2010/06/26

乗馬クラブの発表会

ゾエの乗馬クラブで、夏休み前の発表会がおこなわれた。
スペインのにぎやかな音楽に合わせてポニーとダンス。
わたしは指圧の試験のためにパリに上京していたので、出発前夜にダッシュで衣装を作った。
スペインの音楽だったので、衣装はフラメンコ。



2010/06/17

三匹のこぶたプロジェクトの行方

 《三匹のこぶたプロジェクト》なるものをやっている。
子どもたちが授業の前後や、お昼休み、水曜日などに過ごす、日本で言ったら《学童》みたいな場所が、ジャン・ジョレス小学校の校内にあるのだが、このプレハブは築50年だか60年らしい。ものすごい代物だ。プレハブが60年もの耐久力を持つとは、考えもしなかった。普通は15年で壊すらしい。
 PTAのメンバーの中には、「長女が高校生」というような人も数人いるのだが、そのような人たちは「最低13年前から、プレハブ取り壊しを訴え続けている」と教えてくれた。

 三匹のこぶたプロジェクトのサイトは、全部フランス語だけど、よかったら写真をどうぞ。
http://tpc-nozomi.blogspot.com/

 市役所の人たちが、どうも動き出した気配。
何やら、流行にのって、しかも、国の補助を期待して、学校の屋根に太陽熱電池のパネルをつけるんだそうだ。いきなりエコロになったのだ。びっくりしたのもつかの間。この学校の屋根は、北に向いて傾いている片側斜面の屋根なので、パネルを取り付けるには、屋根の方角を換えるための、大工事が必要なんだそうだ。5百万ユーロぐらいかな?軽く。国からの補助の申し出が済んだところ。学校の屋根の修理と、それに合わせて学校内の耐熱とか防寒剤の取り替えなんかができるから、市はどうしても補助が欲しい。
 「ついでに《学童》の建て替えもやる」といえば、さらにプラスでお金をいっぱいもらえるらしいので、補助をもらうためだけに《建て替える》と言ってるだけで、べつに、わたしたちの訴えが実を結んで、必要なものを全部取り付けた、近代的で効率の良い《学童》を造ってやるとか、そういうことはない。
 「欲しけりゃ造ってやるよ。でも、お金が掛からない方法で。もらったお金はほかに回すんだから。」ということらしい。それで、今ある建物の一部にくっつける形で、屋根の下にプレハブを押し込むような。。。なんともまあ、《トウシロ》的なプロジェクトが発表されてしまった。

 市長さんのご招待を受けて、《プロジェクトの見直しのための会議》っていうのがあるというので、化粧までして行ってみたら、市長はもちろん欠席で、しかも、このプロジェクトはすでに《決定》しており《議論の余地なし》なのだそうだ。

 関係者は「相談もなく、わたしたちの都合も関係なく、そんな決定をしたのか!?」と、怒りまくっている。もちろんPTAも、開いた口がふさがらない。しかも、冬の間に市役所の各役員に出しておいた《要望書》に関しては、「受け取ってない」などと言うので、堪忍袋の緒が切れた。ママさんたちはキレたら怖いんだぞ〜。市役所の議員さん十人に出して、一人はちゃんと返事くれてるのに、肝心な教育委員会と、建設に関する役員さんは、「そんな要望書受け取ってないから〜。必要っていう必要もないんだな〜と思って、勝手に決めました〜」などと平気な顔で言う。それでいて、PTAの会議の時には、「まだ決定してないし、アイディアが出ただけで、これから詰めていくので」と言い続けていたから、ママさんたちは大いにこの市長との会議に期待を掛けていたのだっ!!
 困るんだよなあ。時間を掛けて造った要望書だったのに、読んでないって!?わざわざ市役所まで行って受付のおばさんに手渡しし、それでも心配だったから、メールでも送ったのにねえ。困るわねえ。

