2014/03/31

キムラカヨコさんといろいろな色


トゥールーズのマタビオー駅のホームで、その春のコートを着た肌の美しい女性は、笑顔で駅員さんに何かを訊いていた。その女性の顔を見た瞬間に、この人が私と同じ電車に乗るのだと感じた。わたしはパリでの剣道講習会の帰りで、海外旅行にも持って行く、大きな赤いスーツケースを転がしていた。わたしはいつものように、かさばる荷物を持った人が座る専用の場所に陣取った。

 春のコートの女性は、わたしが国内旅行にさえ使わないほどの、小さな、でも丈夫そうな、真っ白いスーツケースを傍らに駐車し、通路の向かい側の、わたしの斜め前に腰をおろしてから、彼女を観察しているわたしに初めて気づいた。
「あ、日本の方ですか?」
と、美しい笑顔で、そして静かなトーンで言った。
「日本人ですけど、このへんに住んでいるんです。」
と応えた頃に、電車がアルビに向かって走り始めた。静かに微笑む女性は、きれいな形をしたそのあごを上向きにして、「その長いのは何ですか。」といたずらっ子のような目をして訊いた。静かなトーンだった。
「竹刀と木刀です。この週末、パリで剣道の講習会を受けてきたところなんです。」
金曜日から日曜日まで、パリで行われた講習会に参加した。ヨーロッパの広い地域に住む日本人の女性剣士だけ約三十人を集めたすごい講習会だった。月曜日に先生方とお別れし、仕事のために出版社に寄り、夜は剣道連盟の高段者合同稽古会に参加した、その翌日の火曜日に、わたしは駅のホームでその女性に会った。。。。わたしはきっとひどい顔をしていたのだけれども、彼女のキラキラ光る目は、そんなわたしの淀んだ目を浄化してくれるような力に満ちていた。パリでの講習会の前の週から、わたしはずっと講師の日本人の剣道の先生を自宅にお迎えしていて、トゥールーズの仲良し剣士の美恵子さんとともに、日本語を話し続けた約二週間のあとだったので、わたしのいつもの「日本人観光客恐怖症」が消えかけていたところだったことは、小さなスーツケースで旅行中の彼女にとっては、ラッキーだったかもしれない。わたしは観光客にはあまり声をかけないから。

 行き先はアルビだと言う。でも、泊まるだけで、翌日にはとんでもない田舎に向かう予定、バスでの行き方を教えてほしいと言われた。彼女の持っていた資料からは、何も教えてあげられることがなく、しかも、フランス暮らしの長いわたしからすると、絶対に無理っていうような旅程だった。アルビのは知っているホテルだったのでわたしがキャンセルし、我が家に泊まらせることにした。インターネットがあるから、調べ直して、翌日の旅程を一緒に考えましょうということになった。

 春色のコートの女性は、きれいな指で名刺を取り出し、自己紹介をしたけど、わたしにはすっかりその日本的な習慣が消えていて、自分の名前をいうのさえ忘れていた。彼女はわざと訊かなかったのか、どうでもよかったのか、こっちから言わないから余計訊けなかったのかわからないけれども、何分もあとでわたしがはっと気づいて、自分の名前を言うまで、わたしが何者で、どんなことをしていて、家族はどうで、家はどこでと。。。何も訊かなかった。

 わたしの引っ越したばかりの、壁にも窓にも何もかかっていない真っ白なアパートの一室に、キムラカヨコさん(仮名)のお部屋を作ってあげた。キムラカヨコさんは、Tシャツに着替えて、持っていたスリッパを履いてから、わたしのごちゃごちゃした居間にやってきた。わたしは巨大なスーツケースを開いて5日分の洗濯物や、汗に湿った防具をそのあたりに広げ、くさい剣道着をサロンのいすに引っ掛け始めた。それを見ながら、彼女はその美しい両手のひらに、グリーンとピンクのまだらになった不思議な色のバラをのせて、わたしの前に差し出した。
「ベル・ヴーっていうお花だそうです。」
「へー。きれいなあなた、っていう名前ね。」
私たちは台所をひっくり返して、その緑とピンクの不思議な色のバラに似合うような器を探したけど、たいしたものは見つからなかった。わたしはお花なんか買わないので、花瓶を持っていない。キムラカヨコさんはじつは日本の都会のお花屋さんだった。その「ベル・ヴー」を大切にスーツケースに入れて、その日そこに着くまでの間訪れていた南西フランスの小さな町から運んできた。

