2011/11/30

秋の空




 10月の最後の日に、ドレイ先生がトゥールーズを離れ寂しい気持ちでいたところへ、11月は1日の朝にもらった訃報で始まって、とっても辛い秋を過ごさなければならなかった。
 たしかに40歳を過ぎてから同年代の友人たちや親戚の訃報をもらうことが多くなり、そのたびに、なくしたモノゴトの大きさを噛み締めてはきたものの、そのたびに、なくさなければならなかったものに対して、自分にはなにかできなかったんだろうか、なにができたんだろうかという空しい気持ちとともに、なにもしなかったという結論に達して、失ったものの大きさや、亡くした人の大切さをやっぱり感じずにはいられないのだ。

 ヤスタカくんと最後に別れたのは、御殿山のホテルのロビーだった。東京でチョコレート屋さんのミーさんとお仕事したあとに、東京の友達と同窓会をするのが恒例になりつつあり、そのために一泊するホテルはいつもヤスタカくんが取ってくれた。彼がお勤めしていた会社の系列のホテルで「フランスに嫁に行ったいとこのダニエル」ということで安く予約してくれた。ホテルの隣のビルに会社があって、仕事が終わってから、いっしょに同窓会に行くためにホテルに迎えにきてくれた。

 その前の年にも、ヤスタカくんのおかげでわたしはそのホテルに泊まり、そこのロビーで別れたてーこさんは、次の年にそのホテルのロビーに来ることができなかった。くも膜下出血に持って行かれたから。「来年もここで会おうね」って約束したのに。

 「来年もまたホテル予約してね」と頼んで別れたヤスタカくんとは、次の年には会えなかった。ミーさんとのお仕事がなくなって、 そうそう日本に帰ることができなくなったので。でも、この夏休みに家族で帰国した時に、きっと東京で会えると思っていたら、彼は忙しくて同級生との飲み会に来ることができなかった。

 最後に御殿山をいっしょに歩いた冬に、彼は病気のおかあさんのことを心配していた。人の前で弱気を吐いたり、泣き言を言ったりすることが大嫌いだった彼は、フランスに行ってしまうわたしだったらと思ったのか、あるいは《いとこ》だから気を許したか、「悪かね〜こんな話し聴かせて〜。らしくなかどね」と言いながらも、いろんなことを話してくれた。かわいがっている妹さんのことは、本当に愛おしげに語った。高校時代に出逢ったある同級生のおかげで人生が大きく変わったと思っていることや、その友人に感謝していることなど、本人には素直に言えないことを、わたしに打ち明けてくれた。わたしもいろんなことを話した。もうすぐフランスに戻ってしまったら、しばらく会えなくなると思って、べらべら喋った。でもまたそのうち会えるんだからと思って、こんど会った時に気まずくなりそうなことは話さなかった。会った時にまた訊けばいいと思って、残しておいた質問だってちゃんとあった。こんど会った時に言ってあげればいいと思って、言ってあげなかったこともあった

 日本人の男性、特に鹿児島の同級生男子は、友人女子の身体に触れたり、褒めたりすることが下手で、苦手で、はずかしいらしい。でもヤスタカくんは別だった。彼は20数年ぶりに東京で大同窓会をやって再会した時に、みんなの前でわたしを抱きしめた。東京のど真ん中の混雑したバスの中で、わたしたちは大声で鹿児島弁で語り合い、彼はわたしの頭をぽんぽん叩いて、「エンドーさんってこんなに小さかったケ〜?」と楽しそうに言った。ある時の飲み会でわたしの隣に座って「身体が小さくて、おっぱいが大きい子が好き」とか言って、ほかの男子が申し訳なさそうにわたしを見た時、わたしは「女子の前で《おっぱい》とか言える男子は、同級生の中でそうはいないよ、アンタ」とか、「みんなが一瞬申し訳なさそうだったのはなぜだろう」などと、じつはおもしろがっていた。この楽しい《呑んかた》のことは一生忘れないだろうと思っていた。

