2008/03/25

2月15日 今ごろ鹿児島について、どーする?



 燃ゆる想いにくらぶれば、煙は薄し桜島山
とか言った人がいたが、たしか、そのころは黙々と煙が上がっていたんじゃないか、と思う。

 さて、あまりにも待たせすぎて、すごい日記を書かなきゃならないかと思うと、かなりプレッシャーだ。。。
ところで、2月15日なのである。

 やっさんが迎えに来てくれるはずだったのに、約束の時間にいきなり「死んでる。。。」という電話が来た。そんなことが言えるのは、まだ生きているからだから、電話まで這って来れてよかったね、と思う。病院に行って会社は休みなさいね、と言って電話を切る。

 仕方ない。一人で羽田まで行くしかない。荷物持ちに使おうと思っていたやっさんが、来れなくなってしまったことを考えただけで、ドドーッと疲れが出た。フロントで訊いたら、バスで駅まで行って、電車を乗り継いで、どのくらい時間が掛かると教えてくれる。慣れたもので「タクシーだったら2400円ぐらいですよ」とにこやかに教えてくれる。ま、いいか、ゆうべの宴会では一銭も払わなかったから、友だちに送ってもらったと思って、タクシーで行っちゃおう!

 タクシーのおじさんは、とってもおしゃべり。カーナビに逆らって、裏道を走るのを趣味にしているようだった。「カーナビはこう言ってますけど、あたしゃあ、こっちから行って時間稼ぎますぜ」と言ってる。警察のレーダーを感知する機械は、料金メーターの上にゴムバンドで留めてあって、ぐらぐらしてたけど、「コイツのおかげで、あ、ほらね、あそこに警察居たでしょ?」自慢してる。どうせ60キロぐらいしか出してないんだから、レーダーなんかには引っかからないと思うんだけどねえ。

 「ミラベル」で戴いた花束がどうしても捨てられず、母に花束を持って帰ってあげたかったのはいいが、手荷物で預けられずに、苦労した。国内線は、国際線に較べると低空飛行なので、地上の様子を見ることができて楽しい。行ったこともない四国の辺りも飛んでいたようだ。

 鹿児島空港には、宴会場からタクちゃんが電話してくれたおかげで、お迎えが来てくれていた。途中で「道まちがっちゃった」とか言いながら、ちゃんと遠回りをしてくれて、高速道路なんぞを通らずに、桜島を裏から眺める、わたしの知らないコースで帰って来た。鹿児島市街を抜けてから指宿までは、海岸線の一本道で大隅半島を眺めながら、ねじを巻き直すにはちょうどいい距離だ。この間に時差がだんだん縮まって行くような気がする。薩摩今和泉の松林を通る頃に、指宿が近づいてきたことを感じて、ドキドキして来る。そういうころが、夕焼けどきというのは、よくない。迎えにきてくれた友だちに、お茶をごちそうするよと言ったけど、また別な用事で、夜になってから鹿児島までUターンしなくちゃいけないというし、なんだかとっても疲れているようだったし、どうせまた会えるはずだったので、実家まで送ってもらってお別れをした。お土産は今度会った時に渡すねと言った。

 父の仏壇を見ても、夏ほどの感慨がなかった。わたしは、きっと、もうここに帰って来ても、父が居ないことに、そして、この仏壇という箱の中に、誰もいないことを、理解し始めたのだと思う。父は、いつも側に居る。だから、わざわざここに来なければ、話を聞いてもらえないということはないのじゃないかと思う。来て元気な姿を見せたって、いつもわたしが走り回って疲れている姿や、行儀悪い格好で寝てる姿なんか、見られているはずなので、どーしよーもないと思う。
 いちおう「帰って来ました。ありがとう。タクちゃんのお父さんをよろしく。元気にしてあげてください。たのむよ」と頼む。
子どものことや、JPのことを頼むのは、すっかり忘れてしまった。

 母に「家に電話しなさいよ」と言われて、電話してはみたが、今までわたしのことなど忘れていたらしきゾエが、いきなり母の声を聴いて恋しくなったようで、泣いたりするものだから、JPに代わってから「もう電話しないからね」と言った。翌日から学校の冬休みで、翌々日にはナルボンヌの実家に連れて行くらしいので、もう自宅には電話しなくてもいいと言われる。
いきなり開放感〜〜。自由の身〜〜〜。

 母に「何を食べたいか?」と訊かれれば、たいていの場合、インスタント・ラーメンと応える。子どものとき具合が悪くて学校を休んだ日に「なんでも好きなものを食べさせてやる」と言われたら、「ラーメンかハンバーグ」と言ったものだ。インスタント・ラーメンの中でも、日新のカップラーメンでカレー味じゃないヤツか、チキンラーメンか、出前一丁か、そういう《基本の》ラーメンに、野菜も焼豚もなんにも入れず、できるだけお汁の少ない、味の濃い、しかも、麺は固めのを、音を立てずに食べるのが、第一希望。
 が、しかし、ちょっとは奮発したい母心のおかげ(せい)で、《どさんこラーメン》から、本格みそラーメンと焼き飯と餃子まで届いてしまった。しかもちゃんと2人分。量の多さからして、これを2人じゃねえ〜と思っていたら、割り箸はちゃんと4人分あった。
 母は全部食べられなかったけれども、もちろんわたしは食べた。割り箸2本分はキープできたので、次回の遠足に再利用できるじゃないか。

