2011/10/06

一本のきずな



 夏に、奈良の川上村というところにも行った。奈良県吉野郡川上村というところで、京都からずいぶん時間が掛かった。剣道の上垣先生には5時頃着きますと伝えてあったので、『これは遅れるな』と思った途中の乗換駅から電話すると、すでに到着駅で待っていてくださって、そのあと一時間後に着いてしまった。世界でも名高い先生を待たせるとは、最初から印象が悪い。その村で2泊3日を過ごした。スタートの予定では4泊5日だったのを、2回の予定変更で2泊になってしまい、今思うとほんとうにもったいなかった。
 「駅に着いたら電話します。駅から歩いて行きます」などと言っていたのに、先生のお迎えと、あちこちへ送っていただかなければどうしようもない。。。山奥だった。わたしは海のそばで育ち、大都会ではないけれども、歩いてなんでもできる程よい地方の町の、駅の近くの商店街で大きくなったので、こんな山奥の不便なところには、生まれて初めて行ったのではないかと思う。森や川が美しく、木枠の窓の向こうには雲海も見える素晴らしい道場があり、そこには奈良などから2時間以上も掛けて山を登って来ては、稽古に励む先輩たちの笑顔と汗の匂いがあった。朝稽古のあとのおいしいうどんやおそば。
 先生が歌うようにおっしゃる、「さあさ、寄せてもらってください」や、お礼を言うたびに「なにをおっしゃいますのや」の響きが、なんとも優雅に心を揺らす。鹿児島の「ほら、食べんね、食べんね」や「なん言っちょっとよ〜」とは、品がぜんぜん違うのよね〜。



 その川上村が台風12号に直撃された。ラジオのニュースで「日本で大きな台風の被害が」と報道されたので、鹿児島じゃなかろうかと思って、インターネットのニュースを見に行ってみたら、川上村の、上垣先生がお勤めになっている村役場から数メートルの場所で、土砂崩れがあった模様。びっくりしてメールを書いたがいつも折り返しで返事をくださる先生から、返事がない。数日前にメール交換をしていた、川上源流館の松本先生にメールを書いてみたら、「みな無事。人的被害はなし」とのことで、とりあえずひと安心した。

 このことを、今年川上村で剣道して来た数人の仲間に話すと、「なにかできることはないか」との質問が殺到。「募金なんかどう?」と言ってみたら、あっという間に有志が集まった。それで『一本のきずな募金』というのを始めることにした。個人的なアドレス帳に名前のある約100人の剣道仲間に一斉メールを書いた。そして、フェースブックでそのことを伝えた。数日後フランス剣道連盟から電話が来て、『勝手なことをして』と叱られるかと思ったら、逆に褒められた。フランス剣道連盟では、春の東北大震災の時に柔道連盟といっしょになって、大規模な募金を行い、たくさんのお金を集め、日本に送った。ただし、そのお金がどうなったのか、定かではない。なので、今回のように個人でやってもらって、そのお金がどういうものに使われたのかを明らかにしてくれるならば、剣道連盟は協力を惜しまないと言ってくれた。翌日には、剣道連盟の応援という形で、わたしが個人的に友人たちに配信したメールが、全国の道場に配られた。フランスの剣道人口は5000人から6000人というところ。

 お金は、個人の名前で集めるのではなく、わたしとJPが去年設立した、『白悠会』の公的な銀行口座で集金し、そこから川上村の役場に送られることになった。募金の際にはフランス各地のきれいな絵はがきを送ってもらうことを条件にした。それを訳して、川上村の小さな役場においてもらいたかった。

 川上村では、廃校になった小学校が村の手で改修され『川上源流館』という道場に変身している。そこでは、1年に1回、2000人もの子どもたちを集めた剣道大会が開かれる。人口が2000人足らず、60パーセントから70パーセント以上が65歳以上の村で、1年に1回、各地から集まる高名な高段者の先生方を審判にお迎えし、2000人の剣士と、その家族、応援者が集まって、盛大なお祭りが行われる。小学校の体育館には6コートか8コートもの試合場が設けられ、森の木々がふんだんに使われて改修された校舎あとの宿泊所では、300人を寄宿させることができる。村をあげて剣道発展に尽くしているという感じだ。