 あの冬の寒い夜、わたしは赤いへんてこな帽子に黒いコートに茶色のブーツを履いていた。ヤスタカくんは彼の会社から出て来る黒いスーツの男性たちの中で、一人だけ、トレンチコートのような、サファリ・ベストのような、東京のビジネスマンにはぜんぜん見えない、アメリカ帰りみたいな、不思議な服を来ていた。それは茶色と灰色の中間のような色で、わたしの目線の高さに、コーヒーのシミが付いていた。シミのことは見て見ぬ振りをしたけど、いちおう「早くお嫁さんをもらいなさいよ」と、たぶんそんなことも言った。あの冬の寒い夜に彼は変な風邪を引いていたので、わたしはフランスに戻ってからもしばらくは、その風邪の心配をするメールを送り、春になると今度は彼が心を痛めていたおかあさんのことも心配で、おかあさんのことには触れないようにしながらも、「元気してる?」とか「ちゃんと食べてるの?」とかいうタイトルのメールを送りつづけた。

 そしてその春に「がんばるから、そんなに心配しなくてもいいよ」という言葉で締めくくられるメールがきた。長い沈黙のあと、やっときた返事だった。心配せずにはいられない内容だったので、わたしは心配し続けなければならなかった。そして彼は明らかにわたしが心配するのを申し訳なく思っていた。しつこいオンナは苦手なタイプだったんだろう。

 訃報をもらった時に、彼というサムライは、まるで自害して果てたように思えてならなかった。訃報にちゃんと病名が書いてあったけれども、でも、あれほど「自分を大事にしなさいよ」って言ったのに。。。と、心身ともに疲れていた彼を思って、ただただ悔しかった。「苦しみに溺れそうになったら相談するから」と言ったくせに、きっと「どうせ、エンドーさんに言ったって、仕方ない」と思ったんだろうと思って、ぶん殴ってやりたいぐらい腹が立った。自分を大切にしているふうには見えなかった彼の生活のことを思うと、あの明るい彼の暗い部分に、人知れず病魔が忍び入ったんだろうと思わずにはいられず、彼は自分で命を縮めたんだと残念でたまらない。ずっと戦い続けてきた彼は、戦うことを諦めたんじゃないだろうか。苦しくもがいていた彼を知っていて、なにもしなかったものに、友達だったと言えるんだろうか。

 11月はとっても辛い気持ちで毎日が重かったのに、日は昇り、日は沈む。いつもの年よりも、空が青くて高かく、いつまでも暖かい日が続いて、世間は平和そのものだった。毎日が、いつものように過ぎ去る。ここにはだれもいない。生きていてもそばにはいてもらえないし、逝ってしまっても、本当なのかどうなのか現実味がない。もしわたしが死んでも誰にもわからない。彼が息を引き取ったときに、わたしにはなにも聴こえなかったのと同じだ。

 この前の同窓会で、ヤスタカくんには会えなかった。今度帰った時は、「また空港まで迎えに行くよ」って、電話があるかもしれない。本当は、あの訃報は、なにかだれかのふざけた冗談で、「ごめん、残業で遅くなった」と言って、彼は頭を引っ掻きながら、飲み会に遅れてやって来るんじゃないだろうか。遅れた分を取り戻すように、大急ぎでわたしを抱きしめて、「エンドーさん、こんなに小さかったケ?」と言ってみんなを笑わせ、はずかしげもなく「会いたかったよ〜」とか言いながら、わたしの頭をぽんぽん叩き、ビールを飲んで「エンドーさん、この前会った時よりおっぱいが大きくなって、自分の好みにぴったり」とかバカでうれしいことを言うんじゃないだろうか。もしかしたら今年の夏と同じで、こんど同窓会に行った時にも会えないのは、いつものように仕事が忙しいからっていうだけなんじゃないだろうか。