 けっきょく、PTAの圧倒的なパワーで、
「いや、まだ、決定決定というわけではないだろうし、いちおう要望だけは聞いても損はないし。。。」とまで言わせた。なので、学童の職員さんと、ジャン・ジョレス小学校の校長先生は、あらためて市長さんからご招待を受けるそうだ。
 市長さんの会議なのに、市長さんは来るか、来ないか、不明。。。。やだね〜。

 わたしでも聞き取れることを「聞いてないし〜」などとすっとぼける。このわたしだってさっと書き留められるようなことを、メモしないし、それでいて「忘れた」とか「記録が残ってない」とか、平気な顔で言える辺り、カーモーの人だよね〜と思う。

2010/06/14

試験勉強

 お勉強に精だしている。
もうすぐ指圧師の試験があるので、解剖学やら、中国医学の五行やら、いろいろと忙しいのだ。でも、なんと言っても大変なのは、《卒業論文》で、三回の診療所での研修と、パリの本部診療所での実習で学んだこと、感じたことなどを書けと言われていた。
量はどのくらいですかという質問に、
「だいたい15ページぐらかな?」
そんな簡単に言わないでほしいのよお〜。

そりゃあ、わたしは、だらだら書くのが好きなオンナだ。手書きの手紙も、まあ、気分が乗りさえすれば、相手にもよりますが、10まいぐらいは書くこともある。書くのはぜんぜんしんどくない。ネタさえあれば。

 ネタというのは、湧いてくる。探しても見つからない。いつの間にかその辺に転がっている。ネタがあっても、気分が乗らないと文にはならない。台所やトイレやお風呂。ボボの散歩の時や買い物してる時や、そうそう、車を運転している時などは特に、ネタを組み立てている。だいたいいつも、台所やトイレや風呂で、そして散歩、買い物、運転してる時に、いきなりネタを思いついて、そうすると、一日中なにをやっていても、「さて、このネタをどうやって書こうか」ということを考えている。

 パリの診療所研修で暇だったので、じゃんじゃん書いた。10ページぐらいあっという間に書けた。でも、帰って来てパソコンできれいに打ったら、たったの5ページにしかならずがっかりした。それで、習ったことをだらだらと並べて、それらについていちいち「こう思いました」などと書き添え、ついに18ページになった。
「提出する前に、あんた、ちょっとフランス語の悪いところを訂正してちょーだい」とJPに押し付けたら、これがまた、全然進まなかった。もういい加減提出しないと、そのせいで試験に合格できないよ、という時期に入ってしまったので、JPのお尻を叩いて、先ほどまでやらせて、ついさっき終わった。いくら頼んでもだらだらしてた。ふむとか、いや〜とか、そればっかりで。よっぽどわたしのフランス語がひどかったんだろう。

 フランス剣道連盟のサイトでも、「日本語で剣道を」っていう記事を書いている。読み直すと、かなりひどい。でも、友人たちに「ちょっと訂正してよ」と言っても、「いかにもみのりが書いたっていう感じが、方言で喋ってるような雰囲気が醸し出せてよろしい」とか言われ、だれも書き直してくれない。すでに10回を超えるので、あと20回ぐらい記事ができたら、本にしようという企画まである。挿絵画家までもう決まってる。なので、9回と10回はさすがに恥ずかしく、ノエミに読み直しをしてもらってから送っている。

 さて、ぐずぐず言われながらも、JPが「読み直して、書き直したよ」というので、わたしはもう読み直しも書き直しもせず、プリントアウトして、綴じた。明日パリに送る。

 年度末が近づいてるぜ〜〜という雰囲気が出てきた。試験、早く終わってほしい。ついでにちゃんと資格ももらえたらねえ。

 今年も夏の剣道合宿に参加する。日本から知り合いの剣道の先生を招待した。みんなと先生が英語で話すのについて行かねばならぬかと思い、英語の復習をしている。英語力、めちゃめちゃで先が思いやられる。

 43にもなって、こんなに勉強するとは、思ってもいなかった。
アタマ、ガチガチ。カラダ、ガクガク。
 

2010/05/31

パリへ

 指圧の診療所研修のために、パリに行っていた。ゼネストの影響でどうなることやらと思ったが、予約していたTGVの席が無かったこと以外は問題なく、時間通りにパリにたどり着けた。子どもが学校に行かない平日に家を留守にするのはどうかと思っていたのだが、ストの日はJPも家に居るので大助かり。カーモーからアルビまでの電車は無かったので、アルビまで自動車で送ってもらえた。
 