 上垣先生のお人柄で、遠く海を渡って、わざわざそこに出かけるフランス人剣士たちの数も、年々増えている。植林の盛んな、川上村の、崩れた山を見るのは胸が痛い。しかも、あんなへんぴなところで、国道が封鎖されて、いったいどれほどの不便を強いられているものかと思う。川上村をすでに訪れたことのある剣友たち、噂を聞いてあの村で稽古することを夢みている仲間たちは、みなわたしと同じ気持ちのようだ。たくさんの心配するメールをもらった。

『一本のきずな』募金は広がっている。毎日我が家に小切手が送られて来る。ありがたいこと。村では、山の植林のための苗木を買ってもらう費用、道路工事の復興などの費用にあてられるようにとお願いしたところ、道場の横に一本だけ、「フランスと日本の友情の植樹」として苗木を植えてくださると村役場からの伝言をいただいた。「一本のきずな」が川上村に根付く。

 川上村でいただいた手ぬぐいに『交剣知愛』と書されていた。《いっぽん》を追求して汗を流し、剣を交えながら仲間同士、老いも若きも剣を交えてお互いを磨く。一本の剣というかつて武器であったものが、現代においては友情のきずなになる。。。そんなことを夢に描きながら、毎日剣道をしている仲間たちが、いつまでも日本の自然を見守って行きたいという思いから、あの村に思いを寄せている。





 川上源流館のように、遠いところからも人の集まるよい道場にしたいと思う。今週末《第1回目の指導者講習会》が、ここ、カーモーで開かれる。遠いところから人が集まるので、わたしたちは忙しく準備に追われている。「よい講習会であった」と言われるようにがんばる。いよいよみんなに「来てくれてありがとう」と言うことができる。

2011/09/13

新しい学年

 ノエミが高校生になった。カーモーの高校の普通科には希望の科目がないので、アルビの高校に通いたいと夏休み前に希望を出した。アルビの高校だったら、毎朝バスで通うことができる。自家用車だと20分ぐらいだが、バスだと1時間ぐらい掛かる。JPもアルビで働いているのだから、いっしょに自動車で通ったらいいじゃないかと思ったが、JPは、『世界から自動車をなくそう』と運動しているような人なので、これまで通り公共の交通手段を使う方針。ノエミにもバスで通えと言い、娘ににらまれていた。「パパと一緒に電車で通わないか」と言えば、ノエミは黙って部屋に行ってしまった。バスでも電車でも通える。
ノエミは「通学が面倒くさいので、寮に入りたい」と言った。
「通学して欲しくない」父は、あっさりOKした。

 『そういうお年頃』になったノエミは『パパが嫌い。パパとしゃべりたくない。パパは見たくもない』今日この頃なので、寮に入りたかったのだろうし、『ママはうるさい。ママはやかましい。ママは融通が利かない』ので寮に入りたかったのだと思う。友人知人のだれもが「みんなのために寮に入った方がよいと思う」とアドバイスしてくれていた。たしかに親と娘の関係が冷めきっていたので、別居の道はよかったかもしれない。

 アルビの学校に通うのは、カーモーからは二人だけ。でも、小学校時代からの大親友のエステルがいっしょだから、ぜんぜんさびしくない。エステルは、毎朝アルビで働いているお母さんの自動車で通っている。夕方はバスで帰って来る。通学で時間と体力をずいぶん浪費しているらしい。じつは、学校からバス停まではかなりある。