 出しっ放しの温泉に入り、心も身体もすっきりポカポカ。指宿はいいね〜〜。

 母はしゃべる。しゃべる。ひたすらしゃべる。夜中の2時までもしゃべる。
わたしはとにかく話を聞き、うわさを聞き、報告を聞き、レポートを聞き、頭がコタツのテーブルにぶつかり始めると、いきなり「あんた。もう寝なさい。夜更かししたらダメだよ」と母に小突かれる。

 母と並んで寝る。父が寝ていたところに寝る。布団に入ったら、もう何も考えられなかった。

2008/03/21

電池切れ

 ネクトゥーさんとお昼の約束をしていたので、わくわくの朝が来た。

と、思ったら、朝のコーヒーでつまづく。

 先日「安楽死」についての申し出を却下された、シャンタル・セビーさんが、自宅で遺体で発見された。
暗い気持ちでパソコンを開けば、そこには《悲しい知らせ》のタイトルが。
 今でも仲良くしている高校の同級生のご主人が、心筋梗塞のため急死した。
先日日本で会ったばかりで、50歳にもなっていない。

 その友だちに電話したり、家の中をうろうろ歩き回ったり、ブツブツ言ったり、郵便屋さんの相手をしてる間に、ネクトゥーさんとの約束の時間をとっくに過ぎてしまった。
電話すると、出ない。
ネクトゥーさんまで、ぶっ倒れてるんじゃああるまいね、と思って、またその辺をうろうろし、ドキドキし、5分後にまた電話をしたら、息せき切らせたネクトゥーさんが、「顔中に笑みをたたえてます」というような声で、「みのりが来るから、ヨカニセにしようと思って、風呂に入っていたところだった。オードトワレまでつけて待ってるよ〜〜」
ネクトゥーさんのオードトワレが、カーモーまで漂って来るようだ。

 ネクトゥーさんの家まで、高速を飛ばして45分以上掛かる。着いたらお昼を過ぎていたけど、ネクトゥーさんは「食べる前に、お経を唱えよう」と言った。
 待ってました。
 私たちはお線香を炊いて、テープに合わせて般若心経を唱えた。お経についていくのが精一杯で、《誰か》のことを考える暇がなく、一心不乱にお経を詠んだ。
 私たちのその《儀式》が終わると、今度はもうひとつのが待っていた。

「みのりには、《気》が抜けてる。自分のをちょっとあげるから、手を貸してみなさい」
椅子に向かい合って、わたしは80歳を超えたジ〜さんに、燦々と春の日が射す居間の仏陀の前で、手を握られた。
ネクトゥーさんの手は、ものすごく冷たい。
目を閉じて、2人で剣道でやるような呼吸法をやって、しばらくすると、ネクトゥーさんは、立ち上がったようだった。わたしの額や頭の回りに、手の平をかざしたりしているらしい。直接触ったりはしないのに、やがて、ネクトゥーさんがどの辺に手をかざしているのかが、わかるようになった。ネクトゥーさんの手があるらしき辺りは、そこに火の玉を持って来たみたいに、ポカポカ温かいからだ。わたしは先ほどの冷たい手が、時間とともに温まって、その熱を感じているのだろうかと思ったら、《儀式》が終わったネクトゥーさんの手は、始める時と同じぐらい、つまり、死人のように冷たかった。
 「これ以上やると疲れてしまうから、これぐらいで充電できたでしょう。わたしの《気》をあげておいたよ。熱を感じたでしょう?」
 「どうやったの?どうしてそんなことができるの?」
 「生まれた時に、こういう力をもらったんだよ。だから、どうやったのかと訊かれても困る。」
なるほど。。。と、言えるか?そんな。。。
ネクトゥーさんに《気》をもらったおかげか、おいしいイタリアンのおかげか、わたしはけっこう元気になり、ネクトゥーさんちのサロンと廊下と、台所とついでにおトイレも掃除した。
 ネクトゥーさんは《春分の日》のお日様をいっぱい受けて、玄関先の椅子で居眠りを始め、わたしも眠くなって来たので、ネクトゥーさんが大切にしている《にっぽん・ジャパン》という写真集を借りて、帰ることにした。ネクトゥーさんは、いつもわたしに《人質》ならぬ、《ものじち》を持たせる。そうして「それ、返してもらわなきゃならないから、早く遊びに来てね」とウインクをする。
 わたしが帰る時には、ネクトゥーさんは居間の大型液晶テレビで、スケートの選手権を観ていた。《日本のかわいいお花のような少女たち》3人の大ファンで、その美しさに見とれている。
 ネクツーさんは、「オンナは盆栽だ」と言う。
「そんなマッチョなことをよくも言うね」と反論すると、「女性には、手をかけ、日当たりや潤いを加減してやり、優しくしてあげないとダメ」というのが、《盆栽》の定義だ。
世の男性諸君にネクトゥーさんの爪のあかでも煎じてやらねばなるまい。
そして、こんな男性には、輝くような美しさを見せてあげて、わがままを言わず、へそを曲げず、心癒してあげなきゃならないのが《盆栽》の役割かもしれない。