 翌日の水曜日の朝、わたしは生活保護の件でランデヴーがあったので、キムラカヨコさんをアルビの町に一人で置き去りにし、勝手にお散歩してもらうことにし、お昼前に彼女を拾って、コルドへ向かった。途中、アンティークショップを発見。私たちはありとあらゆる変なものを見て、ありとあらゆるおかしなものを買った。例えばハシゴとか。それでコルドまでは行く時間がなくなり、そのまま中学校にゾエを迎えに行くことになった。
 午後は日本語レッスンがあったので、またキムラカヨコさん一人をアルビに降ろし、午後は寮に入っているノエミを迎えに行ってから、四人でお茶した。ゾエもノエミも、わたしがキムラカヨコさんを連れて歩き回っているのを、あまり特別なことのように考えている様子ではなかった。わたしは「ごめんね、こんな人連れてきちゃって」とか、「お客さん来てるから静かにしてね」とかそんなことを一言も言わなかったし、子供たちは、どうしてわたしがそんな知らない人を家に連れてきたのか、どうしてそういうことになったのか、深く訊かなかった。わたしの説明はただ、
「トゥールーズの駅で偶然会って、なんとなく気があったので、家に連れてきた」
子供たちは「ふーん」といい、「一日しか居ないの?もっと居る?」と期待に満ちた様子で訊き、わたしが、今晩も泊めるからみんなでご飯食べられるよと言えば、わーいと声を上げて喜んだ。

その日、わたしは久しぶりに料理らしい料理もどきをし、キムラカヨコさんと子供たちは、家にある限りのろうそく立てを引っ張ってきて、キムラカヨコさんがスーツケースに入れて持ち歩いていたろうそく立てと一緒にテーブルの上に広げ、私たちはろうそくの明かりの中で、静かにご飯を食べた。レストランで流れるような品の良い音楽が流れていて、訊けば、キムラカヨコさんはそのCDを、あの小さなスーツケースの中に入れて運んできたらしい。子供たちがテーブルを離れて、薬草茶を煎れる頃に、私たちはお互いのことを話し始め、人生は短いとか、世界は小さいとか、食事の前にお祈りをしないんですねとか、お風呂に入りたいなあとか、そういう話をした。

長いこと留守にしていたので、返事を書くメールが溜まっていて、キムラカヨコさんをお風呂場に送り出したあと、わたしはパソコンの前に座った。それからいったい何時間すぎたものか。。。アパートの奥があまりにも静かなので、キムラカヨコさんがバスタブの中で死んでいるんじゃないかと思って、走って風呂場に行ったら、風呂場は空っぽで、キムラカヨコさんの部屋も真っ暗だった。寝室で死んでるかもしれないと、一瞬思ったけれども、面倒くさかったので、放っておいた。頭の片隅で「おやすみなさいも言わない客は初めてだ」とちょっと思ったけれども、なんだかとってもキムラカヨコさんらしいなあと思ったので、腹はたたなかった。
木曜日の朝はノエミを寮に連れて行き、ゾエを中学に送るので、朝早く起きなければならない。キムラカヨコさんはごそごそと起きてきた。髪の毛はちょっとだけはねていたけれども、美しい肌とキラキラ光る目は、昨日のキムラカヨコさんのままだった。
「昨日泊まったカルカソンヌのお城のそばのホテルは、何やら出てくるような気がして、苦しくて眠れなかったんですが、いや〜、ぐっすり眠れました。ありがとう」
と、ノエミと同じことを言った。確かに死んだみたいによく眠っていたようなので、よく眠ったんだろう。キムラカヨコさんの顔が輝いていたので、わたしも元気が出てきた。
「お風呂、入ってもいいですか〜。」
というので、お風呂に沈まないでね、と注意を促してから、わたしは子供たちを連れて外出した。帰ってきてから私たちは二人で音楽を聴きながら朝食をとり、キムラカヨコさんはお風呂に入った。いくらたっても出てこないので、彼女の乗る電車の時間が気になりだしたわたしは、ちょっとそわそわし始めた。
「お風呂の中で寝てしまった。。。」
そんなに眠れるなら、本当に居心地がよかったんだろう。私は動作の裏に隠れる真実を推測するのが好きだ。JPはいくらおいしいものを作ってもおいしいとか言わないが、おいしい時にはあっという間に食べる。コミュニケーションができない人と十八年も暮らしたら、まあ、仕草から心を読み取る技ぐらい身に付くということなのか。
けっきょく、キムラカヨコさんは、予定していた電車に乗り遅れ、わたしが一番近い駅まで送って行った。さすがのキムラカヨコさんも、かなり恐縮してしまっていて、かわいそうなぐらいだった。
ロデツ駅の前のバーでお昼ご飯をごちそうしてくれると言っていたけれども、その翌日にはまたアルプス地方での剣道講習会に出発する予定になっていたわたしには、やることがありすぎて、一分でも無駄にしたくないぐらいで、キムラカヨコさんがお家に居ないとなると、やるべきことへの現実に引き戻されるということで、そうしたかった訳ではないけれども、キムラカヨコさんが去って行くのはあまり見たいと思わなかった。