 ノエミは『ヨーロピアン・クラス』というクラスに入っている。エステルも同じクラス。フランス語のほかに、これまでずっと続けて来た英語とスペイン語があり、去年からはじめたラテン語を続け、新しく日本語も。日本語は通信教育。ほかの町には日本語クラスのある高校もあるのだが、ここでは授業がないので、通信で勉強して、成績表に加えてもらえるしくみ。高校を卒業するとき、バカロレア(高校卒業資格試験)の点数に加算される。これまで6年バイオリンもやって来たので、それも卒業試験に加算されるように、今年もレッスンを続けようと思ったのだが、寮に入ることで様々な問題が重なって、バイオリンのレッスンには通えなくなってしまった。高校での新しい生活が落ち着いて来たら、レッスンを再開するかもしれないけど...どうだろう。『ヨーロピアン・クラス』では、英語で歴史の授業とか、スペイン語で地理の授業などもある。卒業するまでにマルチリンガルを目指すということになっている。どうだろう?

 ノエミがどうしてもこの学校に入りたかったのは、この高校では自由選択の科目の中に『芸術』の授業があって、この地方では唯一なのだ。ここでは『絵画、造形、デジタル画像、写真...』などなどのおもしろい『図画工作』みたいな授業があって、学校を歩いていると『いかにも芸術家』みたいな、『芸術は爆発だ』みたいな、服や髪をした若者がうろうろしていて、ノエミの創作本能をかき立てている。ノエミはいつも絵を描いている。どんどん描いている。休む間もなく描き続けている。好きなんだろう。

 「でも,芸術と文学だけじゃ食べていけないに決まってるから、わたしは理系もがんばってべんきょうする!一年やって才能がないとわかったら理系の学校に移る」などと、現実的なのやら、なにやら。。。結構先のことも考えている。らしい。

 週末に初めて帰って来た娘は、急に大人ぶっており、口答えはするし、いうことは聞かんし、ふて〜態度だし。。。母はぐちぐちうるさくしてしまったので、「やっぱり寮の方が楽しい」と言われながら、月曜日、さっさと出て行かれてしまった。

 寮でけっこう厳しくやられているらしいので、帰って来たときぐらいは甘やかせてあげようと思ったのに〜〜〜。なかなか思う通りには行かず。それにしても、ノエミのいない月曜日から金曜日までは、平和でのどか。。。。いや、悪いけど、実にこの上もなく平穏。。。
ゾエだけが寂しそう。なので、今日はお友達を呼んでお泊まりしてもらった。

 わたしは電話を待っている。このことは、また別の機会に。

2011/08/24

旅程 7月10日から8月19日まで

7月10日 午前7時20分(日本時間10日の午後2時20分)トゥールーズのブラニャック空港出発
7月11日 午前8時 羽田着、午前10時鹿児島着、指宿に午後3時頃到着(フランス時間11日の午前8時頃)
7月はずっと指宿、鹿児島で過ごす。友達にも親戚にも、近所の人にも、あまり会うことがなかった。途中、台風にも見舞われた
8月1日  鹿児島から東京まで新幹線で移動。東京泊
8月2日  JPフランスから到着。渋谷、秋葉原、新宿 などなど〜。ホテルは浜松町駅。東京で同窓会
8月3日  予定変更。もう一泊する羽目に。。。浅草など
8月4日  午前中に京都に移動。少しだけ京都見物。午後奈良県吉野川源流の川上村到着
8月5日  川上源流館にて朝稽古。大歓迎を受ける。昼は奈良市街観光
8月6日  川上源流館にて朝稽古。精勤賞ならびに記念品贈答され、感涙。午後から奈県大和郡山市へ移動。夜は花火大会。親戚宅泊
8月7日  名古屋でちょっとお仕事の話し合い。名古屋城見物
8月8日  京都へ移動。途中家族を京都に送り、自分だけ大阪へ。編集さんとお食事しながらお仕事のお話
8月9日  京都満喫。清水寺周辺。滋賀の姉と姪に再び再会
8月10日  京都満喫。京都の南の方。映画村で従姉に再会
8月11日  京都から、新大阪へ出て、《さくら》で鹿児島まで直行。 自由席が無事獲得できた〜〜
8月12日  開聞方面へ。同級生経営のお土産屋さんへ。そろそろ帰り支度
8月13日  中学の同窓会
8月14日  従兄一家と指宿観光
8月15日  お寺参りなどなど
8月16日以降 居所のわかっている同級生、友人知人を訪ね歩く。鹿児島市内でお土産準備。実家の庭仕事。家の片付け。
8月18日夜 実家を出発。同級生が空港で見送ってくれる。午後10時過ぎに東京着。羽田で飛行機乗り換え、日付の変わった19日にパリへ向かって出発

