が、絶対に変わって来るから」

 とりあえず、その2人に経験させたいので、わたしが補欠に格下げとなり、エリックとカッサンドラも、面を着けて2週間の稽古で、試合に出場させることにした。本人たちかなりびっくりしているが、その他の3人の期待と応援を一心に受けて、かなりやる気を見せている。

さあ、人数は揃った。


 けれども、フランソワのライセンスが、去年のクラブのものであることがいきなり判明。ってことは、規定では《白悠会》の選手として試合に出ることはできないということ。

 ま、とりあえず、会場でなんと言われるか。。。
「いちかばちかで行ってみよう」
ということになった。

「どうせ一本も勝てないんだから、なんにも言われないって」

まあね、もしもリーグ戦を勝ち抜いて、パリで開かれる全国大会への出場権をもらったりしたら。。。それは問題になりますぞ。

いちかばちか。。。。勝ち抜きたいけど勝ち抜いちゃダメ。。。の勝負に挑みまっす!チョイサー

こういう試合、この辺じゃあ見られませんが。。。このビデオはすごい。

2012/01/12

一眼二足三胆四力(いちがんにそくさんたんしりき)



 わたしは割と高い確率で、「はい、わかりました」と即座に言える方だ。答えた直後に「あ〜あ、困ったなあ」とか「一体どうしたらいいんだ?」とか「仕方ないなあ」とつぶやくことは多いし、あとから「やっぱり無理です」と謝ることもある。とりあえず《素直そう》に見える「はい」は言えても、「イヤなんだかどうだか。。。」のはっきりした意思表示はど〜も苦手。

 そういうわたしが、この週末、審判法の講習会に参加した。福岡の角正武先生の数冊のご著書に触れ、ぜひお会いしてみたいとずっと思っていた。去年の講習会は、ちょうどパリでの指導者養成講座と重なって、やむなく断念しなければならなかったので、今年は絶対に参加して、ご著書にサインを頂き、先生の御本のフランス語訳をさせていただく旨、直談判しようと心に決めていた。その前に、肝心の講習会で褒められるようなことをやってみせ、わたしを気に入っていただき、わたしの剣道も「よし」と認めていただければ、その他諸々のお願いはスムーズに行くのじゃないだろうか。。。。という作戦だった。口ばっかりじゃ信用してもらえない。

 審判は難しい。自分自身試合にはもう十年以上参加していなかったので、試合場がこんなに狭かったことも、作法・礼法がこんなに細かく決められているも、身体がすっかり忘れてしまっていた。一月終わりの地方大会で、四段以上のものは審判員になることを仰せつかっている。一秒にも及ばない速い打ちをしっかり見極めて、公正な判断を下さなければならない。試合場は約十メートル四方。試合の時間は3分から5分。試合場から出たり、みっともない剣道をやったり、作法が悪かったり、防具の着装が乱れていると反則となる。立礼の位置も蹲踞の位置も厳しく決められている。審判はと言えば、かかとをつけてつま先を開いて立つその足の先やあげる旗の角度、指先の動かし方から、副審とのコンビーネーションまで決められている。

 剣道を始めたきっかけは、わたしよりも数年早く始めた姉の、剣道着姿の美しさにほれぼれしたことだった。今も剣道着でキリリと立つ人を見ると、女性でも男性でも胸がときめく。女性と男性の身につけているものはほとんど同じであるけれども、動きの中に男性らしさや女性らしさは、やっぱり現れるものだ。剣道は美しくなきゃあダメなんだ。

 角先生のアシスタントとして、世界大会の審判をしているフランス人の先生方が、パリなどから来てくださっていた。その中に、佐藤先生のお宅に泊まり込んで修行をしたこともあるラブルさんがいた。ひと昔前にフランス・ナショナルチームのキャプテンであったラブルさんとは、もう何度も会ったことがあり、個人的なこともお話しできる大好きな剣士だ。ラブルさんは2年前にブールジュでの、5日間の夏期剣道合宿さよならパーティーで、「佐藤先生に習った黒田節を歌います」とわたしの目をまっすぐに見て言い、佐藤先生と同じ歌い方で、《黒田節》を歌って踊った。あれはさすがに涙が出た。

