トゥールーズのマタビオー駅のホームで、その春のコートを着た肌の美しい女性は、笑顔で駅員さんに何かを訊いていた。その女性の顔を見た瞬間に、この人が私と同じ電車に乗るのだと感じた。わたしはパリでの剣道講習会の帰りで、海外旅行にも持って行く、大きな赤いスーツケースを転がしていた。わたしはいつものように、かさばる荷物を持った人が座る専用の場所に陣取った。
春のコートの女性は、わたしが国内旅行にさえ使わないほどの、小さな、でも丈夫そうな、真っ白いスーツケースを傍らに駐車し、通路の向かい側の、わたしの斜め前に腰をおろしてから、彼女を観察しているわたしに初めて気づいた。
「あ、日本の方ですか?」
と、美しい笑顔で、そして静かなトーンで言った。
「日本人ですけど、このへんに住んでいるんです。」
と応えた頃に、電車がアルビに向かって走り始めた。静かに微笑む女性は、きれいな形をしたそのあごを上向きにして、「その長いのは何ですか。」といたずらっ子のような目をして訊いた。静かなトーンだった。
「竹刀と木刀です。この週末、パリで剣道の講習会を受けてきたところなんです。」
金曜日から日曜日まで、パリで行われた講習会に参加した。ヨーロッパの広い地域に住む日本人の女性剣士だけ約三十人を集めたすごい講習会だった。月曜日に先生方とお別れし、仕事のために出版社に寄り、夜は剣道連盟の高段者合同稽古会に参加した、その翌日の火曜日に、わたしは駅のホームでその女性に会った。。。。わたしはきっとひどい顔をしていたのだけれども、彼女のキラキラ光る目は、そんなわたしの淀んだ目を浄化してくれるような力に満ちていた。パリでの講習会の前の週から、わたしはずっと講師の日本人の剣道の先生を自宅にお迎えしていて、トゥールーズの仲良し剣士の美恵子さんとともに、日本語を話し続けた約二週間のあとだったので、わたしのいつもの「日本人観光客恐怖症」が消えかけていたところだったことは、小さなスーツケースで旅行中の彼女にとっては、ラッキーだったかもしれない。わたしは観光客にはあまり声をかけないから。
行き先はアルビだと言う。でも、泊まるだけで、翌日にはとんでもない田舎に向かう予定、バスでの行き方を教えてほしいと言われた。彼女の持っていた資料からは、何も教えてあげられることがなく、しかも、フランス暮らしの長いわたしからすると、絶対に無理っていうような旅程だった。アルビのは知っているホテルだったのでわたしがキャンセルし、我が家に泊まらせることにした。インターネットがあるから、調べ直して、翌日の旅程を一緒に考えましょうということになった。
春色のコートの女性は、きれいな指で名刺を取り出し、自己紹介をしたけど、わたしにはすっかりその日本的な習慣が消えていて、自分の名前をいうのさえ忘れていた。彼女はわざと訊かなかったのか、どうでもよかったのか、こっちから言わないから余計訊けなかったのかわからないけれども、何分もあとでわたしがはっと気づいて、自分の名前を言うまで、わたしが何者で、どんなことをしていて、家族はどうで、家はどこでと。。。何も訊かなかった。
わたしの引っ越したばかりの、壁にも窓にも何もかかっていない真っ白なアパートの一室に、キムラカヨコさん(仮名)のお部屋を作ってあげた。キムラカヨコさんは、Tシャツに着替えて、持っていたスリッパを履いてから、わたしのごちゃごちゃした居間にやってきた。わたしは巨大なスーツケースを開いて5日分の洗濯物や、汗に湿った防具をそのあたりに広げ、くさい剣道着をサロンのいすに引っ掛け始めた。それを見ながら、彼女はその美しい両手のひらに、グリーンとピンクのまだらになった不思議な色のバラをのせて、わたしの前に差し出した。
「ベル・ヴーっていうお花だそうです。」
「へー。きれいなあなた、っていう名前ね。」
私たちは台所をひっくり返して、その緑とピンクの不思議な色のバラに似合うような器を探したけど、たいしたものは見つからなかった。わたしはお花なんか買わないので、花瓶を持っていない。キムラカヨコさんはじつは日本の都会のお花屋さんだった。その「ベル・ヴー」を大切にスーツケースに入れて、その日そこに着くまでの間訪れていた南西フランスの小さな町から運んできた。
翌日の水曜日の朝、わたしは生活保護の件でランデヴーがあったので、キムラカヨコさんをアルビの町に一人で置き去りにし、勝手にお散歩してもらうことにし、お昼前に彼女を拾って、コルドへ向かった。途中、アンティークショップを発見。私たちはありとあらゆる変なものを見て、ありとあらゆるおかしなものを買った。例えばハシゴとか。それでコルドまでは行く時間がなくなり、そのまま中学校にゾエを迎えに行くことになった。
午後は日本語レッスンがあったので、またキムラカヨコさん一人をアルビに降ろし、午後は寮に入っているノエミを迎えに行ってから、四人でお茶した。ゾエもノエミも、わたしがキムラカヨコさんを連れて歩き回っているのを、あまり特別なことのように考えている様子ではなかった。わたしは「ごめんね、こんな人連れてきちゃって」とか、「お客さん来てるから静かにしてね」とかそんなことを一言も言わなかったし、子供たちは、どうしてわたしがそんな知らない人を家に連れてきたのか、どうしてそういうことになったのか、深く訊かなかった。わたしの説明はただ、