わたしはキムラカヨコさんを強く抱きしめて、また会う約束をして、後ろも見ないで車を走らせ、真っ白い壁の広いアパートに戻ってきた。
そのまぶしい居間に、キムラカヨコさんがどこからともなく引っ張りだしてきた、ノエミが十年ぐらい前に描いたボボの絵と、キムラカヨコさんがわたしのために買ってくれたピンクのハイビスカスの植木鉢。七枚のガラスがあるのに、なぜか二枚しか買ってもらえなかった青いカーテンがかかったテラスに面する窓。テーブルの上には「美しいあなた ベル・ヴー」っていう名前の、緑とピンクをした不思議なバラと、カラフルな三つのろうそく立て。もろもろの形をしたキムラカヨコさんが待っていた。ラジオをつけようと思ったら、キムラカヨコさんのお気に入りのCDが歌い始めた。静かなトーンだった。

肌のきれいな、美しい笑顔をした、春のコートに身を包み、海外旅行とは思えないような小さなスーツケースを持った、あのキムラカヨコさんと、きっとまたどこかで、絶対に会えると、思う。


2013/10/24

息をしている

 九月は、レストランでたくさん働いた。身体が仕事に慣れたせいか、要領良くなったからなのか、時間割がソフトになったおかげか。。。夏休み前よりも辛くなくった。

 けれども、じつは夏休み中から、どうも自分のやってることに疑問を持ち始めていた。九月は仕事しながら、いつも難しい顔をしていた。「作りたかったのはこんな料理じゃない」とか、「調理師には向いていないんじゃないか」とか、自立したいとか、「私の代わりにこの店で仕事したい人、私より仕事できる人がもっと近くにいるんじゃないか」とか。。。

 夏休みに、翻訳のお話を幾つかもらって帰ってきた。文集や文芸賞への執筆を進められたりもした。それと並行して、高校での「にほんクラブ」が、去年に引き続き今年も契約更新され、今年は、日本語だけではなく、体育の時間に剣道と、調理科では料理を教えることになった。

へー、私を求めてくれている場所があるんだ。。。

心地が良かった。
だって、レストランではいつも、私がいなくても。。。という気持ちが、どこかにあったりしたので。。。                                                                                              



 新学期。調理学校のクラスメートで、三年前から私の剣道の生徒でもあり、何でも相談のできるエリックが、八月から失業中だという。私の代わりに働かないかと言ったら、喜んで引きうけてくれた。

 早速社長のミーさんにやめたいとを伝えた。そのまま代わりのエリックを紹介し、あっけなく、週50時間労働をしなくて済むことになった。そのいっぽうでミーさんは、私を社員としてキープしたいと言ってくれた。

「話があるんですけど。。。」とミーさんの背中に言った時、笑顔で振り向きながら、「あなたの言いたいことはわかってる。ああ、日本に行かせなきゃよかった。」 と言った。ミーさんのレストランの料理が、私のやりたかったタイプではないことは、働き始めるときから知っていた。ミーさんは、私が日本でいろいろなことを考えるだろうと想像していたし、日本から戻ったら、私がやめたいと言うことを想定していたと言った。本人の私には予定外の展開だったのに。。。
 