 2メートル近くある大きなラブルさんが、まっすぐに射抜くような鋭い目でわたしを上から見て、「みのりさん、ここに座りなさい」とパイプ椅子を差し出した。グループに分かれて、みんなの前で審判をやったあとで。



 「《真剣》というのは、どういう意味でしょうか。」
と日本語で訊く。ラブルさんには前にも訊かれたことがあるかもしれない。
《真剣》とは、《真っすぐな剣、真実の剣》と書き、《まじめにやる》って意味になる。わたしはいつもニヘラと笑い、ちょこちょこ動き、手をぶらぶら振り回していて、それでは、審判員としての厳しさやまじめさが、身体からにじみ出て来ないというのである。
「みのりさんがけっこうまじめにやってるというのはわかるんだけど、あなた、甘すぎ。優しすぎ。軽くてもあげるし、ちゃんと当たってるのに、気に入らない剣道だったらあげようとしない。審判員ははっきりした態度を示さなければならない。審判というのはきちっとしていて、胸を張っていて、試合場全体をくまなく睨みつけて、その中の世界を威圧し、そこにいるみんなを引っ張っていかなければならない。あなたの剣道も同じである」
 
 ニヘラと笑っていては、なにごともダメらしいのである。

 審判をやってみたあとは、こんどは違うグループの人が審判役に回るために、わたしは選手に変身する。みんなが見ている。怖い。期待を裏切りたくない。。。ちゃんとわかりやすい一本を打ってあげないと、審判する人が気の毒だ。。。とりあえず、試合に挑む直前に考えているのは、どうも《周りのこと》ばかり。名を呼ばれ面を着けると、いきなり《一人》になる。周りから音は消え、「なにをどうしようか」というようなことも、あまり考えられなくなる。足の裏の肉離れでずいぶん休んだあとながら、許される限りの稽古を続けてきたので、思い切った試合ができた。楽しく試合できた。もっと試合がやりたくなった。

 審判員をやるのは、本当に難しかった。知っている人であればなおさらのこと。その人がどんなに努力しているか、ふだんどんな技ができるのか、人間的にどうなのか。。。そういうことを知っている相手が、この数分の試合であっさり負けてしまったりすると、もう残念で残念でたまらない。ふだんからがんばっている人には、無条件で勝たせてあげたいぐらいだ。《公正である》というのは、そういうことではないのか?と言ってみたくなる。たまにやってきて、偶然勝ってしまう人や、《人間のクズ》と思っているような人が、(まぐれで、と言いたくなる)思いもよらぬ素晴らしい隙を突いたりすると、ちょっと腹が立つ。

 「でもこれは勝負なんだから」

《勝負》なんだから《勝つか負けるか》しかない。

 スポーツでも例えばギャンブルでも、勝負に挑む人というのは、きっとたくさんの努力をしてきた人だろうと思う。作戦があり、計画がある。そこには計算や統計や、集めた情報をもとにした推測もある。ふだんから《勝負》のその日を想定しながら、勝ったり負けたりの経験を意識して暮らし、額に汗を流し、《勝負》のその日を思い描いて胸が熱くなるようなことがなければ、《勝負》に挑む気持ちなんか起こらないんじゃないかと思う。そして《勝負》のその日には、運を天に任せる《度胸》と《捨て身》も必要じゃないだろうか。

 《隙を突く》《真剣勝負》っていうのはまさに剣道用語だ。「気合いを入れるて捨て身でいけ」とは、道場でしょっちゅう言われる。「一か八かでやってみろ」というのは、めったにない。修行を積んでいないものは勝負に挑むことを許されないことが多いので。盲滅法に打ちまくって当たることはほとんどないし、質より量の打ちを数打ちゃ当たると思ったら大間違いで、一本勝負の美学なんだけど、それはそれ、剣道の試合は《三本勝負》で、一度取られても次の機会が与えられるところに、《人情》ありの楽しい人生経験ができることになっているのが、剣道のよさだと思う。