 そうしてまた、10年以上もいっしょに暮らした相棒に先立たれた、友だちのことを思う。

        合掌


 

2008/03/19

徹夜明け デス



タヒチの剣道仲間から送られて来た、向こうの夕日。。。
楽園なんでっしょーか。あっちは。。。

 徹夜をした。
バレンタインデーの日に、タクちゃんたちと徹夜して以来だ。

 納期が一週間もあったのに、10分前までじたばたして、ようやく出した。
2週間ばかりはクレームが来ないか、ヒヤヒヤして暮らさなければならない
今回やっていたのは。。。

 塗料を塗った板を切り込みにより採取しその中心に設定されている接着面に接着剤を塗布したのち引張試験器を固定する。JIS規格に準拠しているその名も「プルオフ法」というテストをする際に使用する引張試験用の固定接着金具ドリーの発明について。
(「点」を入れずに一気に書いてみた。)

これをタイトルらしくしようとすると。。。
素地表面における塗膜の付着力測定に使用する、引っ張り試験器の試験円筒

本当はここに《点》なんか入れてはならず、もっと短くしなきゃならなかったのだが、時間なかった。「これじゃわからん」という声が聴こえる。。。
タイトルは、考えれば考えるほど、難しいノダ。だからいつも当然のごとくタイトルでつまづくのだ。
塗料を塗った板にこの発明品を貼付けて、器具を別な機械で引っ張りながら「どんだけ引っ張ったら剥がれるか」を調べるのが「付着力検査」らしい。なにがどう「発明」なのかは、ここでは申し上げられない。

14ページもあって難しかったけれども、とっても面白かった。

 それで、わたしは、一週間の与えられた時間内に、一体何をやっていたかというと、70時間か80時間ばかりは調べものをしていた。フランス語を読んで「な〜んとなくこんなもんだな〜」とわかり始めるまでに4日ぐらいは掛かり、同時に、日本語でも同じような分野があるのかどうか、調べる。「よし、どういう世界かはだいたいわかった」に至っても、今度は日本語でなんというのかわからないし、日本語でいつも書いているような文章が書けるようになったとしても、業界の文書っぽくなるまでに、ずいぶん書き直しをする。

 ワープロ時代からパソコン時代になって、切り貼りができ、インターネットがあり、ずいぶん楽になったものの、画面で読むのと、紙で読むのは感じが違って来る。それから、書いたものを大きな声で読むと、文章の流れがおかしいことに気づき易かったりもするのだけど、夜中にはそれをやれないので、プリントアウトして、台所や風呂場や、廊下や、車の中で子どものお迎えを待ってる間などに読んでは線を引き、書き直しては、消す。

いつもこのような知らない世界を歩くと、かならず発見がある。

 今回などは、バーコードの粘着力について、ネチネチと細かい文字で報告書を書いている人がいることも知ったし、JISの規格や特許などが、インターネットの電子図書館で、サクサク検索できる喜びも覚えた。世間には信じられないような研究をしている人がいっぱいいるんだなあ。でも、粘着力や付着力を知ることで、改善される生活があることはよくわかった。《そ〜んなこと》を研究している人に感謝だ。「座ぐり」とか「芯だし装置」など、チクリドキリするような、面白い単語があることもわかった。
「テニオハ」を入れ替えることで、文章が見違えるように美しくなることは、前から知っていたはずなのに、自分はそれがわかっているのよと思って、頭を抱え、しつこく悩み続けていると、どーしてもよくはならず、投げ出して、パソコンを消して、台所で一息ついた途端にひらめくような、そういうこともあった。

 今朝、「フィニッシュ」と思って、デスクトップに所狭しと並んでいるダウンロードのイコンたちを、さてダストシュートしようと思ったら、ゴミ箱が「ポコン」とメロディーを鳴らした。(マックはポイしたいイコンをゴミ箱に持っていきさえすれば削除できる)
その「なにかがゴミ箱に落ちた音」を聞いて、わたくし、ブルーになった。
「あと2時間で提出予定のテクスト14ページを、ゴミ箱に捨ててしまったのだああ〜〜」
でも、「ゴミ箱を空っぽにする」のところはクリックしてなかったから、あるはずなのに、パニック〜〜〜。
ーーちなみのこの部分だけで、片仮名単語が20個もある。最近は「片仮名用語が嫌いなわたし」には生きづらくなったーー

「信じられん、信じられん」とつぶやきながら、真っ白のごみ箱をにらむ。
ベートーベンのように頭をかきむしったりしても、運命を感じるのみ。
JPの職場に電話して「ごみ箱を再生するには????」と泣き落とし。
JP、わけわからず。。。
JPの役立たずめ。朝から八つ当たりしてどーする。

 結局、ごみ箱の端っこに落ちていた。
窓が「最大化」されていたために、パソコンの画面内に納まりきれなかったごみ箱の角に、ぽつんと落ちていた〜〜。
信じられ〜〜ん。

 これでまた白髪が8本は増えたヨ。
脳みそにしわ増えたかな?