 かれこれ25年ぐらい続けてきた、 日本語と、最近お気に入りの翻訳の世界に、戻ろうと思う。料理は、やりたい方向があるのだけれども、今はまだ具体的に形にできないので、ちょっと様子をみてみようと思う。そう説明し、理解したと言いつつも、ミーさんは縁を切ることに承知しない。

 わたしは、調理師の資格を持っている。クリスマスには毎年売り子をやっているので、お店のことも知っている。ミーさんのチョコレートのことなら、製造から販売まで、すべてよく把握している。ミーさんの日本での事業にも、少なからず関わっている。ミーさんの家族のことも、すべての店員さんたちのこともよく知っている。そして、ミーさんに好意をいただいている。
「そんなに、あっさり私と縁が切れると思ったら、大間違い。ははは。」
肩を揺さぶられ、そのあとその肩を抱かれながら、わたしに頭をこすりつけてくるミーさんに「ありがとう」しか言えなかった。こんな社長さんはほかにはいないだろう。

 (週に五十時間の)調理師ができないならば、月に二十時間の、穴埋め社員にするから、会社に席を置いたままにして「欲しい」と言われた。そんな便利な人を簡単には雇えないから。わたしとしては、翻訳と日本語だけでは食べていけるわけがないので、レストランをやめたら、日本語の仕事の合間にできる週に数時間のアルバイトを探すつもりでいた。よそのレストランの臨時かなにか。それを思うともったいないぐらいいいおはなし。自分のやりたい料理をやらないなら、売り子でいい。人と接することは好きだから。この会社で、ミーさんのために務め続けたいという気持ちは、たしかにあるのだから。

 九月はレストランでいっしょうけんめい働いた。エリックへの引き継ぎはあっという間だった。十月はミーさんの店に、チョコレートの販売員として二十時間だけ立った。レストランの準備をちょっとだけ手伝ったりしながら。
 一方、高校での「にほんクラブ」が再開し、水曜日の個人レッスンが始まり、十月の四回の週末は剣道の講習会に走り回っている。パリに行くのも今週が二度目。毎週二回の自分の道場の稽古も、気合いれてやっている。剣道連盟の仕事、翻訳の仕事、日本語通信教育の仕事。なによりも、子供達に関わることを、思っていた以上にちゃんとしている。本も読んでいる。手紙も少しずつ書き始めた。メールをためなくなった。友達と電話で話した。なぜか、料理はかなりいい加減になった。まるで情熱が薄れてしまったかのように。たまに厨房が恋しい。報酬も絶賛も、物音もしない我が家の食卓で、細々とした料理をするよりも、レストランの厨房で、プロみたいにさっそうと動き回る自分の姿の方が、かっこいい気がしたりも、する。

 十二月にはまた呼ばれるだろう。調理師だろうか、販売員だろうか。クリスマスの華やかな店内で、動き回る自分を想像する。

JPは、手を振ることでネジが巻かれる仕組みの腕時計を持っている。動かなければ時計が止まる。私はちょっとそれに似ていると思う。動くことでポンプが作動する。人力ポンプをえっちらおっちら動かしながら、息をしている。






2013/08/30

夏休み

がんばった人にはご褒美を!

。。。というわけで、7月19日から8月29日まで、今回の夏休みは日本に帰っていた。

ハードスケジュールだった。

7月19日 東京着(千葉、日光、鎌倉へも足を伸ばす)
7月26日 京都着(大阪で一日遊ぶ)
8月1日   奈良着(吉野郡川上村で朝稽古。小学生の合宿にも参加)
8月7日  広島着(宮島と広島原爆ドーム。お好み焼き三昧)
8月10日 指宿着(鹿児島県内巡り。ペンクラブでお話しの会に参加させていただく)
8月16日 宮崎着(青島と鵜戸神宮とお風呂や入り浸り。日仏協会のみなさんとの交流)
8月18日 再び指宿へ(指宿周辺、鹿児島市遊び歩き。図書館入り浸り、従兄弟たちと同級生たちとの、数々のうれしい再会を果たす)
8月29日 鹿児島から、名古屋とフランクフルトを経由してトゥールーズから自宅へ。