「トゥールーズの駅で偶然会って、なんとなく気があったので、家に連れてきた」
子供たちは「ふーん」といい、「一日しか居ないの?もっと居る?」と期待に満ちた様子で訊き、わたしが、今晩も泊めるからみんなでご飯食べられるよと言えば、わーいと声を上げて喜んだ。
その日、わたしは久しぶりに料理らしい料理もどきをし、キムラカヨコさんと子供たちは、家にある限りのろうそく立てを引っ張ってきて、キムラカヨコさんがスーツケースに入れて持ち歩いていたろうそく立てと一緒にテーブルの上に広げ、私たちはろうそくの明かりの中で、静かにご飯を食べた。レストランで流れるような品の良い音楽が流れていて、訊けば、キムラカヨコさんはそのCDを、あの小さなスーツケースの中に入れて運んできたらしい。子供たちがテーブルを離れて、薬草茶を煎れる頃に、私たちはお互いのことを話し始め、人生は短いとか、世界は小さいとか、食事の前にお祈りをしないんですねとか、お風呂に入りたいなあとか、そういう話をした。
長いこと留守にしていたので、返事を書くメールが溜まっていて、キムラカヨコさんをお風呂場に送り出したあと、わたしはパソコンの前に座った。それからいったい何時間すぎたものか。。。アパートの奥があまりにも静かなので、キムラカヨコさんがバスタブの中で死んでいるんじゃないかと思って、走って風呂場に行ったら、風呂場は空っぽで、キムラカヨコさんの部屋も真っ暗だった。寝室で死んでるかもしれないと、一瞬思ったけれども、面倒くさかったので、放っておいた。頭の片隅で「おやすみなさいも言わない客は初めてだ」とちょっと思ったけれども、なんだかとってもキムラカヨコさんらしいなあと思ったので、腹はたたなかった。
木曜日の朝はノエミを寮に連れて行き、ゾエを中学に送るので、朝早く起きなければならない。キムラカヨコさんはごそごそと起きてきた。髪の毛はちょっとだけはねていたけれども、美しい肌とキラキラ光る目は、昨日のキムラカヨコさんのままだった。
「昨日泊まったカルカソンヌのお城のそばのホテルは、何やら出てくるような気がして、苦しくて眠れなかったんですが、いや〜、ぐっすり眠れました。ありがとう」
と、ノエミと同じことを言った。確かに死んだみたいによく眠っていたようなので、よく眠ったんだろう。キムラカヨコさんの顔が輝いていたので、わたしも元気が出てきた。
「お風呂、入ってもいいですか〜。」
というので、お風呂に沈まないでね、と注意を促してから、わたしは子供たちを連れて外出した。帰ってきてから私たちは二人で音楽を聴きながら朝食をとり、キムラカヨコさんはお風呂に入った。いくらたっても出てこないので、彼女の乗る電車の時間が気になりだしたわたしは、ちょっとそわそわし始めた。
「お風呂の中で寝てしまった。。。」
そんなに眠れるなら、本当に居心地がよかったんだろう。私は動作の裏に隠れる真実を推測するのが好きだ。JPはいくらおいしいものを作ってもおいしいとか言わないが、おいしい時にはあっという間に食べる。コミュニケーションができない人と十八年も暮らしたら、まあ、仕草から心を読み取る技ぐらい身に付くということなのか。
けっきょく、キムラカヨコさんは、予定していた電車に乗り遅れ、わたしが一番近い駅まで送って行った。さすがのキムラカヨコさんも、かなり恐縮してしまっていて、かわいそうなぐらいだった。
ロデツ駅の前のバーでお昼ご飯をごちそうしてくれると言っていたけれども、その翌日にはまたアルプス地方での剣道講習会に出発する予定になっていたわたしには、やることがありすぎて、一分でも無駄にしたくないぐらいで、キムラカヨコさんがお家に居ないとなると、やるべきことへの現実に引き戻されるということで、そうしたかった訳ではないけれども、キムラカヨコさんが去って行くのはあまり見たいと思わなかった。
わたしはキムラカヨコさんを強く抱きしめて、また会う約束をして、後ろも見ないで車を走らせ、真っ白い壁の広いアパートに戻ってきた。
そのまぶしい居間に、キムラカヨコさんがどこからともなく引っ張りだしてきた、ノエミが十年ぐらい前に描いたボボの絵と、キムラカヨコさんがわたしのために買ってくれたピンクのハイビスカスの植木鉢。七枚のガラスがあるのに、なぜか二枚しか買ってもらえなかった青いカーテンがかかったテラスに面する窓。テーブルの上には「美しいあなた ベル・ヴー」っていう名前の、緑とピンクをした不思議なバラと、カラフルな三つのろうそく立て。もろもろの形をしたキムラカヨコさんが待っていた。ラジオをつけようと思ったら、キムラカヨコさんのお気に入りのCDが歌い始めた。静かなトーンだった。
肌のきれいな、美しい笑顔をした、春のコートに身を包み、海外旅行とは思えないような小さなスーツケースを持った、あのキムラカヨコさんと、きっとまたどこかで、絶対に会えると、思う。