わたしは指宿でたっぷりゴロゴロできたので幸せだったが、子どもたちとJPは、けっこうたいくつしたかもしれない。関東・関西での10日はみんなにとってよい思い出になったと思う。次回はもっと計画的に過ごしたいもの。
  
 

夏休み

 フランスの夏休みは長い。例年は、こどもたちを2週間から5週間のキャンプに送り込むか、2ヶ月まるまる義父母の家に預けて、わたしはけっこうのんびり過ごす。でも、よくよく考えたら、子どもたちをキャンプに送り出すお金で、夏休みに里帰りしたっていいんじゃないかと言うことになった。これまで夏休みに日本に帰ることなど考えたこともなかった。チケットは高いだろうし、人は多いだろうし、なんと言っても台風とかあるから。。。という感じで。

 クリスマス前に決めて、チケットを買った。3月に日本で大変な災害が起こったあと、「今年の日本にわざわざ行ったものかどうか」がいろいろな場所での論点になった。いっしょに連れて行くはずだったフランス人の友達は、けっきょく4月に日本行きをキャンセルした。

 6月に「仕方なく」日本に帰っていた日本人の友人が、何度となくメールや電話をくれ、「日本には行かない方がいい。子どもたちを連れて行くのはよくない」とさんざん言って来た。子どもたちを放射能の危険に対して心配する気もちからの行為だったと思うが、わたしたちはそれなりに情報収集をし、話し合い、子どもたちの意見も聞き、JPにもよく考えてもらい、けっきょく、会いたい人や、知りたいこと、見たいものは自分自身で日本に帰るのではければ手に入れることができない、という結論に達したので、予定変更しなかった。

 帰ってから、予定外のことが次々に起こって、経済的にとても大変だった。フランスから送ってもらったお金が郵便局の手違いで届かず難儀した。それと同時に、郵便局で3日で届くと言われて送ってもらった高速郵便も、10日過ぎても届かず、そこに入っていたレールパスが使えなかったのは、痛い出費となった。

 旅行中に財布が空っぽっていうのは、非常に困る。。。なれどお金は天下の回りもの。行った先々で親戚から《お年玉》をもらい、友人たちがお食事に招待してくれ、東京で合流した姉がお金を貸してくれ、仕事であった人にはどっさり商品券をもらい。。。事情を理解して快くキャンセルを受け入れてくださったホテルも約2軒。。。いろんな人にご迷惑をかけつつも、無事に全日程終了〜。カーモーを出てから指宿に着くまで24時間ぐらい掛かる行程にも関わらず、子どもたちも元気ぴんぴん、時差ぼけ全くなし、がんがん遊んで夏バテもなし。会った人もみんな元気そう。。。幸せな気持ちでカーモーに戻って来た。

 行く前にたいそう心配していた食料事情も原発問題も汚染状況も地震情報も台風接近も大雨注意報も、母の健康事情と親戚一同の近況報告も、とりあえず、この目で見、この耳で聞き、この手で触れ、この舌で味わい、この肌で感じて戻って来ることができ、そしてなにより、五体満足で戻って来れたので、《よかった》。

 名古屋と大阪で、これからの仕事のこともちょっと話しを進めて来た。だから、わくわくの新学期が待っている。またすぐに帰れるようにがんばる。


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 日本で会えなかったみなさん、連絡できなかったみなさん、本当にごめんなさい。写真と一緒に、少しずつ旅行のことを書いて行こうと思います。

 今年度がむしゃらにやって来た3つの試験。指圧と、剣道指導者資格と、調理師の国家免許。夏休み中、正式に合格のお知らせが届いていましたので、ご報告いたします。応援してくださったみなさん、協力してくださったみなさん、どうもありがとうございました。どのように自分のこれからの人生に活用していけるか、これから考えます。
 