 電車で、解剖学などの復習を。疲れてくると車窓をながめる。フランスは広いのだなあ〜。どこまで行ってもこんな風景。パリ到着の三十分地点まで、ずうっとこんな風景。7時間以上掛かった。でもあまり疲れなかった。


 夏に知り合った剣道の友だちの、お母さんの家に泊めてもらうことになっていた。バスティーユ広場のすぐ近くで、オペラ・バスティーユの前には、ストをやっている労働組合の人たちが集まって、大騒ぎをやっていた。いつも通りの風景、らしい。

 

 パリに到着した木曜日の晩には、指圧の先生に、ちゃんと50ユーロも払って指圧をやってもらった。実習は金曜日と土曜日。金曜日は患者さんが大変多く、わたしには指圧の現場を見学することは許されていないので、先生ばかりが忙しく、わたしは何もやることがなかった。患者さんにお茶を出し、ちょっとおしゃべりにつきあい、電話の応対をし、パンフレットなどを折ったりして過ごした。
 夜には剣道の友達と集まって、お好み焼きと、カレーライスと、豚カツを食べに行った。



 土曜日。
午前中は一人しか患者さんが来ないというので、まず掃除機を掛け、それから、先生がモルモットになって実験台に上がった。わたしの指圧の腕前を披露。ちょっと訂正するところがあって、そのあと患者さんがやって来た。わたしの実験台になってくれる、本物の患者さんだ。でもじつは、先生のお友だちで、彼女自身指圧を習っている人だった。だから、わたしが変なことをやると指摘される。要領がわかっているので、自分で向きを変えてくれたりもする。
お昼は三人で、合気柔術の稽古に出かけた。

道場の前に着いた時、玄関のドアに《居合道フランス全国大会》という大きなチラシが見えたので、ドキドキした。全国大会だったら、絶対にソバージュさんが来ていると思ったからだ。ソバージュさんは、恩師の佐藤先生が《フランスの弟》と呼んでいた人で、彼が七段に合格した時も、佐藤先生のお宅の道場で稽古してから試験に臨んだのだ。身体の小さな人で、恥ずかしがりやで、声は小さく、普段着の時にはときどきどもる。でも、居合道の着物を着ている時には、とっても大きく見える。フランスで一番居合道の上手な人だ。去年からは居合道協会の会長さんをしている。
 合気柔術の稽古が終わってから、居合道大会をやっているところをのぞきに行ったら、玄関のところにソバージュさんが立っていた。居合道の大会は中断されていて、お昼ごはんの最中だった。審判の人たちは体育館の真ん中にテーブルを出してお弁当を食べているところで、参加者たちは、体育館のひな壇席でサンドイッチなどを食べていた。体育館の中はシーンとしていた。
 ソバージュさんはお昼を食べない人なので、体育館の入り口付近でうろうろしながら、挨拶に来る人たちと言葉を交わしたり、参加者の質問に答えているところだったのだ。
 わたしの顔を見るなり、ニコニコマークみたいに目を小さくして、口を耳元まで緩ませる。
「あ、妹が来たので、ちょっとごめんね」
と言うと、人をかき分けてわたしのところにやって来た。シーンとした体育館の、みんなが見ている前で、ソバージュさんはわたしを抱きしめた。ずいぶんと、ずいぶんと長い間、彼はわたしを強く抱きしめて、わたしたちは肩を揺らしながらその場所に立ちすくんでいた。
 ソバージュさんに指圧の実習に来ていると言ったら、ちょっと腕を揉んでくれと言う。それだったら、わたしの先生に頼みましょうと、まだ着替えを終わらせていないわたしの指圧の先生のところに連れて行った。
 ソバージュさんは、「わたし、みのりの兄です」と深々と挨拶をし、自分で腕を痛めていることを説明した。指圧の先生はさっさと手ぬぐいを取りに走って、ソバージュさんの腕に指圧を施し始めた。
 