わたし一人ならば、こっちの自宅から指宿の実家に直行して、観光費用をあまりかけずに。。。と思うのだけど、今回は家族4人プラス、剣道の生徒を1人伴っていたのと、来年は高校を卒業するノエミのことを思うと、「もう来年からは家族旅行はなしかな〜』とも思ったりしたので、かなり気合いが入っていたのだ。

それに、わたし、死ぬほど働いてお金貯めてたし。。。ひひひ

家族旅行にはお金が掛かる。すごくお金がかかる。
それに、できれば自分で遊ぶ時分は、自分でお金払いたいヒトなので、自分で溜めたお金を持たずに旅立った二年前は、遠慮しちゃって、何も買わず、どこにも行かなかった。本当は無駄遣いが大好きな人間だから、つらかった。なので、今回はちょっとがんばってから帰った。

 ジャパンレールパスのおかげで、三週間JRにいくらでも乗り降りできて便利だった。東京は二年前に見つけてお気に入りになった、安くて和室で、家族ゴロ寝のできるビジネスホテル。京都はキッチンもお風呂の洗濯機もある町家。奈良では一泊4000円で、自炊のできる山小屋。宮崎は友達が無料で貸してくれたマンション住まい〜〜。運転手と食事も友人たちが一手に引き受けてくれた〜。

わたしは日本で運転もできる。
今回奈良の山奥での暮らしには、レンタカーがおおいに役立ってくれた。鹿児島でもレンタカーの高級車で、桜島周遊も実現した。指宿では母のケイのボンゴを乗り回した。

指宿では中学の同窓会にも参加できたし、同窓会で会えなかった友人たちとも、いろんな所で遊んだ。同窓生が飲食店業をやっているので、ほんとうに便利。東京では鹿児島から上京してがんばってる姪っ子に。京都では滋賀に住んでいる姉と姪っ子に。鹿児島でもこれまで会えなかった従兄弟たちに、指宿では毎回『定番』の従兄たちに、チラリ。

心残りは種子島と屋久島。次回だ、次回。
開聞岳と桜島には登れたからよかった。
ある日は、午前中に開聞岳に登って、午後から知林が島に歩いて渡った。同級生たちにはびっくりされるのでこのことは秘密。最後の週末は、同窓会から午前さまで帰宅したその4時に起き直して、高速に乗って6時45分から吉野で朝稽古をし、そのままお昼のバーベキューに参加のあと、午後からスラックラインをやりまくっていたことも、とりあえず秘密にしてたけど、ここで大公表。ははは。。。。

 鹿児島のペンシルクラブと、宮崎の日仏協会で、フランスでの生活と翻訳の仕事についてお話しさせていただき、翻訳本にサインなどもさせていただき、翻訳のお仕事ももらって来たりしたので、もう『死ぬほど』働かなくてもいいかも?と思ったのもつかの間。。。ゆうべ帰宅したら、携帯に「いつレストランに出て来れるの?」とメール来ていたので。。。今日はこれからシェフに電話しなければならない。

日本での超暑くてムシムシした夏休みが終わり。。。いきなり20℃でさわやかで快適なフランス。お日様の傾き方が全然違っていて、朝食はいきなりフランスパンのトーストに戻ってしまった。みそ汁と納豆メシが、早くも恋しい。。。

お世話になったみなさん、本当にありがとうございました。少しずつ、お礼状を書かせていただきます。ちょっと待っていてください。

とりあえず、新学期の準備を。これから、子どもたちがお昼は肉を食べたいと申しているので、お肉を買いに!そして、九月から中学に上がるゾエの、かばんと学用品を買いに行きます(ああ、まだまだ働かねば〜〜〜デスデス)





7月

7月19日から休みをもらわないといけないので、同僚たちに夏休みを取っていただかなければならない。なので、わたしは『死ぬんじゃないか?」と想うぐらい、よく働きました。。。
朝5時から、テイクアウト用のサンドイッチやサラダを作るので、午前3時50分に起きて、暗いうちから一人でレストランへ。
8時に注文の品が出来上がって、そのころお店の店員さんたちも出勤してきます。
ちょっと休んで、15時ごろまでレストランの仕事です。