 ヤスタカくんのことを、想う。これまでと同じように、遠くから、想う。
 彼は楽になったんだろうかと、空を仰ぐ。


 またどこかで会えるだろう。その時には、わたしの方がきつく抱きしめてあげよう。そして彼の肩辺りをぽんぽん叩いてあげるのだ。



高校の時に観覧車の中でいっしょに撮った写真を懐かしんで、同じポーズをとってみた。。。ところ(2007年)


ヤスタカくんが大好きだった人が撮って、わたしにくれた写真。
ずっと覚えていたいのはこんなヤスタカくん。

2011/10/18

DENSHI



 免許を持っている指導者たちのグループであるDENSHIの、記念すべき第1回指導者講習会が、ここ、カーモーの、我が《白悠会》の道場にて開かれることになった。免許があって、すでに自分のクラブを開いている人と、そのアシスタントたちを集めることになり、20人限定での募集を行った。普段よく行われている都会の講習会は、市の体育館などを使って、剣の剣道連盟などの支援もあり、無料でしかも参加者のレベルなどは無関係で行われることが多い。今回カーモーで行われる講習会では、主催者側と、講習会を行ってくださるチュヴィ先生の要望で、参加者がかなり絞られてしまういくつかの条件が提示された。おかげで、同じ意志、価値観を持った、やる気のある人だけが、講習会の内容をちゃんと理解した上で、あらかじめ心身共に準備して来てくれたので、量より質の大変濃い講習会になったと思う。

 テーマは、昇段試験の前に、どのように準備したらよいか。あるいは、どのような準備をさせたらいいか。

 今回集まった各地の参加者は、参加資格の条件によって四段以下の人に絞られていた。参加者15人のうち四段は3人。みんな「そろそろ五段を目指した方がいいのでは?」と言われているメンバー。個人的には段はどうでもいいなんて思って来た。試合も。けれども、剣道には「戦闘心》みたいなものがあってこそ生まれるパワーというものがあって、しかも、「切るか切られるか」の臨場感や、数分の中で技を出し切って、捨て身で修練の成果を表現する、、、、試されるという「緊張感」がなくては上達できないと言う人もいるので、それはそうかもしれないと思う今日この頃。五段の道はかなり厳しい。そして、南西フランスのこの地方では、3段以上が不足しているので、こんなことではそれ以下の人たちも伸び悩むのだ。と、いうわけで、このような講習会が開かれることになった。

 三十年以上剣道をやっていて、自分のせいで怪我をしたということは、記憶にない。野蛮な人に突き飛ばされたり、変な所を打たれて痛い目に遭ったことはけっこうある。そういえば一度稽古中に肉離れしたこともあったけれども、あれはすぐに治って、怪我とも思えなかった。でも、いま、脚の裏の腱炎というのに悩まされている。土曜日の稽古で、脚の裏がミシッと音を立てたように、《プッチン》とぶっちぎれたように、痛みが走った。なので、本番の日曜日の講習会では、歩くこともままならないほどだった。どんなに痛くても、道場で痛いと言ったことはない。痛くても剣道やってる時には感じないから。わたしは面の中でいつもニヤニヤ笑っている。だから、いつものわたしだったら、せっかく自分の道場で行われている講習会を、棒に振ったりしない。最後まで脚ひきずってでも、やるところだ。でも、メンバーの中に脚を専門にしている医者がいたので、その場でドクターストップが掛かってしまった。見学。。。つまり、見取り稽古。

 正座してみんなの膝辺りの高さから見取り稽古するのは、大変勉強になる。みんなの悪い所が残さず見れる。写真を撮ることもできる。だから、何もしなかった、とは言えない。でも、ちょっと身体が温まらないのは、剣道じゃないから、やっぱりつまらない。

 道場に隣接している市の建物で、お食事会もやった。土曜日の夜はみんなでレストランにも行った。道場には4人の若者が、寝袋持参で寝た。我が家にも4人来て泊まった。工事中の屋根裏の大工道具と埃をあわてて片付けて、2人寝かせた。日曜日は狭い台所で《すきしゃぶ》をやった。《すき焼きのようなしゃぶしゃぶのようなもの》だ。どうせみんなにはわからないので、「今日はすきしゃぶだよ」と言った。