 そのあと、わたしたちはまた肩を抱き合って居合道の道場の方に戻り、新学期には、わたしの道場にも来てくださいと言ったあと、また長い間抱きしめ合ってお別れした。わたしのあごはソバージュさんの肩に乗っかる。こんなにぴったりサイズに抱き合える男性は、フランスではこの人ぐらいだろう。そして、こんなにすばらしく羽織袴と白足袋に草履が似合うフランス人の男性も、この人しかいない。

 合気柔術のみんなと中華を食べ、先生とわたしはまた診療所に戻り、午後には先生は二人の患者さんの指圧を行い、わたしは指圧に使う手ぬぐいにアイロンをかけた。最後にまたわたしの指圧の復習をやって、ずいぶん褒められ、とってもよい実習生だったと言っていただき、プレゼントまでもらってお別れした。

 剣道の友だちが昨日に引き続きまた電話してね、また食べようねと言ってくれていたのだけれども、最後の夜こそは地下鉄の駅を抜けて、地上に出たかった。そして、どうしてもパリの街を一人で歩きたかったので、もうだれにも電話しなかった。



 冷たい雨が降る、風の強いパリの、セーヌ川のほとりを歩いた。人びとは冬の服にコートとブーツの装いで、まるで秋のパリに来ているようだった。今年出版される翻訳の本の舞台となっている、コンコルド広場のオベリスクや、ルーブル美術館の写真を撮った。帰ったら、この本のゲラをちゃんともう一回読み直して、大阪の出版社に最後の提出をする。今は挿絵画家さんががんばってくださっている。
 
 土曜日の夜には、夜行に乗ってカーモーに向かった。日曜日は母の日なので、子どもたちが待っていた。

2010/05/30

パリの風景

         ルーブル美術館のピラミッド


          オルセー美術館


          コンコルド広場のオベリスク   


         国会議事堂の向こう側に飛び出ていたエッフェル塔 


           セーヌ河畔の本屋さん 


       バスから見えてた。。。なんだったかなあ〜?

2010/05/09

剣道のことをちょいと。。。

 剣道は中学と高校の時に、学校の部活でやっていた。中学に入ったら剣道クラブに入るんだと心に決めていた。仲良しの友達数人もいっしょに入った。その中でずっと前から心に決めていたのは、友達よりもわたしだったのに、友達の方が上達が早かった。その時の仲間で、高校に行ってからも続けたのはわたしだけで、多分それは、続けたら辞めたあの子たちよりも上手になれるかもしれないと思ったのだろうし、続けることに意義があるんだとか、一回始めたことは続けるべきなんだとか。。。辞めないということに誇りを覚えたものか。。。どうもよく覚えていないし、上手に表現できないけれども、とにかく高校でも続けた。高校では「なんでやってるんだろう」と思いながらやってた。そんな熱血というわけではなかった。
 短大の時には学校に剣道部がなかったので、町の道場に通っていた。ニューカレドニアで働き始めてすぐに、ここでもまた剣道を再開した。だから、剣道は大人になってからもずっと続けていて、18年ぐらい高校でもらった三段のままだったけど、10年ぐらい前にフランスで四段をもらって、このごろははやく五段を受けなさいとみんなに言われている。
 フランスの田舎では二段以上となると人口が急激に減るので、四段というともう上座に座らされることが多い。ストレス感じるのだ。日本人だし、経歴だけは長いので、あちこちで責任持たされる。

 今では「あんまり剣道ばっかりやってると、ダンナに見捨てられるよ」と言われることもあるが、昔は、「剣道ばっかりやってると、彼に逃げられるよ」と言われ、ほんとうに逃げられたのだから、用心に越したことはない。でも、剣道のせいで誰かに見捨てられるぐらいだったら、それはそれまでの人間関係だったのだろうと思う。剣道のせいじゃなかったと思う。