 ノエミも、中学の卒業試験に、大変良い成績で合格できました。九月の新学期からアルビのベルビュー高校で、寮生活が始まります。これからも応援してあげてください。







2011/06/20

朝隈くん、いよいよ

 パリでイベントの運営などをしている由香さんから、いよいよご案内をいただいた。彼女は『ビズ・ファミーユ』という雑誌の編集をしていた人で、《夢は待ってくれる》という本も書いていて、剣道の友達で、髪が長くてスマートで、低音の気持ちいい声で話すかっこいい女性だ。もう何年もメールのやり取りをしているけれども、この冬剣道の講習会でパリに行ったとき初めて会った。初めての出逢いだったのに、悲惨だった。剣道の講習会初日、新幹線に乗り遅れ、駅で次の電車にチケットを取り替えたら、わたしの財布は空っぽになった。剣道の講習会の方は、予約の時点でホテルも食事も前もって払ってあったので心配せずにいられたものの、由香さんと約束していた《お食事をご一緒に》が、できなくなりそうだった。それで、講習会が終わって、駅での待ち合わせをする時に、「あの〜初対面で悪いんですが、、、いっしょに食事をするお金がないので、貸してください。」と言わなければならなかったので、超恥ずかしかった。

 由香さんはちょうどパリに来ていたお友達のカホリさんといっしょに駅に来てくれ、わたしの荷物があまりにもすごいので、駅のレストランでお食事することになった。

 この時にはすでに、由香さんのイベントの会社で朝隈くんをパリに招待することは決定していて、これから細かい話し合いが待たれているところだった。由香さんは春に朝隈くんの神奈川県の自宅兼アトリエを訪ね、いよいよこの夏のジャパン・エキスポという催しと、パリ市内のギャラリーを借りて行われる展示会の話し合いが行われた。由香さんの新しい会社の初めてのビッグイベントなので、由香さんは寝る間を惜しんでがんばってくれている。

http://www.bisoujapon.com/special/bisou-presente-expo-asakumawaka-japan-expo.html

 わたしが朝隈くんの作品を由香さんに持ち込んだ時には、わたしもたっぷり朝隈くんの展示会の準備に協力するつもりだったのに、パリからは遠いので。。。たいしたことができない。

 ノエミが6月28.29日に、中学卒業試験を控えている。30日には剣道クラブの最終合同稽古と、会議と、お別れパーティーがある。7月10日には日本へ発つ。なので、この7月2.3日の週末が勝負となった。JPは、夏休みで満員の新幹線の、高いチケットを二人分買ってくれた。ノエミの中学卒業祝いに、いっしょにパリに行ってもいいと言ってくれた。7月2日は友人の結婚式にも呼ばれていたのに、そちらは断ってしまった。同級生を代表して、パリでの朝隈くんの活躍を見て来るという使命があるのだもの、友人もわかってくれた。

 おたのしみ、おたのしみ。

2011/06/18

米寿

 八十八歳は、米寿なのだそうだ。とってもめでたい数字だ。わたしは八という数字が大好きで、いつもこの数字に助けられてきた。JPのお誕生日だって、3月8日だ。JPのお誕生日を知った時に、この人は絶対にわたしを幸せにしてくれると確信した。自分は4月29日なのでJPにはかなり苦労をさせている。彼もこの日を避けたいんだろうか?今年も例年のごとく4月28日の朝、元気よく「お誕生日おめでとう」と言われ、わたしは沈黙したのであった。

 わたしとJPの剣道クラブの名前は《白悠会》という。諸葛孔明の読んだ詩の中にこんなものがあって、恩師の佐藤先生が大好きで、先生の手ぬぐいにも書かれていた「白雲悠々」からいただいた。

    白雲悠々 去りまた来る
    西窓一片 残月淡し
    浮き世をよそに 静けき住まい
    出ては日ごと 畑をうち
    入りては 机に文をひもとく
    雪降りみだるる 冬のゆうべに
    風なお 冷たき 春の朝

