2008/05/14

目玉には自信があります




 脳みそと、肌のキメには、ぜ〜んぜん、自信がない。
 その代わり、内臓と骨と、そして、目玉には自信がある。

 献血に行ったら、腎臓バンクや骨髄バンクへの申し込み案内がいっぱいあり、かなり本気で《その気》になった
じつは、高校の終わりだか、短大の終わりだか忘れたが、まだ相当若かった頃に、アイバンクに申し込んだ。目玉にはかなり自信があったのだ。これだけは絶対に社会に貢献できると思った。ただし、「その時」が来たら身内に連絡してもらわなければならないので、身内の了解を得なければならない。

 いつ何時も、どんなことも、[身内の了解を得る]ということがいかに難しいかは、若い時分からよおくわかっていた。そして、身内に了解を得られなくても、尻拭いしてくれる家族のことなど考えられずに突っ走ってしまうのが、わたしだった。当時は、人工心臓や臓器移植について、今よりずっと人の関心も理解もなかったので、我が身内を了解させるのは、並大抵のことじゃあなかった。まあ、そうだろう。脳死問題は今だって片が付かないのだから。もしもの時にアイバンクに電話する係りは、看護婦をやってる姉に押し付けて、アイバンクに登録した。

 義母は、フランス人にはよっぽど珍しい、仏教徒のような考え方を持っている人だ。死ぬときゃ死ぬんだから、じたばた移植なんかしないで、お迎えが来たら逝っちゃえ。。。みたいな、そういうところがある。ただ、お隣のテオくんが4歳で白血病になって、辛い入院をして、大変な家族の様子を毎日見ていたころ、「やっぱり子供とか若い人が、もっと生きたいと言うなら、助けてあげたい」と、わたしは、思った。助ける方法があるなら。

 お通夜の席に、いきなり医者が来て、目玉を持って行かれたら、身内はショックだろう。後に残された人たちというのは、だいたい後片付けに負われる。先に逝くほうは勝手に逝って、一体どこで何やってるか、知れたものじゃあないが、後に残されたほうは、たいていいろんな意味で、何かと大変な思いをする。ただでさえそうなのに、了解もなしに、ソウイウコトになっていたら気の毒だろうと思って、わたしは未成年ではないけれども、いちおう「身内の了解」を得てから申し込もうと考え、夕食の時間にそういうバンクがあるんだというようなことを、家族に話した。

 なんでも知ってるはずのノエミが、「ええー」と言ってる。母が「目玉をもらってください」と自分の脚で病院に出て行って、杖をついて戻って来るのか?と思ったらしい。
「目玉あげたら、見えなくなるじゃん。」
「ものを見る必要がなくなったら、目も要らないから、欲しい人にあげるんだよ。目玉を取ってできた穴にはちゃんと詰め物もしてくれるって言うし」
JPが「食事時に、またそんな話題を。。。」と呆れている。
JPには「もし、そうなったら、ど〜しよ〜〜」などと言っても、仕方がない。明日には明日の風しか吹かないとか、まだ見ぬ未来を不安がってどーするよ、という人だ。

 わたしは、ちびまる子ちゃんと同じで、1999年に世界沈没が起こって、地球全滅の日が来るとかなり強く信じていたので、1999年頃は実に精一杯生きていたのだ。あの辺りで燃え尽きたかもしれない。近所に《ノストラ》な〜んていう(不吉な)名前の少女がいて、ノエミがその子と友だちになったら嫌だなとか、本気で思っていた。ノストラはノストラという名前をもらいたくてもらったわけでもないし、《ウサマ》という名前の人がみんなテロリストだとは限らない。それはわたしが《シノワ》とののしられて石を投げられるようなものだ。(実は先週ののしられた)

 恐がりのくせに見たがりなもので、つい、中国の地震の模様をテレビで見てしまった。これはやばい。人の不幸を見ると、「明日は我が身、明日は我が身」と不安になってしまう性質。

 なんだ、そうだったのか、テレビのせいで、目玉まで登録したくなってしまったのか。。。これだから、影響受けやすい人間は。。。

 結局、ノエミには衝撃が強すぎたようなので、このテのことに関しては、もうちょっとあとになってから、改めて了解をもらい直すとする。ちょっと無神経だったかな。子どもを怖がらせてしまっただけ。(ゾエは留守)
 とりあえずは、「もしもの時が来たらよろしく」などという、準備よさそうで、実はとっても不吉な、そーいうーネガティブな考え方はやめようと思った。健康に気をつけて、いつでも世のため人のために動ける、生身の健康体を維持しようと、新たな決意をする。

 ここのところ身体の血行が悪くて、あちこち調子が悪いので医者に行った。「体重減らしたら、ずいぶん心も身体も軽くなりますよ」とか、ついでに「3キロ減らせればね〜」などと言われた。帰宅して台所に立ち、そこにある牛乳のボトル3本や、お米の袋が、自分の腰の辺りにぶら下がっている図を想像して、いきなり倒れそうになった。決意も新たに(って1年でたぶん3回ぐらい新年が来る)がんばることにした。まずは腹七分ぐらい?健康第一、この頃のわたしは、じつに快調だ。
 「世のため人のため」と言ってる間に、自分のためにとことん元気で、使い古してもとを取るまで(って、何のもとよ?)長生きするのだ。長い息を吸って吐こう!

 友人《か》が「長生きは長い息だ」と彼のブログで書いていて、そこで語られていた呼吸法が、まさに、3月に受けた剣道の講習で習った呼吸法そのものだったので、思い出しながらたまにやっている。赤ちゃんはオギャ〜と息を吐きながら誕生し、人間はやがてその息を引き取るのだそうだ。なるほど〜。赤ちゃんに息を吹き込むのは誰なんだろう?

 考えてみると、41年のわたしの人生で、こんなに長続きしていること、息の長いことは、ほかにはないだろう。生まれてこの方絶え間なく続けている《息を吐いて吸う、吸っては吐く》という行為。いつもほとんど意識しないで呼吸している。自分がどんな息をしているかさえ、関心を持たないでいるので、もっと大切にしなきゃと思った。そうそう、この前自分の呼吸のリズムが乱れているのをはたと感じたからこそ、医者に行ったんだった。病気になったり不安になったり、悩んだりすると、呼吸が乱れたり、ため息が出たりして、自分の身体を巡っている気のことに、気づかされる。

 毎日そばに居て、同じ空気を吸って吐いている家族。気を遣うことも忘れてしまうほどに身近で、毎日そこにいる家族。呼吸と同じかもしれない。
 
 そうだそうだ、世のため人のためより、まずこの辺りから極めようか。
 

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