 審判も選手も同じ。《一眼二足三胆四力》なのだそうだ。さて励もう。。。。

2012/01/03

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。


今年はだれとも悲しいお別れがありませんように。
たくさんの楽しい出逢いがありますように。
素晴らしい友人たちと仲良くできますように。
健康で、健やかな一年となりますように。
夢と希望に溢れ、輝いていられますように。
夢と現実のはざまでも、ポジティブでいられますように。
夢ばかり見ないで、現実に成功できますように。

これまで続けてきた大好きなことが、今年も続けられますように。
これまでやりたいと思ってきたことを、今年は実現できますように。

待っている楽しいことを、上手にキャッチできますように。
待っているおもしろくないことも、上手に切り抜けられますように。

今年も感謝の心を忘れません。
大好きな人がみんな、幸せになります。
ありがとう、ありがとうと、毎日言います。

今年もきっといろんなきずなで繋がっていく年です。

母から送られてきたおもちを頂きました。どうもありがとうございます。
今年も母のことも、よろしくお願いいたします。

2011/12/31

年の暮れ

12月は,ミーさんのチョコレート屋さんでアルバイトをした。5日は乃恵海の15歳の誕生日だったけど、12日からのお店での仕事準備のために、ミーさんのお店で研修をすることになって、仕事の帰りにミーさんちのケーキをもらって来るということで話しがついた。


乃恵海のお誕生ケーキ、ミッシェル・ブラン《ショコラチン》

 12月12日から31日まで、よく働いた。去年の同じ時期は、レストランの調理場にいて、冷たい、寒い、汚い、気持ち悪い、痛い、慌ただしい、時によっては怒鳴られる。。。という、厳しい調理人人生を歩んでいたので、今年のこの《チョコレート屋さんの売り子》の仕事は、楽で楽で仕方ないっていうほど楽しかった。
 これまでの短い人生で、《動かなくても優雅に暮らせた》ことはあんまりない。外で仕事もしないでメシを喰って来れたのは、結婚してからの約16年で、それでも、まあ、結婚してからおよそ10ヶ月目ごろには、「収入もないのにでかい口を叩く妻」である自分が恥ずかしいと、常日頃、実は、思ってきた。なので、《自立したい》とまでは言わないけれども、「わたしもいちおう家計に参加してるよ〜ん」と胸を張って生きていけたらどんなに素晴らしいだろうと、じつは、思い続けてきた。

 一番好きなことは、翻訳で、ものを書いたり読んだりすることだ。それはわかっている。日本語教師もけっこう向いていたと思う。長く続いたことを考えたら、まあ、捨てたもんじゃなかった。でも、翻訳も日本語教師も、あんまり収入には繋がらないし、収入のことを言い出したら、いい翻訳も、いい先生もできない。

 「一週間に二回ぐらいバイトできたら〜〜」と甘いことを言ってるうちは、仕事なんか見つかるわけがない。翻訳できなくなったら、悲しいので、一週間に二回以上は、外に出るわけにいかない。一生ボランティアでも、剣道だけは続けたいので、月曜日と木曜日には働きませんって言える職場が基本。主婦なので、母親なので、あれこれ注文着ける。金曜日の朝市とか、水曜日に子どもが休みの日とか、やっぱり働きたくないし〜〜。甘い、甘すぎる

 そこに、ミーさんちのチョコレート屋さんで、いきなり妊娠発覚した店員さんがあり、彼女具合が悪くて出勤したりしなかったり。早退も、あり。クリスマスを前に、店内パニック。クリスマス休暇の間だけ、昼夜問わず働ける人募集。。。と言っても、そうそう宛てがない。ミーさんには前から、「チョコレートの工房でアルバイトをさせてください」とか、「ケーキ屋さんでひとでがたりない時には呼んでください」と言ってアピールしていたので、わたしに声が掛かった。ちょうど子どもたちはクリスマス休暇であるし、剣道はお休みだし、「行けます。行きます」とすぐにお返事して、三回の研修のあと、めでたく雇用契約を結ぶに至った。労働局にちゃんと登録してくれて、ちゃんとした臨時社員だ。