 諸葛孔明の怖そうなイメージには合わない詩だと思う。佐藤先生は、白い雲のように、悠々と人の頭の上を流れ、風に吹かれて形を変えたり、方向を変えたりしながらも、のんびりと剣の道を歩んで行きたいとおっしゃっていた。普通剣道で使う手ぬぐいには《剣心一如》とか《文武両道》とか書く先生が多いのだけれども、佐藤先生の手ぬぐいは、《白雲悠々》だった。わたしも、白い雲のようにのんびりと、柔軟に流れて行けたらどんなによいだろうと思う。地上の焦りやストレスを笑って眺めながら。。。

 剣道の友達の中にネクトゥーさんがいる。ネクトゥーさんは、昨日88歳になった。4年前はいっしょに道場で稽古をしていたけれども、このごろは腰が痛くてもう道場には来られない。なので、わたしはネクトゥーさんの家に遊びに行く。ネクトゥーさんは、毎週日曜日にドレイ先生とご飯を食べるのを楽しみにしている。先週ネクトゥーさんのお家に遊びに行ったら、ネクトゥーさんがしょんぼりしていう。
「みのり、ドレイさんと連絡取れないんだよ。死んでるんじゃないかと心配なんだ」
ビックリした。話を聞くと、それなりに心配な要素がいくつかある。いろんな人に電話し、結局一時間後、わたしの電話はドレイ先生につながり、隣にいた看護婦さんとも話をすることができた。家族ではないので、詳しいことはなにも教えてもらえない。わかったのは、ネクトゥーさんが心配していたこの三週間、ドレイさんは入院していたとのこと。もう二度と運転してはいけないそうだ。
「それじゃあ、もううちには来れないね。もうドレイさんには会えないのか。。。」
とネクトゥーさんは肩を落とす。それが一週間前。

 その週の土曜日にはドレイ先生の住んでいる道場を訪ねて、元気な姿を見ることができ、とりあえずほっとした。でも、ドレイ先生の記憶は、日々失われているようで、わたしがだれだったのかは、よく思い出せないらしい。ドレイ先生はわたしの父と同い年で、言うこともすることも似ているとずっと思って来た。そして土曜日、久しぶりに会ったドレイ先生は、2003年に9年ぶりに再会した病床の父と、全く同じ顔色をしていた。目のくぼみや、小さくなった頭もあの頃の父と同じだった。先生がセーターの腕まくりをして、「ほら、こんなところに変なこぶもできちゃって」と見せてくれたとき、膵臓がんの末期であった父の脇腹に、同じこぶがあったことが鮮明によみがえったので、わたしはいろいろなことを悟らずにはいられなかった。


 昨日の朝、わたしは早起きをして朝市に行き、ボボを早歩きで歩かせ、子ども達をいつもの時間よりもはやく学校の門の前におろし、ダッシュでトゥールーズに向かった。ドレイ先生を迎えに行き、Uターンして、ネクトゥーさんのお宅にお邪魔した。3人で楽しいお誕生日会になった。ネクトゥーさんが寂しがるので、このごろのわたしは、イタリアの白ワインでネクトゥーさんのおつきあいをする。昨日はドレイ先生がいっしょだったので、ネクトゥーさんもうれしそうだった。

 ネクトゥーさんやドレイ先生は、フランスでも最も早い時期に剣道を始めた先輩たちだ。ネクトゥーさんは、わたしがまだ2歳だった1969年の日本で、剣道を経験している。ネクトゥーさんのアルバムには、今や七段、八段となり、世界で名前を知られている先輩たちの幼い顔がある。わたしはフランス剣道界の歴史を、歩み続けて来た本人たちから教わるのだ。