 わたし、剣道の友だちには、いつも、どこに行っても、どんなに遠く離れていても、ずっと会っていなくても、どんなに大変な時でも、見捨てられたことはない。剣道のおかげでJPにも会えたのだから、剣道のせいでJPに見捨てられることはないだろう。

 とにかく外に出る時には、家の中のことをちゃんとやってから出かけている。
と、思う。

 ことし通っているアルビのクラブには、来年はもう行かないことにした。指導の内容と、練習の仕方と、時間的なこと、経済なこと、いろんな理由から、辞めた方がいいことに気づいたから。不満を募らせながら、ストレスを溜めながら、だらだらとやるべきじゃないとわかったので。
 今年はいろんな講習会に参加した。たくさんの人に会った。たくさんのよい先生方にお会いできた。それで、来年度もまた、いろんなところの様々な先生方の講習会に参加して、アルビでは習えないことをいっぱい習いたい。そして、たくさんの友達の応援と声援とアドバイスで、カーモーに剣道クラブを作ったらいいじゃんということになって、じつはもうその方向で動き始めている。

 カーモーにはすばらしくモダンで巨大な市立の体育館があり、そこでは柔道や空手の稽古も行われているので、体育館を借りれないかと思って市役所に掛け合った。けっきょく、体育館の使用に関してはもういっぱいで、新しいクラブは受け入れられないと言われた。
市の職員さんはとても熱心に話を聞いてくれて、誠実に申し訳ないと思っていることがよくわかった。いずれにせよ期待していたバスケット場は板の床ではなくて、セメントにゴムを敷いた今はやりの体育館だったので、こっちからお断りだったのだ。

 市役所の人が、町の私立のジムを紹介してくれたので、市役所を出てまっすぐ行ってみた。ジムのおじさんもとっても親切な人で、ダンスの教室を見せてくれた。そこは一面が鏡になっている板の床で、とてもよかったのだが、朝の10-12時と午後の14-16時しか開いてないと言う。そんな時間帯に剣道の稽古に来れるのは専業主婦ぐらいなので、カーモーじゃわたしだけってことになるだろう。

 別れ際におじさんが、「ちょ、ちょっと待って。今いいこと思いついた」と叫んだ。
なんと、我が家から200メートルのところに、二年前に営業を中止したダンス教室があるという。そこの教室を貸してもらったら?というので、そのまままっすぐダンス教室のある建物まで行った。同じ建物の一階には、血液などの医療検査をするラボがある。ラボの人に建物の所有者はだれですかと尋ねたら、Dr.マッシェだと言う。

 Dr.マッシェというのは、ラボのすぐそばで耳鼻科を開業しているお医者さんで、前にわたしの耳から大きな塊を掘り出した、あの怖い先生だ。勇気を出して行ってみた。
 「あそこの建物を借りる件で。。。」と言ったら、ニコニコして、
「あの建物は母のものだから、訊いてあげる」といい、さっそく白衣のまま裏口から出て、ラボの前を通って、隣のお母さんの家の裏側に連れて行かれた。
 
 白衣を着た、怖い顔でいい歳したDr.マッシェが、
「ママン!ママ〜ン!お客さんだよ〜」
と言って叫んでいる姿が、かわいらしかったのだが、肝心のお母様はいらっしゃらなかった。犬の散歩だろうというので外で待っていたけど、いくら待っても帰ってこない。しばらくすると、Dr.マッシェのお母さんにしては若すぎる、きれいな女の人がやってきて、裏口から入ろうとするので、声を掛けて、じつはマダムマッシェを待ってると事情を伝えた。彼女は誰もいない家の中に入って、ダンス教室の建物の鍵を探し出してくれ、建物の中を見学させてもらえることになった。

 その建物は三階建てで、一階の半分だけがラボとして使われているものの、二階の全面と三階の半分は空っぽのすっからかんの、ほんとうになんにもない、不思議な建物だった。三階に着くと、奥にきらびやかな部屋が見えた。誇りまみれの倉庫のような空っぽの建物の中にいきなり現れた、光のあふれるダンス用の教室だった。大きな鏡が壁の一面にあって探し求めた木の床。木の床は100平方メートル以上はあるだろう。わたしのフランスの剣道の友だちだったら、みんなが声を揃えて
「夢のような道場」
とため息をつくに決まってる。全国の剣道仲間がこぞって遊びにきてくれるに違いない。
日本からも先生たちを招待しよう、このカーモーに。