 商売人には絶対になるもんかと思っていた商売人の娘のわたしであるけれども、「頭も悪く顔も悪けりゃ、ニコニコ笑って世を渡れよ」と教えられて大きくなった。(あんまり大きくなってないけど)なので、ニコニコするのは得意。無理なくニコニコできる。ニコニコというよりは、失敗もなにも、ニヘラと笑っていればどうにか解決するもんさと身をもって知っているので、けっこう高い成績でニヘラとごまかせる。帽子屋とか洋服屋さんだったら、「きれいですね。お似合いですね」と嘘もつかねばならないこともあるけれども、わたしは嘘はつけないけど、隠し事はかなり得意だ。「似合ってないよ」と思っているのを、声と顔に出さなければよいのだ。
 売るものが自分の大好きなミーさんのチョコレートで、実際に食べて本当においしいと思っているケーキだし、しかも、去年研修したり、四年以上のおつきあいで知り尽くしている裏の作業を、誰よりもちゃんと説明することのできる自信があるので、ミーさんのチョコレートとケーキだったら、セールスが上手なのだ〜。
 ヘマをやったら、「わたしは中国人の移民で、フランス語がわかりませ〜〜ん」というふりをするし、嫌なことを聞いても、意味が分からなかった振りをする。わたしは店員にむいているのだと、ちょっと思った。三週間ぐらいだったら。。。
 

 店員さんは、女性の職場だ。女性ばっかりの職場っていうのは、危険だ。女の世界は、くだらないうわさ話で溢れている。わたしはそのようなテンポのあるオンナたちのおしゃべりにも、ついていけない振りをしてついていかないので、みんなわたしのことを放っておいてくれる。10月に肉離れをしたので、立ちっぱなしっていうのはきつい。毎晩足が痛かった。 自分が社長じゃないっていうのは、なにかと圧力があって大変。「こんなやり方じゃダメだ」と思っていても、「思っていることを全部口に出しちゃいけない」という法則により、黙って見守る。誰にも命令されずに自分のペースで自分が社長兼社員でやってきた今までの自由を考えると、なんて幸せだったんだろうなあと思う。

 ああ、それにしても、毎日チョコレートとケーキの匂いに囲まれ、残り物をもらい、欲しいものは20パーセント引きで売ってもらえる。なんて幸せな職場。難しいことはあまり考えない。計算は計算機がやってくれる。計算ミスは同僚がごまかしてくれる。


残り物。《ソレイヤード》カスタードクリームの中に、マカロンとナッツ類と、アブリコットとリンゴが入ってる。

 その楽しいアルバイトも、12月31日で終了した。次回は1月14日に「午前中だけちょっと来て」と言われている。本当は1月7日にも来てと言われたけれども、「剣道の講習会でボルドーに行く」と言ったら、「あ、そう」と許してもらえた。高い給料払ってるわけじゃないから、相手にも遠慮があるらしい


 店内展示,お砂糖細工、松ぼっくりも砂糖でびっくり〜。


 クリスマスも、大晦日も、ナルボンヌに行かずにすんだ。16年の夢が叶った。慌ただしくもあったけれども、本当に本当に穏やかなクリスマス休暇だった。

 さあ、明日から二学期。。。

2011/11/30

秋の空




 10月の最後の日に、ドレイ先生がトゥールーズを離れ寂しい気持ちでいたところへ、11月は1日の朝にもらった訃報で始まって、とっても辛い秋を過ごさなければならなかった。
 たしかに40歳を過ぎてから同年代の友人たちや親戚の訃報をもらうことが多くなり、そのたびに、なくしたモノゴトの大きさを噛み締めてはきたものの、そのたびに、なくさなければならなかったものに対して、自分にはなにかできなかったんだろうか、なにができたんだろうかという空しい気持ちとともに、なにもしなかったという結論に達して、失ったものの大きさや、亡くした人の大切さをやっぱり感じずにはいられないのだ。