 次のあさは脚が痛かったので、屋根裏に泊まった若者たちがボボの散歩をやってくれた。一人、また一人と出て行くのがとっても寂しかったが、また来年も来てもらえるんじゃないかと思う。みんながとってもよい講習会だったと喜んでいた。我が道場で講習会を開いてくださったチュヴィ先生と、主催者に大感謝。

 「来てくれて、ありがとう」を、何度も何度も言った。
「うちにも来てね」と何度も言われた。そのうちフランス全国道場巡りツアーができるかもしれない。

2011/10/06

一本のきずな



 夏に、奈良の川上村というところにも行った。奈良県吉野郡川上村というところで、京都からずいぶん時間が掛かった。剣道の上垣先生には5時頃着きますと伝えてあったので、『これは遅れるな』と思った途中の乗換駅から電話すると、すでに到着駅で待っていてくださって、そのあと一時間後に着いてしまった。世界でも名高い先生を待たせるとは、最初から印象が悪い。その村で2泊3日を過ごした。スタートの予定では4泊5日だったのを、2回の予定変更で2泊になってしまい、今思うとほんとうにもったいなかった。
 「駅に着いたら電話します。駅から歩いて行きます」などと言っていたのに、先生のお迎えと、あちこちへ送っていただかなければどうしようもない。。。山奥だった。わたしは海のそばで育ち、大都会ではないけれども、歩いてなんでもできる程よい地方の町の、駅の近くの商店街で大きくなったので、こんな山奥の不便なところには、生まれて初めて行ったのではないかと思う。森や川が美しく、木枠の窓の向こうには雲海も見える素晴らしい道場があり、そこには奈良などから2時間以上も掛けて山を登って来ては、稽古に励む先輩たちの笑顔と汗の匂いがあった。朝稽古のあとのおいしいうどんやおそば。
 先生が歌うようにおっしゃる、「さあさ、寄せてもらってください」や、お礼を言うたびに「なにをおっしゃいますのや」の響きが、なんとも優雅に心を揺らす。鹿児島の「ほら、食べんね、食べんね」や「なん言っちょっとよ〜」とは、品がぜんぜん違うのよね〜。



 その川上村が台風12号に直撃された。ラジオのニュースで「日本で大きな台風の被害が」と報道されたので、鹿児島じゃなかろうかと思って、インターネットのニュースを見に行ってみたら、川上村の、上垣先生がお勤めになっている村役場から数メートルの場所で、土砂崩れがあった模様。びっくりしてメールを書いたがいつも折り返しで返事をくださる先生から、返事がない。数日前にメール交換をしていた、川上源流館の松本先生にメールを書いてみたら、「みな無事。人的被害はなし」とのことで、とりあえずひと安心した。

 このことを、今年川上村で剣道して来た数人の仲間に話すと、「なにかできることはないか」との質問が殺到。「募金なんかどう?」と言ってみたら、あっという間に有志が集まった。それで『一本のきずな募金』というのを始めることにした。個人的なアドレス帳に名前のある約100人の剣道仲間に一斉メールを書いた。そして、フェースブックでそのことを伝えた。数日後フランス剣道連盟から電話が来て、『勝手なことをして』と叱られるかと思ったら、逆に褒められた。フランス剣道連盟では、春の東北大震災の時に柔道連盟といっしょになって、大規模な募金を行い、たくさんのお金を集め、日本に送った。ただし、そのお金がどうなったのか、定かではない。なので、今回のように個人でやってもらって、そのお金がどういうものに使われたのかを明らかにしてくれるならば、剣道連盟は協力を惜しまないと言ってくれた。翌日には、剣道連盟の応援という形で、わたしが個人的に友人たちに配信したメールが、全国の道場に配られた。フランスの剣道人口は5000人から6000人というところ。