疲れすぎて、家のドアを開けた瞬間にドオーと涙出ることもありました。

出発のに3日まで、毎日このリズムだったので、スーツケースもお土産も、かなりいい加減でしたが、無事出発できました。

今後のことは日本に帰ってから考えよーと思いながら、出発した次第です。

2013/07/17

剣道三昧

毎年恒例の、「剣道と牡蠣」のパーティーに参加した。デタさんがやっているアーカションのクラブが午前と午後の稽古の合間に、屋外でのピクニックを催す。ピクニックでは生牡蠣食べ放題。

Arcachon クラブのデタさんに招待されました。

すぐそこの海から来た牡蠣。食べ放題。

 仕事を始めたばかりだったので休みがもらえず、土曜日の午後までちゃんと働いて、いったん家に戻ってから、夕方トゥールーズに向かった。(一時間半ぐらい)トゥールーズで剣道仲間に合流して、友人の運転する車でボルドーの側に向かった。友人のご両親が泊めてくださるというので、剣友の美恵子さんと一緒に甘えさせていただくことになった。運転せずに来て、よそのお宅でおいしいご飯をごちそうになり、夜はぐっすり眠ったので、日曜日は大変元気。剣道にも、生牡蠣にも集中できた。

 その次の週の木曜日は、福岡からお越しの角正武先生と、そのお仲間たち(伊藤先生、谷口先生、田中先生、木下先生、内海先生、小林先生)とベルジュラックでの再会を果たしました。同じ週の週末には、再びボルドーまで引き返して、大稽古会に参加させていただきました。

 さて、日本への出発を控え、今シーズン講習会や試合にもいっしょに参加している剣友の加代子さんと美恵子さんが、遊びに来てくれた。みんなで剣道をしたり、これまた剣友のミカエルがコンクで開いているサロン・ド・テにも遊びに行った。美恵子さんと加代子さんは、わたしが働いているお店に、子どもたちを連れてお昼を食べに来てくれた。


今シーズン最後の稽古会




 
みんなが食べに来てくれた
さあ、来シーズンも、みんなでがんばろうねと誓い合ったのだ〜〜。

2013/06/16

こんなことになっている

 とりあえず、借金するのをやめた。

 ネクトゥーさんも、ミーさんも、シェフ・リカーも、「やめなさい」と言った。
「キミはがんばり屋さんだから、いくら大変でもとことんやるだろうが、無理はよくないし、家族を犠牲にしちゃいけない」
と言うのが、全員一致の意見だった。尊敬している3人の人生の先輩たちに、そこまで言われたら、「そうか、そうだよなあ」と、まあ、考える。

 考えてみると、「反対されるだろうな〜」と想像できた人には、話しをしていなかったことに気付く。「けっきょく、こんなことになった」と事後報告したら、「それでよかった」とみんなが言った。

 これまで「勝手にやれば!いつも通り」と言って、無視され続けてきたJPにも、やっぱり意見を聴くことにした。
「今でさえ子どもたちを放ったらかしなのに、新しい事業を始めたら、もう子どもたちとはご飯も食べれなくなるじゃないか」
そうか、そうだったのか、そんなことを思っていたのか。
 子どもたちを放ったらかしにしてたの?わたしが??
 ちょっと心外。

「そんなに働きたいなら、うちで雇ってやる。せっかくもらった翻訳料は、貯金しておきなさい。」
と、いきなりミーさんに言われ、明日から仕事に来いと言うので出て行ったら、「もう正社員として登録したから」と言う。え?ちょっと待ってくださいよ。まだ心の準備が。。。わたしはミーさんちの正社員になった。

 ミーさんとは、ミーさんの日本でのお店のオープンのために、2007年から2009年の間に何度いっしょに日本に行かせていただいた。このごろは日本のお店も軌道に乗り、通訳も必要ないので、いっしょに日本に行くことはなくなったけれども、それでもずっとお付き合いしている。

 パティシエのミーさんに「調理師の学校に行きたい」と言った時に「主婦が片手間にできることじゃないんだから。甘い」と言って叱られた。けれども翌年「いま、調理師の学校に行っている」と言ったら、びっくりしつつも応援してくれた。パティスリーの宿題を手伝ってもらったこともある。
 学校で義務づけられている職場研修があったので、ミーさんのパティスリーのラボで、二週間研修させてもらった。そのあと「調理」なのでパティスリーに居座ることができなくなったときには、アルビでいちばんのレストランに「友達だから。まじめな日本人だから」と言って紹介していただいた。それがリカーさんのレストランだ。研修と臨時雇用を含め、3年前から出入りしている。7月にもお手伝いに行くことになっていたけれども、ミーさんちの正社員になって毎日働かなければならなくなり、リカーさんのレストランで働くことはできなくなった。ちょっと残念。