 ヤスタカくんと最後に別れたのは、御殿山のホテルのロビーだった。東京でチョコレート屋さんのミーさんとお仕事したあとに、東京の友達と同窓会をするのが恒例になりつつあり、そのために一泊するホテルはいつもヤスタカくんが取ってくれた。彼がお勤めしていた会社の系列のホテルで「フランスに嫁に行ったいとこのダニエル」ということで安く予約してくれた。ホテルの隣のビルに会社があって、仕事が終わってから、いっしょに同窓会に行くためにホテルに迎えにきてくれた。

 その前の年にも、ヤスタカくんのおかげでわたしはそのホテルに泊まり、そこのロビーで別れたてーこさんは、次の年にそのホテルのロビーに来ることができなかった。くも膜下出血に持って行かれたから。「来年もここで会おうね」って約束したのに。

 「来年もまたホテル予約してね」と頼んで別れたヤスタカくんとは、次の年には会えなかった。ミーさんとのお仕事がなくなって、 そうそう日本に帰ることができなくなったので。でも、この夏休みに家族で帰国した時に、きっと東京で会えると思っていたら、彼は忙しくて同級生との飲み会に来ることができなかった。

 最後に御殿山をいっしょに歩いた冬に、彼は病気のおかあさんのことを心配していた。人の前で弱気を吐いたり、泣き言を言ったりすることが大嫌いだった彼は、フランスに行ってしまうわたしだったらと思ったのか、あるいは《いとこ》だから気を許したか、「悪かね〜こんな話し聴かせて〜。らしくなかどね」と言いながらも、いろんなことを話してくれた。かわいがっている妹さんのことは、本当に愛おしげに語った。高校時代に出逢ったある同級生のおかげで人生が大きく変わったと思っていることや、その友人に感謝していることなど、本人には素直に言えないことを、わたしに打ち明けてくれた。わたしもいろんなことを話した。もうすぐフランスに戻ってしまったら、しばらく会えなくなると思って、べらべら喋った。でもまたそのうち会えるんだからと思って、こんど会った時に気まずくなりそうなことは話さなかった。会った時にまた訊けばいいと思って、残しておいた質問だってちゃんとあった。こんど会った時に言ってあげればいいと思って、言ってあげなかったこともあった

 日本人の男性、特に鹿児島の同級生男子は、友人女子の身体に触れたり、褒めたりすることが下手で、苦手で、はずかしいらしい。でもヤスタカくんは別だった。彼は20数年ぶりに東京で大同窓会をやって再会した時に、みんなの前でわたしを抱きしめた。東京のど真ん中の混雑したバスの中で、わたしたちは大声で鹿児島弁で語り合い、彼はわたしの頭をぽんぽん叩いて、「エンドーさんってこんなに小さかったケ〜?」と楽しそうに言った。ある時の飲み会でわたしの隣に座って「身体が小さくて、おっぱいが大きい子が好き」とか言って、ほかの男子が申し訳なさそうにわたしを見た時、わたしは「女子の前で《おっぱい》とか言える男子は、同級生の中でそうはいないよ、アンタ」とか、「みんなが一瞬申し訳なさそうだったのはなぜだろう」などと、じつはおもしろがっていた。この楽しい《呑んかた》のことは一生忘れないだろうと思っていた。

 あの冬の寒い夜、わたしは赤いへんてこな帽子に黒いコートに茶色のブーツを履いていた。ヤスタカくんは彼の会社から出て来る黒いスーツの男性たちの中で、一人だけ、トレンチコートのような、サファリ・ベストのような、東京のビジネスマンにはぜんぜん見えない、アメリカ帰りみたいな、不思議な服を来ていた。それは茶色と灰色の中間のような色で、わたしの目線の高さに、コーヒーのシミが付いていた。シミのことは見て見ぬ振りをしたけど、いちおう「早くお嫁さんをもらいなさいよ」と、たぶんそんなことも言った。あの冬の寒い夜に彼は変な風邪を引いていたので、わたしはフランスに戻ってからもしばらくは、その風邪の心配をするメールを送り、春になると今度は彼が心を痛めていたおかあさんのことも心配で、おかあさんのことには触れないようにしながらも、「元気してる?」とか「ちゃんと食べてるの?」とかいうタイトルのメールを送りつづけた。