 この人たちのことを、忘れてはならない。忘れはしないよと、言ってあげなければならない。懐かしい人たちの、声を聞かせてあげたいと思って、facebookでネクトゥーさんのことを書いた。facebookに登録していない人のために、個人的にアドレスのわかる人たちにも一斉メールを送った。全部で200人ぐらいに書いた。この中でネクトゥーさんと実際に剣を交えた人は30人ぐらいだろうか。ネクトゥーさんのことを知らない若い人たちは、自分たちのクラブの先輩や、友人や、武道をたしなんでいる家庭であれば両親や兄弟に、ネクトゥーさんの話をしてくれた。そして、わたしはこの一週間で、たくさんのメッセージを受け取った。ネクトゥーさんが読めるように、集まったメッセージを拡大をして、綴り、本にして、お誕生日のプレゼントとして持って行った。わたしが持っているありとあらゆる写真もコピーした。そして、ネクトゥーさんが知っている人の現在の活躍や、その生徒たち子ども達の姿を見せてあげた。そこからまた昔の話が出てくる。話は尽きない。いつまでも思い出が溢れ出てやまない。

 個人的に、わたし宛にお礼のメッセージをくれた人もいて、そのような人たちには、わたしの電話番号を伝えておいたので、お誕生日の当日に、ネクトゥーさんの家に電話してくれた人もいた。そして、一人は出張ですぐそこに来ていたからと言って、ネクトゥーさんの家のドアをノックしてくれた。ちょうどドレイ先生も来ていたから、ものすごく楽しい再会の日となった。

 わたしは来週も、ネクトゥーさんに会いに行く。再来週も会いに行く。日本のお線香を持って遊びに行く。ネクトゥーさんと般若心経を詠むのが好きなのだ。毎週会いに行くつもりだけど、日本に帰っている6週間は、毎週絵はがきを書く。そして、日本でお線香をたくさん買って、ネクトゥーさんのお土産にする。この夏、二人の年老いた先輩たちが、元気にわたしの帰りを待っていてくれることを祈る。ネクトゥーさんは、毎日わたしのためにお祈りしてくれる。だから、そのおかげでわたしはいつも元気なのだと信じているので、わたしもネクトゥーさんのために祈る。ドレイ先生のことも祈る。

 わたしも、ネクトゥーさんみたいに、米寿までがんばれたらいいと思う。
米寿まで剣道できたら幸せだと思う。
 

2011/06/16

夢と現実


 指導者資格試験の最終日参加者たちと。


 6月はあっという間に過ぎて行く。天気はいまだに不安定で、なかなか本物の夏が来ない。
剣道指導者資格試験も無事終わり、正式に剣道を人に教えることが許されるようになった。こんな免許は日本には無いので、日本の先生方に報告するとビックリされる。奈良の上垣先生から『人があなたのところに集まって来るような指導者になってください』とお言葉いただいた。人がたくさん集まってくれたらいいな〜。

 剣道の試験は最初47人の申し込みでスタートし、一年の間に少しずつ減り、結局試験を受けたのは27人だった。そして20人が合格した。とっても難しかった。楽天家のわたしも、さすがに自信がなかった。でも勉強しただけのことは発揮できたので、もし落ちていても悔いは無かったと思う。

 調理師の方も、学校の方では『大丈夫、合格です』といわれたけれども、教育委員会の方での発表がまだ無いので、正式に『合格しました』と報告できない。6月中には結果が公開されるのではないかと思う。


 三年前から、あるひとつの目標に向かって、わたしはわたしなりにがんばっている。

一番なにが好きでなにがやりたいのかと訊かれると、『読んだり書いたりすること』『好きな本を翻訳する仕事』『剣道』と応える。この三つのことを田舎の大自然のなかでのんびり暮らしながらやるのが、大きなあこがれなのだ。そして、大きなあこがれだけでは、生活して行くことはできない。さあ、どうしようかと考えたのが、

 田舎で観光シーズンに民宿をやり、シーズンオフでも訪れてもらえるように、セミナーなどのできる『道場』を作る。そこでは自然の中で育てた野菜をたっぷり使った料理を出し、道場の横に設置する指圧の療養所で、身体をほぐしてもらうようなサービスを行う。民宿には露天風呂みたいなのも作ろうか。。。。日本料理の講習会もできるかもしれない。