 お金は、個人の名前で集めるのではなく、わたしとJPが去年設立した、『白悠会』の公的な銀行口座で集金し、そこから川上村の役場に送られることになった。募金の際にはフランス各地のきれいな絵はがきを送ってもらうことを条件にした。それを訳して、川上村の小さな役場においてもらいたかった。

 川上村では、廃校になった小学校が村の手で改修され『川上源流館』という道場に変身している。そこでは、1年に1回、2000人もの子どもたちを集めた剣道大会が開かれる。人口が2000人足らず、60パーセントから70パーセント以上が65歳以上の村で、1年に1回、各地から集まる高名な高段者の先生方を審判にお迎えし、2000人の剣士と、その家族、応援者が集まって、盛大なお祭りが行われる。小学校の体育館には6コートか8コートもの試合場が設けられ、森の木々がふんだんに使われて改修された校舎あとの宿泊所では、300人を寄宿させることができる。村をあげて剣道発展に尽くしているという感じだ。





 上垣先生のお人柄で、遠く海を渡って、わざわざそこに出かけるフランス人剣士たちの数も、年々増えている。植林の盛んな、川上村の、崩れた山を見るのは胸が痛い。しかも、あんなへんぴなところで、国道が封鎖されて、いったいどれほどの不便を強いられているものかと思う。川上村をすでに訪れたことのある剣友たち、噂を聞いてあの村で稽古することを夢みている仲間たちは、みなわたしと同じ気持ちのようだ。たくさんの心配するメールをもらった。

『一本のきずな』募金は広がっている。毎日我が家に小切手が送られて来る。ありがたいこと。村では、山の植林のための苗木を買ってもらう費用、道路工事の復興などの費用にあてられるようにとお願いしたところ、道場の横に一本だけ、「フランスと日本の友情の植樹」として苗木を植えてくださると村役場からの伝言をいただいた。「一本のきずな」が川上村に根付く。

 川上村でいただいた手ぬぐいに『交剣知愛』と書されていた。《いっぽん》を追求して汗を流し、剣を交えながら仲間同士、老いも若きも剣を交えてお互いを磨く。一本の剣というかつて武器であったものが、現代においては友情のきずなになる。。。そんなことを夢に描きながら、毎日剣道をしている仲間たちが、いつまでも日本の自然を見守って行きたいという思いから、あの村に思いを寄せている。





 川上源流館のように、遠いところからも人の集まるよい道場にしたいと思う。今週末《第1回目の指導者講習会》が、ここ、カーモーで開かれる。遠いところから人が集まるので、わたしたちは忙しく準備に追われている。「よい講習会であった」と言われるようにがんばる。いよいよみんなに「来てくれてありがとう」と言うことができる。

2011/09/13

新しい学年

 ノエミが高校生になった。カーモーの高校の普通科には希望の科目がないので、アルビの高校に通いたいと夏休み前に希望を出した。アルビの高校だったら、毎朝バスで通うことができる。自家用車だと20分ぐらいだが、バスだと1時間ぐらい掛かる。JPもアルビで働いているのだから、いっしょに自動車で通ったらいいじゃないかと思ったが、JPは、『世界から自動車をなくそう』と運動しているような人なので、これまで通り公共の交通手段を使う方針。ノエミにもバスで通えと言い、娘ににらまれていた。「パパと一緒に電車で通わないか」と言えば、ノエミは黙って部屋に行ってしまった。バスでも電車でも通える。
ノエミは「通学が面倒くさいので、寮に入りたい」と言った。
「通学して欲しくない」父は、あっさりOKした。

 『そういうお年頃』になったノエミは『パパが嫌い。パパとしゃべりたくない。パパは見たくもない』今日この頃なので、寮に入りたかったのだろうし、『ママはうるさい。ママはやかましい。ママは融通が利かない』ので寮に入りたかったのだと思う。友人知人のだれもが「みんなのために寮に入った方がよいと思う」とアドバイスしてくれていた。たしかに親と娘の関係が冷めきっていたので、別居の道はよかったかもしれない。