 そしてその春に「がんばるから、そんなに心配しなくてもいいよ」という言葉で締めくくられるメールがきた。長い沈黙のあと、やっときた返事だった。心配せずにはいられない内容だったので、わたしは心配し続けなければならなかった。そして彼は明らかにわたしが心配するのを申し訳なく思っていた。しつこいオンナは苦手なタイプだったんだろう。

 訃報をもらった時に、彼というサムライは、まるで自害して果てたように思えてならなかった。訃報にちゃんと病名が書いてあったけれども、でも、あれほど「自分を大事にしなさいよ」って言ったのに。。。と、心身ともに疲れていた彼を思って、ただただ悔しかった。「苦しみに溺れそうになったら相談するから」と言ったくせに、きっと「どうせ、エンドーさんに言ったって、仕方ない」と思ったんだろうと思って、ぶん殴ってやりたいぐらい腹が立った。自分を大切にしているふうには見えなかった彼の生活のことを思うと、あの明るい彼の暗い部分に、人知れず病魔が忍び入ったんだろうと思わずにはいられず、彼は自分で命を縮めたんだと残念でたまらない。ずっと戦い続けてきた彼は、戦うことを諦めたんじゃないだろうか。苦しくもがいていた彼を知っていて、なにもしなかったものに、友達だったと言えるんだろうか。

 11月はとっても辛い気持ちで毎日が重かったのに、日は昇り、日は沈む。いつもの年よりも、空が青くて高かく、いつまでも暖かい日が続いて、世間は平和そのものだった。毎日が、いつものように過ぎ去る。ここにはだれもいない。生きていてもそばにはいてもらえないし、逝ってしまっても、本当なのかどうなのか現実味がない。もしわたしが死んでも誰にもわからない。彼が息を引き取ったときに、わたしにはなにも聴こえなかったのと同じだ。

 この前の同窓会で、ヤスタカくんには会えなかった。今度帰った時は、「また空港まで迎えに行くよ」って、電話があるかもしれない。本当は、あの訃報は、なにかだれかのふざけた冗談で、「ごめん、残業で遅くなった」と言って、彼は頭を引っ掻きながら、飲み会に遅れてやって来るんじゃないだろうか。遅れた分を取り戻すように、大急ぎでわたしを抱きしめて、「エンドーさん、こんなに小さかったケ?」と言ってみんなを笑わせ、はずかしげもなく「会いたかったよ〜」とか言いながら、わたしの頭をぽんぽん叩き、ビールを飲んで「エンドーさん、この前会った時よりおっぱいが大きくなって、自分の好みにぴったり」とかバカでうれしいことを言うんじゃないだろうか。もしかしたら今年の夏と同じで、こんど同窓会に行った時にも会えないのは、いつものように仕事が忙しいからっていうだけなんじゃないだろうか。

 ヤスタカくんのことを、想う。これまでと同じように、遠くから、想う。
 彼は楽になったんだろうかと、空を仰ぐ。


 またどこかで会えるだろう。その時には、わたしの方がきつく抱きしめてあげよう。そして彼の肩辺りをぽんぽん叩いてあげるのだ。



高校の時に観覧車の中でいっしょに撮った写真を懐かしんで、同じポーズをとってみた。。。ところ(2007年)