 ミーさんちでは、クリスマスを二回ぶん、売り子さんとして雇っていただいた。レストランでの仕事に比べたら、売り子さんのお仕事はらくちんだった。毎晩残り物のケーキをもらって帰る、おいしいお仕事であった。

こうやって、もうかれこれ10年近いおつきあいで、お店に出入りしているので、働いている人をみんな知っている。みんな大好き。みんなに好かれている。。。と思う。

 ミーさんはこの春アルビの一等地に、新しいコンセプトのブティックを開いた。その中に、お昼だけ軽食を出す喫茶スペースがあって、わたしはそこで「調理」を担当している。今はまだスタートしたばかりなので、ミーさんがコックコートを着て、わたしの横にぴったりくっついて、毎日いっしょに働いている。信じられない光景だ。わたし以外の誰も、思いもしなかった光景だ。

 わたしが調理師の学校に行きたいとミーさんに話して、叱られたあの日からずっと、ミーさんをぎゃふんと言わせたいと思っていた。そして今、ミーさんは、ぎゃふんと言っている。わたしがおいしいキッシュを作ると、Ma petite Minori, ma fleure du Japon, elle est la reine de Quicheと唄う。「わたしのかわいいみのり、二本のお花、みのりはキッシュの女王♬」ミーさんのレシピは、素晴らしいのだから、わたしのキッシュはおいしいのは当たり前。

 憧れていたガストロノミーの道は遠のいた。友達と開こうと思っていた日本料理店は、もうちょっと先になった。今はまだまだ修行と預金の時期らしい。ゾエは来年中学校に上がるし、ノエミは来年高校卒業資格試験を受ける。子どもたちにはお母さんが必要なので、最低来年までは、お母さんがかなり必要みたいなので。。。ミーさんのところでじっとしながら様子を見てみようと思う。元気だったら、冒険はいつでもできるんだから。
 肉体的に46歳からの転職と、生活リズムの変化はきついので、いつまで続くかはわからない。みんな「そのうち諦める」と思っているだろう。わたしは「なるようにしかならない」としか思っていない。

 ミーさんのおかげでまだたくさん残っている翻訳料の中から、中古の自動車を買った。キャッシュで買った。これで、わたしは遅刻することなく職場に行くことができるし、どんなに遠いところでも剣道の講習会に出て行ける。ミーさんのレストランは、テイクアウトのサンドイッチやサラダがあるので、わたしは毎朝3時50分に起きて、5時から仕事をしている。その代わり、13時には仕事を終えて、学校から戻って来るゾエを、おやつと笑顔で迎えることができるし、時にはアルビの寮に入っているノエミと、アルビで待ち合わせして、ミーさんちの喫茶店でいっしょにケーキをたべたり、買い物をしたりもする。とりあえず、愚痴を言わずにがんばるのが目標。
「愚痴を言わずにがんばるお母さん。。。」を覚えていてもらえたらいい。いつか投げ出したり諦めたりした時に、いちおう、わかってくれるだろう。

 さて、明日のために、早く寝よう。
汗水流し、借金せずに買いました。中古車ですが、うれしいです。


 





2013/05/10

さあ、借金でもするか。

チョコレート屋さんのミーさんは、今年の始めに、アルビの一等地に素晴らしいチョコレート屋さんを建てた。チョコレート・バーも、軽食コーナーもある。新作のケーキもいっぱい並ぶカッコいいケースがある。しばらくすると、上の階にチョコレートのラボも引っ越すし、間もなくチョコレート博物館や、お菓子の学校もできる予定。そのミーさんが、「商売人は借金をしたほうが、目標があって働きがいがあるのだ。」と、数年前に、彼の通訳をやった時に、報告書のゼロがいっぱいで、フランス語でなんというのかわからなくてパニクってるわたしに言った。