 提出して30分経ったけど、まだ電話が鳴らない。
とりあえず、食べるものを確保するためだけに、台所に向かう。。。

午後はいよいよ鹿児島に帰ってからの日記を書く。(元気だったら)

2008/03/17

この頃のわたし またも なか休み

 一ヶ月前の日記をちまちま書いている。
 鹿児島に着いたら、また書くこともあるので、ちょっとここでひと休み。
なんだか感動が薄くなりそうで、記憶も遠のきそうだから、どんどん書きたいのに、わたしには、時間というものが不足している。

 毎日毎日あっという間に過ぎていく。
3月の第一週目の週末は剣道講習会の通訳に行き。久しぶりに汗をかいた。
第二週目の週末は、JPのお誕生日だったので、金曜日に両親を呼んで誕生会。日曜日にはすみちゃんを呼んでお別れ会をした。
先週は、《ミー》さんのお店で働いていた、すみちゃんが日本に帰ってしまい、我が家まで寂しくなってしまった。

 子どもたちの習い事や、学校の行事もあれこれあり、わたしはフルートの練習をまじめにやり、本をたくさん読み、時間が余っていれば日記を書いた。家の片付けもやってる。掃除はやってない。

 今とても気になっているニュースは、チベットの暴動と、地方選挙の結果の動向。6年前からコロンビアのジャングルで人質になっていて、今では病気のために死の危険にさらされているらしき、イングリット・ベタンクーの命の心配と家族の不安をおもう。

それから、先週の木曜日に偶然テレビで見てしまった、エレファントマンみたいな女性の顔が、頭から離れない。
シャンタル・セビーさんは、不治の病を持っていて、その症状のひとつに《顔が崩れていく》というものがある。鼻などの気管が冒されつつあり、目はこぼれ落ちそうにふくれあがり、日々ものすごい痛みに苦しんでいるのだ。自分の顔写真を公開して、メディアの関心を引こうとしたそのわけは、《死の権利》を主張するため。
 病院でもらう痛み止めはもう全然効かない。これ以上は処方できないと言う。

 数年前、ヴァンサン・アンベールという若者が、《死の権利》を主張しながら、亡くなっていった。我慢できなくなった母親と、担当医が、点滴に操作をして、彼の痛みを和らげてあげようとしたもの。先日映画でヴァンサンの物語を観た。母親のマリーさんの強さに心打たれた。

 苦しむ姿を毎日見ていなければならない家族の気持ちや、苦しみながら、家族のことを考えてやまない病人のことを考えれば考えるほど、とっても難しい問題なのだと思わずにはいられない。我が身をそこには起きたくないものだ。健康に過ごしているなに不自由のない生活に感謝せずにはいられない。

 先週から、シャンタルさんが裁判所にお願いしていた《死の権利》に関わる、《安楽死》の申し入れが、本日受け入れられないことになって、今日はずっとラジオで《安楽死》問題についての様々な討論を聴いていた。

 さて、最後のニュース。
http://info.france2.fr/france/40850636-fr.php
第一次世界大戦で闘った戦士の、最後の最後の生き残りラザー・ポンティッチェリさんが110歳で亡くなって、本日、ナポレオンのお墓もあるというアンバリッドで、国葬が行われた。
大戦のことを、その口で語れる人たちが、いなくなってしまった。

 この夏に出る予定の、わたしの翻訳の本の中で、アウシュビッツの犠牲者たちが、「思い出は受け継いでいくことができる。私たちからきみたちへ。きみたちから孫たちへ」と語るシーンがあって、そのことを思い出した。

いなくなってしまった人たちのことを語りついでいくということは、とっても大切なことだと思う。
と、いうわけで、今わたしは、いなくなった人についての作文を書いている。いつ終わるやら。。。


 さて、今夜もまた引き続き、午前様になるだろう。
わたしは数日前から「塗料の付着力測定に使われる引張試験器の試験円筒」なるものの文書を訳している。
眠い、疲れた。頭痛い。やりたくない、難しい。
と、言ったところで納期が迫って来る。
あああ〜〜、シゴトに戻らねば〜〜。たすけて〜〜。

2月14日 バレンタイン・デーの再会



心のとも、ピース・クボタ氏編集による御本ですので、買ってください。


 やっさんがついていてくれたおかげで、遅刻もせずに、約束の宴会場に着いた。
《宴会場》と思っていたら、ナチュラル思考のこーちゃんが予約してくれた、東京駅近くの《アリス・アクアガーデン》というお店は、おしゃれでシンプル、小ぎれいなレストランで、心が和む柔らか照明のお店だった。