 アルビの学校に通うのは、カーモーからは二人だけ。でも、小学校時代からの大親友のエステルがいっしょだから、ぜんぜんさびしくない。エステルは、毎朝アルビで働いているお母さんの自動車で通っている。夕方はバスで帰って来る。通学で時間と体力をずいぶん浪費しているらしい。じつは、学校からバス停まではかなりある。

 ノエミは『ヨーロピアン・クラス』というクラスに入っている。エステルも同じクラス。フランス語のほかに、これまでずっと続けて来た英語とスペイン語があり、去年からはじめたラテン語を続け、新しく日本語も。日本語は通信教育。ほかの町には日本語クラスのある高校もあるのだが、ここでは授業がないので、通信で勉強して、成績表に加えてもらえるしくみ。高校を卒業するとき、バカロレア(高校卒業資格試験)の点数に加算される。これまで6年バイオリンもやって来たので、それも卒業試験に加算されるように、今年もレッスンを続けようと思ったのだが、寮に入ることで様々な問題が重なって、バイオリンのレッスンには通えなくなってしまった。高校での新しい生活が落ち着いて来たら、レッスンを再開するかもしれないけど...どうだろう。『ヨーロピアン・クラス』では、英語で歴史の授業とか、スペイン語で地理の授業などもある。卒業するまでにマルチリンガルを目指すということになっている。どうだろう?

 ノエミがどうしてもこの学校に入りたかったのは、この高校では自由選択の科目の中に『芸術』の授業があって、この地方では唯一なのだ。ここでは『絵画、造形、デジタル画像、写真...』などなどのおもしろい『図画工作』みたいな授業があって、学校を歩いていると『いかにも芸術家』みたいな、『芸術は爆発だ』みたいな、服や髪をした若者がうろうろしていて、ノエミの創作本能をかき立てている。ノエミはいつも絵を描いている。どんどん描いている。休む間もなく描き続けている。好きなんだろう。

 「でも,芸術と文学だけじゃ食べていけないに決まってるから、わたしは理系もがんばってべんきょうする!一年やって才能がないとわかったら理系の学校に移る」などと、現実的なのやら、なにやら。。。結構先のことも考えている。らしい。

 週末に初めて帰って来た娘は、急に大人ぶっており、口答えはするし、いうことは聞かんし、ふて〜態度だし。。。母はぐちぐちうるさくしてしまったので、「やっぱり寮の方が楽しい」と言われながら、月曜日、さっさと出て行かれてしまった。

 寮でけっこう厳しくやられているらしいので、帰って来たときぐらいは甘やかせてあげようと思ったのに〜〜〜。なかなか思う通りには行かず。それにしても、ノエミのいない月曜日から金曜日までは、平和でのどか。。。。いや、悪いけど、実にこの上もなく平穏。。。
ゾエだけが寂しそう。なので、今日はお友達を呼んでお泊まりしてもらった。