まったく同じことを、父も言っていた。

そして、商売人には絶対にならないと誓っていた。

商売人の血を受け継いでよかったのは、ニコニコ笑っていられることじゃないかと、いつも思う。同じ親の血を受け継いでるのに、姉たちはあんまりむやみやたらな愛想笑いはできない。その代わり、親から受け継いだ粘り強さと、ちゃんと計算のできる頭がある。

わたしは算数ができない。あるのはこの健康体だけ。まさに身体が資本。

そして、わたしはついている。ありとあらゆるものが、わたしには憑いている。

このまえ、うちでちょっとあった翌日に、母から「大丈夫ね〜?あんたの夢を見たんだけど〜。」とメールが来た。信じられん。電話をしたら、「あんたが襲われた夢だった。」と言う。襲われてはいないけど、まあ、それなりに、暗闇に揉まれておったのです。「歯を抜いたからじゃないの。ひどい目に遭って歯医者で泣いたもの。」とりあえず、それはうそじゃないし。ほかにもいろいろあったけど。

数日前には、車がエンストして、どーしてもどうしようもなく、そのまま乗り捨て、2キロは軽く歩いてネクトゥーさんのおうちへ。ネクトゥーさんとご飯を食べてから、般若心経を詠んだ。午後、乗り捨てた車のところに戻ったら、一発でエンジンがかかった。信じられん。ネクトゥーさんは、マイナス・エネルギーを祓ってくれる、不思議な力を持っている。

この一ヶ月間ぐらい、ウジウジしてたら、いろんな友達から「久しぶりに」メールが届いた。しかも、ひと昔前ぐらいに、なにやら怪しげにかなり関係の深かった友人たちから「おひさしぶり〜。どうしてる?」っていうようなメールが、気持ち悪いほどに続き、本当に気持ち悪かった。なんかみんなどこかでわたしが喚いていたのを聴いていたような。。。信じられない。どこかにカメラがあって、わたしのことを世界の果てや、地球の裏から監視してるんじゃないのと思うぐらい、なにかを感じる人は感じるらしい。人生いろいろあるんです。心配してくれて、ありがとう。
「ありがとう」という言葉にも、不思議な力が秘められている。

 借金の話しに戻る。

じつは、やりたいのはこんなことじゃなかったんだけど、どうも「そういう時期」らしいので、ある事業を始めることに、急に決めた。まだサインしてないので秘密。数年前から提案があり、お話しがあったのだけど、今度こそ機会とお金が揃ったらしいので、なんだかあっという間に、道がそちらに切り拓かれ始めた。

今週、翻訳のお金がもらえる。「お金もらったら将来のために投資しよう」と思ったんだけど、今回の課題図書でいただけるお金を、この秘密に包まれた新しい事業に、すべて投資する。それでもちょっと足りないので、ミーさんと亡父の言葉を真に受けて、ちょいと借金もすることにした。二年ぐらいで返せるんじゃないかと思って、タカをくくっている。石の上にも三年というので、とりあえず3年やってダメだったら。。。ということにする。母にも仕送りしたかったのだけど、まあ、今度帰った時に、とりあえずの親孝行をしよう。いつも「出世払いね〜」と迷惑かけて来たから、あと一回ぐらいは「出世払いね〜」と言っておこう。もうすぐ出世するに決まってるし。ははは。

青少年読書感想文コンクールの、今年の表彰式をビデオで見た。来年は、母を連れて、わたしも表彰式に行きたいなあと思っている。だから、がんばって働く。
チョコレート屋さんのミーさんも、剣道仲間でパリの星付きレストランのシェフ・マルクスさんも、わたしの尊敬しているシェフ・リカーも、そしてなによりプロの調理師でお友達のよしえさんも。。。みんなわたしの味方なので、大丈夫だと思う。

http://mainichi.jp/feature/news/20130209ddm012040037000c.html

ゾエと同い年のたっくんが、その堂々としたスピーチの中で「ぼくは、『ここがわたしのおうちです』を読んで、今を大切にしようと思った」と発表していて、わたしも、「ここがわたしのおうちです」と胸張って言えるように、今を大切にしようと思っている。

「あんた、いつも、今しか大切にしてないじゃないの、自分しか!」と、どこかでだれかが言ってるのも、じつは聴こえてはいる。。。いますってば!