 同級生たちが集まり始める。前回はしゃぶしゃぶのにぎやかなお店で15.6人以上は集まったのだけど、今回は平日の夜ということもあって、一次会は女子2名に、男子が4名。あとから合流した2名。うち男女各1名ずつは独身。バレンタインデーに、こんな所に来ているとは心配だ。人数が少ないおかげで、お互いのことをじっくり話せるからよかった。

 自転車屋のなっちゃんと22年ぶりに会った!うれしかった〜。
前に私たちが住んでいた商店街周辺には、同級生がたくさんいて、幼稚園・小学校のころは、よくみんなで遊んだものだ。商店街のバス遠足にもいっしょに行ったし、町内の運動会で地区対抗バトンタッチもした。
 4年ぐらい前に9年ぶりに帰った時に、自分が住んでいた所はなくなってしまっていた。なっちゃんちの自転車屋さんは場所を変えていて、お店はモダンなショーウインドーがあり、お兄ちゃんのやっし君の代になっていた。なっちゃんがまさか東京にいるとはつゆ知らず、夏の同窓会には不覚にも呼ばなかったのだが、お正月の同窓会で、なっちゃんとやっさんが会い、本日の東京版同窓会では、やっさんのおかげでわたしもなっちゃんとも再会できた。
 なっちゃんは今の彼女の年ぐらいの、わたしがよく知ってるおばちゃんと、瓜二つになっていた。つまり、とっても美しくなっていて、心も身体も丸くなっていたので、とっても嬉しかった。
 「うちは親父が厳しく、男性恐怖症なので、彼氏ができない」という言葉にもしみじみうなづける。あの親父さんはうちの親父並みに怖かった。なっちゃんは、あの親父さんにも負けない飲みっぷりだった。顔色も変えず、テンポも落とさず、ニコニコ笑いながらガンガン一気呑みをしていて、男子諸君もビビっていた。
 わたしはアルコールがダメな分、ひたすら食べてばかり。(わたしは昔から丸かったので許せる)お刺身や焼き豆腐など、なにかそういう《気の利いたもの》を友人たちはどんどん注文してくれ、「食べなさい、食べなさい」と言って、お皿を差し出す。

 タクちゃんがまた、いつものように横でニコニコしている。「んにゃ」の五段活用について講じている。夏には彼が一体どんな仕事をしているかさえ、ろくに話し合えなかったけれども、ようするに、彼は人に幸せをもたらすお仕事をしているとみた。昔から彼は世界中を笑いに巻き込んでいた。幸せクリエーターだった。
 こーちゃんも、死にそうなヤッさんも、楽しそうに笑っている。
夏には会えなかったフッガにも、高校卒業ぶりだった。彼はわたしの人生の中で最も暗い「自転車小屋での涙のわかれ」に関わっている重要人物なので、会ったら泣いてしまうかも?と思っていたのだが、あまりにも「昨日も会ったよね?」というような雰囲気だったために、感動の再会シーンを逃してしまった。
 「ビョーキ移るから触らない方がいい」というキモチも、ちっとはあったのかもしれないが、うわさで聞いていたようなビョー的な雰囲気はなかったのに、ただただ緊張してしまった。フッガがトーキョー弁を話していたからだろうか。
明日また会えたら、この緊張はなくなっているだろう。

 3次会から合流して来たピース・クボタ氏と、クマさんは、なんとわたしを差し置いてポリスの東京ドームライブを経由して来たのだった。帰国前からピース氏にいっしょに行こうよと誘われて、一時はすっかりその気になっていたものの、最後に残っていた入場料の1万円と、それに行くことで起こる東京プラス1泊を考え、その分で子どもたちにどれだけお土産を増やせるかな〜と、テンションが落ちた。でも、待望のピース氏編集のポリス本をプレゼントしてもらったので、それにサインしてもらった。
(かばんにミーさんのサインペンが入っていたので助かった〜)

 クマさんとは、88年の終わりか89年の始め、スティングの東京ドームライブに2人で行った。そのしばらく前に、渋谷の書店でレジを打っていたわたしに、「エンドーさん、何してんノオ?」と素っ頓狂な声を挙げて呼んだ彼。当時本屋のバイトはフルで働いても時給340円か430円で(あまりに昔のことで忘れた)、7000円のチケットを買うために、貧困な数週間を過ごした。スティングのライブ以来すっかり音信不通となっていたのに、またこおんな所で再会できるとは面白い。クマさんは、ポリスの再編成ライブには、奥さんと行ったそうだ。このメンバーで、バレンタインデーに、奥さんあるいは彼女と過ごしたのは彼のみ。
 2人は「最初の3曲でもう泣きそうだった。みのりちゃん、外したよ」とずうっと言っていて、悔しかったあ〜。