 来年は、剣道の指導者資格の国家試験を受ける。八年前に受講していたのを、妊娠しちゃったせいで中断したあの試験だ。これがあれば公に自分のクラブを開くことができる。ちゃんと教えることができる。
 クラブを設立したり、宣伝して人を集めたり、場所を借りたり。。。途方もない大仕事が待っている。剣道連盟の経済的援助願いを出したり、やることがいっぱいあるのだが、家賃が高かったら、わたしにはどうしようもない。家賃については月曜日に返事をもらえることになっている。どうなるか。

 今年この建物が借りれなかったら、とりあえず当初の予定通り、いろんな場所の講習会に参加して、指導者講習会を受けて。。。修行を続ける。クラブはなくても剣道はできる。

 でも、いい場所があったら、もっといい稽古ができるんだがな〜と。。。夢見ている。

 
 これからまた、いろんな友達に助けてもらう。家族にも協力してもらわなければならない。

2010/04/30

むしゃくしゃしながら武者修行

 母に電話したら、自宅の電話が携帯に転送され、
「グランドゴルフの最中で、友達が待っているから、あとで掛け直してよ」
と言われた。こういうときわたしはうれしくなる。
 健康食品を買った、旅行に行った、グランドゴルフのあとの打ち上げにも参加してカラオケもやったとか、また友達と旅行を計画している、中学校の同窓会の役員ではまっている。。。そういうのを聞くと、とってもうれしい。

 母が今のわたしの年齢のころ、子どもたちの学校のことにも熱心に参加しているのを見ていたし、家族であちこち出かけたり、人がちょくちょくやってくるような家だったので、毎日慌ただしい姿を見てはいたけれども、自分の楽しみだけのために、時間も気にせずに出かけたり、自分一人のために好きなものを買ったりする母は見たことはなかった。一人暮らしになってようやく一人の楽しい時間の見つけ方も覚えたらしいのを見ると、とってもうれしい。
 そして、四・五十代には付き合いの薄かった小学校や中学校の友人たちと集まって、こんどはいっしょに歳をとって行こうねと誓い合って仲良くしている姿も、うらやましいというか、頼もしいというか、すごいことだなあと思う。

 母にフラレタあと、「いっしょに歳をとって行こうね」と誓い合っている、フランスの貴重な友《とし》に電話した。彼女も誕生日だったので。毎年必ず電話で「おめでとう」を忘れない友達で、毎年必ず直接「おめでとう」と言ってくれる友達だ。《とし》は、うちの母とは違って「掛け直すから」と言ったらがちゃんと電話を切り、その言葉通りすぐに掛け直してくれる。そして、わたしたちは二時間近くもおしゃべりをした。

 としの電話を置いたら、入れ替わりでアルビの友達からの電話も鳴って、彼女とは仕事の話やインターネットのことや、夢や健康の話を一時間ばかりした。彼女がちょっとした病欠で仕事を休んでいたおかげで、きのうは長話をすることができたけど、普段は働いている人なのでなかなか会うことも話をすることもない。一番近くに住んでいる友達なのに。病欠は困るので早く元気になってもらいたいけれども、もっとおしゃべりをする時間もほしいなと思った。

 お昼過ぎに母に電話をして、1時間ぐらいおしゃべりをした。そのあとノエミから電話が来て、ノートを忘れたと言うのでキレた。ノエミのノートを届けるついでに、事務所に行って、特別にロッカーをもらえないかと相談した。
 じつは春休み中に背中が痛いと言うので、もともと脚が曲がってるせいと姿勢が悪いせいだろうと思い、ジェネラリストでキネに行くための手紙を書いてもらおうと思って連れて行ったのだ。そうしたら、側わん症という背骨が曲がっている病気が見つかったのだ。もうこれからは重いかばんを一日中背負って過ごすのを黙って見ていることはできない。