 わたしは電話を待っている。このことは、また別の機会に。

2011/08/24

旅程 7月10日から8月19日まで

7月10日 午前7時20分(日本時間10日の午後2時20分)トゥールーズのブラニャック空港出発
7月11日 午前8時 羽田着、午前10時鹿児島着、指宿に午後3時頃到着(フランス時間11日の午前8時頃)
7月はずっと指宿、鹿児島で過ごす。友達にも親戚にも、近所の人にも、あまり会うことがなかった。途中、台風にも見舞われた
8月1日  鹿児島から東京まで新幹線で移動。東京泊
8月2日  JPフランスから到着。渋谷、秋葉原、新宿 などなど〜。ホテルは浜松町駅。東京で同窓会
8月3日  予定変更。もう一泊する羽目に。。。浅草など
8月4日  午前中に京都に移動。少しだけ京都見物。午後奈良県吉野川源流の川上村到着
8月5日  川上源流館にて朝稽古。大歓迎を受ける。昼は奈良市街観光
8月6日  川上源流館にて朝稽古。精勤賞ならびに記念品贈答され、感涙。午後から奈県大和郡山市へ移動。夜は花火大会。親戚宅泊
8月7日  名古屋でちょっとお仕事の話し合い。名古屋城見物
8月8日  京都へ移動。途中家族を京都に送り、自分だけ大阪へ。編集さんとお食事しながらお仕事のお話
8月9日  京都満喫。清水寺周辺。滋賀の姉と姪に再び再会
8月10日  京都満喫。京都の南の方。映画村で従姉に再会
8月11日  京都から、新大阪へ出て、《さくら》で鹿児島まで直行。 自由席が無事獲得できた〜〜
8月12日  開聞方面へ。同級生経営のお土産屋さんへ。そろそろ帰り支度
8月13日  中学の同窓会
8月14日  従兄一家と指宿観光
8月15日  お寺参りなどなど
8月16日以降 居所のわかっている同級生、友人知人を訪ね歩く。鹿児島市内でお土産準備。実家の庭仕事。家の片付け。
8月18日夜 実家を出発。同級生が空港で見送ってくれる。午後10時過ぎに東京着。羽田で飛行機乗り換え、日付の変わった19日にパリへ向かって出発

わたしは指宿でたっぷりゴロゴロできたので幸せだったが、子どもたちとJPは、けっこうたいくつしたかもしれない。関東・関西での10日はみんなにとってよい思い出になったと思う。次回はもっと計画的に過ごしたいもの。
  
 

夏休み

 フランスの夏休みは長い。例年は、こどもたちを2週間から5週間のキャンプに送り込むか、2ヶ月まるまる義父母の家に預けて、わたしはけっこうのんびり過ごす。でも、よくよく考えたら、子どもたちをキャンプに送り出すお金で、夏休みに里帰りしたっていいんじゃないかと言うことになった。これまで夏休みに日本に帰ることなど考えたこともなかった。チケットは高いだろうし、人は多いだろうし、なんと言っても台風とかあるから。。。という感じで。

 クリスマス前に決めて、チケットを買った。3月に日本で大変な災害が起こったあと、「今年の日本にわざわざ行ったものかどうか」がいろいろな場所での論点になった。いっしょに連れて行くはずだったフランス人の友達は、けっきょく4月に日本行きをキャンセルした。

 6月に「仕方なく」日本に帰っていた日本人の友人が、何度となくメールや電話をくれ、「日本には行かない方がいい。子どもたちを連れて行くのはよくない」とさんざん言って来た。子どもたちを放射能の危険に対して心配する気もちからの行為だったと思うが、わたしたちはそれなりに情報収集をし、話し合い、子どもたちの意見も聞き、JPにもよく考えてもらい、けっきょく、会いたい人や、知りたいこと、見たいものは自分自身で日本に帰るのではければ手に入れることができない、という結論に達したので、予定変更しなかった。

 帰ってから、予定外のことが次々に起こって、経済的にとても大変だった。フランスから送ってもらったお金が郵便局の手違いで届かず難儀した。それと同時に、郵便局で3日で届くと言われて送ってもらった高速郵便も、10日過ぎても届かず、そこに入っていたレールパスが使えなかったのは、痛い出費となった。

 旅行中に財布が空っぽっていうのは、非常に困る。。。なれどお金は天下の回りもの。行った先々で親戚から《お年玉》をもらい、友人たちがお食事に招待してくれ、東京で合流した姉がお金を貸してくれ、仕事であった人にはどっさり商品券をもらい。。。事情を理解して快くキャンセルを受け入れてくださったホテルも約2軒。。。いろんな人にご迷惑をかけつつも、無事に全日程終了〜。カーモーを出てから指宿に着くまで24時間ぐらい掛かる行程にも関わらず、子どもたちも元気ぴんぴん、時差ぼけ全くなし、がんがん遊んで夏バテもなし。会った人もみんな元気そう。。。幸せな気持ちでカーモーに戻って来た。