 そろそろ終電がなくなる頃。
タクちゃんとこーちゃんは横浜まで帰らなきゃイケナイのに、居酒屋でうろうろしている。大丈夫だろうか?こーちゃんは、いつの間にか居酒屋のベンチみたいな硬い椅子に、ドターと寝てしまった。呑んでるのはクマさんとピース氏だけで、タクちゃんは食べもせずにニコニコ笑っている。そして、ハシゴするたびに支払いはタクちゃんがしてくれ、タクちゃんはみんなのことを上手の褒め、デパートでのスリの捕まえ方などを教えてくれた。すごく面白いお話だった。

 今年は男子は厄払いをする歳で、お正月に指宿で厄払いも兼ねて、男子だけの中学同窓会があった。でも、東京のみんなはお正月に指宿まで帰ることができなかった。
タクちゃんが「ぼくは厄年じゃなくても、毎年厄払いをしてるんだけど、今年はやらなかったんだよね」とニコニコして言う。
「今からでも行かなきゃね、って言ってたら、実家から電話来てさ。親父が病気かもって言うんだよ」
ちょっと笑おうとしてるけど、もう冗談ではすまされなくなってしまった。
 わたしは「こりゃまずい」と思った。そういうことには詳しいこーちゃんも、言葉を失っていた。
「ぼくの厄を親父に回しちゃったかな?」
ほら、来た。これはまずい。非常によくない。

 タクちゃんは、こーちゃんやその他の同級生たちと同じで、常に、家族のことを思っている。できるだけ帰ってあげたいと思っているし、歳とって来た親のことを、いつも心配している。そこへきて「厄払いをやらなかった時に限って」というような本日の状況で、親父さんが病気になってしまったら、絶対に彼は自分のことが許せないに違いないのだ。
 その時にはわたしには何も言えなかったけれども、その時からずっとタクちゃんのお父さんのことを考えた。

 私たちの親は、もう70歳前後だ。おじいさんだ。子供会やPTAで顔なじみだったおじさんたちの中にも、もう会えなくなってしまった人がいっぱいいる。だから、きっと《みんな》そのうちガタが来る。今後ますます弱って来るに違いない。でも、タクちゃんのお父さんは、今日、この日に、病気になってはいけない、と思った。そんなことをしたら、お父さん思いのタクちゃんは、ずっと後悔するに決まっているので、それは友人としては困る。とりあえずは今のところ元気になっていただいて、反省しているタクちゃんが、親孝行に励む機会を与えてあげて欲しいと思った。

 タクちゃんと東京でお別れする時には、大したことを言ってあげられなかったけれども、こーちゃんやみんなが力になってくれるだろう。この《病気かも?》事件を境に、びびったタクちゃんが反省して、もっと頻繁に指宿に帰ってあげるようになったらいいな、と思った。そうして、わたしもとっても反省した。急いで指宿に帰りたくなった。

 東京にいたら、《明日》には指宿に帰れるから、いいなあ〜。
と言ってる間に、夜が明けて、あらあら、《今日》になっていた。

こーちゃんとタクちゃんは、横浜に向けて帰って行った。あのスーツで、そのままお仕事なんだろうか?
 わたしはクマさんと同じ電車に乗り、クマさんにいつかフランスで個展をやってねと懇願し、フランスでどんなアートが流行っているかの話をした。こんなシャイなクマさんも、いつか世界に羽ばたくかも?
 やっさんが品川のホテルで落ち合って、いっしょにごはんを食べて、羽田に送ってあげるよと言ってくれたので、とっても安心。
「また近いうちに会おうね」と言って、《来週》にでも会うようなお別れだった。
《来週》もみんなに会いたいなあ。

朝帰りのわたしにもホテルの人はとっても親切。ゆっくりお風呂に入って、荷造りして10時まで寝た。
  

2月14日 バレンタイン・デーのお別れ

 《ミー》さんとの、最後の朝食である。もう帰るだけなので、話し合うことはない。いちおう反省会みたいなことをやって、「あ〜時差ボケがどうにか楽になって来たばかりなのに。。。」とつぶやく《ミー》さん。《ミー》さんにはこの東京での三日間に、説教ばかりされていた。
 わたしが、日本男児たちに、ヘ〜〜コラして、言うことを「ハイハイ」と聞き、遣われてるだけ遣われてるんじゃないかと、心配している。わたしは日本にただで帰って来れるだけで嬉しいし、高級なホテルに泊まり、運転手さんもボーイさんもつきっきりで、星付きのレストランにも行き、《ミー》さんと歩いているとよくスイーツの試食もできるし、チョコレートのことも訊けるし、けっこう楽しいのだ。いちおう、日本に帰るからには、鹿児島まで往復し、おいしい物を食べ、お土産を買って帰れるぐらいの報酬があれば、言うことはあまりないと思っていた。
 でも、夏に帰国してから、また冬に戻って来るまでには、いろいろと準備もあった。日本やスイスから何度も電話が鳴ったし、百貨店の人がフランスに来たり、テレビ取材もあったり、この仕事関連の翻訳をやったり、アルビまで走ったりもして、《ミー》さんは、そういうアフターサービスみたいなことを、何でもかんでも簡単に引き受けちゃイケナイと言う。もっとプロ意識を持って、要求するべきこと、主張するべきことを適度に行い、その代わりもっと勉強しなきゃいけないと言う。でも接待の時にはちゃんと報酬もらったし。