 中学生はアメリカ映画で見かけるようなロッカーを持たされて、一日に使う道具をそこに片付けることができるのだが、ノエミの学校ではロッカーが足りないので、三年目と四年目の子どもたちは今年からロッカーを与えられなかった。ロッカーのない子どもたちは朝持って出かけた道具一式約12-3キロを一日中背負って過ごすことになる。ノエミは行き帰りも徒歩通学なので、朝七時半に家を出る時から夕方五時に戻ってくる時まで、そのかばんとつきあっている。

 骨が曲がってしまうのがかばんのせいではなくても、曲がっている骨のレントゲン写真を見てしまった親だったら、だれだって黙っていることはできないだろう。それで自動車を廃車にすると言っていたJPを説得し、送り迎えにも自動車を使うことをわたしが決めた。だって、わたしにはそのかばんを持ってあげて、歩いて学校までいっしょに行ってあげることは到底無理なので。じつはこれまでもJPには内緒で、かばんの重い日に限りノエミを送ってあげていた。



 さて、今週はずっと友達の子どもまで預かっていた。朝ごはんと昼ごはんを食べさせて、送り迎えをしてあげなければならなかった。うちの子たちよりも小さいし、小さいのと自分の子供じゃないせいで、習慣の違いとか理解できない心のタイミングが見え隠れし、困らせられることもあった。よく考えたら小さいからしょうがないのに「ああ、なんでこんなこともわからないんだろう」とか「なんでこの子たちはわがままなんだろう」と思うことなどもあり、うちの子たちみたいに厳しく言ってしまうこともあった。うちで言ったことやあったことを自宅で親に話すのはもちろんいいのだけど、親にちゃんと伝わっていなかったり、間違って伝わっていたりして、あとで弁解したり言い訳する羽目になり、すごく不愉快になることもしばしば。この数週間子どもたちを預かったせいで、大の仲良しだったモーガンとの人間関係が、ぎくしゃくし始めている。

 以前から、いくら説明してもモーガンには、わたしは家にいるから仕事をしていないと思われている節があって、たとえば電話をとるたびに「寝てた〜?」と言われることや、「いま邪魔じゃないかな?」って訊くこともなく、相手はテレビ見ながらなにか食べている様子で、だらだらと世間話をするようなこともある。たまには「今シゴトしてたんだ」とか言ってみるのだけど、わたしの仕事っていうのはあまりよく理解されていない。だから、子どもを預けるのはお金が掛かるとか、だれでも信用できないからとか、うちの子は小さいからとか(ゾエと同じ年なのに)言って、子どもをうちに連れて来られると、なんか、むしゃくしゃしてしまう。はじめはこんなに長く続くとは思ていなかったので、はっきり困るとは言えなかったし、どうせ家にいるんだからとお思って軽く請け負ってしまった自分も馬鹿だった。

 わたしにはそういう便利な人がいなかった。子どもたちを10ヶ月のころから預けて、泣かれても、泣きたくても、お金掛かっても、ちゃんと自分だけでやっていた。大変だった。だから友達が困っているなら協力してあげようと思ったけど、そうなのだ、こんなに長く続くとは思わなかった。自分は自分だけでやってきたという思いが強いせいか、困っている友達にも自分のことは自分でどうにかしてよと思うあたり、わたしは厳しいんだろう。友達甲斐がない。ああ、情けない。

 それで、いろいろ考えたら、友達に対して腹を立てているとか、友達のしつけが悪いと思っているとか。。。そういうことじゃなくて、わたし、小さな子供があまり好きじゃないのだと思う。優しいことも言えないし、甘やかせないし、わがままは許せないみたいだ。自分の子どもたちも、さっさと大きくなって、さっさと出て行ってくれと思ったりしている。その点わたしなんか二十歳まで親に飯を作らせ、二十歳過ぎても親にお金を借りていたので、ホントーにどうしようもない娘だなと思う。

 21歳で日本を出たわたしも43歳になった。これからどんどんフランスでの人生の方が長くなってしまう。