 この『夢』に関しては、家人を動員しなければならないので、市場調査をし、経費の計算をし、民宿の設計図を作成し、その他ありとあらゆる書類や写真を揃えて、レポートにしてJPに提出した。それが三年前。そして今年は去年から始めた指圧と料理と剣道指導者資格者の免許を取得した。

 職安が転職を希望している無職者のために資金援助をして、いろんな授業を受けることができるシステムがあるというので、これまでやっていた日本語レッスンを一切やめて、職安に登録し、調理学校の入学試験を受けた。40人以上受けて10人が入学できた。面接の日にいきなり抜き打ちテストがあって、数学が全然できなかったので、あとで事務局の人に『どうして入学させてもらえたんですか』と訊いたら、『あなたの提出した企画が素晴らしく、あなたのやる気があったら、ぜったいに実現できると思ったので、調理師の資格を取ってもらいたかったのだ』と、事務長さんに言われた。調理師の免許を取るのは、ものすごく難しかった。さすがのわたしも、二度と、このような学校には入らないと思う。『わたしもやりたいな〜』という人たちには、『考えた方がいいよ』とアドバイスしている。

 『そのアイディアは素晴らしい』と他人はみんな言うけれど、家人はだれものって来ない。
『あなたが民宿やるんだったら、わたしが加勢に行くよ』と言ったのは、母だけだった。

 とりあえずこの凄まじい一年が終わったら、なにか今までと違う新しい人生が待っていると思っていたものの、実は、この一年でいろんなことに気付いた。人に料理を出すことが、自分はあまり得意でも好きでもないということ。わたしは食べることが好きなのだ。うちに来てくれた人に出す料理は、どんなに手間とお金が掛かっても、喜ばれるものを出したい方だから、そういう人間には《食堂》はできない。節約したり、物理的、金銭的な無駄を省いたりしなければならないので、そんなことをいちいち考えていたら、家族のお誕生日に出すような料理を、毎日出すわけにはいかない。

 指圧も、やってもらうのは好きだけど、それが職業となれば、体力を使う仕事なので、44歳からの転職にはかなりきつい仕事だと思う。

 必死な思いで学校に行き、夜は宿題に追われ、研修中は休む間もなく、テレビの前ではただ眠いだけ。気に入った本など読む暇がない。机に向かうこと、辞書を引くこと、ペンを持つこと、ページをめくること、図書館で過ごすこと、勉強するということ、人に何かを教わるということ、調べるということ、文房具屋に行くということ、机の上にコーヒーカップが載っている風景、パソコンの前で一日中過ごす。。。が、好きなのだ。でも、それは自分の書きたいことを書いたり、好きなフランス語の本を日本語に編み直して行くことを通して好きなのであって、栄養学の数字やレシピの手順を暗記したり、労働条件についての法律を書き写したり、訳のわからない問題集の、答えを書き込んで行ったりすることではないのだと気付いたのだ。なので、はやく終われ、はやく終われと思いながら終わらせた。

 
 四冊目の翻訳の本にできそうな、おもしろい本を見つけたので、週明けからこの本のあらすじと感想文を書き始める。日本に帰った時に、編集さんと話し合う予定。

 子ども達の学校、ノエミの卒業試験が終わって、剣道クラブの修了式が終わったら、わたしはパリに行く。中学と高校の同級生で、東京で働いていた頃にも会ったりしていた朝隈くんが、このほどいよいよパリで個展を開くことになったので。7月に入ったらすぐに日本に帰るので、あまり時間が無い。夜行で行って夜行で帰って来ることになると思う。みんなで応援していたもの。いよいよフランスに来てもらえることになって、本当にうれしい。同級生を代表して、パリでの朝隈氏の写真を撮って来るのだ〜〜。


 幕末のピーちゃんとペーちゃん
 

さあ、あしたはネクトゥーさんの88歳のお誕生日なので、ネクトゥーさんの家で食事をする。