 そんなに主張のない《ハイハイ・オンナ》に見えるんだろうか?わたし。

 コーヒーのお替わりがやって来て、「そろそろ行こうか」と言ったミーさんの視線が、わたしを突っ切って、後ろの窓の外の一点で止まっている。
 「見間違いじゃないよな?」
指差す方向を振り返ると、ロープに身体を縛り付けてるお兄さんが、ビルの15階ぐらいにぶら下がっている。
 「窓ふきですよ」
 「ウソだろう?信じられん。」
言ってる間に、お兄さんはヒュルル〜〜と、滑って、息をのんでるミーさんに見せつけるかのように、10階ぐらい下まで飛び降りて行った。。。。
 「行こうか。。。信じられん。。。ウソだろう。。。」
まだ言ってる。

 本日の運転手は《あー》さん。白い手袋も帽子もなし。でも、すごいカーナビがある。料金所で遮断機が勝手に開く、リモコンもついている。《ミー》さんを時間よりも早く空港に送り、夏ほどの感動はなく、「じゃあまたね」と言ってお別れした。《あー》さんを刺激しちゃ悪いので、お別れのキスもなし〜。

 さあ、お楽しみ。お昼は《あー》さんがきつねうどんを食べに連れて行ってくれる約束だったのだっ。奥さまと美人秘書と合流。銀座のうどん屋さんに入った。おひなさんが飾ってあった。お昼どきで人がいっぱい。みんなズルズルと激しい音を立てていた。《あー》さんに「うどんは音を立ててもいいんですよ。」と、まるでガイジンに対しての解説みたいなことを言われたけど、わたしは昔からうどんもラーメンも、あまり音を立てないほう。猫舌なので、熱いのをつるっと、景気よく食べることができず、ちびちび口にたぐり寄せなきゃならないのだ。ああみっともない。炊き込みごはんまで食べた。

 デザートは、近くの《スギノ・イデミ》さんのケーキ屋さんへ。ルレ・デセールの方で、もちろんケーキは午前中のうちに完売だった。午後のティールームにはいくつかケーキが残っているらしいので、私たちは種類の違うケーキを頼んでみた。夏に《ミー》さんと来たエンドーですと自己紹介をしたら、メール交換をしたことのある奥さまは覚えていてくださった。《ミー》さんちの宣伝ポスターをプレゼントして、いっしょにご挨拶できなかったことをお詫びした。

 さあ、《あー》さんがホテルに送ってくださるそうだ。
「品川のラフォーレ東京です」と言うと、「ええ〜そんないい所?」とびっくりされた。友人のやっさんが、会社絡みで安く取ってくれたのだ。夏に泊まったホテルのそばだったが、ホテル自体も働いている人も、東横インよりははるかにちゃんとしていた。

 着替えをする前に、武蔵境から会いに来てくださった恩師のお嬢《てー》様と、ホテルのサロンでお茶した。てー様は、食べてみて、と言って《エコールクリオロ》というお店の《ジャパニーズセット》というチョコレートを持って来てくださった。ゆず味とか抹茶味のチョコレートだった。そのほかにも、おせんべいやいろんなおいしい物を持って来てくださった。
 武蔵境の仏壇に手を合わせに行けなかったのは、とっても残念だったけれども、ここで時間が稼げたおかげで、わたしはゆっくりシャワーを浴びて、友人たちとの待ち合わせにも余裕を持って支度することができた。

 風邪ひきで《死にそー》なやっさんが、仕事帰りにホテルまで迎えに来てくれた。わたしの赤っぽい帽子を見て「おお、フランス帰りっ」と言いながら頭を撫でた。
「エンドーさんって、こんなに小さかったっけ?」
言うなよ、それは。

 私たちは待ち合わせの東京駅のそばのレストランに向かった。長い夜の始まり。。。 

     続く

2008/03/13

2月13日 バレンタイン前夜

 バレンタイン前日だから、最後の修羅場を見に行けるかと思ったら、人生観を変えてしまった《あー》さんの新企画により「フリー」の日が設けられた。《あー》さんは本日も「金に糸目をつけるにゃ」との指示をうけているらしく、なななんと、丸1日プロの運転手を雇っていた。前日に「すごい運転手を雇いました」と言っていたので、《あー》さんのギャグで、きっと彼自身が、ご自分のホンダ(タクシーのおじさんよりもすごいカーナビ付き)に、白手袋で来るのかにゃ?と思っていた。
 そうしたら、冗談抜きで、白手袋に帽子まで頭に載せた、正真正銘のお抱え運転手さんであった〜〜。

 開けられたドアを先に入るのは、大統領のミーさんではなく、いつも、付き人のわたし。
それを見て、日本男児たちは、目を丸くし「ミーさんどうぞ」と嫌味にもワタシに向かって言う。
それでも、タクシーに乗る時には、まず、わたしから乗らねばならない。