ヤスタカくんが大好きだった人が撮って、わたしにくれた写真。
ずっと覚えていたいのはこんなヤスタカくん。

2011/10/18

DENSHI



 免許を持っている指導者たちのグループであるDENSHIの、記念すべき第1回指導者講習会が、ここ、カーモーの、我が《白悠会》の道場にて開かれることになった。免許があって、すでに自分のクラブを開いている人と、そのアシスタントたちを集めることになり、20人限定での募集を行った。普段よく行われている都会の講習会は、市の体育館などを使って、剣の剣道連盟などの支援もあり、無料でしかも参加者のレベルなどは無関係で行われることが多い。今回カーモーで行われる講習会では、主催者側と、講習会を行ってくださるチュヴィ先生の要望で、参加者がかなり絞られてしまういくつかの条件が提示された。おかげで、同じ意志、価値観を持った、やる気のある人だけが、講習会の内容をちゃんと理解した上で、あらかじめ心身共に準備して来てくれたので、量より質の大変濃い講習会になったと思う。

 テーマは、昇段試験の前に、どのように準備したらよいか。あるいは、どのような準備をさせたらいいか。

 今回集まった各地の参加者は、参加資格の条件によって四段以下の人に絞られていた。参加者15人のうち四段は3人。みんな「そろそろ五段を目指した方がいいのでは?」と言われているメンバー。個人的には段はどうでもいいなんて思って来た。試合も。けれども、剣道には「戦闘心》みたいなものがあってこそ生まれるパワーというものがあって、しかも、「切るか切られるか」の臨場感や、数分の中で技を出し切って、捨て身で修練の成果を表現する、、、、試されるという「緊張感」がなくては上達できないと言う人もいるので、それはそうかもしれないと思う今日この頃。五段の道はかなり厳しい。そして、南西フランスのこの地方では、3段以上が不足しているので、こんなことではそれ以下の人たちも伸び悩むのだ。と、いうわけで、このような講習会が開かれることになった。

 三十年以上剣道をやっていて、自分のせいで怪我をしたということは、記憶にない。野蛮な人に突き飛ばされたり、変な所を打たれて痛い目に遭ったことはけっこうある。そういえば一度稽古中に肉離れしたこともあったけれども、あれはすぐに治って、怪我とも思えなかった。でも、いま、脚の裏の腱炎というのに悩まされている。土曜日の稽古で、脚の裏がミシッと音を立てたように、《プッチン》とぶっちぎれたように、痛みが走った。なので、本番の日曜日の講習会では、歩くこともままならないほどだった。どんなに痛くても、道場で痛いと言ったことはない。痛くても剣道やってる時には感じないから。わたしは面の中でいつもニヤニヤ笑っている。だから、いつものわたしだったら、せっかく自分の道場で行われている講習会を、棒に振ったりしない。最後まで脚ひきずってでも、やるところだ。でも、メンバーの中に脚を専門にしている医者がいたので、その場でドクターストップが掛かってしまった。見学。。。つまり、見取り稽古。

 正座してみんなの膝辺りの高さから見取り稽古するのは、大変勉強になる。みんなの悪い所が残さず見れる。写真を撮ることもできる。だから、何もしなかった、とは言えない。でも、ちょっと身体が温まらないのは、剣道じゃないから、やっぱりつまらない。

 道場に隣接している市の建物で、お食事会もやった。土曜日の夜はみんなでレストランにも行った。道場には4人の若者が、寝袋持参で寝た。我が家にも4人来て泊まった。工事中の屋根裏の大工道具と埃をあわてて片付けて、2人寝かせた。日曜日は狭い台所で《すきしゃぶ》をやった。《すき焼きのようなしゃぶしゃぶのようなもの》だ。どうせみんなにはわからないので、「今日はすきしゃぶだよ」と言った。

 次のあさは脚が痛かったので、屋根裏に泊まった若者たちがボボの散歩をやってくれた。一人、また一人と出て行くのがとっても寂しかったが、また来年も来てもらえるんじゃないかと思う。みんながとってもよい講習会だったと喜んでいた。我が道場で講習会を開いてくださったチュヴィ先生と、主催者に大感謝。

 「来てくれて、ありがとう」を、何度も何度も言った。
「うちにも来てね」と何度も言われた。そのうちフランス全国道場巡りツアーができるかもしれない。