 行く前にたいそう心配していた食料事情も原発問題も汚染状況も地震情報も台風接近も大雨注意報も、母の健康事情と親戚一同の近況報告も、とりあえず、この目で見、この耳で聞き、この手で触れ、この舌で味わい、この肌で感じて戻って来ることができ、そしてなにより、五体満足で戻って来れたので、《よかった》。

 名古屋と大阪で、これからの仕事のこともちょっと話しを進めて来た。だから、わくわくの新学期が待っている。またすぐに帰れるようにがんばる。


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 日本で会えなかったみなさん、連絡できなかったみなさん、本当にごめんなさい。写真と一緒に、少しずつ旅行のことを書いて行こうと思います。

 今年度がむしゃらにやって来た3つの試験。指圧と、剣道指導者資格と、調理師の国家免許。夏休み中、正式に合格のお知らせが届いていましたので、ご報告いたします。応援してくださったみなさん、協力してくださったみなさん、どうもありがとうございました。どのように自分のこれからの人生に活用していけるか、これから考えます。
 
 ノエミも、中学の卒業試験に、大変良い成績で合格できました。九月の新学期からアルビのベルビュー高校で、寮生活が始まります。これからも応援してあげてください。







2011/06/20

朝隈くん、いよいよ

 パリでイベントの運営などをしている由香さんから、いよいよご案内をいただいた。彼女は『ビズ・ファミーユ』という雑誌の編集をしていた人で、《夢は待ってくれる》という本も書いていて、剣道の友達で、髪が長くてスマートで、低音の気持ちいい声で話すかっこいい女性だ。もう何年もメールのやり取りをしているけれども、この冬剣道の講習会でパリに行ったとき初めて会った。初めての出逢いだったのに、悲惨だった。剣道の講習会初日、新幹線に乗り遅れ、駅で次の電車にチケットを取り替えたら、わたしの財布は空っぽになった。剣道の講習会の方は、予約の時点でホテルも食事も前もって払ってあったので心配せずにいられたものの、由香さんと約束していた《お食事をご一緒に》が、できなくなりそうだった。それで、講習会が終わって、駅での待ち合わせをする時に、「あの〜初対面で悪いんですが、、、いっしょに食事をするお金がないので、貸してください。」と言わなければならなかったので、超恥ずかしかった。

 由香さんはちょうどパリに来ていたお友達のカホリさんといっしょに駅に来てくれ、わたしの荷物があまりにもすごいので、駅のレストランでお食事することになった。

 この時にはすでに、由香さんのイベントの会社で朝隈くんをパリに招待することは決定していて、これから細かい話し合いが待たれているところだった。由香さんは春に朝隈くんの神奈川県の自宅兼アトリエを訪ね、いよいよこの夏のジャパン・エキスポという催しと、パリ市内のギャラリーを借りて行われる展示会の話し合いが行われた。由香さんの新しい会社の初めてのビッグイベントなので、由香さんは寝る間を惜しんでがんばってくれている。

http://www.bisoujapon.com/special/bisou-presente-expo-asakumawaka-japan-expo.html

 わたしが朝隈くんの作品を由香さんに持ち込んだ時には、わたしもたっぷり朝隈くんの展示会の準備に協力するつもりだったのに、パリからは遠いので。。。たいしたことができない。

 ノエミが6月28.29日に、中学卒業試験を控えている。30日には剣道クラブの最終合同稽古と、会議と、お別れパーティーがある。7月10日には日本へ発つ。なので、この7月2.3日の週末が勝負となった。JPは、夏休みで満員の新幹線の、高いチケットを二人分買ってくれた。ノエミの中学卒業祝いに、いっしょにパリに行ってもいいと言ってくれた。7月2日は友人の結婚式にも呼ばれていたのに、そちらは断ってしまった。同級生を代表して、パリでの朝隈くんの活躍を見て来るという使命があるのだもの、友人もわかってくれた。

 おたのしみ、おたのしみ。