 夏に帰国した時、いきなり日本人化してしまったわたしは、ミーさんの3歩後ろを歩き、タクシーに乗る時もエレベーターの前でも、まずミーさんに譲っていた。「どうぞ」という滑らかな手の合図まで添えて。
そうしたら、2日目の朝にミーさんがキレた。

 「あー、もー、やめてくれっ!エレベーターには先に乗れって言ってるだろー。オトコの親切を無駄にしちゃあイケナイ。それに、タクシーの奥に乗るには、身体を折り曲げなきゃならないから、俺には苦痛なんだよ。あんたはチビなんだから、奥でも平気だろう。おっとそれから、後ろを歩くのだけはやめてくれ、観察されてるみたいで、ムズムズするんだっ」
 「キレた」という顔で振り向かれた時から、言われることぐらい想像できたので、わたしはいたって冷静。
「でも、ミーさんだって、後ろからジロジロ見てるじゃないですか、
モモのあたり」
「ぐっ」
と、いうわけで、この日から、わたしはせっせとミーさんにドアを勧められた。レディーファーストを装ってるけど、本当は身体を折り曲げたくないミーさんのせいで、日本男児たちから白い目で見られるのは、わたし。「さすがフランス人男性はマナーが素晴らしいですね」と褒められるのは、ミーさん。けっきょく、たびたび後ろを振り向きながら「今お尻見てなかったでしょーねっ?」と、いちいち言うのが面倒くさくなったので、ミーさんとはまるで商売敵のように、並んで歩くことにした。
 
 本日、ミーさんの予定。
(以下、都合により大幅に略しました)

 わたしがトトロのぬいぐるみを恨めしそうに見ていると、《ミーさん》から「それを二個持っておいで」と言われた。それをバラの包みでくるんでもらったあと、《ミー》さんはおもむろにサインペンを出し、「ノエミへ」「ゾエへ」と書き、慣れた手つきでメッセージとサインまでしてくれた。
「おうちでお利口さんに留守番してるからね。こんな包みで悪いけど」
いや、ほんと。あそこの店員さんは、ぬいぐるみもろくに包めなかった。

 ルレ・デセールの寺井さん(下落合)と、かつて指導した弟子の橋本望さん(世田谷・ミラベル)のお店に行く。
そして銀座の時計屋さんへ。娘さんが日本風のスウォッチを買って来てと頼んだそうなので(例えば文字盤が漢字とかの)。『ブレゲ』や『オメガ』などの時計屋さんがいっぱい入っている14階建てのビルで、一階の専用エレベーターに乗ると、お店に直通という。。。こんなんフランスにはないなあ〜。こんな時計屋さんに入るには、上から下までかっこ良くキメて、すでにすごい時計をはめてるか、《息をしてるだけで素敵と言われるフランス国籍のオトコ》でも連れていない限り、一生足を踏み入れることはないだろう。東京ってエ所には、「庶民」はいないんだろーか。《あー》さんは昔取った杵柄で、店員さんの代わりに《ミー》さんのパッケージを手際よく包んだ。おそらく時間が気になっていたのだろう。

 お昼はワイン・ビストロ《ル・プレヴェール Le pre verre》(神宮前五丁目)に連れて行ってもらった。フランスのビストロで食べているような雰囲気、おいしい食事のできるところ。ワインも、エスプレッソのコーヒーも本物だった。気軽に仏蘭西料理を楽しみたい人には、行ってもらいたいお店。にぎやかでマナーなんぞは気にしなくてもOK。《ミー》さんもご満悦のようだった。
 ここのビストロは、アルビのそばでワインを作っているプラジョルさんの紹介で予約してもらっていた。プラジョルさんは代々エリゼ宮にワインを卸していた方で、《ムスカデル》という白ワインはみちこ皇后の大のお気に入り。ワインに弱いわたしでも、この《ムスカデル》ならばいくらでも飲める。(でも日本では売ってない)
 

 夕食の前には、恒例となった《浅草》で、フランス人が喜びそうなものをいろいろ買った。夏に七福神の7分の2を買っていたミーさんは、同じ店を探し当てて、夏とは異なる7分の2を買っていた。

 ホテルに戻るまでに、タクシーのトランクの中は、紙袋でいっぱいになった。橋本さんの奥さまに、花束までもらってしまった。どうしたらいいんだ?
 運転手さんは、車が止まると風のように車を降りてドアを開けてくれ、目的地に一番近いところで私たちを降ろし、そこがどんな場所でもどこかに車を停めて待っていてくれた。時間通りに建物の前に迎えに来てくれ、またドアを開けては優しく閉めてくれた。言葉遣いは洗練された、美しい敬語ながらも、仰々しすぎない。
「運転手さん」という職業があることは知っていたけれども、こんなに気を遣い、頭を遣い、時間に正確で、町や道路を知り尽くしていて、そして、こんなに運転が上手とは、知らなかった。カーナビがあれば運転手をやれるってわけじゃないんだ。

 ホテルに荷物を置いて、いざ夕食。
(中略)

 無事終了。スーツケースをまとめなければ〜〜〜。花束どうしよう〜。